伊藤博文

April 01, 2018

塙 保己一(はなわ ほきいち)

 幕府は、極端な攘夷論者だった孝明天皇を廃位する方法を密かに和学講談所の塙 忠宝に調査させている、という噂が天下の過激浪士の間に流布していた。根も葉もない噂を根拠に、(塙を斬れば、わしもいっぱしの男になろうか)、と二人はテロを実行した。彼は飛び出し、「奸賊!」と突進した。「塙だ。何の恨みがある」と叫んだ。一人はし損じたが、剣の心得のあるもう一人が突き殺し、用意しておいた天誅の意の札と共に首を土塀に晒し、二人は闇の中を転げるようにして逃げた。(司馬遼太郎著『死んでも死なぬ』より抜粋)
google logo塙 保己一
 暗殺された塙 忠宝(はなわ ただとみ 1808 - 1863)の父親が塙 保己一(はなわ ほきいち 1746 - 1821)であり幕府の和学講談所を開設した当人でした。塙 保己一は7歳で失明、後に戸に出て、男性盲人の自治・相互扶助団体である当道座に入門して按摩・鍼・音曲などの修業を始めたが、不器用でいずれもモノにならず、この道で生きていくことに絶望して自殺を謀ったこともあるといいます。彼の学問への思いを告げられた、雨富検校は彼に様々な分野を系統立ててさせ学問させます。盲目の彼は人に書を読んでもらい、それを暗記して学問を進めて行くのです。 当道座の官位は検校(けんぎょう)・別当・勾当・座頭の4官の他、さらにその中に73の階級があると云われますが、様々な人達の援助もあって、彼は最高位、検校の地位に上り詰め、自らの学問の集大成として『群書類従』の出版を決意します。1793年、幕府に願い出て和学講談所を開設、幕府・諸大名・寺社・公家などの協力を得て、古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、 計1273種を収集・編纂、1793〜1819年に木版で刊行されました。  日本の歴史・文化・芸能・芸術を知るための基本的文献であり、彼の偉業がなくして歴史・文学の学術研究はあり得ないと云われています。

Helen_keller_and_alexander_graham_bell ヘレン・ケラー(Helen Adams Keller、1880 - 1968)は裕福な家庭に生まれましたが、1882年、1歳半の時にしょうこう熱を患い、一命は取り留めたものの、聴力、視力、言葉を失い、話すことさえできなくなり、しつけを受ける状態ではありませんでした。1887年、彼女が6歳の時、両親はアレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell 1847 - 1922)を訪問、 その助言を受けます。彼は世界初の実用的電話の発明で知られていますが、一方では彼の父親、アレクサンダー・メルヴィル・ベル(Alexander Melville Bell 1819 - 1905)が発明した「視話法」(発音の際の口の開き方を図で示し、発音を習得させる方法)を継承・発展させ、 当時最新の言語障害治療・聾唖者教育をしていました。相談を受けたベルはパーキンス盲学校を紹介し、卒業生アン・サリヴァン(Anne Sullivan 1866 - 1936)がヘレンの家庭教師をすることになりました。その後50年間、『奇跡の人』アンは良き教師・良き友人としてヘレンを支え、ヘレンはそれに応えて見事に三重苦を克服、障害者の福祉に大きく貢献しました。

 ヘレン・ケラーは、幼少時、盲目の塙保己一を手本に勉強したと云います。彼女の両親の相談を受けたベルは二人に塙保己一のことを語って聴かせたのです。ベルは以前、「視話法」を学んでいた日本人留学生、伊沢 修二(1851 - 1917 信州高遠藩出身)から詳しく聞いた塙保己一の話が深く印象残っていたのでしょう。伊沢は帰国して後、文部高官・教育者となり音楽教育や吃音・盲唖教育に貢献することになります。

 塙 忠宝の後を継いだのが塙 忠韶(はなわ ただつぐ 1832 - 1918)、維新後、歴とした幕臣、「奸賊」の子でありながら、明治政府から召しだされ大学少助教に任ぜられ、文部小助教、租税寮十二等出仕、修史局御用掛を歴任します。何者がそのように優遇するのか…、当初、忠韶本人は不可解であったでしょう。

 狂気の幕末、塙 忠宝を殺した下手人の一人は、その直後にあっさり攘夷を捨て、後に初代内閣総理大臣となった伊藤博文。彼は1909年、ハルビン駅で朝鮮民族主義活動家、安重根に暗殺されます。もう一人は、山尾庸三(やまお ようぞう 1837 - 1917)、維新後は障害者教育に熱心に取り組み、1915年には日本聾唖協会の総裁となります。
 
 埼玉県人には失礼ですが…、 車で走ると、だだっ広いだけの、誠に殺風景な関東平野ですが、塙 保己一の看板が大きく見えます。このものすごい人は武州児玉郡保木野村に生まれました。

 ※参考資料:司馬遼太郎『新装版 幕末 (文春文庫)
 
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July 11, 2013

精神の病

1570年、越前朝倉を撃とうとした織田信長軍は、浅井長政の裏切りで挟撃される事態となり、当時の木下藤吉郎(34歳)は退却戦の殿軍を務めます。以降20年間、天運に憑かれたように階段を上り詰め、1589年(53才)には、側室の茶々(淀殿)が、嫡男:捨丸を出産、続く1590年(54才)、北条を滅ぼし、奥州の伊達政宗を配下に置くことによって全国統一を果たしたのです。ここに、「日輪の子」として生まれた豊臣秀吉は幸福の絶頂を迎えます。しかし、絶頂の後は落ちるしかありません。

翌1591年(55才)、老いて生まれた嫡男:鶴丸(捨丸)が幼く病死、さらに弟で雑兵から一緒に成り上がった参謀の豊臣秀長が病死…と立て続けに不幸が彼を襲ったのが、精神の変調のきっかけでした。信長以来、秀吉にも一時は重い信任を受けた千利休を切腹させたのが、明らかな変調の始まりでした。何時の頃からか、構想は信長に始まるとの説もありますが…、次の目標は「明の征服」、そのために甥で養子の豊臣秀次に関白職を譲り、自身は太閤となります。
秀吉
1592年〜97年(56〜61才)、朝鮮へ侵攻(文禄の役・慶長の役)するも失敗。
1593年(57才)、ふたり目の子、拾(おひろい=豊臣秀頼)誕生。
1595年(59才)、甥の元関白、豊臣秀次を切腹させる。
1598年(62才)、醍醐寺で花見を開催。病に伏し、五大老に宣紙を何度も繰り返して書かせ…、伏見城にて死没。

彼のそれまでの半生は、百姓に生まれ、信長の草履を胸元に入れて暖めて歓心を買うことに始まり、信長軍の兵卒として軍功を重ねながら第一の武将に成り上がって行きます。まさに明るい・陽気な・人なつっこい・庶民の子:「日輪の子」の出世話で、多くの日本人は彼に対して好意的なイメージを持っているのですが、老いてからの彼はまさに「精神の病」でした。「妄想性人格障害(Paranoid personality disorder)」らしく、元々の性格はそんな兆候のない者でも、成り上がった独裁者は常に他人によって失脚させられる危険性を抱いており、部下の裏切りや暗殺者の恐怖などによって猜疑心が強くなり、必然的にこの病に陥るそうです。

文禄の役明征服のための朝鮮への侵攻、そこには「大義」も何もなく…、朝鮮半島では今日に至っても残虐な侵略行為と非難され、伊藤博文と並んで極悪人とされる豊臣秀吉。誰も止める人間はいなかったのでしょうか?朝鮮出兵の計画案は五大老にはかられたが、徳川家康の一言:「まことに結構なる仰せでございます」で出兵に一決。後に、「家康と利家が一兵も兵を出さないのはおかしい」、と言う石田三成さえも出兵の不正義の一言も秀吉に諫めることはできませんでした。まさに暴走。家康はこの戦争の結果を冷徹に予想して、豊臣家を弱体化させ、豊臣恩顧の武将の力を削いで置きたかったのでしょう。

1588年、その無敵艦隊がイギリス海軍に敗れたスペインは既に斜陽。劣勢に立たされたスペインはローマ教皇と結び、一方で反宗教改革運動としてのイエズス会を興隆、フランシスコ・ザビエルはじめ優秀な宣教師を積極的に海外に派遣しました。日本でのイエズス会事業はその後、ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノといった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。 加藤清正は熱心な日蓮宗徒でしたが、彼のライバル:小西行長はれっきとしたキリスト教徒、一旦開戦となるや、仏教徒にせよキリスト教徒にせよ、信ずる宗教とは全く無関係に、彼等はこの「大義」も「仁愛」もない戦争に積極的に参加しました。

地理的に見て、日本は、朝鮮に比べて、中国文化を取り入れるのは不利であったが、南洋経由の西洋文化の取り入れには有利であった、と言えるでしょう。中国朝鮮は冊封体制で結ばれた主従関係、整然とした中央集権的官僚制度国家であり「極めて内向き」、李氏朝鮮には厳しい身分制度があり、「両班(ヤンバン 貴族)」が「常民(庶民)」、「奴婢(奴隷)」を厳しく抑圧することによってその平和が維持されていた。彼等から見れば、一方の日本は、ヨーロッパと同じく、封建制度国家であり「極めて外向き」で、戦国の騒乱の世にもあれだけ商業が発展して、海外貿易にも積極的なのは到底理解できないものでした。

対馬藩、宗義智(そうよしとし)と小西行長は、朝鮮貿易・外交を独占して戦争反対の立場…、共謀して李氏朝鮮・秀吉双方に虚偽・詭弁を使い戦争回避工作を行い、一旦開戦となるや、日本軍の先鋒となって朝鮮に攻め込み、一方では休戦工作を行い、その虚偽・詭弁が双方に露見するや、再び戦争状態になり、休戦するのは秀吉の死を待たなければなりません。本当の終戦は、関ヶ原が終わり、天下人となった徳川家康の時代、1607年、通信使が幕府に派遣され江戸にて将軍職を継いでいた秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見した。日本に連れ去られた儒家、陶工などの捕虜の奪還をを目的としたものでした。この求めに対し、徳川幕府が国書を送った形跡はなく、またまた…、対馬藩が国書を偽造して国交を修復しようとしたものでした。

「戦争の大義」、「精神の病」の話は横に置いて…、文禄の役で15万、慶長の役で14万の出兵をした秀吉です。あの天下分け目の「関が原の戦い」の参加数、東軍:10万、対する西軍:8万を比べると、如何に大規模な派兵を実施して明国を目指したのかが理解できます。李氏朝鮮が、その北辺に住む蛮族を「北狄、オランケ」と軽蔑していた女真:満州族が、ヌルハチの時代、明から独立して、清の前身である後金国を建国したのが1616年、慶長の役が終わってわずか20年後のことである。今まで軽蔑していた「北狄、オランケ」の支配を受けるのですから、これほどの屈辱はなかったことでしょう。中国の明朝はこうして倒れ、北夷である女真:満州族により清朝が起こります。

秀吉にそこまでの大局観はないと思いますが、もし彼が北狄の女真と同盟を結んでいたら…、とは、私も老人性誇大妄想(?)の始まりでしょうか。

※参考資料:「物語韓国史 (中公新書)」「文禄・慶長の役―空虚なる御陣 (講談社学術文庫) 」

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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