ローマ

July 09, 2015

ギリシャ危機と「ルネサンス」 

BBC地球伝説 EUが求める緊縮策の是非を問うギリシャ国民投票が行われ、当初は賛否拮抗するかと思われていましたが、61%が反対とはいう予想以上の結果でした。お白州に引き立てられたギリシャが、壇上で見下ろすEU、最大の支援国:ドイツを前に、「厄介者扱いの上に言いなりはまっぴら」と、もろ肌脱いで開き直っている様子です。

 第1回大会がギリシャ・アテネで(1896)、21世紀初めての第28回オリンピックも同じアテネで開催(2004)されたのは記憶に新しいところです。レスリング競技の一つ、グレコ・ローマンスタイル(Graeco-Roman)は文字通り古代ギリシア・ローマの伝統に由来しているかのように聞こえますが、19世紀、イタリア人やフランス人が現代のスポーツと古代のものとの関連を見出すことで付加価値を付けただけのもので、彼らの古代ギリシア・ローマへの憧憬が現れている好例でしょう。

 芸術、哲学、 科学が花開き、民主主義が芽吹いた古代ギリシャ文明(紀元前6〜3世紀)を、古代ローマ文明と並んで、強く憧憬する西欧人は14〜15世紀、古代ギリシア・ローマの学問・知識の復興を目指す「ルネサンス」がイタリアで起こり、各国に影響を及ぼしたと言われています。かつて、ゲルマン人が北方から侵入、西ローマ帝国を崩壊(467年)させます。彼らは、キリスト教を利用して、自分達より高度な文明を持つ先住民族(旧ローマ帝国市民)を支配・統治したのです。一方、東ローマ帝国(395-1453)は、首都をコンスタンティノポリスとし、7世紀に始まるイスラム勢力の進出で後世ビザンツ帝国と呼ばれますが、1453年、オスマン・トルコにより滅亡、首都名もイスタンブールに変わります。

 「ルネサンス」の時期、古代ギリシャ文明からすでに1千年以上も経過しており、地理的に見ても、文明の存在したギリシャを含む東地中海は完全なイスラム圏となっています。当時の西欧知識人は、単に、東方文明、特に優越したイスラム文明(アラビア語)を通して遠い古代ギリシャ文明を知ったのであり、民族・国家として古代ギリシャ文明を継承してきた訳ではありません。古代ローマ文明がイタリア人・フランス人などラテン系のルーツ・拠というのは理解出来たとしても、ドイツ人のそれではありません。かつて、西ローマ帝国に侵入したゲルマン人、その後のドイツ人は古代ローマにも、況んや古代ギリシャ文明には全くと言ってよいほどに繋がりません。それ故か…、ドイツ人は狂ったようにギリシャ崇拝に走ったのです。「ドイツ人の間では、フランス人・イタリア人への対抗故か、ローマ史やラテン語よりもギリシャ研究の方が人気が高かった」そうです。ギリシャの側も近代国民国家を作る過程でこの「ヨーロッパ文明の精神的故郷」のイメージを利用して、国家のアイデンティティーとしました。

 「ルネサンス」は、美術の領域ならいざ知らず、単なる西欧人の思い込み、憧憬に過ぎないのかも知れませんが、西欧はこの幻想の「ルネサンス」に続いて「宗教改革」を共同体験しますが、ギリシャは全くの埒外にありました。加えて、彼らは、ローマ教会ではなく、東方正教会:ギリシャ正教、ロシア正教に近い存在です。

 EUは自らの精神的故郷でアテネ・オリンピックを開催、過剰な投資であぶく銭をもうけ、祭りの後に残ったのは見事なまでの「廃墟」です。「ヨーロッパ文明の精神的故郷」:ギリシャはEU離脱をちらつかせていますが…、果たしてヨーロッパとは何か?、…考え込んでしまいます。新国立競技場

 気取っている場合じゃありません。他人の心配よりも…、借金の上積み、2520億円もかける国立競技場建設の方が深刻です。

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January 12, 2009

文明のかろうじて及ぶ最果ての地、ハドリアヌスの長城 Hadrian's Wall

Hadrian's Wall 412月23日、Yorkを出て、A1を北に向かう。ここに来ると国道:M1はA1に変わり、片道3車線が2車線になっています。なだらかな起伏の丘陵地帯が遙かに続き、日は既に昇っているはずなのに空は地平線まで、一面の雲に覆われています。高速道路の両側の景色はLondonからYorkとほとんど変わらず、どこまでも続く緑の牧草地、所有地を区分するためであろうが、スレート石を積み上げた石垣で囲まれており、なかに点々と羊が見えます。不思議なことに、農耕地は全く見あたらず、人家の周辺を除いて森や林も見あたりません。ただ、延々と羊の放牧地が続くのです。一面の灰色の空、石垣、石造りの民家、全くモノクロ写真世界です。そこに牧草の暗緑色を後からかぶせたような景色です。

3時間は走ったでしょうか、既に幹線道路をはずれ、簡易舗装となり道幅も狭く、頂きから前方をみてもその底が見えないような起伏の激しいジェットコースターのような道路がB6318と標識のある道路にぶつかります。これが目指す「ハドリアヌスの長城 Hadrian's Wall」に沿って造られた、古代ローマ人の道路とは後日知りました。

ハドリアヌス帝 ローマ帝国ハドリアヌス帝(117年 - 138年)は、それまでの版図拡大政策を断念、帝国防衛体制の確立・内政の整備へとその政策を大きく変換します。

日本では、存在自体も疑わしい、卑弥呼(175年頃? - 248年頃)が生まれるちょっと前、122年、彼はこの地に帝国最北の防衛線建設を命令します。これが「ハドリアヌスの長城 Hadrian's Wall」 です。

ライン河、ドナウ河と並んでこの長城はローマ帝国の防衛線の環(リム Rim)をなすもので、その以西(以南)を帝国絶対防衛圏と定めたものでした。因みに、Rhein(ライン河)及び英語のRim(車輪のリム、へり、周縁)の語源はこれのようです。

Hadrian's Wall 23灰色の雲に覆われた空、吹きっさらしの暗緑色の大地。ローマ帝国最北の防衛線、まさに辺境、文明のかろうじて及ぶ最果ての地。古代ローマのに思いを馳せるべく舞台は整っているのですが、どうもその北風の寒さに負けて十分には感情移入することが出来なかったようで、用意していたタイツ、手袋をホテルに忘れてきた事が悔やまれます。訪れたHousestead Roman Fort(ハウステッド、ローマ人の砦)は確か2〜3月は閉鎖のようで、この期間にはさらに厳しくなるのでしょう。

Hadrian's Wall 6この長城を建設した人たち、駐屯していた兵士は遠くローマからやってきたのか…と思いきや、技術者や兵士はドーバー海峡を越えたオランダ、ベルギー地方の、その当時既にローマ市民であった人たちがその任務に就いたようです。長城建設を命じたハドリアヌス本人も、ローマてはなく、属州の一つ、ヒスパニア(スペイン)出身なのですから、如何に帝国全土に渡ってローマ法での統治がなされていたか、ということでしょう。

5世紀に入ると、(西)ローマ帝国の防衛線の環(リム)はライン・ドナウ河でゲルマン人侵入を許すようになります。ここに至っては、西ローマ帝国政府にはもはや遠いブリタニアを維持する力はなく、AD 407年コンスタンティウス3世はブリタニアを放棄、残存ローマ軍を率いて撤退します。この政治的・軍事的空白、間隙を衝いてアングロ人・サクソン人(ゲルマン人の一派)がブリタニアに大挙侵入、その後「アングロ人の土地、England」が始まります。

時代は大英帝国終焉間近、時の首相:チャーチル曰く、「イギリスが過去、ローマ帝国に蹂躙され、影響されたことは、むしろ幸運なことだった。イギリスの歴史はそこから始まった。」 この言葉は、チャーチルだけではなく、ヨーロッパ全ての国の共通認識ではないでしょうか。…でなければ、誰がEU(欧州連合)の構想を持つことが出来たでしょうか。これこそがローマ文明の<<普遍性>>なのでしょう。

吹きっさらしの丘を下り、幹線道路近くの村の小さなレストラン(兼ホテル)で遅い昼食。暇そうな女主人が、「ミートパイがお奨め」の由で、早速それを注文します。あまり美味しいとは言えませんが、彼女曰く「イギリス料理ではなくアメリカ料理。中にコーンビーフが入っているの」。そういえば建物はイギリスの田舎風、内装はチープな張りぼて、食べたミートパイもそれにぴったりでした。相変わらず外は灰色の雲に覆われた空、日の暮れないうちにYorkへの帰路を急ぐことにしましょう。
* Image: Extent of Roman Empire at the time of Emperor Hadrian AD 117

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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