ルート66
December 09, 2017
最近聞いたこの曲<15> "You're Not in Kansas Anymore"

映画『怒りの葡萄』から30年後、ヘンリー・フォンダの息 子、ピーター・

ベトナム戦争も終盤の時代,60〜70年代、にはロック・ミュージックが興隆します。プレスリー、ビートルズ、ビーチボーイズが現れたのもこの時代です。ジョニー・ミッチェルが『California』を歌ったように、グラム・パースン、ママス&パパス、リンダ・ロンスタート、ジム・モリソン、ニール・ヤング、デビッド・クロスビー、スティーブン・スティルス、グラハム・ナッシュ、ジャクソン・ブラウンがその後の成功を獲得する以前に住んだロサンゼルス、ローレル・キャニオン(Raurel Canyon)は東のウッドストック(Woodstock)と並んで若いミュージシャンが多く集まり住んだ場所でした。ヒッピー対抗文化の音楽コミューン的性格を持つ場所でした。
時代の終焉では…、ヒッピィー対抗文化の体験から抜け出せない人間を歌った(?)『ホテル・カリフォルニア Hotel California(1976)』、イーグルズ自らもこの枠を抜け出すことが出来ないままに終わってしまいました。ホテル・カリフォルニアとはこの対抗文化の音楽コミューン、ローレル・キャニオン(Raurel Canyon)のことかも知れません。
ビーチボーイズに始まる私のカリフォルニアへの思い入れは『ホテル・カリフォルニア』以降も何ら代わることがありません。ストリーム・ラジオをリッピングしているのですが、私が好きになる曲はカリフォルニアに対するあこがれ、カリフォルニアを好意的に歌う傾向にあり、リトル・テキサス(Little Texas)の『Amy's Back In Austin』如きは歌詞の内容だけでなく、メロディラインもウエスト・コースト風に仕上がっています。最近は聞いたビッグ&リッチの(Big and Rich)の『California』はカントリーなのですが<<ど>>カントリーではなくなりました。
今回、ご紹介するのもそんな曲の一つ、ジョージ・ディ・メッシーナ( Jo Dee Messina 1970年生まれ)の「You're Not in Kansas Anymore(1996)』です。

上下つなぎの作業服を着て、日が沈むまで干し草を引っ張るのはうんざり
一日中、ジョン・ディアのトラクターに乗り土地を耕しているのでLAに憧れる、と言う
南カリフォルニアには高速鉄道が走っているよ、と教えて上げた
[Chorus]
もうここはカンザスじゃないわ
用心し過ぎることはないのは確か
街の灯があなたを誘い
朝が来ると消えてしまう
だから、壁に私の電話番号を控えておいて
何時でもいいから電話してきて
今、私は幸せ
もうここはカンザスじゃないわ
「カーソンがどこに住んで居るか知ってる?」それでマリブまでドライブしたの
サンセット通りを走り、キスの1回や2回は許してあげたの
ハリウッドの標識の下、にんまりしたのを気付かれないように、私は低くささやいた
ロデオじゃなく、ここはロデオ・ドライブ、こんなこと云うのは始めて
[Chorus]
October 09, 2017
『Surfin’ USA』 と『平家物語』その1
私がラジオでThe Beach Boysの『Surfin’ USA』を聴いたのが中学生の時(1963?)。あれから半世紀以上が過ぎた今でも、バンド(私)のレパートリーの一曲になっています。The Beach BoysとThe Beatlesをきっかけにいわゆる「洋楽」に入り込んだのですが、 その背景には、時代が「東京オリンピック(1964)」からさらなる高み:「大阪万博(1970)」に向けて好景気は続き、テレビ受像器の普及と共に津々浦々の家庭に「サンセット77」、「ローハイド」、「ルート66」、「ミステリーゾーン」等のアメリカ文化の大波が押し寄せて来ました。 第二の黒船の如きもので、私は中学生になると、それまでの小学校ではなかった、「英語 English」という新科目とThe Beach Boysがほぼ同時に登場したことになります。
もちろん、歌っている歌詞の意味も判らず、ただ今まで耳にした歌謡曲、民謡、冷戦下のロシア民謡とは全く違う、新しいメロディ・リズムの「洋楽(特にアメリカ音楽)」は、アメリカ映画やテレビ番組のイメージと相まって、私にとってものすごくかっこいいものでした。「好きこそものの上手なれ」の通り、他の科目はダメでしたが…、「英語」だけは好きで、成績も悪くはありませんでした。
私よりも少し前の時代、「ロカビリー(Rock ’N’ Roll + Hillbily」が流行し、そのうちの一曲、ジーン・ピットニー(Gene Pitney)の『Louisiana Mama(1961)』、日本では飯田久彦の『ルイジアナ・ママ』がヒットしていました。Verseの最後で繰り返される「My Louisiana mama from New Orleans」が子供心には「マイ・ルィジアナ・ママ フォムノリオリン」、特に「ノリオリン」が強く印象に残っているとは友人の言。これには妙に納得してしまいました。
私なりの判断基準ですが、その人の英語能力あるいは、英語を理解しているかどうかを知るには、「音読」、声に出して読み上げてもらえば判ります。単に発音やアクセントだけでなく、どこで文章を切るのか、英語だけではありませんが、「書き言葉」にせよ「話し言葉」にせよ、文章にはリズムがあります。振り返ってみると、英語らしい発音やアクセントの位置、英語らしいリズム…の多くは「洋楽」から学んだように思います。今日、語学の習得方法に音曲(音楽)・歌から入るのは極めて有効な方法とされています。
久しぶりに面白い本に出会いました。井沢元彦著『逆説の日本史 16』です。以下は「識字率」に関する抜粋です。
「江戸文化」の源泉は何か?どれだけ自国語を読み書きできるかを「識字率」と呼ぶが、現在、日本人の「識字率」は99%とほぼ100%と世界一、因みに世界平均:75%(1/4は読み書きできない)、江戸時代における男性40〜60%、女性15〜30%はダントツであったということです。ヨーロッパにおいて、庶民には「本を読む」どころか「文字を読む」習慣がない。グーテンベルグの印刷術の発明が15世紀中頃、16世紀に宗教改革、マルチン・ルター(1483-1546)が聖書のドイツ語訳を出版するが、これが直ちに識字率の向上に繋がった訳ではない。「文盲(差別語)」の人にとって本というものは全く意味を持たない。その前に「教育」が必要だった。
日本史の通説では、日本の識字率の向上は江戸時代における「寺子屋教育」の普及が主要因だと考えているが、実は、それ以前の土台作りが存在した。13世紀初(?)の『平家物語』である。通説では作者不明としているが、著者は、吉田兼好の『徒然草』にある通り、『愚管抄』の作者、天台座主慈円(じえん)がプロデュースして、信濃前司藤原行長(物語作 作詞)と生仏(しょうぶつ 作曲 盲目の琵琶法師)に作らせたという。慈円は平家一門、安徳天皇の怨霊を鎮魂するために、二人のスポンサー、プロデューサーとなり、始めから「音曲(音楽)」にして読み書きが出来ない庶民が「文学」を楽しめるようにした。
中世ヨーロッパの農民にとって「読み書き」が出来なくても全く社会生活に支障なかった。マルチン・ルターは多くの賛美歌(キリストを讃える歌)を作り(作詞・作曲)、それまでラテン語で書かれていた聖書をドイツ語に訳した。「音曲(音楽)化」で、「読み書き」出来ない人に「文字を読みたい」という意欲を起こさせたのです。もし慈円自身に作詞・作曲の才能があれば、ルターのように自分で『平家物語』を作ったであろう。
次回に続きます。
※参考:井沢元彦著『逆説の日本史 16』
July 16, 2007
オクラホマ・ミキサー
「オクラホマ」のイメージは、「保守的で、西部劇そのままの田舎」、といったところではなかったでしょうか。「西部劇そのまま…」はともかく、後に聞いたマール・ハガードの1969年のヒット曲:「Okie From Muskogee」では愛国的、保守的、素朴な、古き良きアメリカを愛するオクラホマ人が歌われています。そのオフィシャルサイト:Okie From Muskogeeをご覧(ページ下部の歌詞を読みながらお聞き)下さい。…、それにしても、「In Muskogee, Oklahoma, USA」のエンディングは少々大仰です。
彼の本心でしょうか、それとも大袈裟な皮肉なのでしょうか?後にインタビューに応えて、この曲に歌われたオクラホマ人に共感を覚える主旨の発言をしています。この曲を同時代のビーチボーイズが歌っているところが大いなるパロディです。→ The Beach Boys - "Okie from Muskogee" at Central Park 1971
ベトナム戦争の時代、アメリカには厭戦気分が充満、特にサンフランシスコを中心にヒッピームーブメントが勃興します。この曲でも歌われる、まさに「花のサンフランシスコ」の時代でした。この、ある種退廃的なカウンターカルチャーに対しての保守層からのカウンターの一つがマール・ハガードの「Okie From Muskogee」だったのでしょう。
彼はカリフォルニア州ベーカーズフィールドに生まれますが、9歳の時に父親が死去、家庭環境が悪く不良に育ちます。カントリー歌手として知られるようになっても、窃盗の罪でサンクエンティン刑務所に服役した経験の持ち主です。


「髪の毛が長い、よそ者」、それだけ(?)の理由でショットガンで撃ち殺されるラストシーン。場面は確か、「オクラホマ」でした。
Support Me:

本業にもお越し下さい。↓
Hong Kong Express
