ルイス_フロイス

February 17, 2014

『沈黙』 その時代

姉弟3人の約束で、今年1年は大河ドラマ:『軍師官兵衛』を共通テーマにしよう、ということになっています。

軍師としての官兵衛は多くの人に描かれていますが、むしろ、彼が「終生、敬虔なキリシタン」であったことに大いに興味をそそられます。彼だけではなく、高山右近、大友義鎮、大村純忠、有馬晴信、小西行長、蒲生氏郷…など多くの戦国武将が「キリシタン大名」として名を残しています。「慈悲」・「隣人愛」・「人間としての自己確立」がキリスト教の生き方だとすれば、どうして戦国武将はキリシタン洗礼を受けたのか…、武士としての生き方と矛盾しないだろうか…。例えば、小西行長は、同じくキリシタン、彼の娘婿:宗 義智(対馬府中藩主)と共に朝鮮貿易を独占、一方では李氏朝鮮を欺き、他方では秀吉も欺き、いざ文禄・慶長の役(1592〜1593)が始まると、熱心な日蓮宗徒である加藤清正と競って、この「大義」も「仁愛」もない戦争に、何の節操も躊躇もなく参加したのです。

彼等の生きた16〜17世紀、目を世界に広げてみると、そこは「大航海時代」も既に後半に入ろうとしていました。後半という意味は…、かつて時代の先鞭をつけたスペインとポルトガルの国力が傾き始め、スペインの植民地であったオランダが独立、国教会をつくったイギリス、そしてオランダ、ドイツで宗教改革運動、前者に対抗宗教改革が発生、新大陸・アフリカ・アジアを含む全世界規模での新旧キリスト教勢力は抗争の真っ只中でした。

William_Adams_1707_map_of_Japan対抗宗教改革運動としてイエズス会が正式に許可され(1540)、ザビエルが日本に上陸したのは1549年。九州に始まった布教は30年後には東北にも及び、1585年の頃に官兵衛が入信、彼は高山右近、蒲生氏郷の勧めで受洗したとルイス・フロイスは記しています。

それから更に30年の間、幾度かの禁教令にも拘わらず、関ヶ原の戦い前後まで毎年1万人余が新たに洗礼を受け、キリスト教は拡大していきます。徳川幕府は、1620年、宣教師ら修道会士と信徒、及び彼らを匿っていた者たちを大量に処刑(元和の大殉教)、続いて起こった「島原の乱」(1637)に恐怖して、結果キリスト教徒を徹底的に弾圧するようになります。

宣教師、修道士、信徒の処刑は彼等にとっては「殉教」、「殉教」は迫害を恐れない新たな信徒を生み出します。恐怖した幕府は処刑を止め、「棄教」(強制改宗)政策に転換、徹底的、積極的かつ巧妙に推進していきます。すでに戦国時代は終わり、徳川幕府が政権を奪取、ウイリアム・アダムスの進言によるものか…、スペイン、ポルトガル(ローマ・カトリック教国)を国外に追放・国交を断絶、逆に、宗教色の希薄な、そして世界交易の覇権を握りつつあるイギリス、オランダ(プロテスタント教国)に接近して行った。これが遠藤周作の小説:『沈黙』(1966)に描かれている時代です。

プロテスタントに対抗すべく海外に派遣されたイエズス会は世界の東の果て、日本にキリスト教布教の最適地を発見、その熱心な布教活動及び自然科学を始めとする西洋医学が普及、民衆だけではなく武士階級にも、海外交易を欲する領主階級にまで浸透、「キリシタン大名」と呼ばれる戦国武将が現れたのは既に書いた通りです。今まで控えめであったキリスト教が、その普及とともに、一神教故か…既存の宗教勢力と衝突・社寺仏閣の破壊、封建思想との軋轢、幕府政権への挑戦(「島原乱」)、植民地化の恐れさえも生じてきました。

1643年、史実では4人の司教が官憲の拷問を受けて全員が棄教、その中の一人、キャラをモデルにしたのが、小説:『沈黙』のロドリゴ司祭です。ロドリゴは、彼の師匠であり、前任者であるフェレイラ司祭の棄教・裏切りの経緯を知るために日本に潜入しますが、キチジローの裏切りで長崎奉行に捕縛されてしまいます。「根が絶たれれば茎もはも腐るが道理」、長崎奉行の言葉の通り、この国はすべてのものを腐らせていく沼でした。教義なきキリスト教は”羽の生えた大日如来”、”頭に輪っかをつけた弥勒菩薩”、キリスト教が歪曲化されて行くのを見るのは最も過酷な拷問です。「殉教者」をいくら作っても敵の思う壺、奉行は「神」への疑問を植え付けてロドリゴの精神を破壊します。「神」の沈黙は続き…、信徒が過酷な拷問で呻きながら緩慢に死んで行くのをロドリゴは看過できず、遂に…、「踏み絵」に足をかけた瞬間、生まれて始めて「神」の声を聞きます。『沈黙』、2014年、マーティン・スコセッシにより映画化されるそうです。

遠藤周作?中学生の頃…?、その彼女は、同じクラスだったのですが、賢くそして美人、あこがれの女の子でした。夏休みの終わって、読んだ本の感想文の校内コンクールがあり、彼女はみごと優勝しました。感想文そのもの、その評価の内容は忘れてしまいましたが、彼女の読んだ本が遠藤周作の『沈黙』だったことはよく覚えています。後日、図書館でその本を見つけて読み始めましたが、読み続けるのは難しく、残念ながらその面白さに出会うことなく、途中で諦めてしまいました。

以来、小さくはない劣等感とともに生きて来ましたが、少しは抜け出せそうです。

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July 11, 2013

精神の病

1570年、越前朝倉を撃とうとした織田信長軍は、浅井長政の裏切りで挟撃される事態となり、当時の木下藤吉郎(34歳)は退却戦の殿軍を務めます。以降20年間、天運に憑かれたように階段を上り詰め、1589年(53才)には、側室の茶々(淀殿)が、嫡男:捨丸を出産、続く1590年(54才)、北条を滅ぼし、奥州の伊達政宗を配下に置くことによって全国統一を果たしたのです。ここに、「日輪の子」として生まれた豊臣秀吉は幸福の絶頂を迎えます。しかし、絶頂の後は落ちるしかありません。

翌1591年(55才)、老いて生まれた嫡男:鶴丸(捨丸)が幼く病死、さらに弟で雑兵から一緒に成り上がった参謀の豊臣秀長が病死…と立て続けに不幸が彼を襲ったのが、精神の変調のきっかけでした。信長以来、秀吉にも一時は重い信任を受けた千利休を切腹させたのが、明らかな変調の始まりでした。何時の頃からか、構想は信長に始まるとの説もありますが…、次の目標は「明の征服」、そのために甥で養子の豊臣秀次に関白職を譲り、自身は太閤となります。
秀吉
1592年〜97年(56〜61才)、朝鮮へ侵攻(文禄の役・慶長の役)するも失敗。
1593年(57才)、ふたり目の子、拾(おひろい=豊臣秀頼)誕生。
1595年(59才)、甥の元関白、豊臣秀次を切腹させる。
1598年(62才)、醍醐寺で花見を開催。病に伏し、五大老に宣紙を何度も繰り返して書かせ…、伏見城にて死没。

彼のそれまでの半生は、百姓に生まれ、信長の草履を胸元に入れて暖めて歓心を買うことに始まり、信長軍の兵卒として軍功を重ねながら第一の武将に成り上がって行きます。まさに明るい・陽気な・人なつっこい・庶民の子:「日輪の子」の出世話で、多くの日本人は彼に対して好意的なイメージを持っているのですが、老いてからの彼はまさに「精神の病」でした。「妄想性人格障害(Paranoid personality disorder)」らしく、元々の性格はそんな兆候のない者でも、成り上がった独裁者は常に他人によって失脚させられる危険性を抱いており、部下の裏切りや暗殺者の恐怖などによって猜疑心が強くなり、必然的にこの病に陥るそうです。

文禄の役明征服のための朝鮮への侵攻、そこには「大義」も何もなく…、朝鮮半島では今日に至っても残虐な侵略行為と非難され、伊藤博文と並んで極悪人とされる豊臣秀吉。誰も止める人間はいなかったのでしょうか?朝鮮出兵の計画案は五大老にはかられたが、徳川家康の一言:「まことに結構なる仰せでございます」で出兵に一決。後に、「家康と利家が一兵も兵を出さないのはおかしい」、と言う石田三成さえも出兵の不正義の一言も秀吉に諫めることはできませんでした。まさに暴走。家康はこの戦争の結果を冷徹に予想して、豊臣家を弱体化させ、豊臣恩顧の武将の力を削いで置きたかったのでしょう。

1588年、その無敵艦隊がイギリス海軍に敗れたスペインは既に斜陽。劣勢に立たされたスペインはローマ教皇と結び、一方で反宗教改革運動としてのイエズス会を興隆、フランシスコ・ザビエルはじめ優秀な宣教師を積極的に海外に派遣しました。日本でのイエズス会事業はその後、ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノといった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。 加藤清正は熱心な日蓮宗徒でしたが、彼のライバル:小西行長はれっきとしたキリスト教徒、一旦開戦となるや、仏教徒にせよキリスト教徒にせよ、信ずる宗教とは全く無関係に、彼等はこの「大義」も「仁愛」もない戦争に積極的に参加しました。

地理的に見て、日本は、朝鮮に比べて、中国文化を取り入れるのは不利であったが、南洋経由の西洋文化の取り入れには有利であった、と言えるでしょう。中国朝鮮は冊封体制で結ばれた主従関係、整然とした中央集権的官僚制度国家であり「極めて内向き」、李氏朝鮮には厳しい身分制度があり、「両班(ヤンバン 貴族)」が「常民(庶民)」、「奴婢(奴隷)」を厳しく抑圧することによってその平和が維持されていた。彼等から見れば、一方の日本は、ヨーロッパと同じく、封建制度国家であり「極めて外向き」で、戦国の騒乱の世にもあれだけ商業が発展して、海外貿易にも積極的なのは到底理解できないものでした。

対馬藩、宗義智(そうよしとし)と小西行長は、朝鮮貿易・外交を独占して戦争反対の立場…、共謀して李氏朝鮮・秀吉双方に虚偽・詭弁を使い戦争回避工作を行い、一旦開戦となるや、日本軍の先鋒となって朝鮮に攻め込み、一方では休戦工作を行い、その虚偽・詭弁が双方に露見するや、再び戦争状態になり、休戦するのは秀吉の死を待たなければなりません。本当の終戦は、関ヶ原が終わり、天下人となった徳川家康の時代、1607年、通信使が幕府に派遣され江戸にて将軍職を継いでいた秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見した。日本に連れ去られた儒家、陶工などの捕虜の奪還をを目的としたものでした。この求めに対し、徳川幕府が国書を送った形跡はなく、またまた…、対馬藩が国書を偽造して国交を修復しようとしたものでした。

「戦争の大義」、「精神の病」の話は横に置いて…、文禄の役で15万、慶長の役で14万の出兵をした秀吉です。あの天下分け目の「関が原の戦い」の参加数、東軍:10万、対する西軍:8万を比べると、如何に大規模な派兵を実施して明国を目指したのかが理解できます。李氏朝鮮が、その北辺に住む蛮族を「北狄、オランケ」と軽蔑していた女真:満州族が、ヌルハチの時代、明から独立して、清の前身である後金国を建国したのが1616年、慶長の役が終わってわずか20年後のことである。今まで軽蔑していた「北狄、オランケ」の支配を受けるのですから、これほどの屈辱はなかったことでしょう。中国の明朝はこうして倒れ、北夷である女真:満州族により清朝が起こります。

秀吉にそこまでの大局観はないと思いますが、もし彼が北狄の女真と同盟を結んでいたら…、とは、私も老人性誇大妄想(?)の始まりでしょうか。

※参考資料:「物語韓国史 (中公新書)」「文禄・慶長の役―空虚なる御陣 (講談社学術文庫) 」

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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