History_World

September 03, 2010

あ〜あ〜、川の流れのように…

林子平林子平(1738 - 1793)はその著:「海国兵談」で、「江戸の日本橋より唐・オランダまで境なしの水路なり」と記して、海防・海軍力強化の急務を訴えますが、人心を惑わす、を理由に発禁処分となります。幕末攘夷思想に大きな影響を与え、NHK『龍馬伝』で描かれている坂本龍馬の『海援隊』、その遺志を引き継ぎ海運業を、明治に入り三菱財閥を興したのが岩崎弥太郎でした。

幕末から明治にかけて、西欧の文物・概念を翻訳する必要に迫られ、漢語によって翻訳した和製漢語が多く作られました。福澤諭吉が「自由」、「経済」、「演説」、「共和」、西周が「科学」、「技術」、「芸術」、「哲学」等の漢語を作ったそうです。深い漢語の教養があるからこそ出来たのでしょうが、「亜米利加合衆国、United States of America」とは誰が作ったのでしょうね。「亜米利加」は単に音をあてただけ、「合衆国」には「そのはずだ」という訳者の気持ちは伝わるものの、言われるように「合州国」の方がより適切に思えます。

日清・日露戦争を見て近代化を推し進める中国、多くの留学生が日本に学び、彼らは多くの和製漢語を中国に持ち帰ることになります。そのうちの一人、孫文(1866 -1925)は「辛亥革命(1911)」で清朝を倒し、「中華民国」建国を宣言します。彼の死後は蒋介石に引き継がれ、率いる国民党と共産党との内戦状態から対日政策では国共合作へ、日本の敗色が決定的になると再び内戦、結果、1949年、国民党は破れて台湾に逃れ、毛沢東率いる共産党が「中華人民共和国」を成立させます。

明治期の和製漢語があってこそ西欧の思想が中国に広がり近代革命が成されたわけで、最終的に勝利した「共産主義」、それに基づく国家が「人民」、「共和制」という和製漢語があってこそ実現したというのは興味深いことです。※和製漢語の詳細な研究がされています。→ 『哲学字彙の和製漢語』

大菩薩峠『峠』、いつ頃出来た和製漢字(この場合は漢字)かは知りませんが、近世以前からあったのでしょう。何故か時代劇の一場面を思い浮かべる、旅情をそそる、ロマンのある言葉で、『大菩薩峠』が極めつけでしょう。

もう一つ同じようにロマンを感じる和製漢語があります。『分水嶺』、『峠』に比べると断然モダンな響き、当然のことながら明治期、地学・地理学を学ぶ上で造語されたのでしょう。英語でdivide、dividing mountains、dividing ridge、dividing range の文字通りの訳語です。

日本には「中央分水嶺」があり日本を太平洋側と日本海側とを分けるもので、峰(…とは限りませんが)のこちら側に落ちた雨は太平洋(あるいは瀬戸内海)に注ぎ、向こう側に落ちた雨は日本海に注ぐ。僅かな差で太平洋と日本海に、全く違った旅路を辿ることになります。どこか人生に重なるところがあるようで…、思わず口ずさんでしまいます。
『あ〜あ〜、川の流れのように…』

Rhine Danube map












アルプス(スイス)に端を発し、フランス、ドイツを抜けオランダで北海に注ぐライン川、ユリウス・カエサル(BC102 - BC44) はガリア遠征(BC58 - BC51)を行い、ライン川以南/以西をローマ帝国の属州とします。以降、これに、ドイツ南部森林地帯を源泉に、東欧を東に横切って黒海に注ぐドナウ川を加え、帝国のリム(=防衛線)と定めます。同じくアルプスに端を発し北イタリアを横断してアドリア海に注ぐポー川(Po)、フランスを抜け大西洋に注ぐロワール川(Loire)と、西ヨーロッパの分水嶺、アルプスから発してそれぞれの海に注ぎ、流域の文化・歴史を育んできた母なる大河です。

鶴見川源泉3歩いては…ちょっと遠いですが、近くに「鶴見川源流」があります。…といっても、この夏の晴天続き、淀んで、清らかな流れは見られません。ここはれっきとした東京都、私の住む町田市と多摩市との境に横たわる多摩丘陵に在ります。始めて訪れたときは、「どんな山の中だろう…」とおっかなびっくりでしたが、何のことはない、両市の境故か、どちらの市からもその行政から取り残されただけの、今となっては貴重な昭和の里山の風情です。鶴見川は此処を源泉に、横浜市で東京湾に注ぎます。ライン、ドナウには遠く及びませんが、想像力だけは世界に、そして歴史につながります。

The Great Divideとはロッキー山脈の意味。The Bandの曲に『Across The Great Divide』があります。時代劇風に言えば、『峠を越えて』でしょうか…。そのメンバーの一人、リヴォン・ヘルム(Levon Helm)、昔からしぶい声ですが、ウ〜、その声以上におじいさんになりました。


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August 22, 2010

巨大な巡礼、十字軍

坂東三十三観音巡礼「坂東三十三観音札所巡り」にはまっている大先輩がおられます。西国出身の私、信心もなく、知識もありません。「四国八十八ヶ所巡礼」、「西国三十三札所巡り」という言葉を聞いたことはありますが、関東にもあるとは知りませんでした。1184年、源頼朝に「平家追討の宣旨」が下り、多くの板東武者が西日本を転戦します。平家打倒を成し遂げた頼朝は関東一円の武士の統領とし源平の戦いて、1192年鎌倉幕府を開きます。西国を見聞した彼らに、それにに習って同じような札所を作ろうという機運が高まり、また頼朝が観音信仰に厚く、源平の戦いの供養のために作られたのが始まりだそうです。

ちょうど同じ時代、というのが面白いのですが、舞台は西ヨーロッパ。キリスト教においても、エルサレム、ローマ、サンティアゴ・ デ・コンポステーラ(スペイン)の3大聖地への熱病的な巡礼、高揚が最高潮に達することなります。一方では、天に限りなく近づきたいという思いからか、高い尖塔とステンドグラスを特徴とするゴシック大聖堂が各地で競って建築されましたが、多大な庶民の熱病的な寄進、献身的な労働があってたそうです。聖地巡礼、ゴシック大聖堂建築に共通するのは単なる信仰心の熱病的な高揚だけではなく、免罪符を得んが為に巡礼に出、大聖堂建築に寄進あるいは無償の労働に従事したのです。

ゲルマン人の侵入により西ローマ帝国は崩壊(467年)、彼らは侵入してきた蛮族、より高度な文明を持つ先住民族(旧ローマ帝国市民)の支配・統治に利用したのがキリスト教(ローマ教皇)でした。ゲルマン人王はローマ教皇の権威を認め、その権威に基づき、ゲルマン王の支配・統治に正当性を与え、その見返りに、ローマ教皇は経済的・軍事的な保護を得るという、並立・相互依存・二重支配の構造でした。結果、ローマ教皇は全ヨーロッパから土着の異教を駆逐、キリスト教一色に塗り替えてしまい、ついには、ローマ教皇が、ゲルマン王を凌駕し、西ヨーロッパにおける最高権力をその手に握ることになります。

かろうじて余命を保っていた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は東方のササーン朝ペルシアやイスラム帝国に領土を侵食され徐々に衰退、ローマ教皇に救援を求めます。ローマ教皇は、「待ってました」とばかりに、その要請を受け入れ、教皇権優位の確立、東方正教会(今でいうギリシャ正教会)の併合という「真の」政治目的達成の為に、民衆を扇動、十字軍を組織します。

Crusader Shield異教徒からの聖地エルサレムの奪回』の大義名分と「異教の地で命を落とした者、異教徒と戦って命を落とした者は全て罪の許しが与えられる」、この免罪符に呼応して、敬虔な信者だけではなく、多くの民衆・一般庶民が十字軍に参加します。ゴシック大聖堂建築に注いだと全く同じ熱病的信心にさらに免罪符というおまけまで付いていました。

「十字軍」はローマ教皇が企てた、支配階級そして一般民衆を熱狂に巻き込んだ巨大な「巡礼」であったということができるでしょう。「十字軍」、英語では「Crusader、Crusade(聖戦)」。『イラク戦争』でブッシュ政権はこの表現を使いました。同じキリスト教国家であるフランス、ドイツの反対にあいましたが、異教徒にも係わらず日本はその「十字軍」に荷担することになります。
Entry of the Crusaders into Constantinople
1095年から1272年にかけて計9回の遠征がなされます。 第1回遠征(1095〜1099)では聖地エルサレムを奪回に成功しますが、極めつけは第4次十字軍(1202〜1204)、巡礼は聖地へは向かわず、あろうことか、助けを求めてきた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都:コンスタンチノープルを攻撃する始末で、帝国崩壊を加速させます(1453年オスマントルコにより滅亡)。

西ローマ帝国の崩壊以降、5世紀から12世紀にかけて、西ヨーロッパ文明は停滞します。「ゴシック様式」と呼ばれるキリスト教様式も、本来の意味「(野蛮な)ゴート人(ゲルマン人)の」という、後のルネッサンス人が付けた蔑称を起源とするもので、「暗黒時代」とはこの時代のことか…、文明的にもビザンツ、イスラム、中国の諸文明からかなり遅れていたのでしょう。

コンスタンチノープル陥落の混乱を避けて科学者・文化人は西側に逃れ、これを契機に、ヨーロッパ人のヨーロッパ人たる所以、ルーツ:「ギリシャ・ローマの文化」、これを継承・発展させた「ビザンチン文化」、さらには、中国、インド、アラビア、ペルシア、ギリシアの諸文明を融合、自然科学を発展させた先進の「イスラム文明(文化)」をもたらします。これが反キリスト教の色彩を帯びた「ルネッサンス」を加速、皮肉なことに、ローマ教皇の権威を低下、そして遠征の主導力:騎士階級を弱体化させる結果となります。
Knight
地球の反対側では武士(さむらい)による社会が始まりますが、忠誠、武勇、寛容、礼節の中世騎士道のロマンは終焉を迎えます。

冒頭の彼、毎週末、電車や車で巡っておられるそうで、「これではあんまり御利益はないのでは…」と思うのはともかく、最近では、ただお寺を巡って「手を合わせるだけでは芸がない」、と一念発起、『般若心経』を諳んじるまでになったそうです。音楽が趣味の一つの私なのですが、歌詞を3番おろか1番さえも覚えられず、歌詞とギターコードを目の前にしないと歌うことが出来ない人間にとって、「般若心経を諳んじる」、とは神仏のなせる業です。

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August 03, 2010

鄭和 〜水平線の彼方に

『2001年宇宙の旅』、次は大航海時代を書きたくなりました。

「大航海時代の西ヨーロッパは(世界の)後進地域だったのでは…」とは「人生の大先輩」である友人から聞いた話。教科書で学んだ「コロンブスのアメリカ大陸(西インド諸島)発見」は1492年、大航海時代のクライマックスです。

驚くべきはこのコロンブスを先んずること87年、中国は明(1368 - 1644)の時代、鄭和(Zheng He)が永楽帝の命で大船団を率いて、南シナ海、マラッカ海峡を越えて、インド洋に出、最終的にはアフリカの南端:喜望峰に達する遠洋航海をしました。1405年に開始され1433年に最後となる遠洋航海は実に7回にも及びました。鄭和の旗艦:「宝船」は全長:120mとコロンブスの乗船:サンタ・マリア号の4倍の大きさでした。船の大きさに留まらずその規模が、コロンブスの場合は3隻の船と120人の乗組員だけですが、鄭和のそれは62隻の船と28千人の大船団でした。14世紀当時、造船技術、航海術、組織運営技術等、中国文明が圧倒的に優位に立っていたのでしょう。

鄭和の使命は"Go beyond the horizon"、「行け!地平線の彼方に」。 …もちろん中国語でしょうが、どこか、『2001年宇宙の旅』のディスカバリー号を連想させます。


さらには、鄭和艦隊は喜望峰を越え大西洋へ、新大陸(南北アメリカ)を発見した、という説を主張する研究者もいるようです。こうなるとGavin Menziesコロンブスも全く形無しで、影が薄くなってしまいます。「大航海時代 Age of Geographical Discovery」は世間知らずの、片田舎のヨーロッパ人から見て…というただし書きが必要になってきます。

鄭和は現在の雲南省昆明の出身、彼の一族は馬氏を名乗り、…そういえば私の知り合いに中国系アメリカ人にMr Ma(馬)という人がいます。あるいは、北京オリンピックの数年前、中国陸上競技の名コーチでその名を世界に知らしめた「馬軍団」はそれと関係があるのでしょうか…、「馬」は予言者モハメッドの子孫を意味する西域出身のイスラム教徒で、その一族は先のアジア・ヨーロッパに跨る一大帝国を築いたモンゴル人の王朝:元の時代(1271 〜 1368)、その行政手腕を買われて移住してきたのでした。…またまた、そういえば、民族問題で揺れる新疆ウイグル自治区から来たのであろうか、広州でさえもイスラム寺院や明らかに目鼻立ちの違う人たちを目にすることが出来ます。

8〜11世紀、イスラム文明(中央アジア〜中近東〜地中海)が世界を席捲していました。モンゴル人元は、イスラム文明の、商業技術、航海技術、交易ルートを継承、1275年、イタリア人 マルコ=ポーロがフビライに会うまでに国際交易ルートは整備されていました。さらに国際性の継承は優秀な外国人商人・技術者そして馬一族のような行政官の登用に繋がりました。

鄭和漢民族王朝故か、明代に於いては万里の長城を補強・拡充、基本的には「内向きな」政策に転換するのですが、対外的には朝貢外交・柵封体制で、鄭和の遠洋航海も、元の対外政策の花が遅れて咲いたようにも見え、この朝貢外交・柵封体制の域を出るものではなかったように思えます。イスラム圏の商人・航海者が既に築いていた交易・航海ルートの多くを辿ったのでしょうが、その航海の目的は南シナ海・インド洋での海上覇権を樹立することによって諸国の朝貢を促し、明朝・永楽帝の威信を高めることにあり、儒教的考えからか、商売・交易、況わんや領土拡大ではなかったように思えます。

マラッカ王国(現マレーシア)は鄭和に始まる南シナ海・インド洋覇権の拠点でしたが、明の柵封体制の下で繁栄するのですが、1509年ポルトガルに占領されてしまいます。マラッカ王は明にポルトガルの暴挙を訴えるのですが、明がマラッカ奪還に艦隊(軍)を送った形跡は見あたりません。鄭和、最後の遠洋航海から70年、明には、万里の長城を外に出て、対外戦争を行う海軍力は既にありませんでした。

ヨーロッパに目をやると、ルターに始まる宗教改革の嵐(1517年〜)は目前です。西ローマ帝国崩壊で、西の端の片田舎に成り下がった西ヨーロッパは、キリスト教を変化の核に、中世から近世へと、近代ヨーロッパ文明の萌芽が次々と現れています。

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June 12, 2010

漢字、 ひらがな、 カタカナ、ローマ字

「ひらがな」は漢字の全体をくずして、「カタカナ」は漢字の一部を借用した日本語の一音節の表記方法、とはモノ知りの友人の言。
7世紀頃には成立、以降、日本語表記には欠かせない便利な文字ですが、芸術性はともかく、本来、文字が持つべき「記号」という意味では明瞭さに欠くように思えるのは、単に私の字がヘタだからですかね。

先日、ニュースでタイでの反政府運動の様子South East Asiaを見ていると、デモのとばっちりを受けたレストラン内部の映像、メニューなのか、お奨め料理なのかは不明ですが、その壁にはローマ字表記で掲示されています。タイにはタイ文字があり、他の東南アジア諸国がヨーロッパの植民地化される中で、日本と同じく、独立を保持したその歴史を考えると不思議に思えます。

そう言えば、近隣諸国のインドネシア語、マレーシア語、カンボジア語、ベトナム語、あるいはフィリピンのタガログ語はローマ字(ラテン文字)で表記されています。外国人の私がインドネシアを訪れた時はこのローマ字表記のお陰でずいぶん救われた記憶があります。(似たような話→『「朝三暮四」、私も知りませんでした』

日本でも戦後まもなく、日本語のローマ字表記を唱えた言語学者がいたようですが実現しませんでした。「日本文化の破壊だ!とんでもない!」ということだったのでしょう。「書道ガールズ」、「漢字検定」の日本人にとって漢字は、カタカナ・ひらがなはもちろん。文化の一部、というより文化・歴史そのものと信じて疑いません。果たしてそうなのでしょうか。

戦艦ポチョムキン映画の古典:「戦艦ポチョムキン」を作ったエイゼンシュタインは漢字の成り立ちにヒントを得て彼の映画理論:「モンタージュ論」に至りました。漢字は単なる記号ではなく、意味のある絵画的な文字です。

それでは、漢字を使う中国人・日本人にどのような、「漢字ならではの」文化的(思想・芸術領域において)特徴があるのか、また、長い間中国歴代王朝の冊封体制下に在りながら漢字を排除した(?)朝鮮半島(ハングル文字)やベトナム(ローマ字)の文化が非漢字化が要因でどのように変化したのか?、その差異は?…。漢字の果たした大きな役割があると思うのですが、日本人にとって漢字は空気や水のようなもので、あって当たり前、考えるまでもない事なのか、どうも納得いく説明を聞いたことがありません。今年の漢字

漢字が苦手な人間の極論でしょうが、ひょっとしたら…、表記文字など文化とは全く関係のないところで使われているのかも知れません。東南アジア諸国が植民地時代の旧宗主国の言語表記を踏襲しても、表記方法そのものは文化にはあまり影響を与えなかったのではないでしょうか。

ローマ帝国の国語はラテン語、その表記は文字通りローマ字(ラテン文字)、帝国の拡大とともにヨーロッパ各地に広がり、特に、キリスト教の国教化(313年)はこれを加速、ゲルマン人の侵入により帝国は崩壊(467年)、中世に入りますが、ヨーロッパ各地に興ったゲルマン諸王国は、言ってみれば、侵入してきた蛮族、より高度な文明を持つ先住民族(旧ローマ帝国市民)を支配・統治して行かなければならず、そこで利用したのがキリスト教(ローマ教皇)でした。ゲルマン人王は自らキリスト教に改宗、ゲルマン人王はローマ教皇の権威を認め、その権威に基づき、ゲルマン王の支配・統治に正当性を与え、その見返りに、ローマ教皇は経済的・軍事的な保護を得、ヨーロッパ全土に宣教活動をローマ帝国領 トルコの位置行います。ローマ教皇を頂点として辺境の末端に至るまでキリスト教聖職者の言語はラテン語であり、これは現代のローマ教皇制度内にも受け継がれているそうです。

ヨーロッパ諸国言語のローマ字(ラテン文字)表記はローマ帝国及びキリスト教(ローマ教皇)勢力の拡大よるものでしょうが、個々の文化に影響を与えたのはローマ字(ラテン文字)表記ではなく、宗教=キリスト教(ローマ教皇)でしょう。逆に、今日我々が見るヨーロッパの諸国の近似性・同一性はキリスト教(ローマ教皇)に由来するものです。現に、アラビア文字からローマ字(ラテン文字)表記に変えたトルコはEU加盟を果たしていません。イスラム教国だから、というのがその理由です(東端にせよ、ローマ帝国領土内にあったのですが…)。▲上図参照

「ワープロを使い始めてから、どうも…」と、言い訳の多い人間の単なる思いつきを書いてみました。

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December 23, 2009

ホテル・カリフォルニアって何処にあるの?

キリスト教はローマカトリックとコンスタンチノープル東方正教に別れます(1054年、正式に相互破門)。※参照→「ラテン系? ルーマニア」

中世におけるローマカトリックの興隆はイベリア半島でのレコンキスタ(国土回復)の成功で頂点を迎えます、スペイン王は、ローマ教皇の承認の得て、キリスト教をもその監督下に置きます。キリスト教という宗教的熱病、ローマ教皇のお墨付きを持って、さらに西、大西洋を越えて新大陸に向かいます。

時代は大航海時代。スペイン国内では、異端審問・宗教裁判による異教徒迫害、後には反宗教改革運動を、新大陸においては先住民の虐殺、略奪、奴隷売買…、陰に陽に、ローマ教皇のお墨付きがあったからでしょう。

16世紀、アステカ帝国を滅亡させ、スペイン領土:「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)」を宣言、彼ら:スペイン軍・商人そして宣教師(イエズス会)はさらに北に向かうことになります。1683〜1834年、バハ・カリフォルニアから北に向かったのが「エル・カミーノ・レアル(王の道) 」でした。
sibera alaska map一方のコンスタンチノープル東方正教はイスラム勢力を避けるように、一端北へ進路を取り、ロシア正教として東へ、シベリアに領土を広げ、17世紀末にはカムチャッカ半島、ベーリング海峡を渡って新大陸へ、1799年にはアラスカの領有を宣言します。シベリヤ経由、本国からの食料搬入途絶の事態に直面、彼らEl Camino Real & Ft Rossは食料を求めて南下、すでにスペイン領であったカリフォルニア、サンフランシスコ湾の北、ソノマに、全く孤立した植民地(飛び地)を築くことになります(1812)。これがフォートロス(Fort Ross)で、文字通り(…ほとんど…)「ロシアの砦」でした。

東西別の方向に分かれたローマカトリックとコンスタンチノープル東方正教は、800年後、それぞれ地球の反対側から現れ、ソノマ(Sonoma)で遭遇したことになります。

かつて、スペインの宣教師が辿った「US_101エル・the birds posterカミーノ・レアル(王の道) 」ゆかりの地、現在のパシフィック・ハイウエイ101沿いにはミッション・ベルが残されています。
フォートロスの在るソノマ郡ボデガベイ(Bodega Bay)はロアルフレッド・ヒッチコック監督の名作:「鳥(The Birds 1963)」の舞台でした。どこか陰鬱な中世の遺伝子が受け継がれているからでしょうか、それとも、当時の東西冷戦の時代が反映されたからでしょうか…。

「カリフォルニア」の由来は、「太平洋の何処かに在るとされた理想郷、伝説上の島」。さぞ、当時のヨーロッパ人の想像力をかき立てたことでしょう。

では、「ホテル・カリフォルニアって何処にあるの?」

背景はだらだらと述べた通り、舞台は『映画:「鳥」と同じ、ボデガベイの近くの何処か…』と、私の想像力はかき立てられます。皆さんは如何でしょうか?

暗く寂しいハイウェイ 涼しい風が髪を抜けてhotel california
コリタス草の甘い香りが漂ってくる
遠く向こうに かすかな灯り
頭は重く ぼやけてしまう
今夜はこの辺で泊まろう
戸口に女が現れ
ミッション・ベルの鳴るのが聞こえる

果たして
ここは天国なのだろうか、それとも地獄か
女はローソクに灯を灯し 僕を部屋へと導く
廊下の向こうから こう囁くのを聞いたような気がする

ようこそ!ホテル・カリフォルニアへ



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September 23, 2009

「エトロフ遥かなり」、スペイン内戦

エトロフ遥かなりNHKで「エトロフ遥かなり」というドラマがありました(1993)。原作は、佐々木譲の「エトロフ発緊急電」。日米開戦前夜、日本海軍に依る真珠湾攻撃の真偽を確かめるため、日系アメリカ人スパイ:ケニー斉藤(永澤俊矢)が単身、憲兵(秋野太作)の執拗な追跡をかわしながら、択捉島に潜入、女主人・岡谷ゆき(沢口靖子)と運命的な出会いを果たす、という物語で、吉永小百合主演の「夢千代日記」と並んで双璧をなす傑作でした。…とは、私だけが思うことでしょうか?

主人公:ケニー斉藤にはどこか暗い影がつきまとっています。実は、彼にはスペイン内戦で義勇軍に参加して大きな挫折を味わった過去があります。

International_Brigades_poster11936年、人民戦線政府が成立すると、フランコ反乱軍は、ナチスドイツ・ファシストイタリアの支援を受けて、首都マドリッドに向けて軍を進めます。革命の飛び火を恐れた諸外国はこれを傍観、人民戦線政府はソ連の支援を受けるも、政権内部の不統一もあり、戦線の多くでフランコ反乱軍に圧倒されます。コミンテルンの決議により、人民戦線政府は世界に呼びかけて義勇軍:国際旅団を編成することになります。

しかし、人民戦線政府による旅団内部の共産主義者以外の参加者の粛正、独ソ不可侵条約を締結(1938)というソ連の裏切り行為は両者に対する幻滅へと変わり、失意のうちに国際旅団解散となります。国禁を犯して参加したメンバーは帰国出来ず、現地に留まった者もあり、メキシコは彼らの一部を亡命者として受け入れます。帰国がかなったとしても共産主義者のレッテルを貼られ、悲惨な後半生を強いられることになります。

その一人がケニー斉藤という訳です。そのモデルとなった人物が所属した部隊:エイブラハム・リンカーン旅団の記録(The Abraham Lincoln Brigade Archives)にはこう記されています。

義勇兵 Jack Shirai(ジャック白井)
志願前の軍歴:日本陸軍に1年
職業:コック
所属政党:アメリカ共産党
入党時期:1930年
所属部隊:第15リンカーン大隊、司厨長
1937年ブルネテ(Brunete )にて戦死

それは1970年頃だったと思いますが、五木寛之が週刊誌のインタビューで、「スペイン内戦に義勇軍として参加したたった一人の日本人(正しくは日系アメリカ人)を誇りに思う」と語っています。チャーチルの言う(実は、少々意味が違うらしいのですが…)「若くして共産主義にかぶれない者は情熱が足りないが、年を取って共産主義にかぶれている者は知能が足りない。」 五木寛之の1970年も、1936年の義勇軍参加の時代も、彼の(?)名言の前半部分の時代、ということだったのでしょう。

1929年、アメリカに始まる世界大恐慌の過酷な体験は多くの若者を共産主義に走らせます。スペインでの人民戦線政府に依る義勇軍:国際旅団編成の呼びかけに、ドイツ・イタリアを含む世界52カ国から6万人が参加し、内1万人が戦死、とは「かぶれる」というより、「熱狂・熱病」と言うべきでしょう。

これは、スペインの文化・風土とうり二つに見えます。
気候・風土に恵まれた土地、早くからローマ帝国の一角を担い、帝国崩壊後は西ゴートの支配、8世紀初頭にはイスラムに依る浸食・支配を受け、熱狂的なキリスト教信仰はレコンキスタを実現、続く大航海時代に向かわせます。このエネルギーの源泉は「熱狂的なキリスト教信仰=ローマ教皇支配」であり、15世紀には宗教裁判(異端審問)の制度を作りイスラム教徒・ユダヤ教徒を迫害、イエズス会は宗教改革運動を弾圧します。西欧の近代には欠かせない「宗教改革」に取り残されたが故か、中世・近世を色濃く残す国となります。
誰がために鐘は鳴る
スペイン内戦の義勇軍は、第二次世界大戦前夜という「熱狂・熱病」の時代にスペインという「熱狂・熱病」の土地に咲いた花のようにも見えます。「狂い咲き」だったのでしょうか。

後に「誰がために鐘は鳴る」を書くアーネスト・ヘミングウェイが滞在し、「牛追い」で有名なバスク地方の首都:パンプローナ。ここに生まれたパブロ・デ・サラサーテ。彼の作った「ツィゴイネルワイゼン(ドイツ語で「ジプシーの旋律・曲」の意)」は彼の地の「熱狂・熱病・情念」そのものです。▼



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August 15, 2009

さらに西にあった、とてつもない文明、イスラム

遣隋使は607年、小野妹子が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」で始まる国書を持って訪問したことに始まります。なんと大きく出たものでしょうか、小気味いいのですが、見栄を張りすぎているように思えます。倭王が自分と同じ「天子」を名乗ったことで皇帝:煬帝は激怒しますが、皮肉なことに、それからわずか12年後、随はほんとうに「日没する処」となってしまいます(619)。

代わって興った唐にも、630年、遣唐使を再開することになりますが、「白村江の戦い(663年)」で唐と新羅の連合軍に百済と倭国は破れ、倭国は朝鮮半島より撤退します。

710年、言わずと知れた「せんとくん」の平城京遷都、唐の都:長安を模して造られた、と教わりました。当時東アジア最大の都市、世界の経済・文明(≒文化)の中心、長安に学び、最先端の文物を持ち帰るのが遣唐使でした。派遣された一握りのエリートが彼らの目で選んだ文明(≒文化)を持ち帰り、自国の文化を塗り替えてしまうのですからすごいことです。残念に思われるのは、それに続く国風文化がチマチマして、躍動性に欠けると言うことです。外交よりも内政、先進文明に恐れ入ってしまい、内向きにならざるを得なかったのでしょうか…。

唐及びイスラム帝国 AD700…が、しかし、彼らが学んだ唐のさらに西方には、もっと先進の、とてつもない、少なくともその後の世界史により多大の影響を与えた、文明(≒文化)が存在したのでした。イスラム帝国(私の時代にはサラセン帝国と学んだようですが…)ウマイヤ朝(661年 - 750年)、それに続くアッバース朝(750年 - 1258年)が西は北アフリカ、地中海から東は中東、現在のイランまでの広大な版図を築いています。   History of Asia より拝借↑

勢力を伸張する両文明の軍は、751年、中央アジアのタラス(Talas )河畔にて衝突、唐軍が大敗します。これを機に、イスラム帝国、アッバース朝はシルクロードを完全な支配下に置くことになります。さらに重大なことは、中国で秘密にされていた製紙技術が唐軍の捕虜から伝わります。以降、この製紙技術は、従来のパピルスや羊皮紙を駆逐、印刷技術とともに世界史的な意味を持つことになります。

イスラム文化はギリシャの書物(思想・哲学、錬金術・数学・医学・天文学・地理学等の自然科学)をアラビア語に翻訳、インド由来の数学(「0」の発見)を結びつけることによりさらなる発展を遂げていました。帝国周辺の高度な文明(≒文化)を積極的に受容し、製紙・印刷技術は帝国全土にさらに高度な文明(≒文化)を、さらに広く、速く伝搬させることになります。因みに、今でもそう呼ばれているかは知りませんが、「アラビア数字、算用数字」の呼称は彼らが計算方法を完成させたことを示しています。英語のアルジェブラ(algebra 代数)はアラビア語由来。

地球儀をさらに回転させて西ヨーロッパ。遠い昔に西ローマ帝国は滅亡(476年)してしまっており、「停滞した中世」、「暗黒時代」と呼ばれるものでした。西ヨーロッパ文化の「再生」、「復興」には、文字通り、ルネサンス(Renaissance)を待たなければなりません。

「オリエンテーション Orientation 方向付け」という言葉。Orient は Origin と語源が同じくラテン語(?)「日が昇る処 東」を指しますが、中世ヨーロッパから見て「東を指し示す」とは「先進の東方に学ぶ」という意味があったようです。

「日出ずる処」とは違い、中世ヨーロッパはなんと謙虚だった(…??)のでしょうか。

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June 03, 2009

ラテン系? ルーマニア

「ラテンのリズムに乗って〜」とか「ラテン系のように〜」という表現は、「情熱的な」、「明るく、陽気な」…と、中南米の文化に対するイメージなのでしょうが、「ラテン系」とは本来、ラテン語を起源とする言語を母語とする人々、およびその文化を指します。

ローマの文字を「ローマ字」と呼びますが、その言語は「ローマ語」ではなく、「ラテン語」と呼ぶのは妙な感じですが、言語学という専門領域では、西ローマ帝国崩壊(476年)の頃以降、ラテン語の口語体を総称して「ロマンス諸語」と呼ばれ、イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、そしてルーマニア語がそれに含まれるそうです。                            

「ルーマニア語もラテン系?」と少々違和感を感じますが、コマネチその名の通り、ルーマニア(Romania)は「ローマ人の土地」、正真正銘の「ラテン直系」ということになります。私の知っているルーマニアといえば、共産主義時代の独裁者:チャウシェスク(1989年処刑)、1976年モントリオールそして1980年モスクワオリンピック体操で金メダルを獲得したコマネチはなじみ深いのですが、その彼女はチャウシェスク共産主義政権を嫌ってアメリカへ亡命していまします。

ドラキュラ遠くは15世紀、オスマントルコと戦った救国の英雄:ヴラド・ツェペシュ公、後に残酷非道な「串刺し公」と吸血鬼伝説と合体して「ドラキュラ」のモデルとなります。これらが、「情熱的で、明るく、陽気な」というラテン系に冠せられた形容詞とは全く相容れない「暗い」イメージをルーマニアに与えています。

ラテン系の多くがローマ・カトリックで、彼らは16世紀に始まる大航海時代、これに続く植民地獲得競争はこれらラテン系言語(ローマン諸語)をアフリカ、新大陸(南北アメリカ大陸)そして東南アジアへ拡げます。一方、ルーマニアの属する東ローマ帝国の国教は「東方正教会」でした。ラテン系の中でルーマニアが唯一「東方正教会」に属し、彼らが新世界につながる大西洋に面しているのと対照的に、ルーマニアはローマ帝国の東端、地理的にはアジア、文化的にはイスラム教と対峙、ルーマニア語だけが孤立することになります。

1453年、首都コンスタンティノープルが陥落、東ローマ帝国は滅亡、代わってオスマン帝国がバルカン半島を支配、ルーマニアはオスマン、ハンガリー両帝国による支配が第一次世界大戦の終わる1918年まで続くことになります。アジアとヨーロッパ、イスラム教とキリスト教、後には南進するロシア帝国による支配、ソ連による共産主義国家の成立と、異質な文明・イデオロギーを持つ帝国間の抗争に翻弄された歴史でした。これが「異質なラテン系」:ルーマニアのイメージの背景にある根本原因であるように思えます。

古代ローマ五賢帝の2人目、トラヤヌス(101年 - 106年)はこのバルカン半島北東のこの地に遠征、ローマ帝国の属州:ダキア(Dacia)とし、ローマ帝国最大版図を築きました。彼の名は現ルーマニア国歌にも登場するそうで、彼らは正真正銘の「ラテン直系」なのです。
Dcia














次の皇帝:ハドリアヌス(117年 - 138年)の築いた「「ハドリアヌスの長城 Hadrian's Wall」」を訪ねることができましたが、もし機会があれば、ローマ帝国北東の防衛線の環(リム Rim)、同国を流れるドナウ河にも訪れてみたいものです。

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April 07, 2009

花見で、「薔薇(バラ)戦争」

尾根道 菜の花畑自転車に乗るのをためらうような寒い冬の朝は、「尾根道」をウォーキング、いや、散歩と決め込んでしました。ここはウォーキング、ランニングだけではなく、地元では有名な桜の名所、この週末が桜祭りでした。桜祭り当日には、遊歩道だけではなく、車道も来場者に開放、普段の清々しい朝の風景はなく、昔の歩行者天国のように人であふれています。各地の「桜祭り」には、待ちわびた春の到来を喜ぶ、祝う、という単純明快な意味があるのでしょう。

桜の枝人でごった返す風景からは想像できないのですが、日本人は、時代、老若男女を問わず、桜に対して特別な感情、琴線に触れるものを持っているようです。私の想像ですが、先人が詠んだ桜は「山桜」で、今日多く目にする桜は江戸時代末期に作られた品種:ソメイヨシノ(染井吉野)がその後全国に拡がったもので、その風景は彼らの詠んだものとは違うように思えます。

桜がそれほどまでに愛されているのであれば、もちろん日本の国花であろうと思っていましたが、実は、「菊」あるいは「桜」、日本国花の規定はないが、それに準じた扱いを受けるようです。しかしパスポートの表紙には「十六菊」、言わずと知れた天皇家の「菊の御紋」が記されており、今に至っても「臣民」なの?…どうも腑に落ちません。

拝領(?)した「十六菊」のパスポートを持って訪れた英国(UK グレートブリテン及び北アイルランド連合王国) 、その国花は?。元々は4つの国(?)で成り立っており、スコットランドがアザミ、ウェールズが花ニラ、北アイルランドはシロツメクサ。臣民(?)である私が訪れたイングランドのそれはバラです。

15世紀、高校の世界史でおなじみの「百年戦争」が終結、イングランドはブリテン島に撤退、ヨーロッパ大陸の足がかりであるフランス北部フランダース地方を失うことになります。敗戦を契機にイングランド国内では不満が爆発、1455年、ヨーク公リチャードが現王家のランカスター朝に反旗を翻し、国内をランカスター家とヨーク家に二分する内乱はその後30年の長きにわたりました。血みどろの戦い
は両家の和解で終わりを迎え、1485年テューダー王朝の成立に繋がっていきます。Lancashire_roseYorkshire_rose
ランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇をそれぞれ紋章とするところから、「薔薇戦争 Wars of the Roses」と呼ばれるのはご存じの通りです。ランカスター家の血筋、ヘンリー・テューダーが「薔薇戦争」を勝利し、イングランド王Tudor_roseとなります。彼は両家和解の証として妻をヨーク家から迎え、その結婚を機に彼は両家の紋章を組み合わせた「テューダー・ローズ」をイングランドの紋章として採用、現代に至っています。

時代は極最近、昨年12月、ヨーク大学を訪問、学生達と話をする機会がありました。ヨーク大学とランカスター大学との間には「Roses Tournament」という大学間スポーツ対抗戦が、毎年夏、開催地を交互に実施されているそうです。通称、「薔薇戦争 Wars of the Roses」の由で、日本で言えば、「源平の戦い」に因んだ運動会の「紅組・白組」というところでしょうか。

近所のお花見から始まり、強引に薔薇戦争まで持って行ったのは少々無理があったようです。お許し下さい。

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February 14, 2009

グレートブリテン及び北アイルランド連合王国

幕末・明治以降、少なくとも第二次大戦に至るまで、日本が多くのことを学んできたのが「英国」でした。…が、「英国」のことをほとんど知りません。我々の呼ぶ「英国」あるいは「イギリス」の正式名称は「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」です。日本国外務省による正式表記では「英国(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)」となっており、( )の中の表記が正式名称の日本語訳です。

将軍かなり古い話で申し訳ないですが、映画:「SHOGUN 将軍(1980)」のモデル, 英国人航海士:ウィリアム・アダムス(三浦按針)が1600年、彼が乗船していたオランダ船が豊後(現在の大分県)に漂着したことに日英関係は始まるそうです。戦国・安土桃山時代、England(イングランド)はポルトガル語でIngles(イングレス)、オランダ語でEngels(エンゲルス)と呼ばれ、これが訛って「エゲレス、イギリス」、「英吉利」の字が当てられたそうです。

自分の無知をさらけ出すのですが、「ユナイテッドキングダム UK」、「グレート・ブリテン GB」、「イングランド England」の関係がよく判らないのは私だけではないでしょう(?)。アングロサクソン人のイングランドとケルト人国家であるスコットランド、ウェールズを含んだのが「グレート・ブリテン GB」、これに北アイルランドを加えて「連合王国 UK」となるのでしょう。

「グレート・ブリテン GB」を構成するスコットランド、ウェールズ、イングランドとは何でしょうか。「州」と思っている人もおられるのでは…(?)。国でもなく、州でもなく、「構成体」としか呼びようがありませんが、彼ら自身はどう呼ぶのでしょうか。それぞれ、独自の法制度、教育制度を持つが独立国家ではなく、国際連合・EUの直接構成国家ではない、と規定されているそうです。

因みに、サッカー・ワールドカップ欧州地区予選では、スコットランド、ウェールズ、イングランド、北アイルランドは独自にチームを参戦出来るようです。他の国がナショナルチームで闘うのに、彼らだけにこの特権(?)が与えられたのはこのスポーツが英国(=ユナイテッドキングダム UK)発祥だからでしょうか。

もう一つ、アイルランドはかつて英国の植民地でしたが、北アイルランドが英国領であることは知らず、まだ「英国の植民地支配が続いている地域」と思っている人も多いのではないでしょうか。アイルランド独立戦争(1919-1921)は1921年に休戦が成立、同年、英愛条約 (The Anglo-Irish Treaty)が締結され、北アイルランドの帰属は北アイルランド自身に委ねられることになり、これが宗教・帰属問題が絡み合った「北アイルランド問題」として現在に至り暗い影を落としています。

そんなところに、本来ならば、England(イングランド)のみを表す日本語:「イギリス」が、イングランドを含む、ブリテン島に加えて、北アイルランドまでをも含む国家を表すのは無理があり、しかたなく、日本語の正式名称を「英国」としたのでしょうが、これでは同国の歴史的経緯は見えてきません。

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January 19, 2009

イギリスの「アーツ & クラフト」と日本の「民芸運動」

Blackwell 1312月24日湖水地方、ウィンダミア湖畔に立つ「ブラックウエル館(Blackwell)」を訪れました。産業革命で財をなしたエドワード・ホルトがM.H.ベイリー・スコット(Mackay Hugh Baillie Scott 1865-1945)に設計を依頼、1900年に完成した館です。

ベイリー・スコットは世紀末を背景とする芸術潮流:「アーツ & クラフト運動」の一翼を担う建築家でした。

Blackwell design.ウィリアム・モリス(William Morris, 1834 - 1896)は、産業革命で大量生産された商品があふれ、一方ではかつての職人は工場労働者に没落、彼らの手仕事に依って創り出されたものが衰退して行く状況を危惧、「生活と芸術の統一」を目指す芸術運動を興します。

M.H. ベイリー・スコットも彼の意志を建築分野で継承、後にフランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright 1867 - 1959)にも大きな影響を与えることになります。建築分野にとどまらず、あらゆる生活用具において「アーツ & クラフト運動」が見られ、その後の「アール・ヌーボー」に引き継がれることになります。

一方の日本。日清戦争(1894 - 1895)に勝利したものの、来るべき日露戦争(1904 - 1905)に備えねばならず、芸術運動どころではなかったのでしょう。やっと余裕が出て、落ち着いてきた時代、1926年(大正15年)、柳 宗悦(やなぎ むねよし 1889 - 1961)は民衆の生活に欠かせない、陶磁器、漆器、木工品、織物等の日用雑貨、朝鮮李王朝時代の白磁、家具を評価、純粋芸術(Fine art)でもなく高価な古美術でもない、無名職人による工芸品に美を発掘、「民芸運動」という彼独自の芸術運動を興します。

その協力者の一人が、イギリス人陶芸家:バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach 1887 - 1979)で、1909年日露戦争直後、日本の産業革命のまっただ中に、版画家として来日、以降、陶芸を学び、陶芸を純粋芸術ではなく、「日用品としての用を満たす器の形状や触覚」ととらえるに至ります。1920年、彼は日本を離れ、イギリスに製陶所を設立、工房活動に入ります。彼の活動は正に、ウィリアム・モリスの「アーツ & クラフト運動」継承し発展させたのでした。

イギリスの「アーツ & クラフト運動」、そして日本の「民芸運動」、時間差こそあれ、ともに産業革命=大量生産へのカウンター(対抗運動)でした。

柳 宗悦やバーナード・リーチと白洲 正子(1910-1998)との関わりは知りませんが、彼女の夫:白洲 次郎(1902 -1985)はケンブリッジ大学に学び、二人が結婚後、1940年、対米英戦を予期して、東京から離れた田舎(現在の町田市)に古い農家を購入、「武相荘(ぶあいそう)」と名付け、カントリー・ジェントルマンを実践したのは面白いことです。


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January 15, 2009

冬至祭、異教徒の見たクリスマス

Blackwell 1612月24日、 クリスマス・イブ。 日本でも「ピーター・ラビットの世界」として人気のある湖水地方、Lake Dsitrictに出かけましたが、予想以上に遠く、湖水地方のさわり、入り口を見ただけで引き返してYorkに帰って来ました。

商業主義に毒された(?)日本からやって来た私にとって、Yorkの街は寂しい限り、競ってイルミネーションを飾る光景には出くわしませんでした。通りを歩いていると、幾組かの若者が馬鹿騒ぎをしながら通りを歩いていくのが、それといえばクリスマス・イブらしい風景。馬鹿騒ぎが目立つのも、その周りがあまりにも寂しいということでしょう。若者以外の多く Minster Hotelの人たちは我が家に帰り、家族でクリスマス・イブを楽しんでいるのでしょう。


ホテルのロビーにはクリスマスツリーがかわいく飾ってあります。


一夜明けた、25日はクリスマス・デイ。ホテル内の客どうしが朝、「Good Morning」の替わりに「Merry Christmas or Happy Christmas」と挨拶。24日夜まであれだけ盛り上がったムードも25日を過ぎれば突然「賞味期限切れ」となる日本とは大違いです。朝8York 6時、Yorkの街に出てみると、静かな中にも厳かな雰囲気で、どこか昔の日本のお正月に近いものを感じます。ゴシック建築の最高傑作とされるミンスター寺院は、クリスマス・ミサの準備も整い、近郊からやって来たと思われる多くの信者を迎え入れています。寺院に入りましたが、やはり我々は異教徒、彼らの儀式に失礼があってはならないと、早々に失礼しました。

キリスト教徒にとってはクリスマスは最大の行事なのでしょうが、生誕の地:ベツレヘムから遠く離れた北ヨーロッパではもう一つ大きな意味があるようです。12月22日は冬至、北半球では太陽が最も遠くなり、その高度が最も低くなります。古代ローマにおいても、冬至を太陽が復活する日、新しい1年が再び始まる日として盛大な祭典を設けており、ガリアに住むケルト人・ゲルマン人には冬至祭の習慣がありました。後に、新興宗教であるキリスト教普及の為に「キリスト生誕」と土俗習慣「冬至祭」とを結びつけたのでしょう。クリスマスツリー、サンタクロース、トナカイにそり、全ての道具立てが北ヨーロッパのものです。

どんよりと雲に覆われた空、大地に広がる暗緑色の牧草地、信号機の赤・黄・緑が妙に鮮やかに映る街。たった1週間の滞在でしたが、より原始的な太陽復活・春への渇望であるケルト人・ゲルマン人の「冬至祭」の方がしっくりくるように思えるのは、我々が異教徒だからでしょうか。「春よ来い。早く来い。」とは、彼らには少々悠長、「ゆず湯」ぐらいでは暖まりそうにはありません。

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January 12, 2009

文明のかろうじて及ぶ最果ての地、ハドリアヌスの長城 Hadrian's Wall

Hadrian's Wall 412月23日、Yorkを出て、A1を北に向かう。ここに来ると国道:M1はA1に変わり、片道3車線が2車線になっています。なだらかな起伏の丘陵地帯が遙かに続き、日は既に昇っているはずなのに空は地平線まで、一面の雲に覆われています。高速道路の両側の景色はLondonからYorkとほとんど変わらず、どこまでも続く緑の牧草地、所有地を区分するためであろうが、スレート石を積み上げた石垣で囲まれており、なかに点々と羊が見えます。不思議なことに、農耕地は全く見あたらず、人家の周辺を除いて森や林も見あたりません。ただ、延々と羊の放牧地が続くのです。一面の灰色の空、石垣、石造りの民家、全くモノクロ写真世界です。そこに牧草の暗緑色を後からかぶせたような景色です。

3時間は走ったでしょうか、既に幹線道路をはずれ、簡易舗装となり道幅も狭く、頂きから前方をみてもその底が見えないような起伏の激しいジェットコースターのような道路がB6318と標識のある道路にぶつかります。これが目指す「ハドリアヌスの長城 Hadrian's Wall」に沿って造られた、古代ローマ人の道路とは後日知りました。

ハドリアヌス帝 ローマ帝国ハドリアヌス帝(117年 - 138年)は、それまでの版図拡大政策を断念、帝国防衛体制の確立・内政の整備へとその政策を大きく変換します。

日本では、存在自体も疑わしい、卑弥呼(175年頃? - 248年頃)が生まれるちょっと前、122年、彼はこの地に帝国最北の防衛線建設を命令します。これが「ハドリアヌスの長城 Hadrian's Wall」 です。

ライン河、ドナウ河と並んでこの長城はローマ帝国の防衛線の環(リム Rim)をなすもので、その以西(以南)を帝国絶対防衛圏と定めたものでした。因みに、Rhein(ライン河)及び英語のRim(車輪のリム、へり、周縁)の語源はこれのようです。

Hadrian's Wall 23灰色の雲に覆われた空、吹きっさらしの暗緑色の大地。ローマ帝国最北の防衛線、まさに辺境、文明のかろうじて及ぶ最果ての地。古代ローマのに思いを馳せるべく舞台は整っているのですが、どうもその北風の寒さに負けて十分には感情移入することが出来なかったようで、用意していたタイツ、手袋をホテルに忘れてきた事が悔やまれます。訪れたHousestead Roman Fort(ハウステッド、ローマ人の砦)は確か2〜3月は閉鎖のようで、この期間にはさらに厳しくなるのでしょう。

Hadrian's Wall 6この長城を建設した人たち、駐屯していた兵士は遠くローマからやってきたのか…と思いきや、技術者や兵士はドーバー海峡を越えたオランダ、ベルギー地方の、その当時既にローマ市民であった人たちがその任務に就いたようです。長城建設を命じたハドリアヌス本人も、ローマてはなく、属州の一つ、ヒスパニア(スペイン)出身なのですから、如何に帝国全土に渡ってローマ法での統治がなされていたか、ということでしょう。

5世紀に入ると、(西)ローマ帝国の防衛線の環(リム)はライン・ドナウ河でゲルマン人侵入を許すようになります。ここに至っては、西ローマ帝国政府にはもはや遠いブリタニアを維持する力はなく、AD 407年コンスタンティウス3世はブリタニアを放棄、残存ローマ軍を率いて撤退します。この政治的・軍事的空白、間隙を衝いてアングロ人・サクソン人(ゲルマン人の一派)がブリタニアに大挙侵入、その後「アングロ人の土地、England」が始まります。

時代は大英帝国終焉間近、時の首相:チャーチル曰く、「イギリスが過去、ローマ帝国に蹂躙され、影響されたことは、むしろ幸運なことだった。イギリスの歴史はそこから始まった。」 この言葉は、チャーチルだけではなく、ヨーロッパ全ての国の共通認識ではないでしょうか。…でなければ、誰がEU(欧州連合)の構想を持つことが出来たでしょうか。これこそがローマ文明の<<普遍性>>なのでしょう。

吹きっさらしの丘を下り、幹線道路近くの村の小さなレストラン(兼ホテル)で遅い昼食。暇そうな女主人が、「ミートパイがお奨め」の由で、早速それを注文します。あまり美味しいとは言えませんが、彼女曰く「イギリス料理ではなくアメリカ料理。中にコーンビーフが入っているの」。そういえば建物はイギリスの田舎風、内装はチープな張りぼて、食べたミートパイもそれにぴったりでした。相変わらず外は灰色の雲に覆われた空、日の暮れないうちにYorkへの帰路を急ぐことにしましょう。
* Image: Extent of Roman Empire at the time of Emperor Hadrian AD 117

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November 08, 2008

万里の長城 The Great Wall

今回はアメリカ大衆音楽ではなく、「歴史」に関するテーマで、書いている本人も少々緊張しています。

大先輩が先日中国を旅行、「アンコ−ルワット、バチカン、ピラミット、トルコのブル−モスク、そんなの目じゃありません。人類が作った最大の無駄。正しくその通りでした。」が「万里の長城」に登った彼の感想でした。

彼が今までに訪れた世界遺産(?)の内、1カ所さえも行ったことがないので、残念ながら論評しようがありません。しかし、「最大の無駄」かどうかはともかく、世界史的に言えば「意味」はあったように思います。

万里の長城総延長は6,352kmにも及び、音楽ネタで言えば「ルート66」のシカゴからLAまでの距離、2,000マイル=3,200kmどころの話ではなく、その2倍もの距離です。秦の始皇帝が作り始め(秦代:BC 221年 - BC 206年)、当初は人や馬が乗り越えられないぐらいの土塁だったようで、以降の王朝がこれを延伸・補強、現存している煉瓦・石作りの長城は明代(1368年 - 1644年)のもので、彼が見た長城はこれでした。

当初は「人や馬が乗り越えられないぐらいの土塁」だった、というよりも、「羊が乗り越えられないぐらいの土塁で十分」で、北方の遊牧民が彼らの生活の糧である羊の群れを連れて域内に入るのを防いだ、という話を読んだことがあります。田畑を耕す農耕民族としては牧畜を生業とする遊牧民族をその生活圏に受け入れることは出来ませんでした。
ローマ 水道橋
「万里の長城」といえば、それに比肩しうるのは、古代ローマ(BC 753年 - 476年 西ローマ帝国滅亡)の上下水道、道路、コロシアム等の土木建築でしょう。いずれも膨大な労働力と財力を費やした土木建築のでしょうが、どうも根本的な所に大きな違いがあるように思えます。前者が軍事的な、農耕民族の生活圏の防衛線ですが、後者は基本的に社会基盤であるということです。

土木工学は英語でCivil Engineeringなのですが、その語源は古代ローマまで遡ることができる…と読んだことがありますが、Civilization は文明化,文明を意味し、国境・民族の枠を越えて普及、普遍的に受け入れられる価値体系で、その形容詞がCivil、CivilにはCivicと同じく「市民の」との意味もあります。Civil Engineeringとは「文明化のための工学」ということになります。

「万里の長城」、古代ローマの水道、道路のいずれも文明の所産なのですが、古代中国文明は内向的、排外的であるのに対し、古代ローマは外向的、寛容です。前者には文明をまもる工学であっても、「文明化のための工学」の結果ではなかったようです。国境・民族の枠という地理的な拡がりだけではなく、現代に至るまでの時間的拡がりを考えれば、ローマ文明がより普遍的であるように思われます。例えになっていないかも知れませんが、漢字の普及は限定的ですが、ローマの文字:ローマ字の普及は世界に及びます。

秦朝は外敵に滅ぼされたのではなく、内部の蜂起、反乱が原因というのも皮肉な話です。後に興った後漢の時代(25年 - 220年),モンゴル高原の遊牧民族:<<匈奴>>は寒冷な気候に襲われて南下するも長城に阻まれ(?)、彼らは仕方なく西方に向けて移動することになります。その遊牧民族:匈奴の一派が<<フン族>>という説があり、その<<フン族>>が後に(4世紀〜5世紀)ヨーロッパに侵入、追い出される形で、皆さんおなじみの「ゲルマン民族の大移動」となり、これが原因で、ローマ帝国(西ローマ帝国)は476年に滅亡、以降、ヨーロッパは暗黒の中世に入っていきます。

「万里の長城」は「Civil」という意味では、大先輩の意見に賛成ですが、長城の存在がユーラシア大陸を西に巡ってローマ帝国滅亡に繋がった。これが世界史的な「意味」であったように思えますが如何でしょうか、大先輩。
*Image:万里の長城 and ローマ 水道橋


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August 13, 2008

「中華民族の百年の夢」 北京オリンピック


「中華民族の百年の夢」、北京オリンピックの開催が高らかに宣言されました。
鳥の巣オリンピックが中国を訪れたことを意味する足跡の形をした花火が、実はCGによる合成、9歳少女による「歌唱祖国」の独唱、これも「口パク」だったと判り、少々興ざめはしましたが、映画監督:張芸謀(チャン・イーモウ)がプロデュースした開会式は圧巻でした。巨大な人海戦術の波が「紙」、「火薬」、「活版印刷」、「羅針盤」の世界に誇る4大発明を軸に中国5,000年の歴史を再現します。

皮肉なことに、この4大発明が十数世紀の後、中国を屈辱的な近代史に落とし入れる結果となるのですが…、
これらの発明が西進、ヨーロッパに伝えられ、改良された技術は14〜15世紀に火薬・羅針盤・活版印刷を「ルネッサンス3大発明」と称されるものになるのですが、紙の製法と印刷術が聖書の大量生産を可能にし宗教改革を、書籍の流通がヨーロッパ近代思想を産むことに繋がっていきます。このヨーロッパ近代思想が羅針盤、航海技術の進歩と共に、16〜17世紀の大航海時代、それに続く18〜19世紀におけるヨーロッパ諸国による植民地争奪の時代に繋がっていきます。

巡り巡って、この歴史の大きな流れが近代中国に環流して来るのです。その象徴であるアヘン戦争の結果、1898年、中国は香港をイギリスに植民地として割譲、「永遠」とほぼ同義語の「99年間」を耐え、1997年に香港返還を実現しました。それから11年、領土返還という実務ではなく、今や全世界に自らの近代史を塗り替えたことを知らしめる壮大な儀式:「中華民族の百年の夢」を実現しました。何よりも大切な面子を取り戻したのですが、ルネッサンスは起こるのでしょうか。

孔子の言葉、「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや(有朋自遠方来、不亦楽乎)。」が世界の人々への歓迎の挨拶でしたが、書き下し文から想像される、ノンビリした、牧歌的な雰囲気とは少々違うようです。

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June 01, 2007

「エクソダス」、Exodus

「私は自分の本を閉じようと思ったんだ。」5月25日、ポール・ニューマンは82歳の年齢を理由に映画制作からの引退を表明しました。アメリカン・ニューシネマの傑作の一つ「明日に向って撃て!(原題:Butch Cassidy and the Sundance Kid 1969年)」、「スティング (The Sting 1973年公開)」はともにロバート・レッドフォードと共演、一時代を築きました。

exodus poster私は1960年公開の「栄光への脱出(原題:Exodus)」が好きです。もちろん公開当時のことは知らず、多感な歳になってラジオから流れている音楽を聴いて、これが「栄光への脱出」のテーマ音楽と知ることになります。ご存じの方も多いと思いますが、映画音楽の最高傑作の一つでしょう。現にこの曲は、1960年アカデミー賞音楽賞を、1961年には全米ビルボード年間ランキング2位を獲得しています。You Tube という便利なものができました。お聞き下さい。Exodus

というわけで、映画を観たのはテーマ音楽を聞いたずっと後のことでした。場末の映画館だったでしょうか…。

原題:Exodus は旧約聖書、「出エジプト記」に由来します。そうです。モーゼが神から「十戒」を授かり、虐げられたユダヤの民を率いてエジプトを脱出、紅海を二つに割って彼らを通過させる奇跡を行い、約束の地:カナンを目指します。

時代は下って20世紀、今に続くパレスチナ問題の始まりでした。第一次大戦の時、イギリスはオスマントルコの統治下にあったアラブ人にトルコへの武装蜂起を呼びかけ、協定を結びアラブ人に依るこの地の独立を認め、一方ではユダヤ人に依るユダヤ国家建設(シオニズム運動)を認める。ここまでは二枚舌、二股公約。…が、その裏で、イギリスは3枚目の舌を出し、フランス、ロシア等の連合国と同地域の大戦後の分割を協議していました。大戦後、パレスチナはイギリスの委任統治領となります。

もう少し下って、第二次大戦が終了。当初はアラブ人・ユダヤ人共存の地であったものが、ユダヤ人入植者の増大とともにそれに反発するアラブ民族主義が台頭、平和統合国家建設は困難となります。混乱を極め、ついにイギリスは統治能力をなくし、国際連合にその問題解決を委ねてしまいます。

このような、歴史的・国際政治的背景の下、世界に散在するディアスペラ(バビロン捕囚後にパレスチナから離散したこと)からシオンの丘を目指して集結します。イギリス軍が設けたユダヤ人収容施設のあるキプロス島から彼らを乗せてハイファ港に向かう移民船、その船名が「Exodus 1947 」でした。

元へ…。ポール・ニューマンは閉じようとしている本にどんな<<あとがき>>を残すのでしょうか。

本業にもお越し下さい。
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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