タタール

March 22, 2014

何かと因縁のウクライナ、クリミヤ半島

私の過去のブログを振り返ると、ウクライナ、クリミヤ半島に縁のある記事が多いのには書いた本人も驚いてしまいます。

Black_Sea_map
 
1185年、ウクライナ、キエフのイーゴリ候は、 ポーロヴェツ遠征を行い、その時の散文記録:『イーゴリ遠征物語』は12世紀 中世ロシア文学の傑作と云われ、これを原作にアレクサンドル・ボロディンによって書かれたのがオペラ:『イーゴリ公』です。日本では『ダッタン人の踊り』というタイトルが親しまれてきましたが、正しくは『Polovitsian Dances』です。

1223年、ポーロヴェツの地のはるか東より、忽然と、全く未知の軍団が来襲、彼等、モンゴル系遊牧民彼等は「タタール」と呼ばれました。ロシアではモンゴル系であろうがトルコ系であろうが、異民族・異教徒を「タタール」と呼ぶそうです。もの知りな日本人が『ダッタン人の踊り』と訳したのでしょう。1243年、モングル軍はこの地にキプチャク・ハン国を建てますが、ロシア人はこの異民族支配を「タタールの軛(くびき)」と呼びます。ニュースで、「クリミヤ・タタール」という先住民族の存在を知りました。スターリンの時代には、ナチスドイツに通じているという嫌疑でに強制移住させられました。現在一部は帰還しているが、まだ15万人が中央アジア諸国に暮らすといいます。ついでに、あの「タルタルソース」の語源でもあります。

そのエカテリーナ2世の時代、オスマン帝国との露土戦争(1768年-1774年及び1787年-1791年)に勝利してウクライナの大部分やクリミア半島を併合します。1782年、伊勢国の船頭頭:大黒屋光太夫以下を乗せた『神昌丸』は暴風に遭い、アムチトカ島へ漂着します。苦難を乗り越えて、シベリヤ大陸を横断、1791年首都:サンクトペテルブルクに至り、エカテリーナ2世に謁見、1792年、遣日使節:アダム・ラクスマン一行の船:『エカテリーナ』で根室の地に生還します。

1853〜1856年、クリミヤ半島を舞台にロシアとオスマン帝国及びその同盟国:フランス、イギリスの戦い(「クリミヤ戦争」)で、ロシアは破れ、西欧列強がこの戦争に目を奪われている間に、アメリカはぺりーの対日砲艦外交に成功(黒船来航1853年)。この戦争の影響で、ロシアのプチャーチンの日本到着がペリーより一歩遅れてしまいます。クリミヤ戦争敗北で、ロシアは南進政策の舞台を、黒海・バルカン半島から満州・朝鮮半島に移します。

1895年、三国干渉の圧力により、日本は日清戦争に勝利して獲得した遼東半島をしぶしぶ中国に返還、ロシアはそれを租借して旅順港・要塞(北緯39°)を建設します。今回の舞台、クリミャ半島セヴァストポリ(44°)、ウラジオストク(43°)、ナホトカ(42°)しか不凍港を持たないロシアにとっては最南端、「日露戦争」(1904-1905)では日本はその奪還に6万人の死傷者という大きな犠牲を払うことになります。

オデッサの階段_乳母車「日本海海戦」によってバルチック艦隊が壊滅して1か月後、1905年6月、オデッサに停泊中のロシア黒海艦隊(クリミア半島のセバストポリが母港)の戦艦:ポチョムキンで反乱が発生します。第1次ロシア革命における最も重要な事件で、エイゼンシュテイン監督がこれを題材に作ったのが映画:『戦艦ポチョムキン(1925)』です。よく知られている話ですが、「オデッサの階段」のシーンは映画:『アンタッチャブル』で、エイゼンシュテインへのオマージュとして、使われています。

ヤルタ会談
時代は更に下って第二次大戦末期、敗色濃い日本は「日ソ中立条約」に一縷の望みをかけ、ワラにもすがる思いでソ連に連合国との和平の斡旋を依頼しますが、1945年2月、クリミヤ半島のヤルタで行われた通称「ヤルタ会談」にて既にスターリンは対日参戦を約束していました。同年8月、「日ソ中立条約」の延長放棄して参戦、広島・長崎に原爆が投下され、日本は敗戦を迎えます。結果、北方四島はソ連に占領され、現在に至っています。

1986年、現在のウクライナ、チェルノブイリ原発事故、死亡:4,000人、強制移住等:数十万人以上、この事故から5年後の1991年、ソ連は崩壊します。この「ソ連崩壊」が北方領土問題解決の絶好の機会だったはずですが、日本は無策(外務省内部の問題?)で指をくわえていただけでした。

2011年3月11日東日本大地震での死者・行方不明者は2万人を越え、東電福島第一原発事故発生で15万人前後が避難(=移住?)、今日に至っても完全な収束には至ってはいません。

そして今年、2014年には、何か因縁の在るかのごとく、クリミヤ半島の東、ソチでの冬季オリンピック」、モスクワオリンピック(1980)を西側諸国にボイコットされた当時のソ連、現在のロシア、プーチン大統領のメンツをかけた開催でした。開会式には欧米諸国首脳は欠席しましたが、安倍首相は出席、2月7日「北方領土の日」の式典に出席した後に出席したのがミソでした。プーチン大統領は3月18日、ロシア南進政策の要衝:セバストポリの在るクリミア半島のロシア併合を宣言しまた。

中国韓国に続いて、靖国神社参拝ではアメリカさえも敵に回して外交失点の続く安倍首相、対露外交を推し進め東京オリンピック組織委員長となった森元首相とともに、皆が欠席したソチオリンピック開会式に出席して、対露外交で得点を大きく稼ぎたいところでした。クリミア半島のロシア併合で事態は急転、ロシア制裁に走る欧米に歩調を合わせなければなりません。かと言って、アメリカには軍事行動をとる決意もなく、欧米各国の歩調はバラバラ、次回G8会議は6月にソチで開かれる予定です。どことなく、第二次大戦末期と似ていますが、安倍首相は欧米諸国と最低の歩調は合わせつつも、ここは断固として踏みとどまらなければなりません。

浅田真央森元首相の発言:「大事なときには必ず転ぶんですよね」、これは浅田真央ちゃんではなく…、安倍首相に関して言っているのだ、とはある識者の深読みです。

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December 25, 2011

タタールもしくは韃靼(ダッタン)



聞いたことがあるでしょう、『ストレンジャー・イン・パラダイス Strenger In Paradise』。ここではトニー・ベネットが歌っています。 実はこの曲、ご存じの方も多いとは思いますが、オペラに元歌があり、日本では長い間、『ダッタン人の踊りと合唱』という邦題が親しまれてきましたが、正しくは『ポーロヴェツ人の踊りと合唱 Polovitsian Dances and Chorus 』と呼ぶそうです。



Alexander Borodinこの曲は、アレクサンドル・ボロディンによって書かれたオペラ:『イーゴリ公(1890初演)』の第2幕の序曲として演奏されます。このオペラの原作は、12世紀末、中世ロシア文学の傑作といわれる『イーゴリ遠征物語』でした。

恥ずかしながら…、これを知ったのはつい最近です。
寒い冬が始まったばかりで恐縮ですが…、奈良東大寺二月堂の「お水取り」は春を告げる風物詩として有名です。…が、それ以上の事は全く知りません。関西に住む友人が、3月12日の夜(13日早朝)に行われる秘密の儀式:「達陀(だったん)」を見学する機会に恵まれたそうです。秘儀:『達陀(だったん)の踊り』は極めてユーモラスらしいのですが、「達陀(だったん)」というのは「焼く」という意味の梵語(サンスクリット語)でゾロアスター教にも関係か…、語源も意味も不明な、謎に包まれた儀式です。…が、儀式の持つ異国情緒から短絡的に、「達陀」=「韃靼」では?…かってにイメージを膨らまして、辿り着いたのがこの『ダッタン人の踊り』、どこかで聞いたメロディでした、というお粗末な話でした。同じようなイメージを抱いている人が多いようですが、その可能性はほとんど『0(ゼロ)』です。

元へ。現在のウクライナ、キエフではルーシー(諸侯)が分裂・割拠していました。1061年、ポーロヴェツ人(トルコ系遊牧民族)が侵入、の記録が初めて現れました。以降、1210年までの150年に、約50回もの来襲があったそうです。そんな中、イーゴリは、1185年、 ポーロヴェツ遠征を行います。その時の散文記録が『イーゴリ遠征物語』です。 しかし、ルーシーとポーロヴェツ人との関係は、当初の敵対一辺倒から、互いに内部分裂、敵対と同盟を繰り返し、ポーロヴェツ人が徐々にルーシー社会に溶け込んで行きます。

1223年、ポーロヴェツの地のはるか東より、忽然と、全く未知の軍団が来襲、ルーシーとポーロヴェツ人との連合軍はあっけなく敗北、1236年に再びチンギス・ハンの孫:バトゥの率いるモンゴル軍が来襲、彼等は、モンゴル軍の支配下、ポーロヴェツ人はその先鋒としてハンガリーまで西進、各地で土着していきます。ルーシーの人々は、ポーロヴェツ人がさらに東からやって来た彼等をタタールと呼んでいたのに習って、モンゴル系遊牧民を「タタール」と呼んだのでしょう。ポーロヴェツは別名(東洋史では):キプチャック、モンゴル軍がこの地に建てた国がキプチャク・ハン国です。その後200年間、モンゴルへの服従と貢納を強制されることになり、ロシア史では「タタールの軛(くびき)」と呼ばれます。

中国、漢民族王朝の明の時代、元以来のモンゴルの呼称:「蒙古」を止め、それ以前のモンゴル系遊牧民・夷(えびす)の総称、あるいは蔑称、であった「韃靼」を用いるようになりました。後に、明に代わって女真族(後の満州人)が興した清は、モンゴルの呼称を「蒙古」に戻します。さすがに、現代の漢民族国家:中華人民共和国はそれをもう一度ひっくり返したりはしません。

この「タタール」という言葉、ロシアでは東洋系異民族・異教徒の総称で、モンゴル系であろうがトルコ系であろうが「タタール」で一括りにされてしまいました。『ポーロヴェツ人の踊りと合唱』を日本に紹介するtartar straitに際し、これを踏まえて…、ポーロヴェツ人は「タタール(人)」 → タタール(人)は「韃靼(人)」、ということで『ダッタン人の踊りと合唱』の邦題が付けられたようで、今に至ってもこの邦題に愛着を持つ人が多いようです。

樺太(サハリン島) とユーラシア大陸(北満州・沿海地方)との間にある海峡を、日本ではその発見者に因んで間宮海峡と呼びますが、諸外国では、この海峡をタタール海峡(英語:Strait of Tartary or Tatar Strait、ロシア語:Татарский пролив、中国語:韃靼海峡)と呼びます。

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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