一ノ谷の戦い

November 08, 2015

鈴鹿の関跡、関宿

 徳川家康は東海道を整備、日本橋から京都三条大橋まで、「東海道五十三次」と呼ばれる宿駅を設置しました。今回、「同窓会」のあった伊賀上野からの帰りに、47番目の「関宿・坂下宿」を訪れました。同じく「同窓会」に参加したAkiraさんとご一緒したのですが、昨年夏も箱根西坂・東坂、東海道で云えば9番目「小田原宿」、10番目「箱根宿」、11番目「三島宿」の間を歩いており、その間を飛ばした続きです。二人で、西の追分を過ぎて坂下宿に入り、現在は「鈴鹿峠自然の家」として使われている古い小学校舎まで辿り着きましたが、近江国との国境:峠はまだまだ先です。
関宿_1 西の追分へ
関宿_2 東の追分へ

 「白村江の戦い(663)」で唐・新羅連合軍に敗れ、 唐・新羅の侵攻を恐れたのか、近江へ遷都(667)、断固たる決意で律令国家を目指し、唐との冊封関係を断ち切ったのです。ここに、天皇制国家:日本が誕生しました。「五畿七道」の一つ東海道は機内の東:伊賀国(三重県)から本州太平洋岸に沿って常陸国(茨城県)に至る諸国で、それぞれの国府は行政区と同じ名の幹線官道:東海道で結ばれていました。

 大陸、沿海州に渤海国が出現(698 -926)、唐・新羅の圧迫に対抗するために、従来の大陸外交の玄関口である太宰府より、むしろ、日本海を横断、敦賀・越前・佐渡を玄関口に渤海使が派遣されるようになり、「壬申の乱(672)」で勝利した天武天皇は愛発(あらち 越前国)・不破(美濃国)・鈴鹿(伊勢国)の三関を設置しました。後に、渤海国衰退が原因か…、逢坂関(おうさか 近江国)が愛発関に取って代わります。  

 近江大津京を除いて、天皇・律令制の時代の都は飛鳥・藤原・平城京など、都は大和国にあり、当初、街道としての東海道は、木津から木津川に沿って東へ伊賀国に入り(大和街道あるいは現在の国道25号)、鈴鹿山脈と布引山地の鞍部を加太(かぶと)越えで伊勢国へ入り、近江大津京・平安京以降の東海道は、伊賀国ではなく、近江国から鈴鹿峠を通る経路となり、ほぼ現在の国道1号のルートに重なります。

 1180年、平重衡は父:清盛の命を受け、南都(奈良)に侵攻、興福寺・東大寺を焼き討ち、反平氏勢力の怨嗟の的となります。「一ノ谷の戦い」で捕虜となった重衡は鎌倉での頼朝謁見を終え、その身柄を南都に送られることになります。鎌倉からの帰路、罪人故か京には入らず、東海道〜大津〜逢坂関〜山科(髭茶屋追分)から醍醐路を南下、日野を経て南都への経路です。「もしや…?、会えるかも…?」と思う妻:輔子は夫の着替えを用意して、護送の一行を待ちます。果たして、一行が輔子が住む日野に差し掛かった時、「この近くに妻がおりますので、今一度対面したく〜」と重衡、警護の武士は涙して夫婦つかの間の再会を許したのです。

 「平家物語」最大の見せ場、欠かせない場面ですが、最初から京の市街通過を避けて、南都(奈良)あるいは処刑地:木津に向かうのであれば、一行は何故この経路を通ったのでしょうか? 関宿「西の追分」から東海道をはずれ、大和街道、かつての東海道、を木津川沿いに西進すれば簡単に、処刑場のある木津、首が晒される般若寺に、少なくとも1〜2日早く到達することが出来たはずです。やはり名場面演出がその理由なのでしょうか。

 残念ながら未だ越えた訳ではありませんが、箱根に次いで、東海道の難所:鈴鹿の峠を制覇した気持ちです。 次回は東海道のどこを歩きましょうか。

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March 11, 2015

平安末期末法の世 山城国日野

深い森 2012年6月、わずかながらも復興に寄与すればと思い、白河関を通って会津若松に旅しました。 平安中期、能因が、平安末〜鎌倉初期、彼の跡を追って西行が、そして江戸期には、二人を追って芭蕉が通過した白河関、私にとってはこれが二度目の訪問でした。その年の大河ドラマが『平清盛』だった故か…、空堀が巡らされた古代の砦・柵の跡に一人立つと、そこは『平家物語』の世界です。

 「一ノ谷の戦い(1184)」で捕虜となった平重衡は、 鎌倉からの帰路、同じく「壇ノ浦の戦い(1185)」で捕虜となった妻:輔子(ほし/すけこ)が姉の居所に隠棲していると耳にします。「もしや…、会えるかも…?」と、待っている妻。 果たして、一行が日野に差し掛かった時、「この近くに妻がおりますので、今一度対面したく〜」と重衡、警護の武士は涙して夫婦つかの間の再会を許します。『平家物語』、感動的な場面の一つです。

 重衡夫婦が再会を果たした山城国日野、奈良の春日野の地に似ているという理由で当初、「春日野」と名付けられました。日野氏の始祖:藤原真夏を祀った萱尾神社の前に「春日野」と記した標識を建てたが、ある日、一匹の鹿が現れ「春」の一字を喰いちぎって行ってしまいました。以来「日野」のニ文字だけが残り、そのまま地名となったと云います。

 保元・平治の乱(1156/1159)、安元の火災(1177)、治承の辻風(1180)、福原遷都(1180)、治承・寿永の乱(1180〜1185)、養和の飢饉(1181)、元暦の大地震(1185)…、立て続けに起こった天変地異と戦乱、人々は世界の終末:「末法」の到来に怯え、極楽浄土への往生を求める浄土信仰が大流行します。朝廷・貴族が衰退して武家が台頭、一方では、既存の仏教に対抗する新しい仏教勢力が増大、価値感が一変する大変動の時代でした。

 朝廷と姻戚関係を結び、 摂関政治を続けてきた藤原氏にすれば、重衡はその藤原氏の氏寺:奈良「興福寺」焼き討ちを指揮した重罪人、その重衡が藤原氏日野家の拠点:日野を通るのも因縁があったのでしょう。「法界寺」は真夏の孫:家宗が建立した日野家の氏寺ですが(薬師信仰)、この時代、末法思想の大流行を受けて阿弥陀堂が建てられ(阿弥陀信仰)、浄土真宗の開祖:親鸞は日野有範の子としてこの「法界寺」に生まれました(1173 〜1262)。

 仏教で云う「無常」とは、宇宙・万物の哲理・原理であり、「奢れる・奢らざるに拘わらず、全てに等しく永遠ではない」のですが、『平家物語』では「奢れる者は久しからず」になってしまいます。前者は感情の入る余地のない根本原理・宇宙の法則、日本の「無常」は極めて情緒的、桜は散り際が美しいなど、桜の花を愛でるにもその美しさだけでなく、変わりゆく=うつろいゆく=「無常」に愛惜を感じるのです。

 下鴨神社の神事を司る神官の次男として生まれた鴨長明(1155 〜 1216)は、 和歌・音楽(琵琶)を学び、歌人として活躍していましたが、神職としての出世の道を閉ざされ大原にて出家(1204)、後にこの日野「法界寺」の奥に「方丈庵(一丈四方の庵)」を結びます。既に武家の時代、鎌倉幕府三代将軍:源実朝に面談して帰国後、『方丈記』を完成します(1212)。

 この時代、日野が何かと重要な舞台の一つでした。『方丈記』に関して書こうと思いましたが前段の時代背景だけに終わってしましました。私の書斎

 私の部屋はほとんど長明の方丈庵と同じ、音楽もほとんど同じで、上手くはありませんが、ギターを彈きます。残念ながら和歌、文学の素養はありません。
 

 東日本大震災で亡くなられた方々の御冥福を心からお祈りします。

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November 01, 2013

平重衡終焉の地

日野法界寺地名が先か、それとも家名?…、ここは山城国日野(現在の京都市伏見区)、藤原氏の一族である日野家の氏寺で、「日野薬師」あるいは「乳薬師」の別名で知られる「法界寺(ほうかいじ)」があります。日野は『方丈記』の著者である鴨長明が方丈を営んだ地でもあり、それ以前の時代には「春日野(かすがの)」と呼ばれ、「春」が抜けて「日野」となった、とは寺の説明です。現に、地図をみると、「日野〜」と並んで、「春日野〜」の地名も多く見られます。

1184年2月、「一ノ谷の戦い」で捕虜となった平重衡は鎌倉へ護送されます。1185年3月、「壇ノ浦の戦い」で平家は滅亡し、重衡の妻:輔子(ほし/すけこ =大納言佐局)は他の女たちとともに入水するが助け上げられ捕虜となった。ともに捕虜となり、何処か境遇が似た夫婦です。戦後は当地に住む姉の邦子(大夫三位)の居所に隠棲していました。それから4年前、1180年、重衡は父:清盛の命を受け、園城寺(=三井寺)を手始めに、続いて南都(奈良)に侵攻、興福寺・東大寺の堂塔伽藍を焼き討ち、反平氏勢力の怨嗟の的となり、処刑を目的に、その身柄を南都に送られることになりました。

鎌倉からの帰路、罪人故か京には入らず、東海道〜大津〜逢坂関〜山科(髭茶屋追分)から奈
木津安福寺重衡墓良街道(醍醐路)を南下して日野を経て南都への経路です。「もしや…?、会えるかも…?」の思いの妻:輔子は夫の着替えを用意して、護送の一行を待ちます。話が出来過ぎな気もしますが…、果たして、一行が日野に差し掛かった時、「この近くに妻がおりますので、今一度対面したく〜」と重衡、警護の武士は涙して夫婦つかの間の再会を許したのです。「平家物語」最大の見せ場、最も感動的な場面です。

重衡墓_2重衡は木津川辺りで斬首、その首は4年前南都侵攻の指揮をとった般若寺(はんにゃじ)の山門に晒されました。輔子は木津川沿いに放置されていた胴体を日野に持ち帰り、亡骸を荼毘に付し、後日、首は法然坊源空に頼んで日野に戻してもらい、ここ法界寺で供養を営み、遺骨は高野山に、墓を日野に建てました。墓を建てたのは阿波内侍(あわのないし 信西の娘、実は孫)という説もあるそうです。
※重衡墓所 by Street View
Street View 重衡墓所

1184年6月、宗盛は敗軍の将として鎌倉頼朝の前に引き出され、京に戻る一歩手前、近江国篠原宿で斬首されました。これを聞いて、建礼門院:徳子は寂光院に、重衡の妻=大納言佐局、阿波内侍がともにこの「大原御幸」に付き従いました。

Kenさんに貸してもらった本:『平家れくいえむ紀行 』(中石孝著)に詳しい、平重衡最後の地ですが、重衡が斬首された木津川には安福寺が彼の菩提を弔うために建立され、梟首された般若寺は今やコスモス寺、日野の重衡の墓は、周りを住宅に囲まれ、掃除の行き届いた児童公園の中にありました。これに比べ、1年前、Kenさんと共に訪ねた篠原宿宗盛胴塚、その日は朝から雨だったからか、はたまた、宗盛の人柄故か…、うら寂しく哀れだったことが気になります。

東京への帰り道、急ぐこともなく…、「小夜の中山」の標識を見つけたので寄ってきました。重衡に焼き払われた東大寺再建のため、伊勢に庵を営んでいた西行が奥州平泉に勧進の旅をしてこの東海道の難所を越えます。彼の人生、二度目の「小夜の中山」、69歳の時でした。 〜 年たけて また越ゆべしと 思ひきや いのちなりけり 小夜の中山 〜

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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