カスバの女

June 15, 2012

白河の関

平安時代、都人(みやこびと)にとっては陸奥(みちのく)ははるか彼方の異国の地、異国情緒を感じる、唐突ですが…、言わば『カスバの女』(演歌調でありながらエキゾチック)のような地域だったようで、山城(京都近郊)、大和(奈良)に次いで多く歌われています。

西域_2『街道をゆく − 北のまほろば』で、司馬遼太郎が言うには…、「唐の詩人がときに憧憬した西域までも、平安貴族は好んだ。ただ、どう想像していいかわからず、レールが転轍するように、関東のかなたにひろがる陸奥(みちのく)の天地を連想した、と私は考えている。」 

平安貴族は教養が高かったのですが、どうやって彼等は「西域」と「陸奥(みちのく)」を重ねて連想することが出来たのでしょうか?彼等の学んだ中国語(漢文・漢字)でく西域の情景・イメージを理解し、それを自らの和歌で伝えたのでしょうか?出来たとしたら、どの歌がそれなんでしょうか?和歌の知識は全くないのですが、彼等の憧れた「西域」が「陸奥(みちのく)」に投影されているのであれば、彼等の歌に何らかの形で反映されているはずですが…、そんなことでもないようです。

陸奥(みちのく)への憧憬・異国情緒、陸奥(みちのく)趣味は、征夷大将軍:坂上 田村麻呂(758-811)は蝦夷討伐の遠征から凱旋(801-804)し、多くの陸奥(みちのく)情報が京にもたらされたこともその背景にあったと思われます。あきれた話ですが、『源氏物語』の主人公:光源氏のモデルの一人といわれる、源融(みなもとのとおる 822 - 859)は陸奥国塩釜の風景を模して六条河原院を造営、塩釜を模すための塩を毎日、難波の海(大阪湾)の汐を汲んで運ばせたと伝えられます。かと言って、如何に平安貴族に陸奥(みちのく)への憧憬・異国情緒があるにせよ、陸奥国塩釜の風景を模したり汐を汲んで運ばせることが、唐の詩人が憧憬したことに繋がるなど想像も出来ません。「西域」への憧憬・異国情緒と「陸奥(みちのく)」へのそれは全く別物ではないでしょうか。

平安中期、能因(のういん 988-1058?)が、平安末〜鎌倉初期に、能因の跡を追って西行は1147年と1186年の二度、そして江戸期には、二人の足跡を追って、芭蕉は1689年、陸奥(みちのく)を旅します。
古代東海道
平安時代の彼等は京を発ち、鈴鹿峠、 小夜の中山(遠江国) 、足柄山を越えて坂東(相模国)に入り、横山(武蔵国 ※筆者:イサオの住む町田市と多摩市との境)を北上、府中を通って、安中(上野国)にて東山道に入り、白河関(下野国)を越えて陸奥(みちのく)へ入りました。ある役人の日記では、9月15日に京を出発、11月17日に白河関を越えて陸奥へ入ったそうで、赴任地である多賀城(陸奥)に到着したのが年の暮れ、その間3ヶ月半、さぞ困難・難渋の旅だったでしょう。

その白河の関、芭蕉の訪ねた江戸期(1689)には関の役割はかなり前に終わっており、その関所跡を特定することさえ困難でした。陸奥(みちのく)は、もはや未知の国ではなくなっていました。白河藩主:松平定信は、白河の関の場所を研究して、旗宿という地に在る白河神社を白河の関跡と断定して今日に至っています。空堀が巡らされており、8〜9世紀頃まで蝦夷の南下を防ぐ「砦・柵」、平安末期までの奥州藤原氏の領土の境、としての白河関の役割から言えば妥当な決定でした。
白河関 sketch_2
白河関(境の明神 陸奥側)しかし、個人的には、旧陸羽街道(国道294号)に沿って並ぶ「境の明神」二つ、下野国側の関東明神(住吉神社)と陸奥国側の奥州明神(玉津神社)、これこそが白河関跡にふさわしく見えてしまいます。

深い森

『陸奥(みちのおく)』へ、『未知の世界』へ、『別の世界』へ、自分の『内部世界』へ通じる入り口が『白河の関』でした。
※新世界(New World)へ通じる入り口は地中海の西の端:『ヘラクレスの柱』

何が平安貴族を陸奥(みちのく)への憧憬・異国情緒・趣味に駆り立てたのかは判らず仕舞いです。『カスバの女』は判るのですが…。

※ Amazon: 「北のまほろば―街道をゆく」 「カスバの女」

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express01 at 17:50|PermalinkComments(2)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

April 16, 2012

ここは地の果て〜♪

ここは地の果てアルジェリア〜♪…、この歌詞が好きです。

人は「果て」、「端」と言う言葉に惹かCabo_da_Rocaれるようで、『ユーラシア大陸の最西端』と言えば、ポルトガルのロカ岬が、ユーラシア大陸の西の最果ての地、石碑には叙事詩の一節「ここに地終わり海始まる」が刻まれています。「最果ての地」、「最端の地」、と言えば辺境の地と同意義であると勝手に思いこんでしまいますが、このロカ岬、地図で見ると首都:リスボンから西へわずか20kmの距離です。

時代は、またもや、NHK大河ドラマ『平清盛』の時代、平家に莫大な富をもたらした日宋貿易、日本からの主要輸出品の一つが硫黄、その産地が鬼界ヶ島(=薩摩硫黄島)でした。日本の東の最果ては津軽半島東部の「外ヶ浜」、そして西の最果てが硫黄の産地と同じ「鬼界ヶ島(=薩摩硫黄島)」でした。国の辺境を指す代名詞であり、前者は蝦夷の住む土地、穢れを放逐する土地=流刑地と考えられていました。一方では、同時代の西行を始めとする多くの文化人が強い郷愁や憧憬を抱くのも不思議です。

1177年、後白河上皇を黒幕として、僧都俊寛(そうずしゅんかん)らが 謀反を企て 、『鹿ヶ谷の陰謀』と呼ばれます。事に及ぶ間もなく鎮圧され、首謀者の3人は西の最果て:鬼界ヶ島(=薩摩硫黄島)に流されます。…と言っても、3人にとって鬼界ヶ島は、決して絶海の孤島・辺境ではなかったはずです。硫黄の産地、積み出し港として、日宋貿易、朝鮮半島・琉球を結ぶ交易ルートにおける重要拠点の一つでした。朝鮮王朝初期の政治家:申 叔舟(シン・スクチュ1417−75)が著した『海東諸国紀』(1471年)には、この交易ルート上に鬼界ヶ島が明記されています。
海東諸国紀 鬼界が島marked

後に恩赦により平康徳、藤原成経は釈放されますが、俊寛だけは許されず島に留め置かれます。同じ不遇の身であった3人のうち2人が救われて、たった1人残される、これはもはや絶望です。2人を乗せた船が出るに及んで、俊寛は舟にすがって海の中まで追ってきて、終いには渚に倒れ伏し、幼児が母を慕うように、足摺(じだんだを踏むこと)して、泣き叫んだが、舟は遠ざかって行くだけでした。後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあった僧侶、打倒平家を合い言葉に、謀反を企てた首謀者の一人、…にしては、俊寛の取り乱し様はあまりにも哀れ・惨めです。硫黄島港ライブ映像 「置き去りにしないでくれーっ!」、 遠ざかる舟を追いすがって渚を走る俊寛の後ろ姿(彫像)が見られます。

『カスバの女』、私は1970年頃のリバイバルでしか知りません。1955年、映画の主題歌あるいは挿入歌として、エト邦枝の歌として発表されたが全く売れなかったそうです。おそらく、 「アルジェリア独立戦争」 を意識して作られたのでしょうが、その映画も頓挫し、歌が復活するのは70年学生運動の頃でした。その後の俊寛に、この曲:『カスバの女』を贈りましょう。カントリーではありません。



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express01 at 22:53|PermalinkComments(2)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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