History_Japan

December 12, 2019

日本人の「自立」

Tokyo Olympic ラグビーワールドカップ・ベスト8入りを果たした日本ラグビーチームが今日東京丸の内で応援感謝のパレードが行われました。スポーツ中継にあまり興味のない私のような人間もチームの活躍に熱狂しました。それに比べると、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長森 喜朗氏(元首相 早稲田大学ラグビー部出身が妙)と日本オリンピック委員会(JOC)会長山下 泰裕氏が率いる「2020東京オリンピック」は、開催を目前の来年に控えて、マラソンと競歩の札幌開催が決まった。国際オリンピック委員会(IOC)の会長バッハ氏の鶴の一声に何の異論も唱えず、JOC会長山下泰裕氏の国際オリンピック委員会(IOC)会員就任をエサに、唯々諾々と受け入れたことに唖然としてしまいます。

 オリンピックの東京誘致が決まった2013年、当時は英語のガイドかなにか…、私も何らかの社会貢献がしたいものと真剣に考えたものでした。しかし、メイン会場の国立競技場デザイン案が一旦決定されながら白紙に、ロゴマークが盗作問題で白紙に、極めつけは東京誘致に成功した日本オリンピック委員会(JOC)会長竹田 恆和(たけだ つねかず)氏がフランス捜査当局の招致をめぐる贈収賄容疑に名前が登っていることを知るに至って、当初の意欲は全く失せてしまいました。今回の札幌開催決定そのものより、森 喜朗・山下泰裕両氏等オリンピック指導者、及びこれに何ら意見さえも挟まない現役のアスリートの皆さんにも驚いてしまいます。むしろ、可能かどうかは別に、「オリンピックの花」であるマラソンが東京(圏)以外の土地で行われるのなら、「約束が違う。開催を中止する!」ぐらいの啖呵を切っても良かったのでは…。日大vs関学のアメリカンフットボール事件の例を出すまでもなく、個々のアスリートに自主性・自立心が大きく欠如していることに今さらながら驚いてしまいます。

 弥生人が水田稲作農耕を持って日本に侵入、彼らが立てたのがヤマト(大和)政権であり、水田稲作農耕を持ってさらに東進、集団的な水田稲作農耕をしない先住者、縄文人を「まつろわぬ者」として討伐した歴史がある。南方由来の水稲作は東北の寒冷地ではつい最近、1950年代まで安定的な収穫を約束するものではなかった。

 一方、世界を支配するヨーロッパ文明は水田稲作農耕の天水農業の文明です。自分の畑に降って来た雨は自分のものになる。自分が勝手に使って構わない。農耕地を広げ、天水(雨水)を利用して畑を作り、小麦などの種をまいて収穫し、が栽培できないところは牧場にして家畜を放牧する。用水は天水(雨)を頼むから、農地ごとに人は自由に独立できる。そこでは個の判断力が重視され、個人主義が生まれる。個の自立、自我の確立と云われるのがそれである。その上、麦の栽培は簡単である。冬雨が降る頃に、鋤で畑を起こし、種をまく。麦は冬に育つから雑草や外注の心配もなく、放っておいても収穫できる。

 ところが、日本の水田稲作農耕は傾斜地特有の灌漑に依存、分割不可能なかかし170水利系の中で、他人のことをいつも意識し、共同で作業しなければなりません。苗代をつくって田植え、田に張った水を替えて、田に生えた雑草を取り、害虫の駆除を行い、やっと収穫につながったのです。しかも四季の変化が激しいので、多毛作の他のアジア諸国の水田とは大きく異なり、行程管理も緻密さが必要です。少しでも自分勝手なことをすると、例えば勝手に「我田引水」すると「村八分」にされます。自我の主張はわがままとみなされました。勤勉・実直の風はこのようにして生まれました。

 以前から気になることがあります。何時ごろからか、オリンピックの柔道が全く面白くなくなりました。だらだら時間だけが過ぎて知らぬ間に勝負が決まり、かつてのように、日本が得意な一本の大技で勝負が決まることはなくなりました。その理由の一つが、ルールへの対応であり、日本柔道はその変化に対応できなかった、ということであろう。柔道のルールづくりは、国際柔道連盟(IJF)が主導権を持っており、07年の理事選挙で山下泰裕氏が落選、IJF内での日本の発言力は著しく低下してしまいました。ルールづくりの主導権を奪われたら、試合前に既に負けが決まったようなもです。

 世界のルールに順応していくのが日本の強味だったことも事実です。しかし、グローバル化によってルールが統一される時代になると、ルールへの対応力より、ルールづくりへの参画度が勝負を分けるようになる。「ルールはお上がつくるもの。自分たちはただと従えばいい」と思っている。ルールを変更に介入することは「フェアではない」とすら感じているのが、今の山下泰裕氏を代表とする日本オリンピック委員会(JOC)ではないでしょうか。

 朝日新聞(2014年2月14日)の報道では… 麻生太郎財務相は14日の衆院予算委で、スポーツの国際機関で日本人役員を増やす必要性について「もし柔道の山下(泰裕氏)が英語ができていたら(スポーツの国際機関の)会長になっていた。一言もできなかったから、あの試合の時も『おかしいじゃないか』と審判に監督として手を挙げられない」と答弁した。英語が上手い下手ではなく、審判に不満があれば堂々と意見を述べるべきであり、麻生太郎大臣の云う通りである。「男は黙って…」は過去の日本だけ、水田稲作農耕「共同体」内部だけに通じるもので、海千山千の相手に切った張ったの勝負は出来ないでしょう。

 同じく朝日新聞(2019年11月22日)で元サッカー日本代表監督:岡田武氏がインタビューに答えて、「東京五輪・パラリンピックを日本人が「自立」するきっかけにしよう」と訴ます。「サッカーで主体的にプレー出来るやつは何人かだが、いる。反発心で出る主体的な力は短期間では効力があるが、長続きはしない。本来は、自分の勝ちたい、勝つことが楽しいという内発的欲求で力を出せることが真の自立だと思う。」

 彼は来期J3に昇格するFC今治の会長です。

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November 09, 2019

2019年関西の旅 神君家康伊賀越え(その2)

多田神社 もう一つ、くすぶっていることがあります。家康と摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)の関係です。1586年、源氏を名乗った家康は始祖、源満仲(みつなか 912 - 997)を祀る多田神社(兵庫県川西市)へ向かう一行の船渡しを佃村の漁民がやったとか、あるいは、家康一行を乗せた船をけん引して多田まで届けた。これに報いて、後年、秀吉に関東移封(1590)を命じられた家康とともに江戸に入り佃島に入植を許されたものと思っていました。しかし、たかだか神崎川の渡河、あるいは猪名川の遡行ぐらいで、新天地江戸の一角、特権として日本橋に魚河岸開設を許されるのでしょうか?

 過去に何度か触れましたが、私の出身地(生まれは九州ですが)は兵庫県伊丹市。市の南に尼崎市、西に西宮市、北に宝塚市・川西市が位置し、東には猪名川が流れ、対岸は大阪府です。かつて、この大阪府と兵庫県を合わせて摂津国と呼ばれ、明治新政府は摂津国経済の力を削ぐために二つの県に分割したと聞きます。猪名川はいくつかの川が合流して神崎川として大坂湾に注いでおり、その河口部分に「佃」が位置します。平安末期、源平合戦も終わり、京を逃れ淀川を下った義経一行が西国で再起を図るべく船出した「大物の泊まり」もすぐ近くで、佃・大物・江口の周辺はは古代より瀬戸内及び淀川水系の重要拠点であったと考えられます。江戸時代、伊丹酒(いたみざけ)と呼ばれた日本酒の名産地であり、今も「白雪」や「御免酒 老松」のブランドが引き継がれているが、造られた酒は船で猪名川を下り、大坂湾に出て、菱垣廻船や樽廻船で江戸へ出荷されたことを見れば、猪名川のさらに上流、西岸に在る多田神社近くまで家康一行を乗せた舟を曳航したのもまんざらあり得ないことでもないでしょう。

 1590年、家康は江戸に入城。戦国の火がまだくすぶる中…、武田の旧臣大久保長安に命じて従来の五街道に加えて、家康緊急時の江戸脱出路として、江戸城半蔵門(に服部半蔵の名を遺す)を起点とする甲州街道を建設、中途に八王子の街を建設、多くは武田の旧家臣を「八王子千人同心」に組織化しました。一方、江戸という都市を建設、その消費需要を賄うためには、荒川・利根川・渡良瀬川の水運をはじめとする物流路の整備が不可欠でした。家康は江戸入府と同時に江戸湾の風波を避ける目的で小名木川を開削、同時に伊奈忠次に関東河川改修を命じ、以後、伊奈氏3代により利根川の銚子河口への通水が行われました。東北からの物資がここで川船に積み替えられ、利根川を遡り関宿で江戸川に入り、行徳にて船堀川・小名木川を経て江戸へと運ばれました。

 戦国時代の百年、関東は善政を敷いた小田原北条氏の支配下にあり、まだ後北条恩顧の強い地域でもあった。家康の江戸入府に摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)34人も従い、寛永年間に隅田川河口鉄炮洲の土地をもらい「佃島」と名付けました。この鉄炮洲、なんと小名木川の目と鼻の先。大久保長安に命じて甲州街道という緊急脱出路を確保しながら、関東に広がる荒川・利根川水系の150504_深川万年橋物流を摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)が担うだけではなく、これらの水系を利用して、関東を支配するのが家康の森孫右衛門に与えた使命だったのではないでしょうか。江戸入府と同時に開削された小名木川は物流の幹線運河であり、同時に、番所(関所)が設けられるなど関東支配の軍事的な目的を果たす、徳川幕府の生命線でした。後北条恩顧である地元民に任せられるはずのものではなく、関東に縁のない摂津佃の森孫右衛門にそれを命じたのではないでしょうか。

 年は遡って1582年、家康は泉州堺を出て京へ向かう途中、枚方辺り、御用商人茶屋四郎次郎がもたらした「本能寺の変」の報に接し、急遽帰国を決意、こうして始まった逃避劇が後に家康生涯最大の危機と云われる「神君伊賀越え」です。秀吉の死後、家康の権勢が絶大になるに及び、「淀川過書船支配」など京・大坂の物流の支配を任されたことを勘案すると、茶屋四郎次郎と淀川・神崎川河口(摂津佃)を拠点に活動していた森孫右衛門とは従来より密接な関係があったはずです。茶屋四郎次郎は先々で土民を脅したりすかしたり、時には金をばらまき、服部半蔵は伊賀・甲賀衆を説得して家康一行の警護・案内に奮闘します。一方、茶屋四郎次郎から一方のあった森孫右衛門は家康一行の到着を待ち受け、宇治川(堺〜飯森〜宇治)・木津川(近江〜伊賀)の水路、伊勢白子から大浜までは海路を確保、渡河・河川及び湾内航行に活躍したものと考えます。

 家康と森孫右衛門の出会いはこの「神君伊賀越え」だったように思われ、もし「本能寺の変」がなければこの「神君伊賀越え」もあるはずがなく、二人の出会いはなかったかも知れません。この茶屋四郎次郎、服部半蔵に匹敵する働きを見せた森孫右衛門への信認は厚く、1586年、家康一行を乗せた舟を牽引して猪名川を遡の「多田神社詣で」の先導役を果たし、1590年、摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)は江戸に移住、江戸武家屋敷への出入り、魚河岸の開設が認められました。1614〜1615年、大坂冬の陣・夏の陣では佃漁民は徳川方に味方し、食料・武器の調達・運搬を行っています。

 佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていたが、これが「神君伊賀越え」の時に非常食としてふるまわれ、後の江戸名物「佃煮」となったとは、話が出来すぎでしょう。

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August 24, 2019

武蔵国比企郡大蔵館

 お盆もとっくの昔に終わり、8月も終わりに近づいて来ました。日中はまだまだ暑いが、朝方などはシーツを引っ張り出したり、数日前には24時間エアコンのお世話にならなければならなかったことがウソのようです。いつもの事ながら、この時期になると、何かやり残したという思いになります。当初、今年の夏は奥州、東北に…と考えていたのですが、旅の道連れに予定していた友人が春先に既に東北を旅行していたので、彼を誘うわけにも行かず、加えて、梅雨の長雨が終わり8月に入ると、いきなり猛暑日、出かける気力さえなくなってしまいました。

 10月末にはその友人と一緒に関西に行く予定です。中山道(古くは東山道)を行き、木曽、飛騨・高山から日本海側に抜け、倶利伽羅峠から篠原を経由して近江国(湖東)を南下して、伊賀上野に至るルートを考えているのですが、実際これができるかどうかは判りません。これは、木曽(源)義仲が以仁王の令旨を奉じて木曽で挙兵、倶利伽羅峠・篠原で平家軍を破り京に入ったのとほとんど同じルートです。滅んだ義経の鎮魂を目的に「おくのほそ道」の旅を続けてきた芭蕉は月山・象潟を日本海に沿って越後・越中を南下、越前に至り、義仲の鎮魂を目的に倶利伽羅峠・篠原を辿るまでは義仲の進軍ルートにほとんど同じなのです。芭蕉は越前敦賀を発つと「おくのほそ道」結びの地、美濃大垣に向かいます。

 芭蕉が「おくのほそ道」の旅を実施したのが1689年(元禄2年3月27日江戸深川発〜8月21日頃大垣着)、西行500回忌に当たる年でした。その5年後の1694年(元禄7年)、旅の途中、大坂御堂筋、門人が設けた座敷で死去。遺言で、墓は義仲の墓の隣に建てられました(近江国大津「義仲寺」)。

 多くの人が木曽(源)義仲は「木曽」とある通り信州木曽で生まれたと思っていますが、恥ずかしい話ですが私もそのうちの一人、武蔵国比企郡(埼玉県嵐山町)で生まれたことを知ったのはつい最近のことです。それも私の住む町田市からそう遠くないところです。義仲の挙兵から京入りまでの道程を辿るまでに、一度嵐山を訪れてみようと思い立ったのです。

 バンドの練習だけを目的に、過去数年間、ほとんど隔週末、武蔵(埼玉県)川越まで50km、2時間かけて行くのですが、関東平野の南西に位置する町田市からは北東に向けて、関東平野の中央に向かって進むのですが、後ろに見えた大山をはじめとする丹沢山系は徐々に見えなくなり、四方を見回してもほとんど変化のない、延々と平坦で単調な風景が続きます。騎馬術に優れた関東武士が鎌倉街道網を整備したのであるが、それなら、既に大陸からもたらされたであろう去勢など馬の飼育技術を高め、馬車の活用をしなかったのでしょうか。武蔵野(関東平野)こそ、運送手段としての馬車の活用に最も適した地域であり、どうしてこれに気づかなかったのか不思議です。

 そんな事に思いながら、武蔵国比企郡(嵐山町)への道を走ります。ほとんど鎌倉街道上ノ道と並行あるいは交差しながら(ほぼJR八高線のルート)、伊豆箱根・丹沢・大山から秩父・榛名山に連なる山系を左(西)に臨みながら北上する70kmです。すると、また違う妄想が頭に浮かびます。水稲技術は大和政権と共に東進、当初は灌漑技術と云えば、水は高きから低きに流れるという自然の理を利用した重力灌漑であり、私の住む武蔵国小山田荘(町田市北部の谷戸田)もそうなのですが、広大な水田が平野部で開発されるのは近世以降の話であり、丹沢・大山から秩父・榛名山・赤城、日光の山塊、東は筑波の山塊は円弧状の地殻皺をなし、それぞれの山塊が多くの扇状地を形成、そこに、(京(中央)政府から派遣された源氏・平氏が関東に土着して水田(谷戸田)を作り、馬の放牧するなどして土地を開拓したのではないでしょうか。彼らが関東へ入植した当時は、武蔵は、雑木林を蒸す「ムス」 + 焼畑農地を作る「サシ」に由来(柳田國男説)の通り、当時、関東平野は重力灌漑による水稲耕作は困難であり、山塊の扇状地でしか不可能であったのではないでしょうか。彼らは東山道を辿り碓氷峠を超えて関東に入りますが、安中・高崎辺りから南下した武蔵国秩父郡では秩父氏が大いに栄え、武蔵国各地に散った一族は在地豪族と婚姻関係を結んで勢力を拡大、秩父平氏(秩父党)を形成していった。当地、小山田荘の別当、小山田有重(生誕・死没不詳)も秩父平氏の一党、1180年、頼朝挙兵に際しては京に在住、平家の忠実な郎党として、北国戦線にて木曽義仲軍と戦い、戦後は頼朝に服従します。

 
大蔵館 河内源氏の当主であった源為義は摂関家を後ろ盾としたのに対し、彼の長男義朝は院近臣を後ろ盾とし東国へ下り、鎌倉を本拠に南関東へ勢力を伸ばした。度重なる不祥事で河内源氏の評価は下がり、一方では内部抗争が激化、為義は義朝を廃嫡、次男義賢を嫡男に改め、義朝の勢力の希薄な北関東に進出させます。義賢は武蔵国最大の武士団、秩父重隆の娘を娶り、「武蔵国比企郡大蔵(埼玉県嵐山町)に館を構えます。秩父重隆は家督を巡って内部抗争、外には新田氏や藤姓足利氏と抗争、彼らは義朝・義平父子と結んでいました。秩父氏の家督争いと河内源氏内部の同族争いはついに1155年(久寿2年)大蔵合戦の結果となり、源義朝の長男、悪源太義平が叔父の(義朝の弟)義賢を急襲、義賢と秩父重隆を滅ぼします。

 義賢の次子、当時2歳の駒王丸は畠山重能(しげよし)に助けられ齋藤別当実盛鎌形神社_2により木曾の中原兼遠に預けられた。これが後の旭将軍・木曽義仲となり、命の恩人である斎藤実盛とは大蔵合戦から28年後の篠原の戦いにおいて首実検の場で悲劇的な対面をすることになります。

 鎌形八幡神社には駒王丸の産湯に使った湧き水があります。境内は名前は判りませんが、小さな花をつけた植物で覆われています。
190820_鎌形八幡神社境内に群生する?

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June 27, 2019

山椒

 前回のブログ公開からかなりの日数が過ぎ、そろそろ、読者である関西の友人から安否確認がありそうです。

 カミさんは山椒が大の好物。昔々、結婚前、彼女のお父さんは勤め帰りに、大阪堂島の地下センター(?)に在った「小倉屋山本」で、贈答用ではなく、家庭用の「山椒昆布(?)」を土産に買って帰り、彼女は山椒の実だけをよって食べたこともあるそうです。「死ぬ前に何が食べたい?」と聞かれれば、当然、「山椒の佃煮」と答えるはずです。

 別名、「ハジカミ」とも呼ばれる「山椒」、「椒」の字には芳(かぐわ)しい・香りがよいの意味があり、山の薫りが芳しい実、「山椒」となったそうです。雌雄の別があり、実がなるのは雌株のみの由。

 この「山椒」を冠した物語があります。確か、小学校の教科書で読んだような気がするのですが、森鴎外(1862-1922)の『山椒太夫』、あるいは『安寿と厨子王』というタイトルだったのかよく判りません。こどもの頃は当然ですが、大人になっても何故「山椒太夫」なのか、山椒で財を成した長者…?、ではないであろうし…。

 この物語の時代背景は平安後期、清盛(1118-1181)による武家政権樹立以前の話であろう。物語はご存知でしょうが、詳しくはWiki『安寿と厨子王丸』を参照をお願いします。安寿が丹後由良の浜で汐汲みをさせられることから、太夫は製塩業を営み、由良・岡田・河守、「三庄の長者」であった。各地の荘園から逃散(農民が土地を放棄して逃亡すること)・脱落して浮浪者となった民、「散所の民」を拉致したり、金で買ったりして利益を上げた者を「散所の長者」と呼びました。類似のものとして他にも、「算所」・「産所」がありますが、いずれも浮浪の民・芸能の民であり、鴎外は同音の「山椒」の文字を当てただけで、山椒の意味そのものは全くないようです。

 奈良時代に始まる、高野山における最下層の僧は高野聖と呼ばれ、勧進のために地方に遊行しました。鎌倉時代になると、『平家物語』を琵琶の伴奏に合わせて語る平曲が完成、琵琶法師(平家座頭)は説話・説経節を入れて全国を回る芸能者であり、これが後の浄瑠璃につながります。中世から近世にかけ、熊野比丘尼(くまのびくに)は地獄極楽、六道図などを絵解きをしながら熊野三所権現勧進のため、時にははやり歌を歌い、時には売春して諸国を歩きました。一方では、陸奥国津軽にはイタコと呼ばれる口寄せを行う巫女、越後国・北陸など日本海側を中心には瞽女(ごぜ)と呼ばれる女性の盲人芸能者集団が座を形成して諸国を歩きました。説話・説教節・はやり歌を共通項にした彼ら、芸能者集団は日本海沿岸を、南からやって来た近畿を源とする勢力と陸奥国・越後国在地の勢力との衝突と融合から出来た説経節を起源としています。奥羽の太守「一族の没落と再興の物語り」であり、見方・立場を変え、丹後由良の太夫が下人の復讐により没落する「長者没落の物語」であるともとも言えます。

 詳しくは、柳田国男はじめ多くの民俗学者・郷土史家・文学関係の諸氏の著作をご参照ください。津軽十三湊から京丹後半島由良に至る、日本海沿いに陸路で1,008キロ、海上ルートは若狭湾(丹後半島)で陸揚げして、琵琶湖を経由して京へ、さらには淀川水系を利用して難波津(大坂)に至る日本海沿岸・内陸水運ルートが存在したということです。これが近世の江刺・松前から、敦賀・下関経由、大坂に至る「北前船」に発展していきます。

 次に「山椒」を冠した生物。シーラカンスと同じく、「生きる化石」と言われるオオサンショウウオ(大山椒魚)は岐阜県以西の本州・四国・九州に生息する両生類。国の特別天然記念物(1952指定)ですが、かつては食用で美味であったとされています。食用を目的に捕獲したオオサンショウウオを縦に割いて、半身を川に戻すと失った半身が再生、元の一体に戻るという、トカゲのしっぽ切りを連想させる…?、言い伝えに由来、「ハンザキ、半裂」とも呼ばれていました。篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家にして料理家・美食家、北大路 魯山人(ろさんじん 1883-1959)は次のように評しています。

「世の中には珍しがられていても、美味くないしろものがいくらもある。ところが、山椒魚は珍しくて美味い。それゆえにこそ、名実ともに珍味に価すると言えよう。」
        ↓
       中 略
        ↓
「腹を裂いたとたんに、山椒の匂いがプーンとした。腹の内部は、思いがけなくきれいなものであった。肉も非常に美しい。さすが深山の清水の中に育ったものだという気がした。そればかりでなく、腹を裂き、肉を切るに従って、芬々ふんぷんたる山椒の芳香が、厨房からまたたく間に家中にひろがり、家全体が山椒の芳香につつまれてしまった。おそらく山椒魚の名はこんなところからつけられたのだろう。」

 その名前は、かつて食用として捕獲されていたオオサンショウウオは体に山椒に似た香りがあり、体を捌くと、より一層、山椒の芳香が広がることに由来するようです。

 京都市内に住む私の友人の健康方は早朝の散歩、先日、一晩中降った雨が180621_あじさい_2上がり、いつもの鴨川河川敷を歩いていると、目の前にオオサンショウウオがうずくまっていたそうです。梅雨の長雨で上流から流され、増水で河川敷に取り残されたらしく、友人はこれが天然記念物であることを認識しており、両手をオオサンショウウオの腹の下に差し入れ、抱えて水に戻してやった由。
オオサンショウウオ
 詳しい様子を聞くと、「体調は60〜70cm、ナマズかアンコウ、皮膚はヌルヌル、骨ばっていて気持ち悪い生き物」という感想でした。知り合いの中学校理科(生物)の先生に尋ねると、岩手県出身の彼女は、三重県赤目四十八滝に在る「日本サンショウウオセンター」まで行って、オオサンショウウオを勉強したそうです。オオサンショウウオの歯は鋭く、獲物を鵜呑みにするのではなく、その歯で噛んでからのみこむそうで、もう一つ、目が上の方に付いており上方の動きには敏感で、指を噛みちぎることもあるそうです。

 友人としてはあくまで善意で行った行為、指を食いちぎられることもなくて幸いでした。「後日、オオサンショウウオの恩返しがあるのでは…」とは、もうすぐ安否確認をくれそうな、仲間の感想でした。
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March 23, 2019

「弓馬の道」と「馬車」

170917_大泉寺参道
 私の住む小山田桜台の周辺には平安時代から続いたであろう、この地に特徴的な地名があります。馬掛(まがけ)・馬場・牧畑などの「馬」に関連する地名です。秩父氏の一族、小山田有重(生没不詳)は小山田別当(馬牧の長官)を務め、現在の大泉寺を居館とし、治承・寿永の乱(1180 - 1185 源平の戦い)では、当初は平氏側に、戦後は鎌倉幕府、頼朝側に仕えました。市内野津田には、鎌倉街道の跡(「上の原遺跡」)があり、幅:6mの道路と側溝が通り、その両側に 高さ2mの「掘割(塁)」が設けられ、乗馬した状態でも行動が察知されないための目隠しとも云われています。

 馬の腹に脚を絡めて、自由な両手で弓を射る(パルティアン・ショット)。パルティアン・ショット世界史的に見て、<馬のスピード>+<矢のスピード>を超える破壊力は鉄砲の出現を待たなければなりません。この時代の坂東武者にとって、「騎射の術」、「馬上の組うち術」など、馬とは一騎打ちの道具でした。また、奥州に住んでいた蝦夷の技術に由来する(?)蕨手刀(彎曲刀)は、反りのある、引き切りに適した、騎馬戦で有効な武器としての日本刀に変化して行きます。加えて、僧侶ではない者の頭頂部を剃る民族は、日本人の髻(もとどり)と月代(さかやき)の習慣は靺鞨・女真などツングース系遊牧民族の辮髪(べんぱつ)に見られます。

 中国、漢代の「南船北馬」に倣って、東国の「しゅう馬の党」と西国の「海賊」、「将門の乱」と「純友の乱」、東国の傀儡と西国の遊女、後の源氏の東と平家の西、網野善彦は東西日本の地域的特質を「西船東馬」と表現しています。こう評されるように、馬の飼育・活用に適した広大な関東平野に在って土地を開拓・経営し、「一所懸命」・「名こそ惜しけれ」の坂東武士は半独立国家、鎌倉幕府を樹立します。これは日本人の美徳の一つとして現在にも受け継がれています。

 この辺りで、ユーラシア大陸に割拠する「日本人騎馬民族説(=遊牧民族説)」が出て来るのですが、残念ながら、日本人をさらに絞り込んで、「弓馬の道」、馬の飼育に長けた坂東・東国人に限ったとしても、遊牧民族に特徴的な、「去勢」という技術は存在しませんでした。家畜をコントロール(雄の数が多すぎる、体力のない子供を産ませても無駄、あるいは品種改良)する「去勢」技術があってこそ、ユーラシアにおける遊牧民族の農耕民族に対する優位性が確保されたのです。「悍馬を乗りこなすのも武士のたしなみ」とばかりに、「去勢」技術の情報があってもこれを無視したようです。自ずと「宦官」の制度も日本には入りませんでした。外国文化の取捨選択が上手いといわれる日本人ですが、はたしてそうなのか…?日清戦争(1894 - 1895)に勝利した日本は軍を北京に駐留させますが、日本軍の軍馬が人間の手に負えない悍馬ばかりと欧米列強に馬鹿にされ、彼らの軍馬が去勢されて完全にコントロールされているのを知り、以降去勢技術が日本に急速に普及することになります。

 馬術・一騎打ちの技術は洋の東西を問わず発達していきますが、馬に車をけん引させる「馬車」に関して、両者は全く異なります。メソポタミア文明(BC 3500頃)が北上して遊牧民と遭遇、両者は化学反応を起こし…、「鉄と軽戦車(二輪馬車、チャリオット)」を武器にヒッタイト帝国(BC1200〜)、続いてアッシリア帝国(BC14世紀中)が繁栄、軽戦車(二輪馬車、チャリオット)の技術は中国、殷(商 BC17世紀〜BC 1046)にも伝わります。おそらく、この時に入った「去勢」技術が「宦官」の制度にも繋がっていったのでしょう。その後、「すべての道はローマに通ず」の通り、ローマ帝国全域に大きな石を亀甲形等に組み合わせた舗装道路網が広がっていたと云います(BC 117の主要道路は8万6千キロ)。当時、イングランド島に在るヨーク(York)は帝国の北辺の地。現在は中世の街並みが残る美しい街ですが、街並みを横切る石畳の通りには、両側に歩道、車道には馬車の轍(わだち)が深く残っています。ローマ帝国のように石材がなく、石畳を作れなかった中国、秦の始皇帝(BC 259〜BC 221)は車の車軸のの長さを統一、中国の馬車は領土全域を同じ幅の轍(わだち)の馬車が走ったそうです。

 一方の日本、「馬車」が発達した形跡が全くありません。その理由として、街中では道幅が狭く、舗装されていない、長距離では河川がが多く、山間が多いので坂道が多い、というのが列挙される大方の理由です。これらは、江戸時代をイメージとした、後付けの理由に過ぎず、馬(家畜)をコントロール(制御)する「去勢」技術を学ぼうとしなかったのが最大の理由です。馬車の往来に耐えうる道路、架橋、効率よい道路網の建設は、まず最初に、馬(家畜)をコントロール(制御)する「去勢」技術を取得して、その後に発生してくる課題であり、ローマはじめヨーロッパを見ても、道路建設・架橋技術は多くの課題を克服していく形で発達していきました。

 前述の「西船東馬」の通り、関東平野は、大きな河川があるとはいえ、もともと起伏の少ない平原、馬車が発達するには最適な土地だったのではないでしょうか。明治時代 馬車鎌倉幕府による鎌倉街道の整備は時代的制限があるとしても、江戸時代に至り徳川幕府は五街道に加えて甲州街道を新設したというが、その後、明治始めにおける鉄道馬車の発展を見るに、きわめてお粗末な道路行政だったといえるでしょう。

 関東平野の北辺、白川藩主、松平定信は「寛政の改革(1787 - 1793)」を行います。その時、大坂の儒者、中井竹山は馬車を採用することを提言しています。西欧の馬車の情報を得たのであろう、馬車馬の御者一人で多数の人間・物資を効率よく運搬できることを説くも、効率化による失業者の増加、馬車の重量に耐えられる道路の整備、架橋の整備の費用を誰が出して、その利益をどのように徴収するか、定信には到底理解できず、却下されてしまいます。もし、中井竹山の提言が前任の田沼意次の重商主義時代に出されたのであれば、ひょっとして、馬車、道路建設も違った方向に向かったかも知れません。

※参考資料:網野善彦著 「東と西の語る日本の歴史 (講談社学術文庫)
      出口治明著 「仕事に効く教養としての「世界史」」     

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September 13, 2018

Yokohama、近藤勇…そして町田 その2

『Yokohama、近藤勇…そして町田 その1』から続く…
 
 町田、さらに大きく多摩という地域の歴史を見ると、面白い事に気がつきます。最初の武士政権、鎌倉幕府(1192)を建てた関東武士の棟梁は都からやって来た貴種、源頼朝。源氏三代を殺して、鎌倉幕府を引き継いだ伊豆国(静岡県)出身の執権北条。その鎌倉幕府を倒して(1333)、後醍醐天皇親政失敗( 1336)に続く南北朝時代(〜1392)、そして上州(群馬県)出身の足利尊氏が室町幕府(1336〜1575)を建てるもその実力は京周辺の山城一国にしか及ばなかった。各地の守護はその権限を拡大し、守護大名に成長、関東でも混乱が続きました。戦国時代の先鞭をつけたのが備中(岡山県)出身の早雲(伊勢新九郎盛時)が伊豆韮山(静岡県)に拠点を置いて、伊豆・相模国を、執権北条の名を継いで小田原(神奈川県)を本拠地に関東一円を支配しました。後北条は秀吉に敗れ(1590)、いよいよ三河(愛知県)出身の家康が入って来ます。家康は、善政を敷いた後北条の民政(四公六民)を踏襲、100万石余といわれる幕府直轄領(天領)には有能な代官を置いて統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げます。家康の江戸脱出路とされる甲州街道、その途中に在る八王子の街、そこに武田・後北条の遺臣を集めて「千人同心」を作ったのが大和(奈良県)出身の猿楽師、大久保長安(武田信玄、後に家康に仕える 金山奉行)江川邸玄関外であり、町田を含む多摩地域には千人同心の子孫が多く住んでいます。 もう一つ、保元の乱を嫌って伊豆韮山に流れてきた江川家は、頼朝・執権北条・足利・後北条そして家康に「江川太郎左衛門」の名で世襲代官として仕え、町田を含む多摩地方の幕府直轄領は伊豆の代官「江川太郎左衛門」の支配下に在りました。

 日本人の精神と倫理観に徹底的な影響を与える関東武士の誕生、彼等はその主役でありながら、自らのうちに棟梁を見いだすことをせず、当初は平氏を、次いでは源氏、都の貴種(他国者、よそ者)を担ぎ上げて史上最初の武家政権、鎌倉幕府を開きます。 以来、関東に於いて、時代の節目にいろんな事象が発生しますが、近世末、おそらく今日に至るまで、全くこの傾向は変わりません。

 幕末、養蚕だけでなく、 木綿・油菜・荏胡麻・藍などの商品作物への転換が進み、近藤勇農民は「穀物買い入れ層」となり、奢侈・贅沢へ傾斜して行きます。その結果、穀物価格の急騰、飢饉・打ち壊しの発生、治安の悪化、社会の混乱を招くことになります。後に新選組を率いる近藤勇(1834-1868)、土方歳三(1835 - 1869)は武蔵国多摩郡調布・日野に中農以上の豊かな家庭環境に生まれますが、彼等こそ多摩地域が生んだ独自のリーダー、棟梁でした。小島鹿之助(1830 - 1900)は当時の小野路村の名主で近藤勇(新選組)のスポンサーでしたが、ひ孫に当たる小島政孝氏(小島資料館館長)は講演で「近藤勇・土方歳三は多摩の英雄」と明言しています。身びいきすぎる…とは思いますが、確かに関東武士が生まれて以来始めて、近藤勇は歴史の節目で「棟梁」となった唯一の多摩人であり、その意味では「多摩の英雄」です。

 市民大学講座の講師もここの学芸員の方が多いのですが、町田市立自由民権資料館というものがあります。私の了解する「自由民権運動」とは、戊辰戦争で勝利した新政府軍、例えば武士は板垣退助を頂点に一国の家老待遇の名誉と地位を得ながら、数年後の廃藩置県でその地位は反故にされ、「不平士族の反乱」に繋がり、西南戦争が終息すると、明治政府への不満の矛先が憲法制定・議会開設を要求する「自由民権運動」へと変遷していきます。板垣退助は東山道先鋒の参謀として戊辰戦争(1868-1869)に従軍、「勝沼の戦い」では近藤勇(新選組)を撃破して甲州街道を東へ、八王子千人同心を懐柔、徳川恩顧の多摩郡を全く無抵抗のまま江戸に達します。町田には、代官「江川太郎左衛門」の組織した木曽農兵、小野路には小島鹿之助が組織した小野路農兵が幕府側として参戦したはずなのですが、どうも消息が分かりません。戦争の帰趨が判っていたからでしょうか…、 上野戦争・東北戦争は未だ始まってもいないのに、徳川恩顧の町田を含む多摩地域から、例えば宇都宮・日光方面の戦いに向かうこともありませんでした。

 自由民権資料館は野津田村の地主、村野常右衛門(1859-1927)が自由民権運動に加わり(1881)、その私財を割いて建てた「凌霜館)」の跡地を町田市に寄贈されたものが始まりで、 多摩・神奈川の民権運動関係史料を収集・保管し、整理・研究している由。読む方の誤解か…、それとも誤解を招くことを意図したのか…、自由民権運動の起源がこの地にあったかのような名称です。横浜開港で町田に西欧の宗教・思想(例えばアメリカ独立戦争・フランス革命の自由・平等・議会設置)が入り込んでいたのか、と大いに期待したのですが…、全くそんなことはなく、かと云って不平士族でもなく、不平というならば、それまで天領・旗本領の特権を剥奪されたという新政府への不満…でもないようです。 彼は戊申もはるかに過ぎて、西南戦争(1877)後、当時、にわか風俗の如く流行した「自由民権運動」に参加したのでしょう。福沢諭吉が訳したとされる「自由」、それを底に記したぐい飲みが展示されています。廃藩置県に伴い(1872年までに)町田を含む多摩地方は神奈川県に編入されましたが、コレラ流行(?)等を理由に、1892年、再び現在の東京都(府)に戻ったと云います。当時、神奈川県・町田を含む多摩地区で盛んだった自由民権運動を削ぐ狙いがあったと云いますが、云われる通り運動は急速に衰退してしまいます。ブームが終わったように…。原町田から八王子にかけての人間にとっては、新しい産物・思想・生活習慣の発信地、居留地のあるエキゾチックな港町横浜(神奈川県)が少し遠くに行ってしまいました。

 東京・大阪を初めとする大都市に人口が集中する傾向は今も変わらず、町田市の人口は43万、八王子(58万)に次ぎ、多摩地域第二の大都市です。幕末の横浜開港以降、町田の中心は小野路村から原町田村に移り、JR横浜線は市の南端を、小田急も東の端をかすめるだけ、 国道は一本も通らず、町田の背骨でもある町田街道に右折レーンが出来たのはつい最近の話です。遠藤周作縁の地で在り、死後遺族から彼の遺品寄付の申し出がありながらそれを断り、長崎に持って行かれ、かろうじて白州正子の遺品は「武相荘」に遺されています。映画館はやっと最近、南町田にシネコンが出来たというお粗末さ。文学・芸術がダメならスポーツで、ということで町田市はサッカーにお金をつぎ込んで、やはり政治の中心は昔ながらの野津田(あるいは隣接する小野路)なのか、人里離れた所に立派なスタジアムを建設しましたが、その結果は未だ明らかではありません。多摩地域第二の大都市でありながら、武蔵野には入っておらず、現在に於いても「多摩の横山」が厳然たる壁、市内を走る神奈中バス、相模原市と同じ市外局番に、かつては神奈川県に編入された名残がある、とらえどころのない無個性な街に映ります。これがこの街の文化…?。

 地域おこし、街おこしをやろうにも、ただミニ歌舞伎町が駅前にあるだけの街では手の打ちようがありません。町田市が積極的に景観を保存した訳ではありませんが、私の住む小山田地区には、結果的には、幸か不幸か、江戸時代、さらに遡った古い原型のままの山里を見ることが出来ます。 やはり、多摩の横山を越えて小野路に出稽古にやって来る近藤勇をキャラクターに据えるべきでしょう。


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September 06, 2018

Yokohama、近藤勇…そして町田 その1

町田109 レミィ町田 今年は「明治維新150年」、それを記念して町田市民大学講座:「町田にこだわって「明治維新」を考える」に、4月から7月までの4ヶ月間(12回)、時間の許す限り参加しました。会場は生涯学習センター、駅にも近い「レミィ町田」です。今年3月までは「109町田」と呼ばれたビルで、若者の街渋谷の「109」を持ってきたのが売りでしたが、渋谷と同じように若者を呼び込むことが出来ず、6階部分を町田市生涯学習センターに貸し、今年4月からは「レミィ町田」に改称、地下1階から地上5階まで商業店舗となっているが入れ替わりが激しく、ファッションの発信地にはほど遠く、今に至っては単なる雑居ビルです。おもしろい事に、近くには、東急・ルミネ・マルイ等が在り、「レミィ町田」近辺も若者で溢れているのですが、 一階エレベーター付近では、 6階生涯学習センターに向かう老人集団がたむろしており、ある種異様な光景です。

 その人の人格形成に最も影響を与えた土地を出身地と呼ぶそうで、それに従えば、私の出身地は兵庫県伊丹市(人口20万、その頃は「白雪」の小西酒造、三菱電機、陸自中部方面総監部の街)です(出生地は九州)。昔の呼称では摂津国、京都の南西(概ね現在の大阪府淀川以北)および大阪(市域と堺)から神戸市(兵庫県南東部)にかけての地域です。JR西日本の広告で「三都物語」というものがありましたが、阪急に乗れば、京都まで1時間、大阪(梅田)まで20分、神戸(三宮)まで30分、伊丹市と3都市の位置関係をご理解して頂いたでしょう。京・大阪に比べると神戸はやや格下に見えますが、今も基本的には変わらないと思いますが、関西の若い女性の理想は、「神戸に住み、大阪に働き、京都に遊ぶ」、神戸はあこがれの街なのです。関東で云えば横浜、どちらも幕末に開港、欧米諸国の新しい産物・思想・生活習慣が流入、外国人の居留地のあるエキゾチックな港町と云えますが、神戸は幕末・明治にパッと出たのではなく、遠く平安時代末期、平清盛が大輪田泊を築き、福原遷都(1180)を行った歴史の重みがあります。

 横浜線淵野辺に住む友人の奥さん(いわゆる「在」の人)は大の京都ファン、彼の地を観光旅行で訪れた際、「関西じゃないですね。何処から来られたのですか?」と聞かれ、とっさに「横浜から…」と応えてしまったそうです。横浜に住んでいる訳ではなく、単に横浜線沿線に住んでいるに過ぎないのに…、「Yokohama」には大きな魅力・求心力があります。幕末(1853-18横浜開港68)、横浜が開港され、これによって生糸が輸出品の花形になり、養蚕規模が拡大、桑の植え付け面積が拡大、開港以前の主要穀物であるは麦・栗・稗の収穫量が激減します。現在のJR町田駅近辺、原町田村が活況を呈し始めたのもこの時期で、明治になって、八王子から横浜に向けて鉄道が敷設されたのも、沿線で採取された生糸の横浜への輸送がその目的であり、これが現在のJR横浜線の始まりでした。

 平安後期、関東では、新田・牧場の開墾・開発が隆盛、アメリカ開拓期の牧場主のような彼等は「一所懸命」という単純明快な論理は「名こそ惜しけれ」という、卑怯な振舞いを蔑む精神を表裏一体して鎌倉武士の真髄であり、その後の日本人の原理・原則、「理念」にもなって行きます。清和天皇の皇子に「源」の姓を与えて臣籍降下させたのが源氏の始まり、桓武天皇の孫の一部が「平」の姓を与えられて臣籍降下させた平氏が早い時期に関東へ進出、後に武蔵国では後に秩父七平氏が周辺の豪族を従え、その一人が小山田荘を支配する小山田有重となります。平氏は次第に西に逃れ、平正盛の伊勢平氏は河内源氏を抑え、忠盛・清盛の平家の全盛時代となります。遅れて関東に進出した源氏(河内源氏)は「前九年・後三年の役(1051-1062)」に勝利、 源義家(八幡太郎義家)は関東の豪族を掌握します。 「平治の乱(1160)」に破れた義朝の次男、頼朝は捕虜となり、伊豆韮山に流罪、関東の武士団は頼朝を担ぎ上げて、都より遠く、相模国鎌倉に幕府を開きました(1192)。

小山田荘鳥瞰図_2 小山田有重が開いた小山田荘、彼は馬牧の別当だったのですが、この地は万葉の時代から「多摩の横山」 と呼ばれ、 名高い丘陵地帯でした。早くから、牛の舌状の「谷戸」がいくつも入り組み、清水が湧水する土地が水田として最も貴重な存在でした(田方、たかた)。小山田荘の南側(現在の町田街道)及び境川を隔てて相模国淵野辺村は水田が少なく、上述の通り、幕末以前は長きに渡り麦・栗・稗を主要穀物としていた(岡方、おかがた)。おしなべて、平安以来、米を産する豊かな小山田地域(田方、たかた)と米を産しない相対的に貧しい境川両岸地域(岡方、おかがた)という図式が長く続き、幕末、横浜開港で生糸が最大輸出品となり、横浜→原町田→八王子(今の町田街道沿いか?)は一挙に桑畑と化しました。原町田村は現在のJR横浜線・小田急線両町田駅近辺にて、幕末横浜開港以降、生糸を横浜へ搬送する中継地として急激に発展しました。それまでは、相模国矢倉から上野国へ至る往還があり、境川を木曽辺りで武蔵国に入り、小野路村で馬次し、横山そして多摩川を越えて、武蔵国府である府中に向かったもので、江戸期においては高札所が在り、明治初頭には郵便局が設置されるなど、小野路村が小山田荘を含むこの辺一帯の中心地でした。それまで見向きもされなかった岡方(おかがた)地帯が、横浜開港を機に、一大生糸生産地に変貌、原町田村はその集積・中継地として急激に繁栄ました。



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August 09, 2018

懲りもせず、『茅ヶ崎物語』

 歌番組「夜のヒットスタジオ」で観た、聞いたサザン・オール・スターズの『勝手にシンドバッド』は強烈でした。それは1978年(昭和53年)、私は会社に入って7年が過ぎ、一方では、The Eaglesが『Hotel California(1976)』を出して2年が過ぎ、彼等の最高傑作故であるが故に、この曲を越える曲を作り出すことが出来ず、徐々に陰りが濃くなって行く時期と重なります。それまでの七・五調のとは全く異なる日本語(?)がロック、ロックン・ロールのメロディーに乗って歌われるのは革命的でした。以来、今日に至るまで、彼等が日本の音楽シーンを牽引してきたのは凄い事です。

稲村ジェーンポスター 学生の雰囲気は既にないが、相変わらず目立ちたがり屋の桑田は1990年、映画:『稲村ジェーン』を監督、世に出します。格好良い「ミゼットにサーフボード」のポスターにだまされて見る羽目になったのですが、 鎌倉の切通を通る「ミゼットにサーフボード」だけが印象に残る映画でした。あの夏いちばん静かな海北野たけしが、見かねて…、映画『あの夏、いちばん静かな海(1991)』という傑作を作ったというのは有名な話ですが、久しぶりにYoutubeで観てみようとしたのですが、『稲村ジェーン』の痕跡は意図的に(?)消去されているようです。その価値はあるとは思いませんが、後学のためにレンタルビデオでご覧になることをお奨めします。

茅ヶ崎物語ポスター 洋画・邦画を問わずBSで放映される映画を録画、これを時間がある時に観ることを習慣にしていますが、引っかかったのが『茅ヶ崎物語~MY LITTLE HOMETOWN~(2017)』でした。桑田の中学校時代の同窓生で、サザンの名付け親、洋楽編成、洋楽プロモーター宮治淳一が加山雄三始め多くのミュージシャンを生み出す茅ヶ崎の芸能・音楽誌を週筆中だそうです。一方では、おそらく桑田のファン、取って付けたように、アースダイバー、人類学者中沢新一が登場、ブラタモリよろしく、古代、茅ヶ崎は、「茅」は「ちから」、寒川神社まで海、平安末期まで茅ヶ崎は「大庭御厨」と呼ばれる荘園、これを開発したのが鎌倉権五郎景政、そして、アイコン「烏帽子岩」は凝灰質砂岩を主とする新第三紀の池子層から成ると云う。最後に永遠の若大将、加山雄三が登場。3人の大御所に導かれた形で登場するのが桑田の高校時代物語でした。

 鎌倉権五郎景政なる者は16才で八幡太郎源義家の「後三年の役(1083〜1087年)」に従軍、数々の武勲を立てるも、敵の矢を目に受けてしまいます。味方の一人が、彼の顔に足をかけてこの矢を抜こうとします。景政は伏しながら刀を抜いて味方を突かんとします。味方は驚いて、「これはいかに、なにをする。」景政は応えて「弓矢にあたって死するはつわものの望むところ。しかし、生きながら足にて面を踏まれる事はない。汝をかたきとしてここで死なん」、と。味方は膝をかがめて顔を押さえて矢を抜いた。多くの人々はこれを聞いて、景政の高名はいよいよ並びないものとなった。彼は「大庭御厨」を開拓するなど、「一所懸命」、「名こそ惜しけれ」の日本歴史上に勃興する武士の典型でした。

 「烏帽子」と云えば、景政から87年後の1174年、京都鞍馬をこっそり抜け出した牛若丸は、奥州の金売り吉次を同伴して奥州平泉に向かう途中、近江国「鏡の宿」に入ります。その夜、稚児姿で見つかりやすいのを避けるために元服することを決意します。地元の烏帽子屋五郎大夫(ごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子を作らせ、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし元結(もとゆい)の侍姿になり元服、九郎義経を名乗ったと伝えられています。アースダイバー中沢新一の云う江ノ島の弁財天は琵琶の奏者の講釈よりは、『平家物語』を詠ずる琵琶法師の方がよっぽど説得力があるのではないでしょうか。

 明治以降、東京近郊の海水浴場として整備され、茅ヶ崎を含めた、いわゆる鎌倉を中心とする「湘南」は富裕層によって別荘が建てられたことに由来します。富裕層の流入はそのパトロンとして芸術・文化を興隆させる集積地となります。戦後になると、石原慎太郎の『太陽の季節』、『狂った果実』に描かれた『太陽族』は映画化され「湘南」文化の大衆化が始まりました。石原慎太郎の『太陽族』はその弟裕次郎主演で映画化。それに続く加山雄三はエレキ、フォークブームにも多彩な才能を発揮、これが1978年の歌番組:『夜のヒットスタジオ』で聞いた『勝手にシンドバッド』に繋がります。理屈は横に置いて、お金持ちの「不良息子」→同じくぼんぼんの「好青年」→どこにも居そうな「音楽馬鹿息子」、根底には「輝く太陽と青い海」という「湘南」大衆文化としての『湘南サウンド』の行き着いたところが桑田佳祐ではダメなのでしょうか。

 烏帽子岩を背に、桑田佳祐とサザン・オールス・ターズが歌う、バレット・ストロング(1959 あるいはビートルズ)の『Money』そしてカール・パーキンス(1956 あるいはエルビス)の『Blue Suede Shoes』は圧巻。宮治淳一の語り、アースダイバー中沢新一、二人の講釈をボツにして、烏帽子岩の背したパーフォーマンスだけを桑田佳祐とサザン・オール・スターズのミュージック・ビデオとして発表すれば、昔の『稲村ジェーン』を帳消しにして桑田佳祐の面目躍如たるものになったはずです。サブタイトル〜MY LITTLE HOMETOWN〜とは桑田が洋楽の一部を拝借したものか…、はたまた映画『スタンド・バイミイ』の舞台を狙ったのか…、実際の茅ヶ崎市の人口、24万人からすれば、アホらしくなってしまうのは私だけでないでしょう。

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July 09, 2018

摂津国多田庄

 半年ぶりに出る都内、人の多さに酔ってしまいそうな東京駅近く、高校時代の同窓生と久しぶりに会うことが出来ました。当時は兵庫県伊丹市の南部に住んでおり、市の北辺に在る高校まで自転車で一時間弱をかけて通学していました。当時、まだ人口が少なく、高校の設置されていない川西市(及び宝塚市)からの通学生も多く、その友人も川西市から通う一人でした。

 川西市は文字通り猪名川の西、 大阪湾の河口から順に尼崎市→伊丹市→ 川西市(兵庫県)、猪名川の東は大阪市→豊中市→池田市(大阪府)となっており、 江戸時代までの行政区「摂津国」は、この猪名川を境に、東を大阪府、西を兵庫県という二つの行政区に分割したのは、摂津国の強大さを明治政府が恐れたからだという説があります。因みに、高校1年の時「セッタン模試」という学力テストの数学で惨憺たる点数を取り、理科系を断念、文化系志望に変えた苦い経験がありますが、この「セッタン」とは摂津・丹波地方、現在の行政区「兵庫県」を意味する言葉でした。

多田神社  清和天皇(850 -881)の孫が臣籍降下、特に経基(つねもと)王(源経基)の子孫が繁栄しました。源経基の子、源満仲(みつなか 912 - 997)は摂津国多田の地(兵庫県川西市)に本拠を構える武士団を形成、「多田源氏」と呼ばれます。伝説では、満仲が住吉大社の神託に従い、 三つ矢羽根の矢を放ち、矢の落ちた多田に居城を建て、見つけた郎党に、「満仲の矢(満矢)」にちなみ、「三ツ矢」の姓を与え、重臣に取り立てたといいます。平野温泉、平野鉱泉は三ツ矢一族の領地でしたが、明治政府は、来訪外国要人に良質三ツ矢サイダーの飲料水を提供するために全国的な水質検査を行い、炭酸ガスを多く含む「理想的な鉱泉」と認定され、炭酸飲料水の工場が建設されました。 後に民間に払い下げられ、「三ツ矢」の伝説は炭酸飲料のブランド「三ツ矢サイダー」となったそうです。

清和源氏_紋 満仲の子である長男:頼光(よりみつ 948 -1021)は多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれ、次男:頼親(よりちか 966 - 1057)は「大和源氏」の祖、三男:頼信(よりのぶ 968 - 1048)は「河内源氏」の祖となり、父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大します。特に、河内源氏の頼信は「平忠常の乱」を鎮定して坂東に橋頭堡を築き、その子の源頼義(よりよし 988 - 1075)、頼義の子の義家(よしいえ 1039 - 1106)の時代に、 「前九年(1051 - 1062)・後三年の役(1083 - 1087)」で坂東武士を掌握し、義家は「八幡太郎義家」と呼ばれ、後に頼朝の代に「武家の棟梁」として鎌倉幕府を開くことになります。義家の時代に絶頂期を迎えた河内源氏でしたが、力を付けすぎた義家を嫌って、院政勢力側は平忠盛(伊勢平氏)を重用、忠盛の長男:清盛は「保元の乱(1156)」、続く「平治の乱(1159)」に勝利して源氏を一掃、後に武家で始めて太政大臣に就任します。

 「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほどに平氏一門は隆盛を極めました。源平の力の均衡を維持しようとする院政勢力側は、今度は、平氏一門・清盛と対立を深めていきます。そんな中、京都東山鹿ケ谷で起こったのが「鹿ケ谷の陰謀(1177)」事件で、その陰謀に参加していた多田行綱(ただゆきつな ?年 - ?年 多田→摂津源氏)の密告により露見、陰謀に参加した一味を死罪・流罪とし、清盛と後白河院との溝は徹底的となります。「鹿ケ谷の陰謀」とその主犯とされる俊寛は他の二人と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流されました。多少の陰りが見えてきたにせよ平家の全盛、密告した行綱は落ち目な源氏、「平家物語」は良いようには描いていません。

 義経の戦功とされる「一ノ谷の戦い」、「鵯越(ひよどりごえ)」ですが、本当は土地勘のあった行綱の手柄だったとの説があり、以降、義経と幸綱の関係が深まります。頼朝は、義経を許可なく官位を受けたとして追討、さらに、二人の関係に不安を感じて行綱も追放し、清和源氏の嫡流を自認した彼は、先祖、源満仲以来の本拠地である多田荘をも没収します。

 頼朝に追われ、都落ちした(1177)義経が西国に向けて船出しようとしたのが摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)で、京から下ってきた淀川から分かれて神崎川となり大阪湾に注ぎます。 冒頭の猪名川は、この神崎川河口を少し内陸に入った辺りで分かれ、北へ延びており、大物浦辺りの河口地域は京・山城国・大和国・摂津国を結ぶ一大物流拠点だったのでしょう。 時代は下って、源氏の嫡流を自称する家康は、この大物に隣接する佃島(大阪市西淀川区)の漁師が牽引する船に乗って猪名川を遡上、上流にある清和源氏発祥の地、多田院に参拝します。家康は江戸に幕府を開くと、その労に報いて、彼らの江戸進出を許します。後に佃煮で有名になる江戸(東京)佃島の始まりでした。因みに、つまらないの意味で「下(くだ)らない」と云いますが、当時、うまいもの、おいしいものは京・大坂からの「下りモノ」でしたが、江戸発の例外「上りモノ」は浅草海苔とこの佃煮でした。180708_能勢電

 猪名川の渓谷に沿って、時には渓谷を跨いで走る「能勢電」に乗って、摂津国多田庄を再訪したいものです。

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June 13, 2018

伊豆韮山へ小旅行 その3 江川英龍邸

江川邸玄関外
 新政府軍は三島で本道、足柄越え、韮山の三方に別れて関東に入り、小田原で合流する手はずになっています。本道、箱根関所を守備する小田原藩兵は終始、先鋒隊長:渡辺清左衛門(大村藩)の気迫に押されっぱなしで、既に恭順せよとの藩命があったにせよ、全くの拍子抜けする引き渡しでした。一方、韮山往還を南下した別働隊も、いち早く官軍の降伏恭順の意を伝えていた江川代官所を、何の問題もなく接収します。小田原藩大久保家と韮山代官江川家はどちらも関東を守る要、しかし、新しい時代への対応は大きく異なります。

江川英龍像(顔)_1 幕末近く、異国船が沿岸各地に出没した時代、江川英龍(担庵 1801-1855)は36代当主、代官として就任します。長崎で蘭学を、そして高島秋帆から砲術を学び、渡辺崋山や高野長英らと交流、日本の置かれた国際情勢を憂慮、沿岸警備、近代的兵制(農兵制度)、西洋砲術の訓練、お台場(砲台)の建設、そしてこの韮山反射炉の建設を幕府に献策、実行しました。教育にも力を注ぎ、佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎・伊東祐亨などが彼の門下で学びました。「蛮社の獄(1839)」で追求されることもなく、善政を敷き、領民からは「世直し江川大明神」と敬われていたそうです。剣は神道無念流の免許皆伝、詩作・書画・工芸品など多くの作品を遺し、「担庵」は雅号の由で、多才なだけでなく、一つ一つの才能・知識そして何よりもその実行力が人並みではなかったのでしょう。彼が自惚れぬように、母親が「忍」をきつく強制したそうです。民政と海防に尽力した彼は、尊皇攘夷から尊皇倒幕に世の中の潮目が変わる時代が到来する前、1855年、あまりの激務に体調を崩し没します。どこか薩摩の島津 斉彬(1809-1858)と似ています。

 英龍の献策した農兵制度(1839)は、「兵農分離」という幕府の根本政策に抵触する訳で、身分社会の否定にもつながり、幕府は当初これを却下します。 次第に外国船の来訪が頻繁となり、幕府の鎖国政策が次第に手詰まりとなっていきます。英龍の五男、38代目当主、代官江川英武(1853-1933))の代、1863年、韮山代官領に限り農兵の設置が認められ、その後、韮山代官領以外の幕府領や諸藩にも農兵制度が広がりました。町田の韮山代官支配地、木曽・根岸・山崎に「木曽農兵隊」が作られたのは1865年のことでした。

 既に江戸城の無血開城がなり、 慶喜は上野寛永寺に謹慎します。 幕府降伏を潔しとしない、人見勝太郎・伊庭八郎率いる遊撃隊と上総請西藩の藩主林忠崇率いる脱走藩兵たちは相模真鶴に逆上陸、譜代の大藩:小田原藩十一万石に協力を求めます。小田原藩内は佐幕・勤皇派に別れ、藩主大久保忠礼も腰がふらついて、上野彰義隊決起とそのあっけない敗北の報に振り舞わされ、藩論は二転三転どころか四転。右往左往、混乱の極みは箱根関所明け渡しに始まります。「堂々たる十一万石中また一人の男児なきか」とは小田原城を去る伊庭八郎の言。

 韮山代官、 英龍の諸施策・江川塾の運営・幕府との交渉など、 英龍をよく理解し補佐したのが手代柏木忠俊でした。忠崇と遊撃隊一行は韮山代官役所を訪れて同盟を申し入れます。英龍の五男、38代目当主、代官江川英武(1853-1933)は当時16歳、既に新政府の出頭命令を受けて京に在り、不在。留守を預かる手代柏木総蔵が冷静に対応、「当主江川太郎左衛門(秀武)は未だ少年にして、太政官より召され京都に在り、不在中なり。農兵、銃器等、先代太郎左衛門没後多くの星霜を経た今日、ほとんどその痕跡なし」(「人美寧履歴書」)と同盟を断り、彼等を落胆させますが、他方では、軍資金1千両を提供、彼等を饗応して韮山を穏便に退去させます。一方では朝廷側に恭順して、佐幕中の佐幕のはずなのですが、手代柏木忠俊は江川家を明治の世にも存続させることに成功します。
江川亭玄関邸内部

 江川邸の玄関、NHK大河ドラマ『篤姫』、『西郷どん』で島津久光邸の場面に使われたそうです。

※参考文献:『脱藩大名の戊辰戦争
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June 04, 2018

伊豆韮山へ小旅行 その2 韮山反射炉

 あくまで個人的な感想ですが、市名が「伊豆の国市」とは、もう少し名前の付け方があったのではないかと首をひねってしまいます。現に、2005年、伊豆長岡町・韮山町・大仁町の3つの町が合併、新市が誕生するのですが。南隣の「伊豆市」にその名前を先に取られてしまい、新市名は一般公募によって募集されることになりました。協議会による投票では「伊豆北条市」がトップでしたが過半数に及ばず、「伊豆の国市」との決選投票となり、 「伊豆の国市」が逆転勝ちとなったそうです。頼朝流刑・旗揚げ、鎌倉幕府執権北条、戦国小田原後北条5代、徳川幕府韮山代官という歴史を考えれば当然「伊豆北条市」のはず、もしこの名前が採用されていたのであれば、もっと早い時期に訪れていたかも知れません。

 伊豆長岡駅に到着、駅前発車の名所巡りのバスは1時間後、観光案内所に入り情報収集です。レンタサイクルが面白そうとも思ったのですが、借りた場所に返却しなければならず、そもそもレンタサイクルの係員が居ません。季節は初夏…と云うのかどうかも知りませんが、「伊豆の国」のイメージ通り日差しもまだ穏やか、道案内に沿って踏み切りを渡り農協の横を歩きます。

 五畿七道の時代、伊豆は都より遠く、辺境、流刑の地でした。平治の乱(1159)に敗れた義朝父子と家来八騎は京を脱出、源氏の本拠地、東国(関東)へ逃げようとするのですが、一行にはぐれた頼朝(13歳)は平氏側に捕まり、死一等を減じられてこの地伊豆韮山に流されます。1180年、頼朝が挙兵、伊豆韮山の豪族、北条時政は、娘北条政子が頼朝の妻となったことから頼朝の挙兵・鎌倉幕府の創立(1192)に尽力、頼朝が征夷大将軍に任じられると、その有力御家人となります。頼朝もその可能性大なのですが、続く頼家、実朝を暗殺して執権政治を確立、時政嫡流は得宗家と呼ばれ、一門で執権、六波羅探題などの要職を独占します。

 二度の元寇を遠因に、後醍醐天皇の令旨(1333)に足利尊氏、新田義貞等が呼応、 結果、  鎌倉幕府は倒れ、北条氏(得宗)は滅亡します(1333)。  長期に渡る南北朝内乱(1336-1392)で、守護はその権限を拡大し、守護大名に成長、足利尊氏が開いた室町幕府(1336-1572)は末期には山城一国のみを支配するだけの守護大名のごとき様相を呈するようになります。

 早雲(伊勢新九郎盛時)は備中(岡山県)荏原荘で生まれ(1461-1519)、後に9代将軍足利義尚に仕え、駿河に下り、興国寺城主となり(1487)、次は11代将軍足利義澄の命で伊豆堀越公方足利政知の子茶々丸を滅ぼし(「伊豆討入り(1493)」)、これが戦国時代の幕開けとなったとされています。   伊豆韮山を拠点に伊豆を平定、後に相模一国を従え、嫡男氏綱(1487-1541)の時、小田原城に本拠を移し、かつて鎌倉幕府を支配した執権北条氏の名跡を継承して「北条」を名乗り、家紋も執権北条の「三つ鱗」(正三角形)に似た「北条鱗」(二等辺三角形)としました。「四公六民」を実施して善政を敷き、商工業・海運を振興して、関東一円を支配しました。小田原城の総構えは9kmにも及ぶ空堀と土塁で城下町全体を囲む長大なもので、上水道も備わっていました。1590年、秀吉に依る小田原攻めは3ヶ月あまりに及びますがついに開城、5代に及んだ後北条氏は滅亡します。
 
 秀吉に警戒された家康は関東に移封され、関ヶ原で勝利し(1600)、江戸に開幕した家康は総構えの江戸城を構築、加えて海岸を埋め立てた江戸に飲料水を確保する目的で上水道網を建設するなど、後北条の小田原を模して江戸の街を建設します。
韮山反射炉_2
 そんな事を考えながら、…ウソです…、案内に沿って歩いて行くと、背にした山が韮山なのでしょうが、世界遺産、韮山反射炉に辿り着きます。江川家36第当主江川太郎左衛門英龍が幕府に建言、建設されたものです。   江川家は多田源氏の流れをくみ、保元の乱(1156)を避けて韮山に移住したと伝えられ、この地に流罪となった頼朝の挙兵(1180)に応じて参戦したと云われる。  その後、頼朝・北条の鎌倉幕府、 室町時代には伊豆の豪族としての地盤を固め、苅野川の支流の名に因んで、姓を江川と改めます。早雲(伊勢新九郎盛時)の「伊豆討入り(1493)」にあたり、自分の土地を提供して、韮山城を築城させ、その後5代にわたって後北条の家臣となります。   家康は関東に入るに際して、後北条小田原の市街地建設の技術だけでなく、後北条・武田の遺臣を引き継いで関東支配・経営にあたります。

 江川家江川英龍もその一つで、 伊豆が幕府の天領(直轄地)となり、以降江戸時代の全期間を通じて代々世襲の代官 (幕臣)を務め 、 江川太郎左衛門を名乗りました。途切れることなく、代々の最高権力者に仕えたのはそれだけ民政・支配能力が高かったのでしょう。伊豆・駿河だけでなく、文字通り箱根の関を越えて遠く関東を、相模・武蔵(多摩川以西)を幕府代官として支配したのは驚くべき事です。

 ざっと関東の歴史を振り返ると、面白いことに気がつきます。関東の豪族が結集して京から追放された頼朝を担ぎ上げて鎌倉幕府という半独立国家を関東に作るのですが、源頼朝は京の貴種、簒奪した北条は伊豆韮山の人、戦国時代の後北条は備中(岡山)・京・駿河を経て伊豆韮山、後に小田原にやって来た人、家康も三河出身で、旧武田・旧後北条の遺臣を引き連れて関東を経営・支配します。旧武田の遺臣と云えば、甲州街道・八王子・千人同心を作った大久保長安、代々世襲の韮山代官、江川太郎左衛門は旧後北条の遺臣でした。   関東の歴史を見ると、関東の豪族は数十や数百の単位を結集する指導者は存在するが、それ以上数千や数万単位になると、全て関東以外の出身者が指導者になります。歴史を見る限り、残念ながら、関東からは社会を動かすような指導者は輩出されていません。

 青空に向かって立つ反射炉、日本の産業革命はここに始まりました。

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April 27, 2018

明治150年 絶対的存在

 始めてまちだ市民大学を受講することになりました。「町田の歴史」講座は昔からありますが、今年は「明治150年」、〜町田にこだわって「明治維新を」考える〜のテーマが面白そうです。

明治150年ロゴ 諸説ありますが、明治維新とはペリー来航による開国(1853)から大政奉還(1867)、王政復古(1868)、戊辰戦争(1868-1869)、廃藩置県(1871)などを経て西南戦争(1877)までを言うことが多い。因みに「幕末」とは開国(1853)から大政奉還(1867)までの14年間という短い期間です。今年、政府が旗を振る「明治150年」も、各自治体によってそのロゴマーク意匠が微妙に異なります。新政府を主導した長>薩>肥>土の順に日の丸が小さくなり、水戸は日の丸ではなく葵のご紋、反政府側の会津二本松は「戊申150年」、神戸横浜は「開港・開国150年」と全く政治色はなし…と、当時の立場、いや現在に至っても、どこか釈然としない思いが込められているようです。 因みついでに、私の住む町田市は当時幕府の天領で新選組の近藤勇・土方歳三とも縁が深く、会津・二本松まではいかなくても、佐幕の信条かと思いきや、政府(=長)と全く同じ旗を掲げています。

 中国からもたらされた朱子学は江戸時代、林羅山によって武家政治の基本理念として再構築され、徳川幕府の正当学問となります。朱子学に基づいて編纂された『大日本史(1657開始〜1906完成)』は尊王論、これを水戸藩の学問:『水戸学』として発展させます。幕末、その『水戸学』が一大「尊皇攘夷」思想となりますが、徳川斉昭はその思想の具現者として徳川家康の業績を賞賛したように、「尊皇攘夷」思想と徳川幕藩体制は何ら矛盾しません。「尊皇攘夷」は日本の権力者がごく当たり前に持っていた思想と言えます。源頼朝は天皇から「征夷大将軍」という官位を得て、鎌倉に開幕した(1192)ことに始まり、約7百年間武家政治が続きました。 天皇は、政権から遠ざけられていますが、その時々の政権にその正当性を与える最高権威者でした。徳川家康も天皇より「征夷大将軍」の官位を得てその統治に正当性を獲得しました。

 権威者が権力者に「正当性」を与え、見返りに、その「存在」を認める、あるいは「保護」を受ける。ローマ帝国はゲルマン人の侵入により崩壊(467年)、これを機に中世に入りますが、ヨーロッパ各地に興ったゲルマン諸王国は、言ってみれば、侵入してきた蛮族、より高度な文明を持つ先住民族(旧ローマ帝国市民)を支配・統治して行かなければならず、そこで利用したのがキリスト教(ローマ教皇)でした。 ゲルマン人王は自らキリスト教に改宗、ゲルマン人王は「神の代理人」としてのローマ教皇の権威を認め、 その権威に基づき、ゲルマン王の支配・統治に正当性を与え、その見返りに、ローマ教皇は経済的・軍事的な保護を得、ヨーロッパ全土にキリスト教を拡大します。同時に、ゲルマン人王自らがキリスト教徒となったことで、イエス・キリスト(絶対神)の下では王も人民もタダの人に過ぎない、「神の下では皆平等」という考えが広く普及しました。
幕末の武士
 天皇に任命された征夷大将軍はこの国の実際の統治を行う権限が与えられていますが…、 時代は幕末、幕府に従ってこそ真の勤皇(天皇に忠を尽くすこと)であるとする<佐幕派>、 これに対して、もはや統治・実際の政治能力のない幕府は一刻も早く倒すべきであるとする<勤皇・倒幕派>、これが幕末の様相でした。 両者は共に「勤皇」。では「勤皇」が過激化して「倒幕」に変わった理由は何か?天皇が絶対君主であり、その座は不可侵であることから、「天皇の前では、臣下は全て平等」、だから将軍(幕府)が天皇の意志に背く事があれば討ってよい、討つべきである。「一君万民論」は討幕派の志士により広く支持されました。

  この150年、「明治維新」の理解は時代によって変遷してきました。明治新政府は「王政復古」を自らの正統性の拠り所とし、啓蒙思想家は維新の開明性・進歩性を強調、民権家は維新を自由への第一歩、民権運動を「第二の維新」と呼び、日清戦争(1894-1895)の勝利を「第二の維新」、維新の「果実」と呼び、神格化・絶対化された天皇中心とする「伝統」と欧米文化を吸収してきた「文明」性を主張、 大正デモクラシーの時代(1910-1920)、明治維新をブルジョア革命の一種とみなし、護憲運動を「第二の維新」ととらえ、その反動としての皇国史観、絶対化された天皇への回帰、 「大東亜共栄圏」思想に至り、そして敗戦(1945)。「天皇人間宣言」があり、戦後の復興を経て、政府による「明治100年」式典(1968)と司馬遼太郎「坂の上の雲」連載開始、「自由民権100年」(1981)、日本の「近代とは何か」が問われ、そして現代、「草の根」から見た「維新とは何だったの」かが問われています。  
 
…が、不思議なことに、体制・反体制、与党・野党、国家・市民、どの時代、どの視点から見ても、天皇という「絶対的な存在」がついてまわります。西欧における「神の下では皆平等」は西欧民主主義の根本起源となったと同じく、幕末の 「一君万民論」(=「天皇の前では、臣下は全て平等」)が日本における近代民主主義確立に不可欠な「平等」意識を発生します。個人的には、積極的に認めたくはないですが…、天皇という「絶対的な存在」が日本における近代民主主義確立には不可欠でした。

※参考資料:
石居人也 講座『明治維新とは何だったのか』

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April 01, 2018

塙 保己一(はなわ ほきいち)

 幕府は、極端な攘夷論者だった孝明天皇を廃位する方法を密かに和学講談所の塙 忠宝に調査させている、という噂が天下の過激浪士の間に流布していた。根も葉もない噂を根拠に、(塙を斬れば、わしもいっぱしの男になろうか)、と二人はテロを実行した。彼は飛び出し、「奸賊!」と突進した。「塙だ。何の恨みがある」と叫んだ。一人はし損じたが、剣の心得のあるもう一人が突き殺し、用意しておいた天誅の意の札と共に首を土塀に晒し、二人は闇の中を転げるようにして逃げた。(司馬遼太郎著『死んでも死なぬ』より抜粋)
google logo塙 保己一
 暗殺された塙 忠宝(はなわ ただとみ 1808 - 1863)の父親が塙 保己一(はなわ ほきいち 1746 - 1821)であり幕府の和学講談所を開設した当人でした。塙 保己一は7歳で失明、後に戸に出て、男性盲人の自治・相互扶助団体である当道座に入門して按摩・鍼・音曲などの修業を始めたが、不器用でいずれもモノにならず、この道で生きていくことに絶望して自殺を謀ったこともあるといいます。彼の学問への思いを告げられた、雨富検校は彼に様々な分野を系統立ててさせ学問させます。盲目の彼は人に書を読んでもらい、それを暗記して学問を進めて行くのです。 当道座の官位は検校(けんぎょう)・別当・勾当・座頭の4官の他、さらにその中に73の階級があると云われますが、様々な人達の援助もあって、彼は最高位、検校の地位に上り詰め、自らの学問の集大成として『群書類従』の出版を決意します。1793年、幕府に願い出て和学講談所を開設、幕府・諸大名・寺社・公家などの協力を得て、古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、 計1273種を収集・編纂、1793〜1819年に木版で刊行されました。  日本の歴史・文化・芸能・芸術を知るための基本的文献であり、彼の偉業がなくして歴史・文学の学術研究はあり得ないと云われています。

Helen_keller_and_alexander_graham_bell ヘレン・ケラー(Helen Adams Keller、1880 - 1968)は裕福な家庭に生まれましたが、1882年、1歳半の時にしょうこう熱を患い、一命は取り留めたものの、聴力、視力、言葉を失い、話すことさえできなくなり、しつけを受ける状態ではありませんでした。1887年、彼女が6歳の時、両親はアレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell 1847 - 1922)を訪問、 その助言を受けます。彼は世界初の実用的電話の発明で知られていますが、一方では彼の父親、アレクサンダー・メルヴィル・ベル(Alexander Melville Bell 1819 - 1905)が発明した「視話法」(発音の際の口の開き方を図で示し、発音を習得させる方法)を継承・発展させ、 当時最新の言語障害治療・聾唖者教育をしていました。相談を受けたベルはパーキンス盲学校を紹介し、卒業生アン・サリヴァン(Anne Sullivan 1866 - 1936)がヘレンの家庭教師をすることになりました。その後50年間、『奇跡の人』アンは良き教師・良き友人としてヘレンを支え、ヘレンはそれに応えて見事に三重苦を克服、障害者の福祉に大きく貢献しました。

 ヘレン・ケラーは、幼少時、盲目の塙保己一を手本に勉強したと云います。彼女の両親の相談を受けたベルは二人に塙保己一のことを語って聴かせたのです。ベルは以前、「視話法」を学んでいた日本人留学生、伊沢 修二(1851 - 1917 信州高遠藩出身)から詳しく聞いた塙保己一の話が深く印象残っていたのでしょう。伊沢は帰国して後、文部高官・教育者となり音楽教育や吃音・盲唖教育に貢献することになります。

 塙 忠宝の後を継いだのが塙 忠韶(はなわ ただつぐ 1832 - 1918)、維新後、歴とした幕臣、「奸賊」の子でありながら、明治政府から召しだされ大学少助教に任ぜられ、文部小助教、租税寮十二等出仕、修史局御用掛を歴任します。何者がそのように優遇するのか…、当初、忠韶本人は不可解であったでしょう。

 狂気の幕末、塙 忠宝を殺した下手人の一人は、その直後にあっさり攘夷を捨て、後に初代内閣総理大臣となった伊藤博文。彼は1909年、ハルビン駅で朝鮮民族主義活動家、安重根に暗殺されます。もう一人は、山尾庸三(やまお ようぞう 1837 - 1917)、維新後は障害者教育に熱心に取り組み、1915年には日本聾唖協会の総裁となります。
 
 埼玉県人には失礼ですが…、 車で走ると、だだっ広いだけの、誠に殺風景な関東平野ですが、塙 保己一の看板が大きく見えます。このものすごい人は武州児玉郡保木野村に生まれました。

 ※参考資料:司馬遼太郎『新装版 幕末 (文春文庫)
 
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March 09, 2018

月代(さかやき)と日本刀

 江戸時代の浮世絵に見られる男性の丁髷(ちょんまげ)と月代(さかやき)は現代に生きる日本人が見ても極めて異様で、況んや外国人からすれば日本人独特の奇習でした。江戸時代の髷(まげ)を遡ると飛鳥・奈良時代の髻(もとどり)と呼ばれる総髪を束ね、その上に冠をかぶる、「冠下の髻(かんむりしたのもとどり)」に辿り着きます。これは、「身体髪膚之を父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり」と儒教を信仰する漢民族(中国)から輸入されたものです。

義経 源氏の御曹司、牛若丸は金売り吉次の手引きで鞍馬山を脱出してすぐ、近江国鏡の宿辺りで、稚児姿を探す平家方の追っ手を察知、急遽元服を決意します。 前髪を落とし髻を結び、その上に地元で作らせた源氏の左折れの烏帽子を載せて元服した(1174)とされるのですが、「前髪を落とした」とは、後に言う月代(さかやき)を剃ったということなのでしょうが、この孔子の言葉は何処へ行ってしまったのでしょう。 「冠下の髻」はいつ頃・なぜ変質してしまったのでしょうか?「冠下の髻」は成人男性を証明するものであり、冠を脱がせ髻を外すことは男性に対する最大の恥辱であり(『平家物語』「殿下の乗合の事」)、現代で言うならば公衆の面前でパンツを脱がすようなものでした。よって、飛鳥・奈良・平安に至るも、頼朝・義経を描いた肖像画には正装である衣冠束帯や狩衣・直衣姿しか見ることができず、冠・烏帽子の下がどうなっているのかは目に触れることは出来ません。

 月代(さかやき)は、一説では本来「逆い気(さかいき)」で、戦に面して「気が逆上る(頭に血が上る)」、兜をかぶって蒸れるのを防ぐために前・頭頂部を剃ったとものと云われ、武士の出現と無関係ではないように思われます。兜をかぶって蒸れるのは日本人だけでなく、中国始皇帝軍、ローマ軍の兵士や十字軍騎士でも同じだろうと思うのですが…。僧侶ではない者の頭頂部を剃る民族は、日本人を除くと、靺鞨・女真などツングース系民族に見られます。満州人(ツングース系諸民族の総称)は清を建国(1636〜1912)は明を滅ぼし(1644)、服従の証として漢人の男性に辮髪(べんぱつ)を強制、 19世紀には辮髪は完全に中国的な風習となった。東アジアにおいては、遊牧民族を起源に、これに征服された民族を含めて、明の衣冠制度を厳格に守る朝鮮を除いて、辮髪(べんぱつ)か髻(もとどり)+月代(さかやき)の習慣がありました。考えてみれば、辮髪は頭頂部の髪の毛を後ろにまとめて長く垂らし、髻(もとどり)は上に、髷(まげ)は前にまとて形を整えたもの、元結いを外せばほとんど同じになってしまいます。髻(もとどり)と月代(さかやき)の習慣は遊牧民族の辮髪が起源ではないでしょうか。

 馬上から敵を倒すには、突くよりも斬るほうが有効、加えて反りがあった方が振り回しやすく、斬りやすい。 797年、坂上田村麻呂を征夷大将軍に東北へ遠征、当初、直刀で戦うヤマト朝廷軍は蝦夷軍の反りのある刀剣(「蕨手刀(わらびてとう)」)に苦戦します。  これを機に騎馬戦に適した、湾曲のある、現代人にもなじみのある日本刀に発展して行ったとされています。平安時代になると、網野義彦著『東と西の語る日本の歴史』の云う「西の海と船、東の弓と馬」の通り、伊勢平氏は中国宗との貿易を始め、瀬戸内海航路を支配したが、一方の源氏は「前九年(1051-1062)・後三年の役(1083-1087)」で東国武士の支援を獲得して騎馬文化に深く浸透しました。西国、淀川水系の淀津(大山崎)・神崎・江口には遊女が居たと同じく、 東国、美濃(青墓宿)・三河・遠江・相模(足柄)には傀儡子の集団が存在しました。平安後期、大江匡房(まさふさ1041-1111)が著した『傀儡子記(くぐつき)』には、人形を操って生計を立てる芸人であり,天幕(テント)生活をしながら移動し、女は倡歌淫楽して媚を売る「遊女」のようなもの、 男は馬上で弓を引いて狩猟する、と書かれています。西国の「遊女」を見慣れた都人(みやこびと)大江匡房から見て傀儡子はさぞ奇異に映ったことでしょう。

 従来より、傀儡子は、インド北部に起源するジプシーと同根で( ちょっと奇想天外ですが、南方熊楠も触れています)、秦氏一族の一員として朝鮮半島経由で渡来したという説があるが、明らかに傀儡は渡来一族である。 沿海州にあったツングース系の渤海国(698- 926)の使節が日本に到着した時に蝦夷と呼ばれていた人々によって殺害された事件が発生したが、2百年にもわたり交流が続いた。1019年、沿海州の女真族の一派刀伊が北九州に来襲(「刀伊の入寇」)した当時、少なくとも「前九年(1051-1062)・後三年の役(1083-1087)」までは出羽・陸奥地方は蝦夷の住む異国・外国であり、朝廷中央政府の権力の及ばない辺境・異境でした。西は鹿児島「鬼界ヶ島(きかいがしま)」、東は津軽「外が浜」という日本国の概念が完成したのは源平の平安末期です。蝦夷と呼ばれた彼らは日本海の向こう側、沿海州経由でやって来た傀儡の民、遊牧民族を迎えて「馬上からの弓矢」に始まる騎馬戦を伝えたのではないでしょうか。全容が未だ不明の「十三湊の遺跡」(青森県五所川原市)があり、安倍氏から安東氏と繋がる(?)蝦夷(?)が築いた港湾施設は、当時の盛んな日本海貿易を物語っています。

後三年合戦絵巻
 「後三年の役(1083-1087)」で東国武士の支援を獲得した八幡太郎源義家から数えて2代目、源為義(1096-1150)は美濃国青墓宿(大垣市)の傀儡子の長者(大炊)の姉を妻とし4人の息子を設けるも、「保元の乱(1156)」に敗れ、嫡子義朝の命で息子共々処刑され、続く「平治の乱(1159)」では義朝は一転して敗将となり、東国へ逃れようと一時青墓宿に身を寄せ、尾張国野間にて御家人の裏切りで殺されました。東国を基盤とする源氏は青墓宿(大垣市)の傀儡子の長者(大炊)との関係の深さは注目に値します。髻(もとどり)と月代(さかやき)、日本刀の反り、袴(はかま)は遊牧・牧畜民族(nomad ノマド)由来の習慣で、日本海を北回りで渡来した傀儡子が、東北で蝦夷と呼ばれた彼らに騎馬で矢を射、刀剣を振るう技術を伝えた可能性は考えられます。 この騎馬技術・文化・習慣が東国武士に、そして傀儡子と源氏の深い関係に継承されたのかも知れません。

 しかし、惜しいかな…、この説には致命的な欠陥が存在します。遊牧・牧畜民族及び彼らに侵略された民族は「去勢」技術を有します。品種改良、もう一つは、雄の攻撃的な性質などを喪失させ、制御を容易にすることを目的としますが、日本にはこの「去勢」技術が入っていません。中国の「宦官」の制度が入って来なかったと同じような理由があるのかも知れません。制御の難しい馬に乗り、なお且つ馬上で弓を引き、刀を振るうとは武芸とは名人芸でした。日本には馬車がありませんでしたが、道路が発達していなかっただけでなく、馬車馬の制御が出来なかったのです。「日清戦争(1894-1895)」で勝利した日本軍が中国に駐留の際、同じく西欧の駐留軍から日本の軍馬の制御不能ぶりを馬鹿にされ、これを機に「去勢」技術が導入されたと言います。

 p.s. 「3.11」から7年、亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
 
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January 13, 2018

2018年、明治維新150年

西郷どん 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。2018年、平成30年が始まりましたが、今年が元号・和暦「平成最後の年」となります。最初から意図されたものか偶然なのかは分かりませんが、「平成最後の年」である今年は「明治維新150年」に当たり、これに因んだ多くの催し物が企画されており、NHK大河ドラマ『西郷どん』もその一つなのでしょう。1968年、山口県出身の総理大臣佐藤栄作の時に「明治維新100年」、三億円事件、東大紛争、参院選で石原晋太郎・青島幸男・横山ノックが当選、戦後の高度成長は2年後の「大阪万博 EXPO '70」を目指していよいよ加速、同じく1970年安保反対に向けて大学紛争・学生運動は一層激しさを増します。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の連載が始まったのもこの頃でした。

 私は戦後の「ベビーブーム」と云われた時代に生まれた、いわゆる「団塊の世代」の終わりに属します。中学時代の「東京オリンピック(1964)」はテレビでしか知りませんが、大学時代は関西に居たので「大阪万博(1970)」のアルバイトに熱中、大学紛争中で授業にはほとんど出ずに終わりました。敗戦という絶望の状態から這い上がって世界の高みを目指して来た自己の姿を、西洋列強の圧倒的な文明になすすべもなかった東アジアの小国日本が苦難を乗り越えてアジアの大国清国を破り、ついには世界の大国ロシアを破り、列強国入りを果たした明治人の物語『坂の上の雲』に重ね合わせます。この小説が一躍国民的ベストセラーになったのは、その文学的価値だけでなく、作品が時代の絶妙なタイミングで世に出されたことにもその理由がありました。

 坂の上の雲を目指して登って来た日本人が行き着いたのが1945年の「敗戦」でした。面白いことに、1868年明治改元から今年に至る150年の半分、75年、1945年の「敗戦」に当たります。正確には文字通りの「ミッドウェー海戦(1943)」ですが…、「敗戦」と云う破局・絶望はトラウマとして日本人の深奥に巣喰います。人それぞれに、その言葉が指し示す出来事は異なると思いますが、私にとっては、「バブル崩壊」と「冷戦終結」は第一の「第二の敗戦」、2008年の「リーマン・ショック」、2009年、民主党(鳩山由紀夫)政権が誕生、続く2011年菅直人政権の時に発生した「3.11東日本大震災、東電福島原発破壊」が第二の「第二の敗戦」でした。大災害は起こりうるものとして仕方がないが、その大災害に対処して国民をリードしていく術を知らない菅直人民主党政権に絶望、この民主党に一票を投じてしまった悔いが残ります。「3.11」を機に、人生に何か「あきらめ」のようなものを感じたのも事実です。

 今年、2018年、日本の近代を語る上でその原点となる、「明治維新」と「敗戦」。少なくとも前者は150年前の、すでに完全な歴史上の出来事です。関係者は生きているはずもなく、情緒や物語ではなく、「明治維新」を歴史的に検証してみることが重要です。「明治維新」を検証するれば、その後の歴史が如何にあの「敗戦」に繋がったのか明らかになるはずです。

 ヨーロッパ近代国民国家の基礎である民主主義は、キリスト教の、特にプロテスタントでは、神の前では王様も牧師も庶民も皆平等、ということに由来します。では、同じく近代国民国家を目指す明治日本政府は何に由来するのでしょうか?「神」の代わりに、「万世一系・神聖不可侵の天皇」を持ってきたのであり、「ご一新・維新」という革新性の反面に「王政復古」、英語のRestoration(復興・復古)が当てられ、天皇を頂点とした社会構築にあたり、国民の精神的支柱として「国家神道」を制定しました。

 革命にはしばしば「狂気」がつきまといます。水戸攘夷論の特徴は自己陶酔・誇大妄想・非論理性、その結果、水戸は内部抗争に明け暮れ自滅してしますが、これを受け継いだのが長州下級武士です。幕末には孝明天皇を担ぎ出して攘夷を声高に叫び、錦の御旗を振りかざして倒幕、戊申・西南の戦役に勝利、明治新政府の主導権を握ったのが長州閥であり、この長州閥、山口県出身者が、天皇神聖化・天皇主権の下、大正・昭和と日本の政治を動かし、長州閥軍部の自己陶酔・誇大妄想・非論理性、彼らの「狂気の沙汰」が日本を破滅に至らしめます。

  西郷どんは西南戦争で敗れた逆賊であり、幕府・会津藩と同じくは靖国神社に祀られていないそうですが、京都時代祭にはさすがに維新勤王隊列を歩きます。維新から150年、幕府・会津・新選組も時代祭の列に入ってもらえばいかが?ひとまずは「靖国問題」を横に置いて、安倍晋三総理大臣も山口県出身の長州閥、長年続いたわだかまりを解消できる立場の人であり、今年が絶好のチャンスのはずです。



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December 23, 2017

散歩の途中<<26>> 忠生(ただお)

 歩いて行くにはちょっと遠いので、自転車で忠生図書館に行ってきました。今まで、桜美林大学の図書館を利用していましたが、当然のことですが学術書が多く、最近はあまり利用していません。代わりに小説、娯楽書の多い忠生図書館に行くようになりました。貸し出し期限・冊数も桜美林ほどうるさくもなく、大いに利用しています。なかなか面白そうな場所で、近くには「かぶと塚公園」忠生小学校門松3があり、この「かぶと塚」の由来は、鎌倉攻撃に多摩川・横山を越えて南下する新田義貞軍に関係があるようです。今の時期、もう一つの見所は忠生小学校(1912年開校の忠生尋常高等小学校)です。かつての組合理事仲間の一人が父兄の人達と一緒に作った大きな門松が飾られています。

 平安後期、足柄峠(後の箱根)の坂の東側、坂東の地では新田・牧場の開墾・開発が隆盛、所領安堵を保障する棟梁に従い命を引き替えに戦場で働く、という「一所懸命」を信条とするの多摩(坂東)武士団に発展して行きます。彼らは頼朝を担ぎ上げて平家を倒し(1185)、その彼を征夷大将軍に鎌倉幕府を樹立(1185 or 1182)します。平家打倒の目標喪失で、頼朝への求心力を失った御家人を北条時政(伊豆)は、だまし討ち・暗殺で大量に粛正、執権職を北条得宗家で独占します。これは、棟梁の下では御家人は皆平等であるという考え方とは対立するものでした。鎌倉幕府の崩壊(1333)とともに1千3百人が自刃、それも北条氏一門のみで他の御家人はいなかったと云うのは極めて異様です。

 尊氏は京室町に幕府を開き(1336)、独立政権樹立を警戒して関東管領を置くも、関東一円には一足早く戦国の世が訪れます。上杉の支配が強まると小田原北条を迎え入れてその家臣団に入り、家康の関東入り(1590)するとまたこれに協力します。棟梁はあくまで仲間の代表でしかなく、棟梁の下では皆平等の意識が強く、棟梁は外部に依存し、仲間内から棟梁を出すことはしない。結局、多摩武士団は自ら大規模な組織作りができませんでした。

 家康は、信長・秀吉に滅ぼされた甲斐武田の遺臣、小田原北条の残党を厚く迎え入れ、大久保長安を始めとする旧武田の家臣に関東の支配を任し、一方、鎌倉・室町幕府・後北条氏とその時代の支配者に仕えた世襲代官、江川太郎左衛門(通称)に旧後北条の支配地、伊豆・相模・多摩を天領としてその経営を任せた。大久保長安は甲州街道及び八王子の街を建設、旧武田家家臣をして無禄ながら幕府公認の半農半士「千人同心」を組織して八王子周辺を開拓、江戸防衛の最前線とした。戦国の世が終わると、「千人同心」は日光東照宮の火の番が役目となり、江戸の旗本・御家人からは「芋侍」と軽蔑されるが、幕末には唯一の幕府直属の実戦部隊となります。

 江戸時代後期、商品経済・貨幣経済が発展、芝居や相撲の興行などの娯楽が盛んになり、もちろん賭博が盛んになります。これを生業とする博徒・無宿人が増加し、平和な時はさほど問題ないのですが、「天保の大飢饉(1833 - 39)」が発生、幕末に入ると開港の影響で物価が高騰、天然痘・コレラという未知の感染症が流行、社会は大混乱に陥ります。「攘夷」思想がうまれます。領地が複雑に入り組んだ関八州、特に上野国(群馬県)、天領である多摩地区は無宿者・博徒が逃げ込む絶好の場所でした。自衛のためか…、剣術が農民の間にも盛んになったのは全国で上野国と多摩地区だけという。国定忠治と新選組、上州と多摩、どちらも人々の気が荒く、喧嘩、武芸が盛んな風土です。一方では、豪農・名主などの上層農民と貧農などの下層農民の階層分化が進み、階層間の対立が激化、慶応年間には「世直し騒動」(武装蜂起)が激増します。

 江戸時代、百姓とは「百の姓を持つ庶民」、支配階級である武士以外の農民を含む被支配階級と云う意味でした。地方には藩があり藩主、その居城があり、藩士と呼ばれる武士が存在し、彼らは百姓が武士の格好をすることを許さなかった。髪型・服装・持ち物を見ればどんな身分かが判る身分社会でした。ところが、藩がなく、藩士もおらず、代官所の役人以外は武士のいない天領、多摩では武士の身分「千人同心株」さえも売買される有様、武士の真似事をしてもさしてとがめられることはなかった。勇は多摩郡上石原村(調布市)の裕福な農家、宮川久二郎の三男に生まれます(1834)。宮川」は「土方」と同じく隠し姓、武士の真似が昂じると、本当の武士になりたいと思うのは当然。ましてや、剣術が強ければなおさらのこと…。父久二郎の言「お前は武士になれ」で、近藤周助の養子となり、近藤勇、「天然理心流」の四代目宗家となります。近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎は「千人同心」の流れをくむ「天然理心流」近藤周助の門人でした。

 浪士の狼藉に頭を痛めていた幕府は、清河八郎の献策を入れて、江戸に居る浪士を集め、将軍家茂の攘夷決行の為上洛の際、その警護に当たらせること、及び尊皇攘夷の発露を目的に「浪士組」隊員を募集(1863)、「天然理心流」近藤勇達はこれに参加しました。彼は「天然理心流」の宗家、一門をを引き連れて、既に結婚して子供も在りながら、それらを多摩に置き去りにして…何故? とは、現代に生きる人間の偏見でしょうか…。

 池田屋で密会する尊攘派志士20数名に対し当初わずか近藤以下4名が急襲、後に土方隊が到着して逆転勝利、9名を殺害・4名を捕縛して新選組の名を一躍世に知らしめました(「池田屋事件(1864)」)。この襲撃は新選組の常套戦法(一人の敵には三人以上で当たる)を用意する余裕はなく、強烈な天領「徳川恩顧」の思いに突き動かされた行動であったと思われます。遅ればせながら応援にやって来た桑名・会津兵の前に土方歳三はまだ血の滴り落ちる白刃を持って立ちはだかり、一歩たりとも彼等を中に入れなかったと伝えられています。この勝利は新選組が独占する。他の者には指一本触れさせないという強い決意の表れだったのでしょう。その土方歳三が作ったとされる「局中法度」。「士道ニ背キ間敷事」とあり、違反者は「士道不覚悟」として「切腹」でした。彼の言う「士道」とは「武士道」とは異なるのか…、出自も育ちも本当の武士ではないという彼のコンプレックスがそうさせるのか…、武士としての品位に欠ける、後味の悪い思いをするのは私だけではないでしょう。極めつけは…、伊東甲子太郎が思想の違いから新選組を離脱しますが、彼は近藤の妾宅で酒に酔わされ、その帰途に隊士の数名により闇討ちされ、その遺体は路上に放置され、仲間を誘い出す囮として使われました(「油小路事件(1867)」)。在京の5年間での新選組の死者は約50名、その内倒幕志士との戦闘による死者数はわずか6名、ほとんどが「士道不覚悟」という理由にならない理由による新選組内部の粛清・暗殺でした。どこか…、約七百年前の北条得宗家と共通点があります。

 新選組のやりかたは「桜田門外の変(1860)」、「天狗党の乱(1864)」、はるか昔に遡って「赤穂事件(1701-1703)」に登場する武士の仕業とは極めて異質なものです。天領、多摩郡には支配する武士階級が存在せず、幕府=将軍の代官として豪農・名主などの上層農民は「公儀=将軍の御百姓(将軍家の農民)」という強い優越感を持っており、そこで生まれ育った彼らに組織された新選組は自ずと幕府=将軍に忠誠を尽くすべく奔走したのですが、そのやり方は武士には到底思いつかない陰険なもので、これも彼らの出身地、多摩郡の「世直し騒動」(武装蜂起)鎮圧、博徒・渡世人相手の治安維持、あるいは祭の若い衆同士の喧嘩のやり方、多摩の特殊性だったのかも知れません。

 「尊皇=勤王」の本質は、天皇が絶対君主でありその座は不可侵(臣下は絶対に天皇にはなれない)、逆に言えば、天皇の下では将軍も武士も百姓も同じ臣下、平等であると云うことです。ヨーロッパ近代民主主義は、ルター、カルビンに依る宗教改革、神=絶対神の下にはローマ教皇も神父も、大衆も、大衆の手助けをする牧師も皆、平等である、に始まるのと全く同じです。その意味で「尊皇=勤王」には普遍性があります。

 「湊川の戦(1336)」で新田義貞は自分の馬を射られ、彼の危急を見た小山田高家は自分の乗馬を義貞に与えて逃がし、身代わりになって討死します。御一新がなり、今は明治の世、1889年、かつての「公儀=将軍の御百姓」は神戸では高家が大事に祀られていることを知って大いに感激、かつての天領南多摩の地に新村を作る際に、その名を「忠臣の生まれた村」、「これからも忠義の者が生まれ出る」ことを祈って、「忠生(ただお)村」と名付けました。染みついた「徳川恩顧」、「公儀=将軍の御百姓」意識、御一新から20年やそこらでは変わらないでしょう。
※参考:英傑の日本史―新撰組・幕末編 (角川文庫)

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November 27, 2017

『昭和76年宇宙の旅』

2001 spoace odyssey 『2001年宇宙の旅』が公開されたのは1968年、昭和43年でした。原題は『2001:A Space Odyssey』、これをほとんど直訳したものですが、もし…、仮に…元号(和暦)表記するとすればどうなるのでしょう。当時からすれば<<昭和76年宇宙の旅>>、現在からすれば<<平成13年宇宙の旅>>、二つは同じ意味になるのでしょうかね。日本語タイトルを付けた人も決して西暦を和暦に替えるような無粋なことはやらなかったことでしょうが…。

 西暦には終わりはないが、和暦には終わりがあり、いつかは変更されます。和暦では、たかだか33年後の未来を表現できないだけでなく、「紀元前」の概念がなく、元年以前の過去を表現する事も出来ません。例えば、5000年、紀元前5000年と、西暦では未来も過去も単純明快。

 日本では、元号(和暦)は元号法によってその存在が定義されています。その使用に関しては基本的に各々の自由で、西暦・和暦、どちらを使ってもよいことになっていますが、運転免許証を始めとする役所関係の文書が、表記スペースに限りがある故か、和暦表示のみとなっており、勢い和暦が正しいものと思っている人が多いのではないでしょうか。

 平成の世も29年が過ぎ去り、間もなく平成30年がやって来ます。1989年、昭和64年が終わって平成がやって来た時、私は和暦を捨て、以来和暦を要求されない限り、全て西暦表記にしています。天皇の「生前退位」から、天皇の権威の一つである元号改定が派生し、世論調査では「1月1日」賛成が70 %、「4月1日」が16%だったにもかかわらず、政府内では改元の日程は「5月1日即位・改元」が有力視されているという。歴史的にもこの天皇の権威(「正朔を奉ずる」)は連綿として続いており、天皇の権威とは日本文化そのものという意見も多くあることは承知しているが、一方では西暦で物事を考える私のような「元号離れ」も急速に進んでいます。 

 天皇の権威に関する議論は識者の大先生方にお任せするとして、新元号が何になろうとよいのですが、役所の文書には、表記スペースの大小に拘わらず「西暦と和暦」の併用、出来れば「西暦」を主・「和暦」を従とすることを義務づけるべきと考えます。

 昔の役所の文書には長らく生年「明治・大正・昭和」の表示があって、私の場合は昭和を〇で囲む表記方法が見受けられましたが、新年号が発表されると、明治生まれの人はさすがに想定外として、「大正・昭和・平成・新元号」と4っの年号が並ぶのでしょうか…。

 ついでに、「2020年東京オリンピック」の開催年を元号(和暦)で言わない、言えないのは奇妙な話です。

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November 13, 2017

火薬を巡る世界史そして日本史

 平安末期、平清盛の時代(1118-81)、日本の東(北)の端は津軽半島東部の「外ヶ浜」、 西(南)の端は鬼界ヶ島(=薩摩硫黄島)でした。清盛政権の転覆を謀った(『鹿ヶ谷の陰謀(1177)』)ことを理由に俊寛以下3人はこのこの鬼界ヶ島に流されますが、この鬼界ヶ島は硫黄の産地、積み出し港として、清盛政権の財政的基板である日宋貿易、朝鮮半島・琉球を結ぶ交易ルートにおける最重要拠点の一つでした。摂津国福原で奥州産の金・銀を積み、博多を経由、鬼界ヶ島で硫黄を積んで 宋(寧波)へ,宋からは大量の宋銭・香料・陶磁器などを持って帰るという貿易ルートを実現、 輸入された大量の宋銭は、従来の国産の貨幣を駆逐、貨幣経済の革命的な発展をもたらします。清盛に依る政権奪取、引き継いだ頼朝が開いた鎌倉幕府に始まる700年に及ぶ武家の時代となります。
てつはう
 当時の文明国、中国の宋(960 - 1279)は異民族の圧迫を受けて南下します。唐の時代(618年〜907年)に発明された黒色火薬(硝石+木炭粉+硫黄)の実戦兵器への応用が急速に拡大しますが、女真族:金により、華北・東北地方の領土を失った南宋(1127 - 79)は、火薬の原料である硫黄の国内における産地を失い、日本にその供給を求めるようになった訳です。清盛が輸出した硫黄が中国で何に利用されるかを探った様子はありません。金そして南宋を滅ぼしたモンゴルは元を建て(1271 - 1361)、フビライの時、日本にもモンゴルへの服属を求めたが鎌倉幕府はこれを拒否したため、1274年(文永の役)・1281年(弘安の役)の二度、モンゴル(元)と高麗の連合軍を日本へ送るがいずれも失敗に終わります。モンゴル軍の「てつはう(炸裂弾)」は絵にも残されているように、大いに驚いた鎌倉武士でしたが、この最新兵器がどのようなものか、炸裂・爆発するメカニズムを解明しようという思いには至らなかったのは清盛の時代と同じです。全く興味を示さなかったのは、当時の中華文明国に比べその一周辺国に過ぎない日本の文明度が格段に低かったということです。

Battle of Sarhu  ヨーロッパへの火薬の伝来は、モンゴルのバトゥのヨーロッパ遠征(1236 - 1241)の時、あるいは十字軍遠征(1096 - 1291)の時代に、既に火薬が伝来していたイスラム軍との戦闘を通じてヨーロッパに知られたとも言われる。1252〜56年カラコルムでの活動していたフランシスコ会伝道師が見聞した火薬の知識を当時ヨーロッパの最高学府で学んでいたロジャー・ベーコン(1214 - 1294)に伝え、後にベーコンは火薬に関して書物に著し、そこには硝石についての記述があるそうです。 1333年に鎌倉幕府滅亡、その頃までにヨーロッパでは火薬が研究され、如何に硝石を人工的に作るかが研究されていたということです。1378年にはニュルンベルクにおいて初めて、糞尿などをかけて硝石を人工的に生産する施設が作られたが、効率も品質も悪く、増加する一方の火薬の需要を満たすには至りませんでした。

 一方の日本、文永・弘安の役という二度の痛い経験をしながら、これを原因に鎌倉幕府は滅亡するのですが(1333)、モンゴル軍が用いた「てつはう」のメカニズムを解明しようとはしていません。当時、ヨーロッパはルネッサンス前の、いわゆる中世の暗黒時代、同時代の日本はこと「火薬」に関してはヨーロッパに大きく遅れをとっていた事になります。火薬の発達の背景には戦争があるのは当然の話、火薬の実戦配備は中国宗時代の金・モンゴル等の対北方異民族戦、モンゴルのイスラム・ヨーロッパ遠征、これがヨーロッパに持ち込まれた14世紀からの500年にわたり、これらの地域では戦争の絶え間がなく火薬兵器が発達がしました。

 モンゴル元寇の「てつはう」から種子島「鉄砲」までの262年間、日本が鎌倉幕府滅亡→南北朝動乱→室町幕府の無力化→応仁の乱と戦乱が続いたのはヨーロッパ中世と同じ、ましてや戦争のプロ、武家の時代のはずですが、歴史上では、火薬兵器・硝石の研究開発がなされた事実がありません。2度の元寇でぎくしゃくあったにせよ日元貿易あり、足利室町幕府は朝貢という形を取ってでも日明貿易を行っており、朝鮮半島経由でも、何らかの形で火薬・硝石の情報が入って来ているはずです。例えば、中国では、唐・宗の時代から爆竹があったらしく、かなり早い段階で火薬は日本にも入っていたのではないかという疑問がわくのは当然です。

 262年間無関心であったものが、種子島を機に、それこそ爆発的に関心度を高め、重要度に目覚め、わずか60年の間にそれまでの空白を埋めるかのように、一気に、少なくとも量的には、関ヶ原で世界の頂点に達します。ところが、家康が江戸に徳川幕府を開き平和が訪れると、一挙に軍縮が急激に進み、火薬兵器の発達はばったり停止、銃把(=グリップ)の装飾に贅をこらすなど、兵器=道具としてよりも意匠・工芸美術品に成り下がっていきます。その間、難渋して獲得した最重要技術の一つ、銃底の強度確保のための尾栓の雄ネジ及びそれがねじ込まれる銃底の雌ネジの製造技術(ネジは中国の発明ではない)は火薬兵器の発達停止とともに、 銃底 ネジ他の産業技術に応用されることもなく、歴史の中に埋没してしまいます。不思議です。

 尾栓のネジの切り方に難渋した末に国産銃を完成させますが…、火薬を調達・製造できなければ、鉄砲が出来たとしてもそれは単なる鉄パイプ。火薬製造に、木炭・硫黄は入手出来たとしても硝石の入手は難しく、今井宗久・千利休等の堺商人による輸入に依存せざるを得ません。つまりは、火薬は堺でしか作れず、ヴェニスと並び賞される堺の自治は火薬の独占により実現したことになります。

 長くなりました。この続きは次の機会に譲るとしましょう。

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October 13, 2017

『Surfin’ USA』 と『平家物語』その2

その1から続く、井沢元彦著『逆説の日本史 16』にある「識字率」に関する記事の抜粋です。

 13世紀初(?)、『平家物語』の時代、出版などはなく、本は全て肉筆の写本、身分の低い人間には入手困難で、盲目の琵琶法師にはそれを「読む」ことすら不可能。慈円は怨霊を鎮魂して、国の平和を実現することを第一目的に、藤原行長をして盲目の生仏に「教えて語らせ」、鎮魂の巡回僧は地方の津々浦々まで巡り、都の一流の作者が作った面白い物語を、琵琶の伴奏で語る(歌む)。「読み」さえ頭に入っていれば、すぐに読めるようになり、読むことが出来れば「書く」こともできるようになり、こうして「読み書き」ができるようになる。「音曲(音楽)」に乗った言葉ならなおさらである。このようにして、全国津々浦々での、盲目の琵琶法師による『平家物語』の興行は、「怨霊鎮魂の意図」とは別に、日本語習熟度の驚異的な向上をもたらし、室町時代には「太平記読み」という職業を生み、これが「講釈」・「講談」に引き継がれ、江戸時代の日本人の驚異的な識字率に繋がっていく。「門前の小僧、習わぬ経を読む」の通り、子供は難しい言葉でも、小さい頃から節・音曲(音楽)と共に聞かされれば、そしてそれが興味のあることであればいくらでも覚える。まさに「マイ・ルィジアナ・ママ フォム・ノリオリン」です。

 もう一つ日本で特徴的なのは、自国の最高レベルの文芸作品を上流階級及び庶民階級が「共有」しており、国家形成期の『万葉集』は今日の皇室の年頭行事、「歌会始め」に続いている。例えば、近松門左衛門、当時の最高レベルの劇作家の台詞を庶民が暗唱するというのは他国では考えられないことである。ヨーロッパでは『聖書』が古典として「共有」されているが、「読み書き」と「ラテン語」という二重の暗号に縛られていた。これが各国語に訳されたのは14〜16世紀、キリスト教成立から一千年以上経ってから(カトリック教会が聖書を独占するために翻訳を嫌った)、日本の慈円、『平家物語』から3世紀遅れた16世紀、ルターが聖書を讃える賛美歌を作って『聖書』を「音曲(音楽)化」、庶民向けの布教、これが「識字率」の向上を促し、宗教改革をおこなうことになる。

 以上で引用を終わります。

Beach Boys Classics 話は戻って、英語の話。 私は『Surfin’ USA』をバンドで歌いますが、Youtubeのカラオケのカラオケを見ると、英語の歌詞の上にはフリガナがうってあります。50年以上前の曲ですから、「マイ・ルィジアナ・ママ フォム・ノリオリン」と同じく、カタカナで覚えた人もおられたかも知れませんが、「洋楽」好きな私からすれば、見栄を張って、英語の歌詞を読んで歌うのは当然。…が、しかし、あれっ、私の使い古したレパ帳にある『Surfin’ USA』、下の歌詞の部分には、<歌い方>、<言い回し>をカタカナで記入しているではありませんか。

“Surfin’ USA”
Verse1
If everybody had an ocean / across the USA,
Then everybody'd be surfin' / like Califor-ni-a.
You'd see 'em wearing their baggies / huarchi sandals, too.
  ユ        シエム    ウェアリン
A bushy, bushy blond hairdo / surfin' USA.

You'll catch 'em surfin’ at Del Mar / Ventura County Line,
  ユ       キャチエム サーフィン
Santa Cruz and Tressels / Australia's Narabine,
All over Manhattan / and down Doheny way,
Everybody's gone surfin' / surfin' USA.

  『Surfin’ USA』はブライアン・ウイルソン(Brian Wilson)の作とされるが、実際はチャック・ベリー(Chuck Berry1926 - 1972) の『Sweet Little Sixteen』が本歌。ロックンロールは16小節の繰り返し、演歌・歌謡曲の様に「七五調」とは行かず、学校で学ぶ英語と違い、一小節内の単語数が多く、やたら「(アポストロフィー)」で省略されています。2分少しの8ビートの曲、英語の字面(じづら)を追っかけたら、目で確認している間に、曲は流れ去ってしまい、曲に歌詞がついて行けないことになってしまいます。どのような言い回しで歌っているのか頭にたたき込む(覚えさせる)為に、カタカナでメモ(注意書き)しておくのです。

 中学生と言えば、子供から大人へと変わる頃、かっこいいと感じ、「音楽(音曲)」から「洋楽」にはまり込みました。意味の判らない英語の歌声も伴奏と同じく、単なるかっこいい音色でしかなかったのです。「学習」を分解すると、「学ぶ」は「まねぶ」そして「習う」とは「倣う」の意味、特に「語学」は「まねてならう」ことが重要です。好きな「音楽=洋楽」から「英語」を学習できるのですから、これ以上の方法はありません。中学の英語の授業が始まると、ビートルズやビーチ・ボーイズが何を歌っているのか、知りたくて勉強し、授業が楽しくなるのは当然。高校生から大学生になると、自分なりに理解した歌詞の内容から、歌に歌われるアメリカの社会・歴史に興味を持つようになります。日本史は入試目的に丸暗記したのですが、世界史は、アメリカ→その先祖の国、イギリス及びヨーロッパ→その先祖、ローマに及び、次第に日本史も世界史の一つと考えるようになりました。きっかけは「洋楽」との出会いでした。

 外国人とコミュニケーションを取る場合、特に非英語国圏の場合、概ね、英語が多くの国の第一外国語の地位にあり、その意味で英語が順当な言語手段であることは間違いのないことです。英語をしゃべるからと云って、何を共通の話題にするのでしょうか?私の現役時代、仕事柄、英語そのものは不可欠でしたが、「洋楽」の知識はいろいろな国籍の人々との会話を盛り上げるのに大いに役立ちました。彼等も知っている曲を一緒に歌うことができるのです。これが、歌謡曲・演歌が趣味では、ほとんど役に立たないでしょう。

 ごく希に、美空ひばり、北島三郎ファンの外国人もいるかもしれませんが…。

 ※参考資料:『逆説の日本史 16』

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October 09, 2017

『Surfin’ USA』 と『平家物語』その1

Surfin' USA record jacket 私がラジオでThe Beach BoysSurfin USAを聴いたのが中学生の時(1963?)。あれから半世紀以上が過ぎた今でも、バンド(私)のレパートリーの一曲になっています。The Beach BoysThe Beatlesをきっかけにいわゆる「洋楽」に入り込んだのですが、 その背景には、時代が「東京オリンピック(1964)」からさらなる高み:「大阪万博(1970)」に向けて好景気は続き、テレビ受像器の普及と共に津々浦々の家庭に「サンセット77」「ローハイド」「ルート66」「ミステリーゾーン」等のアメリカ文化の大波が押し寄せて来ました。 第二の黒船の如きもので、私は中学生になると、それまでの小学校ではなかった、「英語 English」という新科目とThe Beach Boysがほぼ同時に登場したことになります。

 もちろん、歌っている歌詞の意味も判らず、ただ今まで耳にした歌謡曲、民謡、冷戦下のロシア民謡とは全く違う、新しいメロディ・リズムの「洋楽(特にアメリカ音楽)」は、アメリカ映画やテレビ番組のイメージと相まって、私にとってものすごくかっこいいものでした。「好きこそものの上手なれ」の通り、他の科目はダメでしたが…、「英語」だけは好きで、成績も悪くはありませんでした。

  私よりも少し前の時代、「ロカビリー(Rock N’ Roll + Hillbily」が流行し、そのうちの一曲、ジーン・ピットニー(Gene Pitney)の『Louisiana Mama(1961)』、日本では飯田久彦の『ルイジアナ・ママ』がヒットしていました。Verseの最後で繰り返される「My Louisiana mama from New Orleans」が子供心には「マイ・ルィジアナ・ママ フォムノリオリン」、特に「ノリオリン」が強く印象に残っているとは友人の言。これには妙に納得してしまいました。

  

私なりの判断基準ですが、その人の英語能力あるいは、英語を理解しているかどうかを知るには、「音読」、声に出して読み上げてもらえば判ります。単に発音やアクセントだけでなく、どこで文章を切るのか、英語だけではありませんが、「書き言葉」にせよ「話し言葉」にせよ、文章にはリズムがあります。振り返ってみると、英語らしい発音やアクセントの位置、英語らしいリズム…の多くは「洋楽」から学んだように思います。今日、語学の習得方法に音曲(音楽)・歌から入るのは極めて有効な方法とされています。

久しぶりに面白い本に出会いました。井沢元彦著『逆説の日本史 16』です。以下は「識字率」に関する抜粋です。

「江戸文化」の源泉は何か?どれだけ自国語を読み書きできるかを「識字率」と呼ぶが、現在、日本人の「識字率」は99%とほぼ100%と世界一、因みに世界平均:75%(1/4は読み書きできない)、江戸時代における男性40〜60%、女性15〜30%はダントツであったということです。ヨーロッパにおいて、庶民には「本を読む」どころか「文字を読む」習慣がない。グーテンベルグの印刷術の発明が15世紀中頃、16世紀に宗教改革、マルチン・ルター(1483-1546)が聖書のドイツ語訳を出版するが、これが直ちに識字率の向上に繋がった訳ではない。「文盲(差別語)」の人にとって本というものは全く意味を持たない。その前に「教育」が必要だった。

琵琶法師_平家物語日本史の通説では、日本の識字率の向上は江戸時代における「寺子屋教育」の普及が主要因だと考えているが、実は、それ以前の土台作りが存在した。13世紀初(?)の『平家物語』である。通説では作者不明としているが、著者は、吉田兼好の『徒然草』にある通り、『愚管抄』の作者、天台座主慈円(じえん)がプロデュースして、信濃前司藤原行長(物語作 作詞)と生仏(しょうぶつ 作曲 盲目の琵琶法師)に作らせたという。慈円は平家一門、安徳天皇の怨霊を鎮魂するために、二人のスポンサー、プロデューサーとなり、始めから「音曲(音楽)」にして読み書きが出来ない庶民が「文学」を楽しめるようにした。

中世ヨーロッパの農民にとって「読み書き」が出来なくても全く社会生活に支障なかった。マルチン・ルターは多くの賛美歌(キリストを讃える歌)を作り(作詞・作曲)、それまでラテン語で書かれていた聖書をドイツ語に訳した。「音曲(音楽)化」で、「読み書き」出来ない人に「文字を読みたい」という意欲を起こさせたのです。もし慈円自身に作詞・作曲の才能があれば、ルターのように自分で『平家物語』を作ったであろう。

次回に続きます。

※参考:井沢元彦著『逆説の日本史 16

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August 28, 2017

住めば都…ですが、どうもしっくり…

 「住めば都」とはどんな所でも住み慣れればそこが最も住みよく思う、という意味ですが、朝早くその土地を出て職場に向い、夜遅く帰ってくる、ただ漫然と過ごしているだけでは「住めば都」にはならないでしょう。その土地を知りたい、隣近所と交流して、その土地を良くしたい、それらの意図と実際の行動を通してその土地に対する愛着が生まれ、離れがたい気持が醸成されます。言葉を換えれば郷土愛か、その要素の一つに、その土地が輩出した歴史的人物があります。

 小山田有重は鎌倉幕府の有力御家人の一人でしたが、頼朝の死後(1199)、北条氏に謀られて没落(1205 「畠山重忠の乱」)、小山田氏の一部は甲斐国に落ちます。新田義貞挙兵時(1333)、有重から6代目:小山田高家が新田軍の侍大将として鎌倉攻めに参加して小山田城を奪還します。鎌倉幕府は滅亡(1333)しても次の「南北朝」の戦いが待っています。九州から京を目指す足利尊氏軍は、神戸湊川で新田義貞・楠木正成の連合軍と激突(1336 「湊川の戦」)、義貞は自分の馬を射られ、彼の危急を見た高家は自分の乗馬を義貞に与えて逃がし、身代わりになって討死します。時代は下って明治22年(1889)、神戸では高家が大事に祀られていることを当地の名主が知って大いに感激、木曽・根岸・上小山田・下小山田・図師・山崎が合併して新村を作る際に、その村を「忠臣の生まれた村」、「これからも忠義の者が生まれ出る」ことを祈って、「忠生(ただお)村」と名付けました。

 境川を挟んで、その忠生の反対側、南に淵野辺があります。護良親王は父、後醍醐天皇に疎まれ、足利尊氏の弟:直義の預かりとなり、鎌倉に幽閉されていました。1335年、最後の鎌倉幕府執権:北条高時の遺児:時行が蜂起(「中先代の乱」)して鎌倉に攻め寄せました。鎌倉を守る直義はこれを支えきれず撤退しますが、その混乱の中、家臣の淵辺義博に護良の殺害を命じます。これを機に、後醍醐天皇は足利尊氏と決裂、本格的な「南北朝」の時代を迎えます。実は…、義博は主人の命令に背き、内密に、護良親王を自分の領地に移し、難を恐れて家族との縁を切り、境川に掛かる中里橋、榎木の下で家族と別れ(「縁切り榎木と別れ橋」)、護良親王に従って宮城県石巻まで逃れた、とする伝承があるそうです。

 1590年、小田原後北条氏が滅亡、関東に入封した家康は多摩地区を幕府直轄領、天領としました。家康の命を受け、大久保長安(ながやす)は甲州街道を整備、八王子に「千人同心」を設けて武田・後北条の旧家臣団を近郷開拓の屯田兵として、無禄ながら土地を開拓する郷士組織を作ります。「千人同心」に限らず、多摩は江戸時代初期に開発された土地が多く、彼等の多くは主君をなくした元武士であり、やがて村の名主階層に育って行くことになります。「千人同心」は八王子防御が当初の目的でしたが、後に、日光東照宮の火の番が主な任務となり、武士に憧れる豪農層は同新株を取得して「千人同心」職を兼ねることになります。こうして彼等は「将軍家の家来」と言う意識を強く持つようになります。彼等は客人をもてなす必要から教養として、書道・華道・和歌・俳句、そして地誌・国学などの芸事を学び、彼等文化人の間にはネットワークが誕生します。18世紀(江戸後期)に入ると、交通・経済が発展、幕末の開港による物価の急騰で無宿者・盗賊などの治安が悪化、芸事の一つとして、武芸が名主・豪農層の間で流行します。当時、百姓・武士以外で武芸・剣術が盛んだったのは武士のいない、藩の存在しない天領である多摩地域と、もう一つ、上州(上野国(こうずけ)群馬県)だけと云います。
多摩境札次神社
札次神社
 当時、長州・土佐・薩摩も会津・桑名・彦根も…、ほとんどの藩及び武士の思想は水戸学の「尊皇攘夷」です。幕府直轄領で武士のいない天領:多摩では、武士の代わりに国学を学んだ名主・豪農層はもちろん「尊皇攘夷」ですが、あくまでも佐幕、幕府あっての「尊皇攘夷」でした。「桜田門外の変」が発生(1860)、幕府は清河八郎の献策を入れ、攘夷のの実行・公武合体・尊皇を目的に浪士組を結成、「天然理心流」4代目の宗家:近藤勇とその門弟はこれに参加することになります。近藤を物心両面で支援したのが、名主・豪農の一人、小島鹿之助(こじましかのすけ 町田 小野路村)です。近藤を始めとする多摩出身者とその支援者は、天領=幕府直轄領に生まれ育った、多摩だけに通じる独特の文化を背景に「尊皇」を叫びます。当時の「尊皇」とは一地方の文化ではなく、徳川幕藩体制を越えた、「天皇の前には大名も一個人も平等」という明治の天皇制に引き継がれる普遍的なイデオロギーでした。

 「一所懸命」という論理と「名こそ惜しけれ」という、卑怯な振舞いを蔑む精神は表裏一体した鎌倉武士の風土はどう変遷したのか、家康の関東に入封して270年、藩や武士による直接的支配を経験することなく、武士以上の武士を目指した「新撰組」が生まれた土地ですが、明治の時代になると、一変して、彼等の云う「自由民権運動」の地になるそうです。一変…ではなく、実は…、多摩の歴史を貫く確固たる一本の筋というものが有るのかも知れません。

 話は飛んで…、京都の三大祭りの一つ、「時代祭」は明治28年(1895)、平安京遷都1100年を記念して始まりました。戊辰戦争の際、朝廷のために官軍としていち早く京都に入った山国隊(丹波国で結成された農兵隊)を先頭に、時代を遡り、平安京造営の延暦時代までの行列ですが、室町幕府執政列・室町洛中風俗列(足利幕府時代)が加えられたのは112年後の、2007年のこと、松平容保と新選組は今に至ってもまだ列に加えられていません。そろそろ列に加えても良いのでは…。 
※参考:英傑の日本史―新撰組・幕末編 (角川文庫)
    
新選組 敗者の歴史はどう歪められたのか (じっぴコンパクト新書)
   日野市立新撰組のふるさと歴史観特別編「新選組誕生」

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July 25, 2017

平成の次は何?

 元号が昭和から平成に変わったと同時に西暦一本にしようと心に決めて早28年、つい昨日始まったと思われた平成の時代も、今回の天皇退位特例法の成立にともない、終わりを告げようとしています。朝日新聞の世論調査では、「元号を今後とも続けていく方がよいか?」と訪ねたところ、「続けた方がよい」が75%で、「そうは思わない」の15%を大きく上回りました。「続けた方がよい」とした人を年代別に見ると、60代は74%、70歳以上が70%なのに対し、30代は80%、18〜29歳は76%の結果でした。元号は元号法によってその存在が定義されており、法的根拠があるが、その使用に関しては各々の自由な由。役所の提出書類に、明治・大正・昭和・平成の何れかを〇で囲むようになっていたり、業務日誌の如く、それまでの人が元号を使って和暦で記入されているのを、私だけが西暦を記入する訳にも行きません。仕方なく元号を使う場合もある西暦主義者からすれば、若い世代の多くが元号=和暦を支持するのは驚きです。元号=和暦の使用は各々の自由なはずですが、現実的に、運転免許証を始めとする、公文書の生年月日は、先ずはスペース的に元号=和暦の使用に限られ、これは事実上西暦が否定されていることになります。

カレンダー 皇帝の支配は、空間(領土)と時間(暦と年号)に及び、臣下の者は皇帝の定めた暦(元号と暦法)を用いるのが皇帝への服従の証拠となり、これを「正朔(せいさく)を奉ずる」と言ったそうです。中国の前漢(紀元前206年〜8年)の思想は飛鳥時代(592〜710)の日本に持ち込まれます。「権力」と「権威」で天皇支配を具現化、王朝支配下の律令制度、荘園制度の発生と崩壊、武士の台頭、鎌倉に始まり徳川幕府まで続く武家政権に「権力」の移譲を余儀なくされ、明治から敗戦までの復古期間はあったものの、その間、辛うじて保持してきたのが「権威」、その一つが暦、元号=和暦でした。「大化」(645〜650)に始まり、現在の「平成」(1989〜)に至る何百(?)という年号は日本の歴史を刻んできた年輪、脈々とその「権威」を保持する天皇の存在自体が大いに神秘的、カリスマ的です。世界には西暦=キリスト教暦の他にイスラム暦がありますが、キリスト生誕、モハメッド生誕、建国等の紀元から何年というのはあるが、天災・疫病が続いたので…、皇帝・元首が交代したので…とか、めまぐるしく変わる元号を使っているのは世界で例外的に、日本だけです。あの元号を始めた中国は辛亥革命(1911-1912)を機に、古代から続いた君主制(最後の清王朝)が崩壊、「権力」のみならずその「権威」そのものである元号を廃止しています。

 皇位継承に伴い元号も変わるのでは経済的に極めて非効率です。元号を有意義な文化と考えるか、ガラケーと同じく排他的・特異な文化(一頃の関税外障壁)と考えるのか、かと云って、演歌の歌詞に西暦が使われたら…、悲壮感漂う鶴田浩二の朗読に西暦が使われたら何かヘン、お寺の墓石や板卒塔婆、神社のおみくじなどの日付が西暦で表記されていたら興醒めかも知れません。医療現場では、例えば母子手帳に「11.1.3」となっている場合、平成11年なのか2011年なのか、どちらとも考えられることが少なくなく、西暦表記での統一を望む、とは新聞の投書欄にある医師の意見です。
 
 今の若い世代は、東京オリンピック(1964)、大阪万博(1970)にかけての高度成長、次に来るバブル崩壊(1980年代)を知らず、物心がついてからは平成の時代、低成長を当たりまえと考えているのでしょう。元号を天皇制の意味を重ね合わせるの古い世代、1960年・1970年を経験した世代だけかも知れません。しかし、西暦、21世紀はコンピューター、インターネットの時代、外国人旅行者・就業者の来訪・定住は加速し、逆に海外へ出る留学・赴任に関係する書類の作成など、日常生活に於いて西暦がより多く使用されることになることでしょう。皆さんはどう思われますか?

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June 19, 2017

達磨寺 思惟の径

 中仙道、古代の東山道の急峻な碓氷峠を下り上野国(群馬県)の坂本宿辺りの風景に強烈な既視感を感じます。それは3年前、友人に連れられて、静岡県の三島から箱根峠を目指して歩いた東海道の風景とよく似ているだけではないようです。東山道は、日本の歴史・文化の「背骨」、下野国白川を越えて、はるか道・陸の奥、「陸奥」につながります。碓氷峠は「分水嶺」、その東坂は新世界が始まる第一歩の地です。
170611_碓氷峠めがね橋
 実在するかどうかは別に、日本武尊は焼津から荒れ狂う海に乗りだし、愛妻を生け贄にして海を鎮め、足柄山から東国に入り、反時計回りに平定、眼下に東国を見て、「吾(わが)妻よ…」と嘆いたそうです。これに因んで、東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。平安初期、724年、ヤマト朝廷は多賀城に陸奥国府を設け支配下に置こうとしたが、蝦夷の反乱が収束するのは征夷大将軍:坂上田村麻呂の遠征によるアテルイの降伏(801)でした。 平安末期には箱根・足柄から碓氷峠につながる巨大な山塊の東、坂の東に、「坂東武士」が誕生、後の鎌倉幕府に繋がっていきます。時代は下って戦国時代、関東制圧を目指して小田原北条を攻める秀吉は、1590年、前田利家・上杉景勝等の北国勢を別働隊に碓氷峠を越えて侵攻、上野・下野・武蔵・相模と時計回りに東国を制圧します。家康はその力を秀吉に恐れられ、山塊に隔てられた言わば異国の地に追いやられますが、関ヶ原勝利の後は、鎌倉幕府に倣って、武蔵国江戸に幕府を開きます。さらに下って幕末、皇女和宮は中仙道を通って江戸徳川家に降嫁するも、公武合体は失敗、幕府は崩壊、明治新政府は江戸を東京都と改め首都とします。今、国土のほぼ中心に首都:東京があるのは、江戸に幕府を開いた家康の先見の明があったということです。

達磨寺 中仙道(現在の国道18号線)をさらに東に走り、高崎に入り、碓氷川に沿った小高い山の中腹に黄檗宗(禅宗)少林寺達磨寺を見ることが出来ます。達磨寺の「だるま市」は有名ですが、今回は触れません。

 第一次世界大戦(1914-1918年)でドイツ帝国は敗北、大戦後に勃発したロシア革命(十月革命(1917)の影響を受けて社会主義思想に傾斜した建築家:ブルーノ・タウト(1880-1938)は、賠償金のの支払いにあえぐドイツの労働者の為に健康・安価で良質な集合住宅を作った。タウトの設計したガルテンシュタット・ファルケンベルク(1913- 1916)、ジードルング・シラーパルク(1924-1930)、グロースジードルング・ブリッツ(1925-1930)は2008年、「ベルリンのモダニズム集合住宅群」として世界遺産に登録されています。彼の社会主義思想・ソ連訪問をナチスは危険視、これを知ったタウトはドイツを逃亡、シベリヤ鉄道経由、1933年5月、敦賀に上陸します。京都・神戸・伊勢・飛騨高山・東京・日光等各地を訪れ、特に桂離宮の簡素で機能的な美しさに感激、「泣きたくなるほど美しい」と世界に比類のない傑作と評価し、桂離宮、伊勢神宮を皇室・神道芸術、日光東照宮を武家・仏教芸術として対比、後者を「いかもの」と酷評している。当時、国粋主義を推し進める日本政府にタウトの日本建築・文化の評価はは正に好都合であったが、対英米戦争必至の状況下、彼は危険分子として特高の監視下にあり、本来の建築家としての仕事はありませんでした。
170620_達磨寺洗心亭_2
 各地を訪問、地元の井上房一郎が高崎に招いて工芸品のデザイン・制作指導を依頼したのが始まりで、以降、達磨寺内に在る4畳半と6畳の小さな「洗心亭」タウト夫婦の住まいとなる。同じ山、南東の位置に、もう一つの高崎名物、白衣大観音像がありますが、房一郎の父で井上工業の創始者:保三郎が私費を投じて建立したもので、皮肉にも、タウトの評価では「いかもの」でした。日光東照宮・大観音像が「いかもの」には同感なのですが、京都駅近くにそびえる京都タワーはどうなるのでしょうね…。残念ながらタウト来日時には存在していません。

 元へ…。喘息が持病のタウトは日本の湿気を、特高の厳しい監視をきらい、トルコ政府の招聘で、わずか3年弱で日本を後にします。オスマン帝国は、ドイツと同じく、第一次大戦に敗北、英仏の植民地戦争にも敗北、その領土の多くを失い、帝国は崩壊、1922年、現在のトルコ共和国が誕生しました。イスタンブール芸術アカデミーからの招請により、教授としてイスタンブールに移住、日本では果たせなかった建築家タウトを実現します。…が、発見した日本の美を彼の地で活かすことはなかったようです。建国の父:ケマル・パシャの国葬会場を設計後、トルコの地で客死します。

 少林寺達磨寺にはタウトが散策したとされる「思惟の径」がありますが、残念ながら名前負け、私には「いかもの」でした。中仙道(東山道)碓氷峠の東坂にはまだまだ面白いことがありそうです。

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May 13, 2017

「同じ釜の飯」共同体

 昔々、新入社員の頃(1972〜73?)、往々にしてその頃に幹事を任されるのですが、社員旅行が嫌でした。休みであるはずの土・日曜日を使って、月々の給料から積み立てて、宿泊先の旅館かなにかに到着して一風呂浴びて宴会となると、偉い人が「今日は無礼講で…」とか云いながら、チャッカリ、会社の序列そのままの席順に座ります。修学旅行もある意味そうなのでしょうが、それまでの日本人は全体的に貧しくて旅行もままならず、年に一度ぐらいは、会社の補助も受けて旅行に出かけよう、というのが起源でした。しかし、戦後の復興が一段落して、個人所得も増えてリクレーション、レジャーの時代に入ると、その社員旅行の意味も消滅しまます。経営者・管理者側からすれば、一泊二日の短期間にせよ、寝食を共にして、「同じ釜の飯を喰って」、一体感・仲間意識の昂金色夜叉揚を意図したものでしたが、会社という利益や機能を追求することを目的とする利益社会・機能体組織(ゲゼルシャフト Gesellschaft)と地縁や血縁、友情で深く結びついた共同体組織(ゲマインシャフト Gemeinschaft)とは本来矛盾・対立するものでした。皆さんもご存じの社会学の常識です。東京で云えば、社員旅行専門の感あった熱海温泉に閑古鳥が鳴き始めたのもこの頃だったと聞きます。

 団地やマンションなどの集合住宅に住む理由は、単に条件を満たす一戸建てを買うだけのお金がないというだけでなく、職場とその行き帰り(私の場合、往復4時間でした)だけで精一杯で、近所づきあい、祭や町内会など、煩わしい地域社会とのつながりを嫌ったことも大きな原因の一つでした。現に私などは、父親として子供達の通った小・中学校にも行ったことがなく、地元の人だけで盛り上がっているお祭りにも行ったこともなく、同じ階段の住民に挨拶するだけで、もちろん友人おろか知人さえも数えるほどでした。私の場合は、40歳頃に関西からやって来たのもその理由か、東京本社という疑似共同体組織(実は機能体組織)の深みにはまり込むこともなく、かと云って、自分の住む地域共同体に溶け込むことも出来ませんでした。転機は団地管理組合の理事を経験したことで、それまでは管理組合の広報紙さえも読んだこともなく、況んや総会・集会にも出たことがなかったのですが、その贖罪感もあって副理事長を2年間勤めたお陰で、「住めば都」の通り、この団地・地域への理解・愛着が一層深まり、同時に理事会を通じて団地内の多くの住民とも知り合うことが出来ました。

 多くの住民が地方出身者、家を継ぐべき長男ではなく、既に現役を退き、今は嘱託かアルバイト、子供達は既に独立、故郷には既に両親も亡く、ふと気がつくと居場所は此所しかないのです。一方では、高齢化により、従来行われてきた理事の輪番制によるよる入れ替えは難しくなって来ました。我々も理事会の定員を削減して、多くの民間集合住宅で見られるように、管理そのものを外部委託することになって行くと思われます。中層(3・4・5階建)故エレベーターはなく、極近い将来、上階部分の住人が一端足腰が弱まって買い物にも出られない、生活自体ができない、最悪の場合は孤独死の可能性も他人事ではなくなって来ました。

 冒頭の社会学の用語:「共同体組織(ゲマインシャフト Gemeinschaft)」とほとんど最期の晩餐同意義の用語として「(地域)共同体(コミュニィティ Community)」があります。赤の他人の集団ではなく、何らかの「共属感情を持つ人々の共同体」の意味で、ラテン語の「munus (municipal(=地方自治体の、市町村の)と近似 )」から派生した単語で、「贈り物、賦課、任務、義務、成果、好意、祝祭時の演出」の意味で、これが接頭語の「co(相互の、共同の、共通の)」が付いた「comunitas」が語源です。commune(コミューン)、communism(コミュニズム 共産主義)等はすべて「共有する」の意味を含み、communication(コミュニケーション 伝達・通信)は単に脳の中のイメージを伝達(explanation)するのではなく、自分の脳に在るイメージと相手の能にあるイメージを「共有する」という意味です。

 ある人と親しくなりたい、その人のことをもっと知りたい…、そんな時、時間をかけて議論するよりも、一度でもいいからその人と食事を共に為た方がはるかに有意義でしょう。「飲食を共にする、共食」は家族に始まり、大きな「共同体=コミュニィティ」に広がります。限りある食物を仲間と分け合うための儀礼、タブー(禁忌)、テーブルマナー(食事作法)に繋がっていきます。ユダヤ教の共食儀礼、それから派生したカトリックのミサ=「主の晩餐」、日本では冒頭の社員旅行でも述べた「同じ釜の飯」、「一宿一飯」に繋がります。食欲という人間の根源的な欲望を満たすことを共有することで、お互いの(例えば客との)距離が近付き、間に横たわる壁は低くなり、飲食を共にする回数が増える毎にコミュニケーションは良くなるのです。「munus」の意味がこれです。

 南北朝(1336-92)の動乱以降、自立した農民の団結して「惣」という村落共同体を作り、有力名主を中心とした「寄合」と呼ばれる自治的決議機関を設けた。泉州堺、博多では「会合衆(えごうしゅう 納屋衆)」と呼ばれる有力商人による自治が行われ、今日云う民主主義の概念に近い、近代的自我が近世(江戸時代)の到来を待たずして見いだすことが出来るのは驚きと云ってよいでしょう。天下人秀吉は堺の力を削ぐために自治の象徴である外堀を埋め、「会合衆」を解体、彼等を大坂に移住させ、その場所が「堺筋」となったそうです。堺の「会合衆」出身の利休は「茶の湯」を完成させたが、「茶の湯」そのものが「飲食共同体」であり点前の所作は「食物儀礼」でした。この辺りが利休の死に深く関係しているようにも思えます。

BBQチラシ 6月始め、管理組合理事会の同窓生有志でバーベキューの予定です。地域の防犯・防災、住民の高齢化に伴う諸問題を解決していく一歩はコミュニケーションを豊かにするコミュニティ作りです。人々が集まって車座に座り、一つの食物を分かち合う儀礼=「食物儀礼」をもたない共同体はこの地球には存在しない、といいます。若い時にはあれだけ嫌っていた「飲食共同体」、年を取ると勝手なもので、バーベキューが楽しみです。

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April 23, 2017

散歩の途中<<21>> 武州小山田荘

先日のNHKの番組:『日本人のおなまえっ!』で「山田」さんが日本人の代表的な苗字として取り上げられて小山田荘鳥瞰図_2いました。覚えやすい名前として、デビュー当時、そこに目を付けたであろう往年の新人(?)歌手、山田太郎まで現れました。この地にやって来た当初は、「小さな」+「山の」+「田んぼ」とは、何と薄っぺらい、あんちょこな地名なのか、と思ったこともありましたが、後に、平安時代の荘園、「小山田荘」に由来し、平安時代末期には、平氏である秩父有重が支配地の小山田にちなんで小山田有重(12世紀末)を名乗ったことを知ります。

 町田市(人口:43万 東京23区、八王子に次いで大きな街)は明治の一時期までは神奈川県に属し、電話市外局番が同じで、神奈川中央交通バスが走っていたりと、その面影が残っているだけではありません。多摩丘陵の一角にありながら、町田市の北部に位置し、大きな面積を占める小山田地区は、隣接する八王子市・多摩市との間を、大きな壁・段差で断絶されており、むしろ西の神奈川県との交通・交流が盛んであったようです。 〜 赤駒を山野にはがし捕りかにて 多摩の横山徒歩ゆか遣らむ 〜 『万葉集(7〜8世紀)』に歌われる「多摩の横山」がそれです。

かかし170 多摩丘陵は「横山」で急激に落ち込み小山田地域(野津田、小野路、図師)に至ります。鶴見川はここを源泉とし、東京湾に至る流域は豊かな水田耕作がされていたことであろうことは、食器用,煮炊き用,貯蔵用など,様々な弥生土器が出土したことで容易に想像出来ます。多摩丘陵・鶴見川流域の野津田、小野路、図師は「田方」と呼ばれるのに対し、市の南側(相模原市に隣接)は相模台地に在り「岡方」と呼ばれ、水田はない。近世までの米流通社会においては、「田方」に有力な農家が現れたのは偶然ではないでしょう。

小山田の風景 稲の水田耕作は弥生時代の前期には本州全土に伝播したと考えられています 。今の私達には田んぼ・水田と言えば一面の水田をイメージしますが、平野部を水田にするのは、一つ一つの田んぼをわずかな高低差で繋ぎ、全ての田んぼを豊かな水で満たしておくには、高度な測量・灌漑技術の蓄積が必要でした。

 ここで話はそれますが、非情に面白い本を読みました。樋口清之著『梅干と日本刀』で、〜日本人は最高!、驚くべき日本人!〜など、自虐史観の裏返しかと思ったりしたのですが…、違いました。中国人は「耕して天に至る」と言うが、これは畑だからで、水田の日本は逆、「耕して平地に至る」。日本の段々畑は、山から水を引いて、まず高いところに田を作り、上から下へ田が広がって行きます。これが、山田・本田・元田と、日本では多い苗字となり、下の下田・平田は後に分家したものと言う。インドネシア以外に世界に類がない合理的な耕作方法、焼き畑開墾して炭・灰のアルカリで土壌の酸性を中和。そこへカブ・ヒエ・豆をまいて収穫する(=「畑」)。耕しているうちに水平になり、木の根も腐り、妨害物のない耕作地となる(白い田=「畠」)。完全に水平になって水が引ける(=「田」)。私だけが知らなかったのか、余談ですが、「田」は漢字ですが、「峠」・「榊」・「働」と同じく、「畑」・「畠」は国字=和製漢字だそうで、「畑」→「畠」→「田」という文字は水田開拓の順序を証明していると言う。
 
 小山田は多摩丘陵という小高い丘陵地帯に多くの谷戸があり、鶴見川の豊かな流れを利用して、谷戸田から谷戸田へ水を繋ぎ、今日の豊かな水田地帯を作り上げました。この地では、苗字ではなく荘園の名、地名として存在し、後にこの地を支配した人間=秩父有重が地名を冠して小山田有重を名乗ることになります。自分の住む小山田桜台、「武州小山田荘」に変えたらいかがでしょう。すこし誇らしく思ってきました。
※ 参考資料:樋口清之著『梅干と日本刀
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March 14, 2017

 くどいですが、『沈黙』

 ザビエルは1549年に来日、日本での布教が始まりました。信長は仏教勢力への対抗勢力としてキリシタンを保護、後を引き継いで覇権を握った秀吉の時代、「バテレン追放令(1587)」・高山右近のマニラ追放(1588)があったものの、キリシタンが興隆を極めました。関ヶ原敗軍の蜂起「島原の乱(1637-1638)」が勃発、より深い地下潜伏の時代に入ります。映画:『沈黙』は乱の再発に脅えた徳川政権直轄の長崎が舞台でした。

 日本の歴史を振り返ってみると、中国風(唐風)文化の影響が極めて大きかったのですが、平安の中期にると、中国文字(漢字)から平仮名・片仮名が発明され、漢字の訓読みが確立されたことにより、『枕草子』や『源氏物語』に代表される和歌・日記・物語文学が隆盛、寝殿造等の和様建築の登場など、中国風(唐風)文化の影響が薄れ、国風文化と呼ばれるものが誕生しました。武家政権が誕生し、新仏教が興隆した鎌倉時代、室町時代には貴族文化と武家文化の混合、明との勘合貿易により中国文化が流入、武士の保護のもとに禅宗が興隆、日本文化の源流と言うべき新しい文化(北山・東山文化)が誕生します。観阿弥・世阿弥父子は従来の猿楽・田楽を能楽に、能やその合間に演じられる狂言に大成。「もののあわれ」から「わび・さび」へ、寝殿造りから書院造りへ、畳・床の間・違い棚などの「和」の文化が生まれます。しかし、室町幕府の衰退とともに勘合貿易も衰退、日明貿易は堺の商人−細川氏、博多商人−大内氏が独占するようになります。

 1549年ザビエルが来日、その翌年、京・大坂布教を目的に堺にやって来ます。当時の堺は国際都市、商人(=文化人)に依る自由・自治都市はベニスにも匹敵したと言います。南宗寺(臨済宗大徳寺派)を中心に禅宗が盛んで、堺の町衆文化の発展に寄与しました。「ものの始まりなんでも堺」の通り、京と並ぶ文化の発信地でもありました。茶人でもあった日比谷了珪(ひびや りょうけい)が彼の世話をしたことによより次第にキリシタンへのめり込んで行くことになります。1561年、ヴィレラが堺に1年間滞在、1564年、アルメイダとフロイスがやって来て、了珪自らも洗礼を受け、日比屋家の人々も入信しました。了珪は堺における切支丹の先駆者であり、多くの茶人が彼にならって入信しました。 

 この頃、千利休が茶湯の世界に登場します。それほどの教養を必要としない茶道は戦国武将の間に流行し、信長の時代に入りこの「数奇の道」に入らぬ者は居ないほどのに盛況でした。千利休をはじめ、堺の納屋衆など町家出身の茶人が武将に混じって、最も活躍したのもこの時代で、信長とその後を継いだ秀吉が覇権を握った30年ほどの期間でした。奇しくも、と言うか「妙に…」、茶湯興隆の時代はキリシタン興隆の歴史に見事に重なります。これは単なる偶然ではないように思うのは私だけではないようです。

 武野紹鴎(たけのじょうおう 1502-1555)は「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、日常生活で使っている雑器を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努めた。紹鴎(じょうおう)に入門した利休は紹鴎の『詫び』の対象を茶室の構造、手前の作法、茶器全体の様式にまで拡大、禅の「枯淡閑寂」(これ以上何も削れない)の極限まで無駄を排除して、侘び茶を大成させました。村田珠光(むらた じゅこう 1422-1502)から100年が経っていました。

 小説・映画:『沈黙』の中のフェレイラ神父の言葉、「全てを腐らせてしまう底なし沼」はあくまでもキリシタン宣教師側、キリスト教徒側から発した言葉であり、どうも私には引っかかります。同時に、もちろん利休が侘び茶を大成させたことは疑問の余地がありませんが、ここに全くキリスト教の影響がなかったかと言えば嘘になるでしょう。
狩野内膳南蛮屏風_2
※画像をクリックすると、右端に居る老茶人が拡大されます。
 山田無庵(1947-1993)著『キリシタン千利休』は神戸市立南蛮美術館所蔵、狩野内膳の『南蛮人渡来図』右隻に描かれた老茶人から話しが始まり、この老茶人こそが利休であり、利休はキリシタンであった、それを理由に秀吉から切腹を命じられるが、利休の死亡原因は切腹(自害)ではなく<処刑>であったしている。<自害>だったのか…、<処刑>、あるいは関ヶ原前夜の細川ガラシヤ<介錯>の例のような形なのか、私には、どちらでも良いのですが、選ぶとすれば後者:<処刑>か<介錯>です。利休に同じく切腹を命じられた大徳寺古渓和尚は<自害>の意志を表明した途端に許されています。キリシタンは宗教上<自害>は禁じられており、<自害>したのであるから、利休はキリシタンではなかったというのが通説ですが、洗礼を受けているか否は別に、キリシタンであること、信仰・共感の深度、深いのか浅いのか、少なくとも利休はキリシタンに対して深い共感を持っていたものと思われます。蒲生氏郷、高山右近、細川忠興、芝山宗網、瀬田掃部、牧村利貞、古田織部、利休七哲と呼ばれる彼等のほとんどがキリシタン、あるいはそのシンパ・共感者であることを見ればそれは明らかでしょう。『キリシタン千利休―賜死事件の謎を解く』のご一読をお奨めします。

 平安時代、空海は唐で学んだ密教を持って真言宗を開き、最澄は天台宗を開き、鎌倉時代、新仏教と呼ばれる法然による浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、時衆(宗)が誕生しました。その間、キリスト教者には信じられないでしょうが…、日本人は『神仏習合』、『本地垂迹』の方法を考えてそれまでやって来たのです。この時代、仏教僧、特に当時の禅僧が渡来の新しい宗教、それも幾つもの大洋を乗り越えてやって来たキリスト教に興味を持ちその教学を学ぼうとしたことであろうとは想像に難くありません。大徳寺和尚の文書・記録には改竄が多く、禁教令に備えてキリスト教関連の記述が削除されたのがその理由だそうです。

 利休は、村田珠光に始まる侘び茶を大成させました。しかし、キリスト教の伝搬がなければ、あるいは、彼が堺という国際、自由・自治都市に生まれなければ、そして禅宗という好奇心旺盛な仏教宗派がなければ利休の「茶湯」、ひいては今日言う「日本文化」も出来てはいないのではないでしょうか。利休を媒介に、禅宗とキリスト教が化学反応を起こしたのです。キリスト教には不幸な「底なし沼」ですが、蓮が泥水に咲くように、「日本文化」の重要な源泉の一つに思われます。
 ※参考:『キリシタン千利休―賜死事件の謎を解く

 p.s. 「3.11」から6年、神は沈黙を続けています。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

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February 05, 2017

『沈黙』、全てを腐らせてしまう底なし沼…か

 明治以降、日本文化に果たしたキリスト教文化の影響は大きく、特に大学を頂点とする高等教育に多大の影響を与えました。戦後、映画・文学その他アメリカ文化の氾濫が見られましたが、例えば、クリスマス、バレンタイン・デイ、加えて、最近ではハロウィンやサンクス・ギビング(アメリカだけの習慣)などの習慣が商業主義的に定着されつつあるとは言え、その文化の根幹であるキリスト教の布教はむしろ失敗に終わったと言えるのではないでしょうか。 

 私は辛うじて戦後生まれの戦後育ち、学校で学んだ英語もアメリカ英語(?)、テレビ番組の多くは西部劇やコメディ・ドラマ、中学生に始まる洋楽偏向趣味はほとんどがアメリカから輸入されたキリスト教的価値・道徳に裏打ちされたものでした。同じ頃によく訪れた神戸三宮、トアロード、元町にかけて、ガード下に並ぶ店舗はリバイスのジーンズを始めアメリカくさい商品で埋まり、車窓に見える東灘区から芦屋・夙川に立つキリスト教会の尖塔の風景はエキゾチックなものでした。確かにアメリカ文化に傾いたが、それ以上のものでもなく、その背景にあるキリスト教に興味はあっても、その信仰そのものに向かうことはありませんでした。

沈黙_3 先日観た映画、『沈黙』。イエズス会フェレイラ神父が長崎で拷問を受けて転向・棄教したという衝撃的な報告を受けて、かつて彼の指導を受けた弟子達が、禁教下の日本に潜入して恩師を探し出します。

〜 この国は全てを腐らせてしまう底なし沼だ。この国にはどうしてもキリスト教を受け付けぬ何かがある。〜 

フェレイラ神父の発した言葉です。

 1549年、そのザビエルが日本に来訪してキリスト教が正式に日本に伝わります。それから約40年で(秀吉によるバテレン追放(1587))キリスト教徒数は20万人を越えています。以来禁教となり、1889年明治憲法下、制限付きながら信教の自由が明文化され、西欧からの技術・科学・文化とともに、これを支えるキリスト教も流入、1945年の敗戦と共に信教の自由が保障されたにもかかわらず、信者数の増加は見られません。465年前の当時の人口(12百万)の1.6%がキリスト教信者であったことに比べ、今日(2014)のカソリック、プロテスタント及び正教信者数が1百万と、人口のわずか0.8%に過ぎません。
 
 鎌倉時代、庶民には難解な密教の呪術性を徹底的に排除、国家権力(鎮護国家・貴族)の為のという旧来の仏教(6世紀仏教伝来以来の「南都六宗」に天台宗、真言宗を加えた旧仏教諸派)から決別して、個人の救済に専念したのです。従来、天台浄土教を信仰していた貴族・武士だけでなく、一般民衆にも急速に広がりました。文字を読めない、況んや難解な仏典を理解できない多くの庶民に対して、「ナムアミダブツ」と念仏さえ唱えれば…、あるいは「座禅」を組むだけで…、「念仏踊り」に身を委ねるだけで…、往生できると説いた鎌倉新仏教が誕生しました。これは正に日本の宗教改革でした。

 その一つ、法然に始まる浄土宗は、親鸞(1173-1263)に引き継がれてその革命性をさらに先鋭化して浄土真宗となり、室町時代、蓮如(1414-1499)の時、ひたむき(純粋)に念仏を唱えて阿弥陀仏を信仰するとして、「一向宗」と呼ばれ、北陸・近畿・東海地方に興隆します。生活共同体(惣)であると同時に宗教共同体(講)、室町から戦国時代にかけて、各地で新しい村落自治共同体が出現するまでに発展します。「一向宗」の時代は、1580年、信長による石山本願寺敗北まで続くことになります。

 この時期にキリスト教が伝来したのです。イエズス会の意義は、宣教のみならず、ルネサンス後期の「人文主義(humanism)」に基づき、コレジオやセミナリオ等、高等・初等教育に積極的に取り組んだことです。当初、仏教僧、特に禅宗の僧侶がこれを学び、戦国武将の中に南蛮貿易の実需のために改宗する者、次第に真の信仰を行う改宗者が現れ、社会の指導者層のみならず一般大衆にまで広がります。 利休の高弟にも蒲生氏郷(レオン)、細川 忠興(その正室ガラシヤ)、高山右近(ジェスト)、大友宗麟(フランシスコ)、黒田如水(シメオン)等のキリシタン大名が少なくありません。鎌倉時代に遡る武士道の精神、禅を母胎とする茶の湯の精神、キリスト教の精神、これら三つに通じるのは「静寂の精神」「清貧の精神」です。

 〜 この国は全てを腐らせてしまう底なし沼だ 〜 

 はたして、そうでしょうか…。この国、この時代に、利休はキリスト教から学び、芸術、道徳、哲学、宗教など、日本文化の総体、「茶の湯」を完成させたのではないでしょうか。

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December 08, 2016

庵の窓の外は…<2> ルネッサンス

              
銀閣寺窓  日本に禅宗が伝えられたのは鎌倉時代であり、武士・一般庶民に広まり、室町時代に幕府の庇護の下で発展しました。といっても、禅宗が定着したのは京都・鎌倉・博多ぐらい、 当時の日本人にとっては、禅文化は異国趣味の、流行の最先端を行く、これほどまでに日本的ではない文化はありませんでした。深い教養を必要としない禅宗及びその文化:喫茶はぱっとでの武士・一般庶民に広まり、当初は闘茶・茶寄合など自由狼藉・バサラの文化でしたが、次第に変貌、洗練されて「わび・さび」・「枯淡の美」を表現する、茶の湯、生花、書画、建築、現代日本文化の源流である室町文化に発展します。

 14〜15世紀、 茶の湯の舞台である書院座敷は大型化と小型化と対局する方向に分化し、 後者は禅宗の隠者的在り方が強く影響し、四畳半という小世界に在って無限の自由を追求するというもので、16世紀には四畳半の草庵茶の湯が泉州堺の商人衆を中心に行われるようになります。人里離れて隠遁するのではなく、都市の中に数奇にふさわしい茶の湯の家を作り「市中の山居」を楽しんだのでした。

 摂津河内和泉三国の境という意味の堺は明、李朝鮮、東南アジアとの貿易で大いに栄え、財力を成した商人が次第に領主権力を排除、会合衆を中心に自治的な都市運営を行っており、環濠を巡らし、自衛・武装していました。当時の宣教師は堺をブェニスに匹敵する自治都市と紹介しています。利休の師、武野紹鴎(たけのじょうおう1502-1555)は一向宗徒(浄土真宗)から禅宗に改宗(?)、貴賤平等を唱え、茶の湯では同じ高さの位置、同座する平座を提唱、床の間から身分の高い人が座るというの本来の機能を奪い、掛け物、生花という座敷の意匠の中心に据えた。不必要なものを思い切って省き、室町将軍殿中の唐様飾りを数奇の茶の湯から排除、明治から3世紀も昔に人間平等・四民平等を唱えたのは革命的です。虚飾を捨て、自己を開放し、人間らしさを主張する、言葉を換えれば、大変動の時代に在り、従来とは全く異なる価値観・倫理観を持ち、社会的な束縛・因習を破って、自分の自由意志で行動する新しい人間が生まれたことを示しています。これは正にイタリアで始まった ルネッサンスを貫く思想、「人文主義(humanism)」です。 
 
 大航海時代による貨幣経済、重商主義経済の発展は文化面、特に宗教面に現れます。 ミケランジェロ_ダビデ像ドイツでは、ルターが痛烈な教会批判を行い(1517)、フランスではカルヴァンが国王に叛旗を翻し(1536)、イギリスもカソリックを離脱して新しくイギリス国教会を作ります(1534)。「人文主義(humanism)」が「宗教改革」をもたらしたことになります。ルネッサンスは、13世紀後半、ダン ザビエルテ(1265-1321)に始まりミケランジェロ(1475-1564)に終わりますが、このミケランジェロとフランシスコ・ザビエル(1506-1552)とは正に同時代です。カソリック教会のイグナチオ・デ・ロヨラ、ザビエル等6人が、プロテスタントによる宗教改革運動に対抗して結成されたのがイエズス会(1537) であり、その意義は、宣教のみならず、ルネサンス後期の「人文主義(humanism)」に基づき、世界各地における高等教育機関の運営に積極的に取り組んだことです。1549年、そのザビエルが日本に来訪してキリスト教が正式に日本に伝わります。ザビエル来日(1549)から約40年で(秀吉によるバテレン追放(1587))キリスト教信者数は20万人を越えています。 今日のカソリック及びプロテスタント信者数は1百万、人口のわずか0.8%にて、当時の人口(12百万)の1.6%(今日の倍の比率)がキリスト教徒であったことは驚異です。

 千利休(1522-91)、堺の商家に生まれ、家業は納屋衆(倉庫業)、祖父:千阿弥が足利義政の同朋衆で、その一字をとって千家を称した。武野紹鴎を引き継ぎ、禅の精神である「和敬静寂」を根底に、簡素・静寂・清浄を旨とする数奇茶、茶の湯を大成、1585年、利休居士と名乗る。堺町衆の茶の湯好み(茶数奇)が戦国武将と町衆茶人と大徳寺禅宗とを結びつけることになります。そして戦国武将の少なからぬ人数が、当初は南蛮貿易を行う実需のためにキリスト教に改宗する大名もいましたが、次第に近畿地方の大名にも真の信仰を行う改宗者が現れます。 利休の高弟にも蒲生氏郷(レオン)、細川 忠興(その正室ガラシヤ)、高山右近(ジェスト)、大友宗麟(フランシスコ)、黒田如水(シメオン)等のキリシタン大名が少なくありません。鎌倉時代に遡る武士道の精神、禅を母胎とする茶の湯の精神、キリスト教徒の求道精神、これら三つに通じるのは清貧の精神であり、物欲からの脱却し開放を指向することです。

 よく指摘されるように、茶の湯の約束事には多くのカソリック的要素が見られます。茶の湯の「にじり口」⇔「狭き門より入る」、利休の杖とカソリック司教杖との類似、利休が考案した愛用の雪駄はイエズス会修道士の履き物にヒントを得た、茶と茶菓子⇔ミサのパンとワイン、濃茶を回し飲みした後に茶碗を拭う作法⇔ミサのコミュニオン(Communion 聖体拝領 聖拝でワインを回し飲みする)の際に聖杯を拭う作法、「一味同心」の交わりという理念⇔ミサのコミュニオン(Communion 共同体の意味)等が類似点ですが、「茶室」⇔ミサの「祭壇」、床の間の書画・生花⇔ステンドグラスの窓、絵画・彫刻が対照的です。

 堺の町衆だった武野紹鴎、同じく彼を継承した利休が「茶の湯」を完成した。これが、一千数百年もの歳月をかけて磨き上げられてきたカソリック儀式のミサに匹敵する芸術的・宗教的所作あるいは儀式とは全くもって驚異な事です。地球の西の端と東の端、それぞれが別個の起源に発し、別個な道を辿りながら、膨大な年月をかけて到達したものが、一方のカソリック儀式のミサであり他方の「茶の湯」だった。…とは信じがたいことです。彼は「自治都市」堺の出身、この町は遠くヨーロッパにも開かれていたはず、彼はヨーロッパが「ルネッサンス」から「大航海時代」・「宗教改革」に至る様子を知って…、あるいは気付いていたのではないでしょうか。利休は、彼の弟子達と同じく、キリスト教徒だったのか…、そうでなくとも、知識は十分にあったはずです。

 あるいは、禅宗そのものに大きなキリスト教的、現代にも通じる「人文主義」的要素があるのでしょう。『路上にて On The Road』を書いたジャック・ケルアック(Jack Kerouac、1922-1969)は禅ismを散りばめた小説を書き、60年代後半に始まる対抗文化:ヒッピー文化の一つの中心に位置し、ボブ・ディランにも影響を与えました。ジョージ・ルーカスの『STARWARS』日本の禅が色濃く、アップルのスティーブ・ジョブズに至っては禅宗徒(曹洞宗)、禅僧であったのはご存じの通りです。

 混乱の戦国に生まれた「茶の湯」、近世・近代をぐーっと手繰り寄せます。
※参考:山田無庵『キリシタン 千利休 』 増淵宗一『 茶道と十字架 』 児島孝『数奇の革命 』 五野井隆『大航海時代と日本
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December 01, 2016

庵の窓の外は…<1> 大航海時代

                 
窓の外  「茶の湯」は禅宗に起源をもち、やがて追随しがたい小宇宙とでもいうべき日本独自の様式を作り出したと云われています。

 マルコ・ポーロ(1254〜1324)は、元の時代、中国に滞在してしていた時に話しに聞いたという「黄金の国、ジパング」。  日本では初めての武家政権、 鎌倉幕府の時代、そのかつての「黄金の国」奥州平泉藤原氏は既に滅亡しています。それから2百年、コンスタンチノープルは既に陥落(1453)、東地中海はイスラム勢力下にあり、ポルトガルは地中海から敗退したジェノバ商人の力を借りて海洋貿易立国を計り、西地中海では「レ・コンキス Age Of Discoveryタ」が完成(1492)します。 こうして、ポルトガルはアフリカ大陸西海岸を次々に占領して南下、1497年にはバスコ・ダ・ガマが喜望峰を周りインド航路を開拓します。  同じくイベリア半島にあるスペインの支援を受けたコロンブス(1451?〜1506)は、1492年、「黄金の国、ジパング」を目指して大西洋を西に向けて船出します。「ポルトガル人はカルカッタ、マラッカを越え、マカオ、1541年には豊後に辿り着きます。日本に鉄砲そしてキリスト教を伝えたのも彼等でした。

 この頃からでしょうが、ヨーロッパでは陶器・焼き物は「チャイナ china」と呼ばれるように、優れた陶器は中国から輸入されました。  後に、日本の漆工芸品、特に蒔絵が珍重されて、漆器は「ジャパン japan」と呼ばれるようになりました。もし、「漆器・塗り物の国、ジパング」が流布されていたとしたら、アメリカ大陸、新世界の発見は遅れていたかも知れません。

 日本独自の様式を作り出したと云われる室町時代(1336–1573)は、政治的には武士が公家を圧倒、文化的には大陸文化と日本文化、公家文化と武家文化など諸文化の融合が進展し、禅宗を母胎とする簡素な、枯淡の美しさ、「わび・さび」と伝統文化における風雅、幽玄が精神的な基調をなしています。「応仁の乱(1467)」以降も足利室町幕府の余命は保たれてはいるが、もはや統治能力はなく、群雄割拠の戦国時代、信長が最後の将軍:義昭(1537-97)を追放しながらも、「天下武布」完成を目前にして「本能寺の変」に倒れます。その後を継いだのが秀吉でした。

 時代は婆娑羅(バサラ)から下克上、戦国騒乱の時代、社会は大変動が起こっていました。喫茶の習慣は禅宗が中国から持ち込んだ文化でしたが、初期の茶は後に利休が完成させた「茶の湯」とは全く異なるもので、饗膳・飲酒の席にふるまわれ、茶を飲んでその銘柄を当てる博打(闘茶)が行われ、その乱痴気騒ぎぶりを足利幕府も規制したほどです。座禅を組むだけで往生できると説いた禅宗は武士・庶民の間に広まり、和歌管弦には高い教養が不可欠ですが、喫茶は成り上がりの武士や誰にでも出来るものでした。「茶寄合」の文化は自由狼藉・無礼講(バサラ)の世界と云えるでしょう。「数奇」は「好き」の当て字、伝統的な風流・風雅を加味して、当初は和歌を指したが、やがて「茶の湯」を指すようになった。偏執的な行為の許容だけでなく、常軌を逸する行為、習慣やしきたりなどの社会的制約に束縛されることなく、自分の欲するままに自由に行動することを意味し、「茶の湯」が「数奇」と呼ぶにふさわしい内容と性格を持つように洗練された事を意味します。

 日本を訪れた宣教師は日本人がなぜ古い釜や土製の器を、ヨーロッパ人が宝石・貴金属をそうするように、宝物として扱うことを理解出来ず、ヨーロッパ宮廷文化で磁器・漆器が重宝がられるまでにはあと百年を待たなければなりません。

※参考:増淵宗一『茶道と十字架 』、児島孝『 数奇の革命―利休と織部の死
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October 30, 2016

そうだ、バスで、京都に行こう!<2> 蚕の社

                 
 「嵐電(京福電鉄)」は京都の長い歴史を往還するタイムマシンかも知れません。白梅町駅で嵐電(北野線)に乗車、「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」駅で本線に乗り換え、「太秦広隆寺」駅、そして「蚕の社(かいこのやしろ)」と、ひらがなで綴った駅名はまさにタイムマシン、映画:『Back To The Future』デロリアン(De Lorean )です。
白梅町駅
 司馬遼太郎著の何かの本で読んだが、彼はまだ若く産経新聞京都支局で大学か宗教の担当であった時、街の銭湯で一人の老人と出会い、「日本にキリスト教を初めて伝えたのはフランシスコ・ザビエルではない。彼よりさらに千年前、すでに古代キリスト教が日本に入って来た。」と話してくれたのがその小説を書き始めた動機であったとは、少々出来すぎだったのではないでしょうか。銭湯で会った老人とは佐伯 好郎だったのか…?、その小説とは彼の初期の短編:『兜率天の巡礼 』でした。

 本来、キリスト教は全能の唯一神以外に神の存在を認めない一神教であるが、預言者の一人にすぎないイエスは自ら神の一人子となのって神の座を獲得したが、そのイエスを生んだマリアは何者だろうか。西暦431年の東ローマ帝国の首都、コンスタンチノープル、教父:ネストリウスの「マリアは神の容器であったかも知れないが、神の母ではない」という説は神学論争に敗れ、邪説の烙印を押され、一派は異端として追放されることになります。コンスタンチノープルを追放された彼等はペルシャ、インド、天山北路を東へ、中国に至る。大唐の興隆期、636年に首都:長安に現れ、他民族宗教に寛容な治世下に景教寺院「大秦寺」を建てるが、武宗の時代、仏教寺院と同じく廃棄された。これ以降、中国で景教徒と呼ばれた古代キリスト教ネストリウス派は歴史に消息を絶ちます。

 それから一千年後の明の時代、1625年、『大秦景教流行中国碑』が発見され、出土の状況は、ポルトガルのイエズス会士アルヴァロ・セメドが記録している。

 景教徒の日本渡来は唐よりも古く始まるが、推古朝の6世紀、コンスタンチノープル追放後百年、普洞王が率いる一派がいまの兵庫県赤穂郡比奈ノ浦に上陸して入植した。後に河内、たけのうち峠を経て飛鳥に至り、やまと朝廷の女性をもらい受ける。女性は普洞王の子を出産して比奈ノ浦に下った。その子が長じて倭女を娶って男子が誕生する。それが秦河勝でした。河勝は山城地方を開拓、織物の生産を興隆して、その私財を蘇我氏に抗する聖徳厩戸皇子に注ぎました。

 京都のデロリアン、一両編成(?)の嵐電電車は「太秦広隆寺」駅に到着、駅前の広隆寺を訪れる。昔、小学校か中学校の遠足で来たような…、弥勒菩薩半跏像、秦河勝お及び河勝夫人と伝えられる木造座像を始めとする蒼々たる国宝・重要文化財がならぶ秦氏の氏寺であり、平安京遷都(794)以前から存在した、京都最古の寺院である。残念ですが…、秦河勝像をして「〜ペルシャ人かユダヤ人に見える」というくだりがあるが、どう見ても我々と同じモンゴロイドにしか見えません。東隣の「大酒神社」は、明治の廃仏毀釈により分離されたが、それ以前は広隆寺内に鎮座する異教の廟所、「大闢(たいびゃく)ノ杜」でした。

 「大酒神社」から徒歩で10分、今回のハイライト、「蚕の社(かいこのやしろ)」に辿り着きます。正式には「木島坐天照御魂(このしまにまずあまてるみたま)神社、または木島神社」と呼ばれます。我々姉弟の二人だけ、社外の騒音は嘘のようで、大木に囲まれた境内は静寂そのもの、二人の足音しか聞こえません。やがて、本堂に向かう左手に三脚の鳥居が忽然と現れます。
三脚鳥居_蚕の社

  1千5百年も隔てる過去と現在、1万1千キロを隔てる西と東、幻と現を往還した短い旅は間もなく終わります。「蚕の社」駅で乗ったデロリアンは現在に向かって走り出します。
※参考資料:司馬遼太郎著『兜率天の巡礼

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September 14, 2016

これも、散歩の途中? <18> 高時腹切りやぐら

 「源平の戦い」の覇者、源頼朝は征夷大将軍に就き、坂東相模国鎌倉に幕府を開きます(1192)。京の貴種:頼朝は坂東武士の土地所有を保証するシンボルとして棟梁に担ぎ上げられ、対京都(=朝廷)交渉の機能を果たし、鎌倉幕府の確立後は用済みとなります。征夷大将軍:頼朝は突然死、跡を継いだ嫡男:頼家も変死、その弟の実朝も変死、頼朝の血筋はあっけなく絶えてしまいます。クーデター(?)によって政権を簒奪(?)した北条氏は、次々と仲間内の熾烈な争いに勝利して最高権力を握ることになります。北条氏、特に得宗家が烏合の衆であった坂東武士をまとめ上げ、百五十年間に渡り政権を保持することになります。もし、モンゴルの侵攻(元寇)がなければ、もう少し長かったはずです。

 1333年2月、後醍醐天皇が隠岐を脱出、鎌倉を発って六波羅救援に向かった足利尊氏は京の西、大江山、老ノ坂を越えた足利氏の飛び領地、丹波亀岡篠村八幡社で後醍醐の勅旨を得て挙兵、後に光秀も「敵は本能寺にあり!」と同じ道を行くのですが…、老ノ坂を越えて京に迫ります。2年後、後醍醐に叛旗を翻した尊氏は敗走、三度目の老ノ坂越えで西国へ逃れることになります。元へ…、5月、尊氏の京総攻撃に耐えきれず、六波羅探題:北条仲時・時益は光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って脱出するも、時益は首の骨を射られて討死、光厳は肘に矢を受け、9日(?)仲時は近江国番場宿蓮花寺に辿り着くも、前を佐々木道誉の軍勢に阻まれて万事休す。天皇と上皇を残し、仲時は一族432人と共に自刃しました。

 一方の関東では、5月8日、同じく後醍醐の勅旨を得た新田義貞が挙兵、18日には稲村ヶ崎から鎌倉に突入します。

腹切りやぐら_1 熾烈な仲間内の権力争いの政治的決着なのか…、得宗家の当主は同じ北条氏や外戚である安達氏から室を迎えることが多く、長きに渡る近親結婚の影響なのか病弱短命で、最後の執権:高時は暗愚(?)とはもっぱらの評でした。高時以下得宗家一門は、代々の執権が暮らした「小町亭」と呼ばれる居館を出て、裏を流れる滑川に沿って歩き、葛西ヶ谷を背にした菩提寺:東勝寺が、北条九代百五十年、最期の地となりました。「供養塔卒塔婆」には高時と共に870人が自刃したとあります。

腹切りやぐら裏 近番場宿蓮花寺での432人そして鎌倉東勝寺での870人、合計1,300が自刃したとは、後にも先にも、これほど強い結束力はありません。鎌倉・六波羅探題の滅亡した中に御家人はほとんどおらず、北条氏一門と御内人(みうちびと、みうちにん 北条得宗家に仕えた武士)ばかりでした。北条氏が如何に排他的であったかを物語る数字です。元弘3年、1333年5月に亡んだのは鎌倉幕府ではなく、北条氏一門と御内人だったと云うことが出来るでしょう。

腹切りやぐら 北条一族の慰霊のため、1335年、後醍醐は尊氏に命じて「小町亭」跡に「宝戒寺」を建立します。

 「宝戒寺」から最期の地、高時の「腹切りやぐら」まで5分のはずが、案内標識を見落としたために、30分も余計にかけて辿り着きました。

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July 13, 2016

散歩の途中<14> 八王子城跡

 去年10月、Ikeさんと一緒に訪れた八王子、産千代稲荷神社の境内に建設中だった大久保長安の資料館(?)がそろそろ完成の頃では…、とサイトを探したが見つからず、長安資料館(?)というのも私の勘違いだったかも知れません。ということで、急遽行き先を八王子城跡に変更しました。

 後北条氏の三代目:北条氏康の三男:氏照は、小田原-上野(現在の群馬県)間交通の押さえ:滝山城(八王子)を本拠とした。1569年、小田原を目指す武田信玄軍に三の丸まで攻め込まれ、落城寸前までとなった。これを機に(?)八王子城(標高445m、比高240m)を築城、1587年頃までに本拠地を移しました。

虎口 最近整備されたと聞く、城主:氏照の居館:「御主殿跡」を目指します。大手門跡から曳橋を渡って御主殿の出入り口:虎口を見上げる石段にどこか、確かに過去に見たことのある記憶が蘇ってきます。階段の一段一段が高く、勾配もきつく、圧倒されるように大きく見えるのは安土城のそれです。既視感(デ・ジャブ)ではなく、八王子城築城の際、氏照は家臣が信長の安土城を訪問してこれを参考にしたと、見学後のガイドさんの説明がありました。私の感覚も捨てたものではありません。

 1590年、北条氏攻撃に総勢22万の兵力を動員、その為に鴨川に三条大橋を架設したと言います。先陣を命じられた家康に続いて諸大名が東海道を東進、秀吉自身は3月1日に京都聚楽第を出発、27日、本陣の三枚橋城(現在の沼津市)に到着、既に最前線では交戦が始まっています。箱根の西坂に位置する山中城は早々に陥落、4月1日には秀吉が箱根峠に達しています。4月3日には豊臣軍の先鋒は小田原城へと迫り、小田原城包囲が始まりました。一方、前田利家・上杉景勝等の北国勢は碓氷峠を越えて上野に入り、4月20日には松井田城(安中)を開城、城主:大道寺政繁は豊臣方に降り、北条方諸城の案内役として豊臣方に協力しました。これを皮切りに、上野・下野・相模・武蔵の諸城は次々に降伏開城します。

 秀吉に「実力で落とした城がない」となじられた北国勢は、最後に残る八王子城を徹底的に攻撃することを決意したといわれます。

 上野の最前線に位置するの松井田城(安中)の大道寺政繁が豊臣方に降り、それ故か、次に控える平井城(藤岡)の守将:平井無辺も凋落され、次々と将棋倒しとなった観があります。その平井無辺は普請奉行で八王子城の構造を熟知しており、6月23日、前田・上杉・真田の北国勢(1万5千)は攻撃を開始、彼の案内で上杉軍が本丸頂上を占拠、城は一日で陥落しました。犠牲者は千余名、あるいは3千とする説もあり、60余名の婦女子捕虜は見せしめのために相模川から舟で小田原に護送されたそうで、この八王子城落城が決め手となって、小田原城は開城します。八王子城主:氏照は小田原に籠城中の兄:氏政と共に自死、北条氏は滅亡しました。

 後北条氏の祖:北条早雲の出自は備中伊勢氏、幼くして禅僧の教育を受け、京の大徳寺で修行を積み、公家衆とも交流した教養人でした。信長・秀吉に先立って領内の「検地」を実施、『壁書(へきしょ)二十一条』を定め、御家人・領民の生活規範を現し、質素・倹約に務めた経済家でもあり、戦国時代を切り開いた人でした。小田原から関八州にかけては、全国で一番地租の安いところであったが、これは早雲のお陰…、とは勝海舟の言(『氷川清話』)です。関東に入る家康は、本拠地を早雲が造った小田原にすべきか、あるいは江戸か、大いに迷ったはずです。家康は、領民に慕われた早雲の築いた小田原ではなく、江戸を本拠地に選び、旧北条氏領の多くを幕府直轄・天領としました。加えて、井戸水に海水が含まれる…江戸の開発に不可欠な飲料水の確保の為に、早雲の建設した小田原城下の水道施設をこの江戸にも採用しました。

 これほどまでに慕われる早雲、後北条氏なのに、何故、いざ決戦と言うときに、次々と将棋倒しの如く、裏切りにも似た降伏開城になったのか全く判りません。例外的に、多くの犠牲を出した八王子城攻めとは対照的に、石田三成軍の「水攻め」を受けた忍城(行田)はよく守り、ついに降伏するのは、小田原城陥落後の7月16日でした。
八王子神社
 急な山道を登ること40分、八王子城本丸跡に至ります。すぐ下に「八王子権現」を祀った八王子神社(廃屋)が風雨にさらされています。仏教の守護神である牛頭天王には8人の子(八王子)がいるとされ、市名の由来です。
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June 24, 2016

鎌倉新仏教(2) 聖と遊行僧

 私が育った兵庫県の南東に位置する伊丹という町、その北部に昆陽寺(こんようじ 地元では「こやでら」あるいは「行基さん」と呼ばれる)があります。731年、行基が灌漑用の「昆陽池」を建設、これに従事する貧民の救済を目的とした「昆陽施院」に始まります。行基(668-749)は寺院外の布教を禁じた「僧尼令」に違反して托鉢して民家を回ったとして弾圧されましたが、行基に対する民衆の支持が大きいと見た朝廷は、東大寺大仏造営の勧進役に起用しました。律令制度の下、国家鎮護のための仏教に反して民衆の救済を説いた行基の行いは後に空也(903-972)に引き継がれ、抑揚・高低・曲調を付けた「南無阿弥陀仏」を唱えながら念仏踊りを行うもので、民衆の大きな支持を得ました。

 法然、親鸞に始まる、中世の宗教改革と言うべき、鎌倉新仏教に連なり、行基・空也の後を継いだのが一遍でした(教団:時衆の結成は室町時代)。どんなに穢れていようと、いかなる不信心者であろうと阿弥陀如来の力で必ず救われると全国を旅し、空也上人に倣って各地で念仏踊りを催しました。こうして、「一切往生・平等往生」を説いた法然の思想は民衆に広がりました。
160622一遍聖絵より
 南都六宗、比叡山、高野山の僧侶は得度僧と呼ばれ、民衆の中に入って布教することを禁じられていたが、民間で布教した僧侶:私度僧は民衆の中を奔走して、無許可で僧侶になった者で、彼らは「聖(ひじり)」と呼ばれました。この「聖」に属する僧には大きな幅があって、上は、貴族の出身でありながら、得度僧の堕落に見切りをつけて…、日々の生活から逃れて…、下は、その日の食べ物を得る為に僧形をして物乞いし…、隠遁・放浪生活をした。平安末期の西行も僧形をしていたが(実は「高野聖」)、見方によっては…、貴族の道楽・風流、日常生活を捨てたようで…、その実、片足はきちんと俗世に置いたようにも見えます。

 民俗学者の五来重(ごらいしげる)はその著:『高野聖 』の中で「聖」を下記のように説明しています。
『聖』の属性
 美辞麗句に、抑揚・高低・曲調を付けた語り、伴奏も付けて、聴衆を説話の中に引きずり込み、いや、没頭させ、恍惚とさせなければなりません。聞き惚れる唱導が芸術に変わって行ったのは極めて自然ななり行きです。寺社のために勧進をやっているのか、自らが食べていくために唱導をやっているのか…、琵琶法師によって口承されていた『平家物語』は語られる毎にその芸術性を高めていったことを思えば、日本の文学・芸能の代表作品は多くの「聖」達によって造られたものであると言えるでしょう。
 
 鎌倉中期、法然から70年後、伊予国河野氏を出自とする一遍が依るべき階層は自分の出身階層である地方武士でした。「無縁(むえん)」、「公界(くがい)」を、主従の縁、親子の縁、賃貸関係等、世俗の縁が切れた「自由」を保証する場所(中世西欧における「アジール(避難場所)」)とし、「公界」の寺の僧はそれにふさわしい能力=「芸能」を身に付ける必要がありました。能役者、連歌師、太平記読みなどの芸能民は「公界衆」と呼ばれ大名など権力者の宴席に並び、彼らは後の「同朋衆」につながります。山伏、時衆僧、禅僧は戦に於いても敵味方と縁の切れた「公界」の人、戦場における死者の供養、負傷者の救援など、時衆僧と武士との間には深い絆が生まれました。

 14世紀、南北朝動乱期から室町時代にかけて、北陸・近畿・東海など産業文化の先進地域では連帯性と自立性を持った「惣村と呼ばれる新しい農村共同体が生まれ、村民全員参加の信仰組織:「講」が結成され、村々に道場が置かれました。後の「一向一揆」につながります。当時の農村は閉鎖的な共同体、これを横へ広げたのは諸国を渡り歩く<職人>、商業・運送業を営む<ワタリ>でした。

 元弘3年(1333)六波羅探題の北条仲時は光厳天皇と花園上皇を奉じて関東に逃れようと、都を落ちて近江国へと敗走するが、番場宿蓮花寺にて進退窮まり、命運尽きたことを悟った北条仲時は六波羅軍の解散を命じて自刃、彼に従った北条一門432人が彼の後を追って自刃します。この敗走する六波羅探題軍の前に立ちはだかったのが佐々木道誉(1306-1373)でした。楠正成とともに討幕運動に参加、足利高氏と密約して連携、この馬場宿で天皇・上皇を捕らえて三種の神器を強奪しました。武家政権樹立を躊躇する高氏に積極的な反旗を働きかけた道誉はいわば足利政権の立役者でした。運送の拠点となる大津始め琵琶湖沿岸の津・泊などの商業・流通・運送の拠点となる地を所領とし、一般的な武士からかけ離れて、流通・商業からなる<ワタリ>的な生活をしていたのでしょう。

 道誉は婆娑羅大名と呼ばれ、暴力と風流のアンビバレンス、和歌・連歌、立花・茶・香などの芸道にも造詣が深く、多くの芸術家を経済的に援助するなど、いわば中世文化のパトロンでした。三代将軍:義満(1358-1408)の同朋衆:海老名南阿弥(なあみ)とともに「猿楽=能」観阿弥のスポンサーとなります。現代にも生きる義満が築いた北山文化、その代表は観阿弥・世阿弥の「猿楽=能」でしょう。注目すべきは、道誉と共に討幕運動に立ち上がりながらも最後には敵味方に分かれる正成ですが、彼の姉か妹(?)が観阿弥の母親、観阿弥は正成の甥、正成は観阿弥の叔父に当たります。

 この時代から戦国時代にかけて、個性的な生き方をした人、傾いた人は、阿弥号の有無は別に、どこかに一遍、時衆、遊行僧のにおいを感じます

※ 参考:五来重(ごらいしげる)著:『高野聖  』
 
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June 04, 2016

鎌倉新仏教(1) 時衆

 奈良時代、「南都六宗」と呼ばれた仏教は「鎮護国家」の論理の下、各地に国分寺を建造、律令制強化の手段でした。仏教が定着してくると、実は日本の神々も元を正せば仏であり、仏が「権化」して神となったとする「本地垂迹説」が現れ、さらに盛んにった聖武天皇の時代、唐から鑑真を招き唐招提寺を建立することになります。次第に勢力拡大、政治ににも口を挟む「南都六宗」の拡大を嫌って桓武天皇は平安京に遷都、空海及び最澄を中国に留学させて密教を学ばせました。最澄は比叡山に天台宗を、空海は高野山に真言宗を興し、旧仏教勢力と対抗させたのです。

 古代律令体制は既に崩壊、摂関政治の下に荘園制が進み、平安後期に入ると、天台浄土教の興隆は摂関政治の確立にもつながったということになります。宇治平等院鳳凰堂に代表されるように、阿弥陀を信仰して極楽浄土へ往生することを目的とし、「穢れ」を忌避する伝統的な土着神祇信仰を巧みに取り込んで、浄土信仰は高まっていきます。

 平安の末期になると、「末法思想」が広く信じられ、貴族政治という一つの時代そのものが崩れ落ちていく終末感に加え、大地震・水害・干ばつなの天変地異、疫病や飢饉、大火災や度重なる戦乱で社会は騒然となり、人々の生死に対する問いかけに、閉塞した旧仏教勢力(「南都六宗」及び叡山・高野山)からは何の答えも得ることが出来ませんでした。

160620一遍上人 仏教学を修めた法然(1133-1212)は比叡山を降り、末法の世に生まれた悪人・俗人・凡夫も、それまでは不浄とされた女性さえも、一心に念仏を唱えさえすれば極楽浄土へ往生出来ると説いた。庶民には難解な密教の呪術性を徹底的に排除、国家権力(鎮護国家・貴族)の為のという旧来の仏教から決別して、個人の救済に専念したのです。従来、天台浄土教を信仰していた貴族・武士だけでなく、一般民衆にも急速に広がりました。文字を読めない、況んや難解な仏典を理解できない多くの庶民に対して、「ナムアミダブツ」と念仏さえ唱えれば…、あるいは「座禅」を組むだけで…、「念仏踊り」に身を委ねるだけで…、往生できると説いた鎌倉新仏教と呼ばれる浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、時衆(宗)が誕生しました。当然、旧仏教勢力はこれを庇護する国家権力を動員して法然を徹底的に迫害・弾圧します。

 法然に始まる浄土宗は、彼の弟子、親鸞(1173-1263)に引き継がれてその革命性をさらに先鋭化、後の室町時代、蓮如(1414-1499)の時、ひたむき(純粋)に念仏を唱えて阿弥陀仏を信仰したとして、「一向宗」と呼ばれ、北陸・近畿・東海地方に興隆します。生活共同体(惣)であると同時に宗教共同体(講)、室町から戦国時代にかけて、各地で新しい村落自治共同体が出現することになります。

 鎌倉時代末期になると、行基(668-749)そして空也(903-972)の系譜を引く、法然の孫弟子になる、一遍(1239-1289 時衆(宗))が現れます。貴賤を問わず、阿弥陀仏への信不信は問わず、如何に穢れていようと、念仏を唱えさえすれば往生できると説いた。すべてを捨て、遊行によって、人々の心に大きな希望をもたらしました。人々の心の底から湧きあがる歓喜は、彼らの体を揺り動かして恍惚没我=トランス状態に導き、神(仏)と交信するシャーマンと化す、「踊り念仏」に至ります。

 室町期、この時衆(宗)に関係すると思われる「阿弥」号を持った芸能家・芸術家が現れます。猿楽能の大成者であり「風姿花伝」の著者:観阿弥・ 世阿弥父子を始め、竜安寺の石庭を造った相阿弥など、後の安土桃山時代、茶の湯を大成した千利休の祖父は千阿弥を号しました。彼らは「阿弥衆」あるいは「同朋衆」と呼ばれ、日本文化の多くの部分は彼らが大成したと言えるでしょう。こうして室町時代、時宗は全盛期を迎えますが、多数の念仏行者を率いて順調な遊行するには幕府・大名の庇護が必要となり、権力への接近が、逆に民衆の離反につながり、次第に勢力を弱め、浄土真宗や曹洞宗に吸収されていきます。

 去年出来たことが今年は出来ない、風邪を引いても、今まで1〜2日で治っていたものが3週間もかかったり、それも、若い頃のように100%元の状態に戻るのではなく、60〜70%しか戻らないのです。こうして、徐々に年をとって、死んでいくのでしょう。今まで漠然としていた死が、阪神大震災・東日本大震災そして最近の熊本大震災を経て、確実に迫ってきているのに気付く機会が多くなってきたように思われます。こういう訳でもないでしょうか…、最近、仏教に接近する自分に気付くのです。

 5年前、自転車で知り合った友人:Hさんに初めて連れて行ってもらったのですが…、先日、久しぶりに自転車で藤沢の時衆総本山:「遊行寺(正式名:藤澤山無量光院清浄光寺)」を再訪したのもこんな思いがあったからでしょう。案の定…、かろうじて藤沢に辿り着きましたが、さらに江ノ島までは到底無理、「去年出来たことが、今年は出来ない」を証明してしまいました。

 日本仏教各宗派の総本山・本山の多くは京都・奈良など近畿地方に多く見られるのですが、時衆の総本山はこの藤沢にあるのが少々不思議です。それだけでなく、あの国定忠治の子分、板割淺太郎の墓所、小栗判官と照手姫の墓所(?)や熊野詣の資料、六波羅蜜寺の空也像のレプリカ(?)、教科書で見る後醍醐天皇の肖像画、もちろん国宝:「一遍聖絵巻」など、遊行僧が全国を歩いて集めたであろう品々が「宝物館」に収納されています。「盆踊り」の起源は「念仏踊り」と聞きます。機会があれば、「時衆」を軸に芸能文化の歴史を探っていきたいと思います。
※参考:野間宏・沖浦和光「日本の聖と賎: 中世篇 」 桜井哲夫「一遍と時衆の謎 」 梓澤要「捨ててこそ 空也
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May 01, 2016

遊び 「若冲」

 終業式終わり、子供達は連れだって普段は行くことが許されない街に出て、ちょっぴり大人の気分を味わいます。 こうして始まった夏休みも、いつしか近づいた8月の末、彼ら、特に大人に変わろうとする中学生にとって祭は夏の集大成です。大人への階段を上るのです。祭の前の期待感は徐々に盛り上がり、祭の最高潮、いつしか場面は変わり、祭の終わりとともに人波は去って、寂しい情景が取り残されます。子供の頃は永遠と思われた夏休みも、ふとしたことでに終わりがあることに気づき、夏だけでなく、祭も、桜も、月の満ち欠けも、そして人生も同じであることを知るのです。

   いつの頃からか…、移りゆくもの、はかないものを美しい、愛しいと感じるようになりました。平安末期は地震・台風・大火・飢饉などの天変地異が続き、台頭した武家、平氏が保元(1156)・平治の乱(1159)に勝利し、王朝貴族政治は終わりを迎えます。 価値観が一変して、「無常感」・「厭世観」が支配する末法の世・浄土信仰の時代となります。「無常観」とは本来、非情な仏教の根本宇宙原理(悟り・解脱)なのですが、日本の「無常感」は情緒的な自然観(花鳥風月)・死生観と結びついて涙なくしては語れない独自なものとなります。人生ははかない、花は散り際が美しい…と、その美しさだけでなく、無常であることに日本人は愛惜を感じたのです。『平家物語』の「無常感」、「おごれる者は久しからず」は本来は「おごらずとも久しからず」であり、万人をくまなく支配する哲理、「無常観」なのです。

 頼朝が勝利して、初めての武家政権:鎌倉幕府を開き(1192)、以来、約7百年に渡って武家政治が続くことになります。中華儒教思想に倣って文人政治を行ってきた日本は武家・武断政治を確立、その後、本家の中国あるいはその一番弟子である朝鮮とは全く異なる歴史をたどることになります。

 それまでは一握りの富裕な階層に限られましたが、時代と共に生産力は上昇、最低限の必要とする衣食住から解放され、自由に処分できる一定の「お金」と労働から解放された一定の「時間」を持つようになってきます。自由に処分できる「お金」と「時間」が「遊び」を生み、その「遊び」から「文化」が生まれます。

 鎌倉幕府から約4百年後、家康は最後の武家政権:江戸幕府を開きます(1603)。武家社会が完成した江戸時代には、人口の7〜8%を占める武士は、自律的・潔く、学問する知識階級として下の階級から尊敬されていました。…が皮肉にも、大名はともかく(あるいはこれも含め)、その家来:武士の俸給は安く、大半は中程度の農民や商人よりも貧しい、商人が圧倒的に力を持つ商品経済の時代でした。

 商品経済若冲 虻に双鶏図は発展するが、鎖国のため国外への発展は閉塞、自ずとその富は都市へと蓄積します。今まで一握りの階層に限られた教育:読み・書き・算盤は庶民の必修となり、人間のものの見方は質・量で測るようになり、学問を実証的にします。より大衆的な消費社会になると、奢侈への欲望・誘惑を「勤勉」と「禁欲」によって抗しようともがく、まさに井原西鶴(1642 - 1725)の描く社会でした。「浪費」を忌避した商人は、代わりに「趣味の世界」=「芸事・稽古事」、「遊び」に没頭することになり、これまた身の破滅を招く恐れがあります。

 京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」の長男(1716 - 1800)は絵を描くこと以外には全く興味がありません。商売は彼が居ても居なくてもうまく回るぐらいの規模・組織・人材を備えていたのでしょう。「芸事」として絵を始めたわけでもなく、酒も飲まず、博打もせず、女にも手を出さず、いや失言…、結婚もせず(そういえば女性を描いた絵がない…)、40歳という若さで次男に家督を譲り隠居、絵にのめり込んでしまいます。
Etusko & Joe Price Collection

 何年か前に、NHKスペシャルか何かで、アメリカ人の収集家:Joe D. Priceさんの豪邸に展示されている若冲の絵を見て感激した私は全くのミーハーで、先日、やって来た彼の収集物を見ようと上野の東京都美術館に行ってきました。その2日前、再びNHKスペシャルで若冲の特集、私は見ながらうとうとうたた寝してしまったのですが…、テレビの効果は絶大、よくもこれだけ多くのミーハー、いやファンが来たのか、ほとんどはシルバー割引の高齢者、チケット購入に1時間、美術館内に入るのにさらに2時間、展示室の前でさらに1時間を待った次第です。一時は、出直そうか…、とも思った『若冲展』、Joe D. Priceさん所蔵の本物をみることが出来て満足でした。
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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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