ペスト

April 16, 2020

散歩の途中<<31>> ジジィ二人のピクニック

その日は朝から冷たい雨と風で、楽しみにしていたテニスは中止でした。桜美林大学や町田市立忠雄図書館は閉鎖、隔週日曜日にやっていたバンド練習も中止と、毎週月・木曜日のテニスだけが唯一のストレス解消手段でした。先週木曜日、朝10時、コートに行くと、3面あるのですが、1面は見知らぬ顔ぶれがプレイしています。最近、我々グループも参加者が多く2面を借りています。そうこうしている間に、管理事務所に本部から通達の電話あり、緊急事態宣言を受けてか…、その日からコートの新規予約は受け付けないとのこと。図書館と同じく、テニスコートをはじめとする市の施設は1か月も前から閉鎖、多くのテニス難民が、今まで平和であったこの団地内UR運営のコートに押し寄せるようになったのです。

雨風は夜になってむしろ強まり、窓の外に見える八重桜も今年はこれで見納めです。

翌朝は前日の冷たい雨と風は嘘のような快晴。近くに住む友人から電話があり、「弁当とお茶を持ってハイキングに出かけよう!」という提案。彼は、以前は都内に住んでいたが大病して、空気の良い当地に疎開してきた(?)由で、数年前、ひょんなことで知り合うようになりました。以来、趣味・嗜好ではほとんど共通点がありませんが、逆に違いすぎて魅力を感じるのか、共にすることの多い間柄になっています。

IMG_2573コロナ禍で、通りは普段よりも人影が少ないようです。団地の端に在る「こぶし公園」に来まると人は居ません。この団地周辺ではこの「こぶし公園」が私の最も気にいっている場所で、何度か絵に描いています。写真(左)は公園の北から南を見たもので、ほぼ中央に葉を茂らし始めて濃い影を落とすのこぶしの木が見えます。

窪地を北へ上ると「新明神社」。過ぎるとなだらかに下り曹洞宗「養樹院」。IMG_2574さらに北へ、「小山田バス停」があり、ここは小田急町田駅(バスセンター 町27系統)及びJR淵野辺駅(淵21)行バスの終着停留所、折り返し地点です。現在、この地下深くではリニア新幹線のトンネル工事が行われているそうです。東京品川を出て最初の駅が相模原市橋本に出来る予定で、それに合わせて、小田急多摩線(多摩市唐木田終点)がJR横浜線相模原駅まで延伸され、この辺りに新駅が設置されると聞きます。新駅が完成すると、新宿まで30〜40分ぐらいで行けるのではないでしょうか。いつの事やらわかりませんが…。

IMG_2576ここを左折、西に0.7km歩いて「鶴見川源流の泉」に辿り着きます。友人の生まれは横浜だそうで、東京湾に注ぐ鶴見川河口(横浜市)では幅が100m以上もあり、昔は洪水氾濫を繰り返す暴れ川だったそうで、河口から42km遡った源泉である直径5mの小さな池を眺めて感慨深い様子です。IMG_2578

源泉の泉に来た道を「小山田バス停」近くまで戻り、今度は北へ向かいます。「正山寺」本堂の上に在る墓地を抜け、尾根伝いに東へ向かいます。写真には白い建物(NTT中継局)の右が小田急の新駅予定地、その後方遠くの稜線に冠雪の富士山、そしてその左に大山の連山が見えます。

IMG_2580尾根の途中で、二つに割れた谷の向こうに窪地に広がっています。江戸時代を研究する友人から聞いたのですが、この門がかつてこの辺りの庄屋を務めたお宅で、新しい建築ながら、細部まで昔の様式を再現しているそうです。実は右にBMWの入っているモダンなガレージがあり、興ざめと思い、被写体からはずしました。尾根道をさらに東へ進み、平安末期、小山田有重の居館跡「大泉寺」の北に位置する「トンボ池」に到着します。IMG_2581

団地を出発して2時間余り、尾瀬沼のように(訪れたことはありませんが)、湿地の上に渡した板廊下を渡り、窪地の階段を登ります。「トンボ池」を見下ろせる場所にベンチと大きなテーブルを備えたあづま屋があり、そこでテーブルを挟んで対面に座るのではなく、小津安二郎の映画のように、同じ方向を向いて並んで座ります。もちろん、新型コロナウィルス対策です。IMG_2582

お弁当を開くと会話は自ずとコロナウィルスの話題です。4月15日時点で、東京都全体の感染者数は2,466人、内1,540人が都内23区は判るのですが、都下では町田市が23人と断トツに多いのです。

日本の医療制度は世界最高レベルと言いながら、PCR検査実施数は人口1千人当たり、最高アイルランド105.9件はともかく、7位の韓国10.2件、10位の台湾2.0IMG_2583件に比べ、日本は0.7件と一けたも二けたも低いのが実情です。PCR検査には専門的な技術が必要で、欧米では簡単な検査キットや機器が承認されているが、日本では古い機器が多く手作業が多いと云います。韓国は当初から、ドライブスルー方式を採用するなど、彼我は雲泥の差があります。日本では、クルーズ船ダイアモンド・プリンセスの頃から何故PCR検査をしないのか大きな問題となっていましIMG_2587たが、その頃から検査体制は旧態依然たるものだったのは明らかでしょう。それを隠蔽しつつ(?)、日本政府は検査数を増やせば感染者が病院に殺到して医療制度が崩壊するとして、検査数を敢えて抑制、代わりに、クラスター対策を推進して来ました。逆にPCR検査をしなかったから、市中感染を見逃し、院内感染を招き、医療破綻となってしまった感があります。クラスター対策はすでに破綻、医療破綻は現実化しました。

◎ 安倍さんの「世帯当たり2枚のマスク」は論外。5百億のお金をかけるのであれば、そのまま医療に廻すべきです。

◎ 世帯当たり30万は条件が多く不評で、それに代えて、国民一律10万〜20万円を支給、貯蓄ではなく、中間層の実際の消費に寄与する給付を考えるべきであり、後日金持ちからは支給額を確定申告で返してもらえれば良い。その実施に時間がかかり過ぎ、即に国民が政府の救援を実感できるのは水道光熱費を一定期間無償とすることです。これは明日にも実施出来ます。

◎ 以前からすべきでしたが、日銀による貨幣の供給量を増やし、人為的にインフレに誘導、その返済を目的に赤字国債を発行する。既に、現在残高:897兆円(国民一人当たり713万円の借金)が在り、従来もそうして来たように、子や孫に返済を任せることにしましょう。

◎ 民間企業の困窮に鑑み、全ての国会(地方)議員・国家(地方)公務員の給料を一定期間減額する。

 14世紀、ヨーロッパを恐怖のどん底に陥れたペストは、神と人間の関係をも変えて、ルネッサンスを生み、一方では、労働力の減少は農民への土地の貸し出しに、農民の創意工夫に、結果的に農民の自由への目覚め、資本主義を生むことになりました。

 現在進行形のコロナ禍は、ヨーロッパにおいてそうであったように、新しい日本が生まれる大いなる陣痛かも知れません。これを機に、労働・就業、小売り・サービスあるいはキャッシュレス支払い・選挙投票、加えて遠隔治療等、社会・経済活動の革命的変化に繋がるかも知れません。

 日本の医療崩壊は既に破綻、もし感染した場合、我々高齢者は入院することは出来ない。今できることは、感染しないように自己防衛に専念する、というのが二人の認識でした。

 あづま屋ではお弁当は風もあり少し肌寒く感じましたが、移動して来たベンチは広々とした草地、風もなく、午後の日差しは暖かく、心地よい、ジジィ二人のピクニックでした。

Stay Home, Save Lives

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express01 at 21:01|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

August 09, 2015

胡椒と金

ノザキのコンビーフ 昔から釈然としないことが多いのですが、その一つがこれです。 中世の西欧では牛豚の肉は、もちろん干し肉、薫製などに加工されましたが、多くは塩漬けにして樽の中につけて置き、これを少量ずつ長い冬の間に食べつないだのです。冬が寒いとしても肉は傷んできます。腐りかけた肉に「胡椒」をかけると臭みが消え、一度「胡椒」の味を知るとそれなしではすまない必需品となったそうです。※蛇足ながら、牛肉の塩漬けは英語で「Corned Beef」、日本には戦後アメリカから入り、「コンビーフ」と呼ばれ、特に関東地方で大衆化しました。

pepper 胡椒をはじめとする香辛料の産地はインド西海岸、ジャワ、スマトラ、モルッカ諸島、マライ半島に限られて西欧からは遙かに遠く、その間、インド商人、アラビア商人、そして地中化に至るとベネチア、ジェノバ商人の手を経なければならず、この入手困難な貴重品:「胡椒」は当時金にも匹敵する価値があり、西欧を「大航海時代」へと突き動かす動機の一つに、自前での「胡椒」の確保があったそうです。しかし、わさび・唐辛子・和がらしを知る日本人の私からすれば、あればよりおいしいがなければないですむ、胡椒もたかが薬味、金にも匹敵する、とはグルメじゃない私だけの思いか…、想像もできないほどにばかげた話に聞こえます。

ペストマスク 11〜12世紀、十字軍のエルサレム派遣は最初のペスト(黒死病)流行をヨーロッパにもたらしましたが、13世紀に入ると、エルサレムのさらに東からモンゴル軍がやってきます。中国雲南省の風土病と思われていたペストはモンゴル軍に感染、ユーラシア大陸の大部分を席巻したモンゴル軍(「キプチャク汗国」)は、1346年のクリミア半島、ベネチアとジェノバ商人(ユダヤ人)の籠城するカッファを包囲、ペストに感染したモンゴル軍兵士の死体を城内に投棄してペストに感染させ、ベネチアやジェノバに逃げ延びた彼らから西欧の腺ペストの大流行となり、その間(1347〜53)、人口の1/3が死亡するという、人々にとっては全く異次元の、得体の知れない恐ろしい病気でした。実は、当時のこの腺ペストの予防・治療に有効と考えられていたのが胡椒だった訳です。この年になって初めて納得できる話に巡り会うことができました。上の絵は奇怪なマスクをかぶった当時の黒死病専門医師

 時代を遡って、東の端に目を向けます。「白村江の戦い(663)」で唐・新羅連合軍に敗れ、唐(中国)との冊封関係を断ち切った日本。唐の侵攻も恐れられる中、国家安泰・五穀豊穣を祈願して建立されたのが東大寺大仏であり、鍍金(メッキ)のための金が不足する事態をすくったのが陸奥国涌谷(わくや)で日本で初めての砂金産出でした(749)。以降、長い戦乱を経て、砂金産地を押さえ、馬や毛皮などの様々な物資を独占した奥州藤原氏の時代を迎えます(1087〜1189)。おそらく、独自の海外交易を行い、戦乱の京を尻目に、中尊寺金色堂に代表される平泉浄土教文化の栄華は当時カセイ(Cathay)と呼ばれた中国南部(杭州)にも聞こえていたはずです。

Marco Polo

 モンゴル支配下の中国(元(1271-1368))に滞在したマルコポーロは「黄金の国ジパング」、日本の情報を中国南部で得たと思われ、帰国後、ベネチアとジェノバ間の戦争捕虜(「メロリアの戦い(1298)」となりその獄中で口述筆記された『東方見聞録』に在る「莫大な金を産出し」や「宮殿や民家は黄金で出来ている」とは、かつて存在した、この奥州藤原氏平泉文化の事を聞いたのであろう。ついには、「キオッジアの海戦(1378〜1380)」でベネチアが勝利、東地中海貿易を独占します。敗北したジェノバはジブラルタル海峡の西、イベリア半島経由で、当時毛織行で繁栄したフランダース(現在のベルギー)との交易に活路を求めてポルトガルに接近します。

 ポルトガルはジェノバの商業・航海技術を引き継いで、いよいよ大西洋に船出することになります。1415年、北アフリカのセウタを占領、続いて象牙海岸・黄金海岸を経てガーナの地に城塞を築いて金や奴隷の交易を行い、1497年にはバスコ・ダ・ガマが喜望峰を周りインド航路を開拓、カルカッタ、マラッカを越え、マカオ、1541年には豊後に辿り着きます。かつては、インド商人、アラビア商人、そして地中海に入るとベネチア、ジェノバ商人の手を経ていた胡椒取引がポルトガル一手に集約されたのですからその利益は莫大なものになったことでしょう。

 1492年、『東方見聞録』の「黄金の国ジパング」に魅了されたコロンブスは大西洋を西へ、苦難の末到達したのが現在のエルサルバドル、これをインドと誤認、さらに奥地を探検したが、「黄金の国ジパング」を発見することは出来ませんでした。これが、西欧にとっての、新大陸・新世界の発見でした。

 胡椒と金、西欧を「大航海時代」に突き動かした大きな動機なのですが、その背景には13世紀のモンゴル帝国の勃興を見逃すことが出来ません。ユーラシア大陸の大部分を統一、東西を結ぶ交通路の整備・治安を維持、商人の保護に努め、信仰には寛容で、人種・民族にかかわらず能力のある者を登用して、モンゴル帝国が完成され、東の中国文明と西の地中海文明が結ばれることになったのです。ほんとうの世界史はここに始まったといえるでしょう。

 奇しくも、同じ12世紀、ユーラシア大陸が東の海に落ち込むところ、「黄金の国ジパング」では武士が台頭、その後約7百年、武士の世の中が続きます。

 ※参考資料:地球日本史〈1〉日本とヨーロッパの同時勃興

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express01 at 10:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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