はこねせんそう請西藩

December 07, 2014

やることが後手後手、遅すぎます

 箱根の山、7月には西坂を、三島駅前から歩いて芦ノ湖:箱根関所に至り、8月には東坂を、小田原駅前から峠を目指しましたが旗宿で終え、何れも峠を越えて反対側には到達することが出来ませんでした。我々が歩いたのは徳川幕府が作った道、いわゆる「東海道」で、後で知ったのですが、鎌倉幕府が作った「鎌倉古道」と呼ばれる道があるそうで、前者は谷伝いで通行よりも防御の為、後者は尾根伝いで、あくまで京都・鎌倉間を最短に通行する為のもので、同じ関東にありながら、鎌倉幕府と、その250年後の徳川幕府両者の戦略眼の違いは面白く感じます。いずれにせよ、足柄山・箱根峠は関東・あずま(東)を、古くは朝廷勢力から、幕末には西国の侵攻を阻止する天然の要害でした。

 「鳥羽伏見の戦(1868)」を勝利した新政府軍は御三家の一つ尾張藩、幕府直轄の駿府を何の抵抗もなく通過、いよいよ箱根峠に迫ります。先鋒が関所に至り、兵を関前に整列、ラッパを吹き鳴らせます。ラッパは早朝の静まり返った山に響き、関所を守備する小田原藩兵は慌てふためき、外に整然と官軍の兵が居並んでいるのを見て仰天する有様でした(海音寺潮五郎著:『西郷隆盛 王道の巻』より)。終始、先鋒隊長:渡辺清左衛門(大村藩)の気迫に押されぱなし、拍子抜けの引き渡しでした。


遊撃隊の墓 新政府軍に倣って三島駅から6時間、17.4kmを歩いて箱根関所に至り、140年前には本当に石畳で整備されていたのか?、と疑うような悪路、ここを大砲を引いて登ったとは到底信じられません。小栗忠順・榎本武揚らは主戦論を主張、新政府軍を箱根以東に誘い込んだところで、幕府海軍が駿河湾から攻撃して敵の退路を断ち、陸軍が一挙に敵を粉砕する…と聞いたことがあるのですが、そんな形跡も見当りませんでした。7月に同行の友人:Akiraさんに褒められ、調子に乗って臨んだ8月の東坂、西坂に比べ街道整備が悪いのが理由ではなさそうですが、完全にばててしまいました。お陰で、北条氏の菩提寺:早雲寺から旗宿にかけて幾つか、なにやら小田原藩内での佐幕派・勤皇派の小競り合いがあった由の標識を見かけたのですが…、後に、Matさんにもらった中村彰彦著:『脱藩大名の戊辰戦争』を読んで、この場所で「箱根戦争」と呼ばれる戦いがあったのを知りました。

譜代の大藩:小田原藩十一万石、本来ならば箱根関所で新政府軍の東進を絶対阻止しなければならないのですが、藩主の大久保忠礼(ただのり)は藩内の佐幕勢力を一掃、彼等を難なく通過させ、小田原藩を新政府軍に参加させたのです。江戸城の無血開城がなり、慶喜は上野寛永寺に謹慎します。ここに来て、徳川家を見限ることを潔しとしない者達も確固として存在したのでした。もちろん、そうでない藩もありましたが…。

出撃する林忠崇 佐幕の風土、上総の譜代大名:請西(じょうざい)藩主:林忠崇(ただたか)もその一人でした。「上総義軍」を名乗り、藩主以下70〜80人は脱藩決起、江戸を脱走して木更津に現れた旧幕府歩兵遊撃隊(伊庭八郎・人見勝太郎)と合体、館山を出て相模湾を西へ渡り伊豆・相模を制して東海道の佐幕諸藩を糾合する作戦をたて、幕府海軍軍艦:大江丸で真鶴港に上陸、小田原藩に協力を求めます。

藩主の大久保忠礼(ただのり)は謹慎中の慶喜とは従兄弟同士であるが、藩内は佐幕・勤皇派に別れ、忠礼も腰がふらついて、忠崇に会おうともせず、両家老の口から婉曲に協力を断った。しばらくすると、上野彰義隊決起の報、一日で壊滅してしまったとは知らずに、上野の彼等に呼応しようと、箱根関所を守る小田原藩兵の間に戦闘が始まったが、小田原在宿の新政府軍軍監が威丈高で粗暴だった為、小田原藩はにわかに藩論を佐幕に変え、この関所を巡る戦闘も中止となった。手の平を返したように、忠礼は遊撃隊を小田原城内に迎え入れ、佐幕派藩士たちの目には遊撃隊の行動は「小田原の義挙」に映ったのです。

箱根関所失陥の情報は江戸の大総督府に伝えられ、小田原藩へは問罰軍が派遣されることになります。たまたま江戸に居て問罰軍の派遣をいち早く知った小田原藩士が、彼は一日で上野彰義隊壊滅の事実を知っており、急いで小田原に帰り、主君:大久保忠礼に勤皇を推め、忠礼は新政府への帰順を認めて謹慎したのでした。小田原藩の藩論は二転三転どころか四転、佐幕〜勤皇〜佐幕〜勤皇、もちろん彰義隊に呼応しての決起は腰砕けとなりました。「堂々たる十一万石中また一人の男児なきか」とは小田原城を去る伊庭八郎の言。

 

 遊撃隊と小田原藩は決別、両軍は間もなく交戦状態に入り、なかなか決着がつかないので督戦していた問罰軍が戦闘に参加して、遊撃隊は箱根関所に撤退、間道を通って熱海へ敗走、網代にて首尾よく大船3艘を調達して相模灘を横断、上総館山港に帰投します。館山を出てわずかでしたが、戦いはその舞台を東北に移します。


ここに至っては、全く大勢に影響のない戦い、幕軍のやることは全てが後手後手、遅すぎます。その原因は詰まるところ徳川慶喜、まさに江戸幕府を早く終わらせるために生まれてきた人物でした。
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express01 at 19:15|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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