ポチョムキン

January 21, 2015

エカテリーナ大帝

 北ドイツ(神聖ローマ帝国 現在のポーランド)、プロイセン軍少将の娘に生まれ、ルター派の洗礼を受けた彼女は、14歳の時(1744)、ロシア皇太子妃候補の一人としてペテルスブルグに至り、猛勉強してロシア語を習得、ロシア正教に改宗、エカテリーナに改名して、皇太子:ピョートルとに結婚します(1744)。エカテリーナはロシア人になりきることで貴族・民衆の支持を徐々に獲得していったが、反対に、皇帝に即位した(1762)夫ピョートルはますますドイツ(プロイセン)にかぶれ、知的障害もあって、貴族・民衆の支持を失っていった。皇后となったエカテリーナはロシア正教会・近衛連隊の支持を得てクーデターを敢行、夫ピョートルの皇帝の地位を剥奪して幽閉、1762年、女帝として即位します。

 啓蒙思想の崇拝者でもあり、ロシアの後進性は農奴制にその原因があると見た彼女は農奴制改革を試みるが、その農奴制に立脚するロシアの貴族制、ひいてはロマノフ王朝の存立にも絡む問題でもあり、抜本的な改革には至りませんでした。全土を50の県に分割、3百ヶ所に小学校を設置、病院・診療所の設置などの改革を行ったが、何事も貴族=現状維持勢力との同意・妥協が必要でした。

エカテリーナ 60歳をすぎても愛人12人を持ち、政治には一切口出しはさせず、男すら手球に取った女帝ですが、ただ一人、前夫ピョートル皇帝を廃位・幽閉(暗殺?)のクーデターに加わった近衛連隊の一員、10歳年下の、グレゴリー・ポチョムキンと極秘裏に結婚、私的関係だけではなく政治・軍事面でも絶好なパートナーであり、対外拡張を推進してポーランド分割占領、黒海に南進してオスマン帝国と衝突:「露土戦争(1768〜1774、1787〜1791)」に勝利してクリミヤ半島を占領(1788)、セバストポリ軍港、これを母港とする黒海艦隊を建設したのです。「悪魔」と呼ばれたポチョムキンをパートナーに、エカテリーナは史上最大のロシア領土を築きました。

大黒屋光太夫 1791年、ペテルスブルグ、絶頂の女帝:エカテリーナがエルミタージュ宮で謁見したのが大黒屋光太夫でした。彼は伊勢国から江戸へ向かう駿河沖で暴風に遭い、苦難の末、遣日使節:アダム・ラクスマン一行の船:『エカテリーナ』に乗り、1792年、遭難して10年後、根室の地に生還したのです。鎖国を国是とする幕府との最初の外交接触でした。

同じ年、1791年、ポチョムキン死去。前後して、フランス革命(1789)が勃発、1793年にはルイ16世が処刑され、ヨーロッパ絶対君主制終焉、革命思想の流入、農奴の反乱、反体制家のシベリア流刑の時代を迎えます。そんな時代の1796年、エカテリーナは死去、34年の治世でした。

 時代は下って、1853〜1856年、「クリミヤ戦争」でロシアは破れ、西欧列強(英仏露)がこの戦争に目を奪われている間に、新興のアメリカはぺりーの対日砲艦外交に成功(「黒船来航(1853年) 幕末の始まり」)、クリミヤ戦争敗北で、ロシアは南進政策の舞台を、クリミヤ半島・バルカン半島から満州戦艦ポチョムキン・朝鮮半島に移します。これが、後の「日清戦争(1894-1895)」、「日露戦争(1904-1905」につながって行きます。1905年5月、「日本海海戦」にてバルチック艦隊が壊滅、続く6月14日、エカテリーナの愛人の名を冠したロシア黒海艦隊戦艦:「ポチョムキン」にて水兵に依る武装蜂起が発生、革命の狼煙が上がります。

 エカテリーナはロシアの文化・教育、後世のロシア文学発展の基礎を造った人であり、ボリショイ劇場、エルミタージュ宮殿、後の美術館は彼女の功績であり、ロシア人にとって彼女は、ピョートル1世と並び、大帝(ヴェリーカヤ)の称号が冠される女帝でした。彼女は日本の歴史にも少なからぬ影響を与え、ロマノフ家の血統でないどころか、ロシア人の血さえも引かない、我々の想像を絶する大帝でした。

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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