今様

October 15, 2016

ボブ・ディラン、ノーベル文学賞受賞

                 
dylan_postcard 〜 偉大なアメリカの歌謡における新しい詩的表現方法を創造した功績を称えて 〜

 
 ボブ・ディランが「偉大な詩人」として2016年度のノーベル文学賞を受賞したことは自分の事のように嬉しい。

 ノーベル賞授与宣言を終えたスエーデン・アカデミー、サラ・ダニウス教授は記者団の質問に答えています。

なぜボブ・ディランにノーベル文学賞を授与されたのですか?
 彼は
口語英語の(語り言葉)の伝統の中における 「偉大な詩人」であり 、過去54〜55年の間に絶えず自らの改革・革新を続けてきました

・ 如何にしてボブ・ディランの業績を発見したのですか? 
 彼の歌を聞きなおし、読み直して、1966年作のアルバム『ブロンド・オン・ブロンド』を例にとると、 多くの伝統的な手法に加え、彼の極めて非凡な押韻・巧緻な隠喩・絵画的思考(?)は見事です。
 
・ スエーデン・アカデミーはノーベル文学賞の範囲を広げるのですか?
 これは何も新しい事ではなく、遠い過去、例えば2千年あるいは2千5百年前に目を向けると、古代ギリシャの詩人、ホメロスにせよサッフォーにせよ、彼等の詩は文字で書かれていたと云うより、聴かれていた、楽器の伴奏を伴って歌われていました。ディランの詩も、ホメロスやサッフォーと同じく、 読まれるだけではなく、楽器の伴奏を伴って歌われるのを聴いて楽しんでいるのです。

・  あなたは若い時にディランの曲を聴きましたか?
 いや、あんまり…。しかし彼の作品が世の中に広く認識されていたことを知っています。私はデビッド・ボウイの方が好きだったけど、他の世代は知らないけど…、今ではディランを大いに評価しています。

 10月14日付「朝日新聞」の見出しは…〜『風に吹かれて』『時代は変わる』のボブ・ディラン氏文学賞 〜 とは、これを書いた記者はディランの最も初期の頃(63〜64年頃)の曲しか知らないのか、それから間もなく彼はフォークから離れ、ロックの世界に飛び込み、以降ロック・ミュージシャン、ソング・ライターとしてのキャリアの方が断然長く、その2曲以上に優れた多くの曲が存在するのを知らないようです。ストックホルム駐在の「朝日新聞」
知ったかぶりの記者にくらべ、 「…デビッド・ボウイの方が好きだったけど」とは、サラ・ダニウス教授が正直で好感が持てます。

 友人の一人、人生の大先輩が曰く、50年前の曲:『風に吹かれて』でノーベル文学賞とは理解に苦しむ、とのご意見がありました。彼は、詩・和歌・短歌・俳句・狂歌に造詣が深く、私も共感するところが多い人なのですが…、彼にとって、ボブ・ディランと言えば、かろうじて『風に吹かれて』という曲を知っているという程度の知識しか持ち合わせていないのでしょう。

 
へ理屈から言えば、文学賞:Prize in LiteratureのLiterature(文学)とは「 literate(読み書きができる、学問[教養・識字能力]のある」からの派生語、その意味からすると「文字で書かれた物」・「読み物」、伝統的には「教養のある人」だけに与えられた賞であり、「教養のある人」はロックなどは聞かない、という意味だったのかも知れません。クラシックやモダン・ジャズ は、ロック、カントリー、ブルースに比べて、教養があるように、少なくとも上品に感じるのは私だけではないでしょう。

 ディランの詩も、古代ギリシャのホメロスやサッポーと同じく、読まれるだけではなく、楽器の伴奏を伴って歌われるのを聴いて楽しむべきもので、このことは何も新しい事ではありません。このサラ・ダニウス教授の言葉に私は大いに賛成です。古くは、和歌・短歌は読むだけではなく、節(メロディ)・抑揚を付けて、時には伴奏を付けて歌われるのを聴いて鑑賞したもの、大衆レベルの「今様」も、後白河法皇(1127-1192)は声がかれてのどがかれるほど「今様」を練習したとか…、彼の著した『梁塵秘抄(1180年前後)』に在ります。『平家物語』が琵琶法師によって練られて文学の域まで高められるのですが、文字の普及・識字能力・出版の発展と共に、「語り物」が廃れ「読み物」へと変化していったのは歴史の語るところです。

  実は…、彼はソングライターとしては偉大ですが、はっきり言って…歌は下手です。私は彼の歌うレコード・CDを一枚も買ったことがありません。全ては他人、例えばThe Byrds あるいはThe Bandが彼の曲をカバーしたものです。我々、The Y2A Bandの『Mr Tambline Man』(2010年録音)です。

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April 15, 2015

「芭蕉」を振り出しに

芭蕉 今日は、関西の友人から、ブログの更新がないのを心配して、安否確認の電話をもらったりしたのですが、もう月半ば、前回のブログ更新から2週間も過ぎていますが、何を書こうか…、全くキーボードが進みません。実は、先週にはアルバイトも終わり、今日あたり、今年のテーマの一つである「芭蕉」にゆかりの江戸(東京)深川辺りに行ってみようか…などと思っていましたが、この長雨で出かけることも出来ません。しかたがないので、今までに読んだ本、聞いた話、テレビ・新聞からの知識をできるだけノートに残しているのですが、私のテーマ:「芭蕉」を振り出しに手繰ってみることにしましょう。

 気になったのが、芭蕉の出自は伊賀国の「無足人」だった、ということです。古代、荘園制度の崩壊に連れて、伊賀国では、村々の自治が「惣」という共同体で行われるようになり、戦国期には「伊賀惣国一揆」を持って守護大名の支配に抗したが、織田信長の二度に渡る伊賀討伐で壊滅します。「本能寺の変(1582)」、堺に逗留していた家康はわずかな供回りとともに決死の逃避行を敢行、その際、彼等「伊賀衆」は家康を護衛して無事岡崎まで送り届けます(「伊賀越」)。
 
 諜報活動、破壊活動、浸透戦術、暗殺等、「忍者」の能力を鍛錬、この「惣」を担ってきた彼等「伊賀衆」を、藤堂藩は、禄はないが苗字帯刀を許すという、「無足人」という特権農民制度を設け、治安維持、有事の補助的防衛力として活用しました。因みに、「服部半蔵」としてよく知られる服部半蔵正成は家康に仕えた伊賀同心の支配役の武士にて、蛇足ながら半蔵門は彼の名前に由来、彼もまた伊賀服部氏の出自でした。徳川幕府が江戸に開かれ、下級の「伊賀衆」は御庭番・公議隠密として重宝されることになります。芭蕉=忍者説はこの辺りから出たのでしょう。

傀儡士 観阿弥(1333-1384)は南北朝時代から室町時代にかけての猿楽師にて、息子の世阿弥とともに、「能」を大成した人物ですが、彼の祖父は伊賀の服部氏一族の出自であると云う説があります。「猿楽」は操り人形を使い、例えば、武庫川の船着場に屯する河原者の木偶(でく=人形)遊びが散所に移り、西宮神社のえびす人形劇が後の人形芝居の源流となり、芭蕉と同時代の元禄時代には、近松門左衛門の人形浄瑠璃に発展、他方では能楽、歌舞伎へと発展して行きます。逆に遡ると、平安時代には傀儡(くぐつ)として人形劇を行い、女性は劇に合わせて詩を唄い、男性は奇術や剣舞などの大道芸や相撲を行っていた大道芸人でした。「傀儡(くぐつ)」はガラクタを入れる袋、この袋を背負って旅する芸人。傀儡女は歌と売春を主業とした遊女の一種で、後白河法王は喉を潰すほどに彼女たちの歌う「今様」を好み、『梁塵秘抄』を遺したことで知られています。

 「忍者」と「猿楽」をさらに遡ると、6世紀頃に渡来した渡来人集団:秦氏に辿り着きます。大陸の機織りを伝えてヤマト朝廷に仕えた「ハタオリベ」が、後に「ハットリ」に転化しますが、服部氏と秦氏は同根でした。秦河勝(かわかつ 生没年不詳)は秦氏の族長であったとされ、聖徳太子の側近として活躍しました。彼等は機織り・鉱山・土木・稲作・醸造・養蚕・陶磁器・冶金の技術に優れた技術者集団であったし、音楽・舞踊・操り人形・軽業・催眠術・医術・占い・手品・幻術・奇術・魔術を行う集団でもありました。彼等は一度に大挙して渡来したのではなく、初期の渡来人は技術者集団として迎えられて高い地位に付いたが、渡来を重ねるごとにその職種は多義に渡るようになった。遅れてやってきた渡来者は東国に開拓民として移住させられた例もあり、もはや収容しきれなった者は各地を放浪するか、権力の及ばない所に逼塞せざるを得なかったのでしょう。彼等が、「人々を欺瞞し、時には魅了する」能力とは、言葉を換えれば「忍術」や「芸能・芸術」ということになります。ついでながら、芭蕉の姓「松尾」も秦氏に繋がります。

 431年、東ローマ帝国のコンスタンチノープル、「マリアは神の容器であったかも知れないが、神の母ではない」と主張するネストリウスは神学論争に破れ、異端とされた。ネストリウス派(=東方教会)はペルシャ帝国へ逃れ、ゾロアスター教とも交じり合い、後にはペルシャ文化の中核となる、7世紀ごろには中国へと伝わり、唐代(618-907)の中国においては景教と呼ばれた。秦氏は古代キリスト教であるネストリウス派(景教徒)でした。漢民族はローマを中心とする勢力圏を「大秦」と呼び、後に秦氏が秦・始皇帝の子孫と称したのは、こうした経緯があったのでしょう。洛西、太秦広隆寺にある秦河勝像は明らかにモンゴル系の造作ではない、とは司馬遼太郎の言。キリスト教・ユダヤ教・ゾロアスター教・仏教・道教、この地に至るまで各地の土着信仰に加えて日本の神道と、ここに至る長い旅路のフィルターを経ており、その原型を探るのは極めて困難です。
 
 インド北部に生まれたとするジプシー、西へ向かうとヨーロッパ、スペインのフラメンコもそう、彼等が移住したアルゼンチンではタンゴという文化が生まれました。ネストリウス派と出会って、あるいはその後を追いかけるように、東へ向かったジプシーは唐の時代の中国に入り、秦氏一族とともに、東の果て、倭国に到達、傀儡(くぐつ)、今様、大道芸人、忍者、西宮神社のえびっさん、近松、芭蕉につながりました。

 以前も紹介しましたが、最後に、スペイン人、サラサーテが作った「チゴイネル・ワイゼン(Zigeunerweisen ドイツ語で「ジプシーの旋律」の意味)」をお聞きください。どこか…、近松、芭蕉につながって聞こえませんか。
  参考資料:広瀬久也『人形浄瑠璃の歴史 』、司馬遼太郎『ペルシャの幻術師 (文春文庫)

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November 03, 2012

2012年近江の旅 1(序章) 〜 美濃国不破郡青墓

中仙道青墓宿いつもブログにコメントをもらうKENさん。その彼にご一緒する『近江国』を巡る二泊三日の旅が始まるのは翌朝、競技開始前の様に自然とアドレナリン分泌が高まっているようです。歴史を遡る旅行は既に始まっています。

下野国から白河関を越えて東山道(近世の中仙道)の奥、陸奥国(道の奥→みちのく、むつ、奥州)に入ったのは5月のことでした。今回はその東山道を遡って近江国に至りますが、あっさりとお国入りすることは許されません。その中間の道程ははしょっるものの…、通過儀礼・儀式としてに「不破関」のあった美濃国不破郡(現在の岐阜県大垣市)を訪れなければなりません。

20年も前だったでしょうか、数人でこの地に来たことがあります。自炊しなければならず、料理の上手い友人の指図で、料理の出来ない私は朝の買い物に出かけることになりました。その小さな商店に入って、「納豆下さい」、というと、「甘納豆でしょうか、それとも濡れ納豆?」とはお店の人の反応。そうです、ここで食文化が東西に別れるのです。ついでに、エスカレーターの立つ位置がここから西は右側となるそうです。

「関東」の概念は、大和朝廷の勢力範囲が東方に及んで行くにつれ、時代と共に東方に移って行きます。まずは、「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも〜」の「逢坂の関」、これが東進して「不破関」、東海道なら「鈴鹿関」、さらに東進して、「碓氷峠」あるいは「足柄山、富士山噴火以降は箱根関」を越えた地域を「坂東」、「関東」、「東(あづま)←吾妻」と呼ぶようになり現代に至っているようです。それじゃ…「関西」は? 「関東」ほどには東へ移動していません。「関西」と並んで「近畿」と言う言葉がありますが、都のある地域:「畿内」に由来するもので、その東の端が山城国、「逢坂の関」の西が「関西」だったのでしょうか…、それが東進、いつ頃からか?…、明治政府は「畿内」に滋賀県・三重県を加えて「近畿地方」としました。現代の「関ヶ原」以西、「不破関」と「鈴鹿関」を結ぶ線より西が関西になり、この関ヶ原を境に日本の文化、特に食文化は東西に大きく別れるそうです。新聞・テレビ初めとするマスコミ、交通網の発達で全国の平均化は進行して、昔ほどではないにしろ、まだまだ、そこには東西を別ける境界があるようです。

散々なNHK大河ドラマ:『平清盛』の筋書きにかろうじて付いて来ている私ですが…、白乙前 後白河 青墓河法皇の愛妾:祇園女御は宮中を去って、今度は、後白河法皇の『今様』の師匠、「乙前」と名を変えて彼の側に使える、という作者独自の設定らしいのですが、その間30年は過ぎて80歳ぐらいの役か?…松田聖子のメイクは全く変わらず、化け物か?…というぐらいにきれいで(?)、彼女だけが歳をとっていません。外務省を「伏魔殿」と呼んで大臣を辞した田中真紀子が、あれっ…、こんどは文化省大臣に返り咲いて一悶着、老若美醜はともかく、宮廷世界も外務省も伏魔殿・魑魅魍魎の世界、そこに登場する化け物、どこか似ています。

「傀儡女(くぐつめ)」は、売春を生業としながら、人形を廻しながら集団で諸国を往来、各地の宿駅を活動の場としたが、「乙前」は美濃国不破郡の宿駅:青墓が居所の「傀儡女」でした。
平治物語
『平治の乱(1159)』で敗れた源義朝、嫡男:義平、次男:朝長、三男:頼朝以下の一行は東国に逃れようと、都を大原から北に若狭街道(鯖街道)に出ます。竜華越(りゅうげごえ)で叡山僧兵の襲撃を受け朝長が腿に重症を負い、近江国では頼朝(当時13歳)は疲労のため一行に脱落、既に平家方に抑えられている不破の関を避けて北側に迂回、義朝の妾:「延寿」という名の大炊長者(おおいのちょうじゃ)を頼って美濃国不破郡青墓に辿り着きます。重症を負った次男:朝長は足手まといになることを恐れ、父の義朝に頼んで自分を殺してもらいます(当時16歳)。嫡男:義平は平家に一矢報いようと都に引き返すも、途中捕縛され六条河原で処刑(当時20歳)、義朝はその後も逃避行を続け尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町至るも、謀られて入浴中に殺害されます。
源朝長の墓_for Blog 
※ 明るい色調になってしまいましたが、実は朝長の墓所は山中の木々に覆われた暗い処です。人魂でも出てきそうな雰囲気、『耳なし芳一』になった気分です。耳はちゃんとついていますが…。

義朝の側室:「延寿」も大炊長者呼ばれる「傀儡女」で「今様」の名手でした。その二人の間に生まれたのが「夜叉姫」で、平治の乱の敗北により、父:義朝以下多くの兄弟を失い、源氏の行く末を悲観、杭瀬川に身を投げて自殺してしまいます。「今様」の母娘相伝を受けたはずの「夜叉姫」は惜しい結果となり、後白河の「今様」の師匠「乙前」の死(1168)をもって歌謡の芸術としての評価は終わることになります。

納豆を載せた炊きたてのご飯、友人の作ったみそ汁、…その朝食の美味かったことが思い出されます。

※ Buy at Amazon: 新・平家物語 吉川英治 

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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