Travel

February 28, 2019

「渡り鳥」、「寅さん」、もうすぐ「徘徊老人」?

男鹿半島 東北を旅行中の友人からLINEメッセージ(?)をもらいました。伊賀上野(伊賀市)に住む友人(大学時代、同じゼミ)が共通の友人で、彼らは京都で同じ下宿に居た間柄の由。毎年上野天神祭り(10月最後の土・日曜日)に合わせて友人宅で催される同窓会(?)に途中から私が参加させてもらうようになり、今やこの同窓会は、場を提供してもらっている友人宅には大変ご迷惑をおかけしているのですが…、参加者の年中行事となっています。そこで知り合ったのが彼で、同じ大学でしたが、在学中は互いに知る由もありませんでした。出身は新潟、もっと近い東京にいくらでも大学があったはずなのですが…、ワンダーフォーゲルに4年間を費やし、卒業後は将来故郷に帰るべく、東京の企業に就職したそうです。

 私が上野天神祭り同窓会に初めて参加したのが2012年10月、6年前。何処の祭り上野天神祭_2も、それを担う若者が都会へ出て行ってしまい、山車を引く人すらも満足に集まらない状況は上野天神祭りも同じです。家族を小田原(南足柄)に残し、世話をするために彼は新潟で両親と同居、新潟からはるばる車でこの同窓会に参加するだけでなく、上野天神祭りにも山車を引いて参加。今や、『越乃寒梅』を土産に、山車を引き、地元の住民からも大いに当てにされる存在となっています。

軽四4WD_1 去年10月の同窓会の帰りに、彼の車に同乗させてもらったのですが、お父さんは亡くなり、お母さんは新潟に住む彼の妹さんに任せて…、彼は小田原(南足柄)に帰ってきたそうです。長年の両親の世話、新潟と小田原の二重生活から解放されたからか、『ワンダーフォーゲル(=Wandervogel ドイツ語で「渡り鳥」の意)』になりきることを宣言、軽四の4WDワゴンを購入、日本各地を訪ね、夏は登山、冬は見知らぬ土地を訪ねる。もちろん車中泊、地元の温泉・銭湯に浸かり、地元の食事と地酒…、と私には出来そうもない夢を語ります。以前は、月の終わりの10日間だけでしたが、今は逆、10日間が在宅で、20日間は「渡り鳥」の由。あるいは「寅さん」、悪く言えば「徘徊老人」…。

 2月初めから私の絵画展が開かれていますが、10日(日)の夜、6時ごろだったでしょうか…、彼から電話「近くまで来てるんだけど…」。「何処?」と聞くと、「家の前」。外に出てみると、長い旅路を物語る汚れた軽四ワゴン、同道の静岡から来た彼の友人に初対面の挨拶。「今日は日曜日で閉店」、小田原経由で静岡まで帰らなければならず、二人は団地内のスーパーで食品を買い込んで、あわただしく出発していきました。予定通り、15日に彼は現れ、喫茶店『嵐が丘』では、馬子にも衣装の額装された私の絵を見てもらうことが出来ました。店内では、私がまだ紹介していないのに、店の人・お客さんに親し気に話しています。ちょうど、上野天神祭りの山車を引いているように…。
第2回絵画展案内状+遼太郎記念館

 22日、彼が、前回、挨拶だけに終わった静岡の友人とともに『嵐が丘』に現れ、私の絵を楽しんでもらうことが出来ました。感心した様子で、「こんなに臨場感のある絵が実況見分で使われたら楽だったろうに…。」 後で聞くと、ワンダーフォーゲルの同期、元静岡県警捜査官(?)、どうも絵手紙の展示会と思っていたようです。わずか30分の滞在でしたが、再び北へ向かう二人がわざわざ時間を割いて寄ってくれたことに感謝、「はなむけ」にコーヒー代は私がごちそうすることにしました。

 彼らは小山田の『嵐が丘』を発ち、多摩の横山を超え、武蔵野(関東平野)鎌倉街道を北へ、上野国田沼から下野国日光に入り、鬼怒川温泉から陸奥国、現在の福島県会津若松、大内宿、喜多方、米沢、羽州街道(?)を北上すると云います。何やら、イザベラ・バードが踏破したルートとほとんど同じです。

Isabella Bird_1 大英帝国に生まれたイザベラ・バード(Isabella Lucy Bird, 1831 - 1904)は脊椎に難病を抱え、医者の勧めで、世界旅行をするようになり、紀行作家として活躍します。1878年と云えば、「西南戦争」が終了して1年、政府側を率いた大久保利光が暗殺された年、内戦の火種がまだ冷めやらぬ時、戊辰戦争で敗者側に落ちた陸奥国・出羽国を縦走、海峡を越えて、北海道まで走破、のちに『日本奥地紀行("Unbeaten Tracks in Japan"』を著した。如何に「太陽の沈まぬ」と喩えられるビクトリア王朝時代の大英帝国の後ろ盾あるにせよ、47歳の女性が成し遂げたことに驚嘆せざるを得ません。金谷Cottage Inn
 
 季節が良くなったら、彼女ゆかりの日光「金谷ホテル(Kanaya Cottage Inn」を皮切りに、じっくりと、彼女の道程を辿ってみようではありませんか。

※参考資料:日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)
      イザベラ・バードの東北紀行[会津・置賜篇]: 『日本奥地紀行』を歩く


Appreciate Your Support▼ご支援をお願いします
     にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ  にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ       


express01 at 16:03|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

February 02, 2019

第2回絵画展のご案内 

190201_絵画展案内状

 見慣れたと云うか、最近、少々見飽きた小山田荘の風景を後に旅に出ました。見飽きたとは言いすぎ…、見る目を変えてみようと、リフレッシュを目的に関西に行ってきました。芭蕉は150日をかけて「おくのほそ道」を歩いたと云います。それに比べれば、私の4泊5日の旅行はつましいものです。

181026_司馬遼太郎 初めて、東大阪にある司馬遼太郎記念館を訪れました。館内は写真撮影禁止。訪問者は数えるほど、安藤忠雄設計の地上1階から地下2階まで吹き抜けの館内を、無謀にも2時間以上もかけてスケッチ、建築を志す学生気分に浸ることが出来たのは幸運でした。

 多くの近江商人を輩出した東近江、西武グループの創設者 堤康二朗も近江鉄道愛知川(あちがわ)出身でした。このこともあって、近江鉄道はれっきとした西武グループの一員です。米原からJR東海道線の内陸側を平行して、彦根・多賀神社・愛知川・五箇荘・近江八幡・日野そして貴生川(きぶがわ)でJR草津線に連絡します。

沿線の日野は信長・秀吉時代のキリシタン大名、 洗礼名 レオン、利休七哲の一人、蒲生氏郷(がもううじさと1556 – 1595)が生まれています。

彼の5代前の当主 蒲生貞秀(さだひで1444 – 1514)は武将としてだけでなく、日野菜歌人としてもすぐれた人物でした。 日野の地に発見された根が淡紅色の野菜(カブ)を漬けたところ非常に美味で、京に住む公家に献上すると、その美味であること天皇にまで知られるようになりました。このカブは「日野菜」、日野菜の漬物は「日野菜・桜漬け」と呼ばれ、蒲生氏上洛の際は必ず献上したそうです。

私を、貴生川駅で拾ってくれた友人は京都人、近くで畑を借りて、日野菜を育て、日野菜漬けを作るのが彼の趣味の一つ、頂いてみると、なるほど…、ご飯がすすみます。

もう一つは伊賀鉄道、城下町 伊賀市中心部とJR関西線 伊賀上野・近鉄大阪線 伊賀神戸(いがかんべ)を結ぶ、全長16.6kmの第三セクター鉄道です。駅名にもある「四十九(しじゅうく)町」は奈良時代、行基(668 – 749)に由来、修験道の開祖 役行者(えんのぎょうじゃ =役小角 7 – 8世紀)の弟子にて、この地に山伏の修験道場 「四十九院」があり、伊賀流忍術発祥の地でした。

芭蕉は、最大のパトロン 藤堂新七郎 良忠(俳号 蝉吟 せんぎん)を亡くします。彼は、処女作 「貝おほい」を故郷 上野菅原神社に奉納、決意を新たにして、当時、新興の江戸に向けて出発しました。

「おくのほそ道」への旅立ちは、それから14年後のことです。
第2回絵画展画像
楽しんで頂ければ幸いです。

Appreciate Your Support▼ご支援をお願いします
     にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ  にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ       


express01 at 14:16|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

December 14, 2018

2018年関西の旅<3> 伊賀上野 〜忍者と芭蕉の街〜

181118_伊賀鉄道猪田道駅舎
▲伊賀鉄道 猪田道駅

 伊賀上野の街、この忍者と芭蕉の街は、平成の大合併で伊賀市に変更されましたが、個人的には何故か伊賀上野の方が好きです。現在では、伊賀市の中心地、旧上野市の地名を表す言葉として残されています。
181221_伊賀上野桑町駅
▲伊賀鉄道 桑町駅

161101伊賀上野「一の湯」
▲一之湯
 古代律令制の時代(7C〜10C)の広域行政区画「五畿七道」でそこを通る7本の幹線道路のうち、平城京・藤原京、後の平安京を起点に、東山道(近世の中仙道)は草津で東海道へ、  守山・関ヶ原辺りで北陸道へ、3本もの幹線道路が湖東(近江国)から分岐していきます。その古代三街道をなぞったように走る近江鉄道、その南端の終着駅:貴生川(きぶかわ)でJR草津線と接続します。そこが甲賀郡(近江国)、その南に隣接するのが伊賀国です。伊賀国上野盆地(現在の伊賀市)「四十九(しじゅうく)町」は奈良時代の僧、行基に由来します。行基((668 - 749)は、修験道(道教、山伏)の開祖,
(えんのぎょうじゃ =役小角, 7C〜8C)の弟子にて、この地には山伏の修験道場「四十九院」があり、後の伊賀流忍術に発展して行く、者発祥の地でした。伊賀国及び近江国甲賀は隣接(「甲伊一国」)、都にも近いが、それほど高くはない山々に取り囲まれ、伊賀国の郡、名張(なばり)、ナバルは隠れるを意味し、は東大寺の荘園、黒田荘の住民は黒田悪党と呼ばれ、伊賀上忍三家(服部・百地・藤林)を指し、東大寺の支配に反抗した。彼等は河内の悪党、楠木正成(1294 - 1336)ともも呼応、後醍醐天皇に与して倒幕運動に参加、後に南朝側につくことになります。
181125_10月20日午前4時上野茅町駅
▲伊賀鉄道 茅町駅
 1962年、伊賀市の旧家から発見された「上嶋家文書」(江戸末期の写本)によると、服部家の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉弟で、観阿弥は正成の甥にあたるという。これに従えば、楠一族と服部一族は婚姻関係であるだけでなく、楠木正成は修験道に起源する伊賀忍者を家来にしていたということです。申楽(猿楽)師は「七道の者」と呼ばれ、定住民からは差別的に見られていた。服部一族は一説では秦氏の末裔、養蚕・機織りの機織部(はたおりべ)が服部(はっとり)に変化したものです。

 徳川の時代に入ると、藤堂高虎は伊勢国と伊賀国を持ち、伊賀上野城には、伊賀忍者の上忍(じょうにん、頭目)だった保田采女(服部半蔵の甥)を養子に迎え藤堂新七郎家を造り、城代家老に据えました。1644年、芭蕉は、伊賀上野において、柘植(つげ)出身の無足人であった父、松尾与左衛門と、百地氏の出の母との間に生まれております。無足人とは一種の郷士、苗字帯刀は許されるが無禄であり、芭蕉は藤堂新七郎家、藤堂良精の三男、良忠(俳号:蝉吟)に台所用人・料理人として仕えました。主従共に忍者・山伏に繋がる一族出身、大道雑芸・文学・猿楽などの芸・術の素養の一つに、連歌、その最初の三句を「発句」、後の「俳句」を創造する素養があったのでしょう。最大のスポンサーである藤堂良忠(俳号:蝉吟)を亡くした芭蕉は、西鶴・近松など既に元禄文化の爛熟する大坂だはなく、処女作「貝おほひ」を上野菅原神社に奉納して、新天地、江戸に向かいます。江戸での最初の仕事は神田上水工事の監督でした。何故、単なる俳諧師である彼に治水工事の監督が出来たのか?大きな謎ですが、やはり彼の出身一族、雑芸(猿楽)>治水治山・土木>伊賀忍者・修験道に繋がります。

 少し時代は異なりますが、関ヶ原戦い(1600)に勝利した家康は江戸城及び関東の地を本格的に整備します。旧武田の家臣、猿楽師上がりの大久保長安が江戸城半蔵門から家康の脱出ルートである甲州街道、武蔵国の西端に八王子の街を建設、滅亡した武田・後北条の旧臣を組織して「八王子千人同心」を作り上げます。後に一族は家康に抹殺されることになるのですが、一介の猿楽師にすぎない大久保長安が治水治山・金山開発を行い、一時は金山奉行までに上り詰めました。彼は、伊賀国の南隣大和国出身、自の先祖を観阿弥と同じく秦河勝と述べており、猿楽・大道芸と鉱山・治水治山・養蚕・機織り、一方では修験道・山伏など山岳宗教集団、技術者集団の甲賀・伊賀忍者にも繋がって行きます。

 藤堂高虎が造った城下町、伊賀上野、外様でありながら津・伊賀の二カ国を手にし、一方では惣と呼ばれる伝統的な自治制度を温存、町衆による自主的な祭「上野天神祭」を保護、小堀遠州を師として茶の湯を広めました。その為か、街の大きさの割には多くの和菓子屋さんが存在します。
181207_上野湖月堂店内
▲和菓子屋「湖月堂」
 友人の奥さんの奨めで、 今回は「湖月堂」さんの最中「高虎」をお土産に買って帰りました。

Appreciate Your Support▼ご支援をお願いします
     にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ  にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ       


express01 at 20:30|PermalinkComments(2) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

November 07, 2018

2018年関西の旅<2> 近江鉄道

 その日は一日かけて近江鉄道沿線の古い木造の駅舎を訪ねるのが目的でした。しかし、朝起きるのが遅くなり、出発もずるずると遅くなってしまいました。JR京都駅に着いたが10時頃か、これでは近江鉄道の始発の駅、米原に着くのが昼前になってしまいます。これでは終着駅、貴生川駅での友人との待ち合わせ時刻16時までわずか4時間しかありません。米原,泙嚢圓ず、一つ手前の彦根駅△ら近江鉄道の旅を開始しました。これで、予定していた本命の一つ、鳥居本駅舎をはずすことになりました。
181107近江鉄道
 近江鉄道の一日乗車券を買って、やおら時刻表を見ると、地方なので当たり前と云えば当たり前なのですが、1時間に1本の運転しかありません。彦根口駅で降りたのは間違いないのですが、 その駅舎の姿さえ憶えていません。私の勘違いかも知れませんが、写真を撮っていないところから見ると、少なくとも期待した木造駅舎はなく、駅周辺にもこれと云ったものもおらず、次の電車が来るまでの1時間をどう過ごすか途方に暮れてしまいました。

 他にすることもなく、沿線に関する知識をいくつかご披露しましょう。現在も交通の要衝である湖東地方、かつては北陸道・東山道(近世の中仙道)・東海道の三道の結節点であり、歴史の舞台でした。

 すでに鎌倉が新田義貞軍に滅ぼされた(1333年5月8日)のも知らず、京を落ちて鎌倉を目指す六波羅探題、北条仲時軍は近江国番場宿蓮花寺(現在の米原市 砲肪り着くも、前を佐々木道誉の軍勢に阻まれて万事休す。仲時は一族432人と共にここで自刃しました(5月9日)。哀れです。

 次の尼子駅ざ瓩、近江国犬上郡藤堂村には、戦国時代、藤堂高虎(1556-1630)が生まれています。信長・秀吉そして家康に仕え、外様ながら伊勢・伊賀国を支配しました。旅の目的地はこの伊賀上野ですが、近江にも甲賀があり、両者は間の山を県境に隣接しており、共に忍者の里として知られています。面白いことに、戦国期の伊賀国と甲賀では、守護大名(甲賀の六角氏)の支配は緩く非常に限定的で、「惣」と呼ばれる連合体が形成されるほどに、地侍(小領主)に依る自治がなされていました。 余談ついでに、小松左京の「敦賀・加賀・滋賀・多賀・甲賀・伊賀の「賀」の連なり…」を渡来文化に関する著作の中で読んだ記憶がありますが、湖東は大陸から伝わった文化が大和国地方へと広がる幹線ルートであったことは間違いありません。

 次ぎに立ち寄ったのが五箇荘駅ァ4儻客向けに、それらしい装いの駅舎ですが、絵に描いてみようという気持ちにはなりません。当地は近江商人発祥の地。西武グループの創業者:堤康次郎(1889 - 1964)も、一つ手前の愛知川駅の在る愛荘町で生まれました。私の乗る近江鉄道も西武グループの一員で、鉄道車両は西武鉄道のお下がり、県南部を走る近江鉄道の路線バスにも関東を走る西武バスのカラリングが施されて、関東に住む私は不思議な感覚に陥ります。本当かどうか知りませんが、滋賀県で一番人気のプロ野球チームは「西武ライオンズ」だそうです。

 街並みが保存されているようなのですが、そこまで歩いて往復するだけで1時間は必要、街並みを見て回るとなると…、次に乗る電車は2時間後になってしまいます。周辺を廻っただけで駅舎に戻ります。誰もいない駅舎で、一人、作戦の練り直しです。次はレトロな駅舎の新八日市駅、メンソレータムの近江兄弟社で有名な近江八幡駅を予定していたのですが、これだけでも一日は必要と理解して、今回は断念することにしました。まだ一枚の絵も描けず、時間だけが過ぎていきます。 …と、駅に置いてあるパンフレットに『厳選!近江鉄道本線こだわり旅』とあり、見所の一つに、私が予定していた桜川駅Гあります。

 八日市駅Δ乃生川行きに乗り換え、いくつか駅を過ぎ、桜川駅Г嚢濕屬靴泙靴拭2りを散策など…の余裕もなく、次の電車が来るまでの1時間、スケッチに没頭しました。陽が落ちるのも早く、影が長く感じられます。貴生川で畑を借りている友人から電話の一報、「今、何処?」、畑作業は間もなく終わるそうで、予定を変更して、貴生川より手前の水口駅で拾ってもらうことになりました。
181104_近江鉄道桜川駅駅舎_2
  予定していた日野駅┐蘯崛襪ら見るだけに終わりました。もう一つの近江商人、日野商人の拠点、蒲生郡日野町です。戦国時代、蒲生氏郷(1556 - 1595)が生まれた地でもあり、何故か…、彼に愛着を感じています。2012年、会津若松に旅行し、街中に偶然、氏郷のお墓を発見(興徳寺 遺髪のみ)して感激したことがあります。千利休の一番弟子で、千利休切腹後は彼の息子を会津若松に招いて千家存続、茶道発展に尽くしました。彼は名護屋布陣中に病死、京都大徳寺にある黄梅院に葬られています。彼は熱心なキリシタンでしたが、彼の死後、会津地方でキリスト教がどうなったのか大いに興味があります。

181107_日野菜 水口駅で降車、陽は西に傾き、駅舎の長い影に見入っていると、友人の車がやって来ました。私とは大いに異なり、彼には「食」に対するこだわりがあります。その一つが「京野菜を使った漬け物」です。先ほどの日野、此処が原産かどうかは知りませんが、「日野菜(ひのな)」というカブの一種の漬け物です。近江国が発祥、「千枚漬け」と並ぶ京漬け物の一つです。

 旅行から帰ると、約束通り、彼が自分で漬けた「日野菜漬け」が届いています。さすがに…、こだわりの彼が漬けた「日野菜漬け」、上品なおいしさで、ごはんが進みます。どうも、おおきに!また、よろしくお願いします。

Appreciate Your Support▼ご支援をお願いします
     にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ  にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ       
  


express01 at 15:33|PermalinkComments(2) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

October 26, 2018

2018年関西の旅<1> 司馬遼太郎記念館

 私は大学受験で日本史を選択しましたが、歴史、特に日本史が好きであった訳でもありません。 本当に好きになったのは、遅まきながら…、受験が終わり、父親の読んでいた司馬遼太郎の『関ヶ原』を読んでからの事です。家康・三成・島左近・大谷吉継が、読者(私)がさもその場に居合わせているかのように表現され、その臨場感に感激した記憶があります。膨大な資料収集に裏付けされた司馬の著作は上質な大衆娯楽小説として国民的支持を受けており、これが「歴史」であると信じている人も多く存在するのも事実のようです。

181026_司馬遼太郎 司馬の先祖は播磨国(姫路)の人、福田姓を名乗る前は「三木」姓で、三木城籠城に関連の家系だそうですが、彼が生まれたのは大阪市です。彼のお母さんの実家が大和国北葛城郡竹内、彼が幼少の時はここによく連れて来られ、ここが故郷のようであると『街道をゆく』に書いています。竹内街道は、摂津国堺の大小路に始まり、堺金岡で摂津国難波宮から南下した「大道(おおじ)」と接続、河内平野をさらに東進、国境である竹内峠を越えて大和国の長尾神社に至る街道です。

 生まれは九州ですが、私の出身地は摂津国伊丹と自称しています。大学に入り、読み始めた司馬遼太郎、卒業して社会人になると、既に彼はサラリーマンが常識として読むべき国民的作家の地位にありました。私のそれまでの主な行動範囲は京都・大阪北部・神戸(摂津国)でしたが、入社当初、勤務先が心斎橋だったからかも知れませんが、男性社員は西日本出身者が多いのは当然として、女性に関しては、摂津国出身者が少なく、河内・和泉国(大阪の南部)出身者が多数を占めるのには少なからず驚いたものです。社会人になると行動範囲を広がり、今まで滅多に乗ったことのない、天王寺からの南海電鉄線、難波からの近鉄線にも乗るようになりました。

 近鉄奈良線、八戸ノ里駅近くに司馬遼太郎が住んでいることを知っていましたが、当時、私は彼が播州出身と勘違いしており…、どうして八戸ノ里(河内国)なのか疑問に思っておりました。 彼の人生で最も影響を受けた土地(出身地)、懐かしい故郷、北葛城郡竹内に通じる「竹内街道」に接続する「大道」が難波(なんば)から始まる。その難波から近い八戸ノ里(河内国)を居住の場所として選んだのではないでしょうか。死後、2001年、『司馬遼太郎記念館』安藤忠雄の設計で自宅に隣接して建設されました。

 旅行の初日、湖東の近江国鏡宿で義経元服の地、それより少し京都よりの篠原で平家終焉の地、平宗盛の胴塚を、二日目には、義経が京を追われ西国へ逃れようとして災難に遭う大物浦(尼崎)を、今や阪神電車と相互乗り入れしている近鉄電車に乗り、難波経由で八戸ノ里(河内国 東大阪市)、始めて『司馬遼太郎記念館』を訪れました。八戸ノ里駅で駅員に道を尋ねると、駅員が親切に教えてくれました。歩いて8分、私と同年ぐらいの司馬ファンらしきスタッフ(?)が出迎えてくれます。

 『司馬遼太郎記念館』は、司馬の書斎を亡くなった当時のままをガラス越しに見ることが出来、続いて隣接するコンクリート打ち放しの、三層吹き抜け、高さ11mの書架で構成されています。 地下三階に降りると、壁には天井から床まで巨大な書架には司馬の蔵書6万冊の一部(2万冊)が収納されています。

 館内は撮影禁止。司馬ファンだけでなく、安藤忠雄ファンのあるいは建築を勉強する人達も訪れ、テーブルには来館者が書き込みできる「対話ノート」が置かれており、彼等が描いた〜光が差し込む巨大な書架〜のスケッチが見受けられます。 さすがに、彼等に伍してそのノートに描く勇気はありませんでしたが、来館者も少なく、背後を気にすることなく、十分な時間をとって、用意していたスケッチブックに幻想的な内部を描き残すことができました。帰宅して仕上げたのがこれです。


express01 at 19:13|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

June 13, 2018

伊豆韮山へ小旅行 その3 江川英龍邸

江川邸玄関外
 新政府軍は三島で本道、足柄越え、韮山の三方に別れて関東に入り、小田原で合流する手はずになっています。本道、箱根関所を守備する小田原藩兵は終始、先鋒隊長:渡辺清左衛門(大村藩)の気迫に押されっぱなしで、既に恭順せよとの藩命があったにせよ、全くの拍子抜けする引き渡しでした。一方、韮山往還を南下した別働隊も、いち早く官軍の降伏恭順の意を伝えていた江川代官所を、何の問題もなく接収します。小田原藩大久保家と韮山代官江川家はどちらも関東を守る要、しかし、新しい時代への対応は大きく異なります。

江川英龍像(顔)_1 幕末近く、異国船が沿岸各地に出没した時代、江川英龍(担庵 1801-1855)は36代当主、代官として就任します。長崎で蘭学を、そして高島秋帆から砲術を学び、渡辺崋山や高野長英らと交流、日本の置かれた国際情勢を憂慮、沿岸警備、近代的兵制(農兵制度)、西洋砲術の訓練、お台場(砲台)の建設、そしてこの韮山反射炉の建設を幕府に献策、実行しました。教育にも力を注ぎ、佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎・伊東祐亨などが彼の門下で学びました。「蛮社の獄(1839)」で追求されることもなく、善政を敷き、領民からは「世直し江川大明神」と敬われていたそうです。剣は神道無念流の免許皆伝、詩作・書画・工芸品など多くの作品を遺し、「担庵」は雅号の由で、多才なだけでなく、一つ一つの才能・知識そして何よりもその実行力が人並みではなかったのでしょう。彼が自惚れぬように、母親が「忍」をきつく強制したそうです。民政と海防に尽力した彼は、尊皇攘夷から尊皇倒幕に世の中の潮目が変わる時代が到来する前、1855年、あまりの激務に体調を崩し没します。どこか薩摩の島津 斉彬(1809-1858)と似ています。

 英龍の献策した農兵制度(1839)は、「兵農分離」という幕府の根本政策に抵触する訳で、身分社会の否定にもつながり、幕府は当初これを却下します。 次第に外国船の来訪が頻繁となり、幕府の鎖国政策が次第に手詰まりとなっていきます。英龍の五男、38代目当主、代官江川英武(1853-1933))の代、1863年、韮山代官領に限り農兵の設置が認められ、その後、韮山代官領以外の幕府領や諸藩にも農兵制度が広がりました。町田の韮山代官支配地、木曽・根岸・山崎に「木曽農兵隊」が作られたのは1865年のことでした。

 既に江戸城の無血開城がなり、 慶喜は上野寛永寺に謹慎します。 幕府降伏を潔しとしない、人見勝太郎・伊庭八郎率いる遊撃隊と上総請西藩の藩主林忠崇率いる脱走藩兵たちは相模真鶴に逆上陸、譜代の大藩:小田原藩十一万石に協力を求めます。小田原藩内は佐幕・勤皇派に別れ、藩主大久保忠礼も腰がふらついて、上野彰義隊決起とそのあっけない敗北の報に振り舞わされ、藩論は二転三転どころか四転。右往左往、混乱の極みは箱根関所明け渡しに始まります。「堂々たる十一万石中また一人の男児なきか」とは小田原城を去る伊庭八郎の言。

 韮山代官、 英龍の諸施策・江川塾の運営・幕府との交渉など、 英龍をよく理解し補佐したのが手代柏木忠俊でした。忠崇と遊撃隊一行は韮山代官役所を訪れて同盟を申し入れます。英龍の五男、38代目当主、代官江川英武(1853-1933)は当時16歳、既に新政府の出頭命令を受けて京に在り、不在。留守を預かる手代柏木総蔵が冷静に対応、「当主江川太郎左衛門(秀武)は未だ少年にして、太政官より召され京都に在り、不在中なり。農兵、銃器等、先代太郎左衛門没後多くの星霜を経た今日、ほとんどその痕跡なし」(「人美寧履歴書」)と同盟を断り、彼等を落胆させますが、他方では、軍資金1千両を提供、彼等を饗応して韮山を穏便に退去させます。一方では朝廷側に恭順して、佐幕中の佐幕のはずなのですが、手代柏木忠俊は江川家を明治の世にも存続させることに成功します。
江川亭玄関邸内部

 江川邸の玄関、NHK大河ドラマ『篤姫』、『西郷どん』で島津久光邸の場面に使われたそうです。

※参考文献:『脱藩大名の戊辰戦争
Appreciate Your Support▼皆様のご支援をお願いします



express01 at 21:56|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

June 04, 2018

伊豆韮山へ小旅行 その2 韮山反射炉

 あくまで個人的な感想ですが、市名が「伊豆の国市」とは、もう少し名前の付け方があったのではないかと首をひねってしまいます。現に、2005年、伊豆長岡町・韮山町・大仁町の3つの町が合併、新市が誕生するのですが。南隣の「伊豆市」にその名前を先に取られてしまい、新市名は一般公募によって募集されることになりました。協議会による投票では「伊豆北条市」がトップでしたが過半数に及ばず、「伊豆の国市」との決選投票となり、 「伊豆の国市」が逆転勝ちとなったそうです。頼朝流刑・旗揚げ、鎌倉幕府執権北条、戦国小田原後北条5代、徳川幕府韮山代官という歴史を考えれば当然「伊豆北条市」のはず、もしこの名前が採用されていたのであれば、もっと早い時期に訪れていたかも知れません。

 伊豆長岡駅に到着、駅前発車の名所巡りのバスは1時間後、観光案内所に入り情報収集です。レンタサイクルが面白そうとも思ったのですが、借りた場所に返却しなければならず、そもそもレンタサイクルの係員が居ません。季節は初夏…と云うのかどうかも知りませんが、「伊豆の国」のイメージ通り日差しもまだ穏やか、道案内に沿って踏み切りを渡り農協の横を歩きます。

 五畿七道の時代、伊豆は都より遠く、辺境、流刑の地でした。平治の乱(1159)に敗れた義朝父子と家来八騎は京を脱出、源氏の本拠地、東国(関東)へ逃げようとするのですが、一行にはぐれた頼朝(13歳)は平氏側に捕まり、死一等を減じられてこの地伊豆韮山に流されます。1180年、頼朝が挙兵、伊豆韮山の豪族、北条時政は、娘北条政子が頼朝の妻となったことから頼朝の挙兵・鎌倉幕府の創立(1192)に尽力、頼朝が征夷大将軍に任じられると、その有力御家人となります。頼朝もその可能性大なのですが、続く頼家、実朝を暗殺して執権政治を確立、時政嫡流は得宗家と呼ばれ、一門で執権、六波羅探題などの要職を独占します。

 二度の元寇を遠因に、後醍醐天皇の令旨(1333)に足利尊氏、新田義貞等が呼応、 結果、  鎌倉幕府は倒れ、北条氏(得宗)は滅亡します(1333)。  長期に渡る南北朝内乱(1336-1392)で、守護はその権限を拡大し、守護大名に成長、足利尊氏が開いた室町幕府(1336-1572)は末期には山城一国のみを支配するだけの守護大名のごとき様相を呈するようになります。

 早雲(伊勢新九郎盛時)は備中(岡山県)荏原荘で生まれ(1461-1519)、後に9代将軍足利義尚に仕え、駿河に下り、興国寺城主となり(1487)、次は11代将軍足利義澄の命で伊豆堀越公方足利政知の子茶々丸を滅ぼし(「伊豆討入り(1493)」)、これが戦国時代の幕開けとなったとされています。   伊豆韮山を拠点に伊豆を平定、後に相模一国を従え、嫡男氏綱(1487-1541)の時、小田原城に本拠を移し、かつて鎌倉幕府を支配した執権北条氏の名跡を継承して「北条」を名乗り、家紋も執権北条の「三つ鱗」(正三角形)に似た「北条鱗」(二等辺三角形)としました。「四公六民」を実施して善政を敷き、商工業・海運を振興して、関東一円を支配しました。小田原城の総構えは9kmにも及ぶ空堀と土塁で城下町全体を囲む長大なもので、上水道も備わっていました。1590年、秀吉に依る小田原攻めは3ヶ月あまりに及びますがついに開城、5代に及んだ後北条氏は滅亡します。
 
 秀吉に警戒された家康は関東に移封され、関ヶ原で勝利し(1600)、江戸に開幕した家康は総構えの江戸城を構築、加えて海岸を埋め立てた江戸に飲料水を確保する目的で上水道網を建設するなど、後北条の小田原を模して江戸の街を建設します。
韮山反射炉_2
 そんな事を考えながら、…ウソです…、案内に沿って歩いて行くと、背にした山が韮山なのでしょうが、世界遺産、韮山反射炉に辿り着きます。江川家36第当主江川太郎左衛門英龍が幕府に建言、建設されたものです。   江川家は多田源氏の流れをくみ、保元の乱(1156)を避けて韮山に移住したと伝えられ、この地に流罪となった頼朝の挙兵(1180)に応じて参戦したと云われる。  その後、頼朝・北条の鎌倉幕府、 室町時代には伊豆の豪族としての地盤を固め、苅野川の支流の名に因んで、姓を江川と改めます。早雲(伊勢新九郎盛時)の「伊豆討入り(1493)」にあたり、自分の土地を提供して、韮山城を築城させ、その後5代にわたって後北条の家臣となります。   家康は関東に入るに際して、後北条小田原の市街地建設の技術だけでなく、後北条・武田の遺臣を引き継いで関東支配・経営にあたります。

 江川家江川英龍もその一つで、 伊豆が幕府の天領(直轄地)となり、以降江戸時代の全期間を通じて代々世襲の代官 (幕臣)を務め 、 江川太郎左衛門を名乗りました。途切れることなく、代々の最高権力者に仕えたのはそれだけ民政・支配能力が高かったのでしょう。伊豆・駿河だけでなく、文字通り箱根の関を越えて遠く関東を、相模・武蔵(多摩川以西)を幕府代官として支配したのは驚くべき事です。

 ざっと関東の歴史を振り返ると、面白いことに気がつきます。関東の豪族が結集して京から追放された頼朝を担ぎ上げて鎌倉幕府という半独立国家を関東に作るのですが、源頼朝は京の貴種、簒奪した北条は伊豆韮山の人、戦国時代の後北条は備中(岡山)・京・駿河を経て伊豆韮山、後に小田原にやって来た人、家康も三河出身で、旧武田・旧後北条の遺臣を引き連れて関東を経営・支配します。旧武田の遺臣と云えば、甲州街道・八王子・千人同心を作った大久保長安、代々世襲の韮山代官、江川太郎左衛門は旧後北条の遺臣でした。   関東の歴史を見ると、関東の豪族は数十や数百の単位を結集する指導者は存在するが、それ以上数千や数万単位になると、全て関東以外の出身者が指導者になります。歴史を見る限り、残念ながら、関東からは社会を動かすような指導者は輩出されていません。

 青空に向かって立つ反射炉、日本の産業革命はここに始まりました。

Appreciate Your Support▼皆様のご支援をお願いします



express01 at 21:56|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

May 29, 2018

伊豆韮山へ小旅行 その1

 若い頃は、自分の好きなことに熱中している時、 あるいは、仕事が順調に推移している時には、「えーっ、もうこんな時間か…」などと思ったものですが、この歳になると、別に何の充実感も達成感も伴わなくても、時間だけがあっという間に過ぎ去って行きます。東京都内はもちろんのこと、町田駅周辺の繁華街にもほとんど出たことがありません。加えて、最近のテレビは全く面白くなく、ひな壇に並んだお笑いタレントがクイズ形式の質問に答えるという、何処のチャンネルを開けても同じような番組で、全く面白くありません。街中にも出ず、テレビも見ない。これでは世の中の動きから取り残されるのは必至です。

 幾度となく登場しているのですが、近くにある桜美林大学の学生を顧客に目論んだMACがあります。朝の早い時間は一杯百円のコーヒーを求めて私の様な年寄りが散歩がてらにやって来ます。フリーWiFiを使えるからかも知れませんが、毎回ほとんど同じ顔ぶれです。ある日の午後、MACで友人と会うことになったのですが、早朝と違い、店内は若い学生が多く、注文のカウンターに並ぶ彼等はやおらスマホを取り出して注文を終了しています。「おサイフケータイ」というやつか…と思っていたのですが、どうも支払いだけでなく、MAC会員のメンバーだけのポイントが付与され、獲得したポイントは次回の決済時に使うことが出来るのではないでしょうか…、複数の友人に尋ねますが、私の友人にはその詳細を知る人はいません。 もう一つ、町田の中心地に出るにはバスに乗らざるを得ないのですが、その運賃は現金で290円、これを「PASMO」で支払うとIC運賃288円、2円(0.68%)安くなります。新入社員の頃から長らく付き合ってきた都市銀行ですが、付き合いが長いだけでメリットは全くありませんでした。高額の残高もなく、今さら融資を受ける計画もなく、年金・アルバイト収入の入金先ということで団地内のゆうちょ銀行(ゆうちょダイレクト)に口座を作りました。日常生活を送るには近くのATMとオンラインで管理できれば十分です。事程左様に、IT(最近では「IOT」が使われているようです)・ネット社会の進展が加速しており、「仮想通貨」などは今の私には想像すら不可能ですが…、例えば、交通機関の「ICカード・キャッシュレス化」は実感しています。

 今年は「明治150年」ということで、受講している市民大学講座「町田の歴史」もそれにまつわる内容です。不勉強で恥ずかしいのですが、その話の中に江川英龍(担庵 1801-1855)という人物が登場します。世界遺産、韮山反射炉は彼の献策によるもので、幕府の代官を務める幕臣であり、その支配地は伊豆・駿河・甲斐・相模・武蔵(多摩川以西)に及んだそうです。幕末の多摩に大きな影響を果たしたであろう江川英龍は次回以降の講義にも登場するはずです。遅ればせながら彼のことを勉強しよう、というのがきっかけで、急遽、伊豆韮山への小旅行となりました。

熱海・三島・伊豆長岡

 朝6時過ぎ発のバスに乗って町田へ、小田急線急行に乗り換えて小田原に到着、JR東日本の東海道線に乗り換えます。此処まではICカード「PASMO」一枚で自動改札を通過、乗り込んだ電車は西へ走りますが熱海駅止まりです。しかし、当然のことながら、線路(東海道線)は熱海駅で途切れることなくさらに西へ続いています。熱海駅以西はJR東海、沼津・静岡方面行きに乗り換え西進、伊豆箱根の山塊をくりぬく丹那トンネル(7.8km)を抜けて静岡県(駿河国)へ、三島駅で下車、連絡改札のむこうで待つ伊豆箱根鉄道の電車に乗り込もうと自動改札にかざすと「X(バツ)」。伊豆箱根鉄道駅員曰く「一端JRを出て、切符を買って乗って下さい」、JR自動改札を通さず(PASMO不可)駅員に精算してもらい駅舎を一端出て、新たに伊豆箱根鉄道駅で切符を買って入場(PASMO不可)、まだ停車したままの先ほどの電車に乗り込み南下、伊豆長岡に到着したのは9時過ぎでした。ご理解頂きましたでしょうか?

 まだ現役で出張の機会が多いその友人は、出張先の大阪でもJR東日本の「SUICA(PASMOと互換性)」を使うことが出来るので、JR東海の「TOICA」と互換性があるはずと云います。同じ線路(東海道線)を走るJR東日本は熱海駅までがその管轄、熱海駅以西はJR東海の管轄、ということで一つにはさらに西に行く場合は熱海で電車を乗り換えなければならない。二つ目には発駅と着駅が同じ管轄内であればどのカードでも使えるが、発駅がJR東日本で着駅がJR東海と、発駅・着駅が管轄を跨ぐ場合には使えない、精算が必要ということです。加えて、三島駅でのJR東海と伊豆箱根鉄道との連絡自動改札、あれはJR東海の「TOICA」とJR東海内の精算機で精算を終えた人のみが通ることが出来るもののようで、よそ者にはバーミューダ・トライアングルです。

 伊豆長岡駅前のバス停の時刻表を見ると、小一時間は待たなくてはならず、レンタ・サイクルを借りてみようかとも思いましたが、商売っ気がなさそうなので、やめました。しばらくは乗り物はやめて徒歩で行こう、と向かったのが韮山反射炉です。

  今回はこれぐらいで終わりにしましょう。帰路、 三島駅だったでしょうか?駅の自動販売機に「PASMO」をかざすと…、ゴロンとボトルが出て来たのは感激でした。

Your Support, Please.▼皆様のご支援をお願いします



express01 at 14:22|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

October 06, 2016

そうだ、バスで、京都に行こう!<1> 大徳寺

 久しぶりの京都駅です。普段の移動に使っているPASMOあるいはSuicaカードが京都市内バス・地下鉄・私鉄でも使えるのは便利です。前も書きましたが、私は1967〜71年、京都に在る大学(京大ではありませんが…)に通ったので一般の人よりも土地勘はあります。かなり前に市電が廃止されたのは残念ですが、今は地下鉄2路線が整備され、烏丸線烏丸御池で東西線に、三条京阪で京阪に乗り換え、昔は三条が終着駅でしたが、今は疎水の地下を叡電出町柳駅まで延伸されています。その出町柳で、一年ぶりに京阪沿線に住む姉と再会することになります。

 市バスに乗って大徳寺にやって来ました。それまでは紫野と呼ばれた原野、播磨国の守護赤松円心が寄進して基礎を築いた(1315)とあり,寺内「沸殿(?)」の欄間に並んで掲げられた花園帝と後醍醐帝の二つの扁額は、持明院統(後の北朝)の大覚寺統(後の南朝)両朝の帰依があったことを示しています。楠木正成を湊川の戦い(1336)で破り、後醍醐帝を叡山に退去させた足利尊氏は室町幕府を開きます(1336)。後に北山文化、東山文化と続く室町時代の到来です。大陸文化(明)と日本文化、あるいは、公家文化・武家文化・民文化など諸文化が融合、茶・花道・建築・造園、絵画、軍記物・御伽草子・連歌、能・狂言に代表される舞台芸術など、現代日本文化の源流・基礎はこの時代に完成されたと言えるでしょう。

 飲んだ茶の銘柄を当てる「闘茶」、高価な中国の茶器「唐物」を求め、これを使って茶会を催す「唐物数寄」が大名の間で流行しました。行き過ぎたこの風潮に代わり、亭主と客との精神交流を重視するわび茶の源流ができあがって行きます。摂津・河内・和泉の三国の「境(さかい)」であったことに由来する堺は当時、海外貿易で富の集まる商業港湾都市でると同時に、その富を背景に町衆による自治が行われ、「茶の湯好み(茶数奇)」の文化が発展していました。世の中は次第に茶会どころではなくなり、ついに、応仁の乱(1467-77)で京、そして大徳寺は灰燼に帰します。堺で禅宗の布教活動をしていた一休和尚(1394-1491)は大徳寺復興事業への援助を乞い、それに答えたのが彼に深く帰依していた堺町衆でした。

高桐院_1 堺町衆の茶の湯好み(茶数奇)が戦国武将と町衆茶人と大徳寺禅宗とを結びつけ、それまではあまり日の目を見なかった大徳寺を、安土・桃山時代最高の「晴れ舞台」の一つにのし上げることになります。利休自費で行われた大徳寺三(山)門重層工事が完成(1589)、それを記念して楼上に置かれた等身大の利休像に秀吉は激怒、利休切腹の大きな理由の一つとされます。これが「晴れ舞台」の上で演じられた最大の演目でした。総門を入ると右側にその朱塗りの三門を見ることが出来ます。利休、千家の菩提寺:聚光院を始めとする二十四にも及ぶ塔頭は、利休の弟子達・キリシタン大名達、その時代に生きた人それぞれの演目が刻まれた記念碑です。

 高桐院灯籠 その中の一つ高桐院は利休門下の細川忠興が細川家の菩提寺として建立されました(1601)。忠興の妻は珠(たま)、父:光秀は信長を討ち(「本能寺の変」)、自らも亡びます。その娘として隠遁生活を送っていたが覇権を制した秀吉の取りなしで世間に復帰します。禅宗に帰依していたが、密かにカソリックに改宗、ガラシャ(Gratia)の洗礼名を得ます。忠興は家康に従い上杉征伐に出陣、西軍の三成は大坂に残るガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャは拒絶して自刃します。利休が愛用した「天下一」と称する石灯籠があり、利休切腹の折、遺品として忠興に贈られました。これが忠興と珠、ガラシャの墓となっています。
京街道光善寺辺り
 その日は姉夫婦の家に泊めてもらい、上の姉も参加して兄姉弟4人の同窓会となり、皆さん自分の知識を披露します。枚方(ひらかた)のこの辺り、淀川東岸を「京街道」と呼ばれる京大坂の往還道が通っています。古くは『土佐日記』で、赴任を終えた貫之が淀川を京に向かって遡上中、この辺りに「渚の院」を眺めながら通り過ぎる場面があるそうです。『太平記』では湊川に向かう正成を対岸の桜井駅で待つために正行(まさつら)が淀川を渡河したのはもう少し北か…、「本能寺の変」の後、光秀と秀吉は対岸の山崎天王山で戦い、筒井順慶はこの合戦の趨勢を傍観したという、日和見主義の代名詞として用いられる「洞ヶ峠」も此処から遠くはありません。

 極めつけは、茶屋四郎が家康の堺遊覧無事終了を信長に報告すべく京へ向かったが、信長の凶報を確認、急ぎ堺へ帰る途中、この辺りで家康一行と遭遇、事態は急変、家康の逃避行・脱出劇が始まります。家康が何故「京街道」を京へ向かっていたのか…、どのルートを辿って、伊賀(「伊賀越え」)・伊勢に至り、舟で三河に辿り着いたのか大いに興味のあるところです。

 時間はあってもお金のないのが今の私、初めて夜行バスに挑戦しました。問題はトイレ、如何にトイレ付きといえども初体験、やっぱり不安です。「あったらいいな、を形にする」〇〇製薬の夜間尿・頻尿の薬を服用したお陰か…、トイレに立つこともなく京都に着きました。帰りのバスは23時発、それまで、夜の京都の繁華街、どうやって時間をつぶすのですか?もちろん、新幹線で帰りました。
 Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
I appreciate YOUR SUPPORT.  ▼ 皆様のご支持をお願いします。
 にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


express01 at 15:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

August 30, 2016

散歩の途中 <16> 行田 忍(おし)城跡

 ベストセラー『下町ロケット』で直木賞を受賞した池井戸潤は二匹目、いや三匹目のドジョウを狙って(?)『陸王』を書いたのでしょうが、私はまだどれも読んでいません。「足袋(たび)屋がランニングシューズをつくる。そんな話はあり得ますか?」と池井戸が訪ねたのが、埼玉県行田市に在る足袋メーカー「きねや足袋」だったそうです。完成した物語『陸王』はたちまち25万部を越えるヒットとなります。かつて行田市が「足袋の街」として栄えていたことを知りませんでした。というよりは…、和田竜原作の映画『のぼうの城 (2012)』そして大岡利昭著『幕末下級武士の絵日記 』が私の行田に関する知識のほとんど全てでした。

 秀吉の「小田原攻め(1590)」に際し、前田・上杉等の北国勢は碓氷峠を越えて関東に侵入するのですが、その北国勢に落とされた諸城を訪ねて、7月八王子城跡を皮切りに、8月には川越に続いて、埼玉県行田市の忍城跡を訪ねることになりました。そもそも、行田は埼玉県の何処に所在するのか?、という話をすると、熊谷に住むバンドのNobuさんが、「行田は熊谷の隣、良ければ案内する」と言ってくれたので、渡りに舟とばかりにお願いしました。待ち合わせ場所は熊谷駅南口、「みすとのした」とはNobuさんの言。聞いた私は、一瞬、何のことか判らず、今年の夏は例年になく涼しく、この時期、TVで繰り返し映る熊谷市役所前の大温度計、「熊谷は熱い!」の少々やけ気味な標語は今年は鳴りをひそめ、今年の夏の熊谷は「ミスト」がピンとくるほどの酷暑ではありません。

 「石田堤」と称される堤跡があり、標識がなければ全く気がつかない場所なのですが、Nobuさん、道路標識の存在は知っていたものの、堤跡自体を訪れたのは今回が初めての由。「石田堤」説明の看板は、大河ドラマ『真田丸』放映による観光客の来訪を当て込んで急遽立てられたと思われますが、残念ながら簡易舗装の駐車場は我々だけ、他に訪れる人はいないようです。

 後北条氏の諸城は次々に落城しますが、それらの支城から終結した将兵で意気上がる小田原城に加えて、行田忍(おし)城は北国勢の攻撃を凌いで健在でした。小田原に着陣した秀吉に攻撃を命じられた三成は盟友大谷吉継ら総勢二万三千余の大軍を率いて攻撃しますが、どうしても落とせません。

忍城跡 攻めあぐねる三成は「丸墓山古墳」に登り、周りを一望している時に、備中高松城に倣った、「水攻め」の策を思いつきました(秀吉の策とも云われる)。忍(おし)城は周囲を低湿地で囲まれ、水害の時にも水をかぶらないことから「浮き城」と呼ばれていたそうで、30kmにも及ぶ堤で囲んだが、流し込んだ利根川の水は三成側の堤を決壊させ、むしろ攻城軍側の大損害の結果となった。十倍する攻城軍で事に当たりながら失敗した三成は武将としての能力欠如を、「三成の戦下手」を云われるようになったと聞きます。

丸墓山古墳 「丸墓山古墳」の在る埼玉(さきたま)古墳群は、その名の通り円墳の他に8基にも及ぶ大小の前方後円墳が並び、昔訪れたことのある奈良盆地の東に連なる山裾を縫うように続く「山の辺の道」を思い出します。その一つ、1968年、稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣」、「画文帯環状乳神獣鏡」は5世紀のもの、後に国宝に指定された。公園内にある「さきたま史跡の博物館」で窒素ガスを封入したケースに保管・展示されているのを見学できます。行田はかつては埼玉と呼ばれ、「さき(前)」+「たま(湿地)」=(さきたま)が転じて「さいたま=埼玉」となったという説、これが県名となったそうです。
 

 秀吉の「小田原攻め」から4百年後の今日、我々も「丸墓山古墳」の上から周りを一望すると、当然のことながら一面関東平野、景色の中に再建された忍城の櫓を見つけることが出来ます。備中高松城は知りませんが、「丸墓山古墳」から見ても、あるいは、その後の忍城跡に向かう車中から観察しても、真っ平らな関東平野の中に在る忍城を水没させるような堤の建設は思いも及びません。大谷善継、島左近は三成に意見しなかったのでしょうか。大きな話が好きな秀吉の意向があったように思えます。

 幕末、忍藩は川越藩と同じく譜代、三浦半島・江戸湾の警護、砲台の配備、水戸「天狗党の乱」鎮圧にかり出され藩財政は逼迫、「鳥羽伏見の戦い」の負け戦では殿(しんがり)になってしまい、新政府に恭順か旧政権側に付くかを大いに悩み、藩論は分裂、後出しじゃんけんの様に大勢が決まってから新政府軍に付くという失態を演じてしまいました。どうも行田忍(おし)城はかっこいい話の舞台には映らなかったのですが、「金錯銘鉄剣」、「画文帯環状乳神獣鏡」の出土、「さきたま」が転じて「さいたま=埼玉」となったという説はこの地に対する私の印象を変えたと云って良いでしょう。

 私の夏も終わってしましました。
 Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
I appreciate YOUR SUPPORT.  ▼ 皆様のご支持をお願いします。
 にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


express01 at 16:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

July 25, 2016

散歩の途中 <15> 小江戸 川越

 少なくとも月に1〜2回は訪れている川越の街、バンド練習の場:シダックスのある街なのですが、町田の自宅から車で1時間、まずは西恋ヶ窪、ドラムのKunさんの駐車場に車を駐め、彼の車の助手席に乗って走ること1時間、合計2時間をかけて川越のシダックスに通っています。因みに、ギターのNobuさんは熊谷から、途中でMaruさんを拾ってやって来ます。4人が集合するのに便利という理由だけで、地図を眺めながら決めたのがこの場所でした。私といえば、西恋ヶ窪からは助手席に座っているだけ、関東平野は広く、目印となる高い山もありません。どの道の何処を走っているのか…、到着したら、そこはシダックス、単なるバンドの練習場というだけで、「蔵造りのある街並み」、「小江戸」と呼ばれる川越とは全く結びつきません。

 前回訪問の八王子城跡、その落城にまつわる悲劇は、秀吉の「小田原攻め」の際、碓氷峠を関東に入った前田・上杉ら北国勢を前に、松井田城(安中)城主:大道寺政繁が豊臣方に降り、案内役として豊臣方に協力、北条方諸城が次々にあっさりと降伏開城したことにその原因がありました。その内の一つが川越城で、これも良い機会とばかりに、バンド練習の川越ではなく、「蔵造り」の美しい街並み、「小江戸」と呼ばれる川越に行ってきました。

 淵野辺からJR横浜線で八王子、JR中央線に乗り換えて西国分寺、JR武蔵野線に乗り換えて北朝霞、朝霞台から東武東上線で川越まで、やたらと乗り換えの多い、自宅を出て3時間の旅でした。

 川越城は、室町時代(1457)、上杉持朝が家臣:太田道灌に命じて築城させたもので、道灌は、河越城の支城として、江戸城の基礎を築いたことでも知られる。戦国時代は北条早雲に始まるのですが、小田原を拠点の後北条氏は、1537年、北武蔵の要衝:川越城を落として同国支配を固めました。1590年、後北条氏は滅亡し、秀吉の命で、家康が江戸城に入り、関ヶ原に勝利した(1600)家康は江戸幕府を開きます(1603)。江戸時代に入ると、川越は当時から「小江戸」とも呼ばれ、川越藩の城下町として栄えました。川越藩は江戸幕府の「北の守り」であり、家光を補佐した酒井忠勝(1587-1662)、家光・家綱の松平信綱(1596-1662)、綱吉の柳沢吉保などの幕府重臣が配され、商工業や学問が大いに発達しました。「知恵伊豆」と称えられた松平信綱は商業経済、新田開発を行い、江戸隅田川との間に新河岸川舟運を開設するなど、川越の発展に寄与しました。黒船来航(1853)に始まる幕末、川越藩は三浦半島と品川の海防に大きな負担を強いられ、水戸天狗党の乱鎮圧に出兵し(1864)、徳川譜代故に財政は逼迫しました。戊辰戦争(1868-69)では、最後の藩主:松平康英は新政府に帰順することで藩論をまとめ、官軍にひたすら恭順することで、川越の街を戦火から守りました。

一番街_1

一番街_2

 現存する喜多院、川越城本丸御殿、重厚な蔵造りの町屋が残る一番街周辺を訪ねると、康英の判断が正しかったことが判りますが、残念なことに、徳川家に忠誠心の高い譜代諸藩が頻繁に配置換えとなり、あまりに入れ替わりが激しく、川越藩独自の産業が育たず、従って独自の文化が醸成されなかったようにも思われます。

 幕末、近隣の忍藩(行田)は同じ境遇にありながら、新政府に恭順か旧政権側に付くかを悩み、藩論は分裂、後出しじゃんけんの様に大勢が決まってから新政府軍に付くという失態を演じてしまいました。次回は、「のぼうの城」、その忍藩(行田)に行ってみたいですね。
 Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
I appreciate YOUR SUPPORT.  ▼ 皆様のご支持をお願いします。
 にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


express01 at 17:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

March 14, 2016

陸奥(みちのく)

 
 東日本大震災から5年、新聞・テレビでは特集が組まれ、初めて公開された事実にあらためてその日に起こった事実に驚愕してしまいます。あの日、私は歴史上の「ポツダム宣言受諾」、玉音放送で日本の降伏発表を聞いて泣き崩れる姿(1945年8月15日)が頭に浮かび、日本の「第二の敗戦」を直感しました。何か取り返しのつかないことになってしまったのではないか、個人的にも、今までとは全く違う人生がやって来たものと感じたのです。上手くは言えないのですが、5年経った今でも、基本的にはこの思いは変わりません。
白河関跡
震災から1年後の白河の関
 少々突き放した言い方になりますが、災害の記憶は新しい災害が起こる毎に、その記憶はなくならないまでも、次第に風化していくでしょう。解剖学者:養老孟司曰く「東北大震災は人々の記憶から消去されざるを得ない。その背景には東北の人たちの”温厚さ”もありはしないか。苦渋があまりに大きすぎて、お上に従えば悪いようにはならないと信じたいのでしょうか。(朝日新聞)」 東北人から主体的な声が上がらない。ふと、気がついてみると、お役所発注の巨大防波堤ばかり…

 同じく日曜版、大きな挫折、胸が張り裂けそうになる別離のような苦難に打ちのめされたとき、そんな傷心を抱えた旅先には、北と南、どちらがふさわしいか?55%が北、45%が南へ、「北で悩み、南で忘れる」ようで、「北」と答えた人の最も多くの人が「北東北」を目指すそうで、さらに北に位置する北海道ではありません。雪の舞い散る寂寥たる冬景色の中で悩みを深め、そんな冬景色の中にも「東北の人たちの”温厚さ”」・暖かさを求めているようにも思えます。

 果たせなかった恋や夢、「傷心旅行」だけではなく、そのBGMとしての「演歌」にも注目しなければなりません。ここで云う演歌とは別離・失恋・悲恋・喪失をテーマにした曲の多くはこれに重なります。少し例えが古くて申し訳ないのですが…、同じ演歌でも、南の国:九州出身の水前寺清子、北、それも北海道まで行って北島三郎と、どちらも明るく、賑やか、彼らの持つ地域・方角性はこれの対局にあるもので、全く対象にはなりません。

 平安時代(794年 - 1185年/1192年頃)、イメージ的にも南西から東北に弓なりにつながる日本国ですが、「西の鬼界ヶ島(喜界島)」と東端、陸奥国「外が浜」は国の辺境を指す代名詞とされ、都人(みやこびと)にとっては東山道白河の関の向こうにある陸奥(みちのく)は彼方の異国の地、異国情緒を大いに感じる地域だったようで、山城・大和に次いで多く歌に歌われています。「唐の詩人がときに憧憬した西域までも、平安貴族は好んだ。ただ、どう想像していいかわからず、レールが転轍するように、関東のかなたにひろがる陸奥の天地を連想した、と私は考えている。」 とは司馬遼太郎の言(『北のまほろば―街道をゆく』)。 

 陸奥(みちのく)への憧憬・陸奥趣味は、最初の征夷大将軍:坂上 田村麻呂(758-811)の遠征からの凱旋(801-804)に始まりました。『源氏物語』の主人公:光源氏のモデルの一人といわれる、源融(みなもとのとおる 822 - 859)は陸奥国塩釜の風景を模して六条河原院を造営、塩釜を模すための塩を毎日、難波の海(大阪湾)の汐を汲んで運ばせたとは全くあきれた話です。平安中期、能因( 988-1058?)が、平安末〜鎌倉初期に、能因の跡を追って西行は二度、そして江戸期に入ると、芭蕉陸奥を旅し、紀行文『おくのほそ道』を残すことになります。江戸後期、三河国に生まれた菅江真澄(1754 - 1829)は、本草(薬草)学者にして旅行家、膨大な量のスケッチ画を残しますが、陸奥の最深部、津軽・下北だけでなく海峡を渡り、ロシアが周辺をうかがう北海道へ向かいます。黒船来港、ぶっそうな幕末はもうすぐ目の前です。

 平安貴族の風流は全く理解できませんが、彼らの抱くロマン・妄想には興味をひかれます。平和が確立された元禄の芭蕉、平和にひびが入り始めた時代の菅江真澄にも興味をひかれます。ほとんどボランティアの管理組合理事の仕事も5月で終わります。もちろん、雪の舞い散る寂寥たる冬の季節が終わったら…、彼らの痕跡を訪ねて、東北、かつての陸奥(みちのく)を訪ねようと思っています。

 東北支援、私に出来るのはこれぐらいです。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 

I appreciate YOUR SUPPORT.  ▼ 皆様のご支持をお願いします。
 にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


express01 at 16:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

February 25, 2016

熱海MOA美術館

前回のブログで書いた『逢魔が時』、私の風邪の症状はあれだけでは終わらず、いや…、タンの絡んだ咳は2週間以上続いたのではないでしょうか。食欲も戻り、体重も戻ってきたようで、自分の快気祝い(?)に、年末から考えていた熱海MOA美術館に行ってきました。二月にもかかわらず、伊豆半島の東の付け根、熱海と聞いただけで、そこにはもう春がやって来ているように錯覚してしまいます。「四月、春のような暖かさ…」という天気予報士の言葉に背中を押されたのです。小田原でJR東海道線に乗り換え、車窓に相模湾を望む小旅行でした。

ファサード JR熱海駅に降りるのは初めて、これほどまでに山が海に迫っているとは…、現に熱海駅は山の中腹にあり、駅からは見えませんが海はすぐ前、MOA美術館は後ろの山の中腹にあり、歩いて登るには坂が急すぎてしんどそうです。迷わず…、バスに乗ること10分、MOA美術館に到着します。山の中腹にファサード、MOA_Time Tunnel入ると大きなトンネルが上に伸びておりエスカレーターで登っていく、薄暗いトンネルの色が徐々に変化して、異次元、美の世界へ入って行く導入部分の仕掛けです(昔、『タイムトンネル』というTVシリーズがありましたが…)。

 この3月7日から約11ヶ月、改修工事のために休館の予定にて、それまで開かれている『大名品展』を見逃すことは出来ません。訪れる前からの疑問に思ったのですが、この美術館の名前:『MOA』とは何でしょうか。 人によって「エム・オー・エイ」、あるいは「モア」とも呼ばれるのを耳にし、私などは「Museum Of Art」であれば美術館の意味、これでは「美術館・美術館」と「馬から落ちて〜」になってしまうのでは…、館内の説明では取って付けたように「Mokichi Okada Association」の由にて、岡田茂吉(1882-1955)は、書家、画家、歌人、華道流祖、造園家、建築家、美術品収集家、そして宗教家、いわゆる時代を代表する文化人の割には名付け方のいい加減さが気になるところです。

 後で「秀吉の金の茶室」が有名と聞きましたが、私自身が興味がないのか…、その存在自体を全く気がつきませんでした。教科書で見た国宝、光琳の『紅白梅図屏風』と野々村仁清の『色絵藤花文茶壺』、そしてお目当ての重文、岩佐又兵衛、『山中常磐物語絵巻 第4巻』、『浄瑠璃物語絵巻 第4巻』、彼の自画像に辿り着きます。
山中常磐物語絵巻第4巻

 本物の絵を目の前にして感激、その余韻を楽しみながら敷地内の庭園を散策、やって来たバスに乗って熱海駅前に帰りました。日はまだかなり高く、物見遊山の観光客で賑わう駅前の商店街を抜け、海岸につながる坂道を下ります。

 その途中で見つけたのがこれ、路地裏の急な階段です。遠くに海が見えればもっと良いのですが、残念ながら高層のマンションに遮られています。スケッチはわずか10分、残りは家に帰って写真を見ながら、珍しく集中力も途切れず、この絵を一日かけて描き上げました。数カ所、おかしなところもありますが、許容の範囲としましょう。こんな風景が好きです。
160223熱海路地裏

金色夜叉 熱海とは陳腐ですが、MOA美術館で『山中常盤物語絵巻』を見ることが出来、好きな絵を描くことが出来、もちろん両者には大きな落差はありますが…、大仰に云えば、復活を確かめた旅でした。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 

I appreciate YOUR SUPPORT.  ▼ 皆様のご支持をお願いします。
 にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 

express01 at 21:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

November 08, 2015

鈴鹿の関跡、関宿

 徳川家康は東海道を整備、日本橋から京都三条大橋まで、「東海道五十三次」と呼ばれる宿駅を設置しました。今回、「同窓会」のあった伊賀上野からの帰りに、47番目の「関宿・坂下宿」を訪れました。同じく「同窓会」に参加したAkiraさんとご一緒したのですが、昨年夏も箱根西坂・東坂、東海道で云えば9番目「小田原宿」、10番目「箱根宿」、11番目「三島宿」の間を歩いており、その間を飛ばした続きです。二人で、西の追分を過ぎて坂下宿に入り、現在は「鈴鹿峠自然の家」として使われている古い小学校舎まで辿り着きましたが、近江国との国境:峠はまだまだ先です。
関宿_1 西の追分へ
関宿_2 東の追分へ

 「白村江の戦い(663)」で唐・新羅連合軍に敗れ、 唐・新羅の侵攻を恐れたのか、近江へ遷都(667)、断固たる決意で律令国家を目指し、唐との冊封関係を断ち切ったのです。ここに、天皇制国家:日本が誕生しました。「五畿七道」の一つ東海道は機内の東:伊賀国(三重県)から本州太平洋岸に沿って常陸国(茨城県)に至る諸国で、それぞれの国府は行政区と同じ名の幹線官道:東海道で結ばれていました。

 大陸、沿海州に渤海国が出現(698 -926)、唐・新羅の圧迫に対抗するために、従来の大陸外交の玄関口である太宰府より、むしろ、日本海を横断、敦賀・越前・佐渡を玄関口に渤海使が派遣されるようになり、「壬申の乱(672)」で勝利した天武天皇は愛発(あらち 越前国)・不破(美濃国)・鈴鹿(伊勢国)の三関を設置しました。後に、渤海国衰退が原因か…、逢坂関(おうさか 近江国)が愛発関に取って代わります。  

 近江大津京を除いて、天皇・律令制の時代の都は飛鳥・藤原・平城京など、都は大和国にあり、当初、街道としての東海道は、木津から木津川に沿って東へ伊賀国に入り(大和街道あるいは現在の国道25号)、鈴鹿山脈と布引山地の鞍部を加太(かぶと)越えで伊勢国へ入り、近江大津京・平安京以降の東海道は、伊賀国ではなく、近江国から鈴鹿峠を通る経路となり、ほぼ現在の国道1号のルートに重なります。

 1180年、平重衡は父:清盛の命を受け、南都(奈良)に侵攻、興福寺・東大寺を焼き討ち、反平氏勢力の怨嗟の的となります。「一ノ谷の戦い」で捕虜となった重衡は鎌倉での頼朝謁見を終え、その身柄を南都に送られることになります。鎌倉からの帰路、罪人故か京には入らず、東海道〜大津〜逢坂関〜山科(髭茶屋追分)から醍醐路を南下、日野を経て南都への経路です。「もしや…?、会えるかも…?」と思う妻:輔子は夫の着替えを用意して、護送の一行を待ちます。果たして、一行が輔子が住む日野に差し掛かった時、「この近くに妻がおりますので、今一度対面したく〜」と重衡、警護の武士は涙して夫婦つかの間の再会を許したのです。

 「平家物語」最大の見せ場、欠かせない場面ですが、最初から京の市街通過を避けて、南都(奈良)あるいは処刑地:木津に向かうのであれば、一行は何故この経路を通ったのでしょうか? 関宿「西の追分」から東海道をはずれ、大和街道、かつての東海道、を木津川沿いに西進すれば簡単に、処刑場のある木津、首が晒される般若寺に、少なくとも1〜2日早く到達することが出来たはずです。やはり名場面演出がその理由なのでしょうか。

 残念ながら未だ越えた訳ではありませんが、箱根に次いで、東海道の難所:鈴鹿の峠を制覇した気持ちです。 次回は東海道のどこを歩きましょうか。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 

I appreciate YOUR SUPPORT.  ▼ 皆様のご支持をお願いします。
 にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 

express01 at 09:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

October 31, 2015

俳聖殿

 上野天神祭_2「同窓会」と私だけが呼んでいますが、今年も「伊賀上野天神祭」が催される10月24日・25日にいつものメンバーが集まりました。メンバーの一人、新潟に住む彼は大学時代はワンゲル、京都でのOB会には必ず出席、全国に散らばるOBと共に山へ登っているそうです。彼の伊賀上野入りの目的は、同窓会に加えて、「天神祭」楼車(だんじり)の綱を引くことにあるのです。老い故の体力低下・故障・病気に悩む他の出席者からすればうらやましい彼です。

上野天神祭_5 「上野天神祭」は400年余りの歴史があり、神輿(みこし)・鬼行列・楼車(だんじり)が行列を組んで、上野の町衆街だけを巡行します。伊賀上野は戦国時代、織田信長に反旗を翻した「惣」と呼ばれる自治組織を持つ土地柄、豊かな町衆が自主的に始めた祭です。関ヶ原後に入封した藤堂家も慣例に従わい、むしろそれを楽しんだのでしょう。祭そのものは一回見れば済むもので、残念ながら、彼のように「祭=命」の感覚にはなりません。

 おそらく、芭蕉もこの豪華な「上野天神祭」を見たことでしょう。芭蕉は武士でも、農民・町民でもない、伊賀国では「無足人」と呼ばれる郷士、藤堂新七郎良清の長男:良忠(俳号は蝉吟)に仕えたが、その仕事は料理人でした。良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入るが、良忠は若くして急死、最良の理解者・支援者を失います。西鶴が主流を占める大坂・京には新参者が入り込む余地もなく、芭蕉は一大決意をして藤堂家を離れ、1672年、句集『貝おほひ』を上野天神宮に奉納、江戸に向けて出立しました。

 既に戦国時代は過去のものとなり、平和と安定の世に変わりました。絶対的な立法権と行政権(軍事・警察権)を独占していた武士階級はその社会全体の富を独占できるはずなのですが…、そうとはならず、時の経過とともに貧しくなっていきます。農業生産力の飛躍的拡大、治水・治山・新田・鉱山開発が進み、道路・航路などの交通網が発達、物流が活発化、商品経済が発展、圧倒的に商人の時代、「元禄文化」が生まれます。「上野天神祭」の担い手も時代の主役、上野の町衆でした。

 芭蕉の人生の再出発を誓った江戸入りは大当たり、日本橋小田原町にて俳諧師として一定の成功を収めます。大坂の西鶴をも凌駕する人気をおさめるが、それもつかの間、芭蕉は今まで確立した俳諧師としての豊かな生活を捨て、深川に隠棲します。どうして…唐突に?一説には、彼の妾=内縁の妻:寿貞と甥の桃印との不義密通が理由だったといいます。因みに、〜 夜密かに虫は月下の栗を穿つ 〜とは不気味な、鬼気迫る一句です。彼の失意を救ったのは仏頂和尚、禅との出会いでした。ジェットコースターのような半生も終盤にさしかかります。
151028伊賀上野俳聖殿
 再び芭蕉を襲ったのが、1682年12月、天和の大火(「八百屋お七の火事」)でした。庵を焼失し、再び失意のどん底に落ちます。ここでまたもや這い上がるのが芭蕉で、彼は庵を捨て、「笠」を最小の「庵」と考え、侘び住まいの芭蕉庵も旅の笠も同じ、「旅」という新境地に到達します。結果から見ると、彼の「旅」は俳諧布教の旅であり、訪れた至る所に信者を作り、神格化され、崇められ、あちこちに句碑・記念碑が建っています。そんな芭蕉の旅姿をモチーフにした建物、その名も「俳聖殿」、伊賀上野城内に在り、ありがたいことに、近くに控えているボランティアが芭蕉の一生を語り聞かせてくれます。もちろん、信者の奉仕活動です。

 「年寄りのアイドル」と呼ばれているそうですが、我が同窓会では体力低下・故障・病気そして年金に関して話題に上ることがあっても、芭蕉の話には至りませんでした。来年を楽しみにすることにしましょう。

※参考:永田龍太郎「人間芭蕉記 」 司馬遼太郎「十六の話 ・文学から見た日本歴史」 嵐山光三郎「悪党芭蕉
Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 

I appreciate YOUR SUPPORT.  ▼ 皆様のご支持をお願いします。
 にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


express01 at 10:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

August 30, 2015

行く夏の…、金売り吉次

 8月も末になり、あの異常までのな暑さはどこへ…、気配どころか、一挙に秋本番を迎えてしまいました。あまり乗り気でもない団地内の「夏祭り」も終わって、今年の夏もこのまま終わるかと思えばどこか妙に寂しく、なにかを残さねば、と言う気持ちが沸き上がってきます。予定していた中仙道、馬籠・妻籠宿行きが、Akiraさんの膝の故障で急遽取り止め、それに代わる…かどうかは判りませんが、念願の「金売り吉次」の墓を訪れました。

 Akiraさんと知り合ったのは、二人共通の友人:Toshioさんの住む伊賀上野で催される「伊賀上野天神祭」でした。伊賀上野と云えば芭蕉の出身地、地元では「芭蕉さん」と親しみを持って呼ばれ、小学生の時から俳句を作るという土地柄だそうです。残念ながら、私には文学・詩歌を鑑賞する、ましてや創作する能力はこれっぽっちもありませんが、10月の伊賀上野訪問までには芭蕉のことを勉強しなければなりません。 

 芭蕉西行、義経の足跡を辿って奥州を紀行して『おくのほそ道』を残します。最初の目的地である「日光」、記録上現れるのは鎌倉時代以降であり、それ以前は「二荒神」と表記され、「二荒(ふたあら)」を「にこう」と読み、これに「日光」を当てたものといわれています。芭蕉は舟で「深川」を出発、千手観音が川中から発見された事に因む「千住」、それは浄土教の補陀洛渡海を暗示する船旅で、観音浄土:「日光」を目指します。「死」を暗示、象徴する道程です。

室の八島 けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として知られる大神(おおみわ)神社、五畿七道の時代には下野国国府が在り、その真北に鎮座します。大和国(奈良県)三輪にある、別名:三輪神社を勧請して創建されました。都から赴任してきた役人の多くが歌人だったのでしょう、多くの句碑が建てられています。今回、テニスの仲間の一人、Aさんとご一緒だったのですが、彼は顕彰碑・句碑・古文書の解読を講義する先生であり、今回はまさに「フィールドワーク中の先生と生徒」といった趣です。

吉次の墓 さらに北へ、車で10分、「金売り吉次」の墓が在ります。紀行の随行者:曾良の旅日記に、「吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有」、と記された場所は栃木県鹿沼市壬生町上稲葉1603−5、今も3百年前とほとんど変わらない、収穫を前にした稲田の中にあります。

 1174年、「金売り吉次」の案内で、牛若(遮那王、元服して義経)は奥州に下向したとされます。「治承・寿永の乱(1180〜1185)」後、頼朝に疎まれて、頼朝に出した釈明書:「腰越状」の内容とは矛盾するのはこの話が作られたからなのでしょう。奥州の砂金(などの産物)と京の産物を交易して、奥州・京を往還した商人は存在したと考えられており、「金売り吉次」はその総称と云われています。吉次は三人兄弟の一人、父親は「炭焼き藤太」と呼ばれ、これまた奥深い話があるようです。

吉次の墓_2 壬生町の芭蕉が訪ねた「金売り吉次」の墓他に、もう一つ吉次の墓が踏切横にありました。近所のお年寄り(90歳)の話では、別の場所に在った墓が東武の鉄道工事により移転させられたそうです。この地域には他にも「金売り吉次」の墓や「義経の〜」と称する塚が複数あるそうです。 

 行く夏の…、過ぎ去ってしまえば、あっという間の夏でした。おそらく、人生も…。

参考書:芭蕉 おくのほそ道−付・曾良旅日記 おくのほそ道の旅 身体感覚で「芭蕉」を読みなおす 義経伝説−判官びいき集大成 怨霊になった天皇

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 

I appreciate YOUR SUPPORT.  皆様のご支持をお願いします。
 にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


express01 at 09:57|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

January 11, 2015

一年の計?

早朝の神明神社

 一年の計? 今まで実行出来た例がなく、考えることすら時間のムダです。

 昨年は「官兵衛」に始まり「利休」、友人の住む伊賀上野は「芭蕉」生誕の地、話を合わせるためにも、「芭蕉」を勉強しなければなりません。そこで知り合った友人のまた友人に連れられ、箱根峠を東西から挑戦しました。元ワンゲルの「スジがいい」の一言に乗せられてトレッキングシューズを買ってしまいました。

面白いと思ったのは…、箱根から碓氷に至る山塊の東に「一所懸命」と「名こそ惜しけれ」、極めて合理的な論理とその行動を支える倫理観を備えた、牧場開拓者:独立自営農民:「武士」が誕生、後に鎌倉幕府という半独立国家が誕生したのは日本史上の奇跡ですが、その後の歴史の中で、この精神性が出現するのは、関東ではなくて、遠く離れた…よりによってと言うか、利に敏い上方:摂津(今日の大阪・神戸)に近い播磨国だったというのは興味深いことです。母里友信を歌った「黒田節」の真偽はともかく、黒田官兵衛、大阪夏の陣(1614)の後藤又兵衛の去就はその後も日本人男性の理想像とされ、もうひとつ、安土・桃山から引き継がれ元禄文化として開花する上方町人文化、その中で武士階級衰退の歯止めの作用を果たすことになる、「赤穂浪士事件」は明治維新の到来を遅らせた可能性があり、その後の歴史に大きな影響を与えました。例えば、「桜田門外の変(1860)」、雪の朝、その情景がそっくりじゃないですか…。現に、浪士は「赤穂浪士事件」を参考に襲撃を計画、実際の事件は登城途中を襲撃したのですが、事件後、当時の幕府は井伊彦根藩による復讐、水戸藩襲撃を警戒したのです。

 利休はキリスト教信者だったのか? 堺という町はイタリアのフィレンツェ、ベニスのような町で、利休はキリスト教信者だけではなく、ルネサンスの影響があったのでは?歌会でふるまわれた茶が発展したのが茶の世界、利休は芸術家ではあったが、どうも彼が創りだしたものは何もないのでは…?彼は鑑賞眼を芸術までに高めただけではないのしょうか?

 伊賀上野が生誕地であるが故か…、芭蕉という人間が面白そうです。利休・芭蕉のどちらも僧形、禅宗を学んでいますが、この鎌倉時代に入った禅宗というのがどうも曲者のように思えます。俳句など文芸には全く興味がないのですが、人間:芭蕉には興味があります。友人の奥さんは生まれも育ちも伊賀上野、愛着を込めて「芭蕉さん」と呼ぶそうです。これに同じく、好々爺のイメージを持っていたのですが、実は全くちがった芭蕉像があることを知って驚き、このほうがより人間臭いと好感を持った次第です。彼はかなり「やばい」人間のようです。元禄7年(1694)芭蕉が51歳で没して8年後、「赤穂浪士事件」が発生します。
MERRELL Moab GoreTex
 たぶん、今年もダメでしょうが、トレッキングシューズも買ったことですし…、少しでも、彼等の跡を辿りたいものです。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 

express01 at 11:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

December 07, 2014

やることが後手後手、遅すぎます

 箱根の山、7月には西坂を、三島駅前から歩いて芦ノ湖:箱根関所に至り、8月には東坂を、小田原駅前から峠を目指しましたが旗宿で終え、何れも峠を越えて反対側には到達することが出来ませんでした。我々が歩いたのは徳川幕府が作った道、いわゆる「東海道」で、後で知ったのですが、鎌倉幕府が作った「鎌倉古道」と呼ばれる道があるそうで、前者は谷伝いで通行よりも防御の為、後者は尾根伝いで、あくまで京都・鎌倉間を最短に通行する為のもので、同じ関東にありながら、鎌倉幕府と、その250年後の徳川幕府両者の戦略眼の違いは面白く感じます。いずれにせよ、足柄山・箱根峠は関東・あずま(東)を、古くは朝廷勢力から、幕末には西国の侵攻を阻止する天然の要害でした。

 「鳥羽伏見の戦(1868)」を勝利した新政府軍は御三家の一つ尾張藩、幕府直轄の駿府を何の抵抗もなく通過、いよいよ箱根峠に迫ります。先鋒が関所に至り、兵を関前に整列、ラッパを吹き鳴らせます。ラッパは早朝の静まり返った山に響き、関所を守備する小田原藩兵は慌てふためき、外に整然と官軍の兵が居並んでいるのを見て仰天する有様でした(海音寺潮五郎著:『西郷隆盛 王道の巻』より)。終始、先鋒隊長:渡辺清左衛門(大村藩)の気迫に押されぱなし、拍子抜けの引き渡しでした。


遊撃隊の墓 新政府軍に倣って三島駅から6時間、17.4kmを歩いて箱根関所に至り、140年前には本当に石畳で整備されていたのか?、と疑うような悪路、ここを大砲を引いて登ったとは到底信じられません。小栗忠順・榎本武揚らは主戦論を主張、新政府軍を箱根以東に誘い込んだところで、幕府海軍が駿河湾から攻撃して敵の退路を断ち、陸軍が一挙に敵を粉砕する…と聞いたことがあるのですが、そんな形跡も見当りませんでした。7月に同行の友人:Akiraさんに褒められ、調子に乗って臨んだ8月の東坂、西坂に比べ街道整備が悪いのが理由ではなさそうですが、完全にばててしまいました。お陰で、北条氏の菩提寺:早雲寺から旗宿にかけて幾つか、なにやら小田原藩内での佐幕派・勤皇派の小競り合いがあった由の標識を見かけたのですが…、後に、Matさんにもらった中村彰彦著:『脱藩大名の戊辰戦争』を読んで、この場所で「箱根戦争」と呼ばれる戦いがあったのを知りました。

譜代の大藩:小田原藩十一万石、本来ならば箱根関所で新政府軍の東進を絶対阻止しなければならないのですが、藩主の大久保忠礼(ただのり)は藩内の佐幕勢力を一掃、彼等を難なく通過させ、小田原藩を新政府軍に参加させたのです。江戸城の無血開城がなり、慶喜は上野寛永寺に謹慎します。ここに来て、徳川家を見限ることを潔しとしない者達も確固として存在したのでした。もちろん、そうでない藩もありましたが…。

出撃する林忠崇 佐幕の風土、上総の譜代大名:請西(じょうざい)藩主:林忠崇(ただたか)もその一人でした。「上総義軍」を名乗り、藩主以下70〜80人は脱藩決起、江戸を脱走して木更津に現れた旧幕府歩兵遊撃隊(伊庭八郎・人見勝太郎)と合体、館山を出て相模湾を西へ渡り伊豆・相模を制して東海道の佐幕諸藩を糾合する作戦をたて、幕府海軍軍艦:大江丸で真鶴港に上陸、小田原藩に協力を求めます。

藩主の大久保忠礼(ただのり)は謹慎中の慶喜とは従兄弟同士であるが、藩内は佐幕・勤皇派に別れ、忠礼も腰がふらついて、忠崇に会おうともせず、両家老の口から婉曲に協力を断った。しばらくすると、上野彰義隊決起の報、一日で壊滅してしまったとは知らずに、上野の彼等に呼応しようと、箱根関所を守る小田原藩兵の間に戦闘が始まったが、小田原在宿の新政府軍軍監が威丈高で粗暴だった為、小田原藩はにわかに藩論を佐幕に変え、この関所を巡る戦闘も中止となった。手の平を返したように、忠礼は遊撃隊を小田原城内に迎え入れ、佐幕派藩士たちの目には遊撃隊の行動は「小田原の義挙」に映ったのです。

箱根関所失陥の情報は江戸の大総督府に伝えられ、小田原藩へは問罰軍が派遣されることになります。たまたま江戸に居て問罰軍の派遣をいち早く知った小田原藩士が、彼は一日で上野彰義隊壊滅の事実を知っており、急いで小田原に帰り、主君:大久保忠礼に勤皇を推め、忠礼は新政府への帰順を認めて謹慎したのでした。小田原藩の藩論は二転三転どころか四転、佐幕〜勤皇〜佐幕〜勤皇、もちろん彰義隊に呼応しての決起は腰砕けとなりました。「堂々たる十一万石中また一人の男児なきか」とは小田原城を去る伊庭八郎の言。

 

 遊撃隊と小田原藩は決別、両軍は間もなく交戦状態に入り、なかなか決着がつかないので督戦していた問罰軍が戦闘に参加して、遊撃隊は箱根関所に撤退、間道を通って熱海へ敗走、網代にて首尾よく大船3艘を調達して相模灘を横断、上総館山港に帰投します。館山を出てわずかでしたが、戦いはその舞台を東北に移します。


ここに至っては、全く大勢に影響のない戦い、幕軍のやることは全てが後手後手、遅すぎます。その原因は詰まるところ徳川慶喜、まさに江戸幕府を早く終わらせるために生まれてきた人物でした。
Momo holding sign board-HKX Radio

※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


express01 at 19:15|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

October 14, 2014

散歩の途中<9> 場外編 阪神電車石屋川駅

 10月も既に月半ば、冷静に考えて見ると、今年:2014年もわずか2ヶ月半しか残されていないことに気づき驚愕する私です。

 薹が立ったような甥の結婚式、喜ばしく、見栄もはりたいところですが、現役を退いた今の私には負担というだけではありません。着る機会があるとすればそれはお葬式…と、長らく着たことのない黒の礼服、あれから体型も変わっているし…、白のネクタイはどうするの…。結局、普段とほとんど変わらない格好で出席させてもらいました。おめでとう。

処女塚
 ということで、何年ぶりかの大阪市内で「生(なま)」の大阪弁を耳にし、次の日は神戸まで足を伸ばしました。大阪梅田から阪神電車、急行で御影、各停に乗り換えて次の駅:石屋川、初めて降りた駅なのですが、ここは神戸市東灘区、江戸時代、「灘の生(き)一本」で知られる日本酒の生産地:「灘五郷」の一角にあり、近くの御影地区は阪神間屈指の高級住宅地として有名です。駅を降りて歩いて5〜6分、処女塚(おとめづか)古墳はすぐに見つかりました。よく整備された、こじんまりした前方後円墳で、一角に『小山田高家之碑』を見つけました。 弘化三年(1846)、代官:竹垣三衛門藤原直道が東明村塚本善左衛門・豊田太平・牧野荘左衛門に命じて立てさせた由。

oyamada 小山田高家、遙かの山の上よりこれを見て、諸鐙を合はせて馳せ参つて、おのれが馬に義貞を乗せたてまつて、わが身歩立ちに成つて、追つ懸くる敵を防きけるが、敵あまたに取り籠められてつひに討たれにけり。その間に義貞朝臣、御方の勢の中へ馳せ入つて、虎口に害を遁れたまふ。 - 『太平記』十六巻『新田殿湊川合戦の事』


 当地、小山田荘を開いたのは、平家:秩父一族の一人:有重(ありしげ)、12世紀、当地に至って「馬牧」=「小山田荘」を開き、小山田別当有重を名乗ります。頼朝挙兵の当初は平家方に付いたが、その後すぐに頼朝側に付き、鎌倉幕府成立(1192)後は有力御家人の一人になります。頼朝の死後(1199)、北条氏に謀られて没落(1205 「畠山重忠の乱」)、小山田氏の一部は甲斐国に落ちます。新田義貞挙兵時(1333)、有重から6代目:小山田高家が新田軍の侍大将として鎌倉攻めに参加して小山田城を奪還します。鎌倉幕府は滅亡(1333)しても次の「南北朝」の戦いが待っています。九州から京を目指す足利尊氏軍は、神戸湊川で新田義貞・楠木正成の連合軍と激突(1336 「湊川の戦」)、義貞は自分の馬を射られ、彼の危急を見た高家は自分の乗馬を義貞に与えて逃がし、身代わりになって奮闘、討死します。「恩賞」目的の忠義ではありませんでした。

小山田有重・行滋・高家墓
 時代は大きく下って明治22年、当地の名主が神戸を訪れた時にその碑を見て、そこでは高家が大事に祀られていることを知り、大いに感激、木曽・根岸・上小山忠生標識田・下小山田・図師・山崎が合併して新村を作る際に、その村を「忠臣の生まれた村」、「これからも忠義の者が生まれ出る」ことを祈って、「忠生(ただお)」と名付けました。現在も町名として残っています。西暦で云えば1889年、明治新政府が出来て20年、「尊皇攘夷」を大儀に戦った戊辰戦争は今や昔、「忠君愛国」を国是に「坂の上の雲」を見ていた時代でした。小山田高家はこんな時代に復活したのです。
20121207大泉寺バス停_342
 ご存知でしょうか?明治とまでは行きませんが、昭和初期の趣が色濃く残る「大泉寺」バス停です。


当地、小山田荘、有重の城館跡:大泉寺に、小山田有重・行家・高家、三基の宝篋印塔を見ることが出来ます。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


express01 at 17:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

November 11, 2013

鍵屋ノ辻、しばしの妄想

伊賀上野に住む友人を訪ねました。私にとっては二度目の上野天神祭でしたが、京都嵐山渡月橋辺りで桂川が氾濫したことなどを踏まえ、台風接近を理由に、残念ながら中止となりました。私は去年初めて参加したのですが、他のメンバーは友人の住む町内の山車を引くために毎年参加しているそうで、京都、名古屋、遠くは新潟、私が東京…、さながら同窓会の趣です。友人ご夫妻にはお世話になりました。ありがとうございました。
20131111鍵屋ノ辻道標
外は雨、奥さんのアドバイスで…、歩いてすぐの「鍵屋の辻」に行ってみました。「鍵屋の辻」? そうです、あの…、荒木又右衛門で有名な『伊賀越鍵屋辻の決闘』の舞台です。この仇討物語は次回に譲り、今回は、そこに建つ道標につながる話です。

平重衡護送ルートは、鎌倉を発し東海道を上り、大津〜逢坂関〜山科(髭茶屋追分)で奈良街道(=醍醐路 現在のJR奈良線にほぼ並行 現在のR24?)に分岐、を南下した山城国日野(現在の京都市伏見区)で夫婦つかの間の再会を許され、さらに南下して六地蔵から宇治〜大久保、さらに南下し木津川を渡って木津 重衡斬首の地(安福寺)〜首を晒された般若寺のある奈良に入ります。

その木津川を渡らず、その右岸、大和街道(現在のR163)を東へ、島ヶ原で木津川を渡り、南へ曲がる木津川を再度渡ると、そこが伊賀上野「鍵屋の辻」です。

頼朝の接見を終え、南都(奈良)に向け東海道を護送されるのですが、菅津〜関宿で東海道を分岐、大和街道を進み、伊賀上野〜木津〜奈良のルートが最短距離のはず、何故重衡はこのルートで護送されなかったのでしょうか?
平安末期 東海道

7世紀、天武天皇の頃、律令国家の広域行政区画として『五畿七道』は制定されました。当時、都は平城京、東海道は伊賀国から始まって常陸国までの14国、その諸国府をつなぐのが街道:東海道でもありました。平城京の時代、街道=東海道は畿内を離れると最初の国は伊賀国です。繰り返しますが、平城京〜大和街道(現在のR163)〜伊賀上野〜関〜菅津でした。平安京遷都(794)以降、それまでの東海道は鈴鹿峠越えとなり、富士山の延暦噴火(800年 - 802年)で足柄路が不通となり、代わって、箱根峠を通る街道(箱根路)が整備されました。

平安末期、12世紀末、平家が壇ノ浦に滅びる頃、重衡は南都(奈良)への最短ルート:奈良時代の東海道を通らなかっただけではなく、かといって鈴鹿峠を超えたわけでもありません。菅津から北上〜東山道、墨俣〜草津〜東海道に合流、冒頭に述べた通り、髭茶屋追分で分岐して奈良街道(=醍醐路)とはあまりにも遠回り、『平家物語』最大の見せ場を演出するために、日野〜六地蔵〜木津川のルートをとったのではないか?もし、関で分岐する大和街道のルートをとっていたなら見せ場もなかった…、妙な勘ぐりも頭の片隅をかすめます。因みに、沿道の日野で劇的な再会を果たす奈良街道(=醍醐路)は、平城京の時代、若狭、越前、能登から琵琶湖の西側をやって来た北陸道が、大津〜逢坂関〜奈良街道(=醍醐路)と同じルートを辿って平城京に達するものでした。

1185年、平家の総大将:平宗盛は壇ノ浦で捕虜となり、同じく鎌倉で頼朝が接見、義経に護送されて東海道を京へ向かうのですが、この宗盛護送の一行も、鈴鹿峠を越えず、重衡と同じルート、菅津から北上〜東山道、墨俣〜草津を過ぎた、東山道野洲篠原にて義経の家来により斬首されます。少なくとも二人は鈴鹿峠を越えていません。かつて富士山噴火で足柄路が閉鎖されたように、平安末期、12世紀末、東海道の菅津以西の地域では木曽川、長良川、揖斐川などの水量が増加して河口付近では渡れなくなったのか…、富士山噴火に匹敵するような天変地異の発生で、重衡夫婦のつかの間の再会〜重衡の最後〜供養という『平家物語』最大の見せ場が実現したと言えるでしょう。

「ひだりなら道 みぎいせみち」と刻まれた道標、大きなそれは最近に立てられたものでしょうが、小さなそれは判読は難しく何時の時代のものかは判りません。ここが東海道の一通過点だったのは13百年前の話、時代とともにその役割も変わり、奈良からやって来る『お伊勢参り』のいわば巡礼の道、近世においては藤堂家津藩の官道となりました。「鍵屋の辻」に立って、妄想に浸る一時でした。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


express01 at 20:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

November 01, 2013

平重衡終焉の地

日野法界寺地名が先か、それとも家名?…、ここは山城国日野(現在の京都市伏見区)、藤原氏の一族である日野家の氏寺で、「日野薬師」あるいは「乳薬師」の別名で知られる「法界寺(ほうかいじ)」があります。日野は『方丈記』の著者である鴨長明が方丈を営んだ地でもあり、それ以前の時代には「春日野(かすがの)」と呼ばれ、「春」が抜けて「日野」となった、とは寺の説明です。現に、地図をみると、「日野〜」と並んで、「春日野〜」の地名も多く見られます。

1184年2月、「一ノ谷の戦い」で捕虜となった平重衡は鎌倉へ護送されます。1185年3月、「壇ノ浦の戦い」で平家は滅亡し、重衡の妻:輔子(ほし/すけこ =大納言佐局)は他の女たちとともに入水するが助け上げられ捕虜となった。ともに捕虜となり、何処か境遇が似た夫婦です。戦後は当地に住む姉の邦子(大夫三位)の居所に隠棲していました。それから4年前、1180年、重衡は父:清盛の命を受け、園城寺(=三井寺)を手始めに、続いて南都(奈良)に侵攻、興福寺・東大寺の堂塔伽藍を焼き討ち、反平氏勢力の怨嗟の的となり、処刑を目的に、その身柄を南都に送られることになりました。

鎌倉からの帰路、罪人故か京には入らず、東海道〜大津〜逢坂関〜山科(髭茶屋追分)から奈
木津安福寺重衡墓良街道(醍醐路)を南下して日野を経て南都への経路です。「もしや…?、会えるかも…?」の思いの妻:輔子は夫の着替えを用意して、護送の一行を待ちます。話が出来過ぎな気もしますが…、果たして、一行が日野に差し掛かった時、「この近くに妻がおりますので、今一度対面したく〜」と重衡、警護の武士は涙して夫婦つかの間の再会を許したのです。「平家物語」最大の見せ場、最も感動的な場面です。

重衡墓_2重衡は木津川辺りで斬首、その首は4年前南都侵攻の指揮をとった般若寺(はんにゃじ)の山門に晒されました。輔子は木津川沿いに放置されていた胴体を日野に持ち帰り、亡骸を荼毘に付し、後日、首は法然坊源空に頼んで日野に戻してもらい、ここ法界寺で供養を営み、遺骨は高野山に、墓を日野に建てました。墓を建てたのは阿波内侍(あわのないし 信西の娘、実は孫)という説もあるそうです。
※重衡墓所 by Street View
Street View 重衡墓所

1184年6月、宗盛は敗軍の将として鎌倉頼朝の前に引き出され、京に戻る一歩手前、近江国篠原宿で斬首されました。これを聞いて、建礼門院:徳子は寂光院に、重衡の妻=大納言佐局、阿波内侍がともにこの「大原御幸」に付き従いました。

Kenさんに貸してもらった本:『平家れくいえむ紀行 』(中石孝著)に詳しい、平重衡最後の地ですが、重衡が斬首された木津川には安福寺が彼の菩提を弔うために建立され、梟首された般若寺は今やコスモス寺、日野の重衡の墓は、周りを住宅に囲まれ、掃除の行き届いた児童公園の中にありました。これに比べ、1年前、Kenさんと共に訪ねた篠原宿宗盛胴塚、その日は朝から雨だったからか、はたまた、宗盛の人柄故か…、うら寂しく哀れだったことが気になります。

東京への帰り道、急ぐこともなく…、「小夜の中山」の標識を見つけたので寄ってきました。重衡に焼き払われた東大寺再建のため、伊勢に庵を営んでいた西行が奥州平泉に勧進の旅をしてこの東海道の難所を越えます。彼の人生、二度目の「小夜の中山」、69歳の時でした。 〜 年たけて また越ゆべしと 思ひきや いのちなりけり 小夜の中山 〜

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


express01 at 22:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

January 05, 2013

伊賀上野天神祭

明けましてけましておめでとうございます。本年もご支援のほどよろしくお願い申し上げます。西田氏上野宅提灯

以前から、「見においで」、と声をかけてもらいながら、見たことがなかった『伊賀上野天神祭』を見るために伊賀上野の友人:Toshiさん宅におじゃましたのは去年10月24日、宵山巡航が正に始まろうとする午後でした。

伊賀上野と言えば、地下鉄:半蔵門にその名を残す服部半蔵、織田信長の招きで上方を旅行中の徳川家康一行は「本能寺の変(1582)」の報に接し、彼の手配でこの険しい伊賀国の山道を抜けて、伊勢国から三河国岡崎に帰還します。これを『神君伊賀越え』と呼ぶそうですが、伊賀街道は東海道・中山道のような主要幹線道路ではなく、京都・大和・山城と伊勢神宮を結ぶ参宮道:『お伊勢参り』の道にすぎませんでした。余談ながら、それと同名の味噌漬け物:『伊賀越』は『神君』以前からお伊勢参りの旅人に喜ばれていたのでしょう。ついでに、私も好きです。

1608年、藤堂高虎が伊勢・伊賀二国の大名となり、津を本城に、伊賀上野を支城としたため、津藩の重要な官道として整備されました。『上野天神祭』は、その藤堂高虎の上野天満宮の新・改築、寄進に始まり、元禄年間(1688〜1704)に田楽、能、狂言、疫病退散を祈願して町衆が創作した劇:『鬼行列』が現れ、おおよそ現在の形を成したものと考えられています。
西田宅近くの交差点
伊賀上野、その旧街道沿いにToshiさん宅があり、目の前を『大御幣(おおごへい)』を先頭に、総勢数百の大小の鬼、役行者、鎮西為朝そして9台の楼車(だんじり)が練り歩くのは圧巻です。もちろん家の主人:Toshiさん、それを楽しみに小田原からやって来た客人の二人は、足手まとい…いや、微力ながら…、所属する町内の楼車を牽きます。

面白いのは、元禄時代、疫病退散を祈願して町衆が創作したとされる『鬼行列』。外様でありながら家康の信頼を得た藤堂高虎はよほどの善政を敷いたのか…、彼の生国:先進の近江国につながる伊賀・伊勢が地政学的要地であったからか…、近江商人と並び称される伊勢商人の、松尾芭蕉を生み育てる、町衆・町人文化の肥沃な土壌が生成されていたようです。
鎮西 為朝
為朝は源為義の八男。弓の名手で、鎮西を勝手に名乗り九州で暴れ、「保元の乱(1156)」で父:為義とともに破れ伊豆大島にながされます。ここからは、義経と同じく全くの伝承、伊豆を逃れ遠く琉球に渡る途中、喜界島=鬼界島で鬼を退治します。この鬼を疱瘡(ほうそう)になぞらえ、子供の疱瘡除けのまじないに、為朝の武勇をもって子供を守ってもらおう、という意味でした。

因みに、ここで登場する喜界島=鬼界島、後に平家転覆を画策したとされる『鹿ケ谷の陰謀(1177)』の首謀者:俊寛の流刑地、後に『壇ノ浦戦い(1185)』で敗北した平家の落人の地…として何度も登場します。

祭も終わりに近づいてきました。楼車を牽いた後ろ姿に快い疲れが残る…かどうかは知りません。
巡航も終わり
Toshiさん、ありがとうございました。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング



express01 at 19:52|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

December 27, 2012

2012年近江の旅 結び 〜 雨森芳洲生誕の地 高月

雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう1668〜1755)、私は今回の旅行まで、その名前さえ知りませんでした。勉強を始めたばかりですが…、1668年、高月雨森村の町医者の子として生まれ、京で医学を学び、後に江戸へ出て朱子学者:木下順庵門下に入ります。彼は、新井白石と同門となり、秀才を唱われ、1689年、順庵の推薦で対馬藩に仕官します。雨森芳洲

李氏朝鮮との国交を回復した徳川幕府ですが、はるばる対馬から江戸まで、朝鮮通信使一行を往還半年以上も接待するのは大きな出費でした。第6代将軍:徳川家宣( いえのぶ  在職 :1709〜1712年)は綱吉の残した『生類憐れみの令』を廃止、側用人:柳沢吉保を解任、芳洲と同門の新井白石を登用して財政改革を試みます。経費節減のため、白石はこの朝鮮通信使一行の接待を簡素化を断行、これを期に、徳川将軍と李氏朝鮮国王との間の往復書簡、国書の書式を変更しました。徳川将軍の称号を、「日本国大君」をやめて、「日本国王」にしたのです。

「大君」の称は、中国では天子の異称であるからわが国の場合もその称は天皇に当たる疑いがあり僭越である、というのが白石の考えだったのであろうが、これに異を唱えたのが雨森芳洲でした。王のもとに、文官が支配する朝鮮は「王道」であるが、徳川幕府(中央)と藩(地方)が支配する体制は「覇道」であり、よって徳川将軍は「日本国王」ではない、というものでした。

称号問題は国の基本に関することであり、この年の通信使は、帰国するや、朝鮮国王を日本の将軍と同格にされた責任を問われて処罰されました。「日本国王」の称号が元の「日本国大君」に戻されたのは第7代将軍、吉宗の時代でした。

雨森芳洲の仕官する対馬藩は李氏朝鮮との交易・親善があって成り立つ藩、そこに高給を持って召し抱えられているのですから、対馬藩・李氏朝鮮寄りになるのではないでしょうか?この称号問題、今日に至るまで尾を引いています。そもそも、朱子学は林羅山によって武家政治の基本理念として再構築され、徳川幕府の正統学問となったものです。幕府の正統学問:朱子学の最高峰に在る雨森芳洲が、…上に挙げた芳洲の論理に私の誤解でなければ…、徳川幕藩体制を「覇道」としたのは全く正しいものでした。徳川幕府:武家政権は「王道」に反する「覇道」であり、朱子学による幕府の正統化の論理は最初から成り立っていないことになる。これでは最初から論理の破綻する朱子学を幕府の正統学問としたのは何故なのか…、芳洲・白石の時代になってもその矛盾が解決されていません。矛盾の先送りは、幕末の『尊皇攘夷』、そして、『尊皇倒幕』まで続きます。

607年、倭王から隋の煬帝に宛てた「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」に始まる国書は、中華皇帝の概念を否定して、それまでの冊封関係からの離脱、対等外交の姿勢を表明したものでした。663年「白村江の戦い」で、唐・新羅連合軍に敗れるも、その戦争目的は唐との対等な独立国家を主張するためのものだったと言えるでしょう。以来、日本人は「天皇」を中国「皇帝」と同格に位置づけています。白石の考えもこれと全く同じで、天皇=中国(清国)皇帝は対等/同格、それぞれの臣下が、徳川将軍(日本国王)=朝鮮国王、というものでした。

一方の李氏朝鮮は自らを中華に並ぶ文明国とする一方、中国明王朝に事大する冊封関係にあり、それまでは「北狄、オランケ」(蛮族)と軽蔑していた女真:満州族が、あろうことかその明を倒して清王朝を建国するに至っては、何をもって李氏朝鮮の政治・文化の拠り所とすればよいのか…、かたくなまでの『小中華』しかなく、日本側の「天皇=中国(清国)皇帝は対等/同格」は到底受け入れられないものなのでしょう。それ故か、今日の韓国では天皇を『日王』と呼ぶそうで、これは新鮮な驚きでしたが、その『小中華』を率いる第18代大統領に朴槿恵さん(彼女の父は朴正煕が決まりました。おめでとうございます。

はるか古代から、近江に東山・東海・北国の三街道が始まり、遠く東山道の奧には、道の奧、陸奥(みちのく むつ)が広がり、東海道を行くと、頼朝がその後の日本を決定づける鎌倉幕府を開き、若狭国小浜、越前国敦賀、越国につながる北国街道を遡って斑鳩・大和国にもたらされた先進の技術や思想にあらためて驚かされます。

雨森芳洲庵ケヤキ古代、大陸・朝鮮半島からの渡来人が多かった地に、近世、李氏朝鮮との外交に尽力した雨森芳洲が生まれたのは不思議な縁と言わざるを得ません。遠くその源をインド・ペルシャに求められる『十一面観世音菩薩像』、戦国時代には住民が信長の焼き討ちから守り、秀吉が長浜の街を作り、江戸時代には雨森芳洲を生んだ高月、この地を結びの地としましょう。KENさん、『2012年 近江の旅』をありがとうございました。

東アジア交流ハウス:雨森芳洲庵の横には大きなケヤキ、古くはこの地、ケヤキに因んで高槻と呼ばれていたそうです。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング



express01 at 18:00|PermalinkComments(2)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

December 17, 2012

2012年近江の旅 Episode 7 〜 『ツァラトゥストラはかく語りき』

前回の『2012年近江の旅 〜 湖西 朽木街道』書き終わってみて、何か…、物足りない感じです。

「白村江の戦い(663)」で唐・新羅連合軍に敗れ、朝鮮半島の足場を失い、同盟関係のあった百済からの難民を受け入れ、唐(中国)との冊封関係を断ち切って律令制度を目指した日本が総力を挙げ、「天下泰平」「五穀豊穣」「万民快楽」を祈願して建立されたのが東大寺大仏でした。

冬至もまだ、今年の冬も始まったばかりで、まだまだ先の話ですが、関西では二月堂の「『お水取り』(3月12日深夜)が終わると春がやって来る」とよく言われます。正しくは『東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)』と呼ばれ、完成した752年に始まり、以降一度も途切れることなく続いています。この間、多くの行事が行われるそうですが、一部は全くの非公開:秘密の儀式だそうで、今回ご一緒したKENさんはその最大の秘儀、大きな松明を振り回す火天、酒水器と散杖を持った水天が対峙し、法螺貝や鈴錫杖の音が鳴り響き渡る、ユーモラスな『達陀(だったん)の踊り』を見る機会に恵まれたそうです。その秘儀を見てその感激が覚めやらぬ彼は『達陀(だったん)』という響きに何かエキゾチックな妄想を重ね合わせたのはごく自然ななりゆき、話を聞いただけの私にもそれが遠い異国の風景に繋がるように思えてきます。

この東大寺二月堂の「お水取り」に先がけて、毎年3月2日に行われる若狭小浜市神宮寺の「お水送り」、若狭鵜の瀬から10日間かけて東大寺二月堂「若狭井」に届くといわれています。「お水送り」という言葉も知りませんでしたが、若狭と平城京とが地下水路(?)で結ばれていたとは、若狭と平安京を結ぶ『鯖街道』、中世の『朽木街道』の話どころではありません。奈良の「若狭井」で若狭の水を汲むということは、渡来した先進思想・技術を受け入れて倭国に春がやって来る、日本があまねく照らされる、開化されるということのでしょう。

古代より秦(はた)氏・漢(あや)氏など、「白村江の戦い」の敗北では百済の難民、優秀な技術者集団が若狭小浜あるいは越前敦賀に辿り着くのは容易なことでした。彼等は琵琶湖の水路、あるいは東西両岸を南下してそれぞれの地で定住していきます。彼等と共に先進の仏教思想、仏像制作・鋳造技術ももたらされました。若狭小浜あるいは越前敦賀は正にシルクロードにおける日本のメインゲートでした。

東大寺大仏は正に中国から伝来の『毘盧遮那如来』、密教では『大日如来』、「光をあまねく照らす(遍照)」如来の意味で、元は西のインドから伝来した『光明仏:ヴァイローチャナ』、その根源はさらに西のペルシア(今のイラン)から伝来した『アフラ・マズダー (Ahura Mazdā)』、ゾロアスター教(=拝火教)の光明神です。

『達陀(だったん)』秘儀はこのゾロアスター教に深く関わっているという説もあり、かつては松本清張が小説:『火の路』を書いてゾロアスター教がシルクロードを通って飛鳥・奈良までまでやって来たとしている。時代が遡れば遡るほど、古代になればなるほど、仮説の領域が大きくなり、想像力を膨らますことができ、一歩間違うと…、UFO、超能力、超常現象、ユダヤ陰謀論と同じ、「トンデモ」ない与太話になってしまいます。実は、この類の話、私も好きなのですが…。

数年前、私にとっては初めての中国大陸:広州に行ってきました。驚いたのは、街に多くのイスラム教の寺院:モスクが在り、中国人とは全く異なる顔立ちで、回族と呼ばれる人々がいることに驚いた記憶があります。もちろん彼等の起源は唐からモンゴル:元の時代に、シルクロード=中央アジアやインド洋を経由して渡ってきたアラブ系・ペルシア系の外来ムスリムです。彼等は色目人と呼ばれ、倭の国が遣唐使を送った長安は国際都市、多くの色目人がいたはずで、遣唐使は仏教を学びに行ったが、そこには仏教徒だけではなく、イスラム教徒・ユダヤ教徒・キリスト教徒、それら宗教の根源:ゾロアスター教徒も居たはずです。彼等、あるいは彼等の先祖が日本に辿り着いたとしたら…。もうやめましょう。

信長による「比叡山焼き討ち」で、開山以来7百年、守られてきたさすがの「不滅の法灯」も不滅ではなく、消えてしまいました。再建に際し、同時期(平安時代)に開山不滅の法灯した出羽国(今の山形県)立石寺(りっしゃくじ)に分灯され、守り続けられてきた火を、京まで運んで、再び「不滅の法灯」としたそうです。因みに、この立石寺、芭蕉が「奧の細道」で訪れ、「静かさや 岩に染み入る蝉の声」を残しています。         ※「旅スケ」からお借りしました。

ゾロアスターはドイツ語でツアラトストラ、フリードリヒ・ニーチェの同名の著作にインスピレーションを得て、リヒャルト・シュトラウスが1896年に作曲した交響詩:『ツァラトゥストラはかく語りき(Also sprach Zarathustra)』、映画:『2001年 宇宙の旅』にも使われているのが印象的です。


Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング



express01 at 19:30|PermalinkComments(3)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

December 12, 2012

2012年近江の旅 Episode 6 〜 湖西 朽木街道

「朽木街道を行ってみましょう。」 私の提案に、即座に「湖の西は何もない。面白いのは、やっぱり湖東。」とは、関西に在って事情に詳しいKENさんの言。これが『2012年近江の旅』のきっかけでした。

1573年小谷城が落城。城主:浅井長政は奥方:お市の方と三人の娘を城外に逃し自刃したが、信長は長政の頭蓋骨で杯を作らせて戦勝を祝ったのは信長の狂気によるもの…、というよりは、「裏切られるとは毛頭考えてもいなかった長政に裏切られた」のがこの狂気の動機だったかも知れません。
それに先立つ1570年、信長・家康連合軍は京を出陣、朝倉家を撃つべく湖東を北上します。金ヶ崎に至って、思いもよらぬ長政の裏切りに背後を脅かされ、その前進を朝倉勢に阻まれた信長は「袋の鼠」も同然。史実かどうかはともかく、お市の方が兄:信長に「両端を結んだ小豆」を送って、危急を知らせたという話はこの時のこと。

長政の裏切りを察した信長は全軍退却を命令、秀吉を殿(しんがり)として撤収を開始します。熊川宿往路の湖東は長政軍によって塞がれており、信長軍は西の若狭国に逃れ、小浜 → 熊川宿 → 保坂 → 朽木宿 → 花折峠 → 大原八瀬 → 出町柳、湖西の朽木街道を京へ撤退します。

この撤退戦で信長軍の案内をしたのが高島の豪族:朽木元綱でした。かつて足利将軍家の奉公衆であった縁で、12代将軍:足利義晴及び13代:義輝を保護、将軍を慰めるために造ったとされるのが「旧秀隣寺庭園(足利庭園)」なのですが、足利庭園-2途中の見所といえば、この庭園と熊川宿、その熊川宿も街おこしで出来て日が経っておらず、どう見ても未だしっとりしていません。別名:『鯖街道』、若狭湾で捕れた鯖に塩をまぶして夜通し京都まで運ぶとちょうど良い味になることから、「京は遠ても十八里」(72km)と唄いながら寝ずに歩いて行商したといわれ、はたまた、別名:『十八里街道』の由。

1571年、狂気の反撃戦が始まります。まずは浅井・朝倉に味方する比叡山延暦寺を焼き討ち、続いて、叡山傘下、あるいは浅井・朝倉の保護下にあった湖岸一帯の古寺古刹をことごとく焼き討ちしたという。湖東の今に残る仏像(如来・菩薩・明王・天)の多くは、信長の焼き討ちを逃れるために、地元の農民が仏像を担いで信長軍の目の届かない所に避難、厳しい追求を逃れて地中に埋めて難を逃れたもので、一般民衆による強固な宗教心がそうさせたのでしょう。叡山など大寺院による権威じみた宗教勢力に対抗した信長に喝采を送ったりする私ですが、身を挺して仏像を救い、今日も住民が仏像を守っている姿を目の当たりにして頭が下がります。

湖北高月(たかつき)に在る渡岸寺観音堂(向源寺)『十一面観世音菩薩像』もその災難に遭った仏像の一つで、地元住民の機十一面観音転で土中に埋蔵して難を免れたといいます。像高:1.95mの一本彫成の平安初期の様式を代表する傑作で、奈良法隆寺の十一面観音と並び称されるそうです。少し前のめりな姿の回りを間近に廻り、鼻筋の通った顔、少しひねった豊かな腰つき、素人の私が見ても、遠くインドや西域の風が感じられます。仏教伝来は6世紀半ば、とされますが、それ以前より百済から多くの渡来人がこの地にやって来て定住,彼等と一緒に仏像や経文などが持ち込まれたはずで、若狭国敦賀から近江湖北・湖東にかけては高度な仏教が普及した先進の地域であったということでしょう。

※ Amazon:十一面観音 

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング


express01 at 21:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

December 03, 2012

2012年近江の旅 Episode 5 〜 篠原 宗盛胴塚

元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)、「壇ノ浦合戦」に勝利した義経は京に凱旋、これを賞して後白河法皇は義経とその配下の御家人達を任官させます。これを知った頼朝は激怒、義経以下の東国への帰還を禁じます。その命令に反して、義経は兄:頼朝への弁明を目的に、5月?日、平宗盛・清宗父子を護送するという名目で鎌倉に向かいます。

鎌倉は、東海道を東へ、足柄峠を越えた坂東の地、相模国の小さな一寒村に過ぎませんでしたが、急に表舞台に登場します。当時は揖斐川・長良川・木曽川の河口の幅が広くて渡河出来なかったのか…、京を出てすぐ東海道を行くのではなく、東山道(近世における中山道)を美濃国に入り、加納で木曽川を渡り、尾張国を迂回するように南下、東海道に入って東進、14〜16日間の旅程だったそうです。

義経 宗盛護送経路?_2
甚目寺町歴史民俗資料館の地図を拝借しました。

それは平家全盛の承安4年3月3日(1174)、鞍馬寺で「遮那王」と名乗っていた牛若は、金売り吉次と陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)を同道して奥州の藤原秀衡の館を目指して京を脱出、東山道を「篠原」から「鏡宿」(現滋賀県竜王町)に至ったところで、追手が稚児姿の牛若を探しているのを知り、急ぎ髪を切り烏帽子を着けて元服しました。

感慨深く…、義経はこの地を通り過ぎたに違いありません。鎌倉の手前:腰越に至るも、義経は頼朝の命令で鎌倉へ入ることを許されず、そこで5月15日から6月9日までの間留め置かれます。6月5日、大江広元を通じて頼朝宛に異心のないことを書状で送ったのが『腰越状』でした。

これが、あの清盛の息子…?、平家の総大将だった…?、とみんなが呆れる宗盛は頼朝との対面を終え、鎌倉入りさえも許されなかった義経に護送されて元来た京への路を戻ることになります。義経の失意は、京への帰路、何時どこで兄:頼朝との決別の決意に変わったのでしょうか?変わったのは義経だけ…、宗盛は相も変わらずとぼけたまま…、「ここで斬られる」、「ここだろうか」、「きっとここだ」と、恐怖に顔が引きつる毎日です。いつの頃からか、「ひょっとしたら助かるかも…」と、宗盛は淡い希望を取り戻しますが、息子の清宗は父への返答を声に出す気にもなれません。「首が腐らないように京の近くで斬られるだけですよ。」

またもや、11年前に義経が元服した「鏡宿」を通り過ぎ、京を目前にした6月21日、宗盛を「篠原」、清宗を「野路口(滋賀県草津市)」にて斬首。

現在の国道8号線と東山道(=中山道)が奇妙に交差しています。近くまで来ているはずですが、どうも場所を特定できません。Kenさんが街道沿いの何軒かのお宅を訪ねてやっと判りました。今や営業されず廃屋になっているガソリンスタンドの横の脇道を入っていくと、その廃屋もさることながら、朝から雨、妙にうらさびしく、哀れな胴塚です。
平宗盛胴塚_2

宗盛・清宗父子は捕虜となって京六条通りを引き回され、本来ならば、後は静かに斬首を待つだけであったはずでしたが、兄:頼朝の命令に背いた義経は父子を利用、頼朝の歓心を買うために、命じられてもいない父子護送で京・鎌倉を往復、40日間を徒労してしまいました。父子の首が、今度は、三条通りを西へ引き回されるに至っては、義経の失敗のとばっちりを喰うようなもので、父子はそこまでの辱めを受ける必要はなかったように思います。6月23日、父子の首は六条河原で獄門に晒されます。

文治5年(1189年),藤原泰衡は義経主従を衣川館に襲い、義経は自害します。首は酒に浸して43日間かけて鎌倉に送られ、6月13日、その首実検が行われたのが、何故か…腰越、やはり鎌倉へは入れませんでした。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング



express01 at 14:20|PermalinkComments(2)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

November 21, 2012

2012年近江の旅 Episode 4 〜 野洲妓王寺

その時もKENさんと一緒でした。「ほんまに、坂本の穴太衆(あのうしゅう)が作ったんかいな…?」、と思われぐらいに雑な造りの石段をぜいぜいと息を切らして登った安土城天守閣跡。織田信長の当時(1534-1582)は琵琶湖が眼下に迫り、湖上輸送が活発だったのでしょう。それから4百年、今はその面影もなく、水辺は遙か西に移動してしまっています。琵琶湖

「どうして琵琶湖はそう呼ばれるの?」と疑問に思ったことはないでしょうか?地図を見ればその形が楽器の琵琶に似ており、琵琶湖と呼ばれることは極めて当然なように思えますが、一般化したのは江戸中期以降の由で、古代(平安時代以前)においては「淡海(おうみ)」と呼ばれ、古代律令制下の国名:近江(おうみ)につながっています。伊能忠敬の「琵琶湖図(1807)」を待つまでもなく、若狭湾と都を結ぶ航路を行き来する船乗りは南北を移動するに従って水辺・地形の湾曲は想像できたのでは…、あるいは比叡山延暦寺からの眺めで十分だったのかも知れません。正解はこれのようです。→『「琵琶湖」の名前

この地は、多くの渡来人が入植し、北陸・東山・東海の三道が合流し、湖上輸送で若狭湾と都を結ぶ交通の要衝、特に東岸は、稲作の発展に伴い耕地面積を増やすために地道な干拓工事が行われたのではないでしょうか。古代の「淡海(おうみ)」は徐々に形を変え、ある時期から明らかに琵琶の形になった…。これは仮説…、というよりも、単なる思いつきに過ぎません。

平清盛は(機内)摂津国福原に大輪田泊を修築(1162)、音戸ノ瀬戸を開削(1167)などの大規模な土木工事を成功させていますが、ここ近江国では灌漑用水を開いています。「妓王井川」は野洲川を水源とする三里、12kmの灌漑用水路で、十か村もの田畑を潤し、現在も大事に守られ、感謝されています。妓王(ぎおう)は母の刀自(とじ)、妹の妓女(ぎにょ)とともに、京都で有名な白拍子となり、清盛に寵愛されました。妓王は故郷の村人が水不足に苦しんでいるのを思い、清盛に願い出て、開かれた用水路がこの「妓王井川」でした(1173)。

それから3年後、年若い白拍子:仏御前が現れますが、清盛は彼女を門前払いにしますが、妓王はそれをとりなしで、清盛の前で舞を舞うことになります。その舞を見た清盛はすっかり仏御前に夢中になり、清盛の心は妓王から離れ、母妹ともども屋敷を追い出されてしまいます。嵯峨野の奧に庵を結んで仏門に入りますが、清盛は妓王を仏御前の慰み相手に選び、あろうことか、妓王に用意されたのが下座であったのは屈辱でした。妓王の憂き目に自分の行く末を重ね合わせた仏御前は、妓王の後を追って仏門に入ります。時に、祇王21才、祇女19才、刀自45才、仏御前17才でした。

古くは、巫女として神に仕え歌踊を行っていたのが、後に諸国を放浪、宿・港など人の集まる場所で歌踊を行いながら、売春も行う遊女が原型でした。交通の要地で活動しているため、自ずと芸能の伝承・伝搬に重要な役割を果たします。彼女らは後に都市部に定住、院政時代以降に白拍子が流行して、貴族の屋敷に出入りするようになります。妓王親子は近江国野洲、仏御前は加賀国、義経の愛妾:静御前は讃岐国出身の「白拍子」であり、後白河法皇の今様の師匠:乙前、平治の乱に敗れた源義朝が頼った妾:延寿、いずれも美濃国青墓宿出身の「傀儡女(くぐつめ)」と呼ばれる遊女でした。ともに「今様」を得意としますが、「傀儡女」とは違って、「白拍子」は踊ることも出来ました。

訪れたのは妓王寺_1妓王・妓女・刀自が生まれ育った近江国野洲「妓王寺」、すでに稲の刈り取りが終わった田園地帯が遠くまで小雨にかすんでいました。機会があれば妓王親娘の墓所の在る嵯峨野「祇王寺」を訪れてみましょう。仏御前も一緒でしょうか…。

琵琶湖の形に始まり、何の脈絡もなく、白拍子・傀儡女で終わりました。


Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング


express01 at 20:32|PermalinkComments(2)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

November 14, 2012

2012年近江の旅 Episode 3 〜 大津義仲寺

義仲は『倶利伽羅峠の戦い(1183)』では捕虜にした平氏の瀬尾太郎兼康を「失うには惜しい武士」と助命、しかし瀬尾は再び敵に回って抵抗、怒り心頭の義仲は彼を攻めて自害に追い込みます。最後まで善戦したと聞くと、「やはり、殺すには惜しい男だった」と悔やんだという。

5万の軍勢で都入りした当初は、義仲は日の出の勢いで上洛し、「旭将軍」と都人に喝采を持って迎えられたのもつかの間、義仲軍の駐屯は飢饉を悪化させるだけで、都・殿上人の習慣・礼儀・作法を知らない厄介者、田舎者と蔑すまれます。

一時はクーデターを成功させ、征夷大将軍の地位につくも、やがて頼朝の命で鎌倉から上ってきた源義経・範頼の軍に『宇治川の戦い(1184) 』で破れ、散り散りにになりながらも、「死なば一緒」と誓い合っていた今井兼平と共に、粟津ヶ原での最後の戦いに挑み、幾度かの突撃でその数はわずか5人、その中に兼平の妹、義仲の愛妾:巴(ともえ)御前も入っていました。最後の最後、巴御前を逃した後、死地を目指すべく馬を走らせるが敵の矢を受け即死、享年31歳、それを見て、兼平も馬上で太刀を口にくわえ頭から飛び降り自刃します。

数年が過ぎ、いつしか、美しい尼がこの墓所の畔に草庵を結び、日々の供養に努めていました。この尼こそが義仲の愛妾:巴御前の後身でであったという。

芭蕉は、一説には、好きだった義経の足跡を訪ねて、『奥の細道』を旅したのですが(1689)、旅から帰って間もなく、それもまた旅先の大坂で亡くなります(1694)。「骸は木曽塚に送るべし」とは彼の遺言、不思議なことに、彼の故郷:伊賀上野ではありませんでした。

義仲・巴・芭蕉墓・義仲寺門前
義仲は、人懐っこい人情家、人を信じて受け入れるが、これが過ぎて裏切られる、無骨で粗野な田舎者、男女を問わず、人を惹き付ける人間的魅力のある人間…、裏を返せば、どこか滑稽さが漂う、無教養な、ぱっと出の(成り上がりの)人間。怜悧な頼朝、酷薄な作戦の義経という源氏、関東武者の中にはない存在で、英雄として非業の最期を遂げた義経ではなく、どこか、おっちょこちょいで人間味が感じられる義仲に強く惹かれるものがあったのでしょう。

又玄(ゆうげん)の有名な句:「木曽殿と背中合わせの寒さかな」には芭蕉の思いが伝わって来ます。

我々の『2012年近江の旅』は、『奥の細道』の「結びの地」:美濃大垣から始まり、二人の「結びの地」:『義仲寺』を訪問することになりました。粟津ヶ原も今は昔、『義仲寺』は大津の街中に在り、寺というより、集会所あるいは庭園の趣です。晩年、芭蕉はここの「無名庵」と京都嵯峨の「落柿舎」を往来することになります。
義仲寺バナナ

10月23日、今日は雨、まだ肌寒いというほどでもなく、庭のあちこちにバナナの大きな葉、何と居心地の良い処なのでしょう。

eyecatch_amazon_2おくの細道

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング


express01 at 20:39|PermalinkComments(2)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

June 15, 2012

白河の関

平安時代、都人(みやこびと)にとっては陸奥(みちのく)ははるか彼方の異国の地、異国情緒を感じる、唐突ですが…、言わば『カスバの女』(演歌調でありながらエキゾチック)のような地域だったようで、山城(京都近郊)、大和(奈良)に次いで多く歌われています。

西域_2『街道をゆく − 北のまほろば』で、司馬遼太郎が言うには…、「唐の詩人がときに憧憬した西域までも、平安貴族は好んだ。ただ、どう想像していいかわからず、レールが転轍するように、関東のかなたにひろがる陸奥(みちのく)の天地を連想した、と私は考えている。」 

平安貴族は教養が高かったのですが、どうやって彼等は「西域」と「陸奥(みちのく)」を重ねて連想することが出来たのでしょうか?彼等の学んだ中国語(漢文・漢字)でく西域の情景・イメージを理解し、それを自らの和歌で伝えたのでしょうか?出来たとしたら、どの歌がそれなんでしょうか?和歌の知識は全くないのですが、彼等の憧れた「西域」が「陸奥(みちのく)」に投影されているのであれば、彼等の歌に何らかの形で反映されているはずですが…、そんなことでもないようです。

陸奥(みちのく)への憧憬・異国情緒、陸奥(みちのく)趣味は、征夷大将軍:坂上 田村麻呂(758-811)は蝦夷討伐の遠征から凱旋(801-804)し、多くの陸奥(みちのく)情報が京にもたらされたこともその背景にあったと思われます。あきれた話ですが、『源氏物語』の主人公:光源氏のモデルの一人といわれる、源融(みなもとのとおる 822 - 859)は陸奥国塩釜の風景を模して六条河原院を造営、塩釜を模すための塩を毎日、難波の海(大阪湾)の汐を汲んで運ばせたと伝えられます。かと言って、如何に平安貴族に陸奥(みちのく)への憧憬・異国情緒があるにせよ、陸奥国塩釜の風景を模したり汐を汲んで運ばせることが、唐の詩人が憧憬したことに繋がるなど想像も出来ません。「西域」への憧憬・異国情緒と「陸奥(みちのく)」へのそれは全く別物ではないでしょうか。

平安中期、能因(のういん 988-1058?)が、平安末〜鎌倉初期に、能因の跡を追って西行は1147年と1186年の二度、そして江戸期には、二人の足跡を追って、芭蕉は1689年、陸奥(みちのく)を旅します。
古代東海道
平安時代の彼等は京を発ち、鈴鹿峠、 小夜の中山(遠江国) 、足柄山を越えて坂東(相模国)に入り、横山(武蔵国 ※筆者:イサオの住む町田市と多摩市との境)を北上、府中を通って、安中(上野国)にて東山道に入り、白河関(下野国)を越えて陸奥(みちのく)へ入りました。ある役人の日記では、9月15日に京を出発、11月17日に白河関を越えて陸奥へ入ったそうで、赴任地である多賀城(陸奥)に到着したのが年の暮れ、その間3ヶ月半、さぞ困難・難渋の旅だったでしょう。

その白河の関、芭蕉の訪ねた江戸期(1689)には関の役割はかなり前に終わっており、その関所跡を特定することさえ困難でした。陸奥(みちのく)は、もはや未知の国ではなくなっていました。白河藩主:松平定信は、白河の関の場所を研究して、旗宿という地に在る白河神社を白河の関跡と断定して今日に至っています。空堀が巡らされており、8〜9世紀頃まで蝦夷の南下を防ぐ「砦・柵」、平安末期までの奥州藤原氏の領土の境、としての白河関の役割から言えば妥当な決定でした。
白河関 sketch_2
白河関(境の明神 陸奥側)しかし、個人的には、旧陸羽街道(国道294号)に沿って並ぶ「境の明神」二つ、下野国側の関東明神(住吉神社)と陸奥国側の奥州明神(玉津神社)、これこそが白河関跡にふさわしく見えてしまいます。

深い森

『陸奥(みちのおく)』へ、『未知の世界』へ、『別の世界』へ、自分の『内部世界』へ通じる入り口が『白河の関』でした。
※新世界(New World)へ通じる入り口は地中海の西の端:『ヘラクレスの柱』

何が平安貴族を陸奥(みちのく)への憧憬・異国情緒・趣味に駆り立てたのかは判らず仕舞いです。『カスバの女』は判るのですが…。

※ Amazon: 「北のまほろば―街道をゆく」 「カスバの女」

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Playerでお聴きになれます。   
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング   


express01 at 17:50|PermalinkComments(2)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

January 08, 2009

クリスマス、無理して、イギリスドライブ旅行

息子はヨーク(York)で9月から生活を始めたばかり、電車で2時間をかけて(約350km)、わざわざロンドンまで来てくれました。お金の面から見ればあまり気が進まなかったのですが、こんな機会はたぶん最初で最後(?)とばかり、その彼とクリスマス休暇を利用して、二人でイギリスをドライブ旅行しようということです。

まずは予想が的中。レンタカー営業所のスタッフ曰く、「当然マニュアル。オートマティックは例外で、アメリカ人旅行者が無理してマニュアル車を運転して潰してしまうこともある」。教習所ではマニュアルを運転するが、卒業後はオートマ車しか運転したことのない若い世代の人には困難、若いときにオートマ車を小馬鹿にした世代には、マニュアル車のクラッチとギアチェンジが体に染みついていて、オートマ車に乗り慣れた今でさえ何ら問題なく運転できるのが不思議なぐらいです。久しぶりに父親としての威厳を示すことは出来ても、全行程を運転する羽目になり、これが後日、「やっぱり」という結果になってしまいます。

Petrol Satattionそれにしても、予約してある車がありません。当初は「車のあるところ我々を連れて行く」という話が「やはり、車をこの営業所に持ってくる」に話が変わり、かれこれ1時間待たされてしまいました。「車を持たないロンドン子がクリスマス休暇を故郷に帰るべくレンタカーを使い、今が最も忙しい時期…」と我々には関係のない弁解。


やっとのことで出発! 巡航速度で走っているとマニュアルであることを忘れ、まして粘りのあるディーゼル車であれば、減速してもギアを落とすことを忘れてしまいます。停車までクラッチを踏まず、エンストしてしまうこともやらかしてしまいました。
M1_LDN to York
予想通り「イギリスの冬は曇って暗い」。太陽は東から昇り、北半球では南側を移動するはずなのですが、空は一面灰色太陽の位置が判りません。地図上で出発地は判るのですが、いざ走り出すと現在地がなかなか判りません。マニュアルが当たり前であれば、いわんやGPS(カーナビ)〜おや。実際に自分がいる場所を地図上に照合させるのはなかなか難しいものです。

イギリスですから、日本と同じ左側通行。ということで問題ないのですが、借りた車がプジョー、フランスの車でした。方向指示器を出そうとしたらワイパーが動き出します。ステアリングの左右にあるスイッチバーが逆ということです。それもそろそろなれてきた頃に次の難関が待っています。

効率的な交差点システムでイギリス発祥とされるラウンドアバウト(Roundabout)が現れます。なれると車の流れを極めてスムースに各自の行きたい方向に連れて行ってくれます。…が、日本人ドライバーにとってはこれがくせ者、左折は問題ないのですが、それ以外への進行が問題です、左折・直進・右折だけであればそれほどの問題はありませんが、道路が放射状の場合、ましてや、交わる道路・ラウンドアバウトが2車線の場合は戸惑ってしまい、島をぐるぐる回る羽目になります。これは、ニューヨークで外気温と遮断する為の回転ドア(Revolving Door)になれない日本人が戸惑うのと似ているような気がします。

雲がたれ込め、太陽の位置が判らなかった…ということで、ロンドン市街を抜け、M1と呼ばれる北へ向かうハイウエイに乗るまでにかなりの時間を要してしまい、ヨークに辿り着いたのは6時頃、既に日はかなり前に沈んでいます。

discount couponHong Kong Express では
【期間限定 お年玉・クーポンプレゼント中!】
【お肌にたっぷり水分補給・保湿!Alpure うれしい価格で登場!】



express01 at 16:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
Profile

ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

Back Issues At A Glance
Comments
ISAO's Bookshelf
人気ブログ ランキング
NINJA
Search