History_World

October 09, 2019

ボスポラス地峡決壊そして「ノアの箱舟」

 町田市主催の学習支援教室にアルバイトとして参加して1年が過ぎました。小学生高学年及び中学生を対象に主に英・数・国を教えるもので、先生役は将来教職を目指す近隣の大学生です。教室の目的は、小学生に関しては第一に「居場所」、中学生になると「学力向上」、これが中学3年生、中間テストも終わると「受験勉強」になります。我々高齢者の仕事は、主に教室の設営、バス停、迎えに来た父兄の車までの付き添いなど教室開始前・終了後の一時に集中しています。大学生が忙しくて、先生役が不足した場合に、私は中学生の「英語」に限り代行教員を務めています。しかし、そうではない場合、授業中は教室の様子を見ているだけで、ほとんどやるべきことはありません。

 そんな授業中に、自分の好きな小説・歴史関連の本を読むわけには行きません。そこで読みだしたのが「英語」に関連する本です。これなら、英語を教えるために勉強をしている、という言い訳が立ちます。

 こと中学生の「英語」に限って言うならば、学校のように同じレベルの生徒を前提に、同じテキストを使うならともかく、わざわざこの支援教室に来ているのであれば、その生徒のレベルに合わせたマンツーマンの指導をすべきです。支援教室で英単語(あるいは漢字)を覚えるというのは、先生役としては楽ですが、あるいは心地よい「居場所」、勉強した気になる時間が必要な生徒もいるかも知れませんが…、本来、丸暗記は一人でやるものです。先生は覚えるコツを教えてあげれば良いのです。先生の役割は、自分の中学生時代を振り返ると…、如何に英語に興味を持たせるか…、に尽きます。

 昔、私が高校1年生の時?、『赤尾の豆単』というのがあり、やみくもに「A」から順番に覚えようとしたことがありました。その最初に「abandon」という単語が出てきました。【他動】諦める、放棄する、捨てる、【名】自暴自棄の意味ですが、その後の人生で「abandon」の単語に出くわしたのは1回か2回、「(沈む)船から離れる、船を放棄する」という意味でした。今でも思い出すのですが、クラスメートの稲田君は自分の名前に近い音の響きの「inadequate」を手始めに覚えましたが、その意味「【形】不十分な、不適切な、無力な」は気に入らなかったようです。「赤尾の豆単」は使い物にならず、人気は『試験にでる英単語』に移った記憶があります。

  丸暗記のコツは単語を声を出して読み(音読、音声を発し、それを聞きながら…)、それを書き、できるだけ長い句あるいは節として繰り返すことに尽きます。英単語の丸暗記はただそれだけ、先生は要りません。別に英語学を勉強した訳ではなく、単に英語を使ってきた経験から、英単語には一定の規則みたいなものがあることがわかります。ということで、昨年読んだのが『英単語の語源図鑑』、その年のベストセラーです。英単語を<<方向・位置・時間関係、協調・否定を表す[接頭辞]>>+<<意味の中核を成す[語根]>>+<<機能や意味を付加する[接尾辞]>>、の3っに分解するものです。

 「abandon」は<<「a」古フランス語(ラテン語の「to、at」から)>>+<<「bandon」(=control 古フランス語)>>、本来「制御下に置く」、後に「制御に屈し、降伏する」、同じく「inadequate」は<<「in」ラテン語「〜でない・否定」の意味>>+<<「ad」(ラテン語の「to」から)>>+<<「aequus」(=equalラテン語)>>、「〜でない」+「十分な、適切な」、「不十分な、不適切な」という意味になった、と云うことになります。しかし、いずれの英単語も使用頻度は減少傾向で、当時も、差し迫って覚える必要はなかったようです。

 今読んでいるのが山並陞一著『語源でわかった!英単語記憶術』。驚くのは、著者山並氏は工学博士。英語教育関係者でもなく、かといって工学(エンジニア)の英語でもなく、即物的・受験勉強的な『英単語の語源図鑑』をより語源をラテン語、ギリシャ語に遡って解き明かす、より普遍的な読み物に思われ、世界の地理・歴史も踏まえ興味深く読んでいます。

 英語はインド・ヨーロッパ(印欧)語族の一つであることは誰でも知ってますが、彼らが何者で何処からやって来たのかは多くの人は知りません。因みに、日本語は[ウラル・アルタイ語族(モンゴル人、満州人、トルコ人)]で中国語は[シナ・チベット語族(チベット人、ミャンマー人)]。

black & caspian sea ユーラシア大陸は現在のトルコに位置するボスポラス海峡(及びダーダネルス海峡)を境に、西をヨーロッパそして東をアジアと呼ばれています。地名Bosphorus(ボスポラス)はギリシャ語。Bosは雄牛で、Beefの原音は同じ、phorusは英語のport, ford, と同じくpor(通す)が語源。よって、Bosphorus(ボスポラス)は「牛を通す場所」の意味で、黒海南岸を東西に行き来する横に細長い地形だったのではないかと云います。

 ここからが面白いのですが、黒海はかつては淡水湖で、地球温暖化で徐々海水面が上昇、BC7500年(一説にはBC5600年)ボスポラスが決壊して、地中海の海水が流れ込んで現在の黒海が出来上がった(「黒海洪水説(Black Sea deluge」)。それまでは淡水湖であったことに意味があり、その淡水湖の周りには多くの野生動物が生息、その野生動物を追って狩猟牧畜民族がいくつもの集落を作った。部族間の争いが絶えず、きわめて人間臭い土地だったので、言語の発達がなされました。インド・ヨーロッパ語の発祥はこの黒海(及びカスピ海)北部の東西に広がる一帯(現在のウクライナとロシア南部)と考える言語学者は多いと云います。※ボスポラス決壊(「黒海洪水説」)は旧約聖書「ノアの箱舟」伝説にもつながるが、ここでは割愛します。

 英語は、語形が似ているラテン語やギリシャ語を語源として解説するのが手っ取り早いが、それらの祖語であるインド・ヨーロッパ(印欧)語を語源に英語を眺め直してみると、さらに広い範囲の言葉を整然と理解することができると云います。
 
 インド・ヨーロッパ(印欧)語は大型の野生動物を求めて生活した狩猟牧畜民族が使い始めた言語で、家畜に関する言葉が多いのは当然です。例えば、子牛はラテン語でvitellus(ウィテルス)、英語のveal(子牛肉)の語源と同じ、その複数形vitellia(ウィテリア)の語頭viを短くiと発音するようになり、vitelliaがItalia(イタリア)になった由。

 インド・ヨーロッパ(印欧)語族は、BC2000年頃から寒冷化を割けて大移動、西を目指した多数派は中東からヨーロッパへ、南を目指した少数派はインドへ侵入します。中東地域に侵入した彼らはイラン、小アジアに定住、長い年月をかけてアラブ化されて行きます。インド・ヨーロッパ(印欧)語族は「アーリア人(Aryan)」とも呼ばれ「高貴な」という意味であり、ペルシャ語(イラン語)で「ariia」、サンスクリット語で「arya」と表記されます。「イラン」とはアーリア人が作った「アーリアの国」、「高貴なる者の国」なのです。ヨーロッパ方面に侵入した彼らは地中海沿岸を中心に定住、ヨーロッパ世界を形成します。一方、南下してインドに入った彼らは、長い年月の間にアジア系民俗と混血し、暑い気候により肌が黒くなり、インド人になっていきます。これが後の「カースト制」にもつながります。

 英国人の東洋学者(言語学者)ウィリアム・ジョーンズ(1746-1794)はカルカッタで古代インドのサンスクリット語を研究、サンスクリット語がヨーロッパの諸言語と類似していることを発見したのが始まりでした。人類学の分野では、インド・ヨーロッパ(印欧)語族という共通の祖語族から派生した民族の分類が一般化して行きます。

 英単語の覚え方から始まり、英単語の語源、英語の祖語(母語)であるインド・ヨーロッパ(印欧)語族の発祥、大移動と支配、それに関わるボスポラス海峡決壊、黒海洪水説と旧約聖書にある「ノアの箱舟」まで出てきました。ここまで来ると、英単語を覚えることとはあまりにもかけ離れてしまいます。

 英語の語彙を勉強して、これが他の学問分野への興味につながれば、これもまた嬉しいことではないでしょうか。

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April 27, 2018

明治150年 絶対的存在

 始めてまちだ市民大学を受講することになりました。「町田の歴史」講座は昔からありますが、今年は「明治150年」、〜町田にこだわって「明治維新を」考える〜のテーマが面白そうです。

明治150年ロゴ 諸説ありますが、明治維新とはペリー来航による開国(1853)から大政奉還(1867)、王政復古(1868)、戊辰戦争(1868-1869)、廃藩置県(1871)などを経て西南戦争(1877)までを言うことが多い。因みに「幕末」とは開国(1853)から大政奉還(1867)までの14年間という短い期間です。今年、政府が旗を振る「明治150年」も、各自治体によってそのロゴマーク意匠が微妙に異なります。新政府を主導した長>薩>肥>土の順に日の丸が小さくなり、水戸は日の丸ではなく葵のご紋、反政府側の会津二本松は「戊申150年」、神戸横浜は「開港・開国150年」と全く政治色はなし…と、当時の立場、いや現在に至っても、どこか釈然としない思いが込められているようです。 因みついでに、私の住む町田市は当時幕府の天領で新選組の近藤勇・土方歳三とも縁が深く、会津・二本松まではいかなくても、佐幕の信条かと思いきや、政府(=長)と全く同じ旗を掲げています。

 中国からもたらされた朱子学は江戸時代、林羅山によって武家政治の基本理念として再構築され、徳川幕府の正当学問となります。朱子学に基づいて編纂された『大日本史(1657開始〜1906完成)』は尊王論、これを水戸藩の学問:『水戸学』として発展させます。幕末、その『水戸学』が一大「尊皇攘夷」思想となりますが、徳川斉昭はその思想の具現者として徳川家康の業績を賞賛したように、「尊皇攘夷」思想と徳川幕藩体制は何ら矛盾しません。「尊皇攘夷」は日本の権力者がごく当たり前に持っていた思想と言えます。源頼朝は天皇から「征夷大将軍」という官位を得て、鎌倉に開幕した(1192)ことに始まり、約7百年間武家政治が続きました。 天皇は、政権から遠ざけられていますが、その時々の政権にその正当性を与える最高権威者でした。徳川家康も天皇より「征夷大将軍」の官位を得てその統治に正当性を獲得しました。

 権威者が権力者に「正当性」を与え、見返りに、その「存在」を認める、あるいは「保護」を受ける。ローマ帝国はゲルマン人の侵入により崩壊(467年)、これを機に中世に入りますが、ヨーロッパ各地に興ったゲルマン諸王国は、言ってみれば、侵入してきた蛮族、より高度な文明を持つ先住民族(旧ローマ帝国市民)を支配・統治して行かなければならず、そこで利用したのがキリスト教(ローマ教皇)でした。 ゲルマン人王は自らキリスト教に改宗、ゲルマン人王は「神の代理人」としてのローマ教皇の権威を認め、 その権威に基づき、ゲルマン王の支配・統治に正当性を与え、その見返りに、ローマ教皇は経済的・軍事的な保護を得、ヨーロッパ全土にキリスト教を拡大します。同時に、ゲルマン人王自らがキリスト教徒となったことで、イエス・キリスト(絶対神)の下では王も人民もタダの人に過ぎない、「神の下では皆平等」という考えが広く普及しました。
幕末の武士
 天皇に任命された征夷大将軍はこの国の実際の統治を行う権限が与えられていますが…、 時代は幕末、幕府に従ってこそ真の勤皇(天皇に忠を尽くすこと)であるとする<佐幕派>、 これに対して、もはや統治・実際の政治能力のない幕府は一刻も早く倒すべきであるとする<勤皇・倒幕派>、これが幕末の様相でした。 両者は共に「勤皇」。では「勤皇」が過激化して「倒幕」に変わった理由は何か?天皇が絶対君主であり、その座は不可侵であることから、「天皇の前では、臣下は全て平等」、だから将軍(幕府)が天皇の意志に背く事があれば討ってよい、討つべきである。「一君万民論」は討幕派の志士により広く支持されました。

  この150年、「明治維新」の理解は時代によって変遷してきました。明治新政府は「王政復古」を自らの正統性の拠り所とし、啓蒙思想家は維新の開明性・進歩性を強調、民権家は維新を自由への第一歩、民権運動を「第二の維新」と呼び、日清戦争(1894-1895)の勝利を「第二の維新」、維新の「果実」と呼び、神格化・絶対化された天皇中心とする「伝統」と欧米文化を吸収してきた「文明」性を主張、 大正デモクラシーの時代(1910-1920)、明治維新をブルジョア革命の一種とみなし、護憲運動を「第二の維新」ととらえ、その反動としての皇国史観、絶対化された天皇への回帰、 「大東亜共栄圏」思想に至り、そして敗戦(1945)。「天皇人間宣言」があり、戦後の復興を経て、政府による「明治100年」式典(1968)と司馬遼太郎「坂の上の雲」連載開始、「自由民権100年」(1981)、日本の「近代とは何か」が問われ、そして現代、「草の根」から見た「維新とは何だったの」かが問われています。  
 
…が、不思議なことに、体制・反体制、与党・野党、国家・市民、どの時代、どの視点から見ても、天皇という「絶対的な存在」がついてまわります。西欧における「神の下では皆平等」は西欧民主主義の根本起源となったと同じく、幕末の 「一君万民論」(=「天皇の前では、臣下は全て平等」)が日本における近代民主主義確立に不可欠な「平等」意識を発生します。個人的には、積極的に認めたくはないですが…、天皇という「絶対的な存在」が日本における近代民主主義確立には不可欠でした。

※参考資料:
石居人也 講座『明治維新とは何だったのか』

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April 01, 2018

塙 保己一(はなわ ほきいち)

 幕府は、極端な攘夷論者だった孝明天皇を廃位する方法を密かに和学講談所の塙 忠宝に調査させている、という噂が天下の過激浪士の間に流布していた。根も葉もない噂を根拠に、(塙を斬れば、わしもいっぱしの男になろうか)、と二人はテロを実行した。彼は飛び出し、「奸賊!」と突進した。「塙だ。何の恨みがある」と叫んだ。一人はし損じたが、剣の心得のあるもう一人が突き殺し、用意しておいた天誅の意の札と共に首を土塀に晒し、二人は闇の中を転げるようにして逃げた。(司馬遼太郎著『死んでも死なぬ』より抜粋)
google logo塙 保己一
 暗殺された塙 忠宝(はなわ ただとみ 1808 - 1863)の父親が塙 保己一(はなわ ほきいち 1746 - 1821)であり幕府の和学講談所を開設した当人でした。塙 保己一は7歳で失明、後に戸に出て、男性盲人の自治・相互扶助団体である当道座に入門して按摩・鍼・音曲などの修業を始めたが、不器用でいずれもモノにならず、この道で生きていくことに絶望して自殺を謀ったこともあるといいます。彼の学問への思いを告げられた、雨富検校は彼に様々な分野を系統立ててさせ学問させます。盲目の彼は人に書を読んでもらい、それを暗記して学問を進めて行くのです。 当道座の官位は検校(けんぎょう)・別当・勾当・座頭の4官の他、さらにその中に73の階級があると云われますが、様々な人達の援助もあって、彼は最高位、検校の地位に上り詰め、自らの学問の集大成として『群書類従』の出版を決意します。1793年、幕府に願い出て和学講談所を開設、幕府・諸大名・寺社・公家などの協力を得て、古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、 計1273種を収集・編纂、1793〜1819年に木版で刊行されました。  日本の歴史・文化・芸能・芸術を知るための基本的文献であり、彼の偉業がなくして歴史・文学の学術研究はあり得ないと云われています。

Helen_keller_and_alexander_graham_bell ヘレン・ケラー(Helen Adams Keller、1880 - 1968)は裕福な家庭に生まれましたが、1882年、1歳半の時にしょうこう熱を患い、一命は取り留めたものの、聴力、視力、言葉を失い、話すことさえできなくなり、しつけを受ける状態ではありませんでした。1887年、彼女が6歳の時、両親はアレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell 1847 - 1922)を訪問、 その助言を受けます。彼は世界初の実用的電話の発明で知られていますが、一方では彼の父親、アレクサンダー・メルヴィル・ベル(Alexander Melville Bell 1819 - 1905)が発明した「視話法」(発音の際の口の開き方を図で示し、発音を習得させる方法)を継承・発展させ、 当時最新の言語障害治療・聾唖者教育をしていました。相談を受けたベルはパーキンス盲学校を紹介し、卒業生アン・サリヴァン(Anne Sullivan 1866 - 1936)がヘレンの家庭教師をすることになりました。その後50年間、『奇跡の人』アンは良き教師・良き友人としてヘレンを支え、ヘレンはそれに応えて見事に三重苦を克服、障害者の福祉に大きく貢献しました。

 ヘレン・ケラーは、幼少時、盲目の塙保己一を手本に勉強したと云います。彼女の両親の相談を受けたベルは二人に塙保己一のことを語って聴かせたのです。ベルは以前、「視話法」を学んでいた日本人留学生、伊沢 修二(1851 - 1917 信州高遠藩出身)から詳しく聞いた塙保己一の話が深く印象残っていたのでしょう。伊沢は帰国して後、文部高官・教育者となり音楽教育や吃音・盲唖教育に貢献することになります。

 塙 忠宝の後を継いだのが塙 忠韶(はなわ ただつぐ 1832 - 1918)、維新後、歴とした幕臣、「奸賊」の子でありながら、明治政府から召しだされ大学少助教に任ぜられ、文部小助教、租税寮十二等出仕、修史局御用掛を歴任します。何者がそのように優遇するのか…、当初、忠韶本人は不可解であったでしょう。

 狂気の幕末、塙 忠宝を殺した下手人の一人は、その直後にあっさり攘夷を捨て、後に初代内閣総理大臣となった伊藤博文。彼は1909年、ハルビン駅で朝鮮民族主義活動家、安重根に暗殺されます。もう一人は、山尾庸三(やまお ようぞう 1837 - 1917)、維新後は障害者教育に熱心に取り組み、1915年には日本聾唖協会の総裁となります。
 
 埼玉県人には失礼ですが…、 車で走ると、だだっ広いだけの、誠に殺風景な関東平野ですが、塙 保己一の看板が大きく見えます。このものすごい人は武州児玉郡保木野村に生まれました。

 ※参考資料:司馬遼太郎『新装版 幕末 (文春文庫)
 
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March 09, 2018

月代(さかやき)と日本刀

 江戸時代の浮世絵に見られる男性の丁髷(ちょんまげ)と月代(さかやき)は現代に生きる日本人が見ても極めて異様で、況んや外国人からすれば日本人独特の奇習でした。江戸時代の髷(まげ)を遡ると飛鳥・奈良時代の髻(もとどり)と呼ばれる総髪を束ね、その上に冠をかぶる、「冠下の髻(かんむりしたのもとどり)」に辿り着きます。これは、「身体髪膚之を父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり」と儒教を信仰する漢民族(中国)から輸入されたものです。

義経 源氏の御曹司、牛若丸は金売り吉次の手引きで鞍馬山を脱出してすぐ、近江国鏡の宿辺りで、稚児姿を探す平家方の追っ手を察知、急遽元服を決意します。 前髪を落とし髻を結び、その上に地元で作らせた源氏の左折れの烏帽子を載せて元服した(1174)とされるのですが、「前髪を落とした」とは、後に言う月代(さかやき)を剃ったということなのでしょうが、この孔子の言葉は何処へ行ってしまったのでしょう。 「冠下の髻」はいつ頃・なぜ変質してしまったのでしょうか?「冠下の髻」は成人男性を証明するものであり、冠を脱がせ髻を外すことは男性に対する最大の恥辱であり(『平家物語』「殿下の乗合の事」)、現代で言うならば公衆の面前でパンツを脱がすようなものでした。よって、飛鳥・奈良・平安に至るも、頼朝・義経を描いた肖像画には正装である衣冠束帯や狩衣・直衣姿しか見ることができず、冠・烏帽子の下がどうなっているのかは目に触れることは出来ません。

 月代(さかやき)は、一説では本来「逆い気(さかいき)」で、戦に面して「気が逆上る(頭に血が上る)」、兜をかぶって蒸れるのを防ぐために前・頭頂部を剃ったとものと云われ、武士の出現と無関係ではないように思われます。兜をかぶって蒸れるのは日本人だけでなく、中国始皇帝軍、ローマ軍の兵士や十字軍騎士でも同じだろうと思うのですが…。僧侶ではない者の頭頂部を剃る民族は、日本人を除くと、靺鞨・女真などツングース系民族に見られます。満州人(ツングース系諸民族の総称)は清を建国(1636〜1912)は明を滅ぼし(1644)、服従の証として漢人の男性に辮髪(べんぱつ)を強制、 19世紀には辮髪は完全に中国的な風習となった。東アジアにおいては、遊牧民族を起源に、これに征服された民族を含めて、明の衣冠制度を厳格に守る朝鮮を除いて、辮髪(べんぱつ)か髻(もとどり)+月代(さかやき)の習慣がありました。考えてみれば、辮髪は頭頂部の髪の毛を後ろにまとめて長く垂らし、髻(もとどり)は上に、髷(まげ)は前にまとて形を整えたもの、元結いを外せばほとんど同じになってしまいます。髻(もとどり)と月代(さかやき)の習慣は遊牧民族の辮髪が起源ではないでしょうか。

 馬上から敵を倒すには、突くよりも斬るほうが有効、加えて反りがあった方が振り回しやすく、斬りやすい。 797年、坂上田村麻呂を征夷大将軍に東北へ遠征、当初、直刀で戦うヤマト朝廷軍は蝦夷軍の反りのある刀剣(「蕨手刀(わらびてとう)」)に苦戦します。  これを機に騎馬戦に適した、湾曲のある、現代人にもなじみのある日本刀に発展して行ったとされています。平安時代になると、網野義彦著『東と西の語る日本の歴史』の云う「西の海と船、東の弓と馬」の通り、伊勢平氏は中国宗との貿易を始め、瀬戸内海航路を支配したが、一方の源氏は「前九年(1051-1062)・後三年の役(1083-1087)」で東国武士の支援を獲得して騎馬文化に深く浸透しました。西国、淀川水系の淀津(大山崎)・神崎・江口には遊女が居たと同じく、 東国、美濃(青墓宿)・三河・遠江・相模(足柄)には傀儡子の集団が存在しました。平安後期、大江匡房(まさふさ1041-1111)が著した『傀儡子記(くぐつき)』には、人形を操って生計を立てる芸人であり,天幕(テント)生活をしながら移動し、女は倡歌淫楽して媚を売る「遊女」のようなもの、 男は馬上で弓を引いて狩猟する、と書かれています。西国の「遊女」を見慣れた都人(みやこびと)大江匡房から見て傀儡子はさぞ奇異に映ったことでしょう。

 従来より、傀儡子は、インド北部に起源するジプシーと同根で( ちょっと奇想天外ですが、南方熊楠も触れています)、秦氏一族の一員として朝鮮半島経由で渡来したという説があるが、明らかに傀儡は渡来一族である。 沿海州にあったツングース系の渤海国(698- 926)の使節が日本に到着した時に蝦夷と呼ばれていた人々によって殺害された事件が発生したが、2百年にもわたり交流が続いた。1019年、沿海州の女真族の一派刀伊が北九州に来襲(「刀伊の入寇」)した当時、少なくとも「前九年(1051-1062)・後三年の役(1083-1087)」までは出羽・陸奥地方は蝦夷の住む異国・外国であり、朝廷中央政府の権力の及ばない辺境・異境でした。西は鹿児島「鬼界ヶ島(きかいがしま)」、東は津軽「外が浜」という日本国の概念が完成したのは源平の平安末期です。蝦夷と呼ばれた彼らは日本海の向こう側、沿海州経由でやって来た傀儡の民、遊牧民族を迎えて「馬上からの弓矢」に始まる騎馬戦を伝えたのではないでしょうか。全容が未だ不明の「十三湊の遺跡」(青森県五所川原市)があり、安倍氏から安東氏と繋がる(?)蝦夷(?)が築いた港湾施設は、当時の盛んな日本海貿易を物語っています。

後三年合戦絵巻
 「後三年の役(1083-1087)」で東国武士の支援を獲得した八幡太郎源義家から数えて2代目、源為義(1096-1150)は美濃国青墓宿(大垣市)の傀儡子の長者(大炊)の姉を妻とし4人の息子を設けるも、「保元の乱(1156)」に敗れ、嫡子義朝の命で息子共々処刑され、続く「平治の乱(1159)」では義朝は一転して敗将となり、東国へ逃れようと一時青墓宿に身を寄せ、尾張国野間にて御家人の裏切りで殺されました。東国を基盤とする源氏は青墓宿(大垣市)の傀儡子の長者(大炊)との関係の深さは注目に値します。髻(もとどり)と月代(さかやき)、日本刀の反り、袴(はかま)は遊牧・牧畜民族(nomad ノマド)由来の習慣で、日本海を北回りで渡来した傀儡子が、東北で蝦夷と呼ばれた彼らに騎馬で矢を射、刀剣を振るう技術を伝えた可能性は考えられます。 この騎馬技術・文化・習慣が東国武士に、そして傀儡子と源氏の深い関係に継承されたのかも知れません。

 しかし、惜しいかな…、この説には致命的な欠陥が存在します。遊牧・牧畜民族及び彼らに侵略された民族は「去勢」技術を有します。品種改良、もう一つは、雄の攻撃的な性質などを喪失させ、制御を容易にすることを目的としますが、日本にはこの「去勢」技術が入っていません。中国の「宦官」の制度が入って来なかったと同じような理由があるのかも知れません。制御の難しい馬に乗り、なお且つ馬上で弓を引き、刀を振るうとは武芸とは名人芸でした。日本には馬車がありませんでしたが、道路が発達していなかっただけでなく、馬車馬の制御が出来なかったのです。「日清戦争(1894-1895)」で勝利した日本軍が中国に駐留の際、同じく西欧の駐留軍から日本の軍馬の制御不能ぶりを馬鹿にされ、これを機に「去勢」技術が導入されたと言います。

 p.s. 「3.11」から7年、亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
 
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November 13, 2017

火薬を巡る世界史そして日本史

 平安末期、平清盛の時代(1118-81)、日本の東(北)の端は津軽半島東部の「外ヶ浜」、 西(南)の端は鬼界ヶ島(=薩摩硫黄島)でした。清盛政権の転覆を謀った(『鹿ヶ谷の陰謀(1177)』)ことを理由に俊寛以下3人はこのこの鬼界ヶ島に流されますが、この鬼界ヶ島は硫黄の産地、積み出し港として、清盛政権の財政的基板である日宋貿易、朝鮮半島・琉球を結ぶ交易ルートにおける最重要拠点の一つでした。摂津国福原で奥州産の金・銀を積み、博多を経由、鬼界ヶ島で硫黄を積んで 宋(寧波)へ,宋からは大量の宋銭・香料・陶磁器などを持って帰るという貿易ルートを実現、 輸入された大量の宋銭は、従来の国産の貨幣を駆逐、貨幣経済の革命的な発展をもたらします。清盛に依る政権奪取、引き継いだ頼朝が開いた鎌倉幕府に始まる700年に及ぶ武家の時代となります。
てつはう
 当時の文明国、中国の宋(960 - 1279)は異民族の圧迫を受けて南下します。唐の時代(618年〜907年)に発明された黒色火薬(硝石+木炭粉+硫黄)の実戦兵器への応用が急速に拡大しますが、女真族:金により、華北・東北地方の領土を失った南宋(1127 - 79)は、火薬の原料である硫黄の国内における産地を失い、日本にその供給を求めるようになった訳です。清盛が輸出した硫黄が中国で何に利用されるかを探った様子はありません。金そして南宋を滅ぼしたモンゴルは元を建て(1271 - 1361)、フビライの時、日本にもモンゴルへの服属を求めたが鎌倉幕府はこれを拒否したため、1274年(文永の役)・1281年(弘安の役)の二度、モンゴル(元)と高麗の連合軍を日本へ送るがいずれも失敗に終わります。モンゴル軍の「てつはう(炸裂弾)」は絵にも残されているように、大いに驚いた鎌倉武士でしたが、この最新兵器がどのようなものか、炸裂・爆発するメカニズムを解明しようという思いには至らなかったのは清盛の時代と同じです。全く興味を示さなかったのは、当時の中華文明国に比べその一周辺国に過ぎない日本の文明度が格段に低かったということです。

Battle of Sarhu  ヨーロッパへの火薬の伝来は、モンゴルのバトゥのヨーロッパ遠征(1236 - 1241)の時、あるいは十字軍遠征(1096 - 1291)の時代に、既に火薬が伝来していたイスラム軍との戦闘を通じてヨーロッパに知られたとも言われる。1252〜56年カラコルムでの活動していたフランシスコ会伝道師が見聞した火薬の知識を当時ヨーロッパの最高学府で学んでいたロジャー・ベーコン(1214 - 1294)に伝え、後にベーコンは火薬に関して書物に著し、そこには硝石についての記述があるそうです。 1333年に鎌倉幕府滅亡、その頃までにヨーロッパでは火薬が研究され、如何に硝石を人工的に作るかが研究されていたということです。1378年にはニュルンベルクにおいて初めて、糞尿などをかけて硝石を人工的に生産する施設が作られたが、効率も品質も悪く、増加する一方の火薬の需要を満たすには至りませんでした。

 一方の日本、文永・弘安の役という二度の痛い経験をしながら、これを原因に鎌倉幕府は滅亡するのですが(1333)、モンゴル軍が用いた「てつはう」のメカニズムを解明しようとはしていません。当時、ヨーロッパはルネッサンス前の、いわゆる中世の暗黒時代、同時代の日本はこと「火薬」に関してはヨーロッパに大きく遅れをとっていた事になります。火薬の発達の背景には戦争があるのは当然の話、火薬の実戦配備は中国宗時代の金・モンゴル等の対北方異民族戦、モンゴルのイスラム・ヨーロッパ遠征、これがヨーロッパに持ち込まれた14世紀からの500年にわたり、これらの地域では戦争の絶え間がなく火薬兵器が発達がしました。

 モンゴル元寇の「てつはう」から種子島「鉄砲」までの262年間、日本が鎌倉幕府滅亡→南北朝動乱→室町幕府の無力化→応仁の乱と戦乱が続いたのはヨーロッパ中世と同じ、ましてや戦争のプロ、武家の時代のはずですが、歴史上では、火薬兵器・硝石の研究開発がなされた事実がありません。2度の元寇でぎくしゃくあったにせよ日元貿易あり、足利室町幕府は朝貢という形を取ってでも日明貿易を行っており、朝鮮半島経由でも、何らかの形で火薬・硝石の情報が入って来ているはずです。例えば、中国では、唐・宗の時代から爆竹があったらしく、かなり早い段階で火薬は日本にも入っていたのではないかという疑問がわくのは当然です。

 262年間無関心であったものが、種子島を機に、それこそ爆発的に関心度を高め、重要度に目覚め、わずか60年の間にそれまでの空白を埋めるかのように、一気に、少なくとも量的には、関ヶ原で世界の頂点に達します。ところが、家康が江戸に徳川幕府を開き平和が訪れると、一挙に軍縮が急激に進み、火薬兵器の発達はばったり停止、銃把(=グリップ)の装飾に贅をこらすなど、兵器=道具としてよりも意匠・工芸美術品に成り下がっていきます。その間、難渋して獲得した最重要技術の一つ、銃底の強度確保のための尾栓の雄ネジ及びそれがねじ込まれる銃底の雌ネジの製造技術(ネジは中国の発明ではない)は火薬兵器の発達停止とともに、 銃底 ネジ他の産業技術に応用されることもなく、歴史の中に埋没してしまいます。不思議です。

 尾栓のネジの切り方に難渋した末に国産銃を完成させますが…、火薬を調達・製造できなければ、鉄砲が出来たとしてもそれは単なる鉄パイプ。火薬製造に、木炭・硫黄は入手出来たとしても硝石の入手は難しく、今井宗久・千利休等の堺商人による輸入に依存せざるを得ません。つまりは、火薬は堺でしか作れず、ヴェニスと並び賞される堺の自治は火薬の独占により実現したことになります。

 長くなりました。この続きは次の機会に譲るとしましょう。

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September 22, 2017

画集 『Portrait Of Courage』

 国連の禁止命令にもかかわらず「大量破壊兵器を保持している」ということを口実にイラク戦争(2003-2011) に踏み切ったジョージ・W・ブッシュ大統領、当初は自軍を現代の「十字軍」と呼び、慌てて訂正、イラン、イラクと云ったイスラム国家に北朝鮮を加えて、これがキリスト圏とイスラム圏との戦いではない、「悪の枢軸」との戦いであると主張。フセイン政権との大規模戦闘は短期間で終了、イラク侵攻は単なるクーデターであって、むしろ政権崩壊でイラク国内治安は悪化、内乱状態の終結は2011年まで待たなければならなかった。2009年、任期満了で大統領を退任したが、8年の政権期間を述懐、「私の政権の期間中、最も遺憾だったのが、イラクの大量破壊兵器に関する情報活動の失敗だった」と。当時の小泉首相は、日本の首相として、「十字軍」・「枢軸」と云う表現に何の違和感も持たなかったのか…、イギリスのブレア首相、オーストラリアのハワード首相とともに、ブッシュのプードル犬と呼ばれ、 インド洋に海自補給艦を、サモアに陸自施設部隊を派遣するだけでなく、 イラク政府に対する7,100億円(?)もの債権を放棄した。結果、「大量破壊兵器は見つかりませんでした」とはお粗末至極。
portraits of courage
 『Portraits of Courage: A Commander in Chief's Tribute to America's Warriors』は43代アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュによる画集、予約注文が殺到、発売と同時にベスト・セラー第一位となった。「夫が将来大統領になるのは想像出来ても、画集を出版するとは夢にも思わなかった」とは妻のローラによる前文の言葉。大統領引退後、66歳の時、人生に何かが足りないと、ウインストン・チャーチルに倣って、絵画をやり始めたそうです。誰かに指導を受けたにせよ、彼の描く肖像画は、素人の域をはるかに超えて、実に素晴らしい。
gwbush-painting
 敬虔なキリスト教信者としての贖罪かも知れませんが、ジョージ・W・ブッシュは、勘違いで「ならず者」を蹴散らしてしまった、単純なテキサスの坊ちゃんカウボーイではありませんでした。

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December 08, 2016

庵の窓の外は…<2> ルネッサンス

              
銀閣寺窓  日本に禅宗が伝えられたのは鎌倉時代であり、武士・一般庶民に広まり、室町時代に幕府の庇護の下で発展しました。といっても、禅宗が定着したのは京都・鎌倉・博多ぐらい、 当時の日本人にとっては、禅文化は異国趣味の、流行の最先端を行く、これほどまでに日本的ではない文化はありませんでした。深い教養を必要としない禅宗及びその文化:喫茶はぱっとでの武士・一般庶民に広まり、当初は闘茶・茶寄合など自由狼藉・バサラの文化でしたが、次第に変貌、洗練されて「わび・さび」・「枯淡の美」を表現する、茶の湯、生花、書画、建築、現代日本文化の源流である室町文化に発展します。

 14〜15世紀、 茶の湯の舞台である書院座敷は大型化と小型化と対局する方向に分化し、 後者は禅宗の隠者的在り方が強く影響し、四畳半という小世界に在って無限の自由を追求するというもので、16世紀には四畳半の草庵茶の湯が泉州堺の商人衆を中心に行われるようになります。人里離れて隠遁するのではなく、都市の中に数奇にふさわしい茶の湯の家を作り「市中の山居」を楽しんだのでした。

 摂津河内和泉三国の境という意味の堺は明、李朝鮮、東南アジアとの貿易で大いに栄え、財力を成した商人が次第に領主権力を排除、会合衆を中心に自治的な都市運営を行っており、環濠を巡らし、自衛・武装していました。当時の宣教師は堺をブェニスに匹敵する自治都市と紹介しています。利休の師、武野紹鴎(たけのじょうおう1502-1555)は一向宗徒(浄土真宗)から禅宗に改宗(?)、貴賤平等を唱え、茶の湯では同じ高さの位置、同座する平座を提唱、床の間から身分の高い人が座るというの本来の機能を奪い、掛け物、生花という座敷の意匠の中心に据えた。不必要なものを思い切って省き、室町将軍殿中の唐様飾りを数奇の茶の湯から排除、明治から3世紀も昔に人間平等・四民平等を唱えたのは革命的です。虚飾を捨て、自己を開放し、人間らしさを主張する、言葉を換えれば、大変動の時代に在り、従来とは全く異なる価値観・倫理観を持ち、社会的な束縛・因習を破って、自分の自由意志で行動する新しい人間が生まれたことを示しています。これは正にイタリアで始まった ルネッサンスを貫く思想、「人文主義(humanism)」です。 
 
 大航海時代による貨幣経済、重商主義経済の発展は文化面、特に宗教面に現れます。 ミケランジェロ_ダビデ像ドイツでは、ルターが痛烈な教会批判を行い(1517)、フランスではカルヴァンが国王に叛旗を翻し(1536)、イギリスもカソリックを離脱して新しくイギリス国教会を作ります(1534)。「人文主義(humanism)」が「宗教改革」をもたらしたことになります。ルネッサンスは、13世紀後半、ダン ザビエルテ(1265-1321)に始まりミケランジェロ(1475-1564)に終わりますが、このミケランジェロとフランシスコ・ザビエル(1506-1552)とは正に同時代です。カソリック教会のイグナチオ・デ・ロヨラ、ザビエル等6人が、プロテスタントによる宗教改革運動に対抗して結成されたのがイエズス会(1537) であり、その意義は、宣教のみならず、ルネサンス後期の「人文主義(humanism)」に基づき、世界各地における高等教育機関の運営に積極的に取り組んだことです。1549年、そのザビエルが日本に来訪してキリスト教が正式に日本に伝わります。ザビエル来日(1549)から約40年で(秀吉によるバテレン追放(1587))キリスト教信者数は20万人を越えています。 今日のカソリック及びプロテスタント信者数は1百万、人口のわずか0.8%にて、当時の人口(12百万)の1.6%(今日の倍の比率)がキリスト教徒であったことは驚異です。

 千利休(1522-91)、堺の商家に生まれ、家業は納屋衆(倉庫業)、祖父:千阿弥が足利義政の同朋衆で、その一字をとって千家を称した。武野紹鴎を引き継ぎ、禅の精神である「和敬静寂」を根底に、簡素・静寂・清浄を旨とする数奇茶、茶の湯を大成、1585年、利休居士と名乗る。堺町衆の茶の湯好み(茶数奇)が戦国武将と町衆茶人と大徳寺禅宗とを結びつけることになります。そして戦国武将の少なからぬ人数が、当初は南蛮貿易を行う実需のためにキリスト教に改宗する大名もいましたが、次第に近畿地方の大名にも真の信仰を行う改宗者が現れます。 利休の高弟にも蒲生氏郷(レオン)、細川 忠興(その正室ガラシヤ)、高山右近(ジェスト)、大友宗麟(フランシスコ)、黒田如水(シメオン)等のキリシタン大名が少なくありません。鎌倉時代に遡る武士道の精神、禅を母胎とする茶の湯の精神、キリスト教徒の求道精神、これら三つに通じるのは清貧の精神であり、物欲からの脱却し開放を指向することです。

 よく指摘されるように、茶の湯の約束事には多くのカソリック的要素が見られます。茶の湯の「にじり口」⇔「狭き門より入る」、利休の杖とカソリック司教杖との類似、利休が考案した愛用の雪駄はイエズス会修道士の履き物にヒントを得た、茶と茶菓子⇔ミサのパンとワイン、濃茶を回し飲みした後に茶碗を拭う作法⇔ミサのコミュニオン(Communion 聖体拝領 聖拝でワインを回し飲みする)の際に聖杯を拭う作法、「一味同心」の交わりという理念⇔ミサのコミュニオン(Communion 共同体の意味)等が類似点ですが、「茶室」⇔ミサの「祭壇」、床の間の書画・生花⇔ステンドグラスの窓、絵画・彫刻が対照的です。

 堺の町衆だった武野紹鴎、同じく彼を継承した利休が「茶の湯」を完成した。これが、一千数百年もの歳月をかけて磨き上げられてきたカソリック儀式のミサに匹敵する芸術的・宗教的所作あるいは儀式とは全くもって驚異な事です。地球の西の端と東の端、それぞれが別個の起源に発し、別個な道を辿りながら、膨大な年月をかけて到達したものが、一方のカソリック儀式のミサであり他方の「茶の湯」だった。…とは信じがたいことです。彼は「自治都市」堺の出身、この町は遠くヨーロッパにも開かれていたはず、彼はヨーロッパが「ルネッサンス」から「大航海時代」・「宗教改革」に至る様子を知って…、あるいは気付いていたのではないでしょうか。利休は、彼の弟子達と同じく、キリスト教徒だったのか…、そうでなくとも、知識は十分にあったはずです。

 あるいは、禅宗そのものに大きなキリスト教的、現代にも通じる「人文主義」的要素があるのでしょう。『路上にて On The Road』を書いたジャック・ケルアック(Jack Kerouac、1922-1969)は禅ismを散りばめた小説を書き、60年代後半に始まる対抗文化:ヒッピー文化の一つの中心に位置し、ボブ・ディランにも影響を与えました。ジョージ・ルーカスの『STARWARS』日本の禅が色濃く、アップルのスティーブ・ジョブズに至っては禅宗徒(曹洞宗)、禅僧であったのはご存じの通りです。

 混乱の戦国に生まれた「茶の湯」、近世・近代をぐーっと手繰り寄せます。
※参考:山田無庵『キリシタン 千利休 』 増淵宗一『 茶道と十字架 』 児島孝『数奇の革命 』 五野井隆『大航海時代と日本
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December 01, 2016

庵の窓の外は…<1> 大航海時代

                 
窓の外  「茶の湯」は禅宗に起源をもち、やがて追随しがたい小宇宙とでもいうべき日本独自の様式を作り出したと云われています。

 マルコ・ポーロ(1254〜1324)は、元の時代、中国に滞在してしていた時に話しに聞いたという「黄金の国、ジパング」。  日本では初めての武家政権、 鎌倉幕府の時代、そのかつての「黄金の国」奥州平泉藤原氏は既に滅亡しています。それから2百年、コンスタンチノープルは既に陥落(1453)、東地中海はイスラム勢力下にあり、ポルトガルは地中海から敗退したジェノバ商人の力を借りて海洋貿易立国を計り、西地中海では「レ・コンキス Age Of Discoveryタ」が完成(1492)します。 こうして、ポルトガルはアフリカ大陸西海岸を次々に占領して南下、1497年にはバスコ・ダ・ガマが喜望峰を周りインド航路を開拓します。  同じくイベリア半島にあるスペインの支援を受けたコロンブス(1451?〜1506)は、1492年、「黄金の国、ジパング」を目指して大西洋を西に向けて船出します。「ポルトガル人はカルカッタ、マラッカを越え、マカオ、1541年には豊後に辿り着きます。日本に鉄砲そしてキリスト教を伝えたのも彼等でした。

 この頃からでしょうが、ヨーロッパでは陶器・焼き物は「チャイナ china」と呼ばれるように、優れた陶器は中国から輸入されました。  後に、日本の漆工芸品、特に蒔絵が珍重されて、漆器は「ジャパン japan」と呼ばれるようになりました。もし、「漆器・塗り物の国、ジパング」が流布されていたとしたら、アメリカ大陸、新世界の発見は遅れていたかも知れません。

 日本独自の様式を作り出したと云われる室町時代(1336–1573)は、政治的には武士が公家を圧倒、文化的には大陸文化と日本文化、公家文化と武家文化など諸文化の融合が進展し、禅宗を母胎とする簡素な、枯淡の美しさ、「わび・さび」と伝統文化における風雅、幽玄が精神的な基調をなしています。「応仁の乱(1467)」以降も足利室町幕府の余命は保たれてはいるが、もはや統治能力はなく、群雄割拠の戦国時代、信長が最後の将軍:義昭(1537-97)を追放しながらも、「天下武布」完成を目前にして「本能寺の変」に倒れます。その後を継いだのが秀吉でした。

 時代は婆娑羅(バサラ)から下克上、戦国騒乱の時代、社会は大変動が起こっていました。喫茶の習慣は禅宗が中国から持ち込んだ文化でしたが、初期の茶は後に利休が完成させた「茶の湯」とは全く異なるもので、饗膳・飲酒の席にふるまわれ、茶を飲んでその銘柄を当てる博打(闘茶)が行われ、その乱痴気騒ぎぶりを足利幕府も規制したほどです。座禅を組むだけで往生できると説いた禅宗は武士・庶民の間に広まり、和歌管弦には高い教養が不可欠ですが、喫茶は成り上がりの武士や誰にでも出来るものでした。「茶寄合」の文化は自由狼藉・無礼講(バサラ)の世界と云えるでしょう。「数奇」は「好き」の当て字、伝統的な風流・風雅を加味して、当初は和歌を指したが、やがて「茶の湯」を指すようになった。偏執的な行為の許容だけでなく、常軌を逸する行為、習慣やしきたりなどの社会的制約に束縛されることなく、自分の欲するままに自由に行動することを意味し、「茶の湯」が「数奇」と呼ぶにふさわしい内容と性格を持つように洗練された事を意味します。

 日本を訪れた宣教師は日本人がなぜ古い釜や土製の器を、ヨーロッパ人が宝石・貴金属をそうするように、宝物として扱うことを理解出来ず、ヨーロッパ宮廷文化で磁器・漆器が重宝がられるまでにはあと百年を待たなければなりません。

※参考:増淵宗一『茶道と十字架 』、児島孝『 数奇の革命―利休と織部の死
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October 30, 2016

そうだ、バスで、京都に行こう!<2> 蚕の社

                 
 「嵐電(京福電鉄)」は京都の長い歴史を往還するタイムマシンかも知れません。白梅町駅で嵐電(北野線)に乗車、「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」駅で本線に乗り換え、「太秦広隆寺」駅、そして「蚕の社(かいこのやしろ)」と、ひらがなで綴った駅名はまさにタイムマシン、映画:『Back To The Future』デロリアン(De Lorean )です。
白梅町駅
 司馬遼太郎著の何かの本で読んだが、彼はまだ若く産経新聞京都支局で大学か宗教の担当であった時、街の銭湯で一人の老人と出会い、「日本にキリスト教を初めて伝えたのはフランシスコ・ザビエルではない。彼よりさらに千年前、すでに古代キリスト教が日本に入って来た。」と話してくれたのがその小説を書き始めた動機であったとは、少々出来すぎだったのではないでしょうか。銭湯で会った老人とは佐伯 好郎だったのか…?、その小説とは彼の初期の短編:『兜率天の巡礼 』でした。

 本来、キリスト教は全能の唯一神以外に神の存在を認めない一神教であるが、預言者の一人にすぎないイエスは自ら神の一人子となのって神の座を獲得したが、そのイエスを生んだマリアは何者だろうか。西暦431年の東ローマ帝国の首都、コンスタンチノープル、教父:ネストリウスの「マリアは神の容器であったかも知れないが、神の母ではない」という説は神学論争に敗れ、邪説の烙印を押され、一派は異端として追放されることになります。コンスタンチノープルを追放された彼等はペルシャ、インド、天山北路を東へ、中国に至る。大唐の興隆期、636年に首都:長安に現れ、他民族宗教に寛容な治世下に景教寺院「大秦寺」を建てるが、武宗の時代、仏教寺院と同じく廃棄された。これ以降、中国で景教徒と呼ばれた古代キリスト教ネストリウス派は歴史に消息を絶ちます。

 それから一千年後の明の時代、1625年、『大秦景教流行中国碑』が発見され、出土の状況は、ポルトガルのイエズス会士アルヴァロ・セメドが記録している。

 景教徒の日本渡来は唐よりも古く始まるが、推古朝の6世紀、コンスタンチノープル追放後百年、普洞王が率いる一派がいまの兵庫県赤穂郡比奈ノ浦に上陸して入植した。後に河内、たけのうち峠を経て飛鳥に至り、やまと朝廷の女性をもらい受ける。女性は普洞王の子を出産して比奈ノ浦に下った。その子が長じて倭女を娶って男子が誕生する。それが秦河勝でした。河勝は山城地方を開拓、織物の生産を興隆して、その私財を蘇我氏に抗する聖徳厩戸皇子に注ぎました。

 京都のデロリアン、一両編成(?)の嵐電電車は「太秦広隆寺」駅に到着、駅前の広隆寺を訪れる。昔、小学校か中学校の遠足で来たような…、弥勒菩薩半跏像、秦河勝お及び河勝夫人と伝えられる木造座像を始めとする蒼々たる国宝・重要文化財がならぶ秦氏の氏寺であり、平安京遷都(794)以前から存在した、京都最古の寺院である。残念ですが…、秦河勝像をして「〜ペルシャ人かユダヤ人に見える」というくだりがあるが、どう見ても我々と同じモンゴロイドにしか見えません。東隣の「大酒神社」は、明治の廃仏毀釈により分離されたが、それ以前は広隆寺内に鎮座する異教の廟所、「大闢(たいびゃく)ノ杜」でした。

 「大酒神社」から徒歩で10分、今回のハイライト、「蚕の社(かいこのやしろ)」に辿り着きます。正式には「木島坐天照御魂(このしまにまずあまてるみたま)神社、または木島神社」と呼ばれます。我々姉弟の二人だけ、社外の騒音は嘘のようで、大木に囲まれた境内は静寂そのもの、二人の足音しか聞こえません。やがて、本堂に向かう左手に三脚の鳥居が忽然と現れます。
三脚鳥居_蚕の社

  1千5百年も隔てる過去と現在、1万1千キロを隔てる西と東、幻と現を往還した短い旅は間もなく終わります。「蚕の社」駅で乗ったデロリアンは現在に向かって走り出します。
※参考資料:司馬遼太郎著『兜率天の巡礼

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September 09, 2015

奇しくも同時期、モンゴルとサムライの勃興

 伊豆衝突2千万年前、伊豆は遥か南方の海底火山でしたが、徐々に北上し、60万年前、遂に本州に衝突し、急峻な伊豆・箱根・丹沢山地が誕生しました。

 地球の歴史から見ればほんの少し前、たかだか5千年前、四大文明が誕生、やっとのことで、人類は文字を用いて歴史を刻み始めました。 独自の進化・発展をしてきたそれらの文明世界ですが、12〜14世紀、ユーラシア大陸にモンゴルが勃興、東の中国文明世界と西の地中海文明世界に跨がる巨大帝国を作り上げます。ユーラシア大陸におけるモンゴル帝国の出現は人類史上画期的な出来事であり、パクス・モンゴリカが本当の意味での「世界史」を実現したと云えるでしょう。
mongol empire
13世紀モンゴル帝国および主要交易ルート

 奇しくも…、ユーラシア大陸が東の海に没する日本列島では、そのモンゴル勃興と同時期、伊豆衝突で出来た伊豆・箱根・丹沢山地、秩父そして碓氷峠につながる大きな山塊の東、坂の東に、「坂東武士」が誕生します。今日、日常的に使われる言葉:「一生懸命(いっしょうけんめい)」、元来は 「一所懸命」、自分の領地(一所)を命懸けで守る、という論理でした。「名こそ惜しけれ」、卑怯な振る舞いを蔑む精神と表裏一体して、半独立国家を形成、後の「鎌倉幕府」につながっていきます。日本人の精神構造の重要な部分はこの地、この時代に形成されました。

 こうして鎌倉幕府(1192)が誕生、以降、武士(サムライ)は、中国・朝鮮とは全く違う社会を作り出し、8百年もの長きに渡り日本を支配、その違いは江戸時代に決定的となります。 日本人でありながらアジアを理解しない、明治期の「脱亜入欧」思想はこの歴史に由来します。徳川幕府の江戸時代、絶対的な立法・行政権(特に徴税・軍事・警察権)を持つ支配階級にその社会の富が集中するはずなのですが…、支配階級である武士は時の経過とともに相対的に貧しくなり、商人が経済的に力を増してくるという、まさに商品経済の大きく発展する時代、「商人の時代」でした。全人口の5〜7%を占める武士は、ヨーロッパにおける初期プロテスタントの如く、自律的で、潔く、公共への奉仕精神を持ち、被支配階級の農民・商人・職人から尊敬されていました。 武士は学問をする階級(知識階級)であり、商人など庶民の子弟は、基礎学力として、読み・書き・算盤を学び、幕末の識字率は70〜80%に達しました。商品経済の発展は人間を現実的、物質的にし、学問は実証的になります。近代資本主義の萌芽は既に江戸時代に始まっていました。因みに、現在のイラクの識字率は40%、アフガニスタン36%と、2百年前の日本より低いことになります。

 現在も伊豆半島はフィリピン海プレートの最北端部に在って、本州が乗っているユーラシアプレートの下に沈み込んでおり、東海・東南海・南海地震が発生する原因と考えられ、箱根大涌谷火山活動の活発化から、遠くない富士山噴火も予測されています。

※参考:司馬遼太郎『十六の話 』 西尾幹二『地球日本史

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August 09, 2015

胡椒と金

ノザキのコンビーフ 昔から釈然としないことが多いのですが、その一つがこれです。 中世の西欧では牛豚の肉は、もちろん干し肉、薫製などに加工されましたが、多くは塩漬けにして樽の中につけて置き、これを少量ずつ長い冬の間に食べつないだのです。冬が寒いとしても肉は傷んできます。腐りかけた肉に「胡椒」をかけると臭みが消え、一度「胡椒」の味を知るとそれなしではすまない必需品となったそうです。※蛇足ながら、牛肉の塩漬けは英語で「Corned Beef」、日本には戦後アメリカから入り、「コンビーフ」と呼ばれ、特に関東地方で大衆化しました。

pepper 胡椒をはじめとする香辛料の産地はインド西海岸、ジャワ、スマトラ、モルッカ諸島、マライ半島に限られて西欧からは遙かに遠く、その間、インド商人、アラビア商人、そして地中化に至るとベネチア、ジェノバ商人の手を経なければならず、この入手困難な貴重品:「胡椒」は当時金にも匹敵する価値があり、西欧を「大航海時代」へと突き動かす動機の一つに、自前での「胡椒」の確保があったそうです。しかし、わさび・唐辛子・和がらしを知る日本人の私からすれば、あればよりおいしいがなければないですむ、胡椒もたかが薬味、金にも匹敵する、とはグルメじゃない私だけの思いか…、想像もできないほどにばかげた話に聞こえます。

ペストマスク 11〜12世紀、十字軍のエルサレム派遣は最初のペスト(黒死病)流行をヨーロッパにもたらしましたが、13世紀に入ると、エルサレムのさらに東からモンゴル軍がやってきます。中国雲南省の風土病と思われていたペストはモンゴル軍に感染、ユーラシア大陸の大部分を席巻したモンゴル軍(「キプチャク汗国」)は、1346年のクリミア半島、ベネチアとジェノバ商人(ユダヤ人)の籠城するカッファを包囲、ペストに感染したモンゴル軍兵士の死体を城内に投棄してペストに感染させ、ベネチアやジェノバに逃げ延びた彼らから西欧の腺ペストの大流行となり、その間(1347〜53)、人口の1/3が死亡するという、人々にとっては全く異次元の、得体の知れない恐ろしい病気でした。実は、当時のこの腺ペストの予防・治療に有効と考えられていたのが胡椒だった訳です。この年になって初めて納得できる話に巡り会うことができました。上の絵は奇怪なマスクをかぶった当時の黒死病専門医師

 時代を遡って、東の端に目を向けます。「白村江の戦い(663)」で唐・新羅連合軍に敗れ、唐(中国)との冊封関係を断ち切った日本。唐の侵攻も恐れられる中、国家安泰・五穀豊穣を祈願して建立されたのが東大寺大仏であり、鍍金(メッキ)のための金が不足する事態をすくったのが陸奥国涌谷(わくや)で日本で初めての砂金産出でした(749)。以降、長い戦乱を経て、砂金産地を押さえ、馬や毛皮などの様々な物資を独占した奥州藤原氏の時代を迎えます(1087〜1189)。おそらく、独自の海外交易を行い、戦乱の京を尻目に、中尊寺金色堂に代表される平泉浄土教文化の栄華は当時カセイ(Cathay)と呼ばれた中国南部(杭州)にも聞こえていたはずです。

Marco Polo

 モンゴル支配下の中国(元(1271-1368))に滞在したマルコポーロは「黄金の国ジパング」、日本の情報を中国南部で得たと思われ、帰国後、ベネチアとジェノバ間の戦争捕虜(「メロリアの戦い(1298)」となりその獄中で口述筆記された『東方見聞録』に在る「莫大な金を産出し」や「宮殿や民家は黄金で出来ている」とは、かつて存在した、この奥州藤原氏平泉文化の事を聞いたのであろう。ついには、「キオッジアの海戦(1378〜1380)」でベネチアが勝利、東地中海貿易を独占します。敗北したジェノバはジブラルタル海峡の西、イベリア半島経由で、当時毛織行で繁栄したフランダース(現在のベルギー)との交易に活路を求めてポルトガルに接近します。

 ポルトガルはジェノバの商業・航海技術を引き継いで、いよいよ大西洋に船出することになります。1415年、北アフリカのセウタを占領、続いて象牙海岸・黄金海岸を経てガーナの地に城塞を築いて金や奴隷の交易を行い、1497年にはバスコ・ダ・ガマが喜望峰を周りインド航路を開拓、カルカッタ、マラッカを越え、マカオ、1541年には豊後に辿り着きます。かつては、インド商人、アラビア商人、そして地中海に入るとベネチア、ジェノバ商人の手を経ていた胡椒取引がポルトガル一手に集約されたのですからその利益は莫大なものになったことでしょう。

 1492年、『東方見聞録』の「黄金の国ジパング」に魅了されたコロンブスは大西洋を西へ、苦難の末到達したのが現在のエルサルバドル、これをインドと誤認、さらに奥地を探検したが、「黄金の国ジパング」を発見することは出来ませんでした。これが、西欧にとっての、新大陸・新世界の発見でした。

 胡椒と金、西欧を「大航海時代」に突き動かした大きな動機なのですが、その背景には13世紀のモンゴル帝国の勃興を見逃すことが出来ません。ユーラシア大陸の大部分を統一、東西を結ぶ交通路の整備・治安を維持、商人の保護に努め、信仰には寛容で、人種・民族にかかわらず能力のある者を登用して、モンゴル帝国が完成され、東の中国文明と西の地中海文明が結ばれることになったのです。ほんとうの世界史はここに始まったといえるでしょう。

 奇しくも、同じ12世紀、ユーラシア大陸が東の海に落ち込むところ、「黄金の国ジパング」では武士が台頭、その後約7百年、武士の世の中が続きます。

 ※参考資料:地球日本史〈1〉日本とヨーロッパの同時勃興

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July 09, 2015

ギリシャ危機と「ルネサンス」 

BBC地球伝説 EUが求める緊縮策の是非を問うギリシャ国民投票が行われ、当初は賛否拮抗するかと思われていましたが、61%が反対とはいう予想以上の結果でした。お白州に引き立てられたギリシャが、壇上で見下ろすEU、最大の支援国:ドイツを前に、「厄介者扱いの上に言いなりはまっぴら」と、もろ肌脱いで開き直っている様子です。

 第1回大会がギリシャ・アテネで(1896)、21世紀初めての第28回オリンピックも同じアテネで開催(2004)されたのは記憶に新しいところです。レスリング競技の一つ、グレコ・ローマンスタイル(Graeco-Roman)は文字通り古代ギリシア・ローマの伝統に由来しているかのように聞こえますが、19世紀、イタリア人やフランス人が現代のスポーツと古代のものとの関連を見出すことで付加価値を付けただけのもので、彼らの古代ギリシア・ローマへの憧憬が現れている好例でしょう。

 芸術、哲学、 科学が花開き、民主主義が芽吹いた古代ギリシャ文明(紀元前6〜3世紀)を、古代ローマ文明と並んで、強く憧憬する西欧人は14〜15世紀、古代ギリシア・ローマの学問・知識の復興を目指す「ルネサンス」がイタリアで起こり、各国に影響を及ぼしたと言われています。かつて、ゲルマン人が北方から侵入、西ローマ帝国を崩壊(467年)させます。彼らは、キリスト教を利用して、自分達より高度な文明を持つ先住民族(旧ローマ帝国市民)を支配・統治したのです。一方、東ローマ帝国(395-1453)は、首都をコンスタンティノポリスとし、7世紀に始まるイスラム勢力の進出で後世ビザンツ帝国と呼ばれますが、1453年、オスマン・トルコにより滅亡、首都名もイスタンブールに変わります。

 「ルネサンス」の時期、古代ギリシャ文明からすでに1千年以上も経過しており、地理的に見ても、文明の存在したギリシャを含む東地中海は完全なイスラム圏となっています。当時の西欧知識人は、単に、東方文明、特に優越したイスラム文明(アラビア語)を通して遠い古代ギリシャ文明を知ったのであり、民族・国家として古代ギリシャ文明を継承してきた訳ではありません。古代ローマ文明がイタリア人・フランス人などラテン系のルーツ・拠というのは理解出来たとしても、ドイツ人のそれではありません。かつて、西ローマ帝国に侵入したゲルマン人、その後のドイツ人は古代ローマにも、況んや古代ギリシャ文明には全くと言ってよいほどに繋がりません。それ故か…、ドイツ人は狂ったようにギリシャ崇拝に走ったのです。「ドイツ人の間では、フランス人・イタリア人への対抗故か、ローマ史やラテン語よりもギリシャ研究の方が人気が高かった」そうです。ギリシャの側も近代国民国家を作る過程でこの「ヨーロッパ文明の精神的故郷」のイメージを利用して、国家のアイデンティティーとしました。

 「ルネサンス」は、美術の領域ならいざ知らず、単なる西欧人の思い込み、憧憬に過ぎないのかも知れませんが、西欧はこの幻想の「ルネサンス」に続いて「宗教改革」を共同体験しますが、ギリシャは全くの埒外にありました。加えて、彼らは、ローマ教会ではなく、東方正教会:ギリシャ正教、ロシア正教に近い存在です。

 EUは自らの精神的故郷でアテネ・オリンピックを開催、過剰な投資であぶく銭をもうけ、祭りの後に残ったのは見事なまでの「廃墟」です。「ヨーロッパ文明の精神的故郷」:ギリシャはEU離脱をちらつかせていますが…、果たしてヨーロッパとは何か?、…考え込んでしまいます。新国立競技場

 気取っている場合じゃありません。他人の心配よりも…、借金の上積み、2520億円もかける国立競技場建設の方が深刻です。

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March 01, 2015

明治人 柴五郎

 友人と呼ぶにはおこがましいのですが…、人生の大先輩との話は柴五郎に及びました。私の柴五郎に関する知識と言えば、中学生の時に観た映画: 『北京の55日 55 Days at Peking (1963)』がほとんど全てでした。

 舞台は清末の中国、北京の外国人居留地、義和団に依る外国勢力排斥運動が暴力化、孤立無援の混成外国人部隊が、 チャールトン・ヘストン演ずるアメリカ海兵 隊少佐:ルイスの指揮の下、女性や子供を守って55日間の籠城戦を戦い抜いたというスペクタクル映画でした。伊丹 一三(当時28歳? 後に「伊丹 十三」と改名)が演じた日本陸軍中佐が柴五郎、実はその彼が11カ国混成部隊を指揮して戦い抜いたのでした。世代の違い故か…、 残念ながら、大先輩はこの映画:『北京の 55日』、況や、ブラザーズ・フォアが歌った主題歌をご存知ではありませんでした。
Itami in the movie 55 days at peking
 
 会津藩士の家に生まれた柴五郎は10歳の時、会津若松城は 落城、祖母・母・兄嫁・姉妹が自決、戦後も下北半島斗南移住など辛酸をなめる生活を余儀なくされます。あるとき、肥後熊本旧細川藩の出身の野田豁通の知遇を得て陸軍幼年学校に入学(1873)、陸軍士官学校に進み、1879年、陸軍砲兵少尉に任官、同期には秋山好古(騎兵)が居ます。

 陸軍少佐、イギリス公使館付武官の時、1898年、「米西戦争」が勃発、彼は観戦武官としてアメリカに派遣されます。その時に海軍から派遣されたのが秋山真之で、前述の通り、真之の兄は陸軍士官学校の同期生でもあり、柴五郎と秋山真之も同じく親しい間柄であったろうと思われます。柴五郎が、この時代のアメリカ軍を「弱い」と報告したことで、後々まで「アメリカ軍は弱い」という固定観念に繋がったと云う説もあるようで、このあたりが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で柴五郎が無視されたように映る理由の一つにも感じてしまいます。

 陸軍中佐、北京大使館付武官の時、1900年、「義和団の乱」が勃発、柴五郎は実質的な総指揮官にして55日を闘い抜き、乱後、ヨーロッパ各国から勲章を授与され、一躍時代の英雄となります。籠城戦の総指揮をとったイギリス公使:クロード・マクドナルド(Claude MacDonald)は後に在東京イギリス公使(後に大使)となって強力に「日英同盟(1902)」締結を推進します。その影に柴五郎の人格・魅力そして卓越した能力があったはずです。日英同盟締結も『坂の上の雲』の要の一つ、その陰の主役:柴五郎の影はやはり薄いようです。

 賊軍・逆賊と呼ばれた会津藩出身の柴五郎は、1919年、遂に陸軍大将まで上り詰め、その後退役して1941年、あれだけ世界・日本の耳目を集めてきた英雄が、真珠湾攻撃成功に「万歳を叫び、狂喜感涙」して対米戦を推進、1945年の玉音放送を聞いて「さきに戦局の順調なる時に生の終わりざりしを恨む」と切腹を計りますが、老体であった故か、不首尾に終わります。その傷がもとで病死、享年87歳。その死に方によって、柴五郎の一生が台無しになったり、あるいは、それまでの評価が下がるとは思いませんが、正直に言えば、後に生きる人間としては知りたくない、見たくないところです。


 お借りしていた柴五郎の本を返しに伺った大先輩、先ほど話していた秀吉・利休に戻り、秀吉はいい時に利休に死を与えた、とは二人の結論でした。

堤(ひっさ)ぐる 我が得具足の一つ太刀 
 今この時ぞ 天に擲(なげう)つ

参考資料:石光 真人『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』 、村上兵衛 『守城の人―明治人柴五郎大将の生涯 』
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February 12, 2015

波濤の彼方では

 小田原後北条氏を滅ぼし、家康を関東に移封、天下統一を果たした1590年、秀吉54才、なぜ彼は明に侵攻しようとしたのか(文禄・慶長の役 )…、「精神の病」、「狂気の沙汰」としか言いようがありません。信長の後を継ぎ、階段を上り詰めた秀吉は絶頂にあり、もはや次に上るべき階段もなく、振り返って見ると、信長以来の盟友・同士:利休は自刃、もうこの世には居ません。

 日本の歴史を通して、天皇家を中心とした血筋の権威、その権威の信仰を受けた社寺の権威に権力が集中しました。武門・武家である源氏・平氏は、臣籍降下により、それぞれの祖と仰ぐ天皇の号をもって氏族の称としました。主に清和源氏をして源氏と称し、桓武天皇の孫が平氏を称しました。

秀吉が小田原攻めの時、鶴岡八幡宮の源頼朝の木像に向かって、 「わしは、貴方とは違い、元々は卑賤の出、氏も系図もない男だ。だからこのように天下を平定したことは、貴方よりわしの功が優れている」と木像の肩を叩きながら言ったと云います。清和源氏直系の頼朝が開いた鎌倉幕府に始まる武家政権は、その後の室町幕府、戦国時代を経て、徳川幕府までの約7百年間続きます。その間、例外だったのは戦国時代、秀吉が頼朝像に語りかける通り、血筋とは全く関係なく、卑賤の身から実力のみで這い上がり、乱世を乗り切ったのは秀吉でした。彼は「天才」と云ってもいいでしょう。

 南北朝の動乱の時期に発生した「婆娑羅(ばさら 梵語(サンスクリット語)のvajra = 金剛石(ダイヤモンド)が語源)」は身分秩序を無視した実力主義、公家や天皇など旧い・伝統的な権威・血筋の権威を否定して、新奇・異風異体なる美意識を持ち、後の戦国時代における「下剋上」につながっていきます。公家から権力を奪取した守護大名・武士はパッとでの成り上がり者で、詩歌管弦などの公家の教養はありません。「寄合(=相談)」は後の「一揆」につながるのですが、その彼等の間に広まったのが中国から舶来の茶器=唐物を用いた「喫茶」という、教養のあるなしに拘わらず、誰にでも参加できる「茶寄合」に発展していきます。
南蛮人渡来図
神戸市立博物館 南蛮屏風
 戦国の時代、「数奇」は「好き」の当て字、本来なら和歌を指した「風流」「風雅」の意味を加えて、「茶の湯」を指すようになりました。「茶の湯に習いはない」とは利休の言、 「茶の湯」の世界に起こった革新が、流行が流行を呼んで、極めて短期間に中世の文化・生活を覆して、遠くにあった「近代」を一気に手繰り寄せました。過去の習慣やしきたり、伝統的権威、社会的制約・束縛にとらわれることなく、「欲するがままに」行動するするのが「数奇」でした。戦国騒乱、社会の大変動の時代、自分の自由意志で行動する新しい人間が誕生しました。

 1587年、秀吉は北野天満宮の境内において、「北野大茶の湯」を催し、これが秀吉と利休、蜜月の頂点となります。信長亡き後、秀吉は革命の同士:利休と共に階段を登ってきたのですが、頂上が見え始めてもなお、利休は次の高みを目指して登っていこうとします。国内の敵対する勢力は全て秀吉にひれ伏した今、彼の「天才」が通じない…学問や教養、文化的価値、美術的価値に重きを置いた平和な世界がやって来るのでは、そんな世界がやって来れば彼の居場所・存在価値はなくなってしまいます。利休の世界に、秀吉は大きな「不安」を感じ、革命同士:利休を排除する頃には既に精神の変調をきたし、明に侵攻しようとした「文禄・慶長の役」は正に狂気でした。 1598年、秀吉62歳、醍醐寺三宝院でにて盛大な花見を開催…、そして死没します。

 今日に云う日本文化・日本的生活様式とは「茶の湯」「数奇」で体系化されたものです。「安土桃山文化」は「元禄文化」に続き、さらに近代を力強く手繰り寄せます。「茶の湯」「数奇」の時代、波濤の彼方ではルネサンスの時代でした。…気になるところです。

参考書:増渕宗一『茶道と十字架 』 村井章介『南北朝の動乱』 児島孝『数寄の革命』 横山 紘一『旅の博物誌』 徳川恒孝『江戸の遺伝子』

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January 21, 2015

エカテリーナ大帝

 北ドイツ(神聖ローマ帝国 現在のポーランド)、プロイセン軍少将の娘に生まれ、ルター派の洗礼を受けた彼女は、14歳の時(1744)、ロシア皇太子妃候補の一人としてペテルスブルグに至り、猛勉強してロシア語を習得、ロシア正教に改宗、エカテリーナに改名して、皇太子:ピョートルとに結婚します(1744)。エカテリーナはロシア人になりきることで貴族・民衆の支持を徐々に獲得していったが、反対に、皇帝に即位した(1762)夫ピョートルはますますドイツ(プロイセン)にかぶれ、知的障害もあって、貴族・民衆の支持を失っていった。皇后となったエカテリーナはロシア正教会・近衛連隊の支持を得てクーデターを敢行、夫ピョートルの皇帝の地位を剥奪して幽閉、1762年、女帝として即位します。

 啓蒙思想の崇拝者でもあり、ロシアの後進性は農奴制にその原因があると見た彼女は農奴制改革を試みるが、その農奴制に立脚するロシアの貴族制、ひいてはロマノフ王朝の存立にも絡む問題でもあり、抜本的な改革には至りませんでした。全土を50の県に分割、3百ヶ所に小学校を設置、病院・診療所の設置などの改革を行ったが、何事も貴族=現状維持勢力との同意・妥協が必要でした。

エカテリーナ 60歳をすぎても愛人12人を持ち、政治には一切口出しはさせず、男すら手球に取った女帝ですが、ただ一人、前夫ピョートル皇帝を廃位・幽閉(暗殺?)のクーデターに加わった近衛連隊の一員、10歳年下の、グレゴリー・ポチョムキンと極秘裏に結婚、私的関係だけではなく政治・軍事面でも絶好なパートナーであり、対外拡張を推進してポーランド分割占領、黒海に南進してオスマン帝国と衝突:「露土戦争(1768〜1774、1787〜1791)」に勝利してクリミヤ半島を占領(1788)、セバストポリ軍港、これを母港とする黒海艦隊を建設したのです。「悪魔」と呼ばれたポチョムキンをパートナーに、エカテリーナは史上最大のロシア領土を築きました。

大黒屋光太夫 1791年、ペテルスブルグ、絶頂の女帝:エカテリーナがエルミタージュ宮で謁見したのが大黒屋光太夫でした。彼は伊勢国から江戸へ向かう駿河沖で暴風に遭い、苦難の末、遣日使節:アダム・ラクスマン一行の船:『エカテリーナ』に乗り、1792年、遭難して10年後、根室の地に生還したのです。鎖国を国是とする幕府との最初の外交接触でした。

同じ年、1791年、ポチョムキン死去。前後して、フランス革命(1789)が勃発、1793年にはルイ16世が処刑され、ヨーロッパ絶対君主制終焉、革命思想の流入、農奴の反乱、反体制家のシベリア流刑の時代を迎えます。そんな時代の1796年、エカテリーナは死去、34年の治世でした。

 時代は下って、1853〜1856年、「クリミヤ戦争」でロシアは破れ、西欧列強(英仏露)がこの戦争に目を奪われている間に、新興のアメリカはぺりーの対日砲艦外交に成功(「黒船来航(1853年) 幕末の始まり」)、クリミヤ戦争敗北で、ロシアは南進政策の舞台を、クリミヤ半島・バルカン半島から満州戦艦ポチョムキン・朝鮮半島に移します。これが、後の「日清戦争(1894-1895)」、「日露戦争(1904-1905」につながって行きます。1905年5月、「日本海海戦」にてバルチック艦隊が壊滅、続く6月14日、エカテリーナの愛人の名を冠したロシア黒海艦隊戦艦:「ポチョムキン」にて水兵に依る武装蜂起が発生、革命の狼煙が上がります。

 エカテリーナはロシアの文化・教育、後世のロシア文学発展の基礎を造った人であり、ボリショイ劇場、エルミタージュ宮殿、後の美術館は彼女の功績であり、ロシア人にとって彼女は、ピョートル1世と並び、大帝(ヴェリーカヤ)の称号が冠される女帝でした。彼女は日本の歴史にも少なからぬ影響を与え、ロマノフ家の血統でないどころか、ロシア人の血さえも引かない、我々の想像を絶する大帝でした。

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August 19, 2014

Back In The USSR

 一人よがりな選曲はダメ、お客さんが知っている曲が一番との昨年末のライブの反省を踏まえ、新たに練習を始めた矢先、Maruさんがバンドを辞めてしまったのでした。そうこうしている内に、今度は私が住む団地の管理組合(兼自治会)の副理事長に選任されてしまい、今までの不勉強を償う事もあって、これに費やする時間も多くなり、自ずとバンド活動が疎遠になる傾向になって来たことも事実です。私は管理組合理事会に参加しなければならず、Nobuさんは他のカントリーバンドにも参加(ペダル・スチール)、Kunさんはまだ現役、と時間の調整が難しく、先日のバンド練習は前回から1ヶ月も過ぎてしまっていました。

Back in The USSR 次の新曲は何?…と注目されるところ、Nobuさんの回答は『Back In The USSR』でした。おなじみビートルズ、ポール・マッカートニーの曲、我々世代以下の人であれば殆どの人が知っている、あるいは、〜ばっくいんざゆーえすえすあーる〜の部分は耳にしたことがあるはずです。

 ビートルズの曲には、嘘か誠か、多くのエピソードが語られているのでインターネット上で探してください。パロディだらけのこの曲は1968年の作、世界に冠たる航空会社:BOACもパンナムも今はもうありませんが…、当時、米ソは冷戦の真っ只中、007ジェームス・ボンドが活躍する時代でした。

 〜〜〜 マイアミビーチをBOACで飛び立って、明日の朝には何年も離れていた懐かしの故郷に帰れる、という気分の高揚故か一睡も出来なかったが、やっと戻ってきたよ、うれしくてしょうがないよ、判るかい、ソ連に戻ってきたよ。 〜〜〜

 そうです、彼は007ジェームス・ボンドに対抗すべく、アメリカに潜入、市民としてで極秘活動していたソ連の秘密諜報員が、その任期を終えアメリカを脱出、故郷に生還を果たす。搭乗したのが英国のエアライン機内で逮捕されるかも…という恐怖から眠れなかった、とは私の解釈。如何でしょうか? 

 チャック・ベリーの『Back In The USA』をもじったものらしく、対抗意識のあった?ビーチ・ボーイズの『カリフォルニア・ガール』風のバックコーラス、そのビーチ・ボーイズの『サーフィンUSA』の元歌がチャック・ベリーの『Sweet Little 16』であったというから三つ巴の様相で、チャック・ベリーがロックンロールの神様と言われる所以です。

 USSRとはUnion of Soviet Socialist Republicsの略、通称はSoviet Union。ソ連は徐々に衰退、1985年ゴルバチョフはペレストロイカ(一定の範囲での自由化・民主化)、グラスノスチ(情報公開)を推進しますが、1986年チェルノブイリ原発事故が発生、これを官僚が隠蔽する事態となり、より一層のペレストロイカが進み、1991年遂に崩壊することになります。ソ連時代は頑強な一枚岩に見えたウクライナとロシア、しかし実はロシアがウクライナの天然ガスの供給源を握っており、ウクライナ政府はエネルギー不足と財政難で、チェルノブイリ原発をそのまま使わざるを得ず、それが退役したのは事故が発生してから10年後の1996年のことでした。現在進行形のウクライナ・ロシアガス紛争で、ウクライナは被害者面していますが、過去に何度も代金未払い・ガス抜き取りを行っていることも見逃せません。

 〜〜〜 ウクライナ娘にはほんとにノックアウトさ、西の女なんか目じゃないよ、モスクワ娘を目にすると歌いたくなるよ、Georgia's always on my my my my my my my my my mind …って。 〜〜〜

グルジア_Georgia  そのGeorgia's on my mind 、なんでここでホーギー・カーマイケルの『我が心のジョジア』が出てくるの…、と思ったりしたのですが、今回ロシアがウクライナから奪取したクリミヤ半島のある黒海、その東岸にGeorgiaとあり、どう見てもジョージア、日本語で言うグルジアで、ロシア語読みに由来するそうです。因みに、『我が心のジョージア』のそれはアメリカ東海岸にの州、コーヒーのそれはコカコーラ社の本社があるアトランタがその州都故、1762年、この土地を植民地としたジョージ6世の名前に由来します。

 2008年、グルジアからの独立を主張する同国北部の南オセチアをグルジア軍が攻撃して始まった「南オセチア紛争」、以降、グルジアとロシアは断交しています。駐日グルジア大使館・日本グルジア文化協会によると、グルジアの守護聖人である聖ゲオルギウス、英語のSaint Georgeに因んでいるそうで、やはりグルジアの英語名は Georgiaなのです。因みに、にグルジア語ではグルジアをサカルトヴェロ(Sakartvelo)というそうです。日本語では日本をNipponと表記しますが、英語ではJapan、同じくグルジア語でグルジアをSakartveloと表記するそうですが、英語ではGeorgiaです。

 音楽の話からどんどん逸れて行ってしまいそうです。左から右のスピーカーに流れる離陸するジェット機の爆音はありませんが、我々の新曲:『Back In The USSR』をお聞き下さい。

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March 22, 2014

何かと因縁のウクライナ、クリミヤ半島

私の過去のブログを振り返ると、ウクライナ、クリミヤ半島に縁のある記事が多いのには書いた本人も驚いてしまいます。

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1185年、ウクライナ、キエフのイーゴリ候は、 ポーロヴェツ遠征を行い、その時の散文記録:『イーゴリ遠征物語』は12世紀 中世ロシア文学の傑作と云われ、これを原作にアレクサンドル・ボロディンによって書かれたのがオペラ:『イーゴリ公』です。日本では『ダッタン人の踊り』というタイトルが親しまれてきましたが、正しくは『Polovitsian Dances』です。

1223年、ポーロヴェツの地のはるか東より、忽然と、全く未知の軍団が来襲、彼等、モンゴル系遊牧民彼等は「タタール」と呼ばれました。ロシアではモンゴル系であろうがトルコ系であろうが、異民族・異教徒を「タタール」と呼ぶそうです。もの知りな日本人が『ダッタン人の踊り』と訳したのでしょう。1243年、モングル軍はこの地にキプチャク・ハン国を建てますが、ロシア人はこの異民族支配を「タタールの軛(くびき)」と呼びます。ニュースで、「クリミヤ・タタール」という先住民族の存在を知りました。スターリンの時代には、ナチスドイツに通じているという嫌疑でに強制移住させられました。現在一部は帰還しているが、まだ15万人が中央アジア諸国に暮らすといいます。ついでに、あの「タルタルソース」の語源でもあります。

そのエカテリーナ2世の時代、オスマン帝国との露土戦争(1768年-1774年及び1787年-1791年)に勝利してウクライナの大部分やクリミア半島を併合します。1782年、伊勢国の船頭頭:大黒屋光太夫以下を乗せた『神昌丸』は暴風に遭い、アムチトカ島へ漂着します。苦難を乗り越えて、シベリヤ大陸を横断、1791年首都:サンクトペテルブルクに至り、エカテリーナ2世に謁見、1792年、遣日使節:アダム・ラクスマン一行の船:『エカテリーナ』で根室の地に生還します。

1853〜1856年、クリミヤ半島を舞台にロシアとオスマン帝国及びその同盟国:フランス、イギリスの戦い(「クリミヤ戦争」)で、ロシアは破れ、西欧列強がこの戦争に目を奪われている間に、アメリカはぺりーの対日砲艦外交に成功(黒船来航1853年)。この戦争の影響で、ロシアのプチャーチンの日本到着がペリーより一歩遅れてしまいます。クリミヤ戦争敗北で、ロシアは南進政策の舞台を、黒海・バルカン半島から満州・朝鮮半島に移します。

1895年、三国干渉の圧力により、日本は日清戦争に勝利して獲得した遼東半島をしぶしぶ中国に返還、ロシアはそれを租借して旅順港・要塞(北緯39°)を建設します。今回の舞台、クリミャ半島セヴァストポリ(44°)、ウラジオストク(43°)、ナホトカ(42°)しか不凍港を持たないロシアにとっては最南端、「日露戦争」(1904-1905)では日本はその奪還に6万人の死傷者という大きな犠牲を払うことになります。

オデッサの階段_乳母車「日本海海戦」によってバルチック艦隊が壊滅して1か月後、1905年6月、オデッサに停泊中のロシア黒海艦隊(クリミア半島のセバストポリが母港)の戦艦:ポチョムキンで反乱が発生します。第1次ロシア革命における最も重要な事件で、エイゼンシュテイン監督がこれを題材に作ったのが映画:『戦艦ポチョムキン(1925)』です。よく知られている話ですが、「オデッサの階段」のシーンは映画:『アンタッチャブル』で、エイゼンシュテインへのオマージュとして、使われています。

ヤルタ会談
時代は更に下って第二次大戦末期、敗色濃い日本は「日ソ中立条約」に一縷の望みをかけ、ワラにもすがる思いでソ連に連合国との和平の斡旋を依頼しますが、1945年2月、クリミヤ半島のヤルタで行われた通称「ヤルタ会談」にて既にスターリンは対日参戦を約束していました。同年8月、「日ソ中立条約」の延長放棄して参戦、広島・長崎に原爆が投下され、日本は敗戦を迎えます。結果、北方四島はソ連に占領され、現在に至っています。

1986年、現在のウクライナ、チェルノブイリ原発事故、死亡:4,000人、強制移住等:数十万人以上、この事故から5年後の1991年、ソ連は崩壊します。この「ソ連崩壊」が北方領土問題解決の絶好の機会だったはずですが、日本は無策(外務省内部の問題?)で指をくわえていただけでした。

2011年3月11日東日本大地震での死者・行方不明者は2万人を越え、東電福島第一原発事故発生で15万人前後が避難(=移住?)、今日に至っても完全な収束には至ってはいません。

そして今年、2014年には、何か因縁の在るかのごとく、クリミヤ半島の東、ソチでの冬季オリンピック」、モスクワオリンピック(1980)を西側諸国にボイコットされた当時のソ連、現在のロシア、プーチン大統領のメンツをかけた開催でした。開会式には欧米諸国首脳は欠席しましたが、安倍首相は出席、2月7日「北方領土の日」の式典に出席した後に出席したのがミソでした。プーチン大統領は3月18日、ロシア南進政策の要衝:セバストポリの在るクリミア半島のロシア併合を宣言しまた。

中国韓国に続いて、靖国神社参拝ではアメリカさえも敵に回して外交失点の続く安倍首相、対露外交を推し進め東京オリンピック組織委員長となった森元首相とともに、皆が欠席したソチオリンピック開会式に出席して、対露外交で得点を大きく稼ぎたいところでした。クリミア半島のロシア併合で事態は急転、ロシア制裁に走る欧米に歩調を合わせなければなりません。かと言って、アメリカには軍事行動をとる決意もなく、欧米各国の歩調はバラバラ、次回G8会議は6月にソチで開かれる予定です。どことなく、第二次大戦末期と似ていますが、安倍首相は欧米諸国と最低の歩調は合わせつつも、ここは断固として踏みとどまらなければなりません。

浅田真央森元首相の発言:「大事なときには必ず転ぶんですよね」、これは浅田真央ちゃんではなく…、安倍首相に関して言っているのだ、とはある識者の深読みです。

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February 17, 2014

『沈黙』 その時代

姉弟3人の約束で、今年1年は大河ドラマ:『軍師官兵衛』を共通テーマにしよう、ということになっています。

軍師としての官兵衛は多くの人に描かれていますが、むしろ、彼が「終生、敬虔なキリシタン」であったことに大いに興味をそそられます。彼だけではなく、高山右近、大友義鎮、大村純忠、有馬晴信、小西行長、蒲生氏郷…など多くの戦国武将が「キリシタン大名」として名を残しています。「慈悲」・「隣人愛」・「人間としての自己確立」がキリスト教の生き方だとすれば、どうして戦国武将はキリシタン洗礼を受けたのか…、武士としての生き方と矛盾しないだろうか…。例えば、小西行長は、同じくキリシタン、彼の娘婿:宗 義智(対馬府中藩主)と共に朝鮮貿易を独占、一方では李氏朝鮮を欺き、他方では秀吉も欺き、いざ文禄・慶長の役(1592〜1593)が始まると、熱心な日蓮宗徒である加藤清正と競って、この「大義」も「仁愛」もない戦争に、何の節操も躊躇もなく参加したのです。

彼等の生きた16〜17世紀、目を世界に広げてみると、そこは「大航海時代」も既に後半に入ろうとしていました。後半という意味は…、かつて時代の先鞭をつけたスペインとポルトガルの国力が傾き始め、スペインの植民地であったオランダが独立、国教会をつくったイギリス、そしてオランダ、ドイツで宗教改革運動、前者に対抗宗教改革が発生、新大陸・アフリカ・アジアを含む全世界規模での新旧キリスト教勢力は抗争の真っ只中でした。

William_Adams_1707_map_of_Japan対抗宗教改革運動としてイエズス会が正式に許可され(1540)、ザビエルが日本に上陸したのは1549年。九州に始まった布教は30年後には東北にも及び、1585年の頃に官兵衛が入信、彼は高山右近、蒲生氏郷の勧めで受洗したとルイス・フロイスは記しています。

それから更に30年の間、幾度かの禁教令にも拘わらず、関ヶ原の戦い前後まで毎年1万人余が新たに洗礼を受け、キリスト教は拡大していきます。徳川幕府は、1620年、宣教師ら修道会士と信徒、及び彼らを匿っていた者たちを大量に処刑(元和の大殉教)、続いて起こった「島原の乱」(1637)に恐怖して、結果キリスト教徒を徹底的に弾圧するようになります。

宣教師、修道士、信徒の処刑は彼等にとっては「殉教」、「殉教」は迫害を恐れない新たな信徒を生み出します。恐怖した幕府は処刑を止め、「棄教」(強制改宗)政策に転換、徹底的、積極的かつ巧妙に推進していきます。すでに戦国時代は終わり、徳川幕府が政権を奪取、ウイリアム・アダムスの進言によるものか…、スペイン、ポルトガル(ローマ・カトリック教国)を国外に追放・国交を断絶、逆に、宗教色の希薄な、そして世界交易の覇権を握りつつあるイギリス、オランダ(プロテスタント教国)に接近して行った。これが遠藤周作の小説:『沈黙』(1966)に描かれている時代です。

プロテスタントに対抗すべく海外に派遣されたイエズス会は世界の東の果て、日本にキリスト教布教の最適地を発見、その熱心な布教活動及び自然科学を始めとする西洋医学が普及、民衆だけではなく武士階級にも、海外交易を欲する領主階級にまで浸透、「キリシタン大名」と呼ばれる戦国武将が現れたのは既に書いた通りです。今まで控えめであったキリスト教が、その普及とともに、一神教故か…既存の宗教勢力と衝突・社寺仏閣の破壊、封建思想との軋轢、幕府政権への挑戦(「島原乱」)、植民地化の恐れさえも生じてきました。

1643年、史実では4人の司教が官憲の拷問を受けて全員が棄教、その中の一人、キャラをモデルにしたのが、小説:『沈黙』のロドリゴ司祭です。ロドリゴは、彼の師匠であり、前任者であるフェレイラ司祭の棄教・裏切りの経緯を知るために日本に潜入しますが、キチジローの裏切りで長崎奉行に捕縛されてしまいます。「根が絶たれれば茎もはも腐るが道理」、長崎奉行の言葉の通り、この国はすべてのものを腐らせていく沼でした。教義なきキリスト教は”羽の生えた大日如来”、”頭に輪っかをつけた弥勒菩薩”、キリスト教が歪曲化されて行くのを見るのは最も過酷な拷問です。「殉教者」をいくら作っても敵の思う壺、奉行は「神」への疑問を植え付けてロドリゴの精神を破壊します。「神」の沈黙は続き…、信徒が過酷な拷問で呻きながら緩慢に死んで行くのをロドリゴは看過できず、遂に…、「踏み絵」に足をかけた瞬間、生まれて始めて「神」の声を聞きます。『沈黙』、2014年、マーティン・スコセッシにより映画化されるそうです。

遠藤周作?中学生の頃…?、その彼女は、同じクラスだったのですが、賢くそして美人、あこがれの女の子でした。夏休みの終わって、読んだ本の感想文の校内コンクールがあり、彼女はみごと優勝しました。感想文そのもの、その評価の内容は忘れてしまいましたが、彼女の読んだ本が遠藤周作の『沈黙』だったことはよく覚えています。後日、図書館でその本を見つけて読み始めましたが、読み続けるのは難しく、残念ながらその面白さに出会うことなく、途中で諦めてしまいました。

以来、小さくはない劣等感とともに生きて来ましたが、少しは抜け出せそうです。

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January 15, 2014

『アラビアのローレンス』、ピーター・オトゥール

何か…?、去年やり残したような気持ちになっていました。
映画:『アラビアのローレンス』のピーター・オトゥールは正に当たり役・はまり役でした。あまりにも『アラビアのローレンス』の印象が強烈過ぎて、その後は役にめぐまれなかったのは残念なことでした。 

『栄光への脱出』(1960)、『北京の55日』(1963)と並んで、『アラビアのロレンス』(1962)が近代世界史を学ぶきっかけになったことは間違いありません。

黒海・バルカン半島では、ここを支配するオスマン帝国に対する反乱・蜂起が起こり、ロシアが、スラブ民族独立の為として、これに介入します。ロシア帝国とオスマン帝国は敵対関係にあり、1568年以来しばしば戦争が発生、「露土戦争」と呼ばれます。

1853〜1856年、クリミヤ半島を舞台にロシアとオスマン帝国及びその同盟国:フランス、イギリスの戦い(「クリミヤ戦争」)で、ロシアは破れ、西欧列強がこの戦争に目を奪われている間に、アメリカはぺりーの対日砲艦外交に成功(黒船来航1853年)、その南進政策の舞台を、バルカン半島から満州・朝鮮半島に移します。

近代世界史において、始めて、日本という国が登場するのは「日清戦争」(1894〜1896)戦争でした。260年続いた徳川幕府武家政権が倒れ(1868)、極東に近代国民国家を目指す明治新政府が誕生してから26年後のことでした。国力から見て当然勝つと思われていた清朝中国は破れ、日本が勝利します。日本に割譲された遼東半島(旅順・大連などの不凍港)は露・仏・独の三国干渉によって中国に返還されることになり、1898年、ロシアは中国から旅順・大連を租借して極東政策の拠点とします。中国の負けにつけ込んで欧米列強が更に侵食、中国は半植民地となり、それに呼応して民族運動としての「義和団の乱」が発生します。伝統的に不凍港を求めて南下政策をとるロシア、そして日本は乱以降も撤兵せず、満州・朝鮮半島を巡る両国の衝突が「日露戦争」(1904-1905)に発展します。

地球の裏側、南アフリカでは「ボーア戦争」(1899〜1902、英国とオランダ系ボーア人との戦争)が勃発、英国は大量の人員・物資を南アフリカに割かざるを得ず、満州に南下するロシア帝国に対抗する為、「日英同盟」を締結します(1902)。「義和団の乱」での柴五郎の活躍が「日英同盟」締結に大いに寄与し、この「日英同盟」が「日露戦争」での日本勝利の大きな要因の一つでした。こうして日本は「義和団の乱」・「日露戦争」以降も唯一軍隊を中国に駐留し続け、その後泥沼化していく「日中戦争」(1937〜1945)に発展していきます。

日露戦争での敗北により、ロシアは、満州での南下を阻止され、元のバルカン半島進出に政策を戻します。「日英同盟」を結んでロシアに対抗したイギリスは、極東における脅威がなくなると、逆にロシアに接近、英国・フランス・ロシア三国協商につながり、これがバルカン半島でのオーストリアと衝突、第一次世界大戦に発展します。

英国はインドを征服、植民地(1765〜1849)とし、国内は折からの産業革命、インドは英国産業の原料供給地兼製品市場とされていきました。英国が独占するインド貿易へ干渉するため、フランスはスエズ運河を開通(1869)させますが、運河建設に批判的であった英国は、手の平を返して、運河会社の筆頭株主となります。1882年、エジプトで発生した暴動を口実に、英国は軍事介入してスエズ運河を管轄下に置くことになります。オスマン帝国はオーストリア、ドイツとともに同盟国軍として、英国はフランス、ロシア、セルビアとともに連合国軍として戦いますが、この衰退するオスマン帝国の支配下にあったのがアラブ民族であり、スエズ運河をオスマン帝国に奪われれば、英国はインドへの道を絶たれてしまう情況でした。

このような世界情勢の中、ロレンスは陸軍作戦本部地図課に配属となり、考古学者として、英国の生命線:スエズ運河周辺アラブ地域の情報を探る任務を与えられ、1916年、カイロに派遣されます。彼の調査で、アラブ各地ではオスマン帝国に対する反乱・蜂起計画が進んでいることが判明、支援さえあれば、英軍の投入なくして、独力でオスマン帝国軍を釘付けにすることが可能として、自らその作戦に志願します。1917年、ロレンスとアラブ人のゲリラ部隊はダマスカスとメディナを結ぶヒジャーズ鉄道に対する破壊活動を行い、アカバ湾の深奥、戦略的要衝アカバを砂漠の背後から奇襲し、陥落させます。映画:『アラビアのローレンス』のハイライトシーンでもあります。

1888年、トマス・エドワード・ロレンス(T.E. Laurence)は誕生します。離婚が認められず駆け落ち、実質的には夫婦なのですが、戸籍上は私生児として誕生でした。彼の母親は、実母をアルコール中毒で亡くし、厳格でヒステリックな女性だったようで、自らの不倫関係の負い目故か、子供達の躾には異常に厳格でした。誕生した5人の子供で結婚したのは五男ただ一人だったそうです。映画で、オスマン帝国軍の捕虜となりムチで打たれ、トルコ人地方官吏に犯されるシーンがありましたが、どこか精神を病んでおり…、マゾヒストであったことは間違いないようです。
ローレンス下宿先
6年前、英国に行く機会があり、ロンドンでは彼の住んでいた下宿先、戦争博物館に展示されている
彼愛用のバイク:Brough Superiorを訪ねたことが思い出されます。
20140113アラビアのロレンス

※あまり似てはいませんが…、哀悼の意を表して…

そのロレンスを演じた俳優:ピーター・オトゥールが昨年12月、81歳で亡くなりました。ご冥福をお祈りします。

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July 03, 2013

Soy-Beans と Soy-Sauce、どっちが先?

70年台前半だったでしょうか…、あるテレビ番組の中で、大阪府には納豆製造業者がわずか2社しかない、と聞いたのを覚えています。それほど、大阪≒関西ではほとんど納豆を食べる習慣はありませんでした。今日、改めて調べてみると、その数10社(※納豆製造元一覧 )、40年間に5倍と言えば激増?、その間に全国的な規模で東西の移動がなされたのでしょう。

その納豆をはじめ、豆腐・味噌・醤油…多くの大豆加工食品がありますが、モヤシが大豆を暗所で発芽させたもの、枝豆が未熟大豆を枝ごと収穫して茹でたもの、さらに育てて完熟したら大豆、とは大人になって知りました。「納豆」も「豆腐」も中国の発明ですが、どうもその漢字が逆なように思うのは私だけではないようです。そもそも、大豆(だいず)とは中国語で「大いなる豆」の意味で、その発音は、漢音の「ダドゥ(?)」ではなく、何故か呉音の「ダイズ(?)」に由来、中国では「豆の王様」、ドイツでは「畑の肉」、アメリカでは「大地の黄金」とも呼ばれるそうです。日本でも米・麦・粟・稗(ひえ)・豆(大豆)と、五穀の一つです。

ビールが美味しい季節です。ネット上の質問、「北欧で枝豆の栽培は可能でしょうか?」。おそらく、北欧に住む日本人が故国での夏を思い出して、いろいろ試してみようと思ったのでしょう。もし実現できたら感激でしょう…が、実は…、難しいようです。
Kikkoman_1

醤油は英語で「Soy-Sauce」。「Soy or Soya」は「醤油(しょうゆ、Syo-yu)」、どうやら中国語の醤油(どう発音するのか知りません)ではなく、実は日本語のようです。鎌倉時代の禅僧:覚心は、1254年、紀州・湯浅に西方寺を開きます。宗で学んだ「径山寺(金山寺)味噌」の製法を広め、たまたま水分量の多かった味噌の上澄み液(「溜まり」)で煮物を作ったところ、それが大変美味しかったので、ここから醤油作りが始まったと言われています。これが紀州・湯浅の味噌醤油業に発展、後に黒金富良陶器瓶潮に乗って、多くの人と技術が房総半島へ渡りました(江戸川・利根川水系地域、例えば野田)。17世紀、醤油は陶器製の瓶に詰められ、長崎出島よりオランダ東インド会社を通じてヨーロッパに輸出されていました。その瓶は金富良(コンプラ)と呼ばれる波佐見焼の陶器、そこには「JAPANSCHSOYA」の文字があります。

稲わら+納豆大豆の原産は中国東北部(かつての満州、「Soy」は女真語という説あり)からインドにかけての地域、根瘤菌(空気中の窒素を取り込んで宿主に供給、宿主からは逆に光合成で得た炭水化物をもらう)と共生、窒素分の少ない土壌でも生育します。モンスーン気候の日本には稲作と同時に伝来、各地に伝搬して行きます。稲ワラと大豆の腐敗が遭遇するのもそれほどの時間はかからなかったでしょう。これに加え、前述のとおり、味噌・醤油など大豆加工食品の発展には、殺生を禁ずる仏教、当時の鎌倉仏教の興隆が大いに寄与したものと思われます。

ヨーロッパには、他の豆類はありましたが、その土壌には中国東北部や日本のような根瘤菌が存在せず、大豆という植物は存在しませんでした。今日でも事情は同じのはず…、上の北欧在住の日本人の渇望を叶えるのは難しいようです。江戸中期の18世紀、オランダ東インド会社のスエーデン人医師(植物学者)はツンベルグは日本滞在中に醤油を知り、1784年「日本植物誌」を著して大豆をヨーロッパに紹介、「醤油の原料となる豆」という意味のドイツ語(?)「Soya-Bohne」で、これが英語の「Soy-Beans」になります。はじめに「醤油=Soy-Sauce」があり、そこから大豆を「Soy-Beans」と呼ぶようになった訳で、その逆ではありません。

土壌に根粒菌が存在したアメリカ大陸に伝わったのは19世紀、大豆を栽培した農場の土を、次の年に他の農場まで運ぶというやり方で徐々に作付け面積を広げて行った。栽培が本格化するのは肥料や根粒菌持込の技術が発達して土壌改良が進む20世紀に入ってからのことでした。アメリカは世界最大の大豆生産国ですが、
国内需要のほとんどは家畜の飼料用で、大豆加工食品の歴史はほとんどありません。大豆イソフラボンが骨粗鬆症、更年期障害、動脈硬化の緩和、乳がんや前立腺がん等の予防にも効果が期待しての健康食品・サプリメントのブームがあるようです。

九州生まれで、それまでの四国(新居浜)に住んでいた私を含めた家族には納豆に何の抵抗もありませんでしたが、次の引越し先である大阪では食べたことがありません。そして東へ移動、東京の西端、町田に住んで二十数年、今や、納豆は日常的な食べ物となっています。この歳になって痛風か…、納豆はどうなんでしょうね?

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May 14, 2013

たこ焼きで学ぶ 〜 アレキサンダー大王からキムチまで

「ごちそうになる」ということに気をよくして、久しぶりに入った駅前の居酒屋。学生客が多いらしく、「学生向け、人気ベスト・メニュー!」の3位に『ロシアンたこ焼き』なるものを注文しました。我々の数に同じく2個、確立は1/2、控えめに箸の先で少し取って口に…、「当たり!」でした。みるみる間に口の中は炎と化し、額からは大粒の汗…、落ち着くまでのしばらく時間が必要でした。

Alexander the Greatアレキサンダー大王(紀元前356〜326年)は、エジプト、ペルシャを征服、紀元前327年にはガンダーラ(現在のパキスタン)に侵入します。因みに、今在るカンダハルは、ガンダーラに由来する…?。それから数百年、カニシカ王(在位:128年 - 151年)の時代にガンダーラ美術は黄金時代を迎え、多くの仏像、仏教建造物が建立された。この地で大乗仏教:「華厳経」が生まれ、彫刻・建築などのギリシャ文明を伝えたアレキサンダー大王遠征軍の子孫が、従来行動と言語による抽象体系であった仏教を具象化、目に見える仏教:仏像・建造物を生み出すことになります。この仏教の新しい一派は数百年をかけて、中国、朝鮮を経て、飛鳥時代の6世紀に日本に伝来します。

それからさらに数百年、平安時代はまさに末法の時代。人々は阿弥陀仏にすがり、極楽浄土に行くことを願い、その究極が京都宇治の平等院でした。奥州藤原氏(1087〜1189)は都から遠く離れた奥州平泉の地に、その平等院を凌ぐ王道楽土を築きました。

これが元(1271〜1368)の首都:大都(現在の北京)に滞留していたマルコ・ポーロが聞いたという「黄金の国・ジパング」のモデルでした。ジェノバへ帰還した彼は、ベネチアとの地中海の覇権を賭けて戦った「メロリアの戦い(1298)」で捕虜となり、同じ牢獄にいた縁で著作家:ルスティケロと知り合い、旅行記:『東方見聞録』を口述したと言われます。ついには、「キオッジアの海戦(1378〜1380)」でベネチアが勝利、東地中海貿易を独占します。

レ・コンキスタ(国土回復運動)を推進するポルトガルは、覇権に敗れ東地中海を放棄したジェノバ商人を取り込んで、ジブラルタル海峡の西、大西洋に進出、アフリカ大西洋岸沿いに南下、1482年、ガーナに城塞を築いて金や奴隷の交易を行い、1497年、ヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰を周り、1498年、ついにインドのカリカットに到達しました。ポルトガルはマレー半島、セイロン島を次々に侵略、1557年にはマカオに要塞を築いて極東の拠点とします。1543年には日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えています

ジェノバ商人だったコロンブス(1451頃 〜 1506)は、当時をさらに遡る180年前に著された、マルコ・ポーロの『東方見聞録』にある黄金の国・ジパングに大いに魅せられ、世界は球体であり、西に進めば東端(アジア)に辿り着く、という説を信じ、ジパング遠征航海計画を持ち込みますが、喜望峰・インド航路発見に沸くポルトガルには断られてしまいます。しかし遂に、スペイン王室の援助を獲得して大西洋を西に向かいました。1492年、ジパングも胡椒もありませんでしたが、ついに、彼等(ヨーロッパ人)にとっての、新大陸・新世界を発見します。

「大航海時代」を期に多くの新大陸原産の野菜・根菜類・唐辛子・トマト・豆類がもたらされます。ジャガイモはヨーロッパに周期的に発生する飢饉による飢えをしのぎ、サツマイモは17世紀には日本にも伝えられて非常食として栽培されました。イタリア料理に欠かせないトマトソース、18世紀イタリア料理で「ナポリタン」と言えばトマトソース味のパスタ:「スパゲティ・アル・ポモドーロ」、日本語で「スパゲティ・ナポリタン」、麺は既に中国からイスラム諸国経由で伝わっていましたが、16世紀のナポリはスペインの支配下にあったのです。もっと古くからあるように思ってしまいますが…。

唐辛子の「唐は単に外国由来」の意味ですが、16世紀、鉄砲の伝来に前後して、ポルトガル人あるいはスペイン人により日本にもたらされました。精神の病か…、豊臣秀吉は明を攻略を目的に朝鮮に侵攻します(「文禄・慶長の役(壬辰倭乱)1592-1598」)が、日本軍が冬の寒さから足を守るために足先に唐辛子を入れて持ってきたのが、朝鮮へ伝来の始まりとされています。ヨーロッパにおけるトマトがそうであったように、長い歴史がある朝鮮の味覚:「キムチ」、彼等の伝統文化:味覚に大革命をもたらしたのは、ちょうど百年をかけて地球の裏側、新大陸からてやって来た「唐辛子」でした。キムチ

因みに…、坂本龍馬・中岡慎太郎、二人が囲む鍋、鴨肉と白菜がぐつぐつ…とは幕末時代劇によく出てくるこの場面(「近江屋事件 1867」)、時代考証がされていません。古事記・万葉の時代から在るもの…、日本料理食材の定番中の定番と信じていた「白菜」、実は中国起源、一般的に食べられるようになったのは20世紀に入ってからの話です。江戸時代以前から日本には度々渡来したが、いずれも品種を保持できず、日清・日露戦争に従軍した農村出身の兵士たちが持ち帰って栽培を試みたとされますが、交雑性が強く継続した栽培に失敗、明治末・大正に至って初めて継続栽培に成功、一般に普及したそうです。朝鮮においても、現在食べられている白菜は中国人が品種改良したものであり、現在の白菜が完成したのは18世紀以降とされ、日本と比べてドチコチないような歴史です。キムチには多くの種類があるそうですが、こと日本人に最も馴染みのある「白菜キムチ」だけを取り上げてみると、たかが2百年前には「白菜キムチ」は存在せず、ましてや、「唐辛子革命」以前のキムチはどこにでもある単なる漬物、ということになってしまします。

過去2千数百年…、ギリシャ、インド、中国に始まる文明は日本に伝搬、黄金の国:ジパングに憧れたヨーロッパが新世界を発見、持ち込まれた文物がさらに伝搬、今までの伝統文化に革命的変化をもたらしたのです。全く関連のないように見える個々の文化、しかし長い年月を振り返ってみると、時には革命・突然変異を起こしながらも、実は、連綿と繋がっているのです。

ごちそうさまでした。

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April 12, 2013

ガラケー

iPhone 5「ガラケー」…、「アキバ系」と同じく、新しく生まれたアイドル、ゲーム、お笑いのジャンル、領域なのか…、と思いきや、これが「ガラパゴス・ケータイ」の略で「日本で独自に進化したケータイ」の意味だそうですが、もう少し上品な響きにして欲しいものです。スマート・フォンの普及で、それまでのi-モード初め日本における独自の進化と区別するための新語です。

日本の独自の進化=ガラパゴス化、これは別にケータイに限ったことではありません。日本の歴史・文化そのものが独自の進化をして来たガラパゴスで、その中核・核心をなすのが日本語という言語です。地理的にはユーラシア大陸の東端、東アジアに在って、巨大な中国文明の恩恵を被り、恩恵は被りながらも中華冊封体制から離脱、以降、独自な文明を築いて来ました。

中国文明の恩恵は、朝鮮半島を経由して、中国の文字と書物である、漢字と漢文という形でもたらされました。実際に日本人が日本語の表記に漢字を使用し始めたのは6世紀に入ってからのことです。言語学的には、中国語は孤立語で日本語は膠着語(膠(にかわ)でくっつけるの意)、全く言語体系が異なります。日本人は、行きつ戻りつ、日本語に作りなおして読むという方法は日本語史上最初の大発明でした。千数百年にも渡り、この方法で、欧米人にとってラテン語に当たる中国の古典を学んだのです。「読み下し文」という方法は文章としての日本語を誕生させ、ついには日本文学史上最高の傑作とされる『源氏物語』を生むことになります。

「一所懸命」の通り、開拓者・耕作者に依る土地所有は合理主義を産み、鎌倉幕府による武家社会が始まった。以来、明治、近代国家に至るまで、この武士社会は約7百年続くことになります。朱子学者にして、対馬藩に仕えた雨森芳洲(1668〜1755)は新井白石(1657〜1725)を相手に、王のもとに、文官が支配する朝鮮は「王道」であるが、徳川幕府(中央)と藩(地方)、武官が支配する体制は「覇道」である、と喝破した通り、日本は中国・朝鮮とは全く異なる武家社会を作り出し、江戸時代にはそれが決定的となりました。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神識字率は70%〜80%に達し、商品経済の発達はさらなる合理主義、現実主義を生み、文学ではこれを反映して井原西鶴(1642〜1693)が登場、学問は実証的となります。「覇道」の主体、人口の7〜8%を占める武士階級が租税徴収及び行政を担い、幕府・大名はともかく、農民・商人よりも貧しい中下級武士が多く存在した。知識階級である彼等は清貧で、自律的、潔く、下の階級からも尊敬されていました。武士だけではなく、多くの商人が知識階級として、自律的に、公共へ奉仕する、という現象が見られるのは、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に通じるところがあります。

ペリーの黒船来航、それ以降を幕末と呼びますが…、は日本の歴史においてまさに驚天動地。西洋の文明・学問が怒涛のように押し寄せ、アヘン戦争に負けた中国のように、日本も西洋の植民地になるのでは、という恐怖に怯えました。その対抗策である富国強兵の為には西洋文明:学問・法律・制度等々、日本には存在しなかったもの、概念など、広大な領域をカバーする多くの新しい語彙を造語しなければなりませんでした。津和野藩の蘭学者:西周(にし あまね 1829〜1897)は、例えば…、芸術・理性・科学・技術・心理学(では意識・知覚・感覚・理性)・論理学(では帰納・定義・総合・分解)・哲学(では客観・主観・抽象・概念)…を造語しました。西を始めとする先人たちは怒涛のように押し寄せて来る西洋語の意味を深く吟味し、それを日本語に訳することを思いついた。日本語史上二番目の大発明でした。これは、千数百年前中国から漢字を取り入れて以来、「訓読み」で文字の持つ意味、「読み下し文」で文章の意味を理解する日本人ならではの発想でした。

「Republic」は、日本製漢語では「共和国」ですが、中国語では「民国」と訳されました。「辛亥革命(1911))で「中華民国」が建国されますが、これは中国語訳です。ところが、1945年、日本の敗北によって第二次大戦は終了、中国共産党は国民党に勝利して、1949年、「中華人民共和国」を建国、採用された「人民」、「共和国」は日本製でした。日本からの独立を果たした朝鮮半島では、北側は「朝鮮民主主義人民共和国」、「人民」、「民主」、「主義」、「共和国」と、長い国名のほとんどが日本製漢語です。南の韓国では、台湾に逃れた「中華民国」と同じく、「大韓民国」と中国訳を使っています。

以前にも書きましたが、中国系マレーシア人の知り合いから、「日本人はどうやってハリウッド映画をみるのか?」と聞かれて私にはショックでした。インドネシアではマレー語で書かれた書物も少なく、インド、東南アジアでも似たようなことが言えるようで、高度な概念を表す自国語が存在しないのか…、大学に於いてその内容を自国語では講義出来ず、英語に頼らざるをえないという事情があるようです。

幸いなことに、二度の言語上の大発明を経て、日本人は大した抵抗もなく近代社会に入ることが出来ましたが、同時にその大発明はあくまで「読み書き」、優れた言語故に残念ながら「聞く・しゃべる」能力を退化させたようです。東南・東アジア文明にも入れてもらえず、百年前に福沢諭吉の唱えた「脱亜入欧」も実現せず、孤立する日本、友人もいません。日本語が如何に優れた言語にせよ、残念ながら、英語のように世界言語にるのは不可能でしょう。

暗い話になって行きそうで…、もう止めます。私も、最近、あこがれのiPhone5を手に入れました。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神〈上巻〉 (1955年) (岩波文庫)

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March 02, 2013

ラテン・セイル 三角帆

オロシヤ国酔夢譚1782年、船頭頭:大黒屋光太夫以下船員15名及び紀州藩派遣の農民1名を乗せた千石船(弁才船):『神昌丸』(全長:20m)は紀州の囲米を積荷に、伊勢国白子の浦から江戸へ向かいますが、駿河沖で暴風に遭い、7ヶ月もの漂流の後、アリューシャン列島の一つ、アムチトカ島へ漂着します。その後カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年イルクーツクに至ります。日本に興味を寄せる博物学者キリル・ラクスマンと出会い、1791年、彼に連れられてシベリア大陸を横断、ロシアの首都:サンクトペテルブルクに至り、女帝:エカテリーナ2世に謁見、帰国を許されます。漂流から約10年を経た1792年 (寛政4年9月)、遣日使節:アダム・ラクスマン一行の船:『エカテリーナ』(42人 全長:33m)に乗り、根室の地に生還できたのは光太夫を含めて3人でした(上陸後に1人死亡)。

7世紀、アラブ人のラテン・セイル(三角帆)を始めとする造船・操船・航海技術は地中海を席捲、逆に西欧人は地中海の主導権を放棄、アラブ人の航海技術を学んで、「ヘラクレスの柱」の西、大西洋に乗り出したのが15世紀末、16〜17世紀には西欧の船は西太平洋、東アジアへも進出、18世紀になると鎖国下の日本近海でも見受けられるようになります。

洋船断面図-竜骨
和船断面図-桶





※上のイラスト、大阪港振興協会:『帆船から学ぶ海と日本』より拝借しました。

西欧の船は、中国・アラブもそうなのですが…、古代より竜骨(キール)に肋骨(リブ)を組み合わせた上に機密甲板(デッキ)の船体構造でした。対する和船を見ると、18世紀末、光太夫の乗った千石船(弁才船):『神昌丸』では、竜骨・機密甲板(デッキ)のない、遣唐使船の時代(9世紀)とほとんど変わりません。まさに、「板子一枚下は地獄」でした。その違いを指して、西欧の船を『樽』、和船を『桶』に例えるそうです。

基本的に、和船は四角帆一枚であり、追い風に乗って進む方法しか知らず、向かい風になれば帆を降ろして港で風待ちをしたのです。17世紀初め、江戸時代前期の廻船は順風帆走・沿岸航海しか出来ず、大阪〜江戸間の航海に平均32.8日を要しました。気象予報は船頭頭の経験と勘、それが外れて嵐にでも遭えば難破、光太夫のように太平洋を漂流することになります。18世紀末、江戸時代中・後期になると、その太平洋に、はるかアメリカからやってきた捕鯨船が遊弋するのがしばしば見られ、日本の船乗りも彼等の操船技術の優位性を学ぶようになり、四角帆一枚でも逆風を利用して航行できる、「風切り」という操船術を習得します。例えば、「新酒番船」という新酒を運ぶ急行便が現れ、1790年、西宮〜江戸を58時間で航海した記録があるそうです。遣唐使船依頼、和船の進歩がほとんど見られないのに、一方の西欧の造船・操船・航海技術は大いに進歩、複数の帆を使いながら逆風を利用して航行する帆走システムを確立していました。

西欧と日本、その彼我の科学技術の差は如何ともし難いものでしたが、日本の技術も捨てたものではありません。ラテン・セイル(三角帆)に遡る、その根本原理は「流体力学(?)」でいう「揚力」でした。西欧のボートはオールで漕ぎますが、これは単純な「力学」。それにくらべて、東南アジア・中国にもあるらしいのですが…、小舟(=伝馬船)の櫓(ろ)は「流体力学(?)」でいう「揚力」を利用、櫓一本で前進後退、横向きにも移動、その使い方よりも、「流体力学(?)」に沿った櫓(ろ)の形状を削り出すのが難しいそうです。
 
しばらくすると、蒸気機関の発達で「外輪船」が登場しますが、オールと同じく単純な「力学」故か…、この「外輪」の効率が悪く、「スクリュ−(=プロペラ)」にとって替わります。近代船の推進装置、「スクリュ−<screw>(=プロペラ<propeller>)」こそ「流体力学(?)」でいう「揚力」の産物であり、ギリシヤ文明に始まる「ネジ、英語でいう<screw>」構造の延長上にあるものでした。ギリシャでは揚水ポンプとして、ローマ文明〜地中海文明ではオリーブやブドウを搾る圧縮機、16世紀にはグーテンベルグの印刷機に、鉄砲を始めとする精密機械に、識字率の向上は人間の思想にも変革をもたらし、これが後の宗教改革、啓蒙思想、のブルジョア市民革命、産業革命に続いていく、西欧でなければ存在しない概念・技術の延長上にありました。

一方、「ネジ」の概念は中国・日本などのアジアの文明には存在せず、日本には、1543年に種子島にポルトガル人がもたらした火縄銃とともに「ネジ」が伝来したとされ、この銃を模して作るに当たり、銃身の最後尾を塞ぐ尾栓に使われていた雄ネジと雌ネジが日本で初めて登場した「ネジ」とされますが、戦国期、世界一の銃器生産国になりながら、造船・操船・航海技術と同じく…、その後の技術的発展は皆無…、まさにプッツリ途切れてしまいました。残念ながら日本に「ネジ」構造・概念は根付きませんでした。

大黒屋光太夫を送り届けたアダム・ラクスマンのロシア使節団は鎖国を国是とする幕府との最初の外交接触でした。来航する西欧船は次第に増加、国防問題に端を発し、国論を二分する「尊皇攘夷」思想に発展、幕府転覆のスローガン:「尊王討幕」に変わって行きます。

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February 15, 2013

西の大海と東の四畳半

平安後期、三十六歌仙の一人、『古今和歌集』の編者として教科書に出てくる紀貫之が、その彼が国司として赴任していた土佐国を後に都に帰るそのほとんどが海路(高知〜難波、600km(?)、49日の航海を記録に残したのが『土佐日記(936年)』でした。航海距離は一日たったの12km。貫之の乗ったの船は「竜骨のない、船央に帆柱を持つ帆掛け舟」で、和船の基本構造は遣隋使・遣唐使から江戸時代の千石船・北前船に至るまでほとんど変わっていません。


sindbad 3一方、アラブ人は紀元前後に風をはらんで翼の形となり、逆風でもジグザグ前進できるにラテンセイル(Lateen Sail 仏語 =Latin)と呼ばれる三角帆を経験的に習得、7〜8世紀頃から、ダウ船を駆ってアラビア海(東西2、000km)をわずか3〜4週間で横断していました。航海距離は一日95km、『土佐日記』のそれとは桁違い…呆れてしまいます。

『シンドバッド 7つの航海』の通り、アラブ人は9世紀にはインド洋を舞台に、西はオーマンのマスカットから東は中国広州に至るまでの広大な交易ルートを開いていた。イスラム教/ヒンズー教/仏教がインド洋を横断して東南アジアに伝搬。逆にメッカへの巡礼者がインド洋を西に文化を伝える。インド・中国の技術が西方、アラブ地域にもたらされるなど、中世後期において「インド洋は世界文明(ギリシャ、ローマ、インド、中国文明)の交換器」の役割を果たし、アラブ人航海者・商人がこれを支配する海域となっていました。
sindbad


日本人は冒険・探険をあまり評価しないようです。冒険・探険と言えば、私の中では「間宮林蔵の樺太・黒龍江探険(1808 - 1809)、間宮海峡(韃靼海峡、タタール海峡)発見」と司馬遼太郎の小説菜の花の沖高田屋嘉兵衛ぐらいなもので、江戸後期、日本近海で起こった海難事故、漂流者の異国における生活、そして危難を乗り越えて尊皇攘夷、幕末の日本に帰って来る、英雄的な物語・冒険談が多く見られます。ジョン万次郎吉村昭の小説:『アメリカ彦蔵』の浜田彦蔵、『大黒屋光太夫』や井上靖:『おろしや国酔夢譚』の大黒屋光太夫、彼等は、その時代の急激な変化の中で極めて貴重な体験をし、その後の日本に大きな影響を与える結果となったのですが、彼等は決して自発的に冒険・探検に船出したわけではありません。


これは中国人にも当てはまるようで、明永楽帝(1360〜1424)の時代、鄭和の艦隊による4回ものインド洋、アフリカ大陸東岸遠征も、それまでの中国・アラブ商人の交易ルートを辿っただけで、決して交易通路発見・開拓(=探検)が目的ではなく、中華明帝国の威信を訪問国に示し、彼等に朝貢を促すだけのものでした。
 

西欧においては、自然に恵まれない辺境の地において、例えば、寒冷なスカンジナビア半島に海賊・略奪者としてバイキングが、中世地中海においては、耕作には適さない湖沼・沼沢地のベネチアに、狭隘な土地のジェノバに海運・商人が発生、アラブ人との交易で航海その他の先進技術を獲得して「地中海の時代」を築きます。12〜13世紀、地中海貿易の覇権、十字軍支援の艦隊の主導権を巡ってその二つの都市は競っていましたが、ついには、「キオッジアの海戦(1378〜1380)」でベネチアが勝利、敗北したジェノバはジブラルタル海峡の西、大西洋に活路を見いだすべくイベリア半島のポルトガルに接近します。1453年ビザンツ帝国がオスマン朝トルコにより滅亡しますが、西地中海では、ポルトガルが徐々にイスラム勢力を駆逐、1492年グラナダが陥落してレ・コンキスタを完成、ジェノバの商業・航海技術を引き継いで、いよいよ大西洋に船出することになります。


「何故、人間は怖い思いをしてまで冒険・探険をするのか?」 「誉れ」、「好奇心」そして「物欲(=略奪)」がヨーロッパ人の答え。ルネッサンス、ローマ・カトリック教圏の拡大と宗教改革、科学技術の進歩、啓蒙主義、市民革命と産業革命へと続き、近代資本主義はヨーロッパに誕生します。


ユーラシア大陸の辺境、西端のポルトガルでは未知の大西洋へ乗り出し、東端の日本では「大航海時代の怒涛を四畳半に閉じ込めた」「茶の湯」、…結構なお点前でした。※「大航海時代の怒涛を四畳半に閉じ込めた」とはどこかで読んだ司馬遼太郎の表現、好きです。


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September 11, 2012

なんちゅうか、本中華!

インスタント麺であるにもかかわらず、「何と言うか、まるで本物の中華そばだね」…と、その意味を説明をするのも、そして、その意味を知っていること自体が恥ずかしい、昭和の死語(流行語)です。皆さんはどうでしょうか?前回に引き続いて、今回は「本中華」の中国です。

清朝(1644〜1912)は北狄:女真族=満州族の後金が自らの名を変えた中国の征服王朝でした。

円明園
19世紀、北狄の支配する中国に今度は南蛮:西欧列強が触手を伸ばして来ます。野蛮人の支配する中華帝国に別の野蛮人が侵入してくるという奇妙な事態に陥ります。1856年、アロー号事件を口実に南蛮:イギリスは、同じく南蛮:フランスを誘い、清に対して開戦,、清の完敗に終わりました。結果は、アヘンの輸入が公認化されるなど、一方的な不平等条約の締結でした。南蛮:英仏は無理難題を清朝中国にふっかけて戦争に持ち込み、負けた清ものらりくらり、これで勘弁してくださいという賠償の約束さえも実行せず、南蛮:英仏はそれに怒って清をさらに袋だたきにするという構図でした。1860年、英仏軍は清の砲台を占領、北京の円明園(Old Summer  Palace)に侵入した。フランス軍が金目のものを全て略奪し、イギリス軍は「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊し、円明園は廃墟と化します。

その時に園内にに設置されていた十二支像が南蛮:英仏軍により破壊・略奪されたのです。2009年、この十二支像のうち2体がパリで競売にかけられることになり中国側が返還を求めている問題で、所有者のピエール・ベルジェ氏は「ダライ・ラマ14世をチベットに戻すことが条件」との言に対して、「フランスは当時、中国から文物を略奪し殺人や放火を行った。これらのどこに人権が存在するのか」と、両者の非難・応酬は我々の記憶に新しいのですが、もちろん、現フランスの昔の罪業への一言の謝罪もありませんでした。

南蛮:西欧列強による略奪・破壊・殺人・放火は、中国人をして狂信的な集団の排外的、民族的感情の暴発に走らせ、1900年の「義和団の乱」に至ることになります。その結果は、またもや、南蛮:西欧列強による、さらなる徹底的な略奪・破壊であったことは間違いないでしょう。この狂信的な集団の排外的、民族的感情の暴発は「義和団情結」と呼ばれ、「情結」とは感情がこびり付いて溶けないことを言うそうです。今日の中国共産党政府は、「義和団の乱」を「反帝国主義の愛国運動」と教えており、今回、駐北京日本大使公用車をBMWとアウディで襲い、日本国旗を奪った彼等は「愛国無罪」を叫ぶ「義和団情結」でした。

義和団は「扶清滅洋」(清朝を助け西洋を滅ぼす)を旗印に蜂起したが、北京陥落後はあっさり切り捨てられ、清朝に失望して「掃清滅洋」(清を掃い洋を滅すべし」に代わり、孫文による辛亥革命(1911)の重要な伏線となります。清は滅びました。

話は、前回の「小中華」韓国、李明博大統領に戻ります。NHK大河ドラマ『平清盛』が始まった頃、その登場人物が当時の天皇家を「王家」と呼んでいることが議論を呼び、「王家」の呼称は「天皇家の権威をおとしめる表現」との強い批判がありました。先日の朝日新聞朝刊、李明博大統領の発言:「〜日王(韓国では天皇をこう呼ぶ?)の韓国訪問で〜」とは、李氏王朝の再興はありませんでしたが、正に大韓民国では李氏時代の「小中華」が現代にも脈々と生き続けているようです。皇帝を名乗れるのは、地上(世界)に唯一無二の中国「皇帝」のみ、というのが中華思想の論理です。「白村江の戦い(663)」で、冊封関係にあった唐・新羅連合軍に敗れるも、その戦争目的は唐との対等外交の樹立でした。以来、日本人は「天皇」を中国「皇帝」と同格に位置づけています。多くの場合、特に隣国どうしでは、歴史認識を同じくするのは難しいことです。

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September 06, 2012

「小中華」 けっして、飲茶の話ではありません

李氏朝鮮は、1401年、明より朝鮮国王として冊封を受け、本家中国以上に儒教、とりわけ朱子学を重んじ、一種の国教として5百年間存続した王朝国家です。豊臣秀吉による「文禄(1592)・慶長の役(1598)」では、多くの技術者:陶工が拉致され、その彼等が、豊臣方西南各藩で働かされ、伊万里焼、有田焼、萩焼、薩摩焼の開祖となります。1600年、関ヶ原で徳川家康が勝利して覇権を握り、その覇権の永久化、支配の円滑化を目的に朱子学を武士階級の倫理・教養として利用した。一方では、李氏朝鮮との国交を回復、朝鮮使節は拉致された多くの同胞の奪還に成功、新将軍就任に際しては朝鮮通信使がお祝いに来日、幕府もこれに最高の礼を持って迎えていました。
朝鮮通信使

中国を範とした李氏朝鮮はやがて自らを中国と同質の文化を持つ国、「小中華」の国を標榜するようになります。しかし、ここで困ったことが起こります。文禄・慶長の役により疲弊、さらに北辺に興った(1616)後金の圧迫に堪えきれず、1644年、「大中華」の国:明が滅亡します。民族名を女真から満州に、国名を後金から改めたは山海関を抜いて北京に入り、中国を支配します。北狄オランケ」(蛮族)と軽蔑していた女真:満州族が中国を統一・支配したのですから、「小中華」の李氏朝鮮としては穏やかではありません。面従腹背(?)、表面上は清に従い、その実、過去の中国歴代漢族王朝にその範を求めます。中国が蛮族国家となった以上、李氏朝鮮が世界で唯一の中華思想国家でなければならないとの自負の念、ある種の偏執性執着、を強めていきます。今や李氏朝鮮は本家:中国以上に中華思想に凝り固まってしまいました。

19世紀、ヨーロッパ列強は東南アジアを浸食して植民地化、その触手は清朝中国に及びます。1848年、阿片戦争の結果、清朝中国はイギリスに敗北、この情報はいち早く幕末の日本にも伝えられ、続くペリー来航(1853)に幕府は震え上がりました。これら一連の「西洋の衝撃」は日本を倒幕運動へと走らせることになります。中華思想に固まった李氏朝鮮は、清末中国と同じく、自らがどんな国際状況下に置かれているのかを全く理解していませんでした。ロシアは既に、朝鮮の背後:満州・沿海州地方(シベリヤ鉄道の終点、軍港:ウラジヴォストークは「東方を支配せよ!」の意)に迫っていました。

1868年、明治新政府は新政府樹立の通告と国交を望む交渉の為、使節を釜山へ派遣しましたが、その国書に「皇上」、「奉勅」の文字が使われており、「王の国が皇を使うとは無礼。笑止千万!」とばかりに、李氏朝鮮は国書の受け取りを拒否しました。自分を取り巻く情勢の不明に加え、中華思想の李氏朝鮮からして見れば、交渉の相手が250年間友好関係にあった徳川幕府を倒した新政府であったこと、しかもその構成員の多くが、270年前、「文禄・慶長の役」で朝鮮に攻め入った、にっくき、旧豊臣方西南各藩でした。蛮族、東夷である、たかが倭国(日本)の王が、地上に唯一無二の中国「皇帝」を語って、国書を送って来たのは言語道断なことでした。もちろん、国書を突っ返された新政府側も激怒、これが「征韓論」の始まりでした。
征韓論

竹島の領有権問題をめぐり、李明博大統領宛ての親書を韓国側が受け取り拒否、韓国側担当者が持参したのを、こんどは外務省側が受け取り拒否、書留郵便で送り返す始末です。「親書」と「国書」、どのように違うか知りませんが、140年前の「明治維新」、400年前の「文禄・慶長の役 」、「朝鮮通信使」まで遡ってしまいました。

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August 12, 2012

北京の55日 55 Days at Peking

 「Fade In  ポン-ポン-ポン-ポン-ポン」  私にはそう聞こえたのですが…。これを読んで「ピ−ン」と来た人は「かなりの〜」です。


歌詞の大半は何を言っているのか判りませんでしたが、そのころ既に洋楽フアン、洋楽かぶれであった私は歌詞の冒頭だけは良く覚えています。

The year was Nineteen-Hundred
             T'is worth remembering

…で始まるブラザーズ・フォアの曲:『北京の55日 55 Days at Peking』がヒットしたのは1963〜1964年、中学2〜3年生の頃でした。歌詞の通り、その年:1900年は記憶に値する年であり、その後の日本を含む東アジア情勢を決定づける事件、『義和団の乱』が起こりました。歴史上では「The Boxer Rebellion, The Boxer Uprising」と呼ばれます。私の歴史への興味もここから始まったと言える、記憶に値する出来事でした。Movie Poster_55-Days-Peking

 映画:『北京の55日 55 Days at Peking (1963)』、舞台は清末の中国、北京の外国人居留地。義和団に依る外国勢力排斥運動が暴力化、孤立無援の8カ国の混成外国人部隊:500人が、チャールトン・ヘストン演ずるアメリカ海兵隊少佐:ルイスの指揮の下、女性や子供を守って55日間の籠城戦を戦い抜いたというスペクタクル映画でした。伊丹 一三(当時28歳? 後に「伊丹 十三」と改名)が、 あくまでも脇役で…、 出演していました。その伊丹が演じた日本陸軍中佐:柴五郎、彼がこの史実:『北京の55日』の間、8カ国混成部隊を指揮したのでした。

義和団の乱1900
日清戦争(1894-1895)の敗北により、欧米日列強に浸食される清末の中国。義和団は山東省で発生しました。ドイツの山東省における熱烈な布教活動はその反動として民衆の排外的な感情を呼び起こし、次第に高揚して行きます。1897年、彼等を支援したのが「梅花拳」という拳法の流派で、「義和拳」と改名、「Boxer」とはこの意味ですが、さらに後、「義和団」と改名、山東省以外に拡大した。彼等は「扶清滅洋(清を扶け洋を滅す)」のスローガンを掲げ、清朝政府には規制・弾圧の口実を与えず、むしろ擁護され、1900年、20万人の義和団が北京に入城します。

Shiba_goro_2
10歳の時、会津戦争(1868)で祖母・母・兄嫁・姉妹が自刃、一家は陸奥戸南に移住、塗炭の苦しみ、極貧の生活を強いられます。幸運にも、陸軍幼年学校から、1877年陸軍士官学校に進み、1879年砲兵少尉に任官する。同期生に、司馬遼太郎作:『坂の上の雲』の秋山兄弟の兄:秋山好古がいます。イギリス大使館付武官時代の1898年、米西戦争が勃発)、その観戦武官として派遣され、今度は海軍から派遣された弟:秋山真之と一緒でした。彼と秋山兄弟とは浅からぬ縁で繋がっていたのです。

 1900年、砲兵中佐、北京公使館付武官として着任間もなく、「義和団の乱」に遭遇します。清朝の宣戦布告は、外国人及び中国人キリスト教徒の孤立を意味し、彼等は公使館区域に逃げ込みました。各国の公使館護衛兵及び義勇兵は5百人足らず、それから救援軍到着までの55日の籠城戦でした。全体的な指導者はイギリス公使クロード・マクドナルドであったが、実質総指揮を取ったのは柴五郎でした。解放後、日本人からだけでなく、欧米人からも多くの賛辞が寄せられ、勲章授与が相次いだ。

 日清戦争(1894-1895)で列強の一角に入り込もうとした日本、遅れてやって来た新参者:日本に無理難題を被せて横取りしたロシアは既に満州まで南下していました。ボーア戦争中(1899-92)のイギリス、米西戦争(1898)に起因するフィリッピンに手を焼いているアメリカはロシアの南下をくい止めるだけの余力はありませんでした。そこに起こったのが「義和団の乱」でした。総指揮官を務めたマグドナルドは駐日大使に転じ、「日英同盟」の締結を強力に推進したのは、55日に及ぶ北京での籠城戦の実質指揮官:柴五郎とその部下に対する高い評価があったからです。

 私の記憶力は全く当てには出来ませんが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』には「義和団の乱における柴五郎」は登場していません。

「義和団の乱」、1900年は我々の記憶に留めておくべき年でしょう。

「ポン-ポン-ポン-ポン-ポン Fade Out」

※ Amazon: ミュージック・ストア/DV D 「北京の55日」

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July 08, 2012

2千年に及ぶ遙かな旅 靺鞨〜女真〜満州

1957年、二人の若い男女が伊豆天城山で拳銃自殺するというショッキングな事件が発生します。男性は大久保武道、そして女性は愛親覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)、共に学習院大学2年の同級生でした。慧生(えいせい)は、あの清朝最後の皇帝:愛親覚羅溥儀(ふぎ)の実弟:溥傑(ふけつ)と嵯峨公勝侯爵の孫娘:浩との間の長女でした。武道は秋田県八戸の出身、同郷(青森市出身)の高木彬光には身近な存在でした。
天城トンネル_4

高木彬光(1920 - 1995)はこの「天城山心中」事件をきっかけに推理小説:『成吉思汗の秘密(1958)』を書きます。「義経=成吉思汗」説です。平泉を逃れた義経は八戸の豪族の娘と恋仲になり鶴姫という女子をもうけるが、母娘を八戸に残して大陸に去っていく。鶴姫は成長して八戸の豪族の若者と恋仲になるが、両家は不仲、二人の仲は悲恋に終わります。この悲恋伝説は昭和の日本に輪廻して「天城山心中」になった、と語られています。

どちらも言語的にツングース系ですが、成吉思汗(1162? - 1227?)はモンゴル族、一方の清朝愛親覚羅家は女真族=満州族。現在の中国東北部に混在、あるいは隣接していたのか…、それにしても、モンゴル族と女真族=満州族は別もので、この悲恋輪廻説は成り立たないことになります。

女真族の歴史を遡ると…、

BC1世紀頃、朝鮮半島北部鴨緑江一帯に高句麗(BC37 - 668)をたてます。大和朝廷誕生以前に渡来しており、海を越えてやって来たということで、越と呼ばれました。越前・越中・越後がそれです。唐に滅ぼされると、多くの高句麗人が帰化、その地の多くは「コマ」という地名がつきます(東京都狛江市)。
7世紀末には高句麗の遺民と靺鞨が合して渤海国をたてる。倭国は「白村江の戦い(663)」で敗れ朝鮮半島での足場を失い、676年の羅唐戦争で新羅が唐軍を半島から追い出して羅唐関係が断絶、倭国は半島経由での遣唐使派遣が出来なくなり、現在のウラジオストック近くに上陸、渤海国経由で長安(唐)に渡った。
10世紀、遼(=契丹)に滅ぼされ、渤海遺民は契丹の支配下で女真と総称された。
12世紀、遼に服属していた女真の反乱により金が建国(1125)された。金はその10年後には遼および北宋を滅ぼし(1126)、新たに再興した南宋と対峙することになる。 ※ この頃、日本は平安末、NHK大河ドラマ:『平清盛』の時代。その栄華もつかの間、治承・寿永の乱(源平合戦)で平家が滅亡、源頼朝による鎌倉幕府の成立に至る。ヨーロッパでは前世紀に続き十字軍の遠征が続く。

13世紀、モンゴル帝国に滅ぼされる(1234)。
 ▼ 
17世紀、女真族は満州に後金(こうきん)を興し、1636年に国号を大清に改めた。清は1644年に明滅亡後の中国を支配します。
20世紀、「辛亥革命(1911)」、中華民国(漢族)により滅ぼされる。
 ▼ 
1932年、愛親覚羅溥儀(ふぎ)を担いで日本はその傀儡:満州国をたてます。彼の実弟:溥傑(ふけつ)と嵯峨公勝侯爵の孫娘:浩との結婚は愛親覚羅家と日本皇室との政略結婚でした。 

幾度となく国を建てては滅び、滅んでは建て、北辺あっては蔑まれながら、広大な大文明国:中国を征服、250年間に渡って支配した女真族=満州族でした。

君は映画:『ラスト・エンペラー Last Emperor (1987)』を見ただろうか?

1967年、中華人民共和国の首都:北京、『造反有理!』の紅衛兵運動が猛威をふるっていた時代。すでに人民に広く開放されている紫禁城、かつて自分が座っていた玉座を前にしています。幼い紅衛兵の少年が「お前は何をしているのか?そこは立ち入り禁止だ!」 老いた溥儀(ふぎ)は玉座に上がり、勝手知る玉座の裏からほこりだらけの容器を探り出して少年に渡します。少年が蓋を開けると、なんと、昔、可愛がっていた(?)コオロギが現れます。少年が見たのは幻だったのでしょうか?

1987年?、ガイドが観光客を引率して玉座を案内するラストシーン。その説明が聞こえます。「清朝最後の皇帝:溥儀は3歳でこの玉座で皇帝に即位し、1967年に他界しました。」


2012年、満州族は中国少数民族の一つ。人口は1千万前後。都市部に多く居住、学問を重視する傾向にあり、多く の文人を輩出している。

※ Amazon: 「成吉思汗の秘密」   DVD 「ラスト・エンペラー」 

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June 09, 2012

ヘラクレスの柱、そのさらに西

その友人は歴史にうるさく、少々クセはありますが…、彼の考察・豊富な知識には敬服せざるを得ません。

二人の話題は「ベネチアがジェノバに勝利し、中世地中海の覇権を握る」ところまでやって来ました。どうでも良い話ではあるのですが…、私の認識では「両者ともに地中海に位置する海洋貿易国家」ですが、彼に言わせれば「ジェノバは地中海だが、ベネチアはアドリア海に位置する。地中海とアドリア海は全く別物。」 確かに、「地中海とアドリア海は全く別物」さえなければ、彼のいうことも(は)正しいことになります。
Ligurian_Adriatic_Sea_map
調べると、「アドリア海」は、イオニア海、エーゲ海等と同じく、地中海の下位にあたる海域の由。→※ Wikipedia 「地中海」 

因みに、ジェノバはリグリア海(Ligurian Sea)に位置し、イタリア半島の西南(コルシカ島、サルデーニャ島、シシリー島で囲まれた)海域はティレニア海(Tyrrhenian Sea)と呼ばれるそうです。これらの海域全てを含むのが地中海です。話は「中世地中海の覇権」ですから、その場所さえ明確であれば、その位置する海域名は二の次で良かったのです。

その「地中海」、幕末・明治の時代に入ってきたMediterranean Seaの訳語でした。そうです、中学あるいは高校時代に覚えるのに苦労したアレです。既に存在していたであろう「瀬戸内海 Seto Inland Sea」とは大いに異なる趣です。medius:「真ん中、中間」 + terra:「土、土地、陸」 = mediterraneous:「陸の間にある、大地の真ん中」を意味するラテン語が語源の由で、これを直訳したのが「地中海」でした。「地中海」は地理的な領域ですが、古代から中世初期にかけては一つの独自な文化圏、「地中海世界」とも言うべき一つの世界を形成していました。

Pillars_of_Herculesその西の果てが「ヘラクレスの柱(Pillars of   Hercules)」(ジブラルタル海峡)で、地中海世界の人たちは、「世界の西の果て」と考えていました。ギリシア神話に登場する神:アトラスはこの地で蒼穹を肩に背負うという役目を負わされ、その名は「支える者、耐える者、歯向かう者」を意味するそうです。アトラスの女性形が「アトランティス」であり、「アトラスの娘、アトラスの海、アトラスの島」を意味し、「ヘラクレスの柱」は別世界・異なる世界に通じる門あるいはゲートであり、この柱の外側の海を「アトランティス」、以降今日に至るまで「アトラスの海 (The Atlantic Ocean)」と呼ばれるようになりました。ユーラシア大陸の最西端は?Atlas

その「大西洋」、同じく何故?昔、中国ではヨーロッパの事を「大西洋、この場合、海洋ではなく、<<大きな+西洋(せいよう)>>の意」と呼んでいたのが、そのまま「ヨーロッパの海」という意味で使われたという説。

もう一つの説。単に「西にある大洋」に思えますが、実は…、 
ご存じの通り「太平洋」は、マゼランが世界一周の航海中に形容した言葉:「静かな海(El Mar Pacifico,The Pacific Ocean)」の訳語で、「pacific」→「泰」→「太」→「太平洋」は容易に訳せますが、「アトラスの海 ( The Atlantic Ocean)」はそうはいきません。おそらく、翻訳者は、「ヘラクレスの柱」がその西の端であるという、ヨーロッパ人の「(地中海)世界」の概念を理解していたのでしょう。

「アトラスの海 (The Atlantic Ocean)」の訳語:「大西洋」は、(地中海)世界の西の果て、「ヘラクレスの柱」のさらに「西に広がる大きな海洋」の意味でした。如何でしょうか?

また、「中世・地中海の覇権」の続きをやりましょう。

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April 16, 2012

ここは地の果て〜♪

ここは地の果てアルジェリア〜♪…、この歌詞が好きです。

人は「果て」、「端」と言う言葉に惹かCabo_da_Rocaれるようで、『ユーラシア大陸の最西端』と言えば、ポルトガルのロカ岬が、ユーラシア大陸の西の最果ての地、石碑には叙事詩の一節「ここに地終わり海始まる」が刻まれています。「最果ての地」、「最端の地」、と言えば辺境の地と同意義であると勝手に思いこんでしまいますが、このロカ岬、地図で見ると首都:リスボンから西へわずか20kmの距離です。

時代は、またもや、NHK大河ドラマ『平清盛』の時代、平家に莫大な富をもたらした日宋貿易、日本からの主要輸出品の一つが硫黄、その産地が鬼界ヶ島(=薩摩硫黄島)でした。日本の東の最果ては津軽半島東部の「外ヶ浜」、そして西の最果てが硫黄の産地と同じ「鬼界ヶ島(=薩摩硫黄島)」でした。国の辺境を指す代名詞であり、前者は蝦夷の住む土地、穢れを放逐する土地=流刑地と考えられていました。一方では、同時代の西行を始めとする多くの文化人が強い郷愁や憧憬を抱くのも不思議です。

1177年、後白河上皇を黒幕として、僧都俊寛(そうずしゅんかん)らが 謀反を企て 、『鹿ヶ谷の陰謀』と呼ばれます。事に及ぶ間もなく鎮圧され、首謀者の3人は西の最果て:鬼界ヶ島(=薩摩硫黄島)に流されます。…と言っても、3人にとって鬼界ヶ島は、決して絶海の孤島・辺境ではなかったはずです。硫黄の産地、積み出し港として、日宋貿易、朝鮮半島・琉球を結ぶ交易ルートにおける重要拠点の一つでした。朝鮮王朝初期の政治家:申 叔舟(シン・スクチュ1417−75)が著した『海東諸国紀』(1471年)には、この交易ルート上に鬼界ヶ島が明記されています。
海東諸国紀 鬼界が島marked

後に恩赦により平康徳、藤原成経は釈放されますが、俊寛だけは許されず島に留め置かれます。同じ不遇の身であった3人のうち2人が救われて、たった1人残される、これはもはや絶望です。2人を乗せた船が出るに及んで、俊寛は舟にすがって海の中まで追ってきて、終いには渚に倒れ伏し、幼児が母を慕うように、足摺(じだんだを踏むこと)して、泣き叫んだが、舟は遠ざかって行くだけでした。後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあった僧侶、打倒平家を合い言葉に、謀反を企てた首謀者の一人、…にしては、俊寛の取り乱し様はあまりにも哀れ・惨めです。硫黄島港ライブ映像 「置き去りにしないでくれーっ!」、 遠ざかる舟を追いすがって渚を走る俊寛の後ろ姿(彫像)が見られます。

『カスバの女』、私は1970年頃のリバイバルでしか知りません。1955年、映画の主題歌あるいは挿入歌として、エト邦枝の歌として発表されたが全く売れなかったそうです。おそらく、 「アルジェリア独立戦争」 を意識して作られたのでしょうが、その映画も頓挫し、歌が復活するのは70年学生運動の頃でした。その後の俊寛に、この曲:『カスバの女』を贈りましょう。カントリーではありません。



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March 09, 2012

バラッド Ballad

アメリカ音楽の起源を辿ろうと始めたのですが、その一つが、中世、イギリス諸島(=ブリテン島及びアイルランド島)のバラッド(=Ballad)に行き着きます。それも、イングランドのロビン・フッドの伝説に突き当たってしまい、前回の『歴史の分岐点』に脱線してしまいました。中世の吟遊詩人(=Minstrels)は封建領主の雇われ、主人のために、楽曲を奏で、歌い、物語などをしてきましたが、これが『バラッド』で、定型詩の形で歌い継がれた架空の物語でした。当時喜ばれた演目の一つがロビン・フッドの伝説で、当初は武勇伝だけでしたが次第に英雄・恋愛・ロマンものに広がって行きました。

しかし、1455年のグーテンベルグに依る活版印刷技術の発明は、宗教・言語・科学・政治・文化…と、あらゆる分野に革命的変化をもたらします。今まで吟遊詩人(=Minstrels)によって口頭で歌い継がれてきた『バラッド』が印刷物に替わり、圧倒的な速さと正確さで多くの人に伝搬するするようになりました。言葉を換えれば、吟遊詩人(=Minstrels)の衰退です。16世紀のイングランド、このような印刷物はブロードサイド(=Broadside)と呼ばれ、恋愛、宗教、飲酒、伝説、災害、政治、セックスなどを題材ににした歌謡・物語がブロードサイド・バラッド(=Broadside Ballad)で、主に街頭や市場に立つ呼び売り人(=chapman)に依って売られていました。

The New Christy Minstrels因みに…、昔、60年代のフォーク・ブームの時代、『Green, Green』というヒット曲で有名な、ニュー・クリスティ・ミンストレルズ(The New Christy Minstrels)というグループがありましたが、Minstrelsとはこれなんですね。ついでに…、このグループを独立して『明日なき世界 Eve Of Destruction』をヒットさせるのがバリー・マクガイア(Barry McGuire)です。好きでした。Barry McGuire

同じく…、当時の日本、ザ・ブロードサイド・フォーとかいうバンドがありましたが、この『ブロードサイド』がそれですか?私はMinstrels も Broadside も知りませんでした…。

元へ…。エリザベス1世(在位1558-1603)の時代植民地主義で先行していたポルトガル、スペイン、オランダを次第に駆逐、英国は奴隷貿易で莫大な富を得ます。その奴隷貿易によりアフリカの音楽:ブルース(=Blues)の萌芽(?)がアメリカにもたらされますが、16世紀後半になると英国の北アメリカ大陸への植民と共に入ったブロードサイド・バラッドがこれに少なからぬ影響を与え、後にブルース(=Blues)に育っていきます。
当時英国は、アイルランドがスペインと手を結び、どちらもカソリック、侵略して来るものと恐怖していました。エリザベス1世は非情な強硬手段を取り、結果、アルスター地方(現在の北アイルランド)は焦土と化し、厳しい冬を前に恐ろしい飢餓が始まり、破れた反乱軍のほとんどはヨーロッパ大陸(フランス)へと逃れます。その人口減少を埋めるように、スコットランドからは農業技術に長けたプロテスタントが、宗教的迫害や不作を理由にアルスター地方(北アイルランド)に移住、後の『アイルランド紛争』の原因となります。彼等はスコッツ・アイリッシュ(Scots-Irish)と呼ばれ、18世紀、宗教的迫害やアイルランドを襲った飢饉は、彼等をアメリカ大陸への移住に駆り立てることになります。

彼等はアパラチア山脈周辺に居住します。そうです、Almost heaven, West Virginia  Blue Ridge Mountains, Shenandoah River  ♪…と歌われる地域です。この地は、英国人の最初の入植地:ジェームス・タウン(James Town)もあり、アフリカから連れてこられた黒人奴隷が最初に住み着いた土地でもありました。こうして、二つの文化の化学反応が始まりました。

スティーブ・アール(Steve Earle)の曲:『The Mountain』、ここではレボン・ヘルム(Levon Helm)が歌います。これもバラッド、気に入っています。


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March 01, 2012

歴史の分岐点

Minamoto_no_Yoritomo1192年、日本史で言えば源頼朝が鎌倉幕府を開いた年。同じ頃、地球の裏側は、獅子心王(Lion Heart)の異名をとったイングランドのリチャード1世のサラディン軍相手の戦闘と講和、第3次十字軍(1189年〜1192年)の時代でした。戦闘でイスラム側の捕虜となるも、同じ収容所の仲間、ムーア人と一緒に脱獄、母国:イングランドに帰り、国王の留守を狙king richardって政権奪取を狙う地方行政官(Sheriff)と戦う義賊の頭領:ロビン・フッドの物語で、映画:『ロビン・フッド(Robin Hood: Prince of Thieves 1991)』ではケビン・コスナーが演じています。ロビン・フッドは実在の人物ではありませんが、この映画の時代考証はどうでしょうか…。

Robin_Hood_telescope

一緒に付いてきたムーア人が望遠鏡を取り出して未だ遙か彼方に居る追っ手を見つけます。「見てみろ」とその望遠鏡をロビン・フットに手渡すのですが、望遠鏡をのぞくと追っ手が目前に迫って見え、彼はあたふたと剣を抜いて闘おうとする始末に苦笑します。ムーア人は、望遠鏡はともかく、爆発物(火薬)を作り、使うことは出来たのでしょう。時代がしばらく下って鎌倉時代、文永(1274)及び弘安(1281年)の役と2度に渡る「モンゴル襲来」では爆発物(火薬)に度肝を抜かれる日本でした。12世紀末のイングランドにも、13世紀末の日本にも、未だ火薬が存在しない、いずれも文明の及ばない辺境に過ぎなかったのです。

8世紀にはイスラム勢力がアフリカ西北部に進出、ムーア人と呼ばれていました。彼等はジブラルタル海峡を渡って、711年西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を支配していました。タラス河畔の戦い(751)で捕えられた唐の捕虜から製紙技術がイスラム世界に伝わったとされ、12世紀にはアンダルシア地方でも生産されるようになりました。

東地中海では、1453年ビザンツ帝国がオスマン朝トルコにより滅亡、逆に西地中海では、ポルトガルが徐々にイスラム勢力を駆逐、1492年グラナダが陥落し、レ・コンキスタが完成しますが、東地中海を放棄、ジブラルタル海峡の西、大西洋に活路を見いだします。ここまでは、ギリシャ・ローマ文明の後継者である西ヨーロッパキリスト教(ローマカトリック圏)文明の大敗でした。wine_press

15世紀には、イベリア半島を通じて製紙技術及び木版印刷技術がヨーロッパに伝わったと思われます。中国起源の木版印刷技術はバレンで「摺る」ですが、ヨーロッパでは普及しませんでした。1445年頃、グーテンベルグ(1398 - 1468)はアンチモン合金のguten_press活字、この活字を並べて組版します。地中海世界で古くから使われているオリーブ・ぶどうの圧搾技術(搾油・搾汁技術)を応用して、凸面に付いたインクを紙に押し付ける、「プレス (Press)」する活版印刷機を発明しました。

これを機に、従来ラテン語で印刷されていた聖書がそれぞれの国の言語で印刷されるようになり、自らの言葉で聖書を読む=聖書への復帰と言う形で、宗教改革に発展していきます。グーテンベルグ以降の50年間に作られた印刷本の数は、それ以前1000年間に作られた書籍の数の何倍にも達したというように、旅行記・地図の出版が新たな地理的発見を生むことに繋がり、1543年の地動説、1609年のケプラーの法則、1687年のニュートンの万有引力の法則の発見等の科学技術の爆発的膨張はその後、ワットの蒸気機関の発明(1769)そして産業革命、近代市民革命、国民国家の成立につながって行きます。
鉄砲
ギリシャ・ローマ文明を生んだ地中海が原産の(…かどうかは知りませんが…)オリーブ・ぶどう。その搾油・搾汁技術の要は「ネジ」です。その「ネジ」は、1543年、種子島に漂着したポルトガル人のもたらした鉄砲と共に日本に持ち込まれました。1600年「関ヶ原の戦い」では5万丁の鉄砲が投入されますが、これをピークに鉄砲の生産は減少、江戸時代になると鉄砲の技術的発展は全くなく、銃把(=グリップ)の装飾に贅をこらすなど、兵器=道具としてよりも意匠・工芸美術品に成り下がり、とうとう日本から姿を消してしまいました。

「十字軍派遣」は歴史の大きな分岐点でした。

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December 25, 2011

タタールもしくは韃靼(ダッタン)



聞いたことがあるでしょう、『ストレンジャー・イン・パラダイス Strenger In Paradise』。ここではトニー・ベネットが歌っています。 実はこの曲、ご存じの方も多いとは思いますが、オペラに元歌があり、日本では長い間、『ダッタン人の踊りと合唱』という邦題が親しまれてきましたが、正しくは『ポーロヴェツ人の踊りと合唱 Polovitsian Dances and Chorus 』と呼ぶそうです。



Alexander Borodinこの曲は、アレクサンドル・ボロディンによって書かれたオペラ:『イーゴリ公(1890初演)』の第2幕の序曲として演奏されます。このオペラの原作は、12世紀末、中世ロシア文学の傑作といわれる『イーゴリ遠征物語』でした。

恥ずかしながら…、これを知ったのはつい最近です。
寒い冬が始まったばかりで恐縮ですが…、奈良東大寺二月堂の「お水取り」は春を告げる風物詩として有名です。…が、それ以上の事は全く知りません。関西に住む友人が、3月12日の夜(13日早朝)に行われる秘密の儀式:「達陀(だったん)」を見学する機会に恵まれたそうです。秘儀:『達陀(だったん)の踊り』は極めてユーモラスらしいのですが、「達陀(だったん)」というのは「焼く」という意味の梵語(サンスクリット語)でゾロアスター教にも関係か…、語源も意味も不明な、謎に包まれた儀式です。…が、儀式の持つ異国情緒から短絡的に、「達陀」=「韃靼」では?…かってにイメージを膨らまして、辿り着いたのがこの『ダッタン人の踊り』、どこかで聞いたメロディでした、というお粗末な話でした。同じようなイメージを抱いている人が多いようですが、その可能性はほとんど『0(ゼロ)』です。

元へ。現在のウクライナ、キエフではルーシー(諸侯)が分裂・割拠していました。1061年、ポーロヴェツ人(トルコ系遊牧民族)が侵入、の記録が初めて現れました。以降、1210年までの150年に、約50回もの来襲があったそうです。そんな中、イーゴリは、1185年、 ポーロヴェツ遠征を行います。その時の散文記録が『イーゴリ遠征物語』です。 しかし、ルーシーとポーロヴェツ人との関係は、当初の敵対一辺倒から、互いに内部分裂、敵対と同盟を繰り返し、ポーロヴェツ人が徐々にルーシー社会に溶け込んで行きます。

1223年、ポーロヴェツの地のはるか東より、忽然と、全く未知の軍団が来襲、ルーシーとポーロヴェツ人との連合軍はあっけなく敗北、1236年に再びチンギス・ハンの孫:バトゥの率いるモンゴル軍が来襲、彼等は、モンゴル軍の支配下、ポーロヴェツ人はその先鋒としてハンガリーまで西進、各地で土着していきます。ルーシーの人々は、ポーロヴェツ人がさらに東からやって来た彼等をタタールと呼んでいたのに習って、モンゴル系遊牧民を「タタール」と呼んだのでしょう。ポーロヴェツは別名(東洋史では):キプチャック、モンゴル軍がこの地に建てた国がキプチャク・ハン国です。その後200年間、モンゴルへの服従と貢納を強制されることになり、ロシア史では「タタールの軛(くびき)」と呼ばれます。

中国、漢民族王朝の明の時代、元以来のモンゴルの呼称:「蒙古」を止め、それ以前のモンゴル系遊牧民・夷(えびす)の総称、あるいは蔑称、であった「韃靼」を用いるようになりました。後に、明に代わって女真族(後の満州人)が興した清は、モンゴルの呼称を「蒙古」に戻します。さすがに、現代の漢民族国家:中華人民共和国はそれをもう一度ひっくり返したりはしません。

この「タタール」という言葉、ロシアでは東洋系異民族・異教徒の総称で、モンゴル系であろうがトルコ系であろうが「タタール」で一括りにされてしまいました。『ポーロヴェツ人の踊りと合唱』を日本に紹介するtartar straitに際し、これを踏まえて…、ポーロヴェツ人は「タタール(人)」 → タタール(人)は「韃靼(人)」、ということで『ダッタン人の踊りと合唱』の邦題が付けられたようで、今に至ってもこの邦題に愛着を持つ人が多いようです。

樺太(サハリン島) とユーラシア大陸(北満州・沿海地方)との間にある海峡を、日本ではその発見者に因んで間宮海峡と呼びますが、諸外国では、この海峡をタタール海峡(英語:Strait of Tartary or Tatar Strait、ロシア語:Татарский пролив、中国語:韃靼海峡)と呼びます。

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May 11, 2011

ベニスの商人 The Merchant Of Venice

昔、読んだはずなのですが覚えていません。ということで先日、映画:『ベニスの商人 The Merchant Of Venice』のDVDを観ました。タイトルからすると主人公はジェレミー・アイアンズ演ずるキリスト教徒ベネチア貿易商:アントニオなのですが、アル・パチーノ演ずるユダヤ人守銭奴:シャイロックの存在が圧巻で、まるで実際の主人公のようです。戯曲:『ベニスの商人』は、エリザベス1世(在位1558-1603)の時代、ウイリアム・シェイクスピアによって1594年頃に書かれました。



彼の時代は、スペイン無敵艦隊を撃破(1588)して急速にその国力を伸ばしたエリザベス1世の治世に重なります。既に大陸よりもたらされていた印刷技術は、プロテスタンティズム運動を推進させただけではなく、国民の教養を大いに高める事となります。このような中でシェイクスピアは37にも及ぶ戯曲を書き、それらは英語圏のみならず西洋文学全体の中でも最も優れたものであると評価されているが、中で最も人気があるのが『ベニスの商人』です。

シェイクスピアは一歩も外国に出たことがなかったのですが、『ベニスの商人』ではイタリアの都市国家ベネチアをその舞台に選びます。本当は当時(16世紀末)の英国で起こっていたユダヤ人差別を元にこの作品を書いたのでしょうが、自分の国の出来事とはしたくなかった為、「昔々あるところに」の替わりに「ベネチア」を当てたのでしょう。英国人には、厳格な商業組織を持つイタリアの自治都市が文化的にもヨーロッパ最先端の街として映っていたとしても不思議ではありません。

12〜13世紀、ベネチアは地中海貿易・十字軍輸送・支援の覇権を巡る争いにが勝利、1204年には、第4回十字軍として、あろうことか、同じキリスト教国であるビザンチン帝国の首都:コンスタンチノ−プルを占領、略奪・殺戮を行い、クレタを始めとするエーゲ海の要衝を獲得します。1571年、ベネチアはレパントの海戦に参加、オスマン帝国を大敗させますが、絶頂期はこれよりはるか前のことでした。「今から思えば、あの頃が絶頂期だった」、というのはよくある話です。

1497年、バスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸最南端:喜望峰を発見、新しいインド航路が開拓されました。これは、ベネチアが独占していた地中海東方(オリエント)交易体制が崩壊し、交易の舞台が地中海から大西洋に移ったことを意味します。

shylock『ベニスの商人』は4つの物語が並行して進行しますが、見せ場は何と言っても「人肉裁判」。シャイロックは、「善と慈悲」のアントーニオを陥れようと法の厳格な執行を望み、逆に自分が法の執行を受けて破滅してしまいます。詳しくはWikipedia参照 ここが「喜劇的」なところらしいのですが、私にはさっぱりわかりません。

アントーニオのキリスト教的「善と慈悲」のお陰で、本来死刑になるべきシャイロックは刑を免除され、その代わりに、キリスト教に改宗させられます。シャイロックはユダヤ人ゲットーにも帰れず、かといって、キリスト教社会にもは入れない存在となってしまいました。これは「悲劇」でしょう。

エリザベス1世(在位1558-1603)の時代、先行していたポルトガル、スペイン、オランダを次第に駆逐、英国は奴隷貿易で莫大な富を得ます。

奴隷貿易拠点となったのは、ロンドン、ブリストル、リバプール、これらの都市で(1)鉄砲、綿織物等の工業製品を積み、(2)これらを西アフリカに運び、(3)奴隷と交換、(4)交換した奴隷を南・北アメリカに運び、(5)砂糖、コーヒー、綿花と交換、(6)ヨーロッパに運ぶ三角貿易でした。

『ベニスの商人』は英国内で起こっていたユダヤ人差別でしょうが、西アフリカから南・北アメリカへの黒人奴隷の供給は当時の英国へ莫大な富をもたらしましたが、もちろん、シェイクスピアも含めて、英国人は黒人奴隷を差別する対象の「人間」とさえも見ていませんでした。

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September 03, 2010

あ〜あ〜、川の流れのように…

林子平林子平(1738 - 1793)はその著:「海国兵談」で、「江戸の日本橋より唐・オランダまで境なしの水路なり」と記して、海防・海軍力強化の急務を訴えますが、人心を惑わす、を理由に発禁処分となります。幕末攘夷思想に大きな影響を与え、NHK『龍馬伝』で描かれている坂本龍馬の『海援隊』、その遺志を引き継ぎ海運業を、明治に入り三菱財閥を興したのが岩崎弥太郎でした。

幕末から明治にかけて、西欧の文物・概念を翻訳する必要に迫られ、漢語によって翻訳した和製漢語が多く作られました。福澤諭吉が「自由」、「経済」、「演説」、「共和」、西周が「科学」、「技術」、「芸術」、「哲学」等の漢語を作ったそうです。深い漢語の教養があるからこそ出来たのでしょうが、「亜米利加合衆国、United States of America」とは誰が作ったのでしょうね。「亜米利加」は単に音をあてただけ、「合衆国」には「そのはずだ」という訳者の気持ちは伝わるものの、言われるように「合州国」の方がより適切に思えます。

日清・日露戦争を見て近代化を推し進める中国、多くの留学生が日本に学び、彼らは多くの和製漢語を中国に持ち帰ることになります。そのうちの一人、孫文(1866 -1925)は「辛亥革命(1911)」で清朝を倒し、「中華民国」建国を宣言します。彼の死後は蒋介石に引き継がれ、率いる国民党と共産党との内戦状態から対日政策では国共合作へ、日本の敗色が決定的になると再び内戦、結果、1949年、国民党は破れて台湾に逃れ、毛沢東率いる共産党が「中華人民共和国」を成立させます。

明治期の和製漢語があってこそ西欧の思想が中国に広がり近代革命が成されたわけで、最終的に勝利した「共産主義」、それに基づく国家が「人民」、「共和制」という和製漢語があってこそ実現したというのは興味深いことです。※和製漢語の詳細な研究がされています。→ 『哲学字彙の和製漢語』

大菩薩峠『峠』、いつ頃出来た和製漢字(この場合は漢字)かは知りませんが、近世以前からあったのでしょう。何故か時代劇の一場面を思い浮かべる、旅情をそそる、ロマンのある言葉で、『大菩薩峠』が極めつけでしょう。

もう一つ同じようにロマンを感じる和製漢語があります。『分水嶺』、『峠』に比べると断然モダンな響き、当然のことながら明治期、地学・地理学を学ぶ上で造語されたのでしょう。英語でdivide、dividing mountains、dividing ridge、dividing range の文字通りの訳語です。

日本には「中央分水嶺」があり日本を太平洋側と日本海側とを分けるもので、峰(…とは限りませんが)のこちら側に落ちた雨は太平洋(あるいは瀬戸内海)に注ぎ、向こう側に落ちた雨は日本海に注ぐ。僅かな差で太平洋と日本海に、全く違った旅路を辿ることになります。どこか人生に重なるところがあるようで…、思わず口ずさんでしまいます。
『あ〜あ〜、川の流れのように…』

Rhine Danube map












アルプス(スイス)に端を発し、フランス、ドイツを抜けオランダで北海に注ぐライン川、ユリウス・カエサル(BC102 - BC44) はガリア遠征(BC58 - BC51)を行い、ライン川以南/以西をローマ帝国の属州とします。以降、これに、ドイツ南部森林地帯を源泉に、東欧を東に横切って黒海に注ぐドナウ川を加え、帝国のリム(=防衛線)と定めます。同じくアルプスに端を発し北イタリアを横断してアドリア海に注ぐポー川(Po)、フランスを抜け大西洋に注ぐロワール川(Loire)と、西ヨーロッパの分水嶺、アルプスから発してそれぞれの海に注ぎ、流域の文化・歴史を育んできた母なる大河です。

鶴見川源泉3歩いては…ちょっと遠いですが、近くに「鶴見川源流」があります。…といっても、この夏の晴天続き、淀んで、清らかな流れは見られません。ここはれっきとした東京都、私の住む町田市と多摩市との境に横たわる多摩丘陵に在ります。始めて訪れたときは、「どんな山の中だろう…」とおっかなびっくりでしたが、何のことはない、両市の境故か、どちらの市からもその行政から取り残されただけの、今となっては貴重な昭和の里山の風情です。鶴見川は此処を源泉に、横浜市で東京湾に注ぎます。ライン、ドナウには遠く及びませんが、想像力だけは世界に、そして歴史につながります。

The Great Divideとはロッキー山脈の意味。The Bandの曲に『Across The Great Divide』があります。時代劇風に言えば、『峠を越えて』でしょうか…。そのメンバーの一人、リヴォン・ヘルム(Levon Helm)、昔からしぶい声ですが、ウ〜、その声以上におじいさんになりました。


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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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