乳薬師

November 01, 2013

平重衡終焉の地

日野法界寺地名が先か、それとも家名?…、ここは山城国日野(現在の京都市伏見区)、藤原氏の一族である日野家の氏寺で、「日野薬師」あるいは「乳薬師」の別名で知られる「法界寺(ほうかいじ)」があります。日野は『方丈記』の著者である鴨長明が方丈を営んだ地でもあり、それ以前の時代には「春日野(かすがの)」と呼ばれ、「春」が抜けて「日野」となった、とは寺の説明です。現に、地図をみると、「日野〜」と並んで、「春日野〜」の地名も多く見られます。

1184年2月、「一ノ谷の戦い」で捕虜となった平重衡は鎌倉へ護送されます。1185年3月、「壇ノ浦の戦い」で平家は滅亡し、重衡の妻:輔子(ほし/すけこ =大納言佐局)は他の女たちとともに入水するが助け上げられ捕虜となった。ともに捕虜となり、何処か境遇が似た夫婦です。戦後は当地に住む姉の邦子(大夫三位)の居所に隠棲していました。それから4年前、1180年、重衡は父:清盛の命を受け、園城寺(=三井寺)を手始めに、続いて南都(奈良)に侵攻、興福寺・東大寺の堂塔伽藍を焼き討ち、反平氏勢力の怨嗟の的となり、処刑を目的に、その身柄を南都に送られることになりました。

鎌倉からの帰路、罪人故か京には入らず、東海道〜大津〜逢坂関〜山科(髭茶屋追分)から奈
木津安福寺重衡墓良街道(醍醐路)を南下して日野を経て南都への経路です。「もしや…?、会えるかも…?」の思いの妻:輔子は夫の着替えを用意して、護送の一行を待ちます。話が出来過ぎな気もしますが…、果たして、一行が日野に差し掛かった時、「この近くに妻がおりますので、今一度対面したく〜」と重衡、警護の武士は涙して夫婦つかの間の再会を許したのです。「平家物語」最大の見せ場、最も感動的な場面です。

重衡墓_2重衡は木津川辺りで斬首、その首は4年前南都侵攻の指揮をとった般若寺(はんにゃじ)の山門に晒されました。輔子は木津川沿いに放置されていた胴体を日野に持ち帰り、亡骸を荼毘に付し、後日、首は法然坊源空に頼んで日野に戻してもらい、ここ法界寺で供養を営み、遺骨は高野山に、墓を日野に建てました。墓を建てたのは阿波内侍(あわのないし 信西の娘、実は孫)という説もあるそうです。
※重衡墓所 by Street View
Street View 重衡墓所

1184年6月、宗盛は敗軍の将として鎌倉頼朝の前に引き出され、京に戻る一歩手前、近江国篠原宿で斬首されました。これを聞いて、建礼門院:徳子は寂光院に、重衡の妻=大納言佐局、阿波内侍がともにこの「大原御幸」に付き従いました。

Kenさんに貸してもらった本:『平家れくいえむ紀行 』(中石孝著)に詳しい、平重衡最後の地ですが、重衡が斬首された木津川には安福寺が彼の菩提を弔うために建立され、梟首された般若寺は今やコスモス寺、日野の重衡の墓は、周りを住宅に囲まれ、掃除の行き届いた児童公園の中にありました。これに比べ、1年前、Kenさんと共に訪ねた篠原宿宗盛胴塚、その日は朝から雨だったからか、はたまた、宗盛の人柄故か…、うら寂しく哀れだったことが気になります。

東京への帰り道、急ぐこともなく…、「小夜の中山」の標識を見つけたので寄ってきました。重衡に焼き払われた東大寺再建のため、伊勢に庵を営んでいた西行が奥州平泉に勧進の旅をしてこの東海道の難所を越えます。彼の人生、二度目の「小夜の中山」、69歳の時でした。 〜 年たけて また越ゆべしと 思ひきや いのちなりけり 小夜の中山 〜

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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