Movie

November 23, 2018

映画『ボヘミアン・ラプソディ(Bohemian Rhapsody)』

Bohemian Rhapsody 自分で漬けた「日野菜漬け」を送ってくれた彼は、「食」に対してだけでなく、音楽・映画にも強いこだわりがあります。私の様に、BS放送で古い映画の再放送の録画すれば、15分おきに画面の左下1/4に現れる現れる受信料云々のお知らせを気にしないで映画を楽しんでいるだけとは大いに異なります。彼は京都市北区在住、市内には「京都シネマ」、最近は「出町座」という新しい映画館が出来た由にて、各地のシネコンで公開されるメジャーな作品だけでなく、マイナーな(「コア」な」)作品を観ている彼が、私に観るように薦めてきたのが『ボヘミアン・ラプソディ(Bohemian Rhapsody)』でした。

 私の音楽の好みは「カントリーぽぃロック」で、クィーン (Queen)のデビューが1973年。73年と云えば、私の好みの極めつけ、イーグズ(The Eagles)の『ならず者(Desperado)』がヒット、その時期、イーグルズ以外に感心が移るはずもなく、クィーンというバンド名は知っていても、その彼等ががどんな曲を歌ってヒットしているのかを知るはずもありません。

 今回も、彼の事だから…と、「コアな」、「ツウ好み」で上映館も限られているものと勝手に思い込んでいましたが、ネットを検索すると、全国各地のシネコンで上映されています。ついでに彼等の曲を聴いてみると、多くの曲を知っているではありませんか、私でも知っているとは…、恥ずかしい話しですが、これらのヒット曲がクィーンの曲であるのを始めて知りました。
         
 クィーンのリード・ボーカリスト、フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury 1946 - 1991)は、映画ではパキスタンで生まれ、父親は英植民地政府の会計士で、ペルシャ系インド人、ゾロアスター教徒でしたが、Wikiによると、当時英領タンザニア、ザンジバル島に生まれ、父親の仕事のつながりでイングランドに移住したと云う。この頃、彼等にとって乗り越えるべき存在であったビートルやストーンズ始め、多くのロック・アーティストは概ねハイスクールを出ただけの、言わば不良音楽少年上がりでしたが、彼は専門学校で美術・グラフィック・アートを学び、彼が参加するバンド、スマイルのメンバーは何れも、歯科医学・天文学を学ぶ大学生です。映画のタイトルにもなっている『ボヘミアン・ラプソディ』を筆頭に、彼等が高学歴故か、曲の多くにクラッシク音楽(?)の要素が見られます。フレディの父親がペルシア系インド人、ゾロアスター教徒であったことも影響したのでは…。

 これが私のあまり好きではない理由の一つなのですが…、ある時はフリルネック・リザードのような、ある時はマッチョなタンクトップ姿等、フレディのステージ衣装、ステージ(舞台)造りは独創的でした。彼等の音楽そのものよりも、フレディの格好を毛嫌いしていたのです。アルバイト先の仲間で、昔小学生の頃(?)、このクィーンの大ファンだったご主人と一緒にこの映画を観に行った人がおられます。当時、クィーンは「変態バンド」と呼ばれ学校内でも白い目で見られたそうです。振り返ってみると、英米を除いて、日本において、クィーンはダントツの人気、「変態」と呼ばれながらもです。私にとっては、クィーンもキッス(Kiss)も、ほとんど同じ括りのバンドでしたが…。

 フレディの事にあまり興味がなかったのですが、映画を観て…、やはり彼は両性・同性愛者だったということです。当時からこの病気と同性愛との因果関係が疑われていましたが、1991年、彼はエイズ(HIV)が原因で亡くなります。あのマッチョなタンクトップとタイツ姿、世間的で云う「変態」ないでたちは、その種の人達に特徴的なものに映りました。

 フレディが両性・同性愛者であることは、今の段階の私には理解しがたいのですが、彼の、あるいは、クィーンの音楽は素晴らしいの一言です。戦国時代の武将、例えば信長も、元禄時代の芭蕉も、近くは、三島由紀夫も実は両性・同性愛者であったと云われています。その人の才能・能力とその人が両性・同性愛者であることが明らかになって低められることはありません。従来、その種の人間は一般社会(異性愛=正常)から軽蔑され、日陰者(「性的マイノリティ」と否定的・限定的)扱いされて来ましたが、近年、「LGBT(Lesbian 女性同性愛者, Gay 男性同性愛者, Bisexual 両性愛者, Transgender トランスジェンダー)」が肯定的に使われることが多くなり、そんな中での映画公開となりました。今の私には、まだ理解しがたい、と云うのが正直なところです。しばらくすれば、陽が当たるようになるのかも知れません。

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August 09, 2018

懲りもせず、『茅ヶ崎物語』

 歌番組「夜のヒットスタジオ」で観た、聞いたサザン・オール・スターズの『勝手にシンドバッド』は強烈でした。それは1978年(昭和53年)、私は会社に入って7年が過ぎ、一方では、The Eaglesが『Hotel California(1976)』を出して2年が過ぎ、彼等の最高傑作故であるが故に、この曲を越える曲を作り出すことが出来ず、徐々に陰りが濃くなって行く時期と重なります。それまでの七・五調のとは全く異なる日本語(?)がロック、ロックン・ロールのメロディーに乗って歌われるのは革命的でした。以来、今日に至るまで、彼等が日本の音楽シーンを牽引してきたのは凄い事です。

稲村ジェーンポスター 学生の雰囲気は既にないが、相変わらず目立ちたがり屋の桑田は1990年、映画:『稲村ジェーン』を監督、世に出します。格好良い「ミゼットにサーフボード」のポスターにだまされて見る羽目になったのですが、 鎌倉の切通を通る「ミゼットにサーフボード」だけが印象に残る映画でした。あの夏いちばん静かな海北野たけしが、見かねて…、映画『あの夏、いちばん静かな海(1991)』という傑作を作ったというのは有名な話ですが、久しぶりにYoutubeで観てみようとしたのですが、『稲村ジェーン』の痕跡は意図的に(?)消去されているようです。その価値はあるとは思いませんが、後学のためにレンタルビデオでご覧になることをお奨めします。

茅ヶ崎物語ポスター 洋画・邦画を問わずBSで放映される映画を録画、これを時間がある時に観ることを習慣にしていますが、引っかかったのが『茅ヶ崎物語~MY LITTLE HOMETOWN~(2017)』でした。桑田の中学校時代の同窓生で、サザンの名付け親、洋楽編成、洋楽プロモーター宮治淳一が加山雄三始め多くのミュージシャンを生み出す茅ヶ崎の芸能・音楽誌を週筆中だそうです。一方では、おそらく桑田のファン、取って付けたように、アースダイバー、人類学者中沢新一が登場、ブラタモリよろしく、古代、茅ヶ崎は、「茅」は「ちから」、寒川神社まで海、平安末期まで茅ヶ崎は「大庭御厨」と呼ばれる荘園、これを開発したのが鎌倉権五郎景政、そして、アイコン「烏帽子岩」は凝灰質砂岩を主とする新第三紀の池子層から成ると云う。最後に永遠の若大将、加山雄三が登場。3人の大御所に導かれた形で登場するのが桑田の高校時代物語でした。

 鎌倉権五郎景政なる者は16才で八幡太郎源義家の「後三年の役(1083〜1087年)」に従軍、数々の武勲を立てるも、敵の矢を目に受けてしまいます。味方の一人が、彼の顔に足をかけてこの矢を抜こうとします。景政は伏しながら刀を抜いて味方を突かんとします。味方は驚いて、「これはいかに、なにをする。」景政は応えて「弓矢にあたって死するはつわものの望むところ。しかし、生きながら足にて面を踏まれる事はない。汝をかたきとしてここで死なん」、と。味方は膝をかがめて顔を押さえて矢を抜いた。多くの人々はこれを聞いて、景政の高名はいよいよ並びないものとなった。彼は「大庭御厨」を開拓するなど、「一所懸命」、「名こそ惜しけれ」の日本歴史上に勃興する武士の典型でした。

 「烏帽子」と云えば、景政から87年後の1174年、京都鞍馬をこっそり抜け出した牛若丸は、奥州の金売り吉次を同伴して奥州平泉に向かう途中、近江国「鏡の宿」に入ります。その夜、稚児姿で見つかりやすいのを避けるために元服することを決意します。地元の烏帽子屋五郎大夫(ごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子を作らせ、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし元結(もとゆい)の侍姿になり元服、九郎義経を名乗ったと伝えられています。アースダイバー中沢新一の云う江ノ島の弁財天は琵琶の奏者の講釈よりは、『平家物語』を詠ずる琵琶法師の方がよっぽど説得力があるのではないでしょうか。

 明治以降、東京近郊の海水浴場として整備され、茅ヶ崎を含めた、いわゆる鎌倉を中心とする「湘南」は富裕層によって別荘が建てられたことに由来します。富裕層の流入はそのパトロンとして芸術・文化を興隆させる集積地となります。戦後になると、石原慎太郎の『太陽の季節』、『狂った果実』に描かれた『太陽族』は映画化され「湘南」文化の大衆化が始まりました。石原慎太郎の『太陽族』はその弟裕次郎主演で映画化。それに続く加山雄三はエレキ、フォークブームにも多彩な才能を発揮、これが1978年の歌番組:『夜のヒットスタジオ』で聞いた『勝手にシンドバッド』に繋がります。理屈は横に置いて、お金持ちの「不良息子」→同じくぼんぼんの「好青年」→どこにも居そうな「音楽馬鹿息子」、根底には「輝く太陽と青い海」という「湘南」大衆文化としての『湘南サウンド』の行き着いたところが桑田佳祐ではダメなのでしょうか。

 烏帽子岩を背に、桑田佳祐とサザン・オールス・ターズが歌う、バレット・ストロング(1959 あるいはビートルズ)の『Money』そしてカール・パーキンス(1956 あるいはエルビス)の『Blue Suede Shoes』は圧巻。宮治淳一の語り、アースダイバー中沢新一、二人の講釈をボツにして、烏帽子岩の背したパーフォーマンスだけを桑田佳祐とサザン・オール・スターズのミュージック・ビデオとして発表すれば、昔の『稲村ジェーン』を帳消しにして桑田佳祐の面目躍如たるものになったはずです。サブタイトル〜MY LITTLE HOMETOWN〜とは桑田が洋楽の一部を拝借したものか…、はたまた映画『スタンド・バイミイ』の舞台を狙ったのか…、実際の茅ヶ崎市の人口、24万人からすれば、アホらしくなってしまうのは私だけでないでしょう。

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December 09, 2017

最近聞いたこの曲<15> "You're Not in Kansas Anymore"

grapes of wrath 『怒りの葡萄(The Grapes of Wrath 1939)』はJ・スタインベック(モンタレー郡サリナスに生まれる)の作、大恐慌の時代、大干ばつで土地を奪われたオクラホマを捨て、ルート66を西へ、カリフォルニアを目指す農民の物語ですが、1940年、ヘンリー・フォンダ主演で映画化され2つのオスカーを獲得して彼の名声を不動のものにします。

   映画『怒りの葡萄』から30年後、ヘンリー・フォンダの息 子、ピーター・easy riderフォンダは、父親とは逆に、同じルート66を東へ、ニューオーリンズのマルディグラ(謝肉祭)に向けて走ります。映画『イージー・ライダー(Easy Rider 1969)』は、ベトナム戦争への懐疑的傾向を社会的背景にした「アメリカン・ニュー・シネマ」の傑作の一つに数えられています。挿入歌が全てロック・ミュージックだったことも衝撃的でした。

 ベトナム戦争も終盤の時代,60〜70年代、にはロック・ミュージックが興隆します。プレスリー、ビートルズ、ビーチボーイズが現れたのもこの時代です。ジョニー・ミッチェル『California』を歌ったように、グラム・パースン、ママス&パパス、リンダ・ロンスタート、ジム・モリソン、ニール・ヤング、デビッド・クロスビー、スティーブン・スティルス、グラハム・ナッシュ、ジャクソン・ブラウンがその後の成功を獲得する以前に住んだロサンゼルス、ローレル・キャニオン(Raurel Canyon)は東のウッドストック(Woodstock)と並んで若いミュージシャンが多く集まり住んだ場所でした。ヒッピー対抗文化の音楽コミューン的性格を持つ場所でした。

 時代の終焉では…、ヒッピィー対抗文化の体験から抜け出せない人間を歌った(?)『ホテル・カリフォルニア Hotel California(1976)』、イーグルズ自らもこの枠を抜け出すことが出来ないままに終わってしまいました。ホテル・カリフォルニアとはこの対抗文化の音楽コミューン、ローレル・キャニオン(Raurel Canyon)のことかも知れません。
 
 ビーチボーイズに始まる私のカリフォルニアへの思い入れは『ホテル・カリフォルニア』以降も何ら代わることがありません。ストリーム・ラジオをリッピングしているのですが、私が好きになる曲はカリフォルニアに対するあこがれ、カリフォルニアを好意的に歌う傾向にあり、リトル・テキサス(Little Texas)の『Amy's Back In Austin』如きは歌詞の内容だけでなく、メロディラインもウエスト・コースト風に仕上がっています。最近は聞いたビッグ&リッチの(Big and Rich)の『California』はカントリーなのですが<<ど>>カントリーではなくなりました。

 今回、ご紹介するのもそんな曲の一つ、ジョージ・ディ・メッシーナ( Jo Dee Messina 1970年生まれ)の「You're Not in Kansas Anymore(1996)』です。

oz このタイトル〜もうここはカンザスじゃないわ〜は、初めての所にやって来てカルチャーショックを受ける、の意味です。映画『オズの魔法使い(1939)』の中の台詞、「Toto, I've a feeling we're not in Kansas anymore.(トト、ここはカンザスじゃないみたいよ)」に由 来、「There's no place like home.(お家が一番だわ)」と併せてアメリカ人の慣用句となっているそうです。先日、知り合いのカナダ人とイギリス人の二人に聞いてみると、アメリカ人だけでなく、英語を母国語とする人はこの慣用句を知っていると云います。※因みに、最近では、『ホテル・カリフォルニア』の「You can check out any time you like, But you can never leave!」も慣用句になっているようです。
  

You're Not in Kansas Anymore
メイベリーのようなウイチタに在る小さな街で育った、と彼は言う
上下つなぎの作業服を着て、日が沈むまで干し草を引っ張るのはうんざり
一日中、ジョン・ディアのトラクターに乗り土地を耕しているのでLAに憧れる、と言う
南カリフォルニアには高速鉄道が走っているよ、と教えて上げた

[Chorus]
もうここはカンザスじゃないわ
用心し過ぎることはないのは確か
街の灯があなたを誘い
朝が来ると消えてしまう
だから、壁に私の電話番号を控えておいて
何時でもいいから電話してきて
今、私は幸せ
もうここはカンザスじゃないわ

「カーソンがどこに住んで居るか知ってる?」それでマリブまでドライブしたの
サンセット通りを走り、キスの1回や2回は許してあげたの
ハリウッドの標識の下、にんまりしたのを気付かれないように、私は低くささやいた
ロデオじゃなく、ここはロデオ・ドライブ、こんなこと云うのは始めて

[Chorus]


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November 27, 2017

『昭和76年宇宙の旅』

2001 spoace odyssey 『2001年宇宙の旅』が公開されたのは1968年、昭和43年でした。原題は『2001:A Space Odyssey』、これをほとんど直訳したものですが、もし…、仮に…元号(和暦)表記するとすればどうなるのでしょう。当時からすれば<<昭和76年宇宙の旅>>、現在からすれば<<平成13年宇宙の旅>>、二つは同じ意味になるのでしょうかね。日本語タイトルを付けた人も決して西暦を和暦に替えるような無粋なことはやらなかったことでしょうが…。

 西暦には終わりはないが、和暦には終わりがあり、いつかは変更されます。和暦では、たかだか33年後の未来を表現できないだけでなく、「紀元前」の概念がなく、元年以前の過去を表現する事も出来ません。例えば、5000年、紀元前5000年と、西暦では未来も過去も単純明快。

 日本では、元号(和暦)は元号法によってその存在が定義されています。その使用に関しては基本的に各々の自由で、西暦・和暦、どちらを使ってもよいことになっていますが、運転免許証を始めとする役所関係の文書が、表記スペースに限りがある故か、和暦表示のみとなっており、勢い和暦が正しいものと思っている人が多いのではないでしょうか。

 平成の世も29年が過ぎ去り、間もなく平成30年がやって来ます。1989年、昭和64年が終わって平成がやって来た時、私は和暦を捨て、以来和暦を要求されない限り、全て西暦表記にしています。天皇の「生前退位」から、天皇の権威の一つである元号改定が派生し、世論調査では「1月1日」賛成が70 %、「4月1日」が16%だったにもかかわらず、政府内では改元の日程は「5月1日即位・改元」が有力視されているという。歴史的にもこの天皇の権威(「正朔を奉ずる」)は連綿として続いており、天皇の権威とは日本文化そのものという意見も多くあることは承知しているが、一方では西暦で物事を考える私のような「元号離れ」も急速に進んでいます。 

 天皇の権威に関する議論は識者の大先生方にお任せするとして、新元号が何になろうとよいのですが、役所の文書には、表記スペースの大小に拘わらず「西暦と和暦」の併用、出来れば「西暦」を主・「和暦」を従とすることを義務づけるべきと考えます。

 昔の役所の文書には長らく生年「明治・大正・昭和」の表示があって、私の場合は昭和を〇で囲む表記方法が見受けられましたが、新年号が発表されると、明治生まれの人はさすがに想定外として、「大正・昭和・平成・新元号」と4っの年号が並ぶのでしょうか…。

 ついでに、「2020年東京オリンピック」の開催年を元号(和暦)で言わない、言えないのは奇妙な話です。

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April 26, 2017

最近聞いたこの曲<6> "Islands In The Stream"

 何度も触れましたが、私は「カントリーぽぃロック」が好きです。「ロック」は多くの人に判りやすいのですが、「カントリ−」を説明しろと言われたら、難しいと言わざるを得ません。日本の「カントリー&ウエスタン」は、戦後すぐ(1950年代)、ジミー時田(1936-2003)でピークを迎え、エルビス・プレスリーの「ロカビリー」出現に小坂一也(1935-1997)が追随、以来現在に至るまで、日本の「カントリー&ウエスタン」は進化を停止したままといってもよいでしょう。

 この「カントリー&ウエスタン」の「ウエスタン」がくせ者で、この「ウエスタン」は日本語で言うならば「西部劇」、私が子供の時に見たTVシリーズ:『ボナンザ』、『ララミー牧場』の類いをも含めたため大いに混乱したものと考えられます。アメリカ人でさえ大きな混乱があるようで、映画『ブルース・ブラザーズ The Blues Brothres』(2008)の中にこんなシーンがあります。週末、白人の集う田舎の「カントリー・ミュージック」専門の居酒屋で、名前の通りブルースを専門とするバンド:ブルース・ブラザーズがステージでブルースを演奏しますが全くのブーイング、そこで急遽『ローハイド』に変更、あなたも知っている〜ローレン、ローレン、ローレン〜です。やんやの喝采で無事ステージを終えるという筋書きです。ブルース・ミュージシャンにとって、あるいは映画の中の聴衆にとっては、「カントリー」も「ウエスタン(西部劇、日本で言えば時代劇)」も一緒なのでしょう。
 結論として、カントリ−歌手が歌う歌が「カントリー」である、としか言いようがないのではないでしょうか。

 もう一つの映画、『ボディー・ガード The Bodyguard』(1992)がありました。H・ヒューストンが歌う『オールウェイズ・ラヴ・ユー I Will Always Love You』は大ヒットしましたが、この曲は作詞・作曲共にカントリー歌手のドリー・パートンの曲、劇中に於いてジューク・ボックスから流れる『オールウェイズ・ラヴ・ユー I Will Always Love You』を聞いているケビン・コスナーに、「かなしい曲ね」とH・ヒューストンが語りかけます。「カントリー」のこの曲をR&Bのホイットニーが歌うと、少なくとも「カントリー」ではなくなくなってしまいました。

KENNY ROGERS & DOLLY PARTON この1年間、音楽と言えば、インターネット・ストリームラジオで今時のカントリー・ミュージックを聴いているのですが、新しく知ることばかりです。今まで耳にはしていたはずなのですが、この曲:『Islands In The Stream』は、1983年、「カントリー」の大御所:ケニー・ロジャースとドリー・パートンのデュエットで大ヒットしたとは知りませんでした。メロディ・リズムを聴いた限りではR&Bと言うか、ディスコ・ミュージックです。それもそのはず、このE.ヘミングウェイの同名の小説からヒントを得たというこの曲:『Island In A Stream』はあのビージーズの3兄弟がマービン・ゲイの為に書いたのだが、二人のレコードとなり、彼等もバックミュージシャンとして参加しているそうです。この曲、どう聞いても、いや、どう見ても「カントリー」ではなく、ディスコ・ミュージックです。しかし、やはり彼等はカントリー歌手、1985年の最も<<好きなカントリー>>部門の第一位、それから20年後、<<時代を超えたカントリー・デュエット>>部門の第一位に選ばれています。
 ビージーズと言えば、フォークぽい『マサチューセッツ』(1967)に始まり、J・トラボルタの『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977)で絶頂期を迎えたところで、私の音楽からは彼等の消息は途絶えてしまいました。ところが、どっこい、ディスコ・ブームが陰りを見せると、私の知らない間に…、R&Bのマービン・ゲイから今度は「カントリ−」へ180度転換、彼等にはその時代時代を作りだす、表現する特別な才能があるようです。
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February 05, 2017

『沈黙』、全てを腐らせてしまう底なし沼…か

 明治以降、日本文化に果たしたキリスト教文化の影響は大きく、特に大学を頂点とする高等教育に多大の影響を与えました。戦後、映画・文学その他アメリカ文化の氾濫が見られましたが、例えば、クリスマス、バレンタイン・デイ、加えて、最近ではハロウィンやサンクス・ギビング(アメリカだけの習慣)などの習慣が商業主義的に定着されつつあるとは言え、その文化の根幹であるキリスト教の布教はむしろ失敗に終わったと言えるのではないでしょうか。 

 私は辛うじて戦後生まれの戦後育ち、学校で学んだ英語もアメリカ英語(?)、テレビ番組の多くは西部劇やコメディ・ドラマ、中学生に始まる洋楽偏向趣味はほとんどがアメリカから輸入されたキリスト教的価値・道徳に裏打ちされたものでした。同じ頃によく訪れた神戸三宮、トアロード、元町にかけて、ガード下に並ぶ店舗はリバイスのジーンズを始めアメリカくさい商品で埋まり、車窓に見える東灘区から芦屋・夙川に立つキリスト教会の尖塔の風景はエキゾチックなものでした。確かにアメリカ文化に傾いたが、それ以上のものでもなく、その背景にあるキリスト教に興味はあっても、その信仰そのものに向かうことはありませんでした。

沈黙_3 先日観た映画、『沈黙』。イエズス会フェレイラ神父が長崎で拷問を受けて転向・棄教したという衝撃的な報告を受けて、かつて彼の指導を受けた弟子達が、禁教下の日本に潜入して恩師を探し出します。

〜 この国は全てを腐らせてしまう底なし沼だ。この国にはどうしてもキリスト教を受け付けぬ何かがある。〜 

フェレイラ神父の発した言葉です。

 1549年、そのザビエルが日本に来訪してキリスト教が正式に日本に伝わります。それから約40年で(秀吉によるバテレン追放(1587))キリスト教徒数は20万人を越えています。以来禁教となり、1889年明治憲法下、制限付きながら信教の自由が明文化され、西欧からの技術・科学・文化とともに、これを支えるキリスト教も流入、1945年の敗戦と共に信教の自由が保障されたにもかかわらず、信者数の増加は見られません。465年前の当時の人口(12百万)の1.6%がキリスト教信者であったことに比べ、今日(2014)のカソリック、プロテスタント及び正教信者数が1百万と、人口のわずか0.8%に過ぎません。
 
 鎌倉時代、庶民には難解な密教の呪術性を徹底的に排除、国家権力(鎮護国家・貴族)の為のという旧来の仏教(6世紀仏教伝来以来の「南都六宗」に天台宗、真言宗を加えた旧仏教諸派)から決別して、個人の救済に専念したのです。従来、天台浄土教を信仰していた貴族・武士だけでなく、一般民衆にも急速に広がりました。文字を読めない、況んや難解な仏典を理解できない多くの庶民に対して、「ナムアミダブツ」と念仏さえ唱えれば…、あるいは「座禅」を組むだけで…、「念仏踊り」に身を委ねるだけで…、往生できると説いた鎌倉新仏教が誕生しました。これは正に日本の宗教改革でした。

 その一つ、法然に始まる浄土宗は、親鸞(1173-1263)に引き継がれてその革命性をさらに先鋭化して浄土真宗となり、室町時代、蓮如(1414-1499)の時、ひたむき(純粋)に念仏を唱えて阿弥陀仏を信仰するとして、「一向宗」と呼ばれ、北陸・近畿・東海地方に興隆します。生活共同体(惣)であると同時に宗教共同体(講)、室町から戦国時代にかけて、各地で新しい村落自治共同体が出現するまでに発展します。「一向宗」の時代は、1580年、信長による石山本願寺敗北まで続くことになります。

 この時期にキリスト教が伝来したのです。イエズス会の意義は、宣教のみならず、ルネサンス後期の「人文主義(humanism)」に基づき、コレジオやセミナリオ等、高等・初等教育に積極的に取り組んだことです。当初、仏教僧、特に禅宗の僧侶がこれを学び、戦国武将の中に南蛮貿易の実需のために改宗する者、次第に真の信仰を行う改宗者が現れ、社会の指導者層のみならず一般大衆にまで広がります。 利休の高弟にも蒲生氏郷(レオン)、細川 忠興(その正室ガラシヤ)、高山右近(ジェスト)、大友宗麟(フランシスコ)、黒田如水(シメオン)等のキリシタン大名が少なくありません。鎌倉時代に遡る武士道の精神、禅を母胎とする茶の湯の精神、キリスト教の精神、これら三つに通じるのは「静寂の精神」「清貧の精神」です。

 〜 この国は全てを腐らせてしまう底なし沼だ 〜 

 はたして、そうでしょうか…。この国、この時代に、利休はキリスト教から学び、芸術、道徳、哲学、宗教など、日本文化の総体、「茶の湯」を完成させたのではないでしょうか。

  Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player  でお聴きになれます。   
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August 13, 2015

何年ぶりかの渋谷で、映画『ラブ&マーシー』

Love & Mercy  関西に住む友人に「ビーチ・ボーイズのファンよね。彼らの映画が来ているわ…」と指摘されて初めて知った映画:『ラブ&マーシー Love & Mercy』を観に渋谷まで行ってきました。もっと近くで観られると思ったのですが、八王子の公開予定が9月で、この夏の思い出の一つに入れるには遅すぎます。渋谷に出るのは何年ぶりか、さすがに若者文化の街、通りを歩いていても彼らの速度について行けません。少し気後れしてしまうのは正直なところです。

  ビーチ・ボーイズとの出会いは私が中学1〜2年の時に遡ります。当時、ラジオのヒットパレードにはビートルズかビーチ・ボーイズがランクインしていない日はなかったのではないでしょうか。私が彼らの曲を最初に買ったのは『Surfin' USA』、ビートルズの『抱きしめたい "I Want To Hold Your Hand"(1963)』、『プリーズ、プリーズミー Please, Please Me』よりも遅かったように思います。1963年の出来事でした。アイドルバンドから始まったこの二つのバンドは、お互いに意識し合って、競うように、単なるアイドルから脱皮するかのように、新しい音楽を目指していきます。

 ビートルズの『Rubber Soul (ラバー・ソウル 1965)』が従来のアルバムの概念を替えてしまいました。ボブ・ディランの『ブロンド・オン・ブロンド Blond On Blond』に触発されたというこのアルバム、まず最初にこのアルバムタイトル、ビートルズ初めイギリスのバンドが、アメリカ黒人ミュージシャンから「Plastic Soul」、「まがいもののソウル、ソウルもどき」との酷評に対する彼等の皮肉でした。アメリカのアルバムといえば、員数合わせのような、単に10〜12曲の詩を何の脈絡もなく並べたものでしたが、『ラバー・ソウル Rubber Soul』はコンセプトアルバムであり、彼等が既にアイドルの域を抜け出し、バンドの各人がアーティストとして確立されています。

 ブライアン・ウイルソンはこれに大きな影響を受け、アルバム:『ペット・サウンズ Pet Sounds』(1966)を制作します。そのころから、彼の精神の崩壊が始まります。
ブライアン・ウイルソン

 かつて、朝鮮戦争の時代にジャズが流行したように、時代はベトナム戦争・北爆が激化、アメリカ国内では徴兵拒否など厭戦気分が高まります。ヒッピー、フラワー・ムーブメントが興り、音楽文化では、ジャズに代わってロック・ミュージックが流行、極めつけはサイケデリック・ミュージックに至りました。※因みに、 psychedelic= psyco(精神病質の・錯乱した) + eccentric(変人・奇人、奇抜な)で、幻覚状態を想起させるの意味。髪の毛を伸ばして髭をはやし、マリファナ、LSD、フリーセックス等の言葉に代表される対抗文化が絶頂期を迎えることになります。

 60年代、彼に嫉妬する癇癪持ちで暴力的な父に…、そして、80年代には彼を救うはずの精神科医の異常なまでの監視に…、彼は脅えた…と映画は描いています。厳格な父から逃れるために…、何よりも、新しい音楽的境地に辿り着くために、彼は自ら求めてマリファナ、LSDを借りてサイケデリックな世界に入り込んでいったのではないでしょうか。挫折した元ミュージシャンの精神科医:ユージンとの付き合いもそんなところから始まったのではないかと想像します。現に、メンバーの一人、弟のデニス・ウィルソンはサイケデリックな音楽を指向して、狂信的カルト指導者チャールズ・マンソンと関わったこともよく知られています。チャールズ・マンソンは映画監督:ロマン・ポランスキーの妊娠中の妻:シャロン・テートをナイフで滅多刺しにした『シャロン・テート事件(1969)』の教唆犯、主犯で、事件は対抗文化の負の遺産として記憶されている。※残念ながら映画では触れられていません。

 『ペット・サウンズ Pet Sound (1996)』はブライアン渾身の作にもかかわらず売れませんでしたが、このアルバムに触発されたビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band (1967) 』 は大ヒット、このアルバムが認められたのは発売後30年以上も経った2004〜2005年のことでした。 正直なところこの、一般大衆と同じく、ミーハーでポップな音楽を求めていた私も、この辺りから、スタジオ録音ばかりでオーケストラが入ったりする、ビーチ・ボーイズもビートルズもあまり好きではなくなりました。しかし、次のアルバム:『スマイリー・スマイル Smiley Smile (1967)』に在る『グッド・ヴァイブレーション Good Vibrations』は傑作と認めざるを得ません。

 大阪中之島、フェスティバルホールに『Surfin' USA』を歌うビーチ・ボーイズを目の前にしたのが高校生の時、あれから〇十年、バンドの吉野さんと一緒にブライアン・ウイルソンを聴きにいったのが10年前でしょうか…、中学・高校生の当時あこがれた彼らの曲をこの年になってバンドで歌うとは想像もしませんでした。
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July 30, 2015

夢とうつつの境目、釈迦堂切通

 かつてはワンダーフォーゲル部に所属、歩くこと自体が好きな彼ですが、私はそれほど興味がありません。そこで彼の見せる私への気遣いが、歴史の一幕として登場する所を歩こうという提案で、私も中仙道、馬籠宿・妻籠宿に行くのを楽しみにしていました。ところが、彼から連絡あり、この小旅行を前に、山仲間との四泊五日の登山から久しぶりに帰ると急に膝が痛み出したので、大事をとって中止を伝えてきたのでした。

 島崎藤村の小説:『夜明け前』には「桜田門外の変(1860)」から4年後、武田耕雲斎を総大将とする天狗党800人余は、幕府追討軍の追尾を受けながら、頼りとする水戸本家筋の慶喜の居る京都を目指して整然と通過するのが描かれています。残念ですが、次会に譲りましょう。

釈迦堂切通 このままでは7月は、何もしないまま…、終わってしまいそうです。ということで、思いついたら一人で即実行できる鎌倉切通巡りに出かけることにしました。近所に住むIkeさんには巨福呂坂、化粧坂そして朝比奈切通に連れて行ってもらっているので、今回はお手軽な釈迦堂切通です。鎌倉駅の東、鶴岡八幡宮の参道:若宮大路を挟んで東側に位置する妙本寺の裏側にあるとは下調べしていたのですが、歩いてみるとよそ者には全くの迷路、お店の人も「次の信号を左折して、誰かに聞いて」…、住宅地の最深部、最も奥まった所に、無粋な二重の立ち入り禁止のフェンスに阻まれた切通を見ることができました。結果は…、見つからないよりマシといった感じで、感激にはほど遠い景観です。
 脈絡がなくて掴み所のない…、得体の知れない映画:鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン(1980)』の舞台です。夢と現(うつつ)、幽界と顕界、此岸(この世)と彼岸(あの世)の境目が釈迦堂切通なのです。時代は大正、藤田敏八演ずる青地は陸軍士間学校の教授、原田芳雄演ずる中砂は病的な放浪癖、二人は友人関係、彼らの住居の間に釈迦堂切通があります。二人は旅の途中で大谷直子演ずる小稲:芸者と出会う。中砂は園という女性と結婚するが、園と小稲は瓜二つに似ています(大谷直子の二役)。二人の間には豊子という女の子が誕生、まもなく園は死んでしまいますが、そこに乳母として入ってきたのが小稲でした。この辺で、映画を見た当時、今でもそうですが…、私は訳が判らなくなってしまいました。
 
 伏線か…、盲目の門付芸人が現れます(実はこの「門付(かどづけ)」という言葉を今回初めて知りました)。琉球舞踊のカスタネット「四ツ竹」、琵琶を伴奏に卑猥な歌を披露する旅芸人。男二人、女一人、年長の男と女が夫婦なのか、若い男と女がそれなのか…、病的な放浪癖の中砂は彼らの後を追い、桜吹雪の中、麻酔薬を誤吸引して死んでしまいます。

 何年かが過ぎ、残された母子、小稲と豊子が青地を訪ねてきます。釈迦堂切通を通って、それも決まって…、逢魔が時に。中砂が生前、あなたに貸した本を返してくれという。なぜ、本のタイトルを知っているのかと聞くと、娘の豊子が夢の中で、死んだ中砂の声を聞くと言う。ある日、「あなたに貸したサラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』を返して」とやって来ますが、中砂と一緒に聞いたがレコードを借りた記憶がありません。レコードを発見した青地はそれを借りた青地の妻と中砂の関係を知ることになります。レコードを返しに小稲を訪れ、『ツィゴイネルワイゼン』を聞く二人。辞去して釈迦堂切通をくぐると鶴岡八幡宮の太鼓橋、園子が立っています。この辺になると、誰が生きていて誰が死んでいるのか、何が何だか全く判らなくなってしまします。
  誤って録音されたサラサーテの肉声は園子にも聞き取れなかったのでしょうか。 「ツィゴイネルワイゼン」は「ジプシーの旋律」の意味のドイツ語、サラサーテ自身がスペイン人でありジプシーの文化の継承者です。一方の盲目の門付旅芸人は遠く平安時代の傀儡(くぐつ)、さらには渡来人集団:秦氏に繋がり、彼らはさらに西にあった文化、ジプシーに一脈通じているのかも知れません。
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June 25, 2015

Woodstock, Back To The Garden

 怪我の功名と言うのか…、『ノルウェーの森』は単なる誤訳でしたが、本来の意味を越えた文学的なものになっています。傑作は『青春の光と影』、この映画・歌の日本語タイトルの『〜の光と影』はその後の日本語に頻繁に現れるようになったと感じるのは私だけでしょうか。

joni michel 映画:『青春の光と影』は1968年公開のアメリカ映画、私などは原題が『Changes』とは全く知りませんでした。この映画公開の1年前、ジュディ・コリンズ(Judy Collins)の歌う『青春の光と影 Both Sides, Now』がヒットしており、映画のタイトルもこの曲のタイトルからの流用でした。日本語タイトルの話は横に置いて、この『Both Sides, Now』を作詞・作曲したのがジョニー・ミッチェル((Joni Mitchell、1943 - )でした。

 「ものごとの一面だけしか見てこなかったけど、もう一つの面も見えるようになった…」と、たかが20歳前後の娘の人生を判ったような歌詞が一部の反発を買ったようですが、私は好きです。原題も良いが、日本語タイトルは原題を越えて良かったのではないでしょうか。この作曲に関し彼女は次のように語っています。

 〜 私は飛行機の中でソウル・ベローの「Henderson the Rain King 雨の王ヘンダソン」を読んでいた。本の中のヘンダソンもまた空を飛ぶ飛行機の中に在った。アフリカへ向かう機上から見下ろすと雲海…。私は本を置き、窓の外を見ると、やはり雲海、私は曲を書き始めました。当時、この曲がそんなにヒットするとは思いもよりませんでした。 〜

 彼女の次のヒット、1968年バッフィ・セントメリー(Buffy  Sainte-Marie)の歌った『サークル・ゲーム The Circle Game』は、1970の映画:『いちご白書 Strawberry Statements』の挿入歌として採用され、映画自体は『イージー・ライダー Easy Rider』、『俺たちに明日はない Bonnie and Clyde』と並んでアメリカン・ニューシネマの一角を占め、日本では松任谷由実(荒井由実)がザ・バンバンに提供した『「いちご白書」をもう一度』は大ヒットとなります。今になって見れば、『青春の光と影』も『いちご白書』も、当時の時流であった学園紛争もの、同時代を生きた者としては気恥ずかしさのともなう映画でした。

 1969年8月の3日間、『ウッドストック・フェスティバル Woodstock Music and Art Festival』、15日(日)の祭典に参加する予定でしたが、13日(金)、TVでは全米に渡る交通麻痺が報じられるようになり、マネージャーは行かないように勧めた。16日(月)、ディック・カベット・ショーに出演予定で、街に戻る途中でトラブルに巻き込まれることを恐れたのでした。彼女はフェスティバルの決定的な年代記となる『ウッドストック Woodstock』を作曲、翌年、これがクロスビー、スティルス&ナッシュのヒット曲となります。

 イアン・マシューズ&サザン・コンフォート (Ian Matthews & Southern Comfort)を覚えておられますか?彼の歌う『ウッドストック Woodstock』が好きでした。 あれから2年半…、どうぞお聞きください。



ps: 2015年6月29日『朝日新聞』の記事
20150629「朝日新聞」記事

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December 20, 2014

アンサンブル ensemble

brassband 近所の小山田中学校吹奏楽部はクリスマスを前に父兄・地元住民を招いて演奏会を開くようで、この私も「アンサンブル・コンサート」の招待状を頂きました。夏の祭:「団地祭」の舞台でも見事な演奏を披露、団地住民にも多くのファンがいます。日曜日午前中らしく、プレゼントするお茶菓子をお土産に、おじゃましてみようと思っています。

アンサンブルコンサート招待状 その招待状を机の上に置いてこの文を書いています。この歳になって、今さら聞けない…言葉の意味はたくさんあるのですが、何とか事ある毎に自分の無知を晒さずに済むのはインターネットのお陰です。この「アンサンブル」とは…、フランス語のensemble、あるいはその借用語としての英語だそうです。集合体、《洋服・ファッション》全体としての統一感・調和のある、異なる服やアクセサリーの組み合わせ、《音楽》合唱曲、合奏曲、合唱団、合奏団、《バレー・演劇・オペラ》「その他大勢」的な人たち・助演者の意味。sembleは「似せる」の意味があり、英語のassemble(集まる、会合する、集合する、組み立てる)と同根でしょうか…。

 洋服・ファッションの世界では、今日の庶民はユニクロの商品だけで上から下まで揃えれば取り敢えずコーディネートがなり(選択眼は不要)、お金持ちはPradaやGucciで揃えればそれほど難しいものではないかも知れませんが、音楽では、単にリズムと旋律が同じでは合唱・合奏は無意味、楽器が異なり、各パートの発する音声は全体的に統一・調和していなければなりません。英語ではaccord、chord、harmony、tune、unityに近いように思われますが、洋服・ファッション・音楽、いずれにせよ原理・原則は学ばなければなりませんが、残念ながらこの領域は「好き・嫌い」、詰まるところは「センス」の問題です。

grand hotel movie 映画・演劇の世界では「モンタージュ(フランス語:montage)」と並んで、「アンサンブル」という編集技法があり、前者は初期の言語的要素を映像に置き換え、後には同時撮影したものをフラッシュバックに発展して行きます<時間の技法>。後者は映画:『グランド・ホテル』に代表されますが、とある大きなホテルを舞台に複数の人間模様(エピソード)がそれぞれ独立して、同時平行的に描かれます<空間(場所)の技法>。

 日曜日、午前中の「アンサンブル・コンサート」が終わると、遠く車で2時間、狭山市でのバンド練習です。出来ることならば、イアン・マシューズ(Ian Mathews & Southern Comfort)の「ウッドストック Woodstock」をものにしたいところですが、我々3人のアンサンブルはうまくいくのでしょうか…。

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November 19, 2014

黄色いハンカチとリボン

幸福の黄色いハンカチ 理由は定かではないのですが、申し訳ないけど・・・どうも、私は山田洋二監督の作品が好きではありません。『寅さん』シリーズなど、何故シリーズにするほど人気があるのか、全く解りません。ずーっと長い間、映画:『幸福の黄色いハンカチ(1977)』はドーンの『幸せの黄色いリボン(1973 DAWN, "Tie A Yellow Ribbon ('Round The Ole Oak Tree)"』が元ネタと思っていました。
 男は出所前に手紙を出していた。「もし、自分の帰りを望むなら、木の幹に黄色いリボンを結んでおいてほしい。リボンがなければ、そのまま行ってしまうから。」 男はバスに乗って故郷の近くに至るが、勇気がなくて、車中で知り合った男に木を見てもらう。果たして、木の幹にはたくさんのリボンが結ばれていた・・・、というのがグーッと来る、泣かせるところです。

 このドーンの大ヒット曲も、山田洋二監督の映画作品も、二つの元ネタは、1971年にニューヨーク・ポスト紙に掲載されたコラム、ピート・ハミル(Pete Hamill)作『Going Home』だそうです。ピート・ハミルは『幸せの黄色いリボン』の詩を書いたアーウィン・レヴィン(Irwin Levine)を訴えますが、ハミル以前からの伝承があるものとして退けられます。

新網走番外地ポスター 昭和の一時期、一世を風靡した「唐獅子牡丹」の映画はほとんど見ていませんが、多くの賞を総なめにした作品:『幸福の黄色い』だけはビデオで観ました。恥ずかしくはないか・・・、といつも自問している男、不器用で寡黙な男、高倉健。

健さん、ご冥福をお祈りします。

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June 11, 2014

忍藩士、尾崎石城の絵日記

和田竜の小説:『のぼうの城 (2007)』(同名の映画の公開は2012)は、豊臣秀吉による小田原北条攻めの際、石田三成の水攻めに耐え抜いて城代:成田長親が三成に一杯食わせるという物語でした。その舞台は忍城(おしじょう)、時代は戦国時代末期(1590)でしたが、舞台は同じ武蔵国埼玉郡忍城(今の埼玉県行田市)、時代はそれから270年後の幕末です。蛇足ながら、何時をもって「幕末」というのかご存じですか?実は、私も最近知ったのですが…、1853年(嘉永6)、ペリー浦賀来航以降を「幕末」と呼ぶそうです。1868年の「明治維新」までのわずか15年間が「幕末」という事で、鎌倉以来の武家社会の幕を引く、逼迫した、革命の時代でした。

松平氏所領の忍(おし)藩十万石は譜代の親藩で、歴代藩主が幕府の要職に就いたため、加えて1783年(天明3年)の浅間山噴火と天明の大飢饉などの大被害で藩の財政は困窮していきます。『のぼうの城』の時代から270年後の幕末に入り、ペリー来航に震撼する幕府からは房総、江戸湾お台場の警備を命ぜられ、水戸の天狗党蜂起鎮圧に駆り出され、士気の上がらぬ後詰の兵を出しただけの「鳥羽伏見の戦」では撤退に取り残されて殿(しんがり)を務める羽目に、藩内では百姓一揆、続く戊辰戦争では新政府軍のお先棒を担ぐことになります。忍藩はなまじ譜代だった故か…、やることなすこと裏目、「貧すれば…」、維新の功績もなく、かと云って幕府に殉ずる名誉もなく、まさに良いところなし…、『のぼうの城』とは全く対照的な幕末でした。

忍藩士、尾崎石城は御馬廻役で百石の中級武士でしたが、安政4年(1857年)の29歳の時に建白書を提出して藩政を論じたために蟄居を申し渡され、わずか十人扶持の下級身分に下げられてしまいました。

この時期を年表で見てみると…、1853年:ペリー来航、1855年:安政の大地震、1858年:井伊直弼大老就任、安政の大獄始まる、1860年:桜田門外の変、「万延」と改元、和宮関東降嫁を固辞、1861年:和宮将軍家茂へ降嫁の為江戸へ、1862年:和宮将軍家茂へ降嫁、松平容保京都守護職に就任、生麦事件、1863年:壬生組(後の新撰組)組織される…、まさに激動の時代でした。藩政への建白書の内容は不明ですが、これが原因で下級身分に降格されたのですが、藩政改革に成功した隣国、常陸国水戸を震源地とする尊皇攘夷思想に傾倒したようです。水戸藩は、御三家の一つでありながら、藩政の次は幕政をも改革しようと企み、同じ佐幕の側の忍藩には「水戸学」による「尊皇攘夷」は危険思想でした。

義弟の出立藩・国家の行末を憂う青年らしさだけでなく、読書家でもあり、文才そして画才にも恵まれた彼は絵日記を残してています。文久元年から翌2年、1861から1862年、居候させてもらっている妹の旦那が、皇女和宮が将軍家茂へ降嫁の為、中仙道を江戸へ向書斎かう一行の警護の下命を受け、慌ただしく出立の準備をしているのが唯一その時代を感じさせる絵です紂しかし、居候の身でありながら、読書家の彼は自ら「石城書斎酔雪楼」と名づけた書斎蕕破椶飽呂泙譟∧現餾鄒や添削、絵に彩色を施し、和漢の古典から実用書まで、所蔵する書物は多義に渡り、極めて高い教養であったという。
私の書斎
※茲蓮私の書斎(四畳半?、広さだけでなく、文才・画才・教養と…足元にも及びません)酒宴_1


下級身分は毎日登城することもなく、その日の生活も困る場面もあり、文才そして画才にも恵まれた彼は屏風・提灯・行灯に絵を描き、あるいは彼の書いた文でお金をもらって家計の足しにし…、中級・下級武士の友人、二つ三つの寺の住職の友人、その集まりで得た町人・町衆の友人と…、皆で酒を飲み薛紂仲間内に病人がでたからと看病に行っている。城下なので百姓は登場しませんが、寺を中心とした中流・下級武士、町人・町衆の身分を越えた付き合いは楽しそうで、絵を見ているだけで愉快になります。松平容保が京都守護職に就任、生麦事件、新撰組が組織され…、まさに激動の時代の中で、忍藩もてんやわんや…、尾崎石城を取り巻く世界だけが別世界のようにゆったりとして、和やかです。

年齢は別に、会社にいくこともなく、生活に困る場面もなくはなく、人さまからお金がもらえるほどには文才、画才、音楽の才能にも恵まれず、半径数キロの行動範囲の私は彼の足元にも及びません。

その後、尾崎石城は明治の時代をどう生きていったのか…、興味のあるところです。先輩友人からお借りした、大岡利昭著『幕末下級武士の絵日記 』でした。

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April 09, 2014

散歩の途中<7> 五反田谷戸の畦桜

やっと季節が巡って来ました。『散歩の途中 絵で辿る散歩道』で皆様にお約束した山桜の開花を見逃すわけにはいきません。そこは…、仕事も少なく、既に隠遁者のような生活、お金はともかく、時間だけは自由になります。3月末、最初の偵察では何の兆候も見られず、4月1日にはかみさんと犬を引き連れて…、ほとんど前回に同じでした。そして4月7日、何やら胸騒ぎ…、朝一番とは行きませんでしたが、かみさんの電動アシスト自転車を駆り、先ずは坂を北へ下って大泉寺、山間の道を抜けて、交差点を右折、日大三高の北側、バス亭:「結道(ゆいどう)」を過ぎた当たりまで、約30分、その高低差、私のプッシュ・バイクではそうは行かないでしょう。

ここは「五反田谷戸」と呼ばれ、以前にも触れましたが、秋になると豊かな稲穂で覆われ、『案山子フェスティバル』のメイン会場でもあります。 自転車を置いて、左、北に向かって細い農道を行くと農家の庭先に入ってしまうので、その道を右に入ると、そこは谷戸田、ちょろちょろ水の流れに沿って登って行きます。ぬかるんだ畦道を5分も歩くでしょうか…、急に視界が開けて、忘れていた農村の晴れ晴れとした風景が目に飛び込んで来ます。地元では「五反田谷戸の畦桜」と呼ばれているらしく、樹齢:ニ百年、一説には四百年という話もあり、私の目には神秘的にさえ映ります。

ロケハン(=Location Hunting)とは監督のイメージ通りの映像、あるいは、絵コンテ通りの絵を撮影できる場所を探すことですが、私の散歩道である「小山田ノ庄」には撮影に使われた場所がいくつか存在します。最近の話では、今年1月18日、テレビ放映された、田村正和主演の『3億円事件』(松本清張原作:『小説3億円事件』)、事件の時効が成立した1976年(昭和51年)当時の住宅を再現するために、近くにある尾根道の南、桜美林大学の北に位置する住宅街が使われました。田村正和ファンの近所の奥さんが停止線を越えて侵入、スタッフから連れ出だされたとか…。確か、かみさんも彼のフアンのはずですが…、まさか…。

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「忘れようと…、忘れ果てようとしても…、忘れられるものではございません。」 

そうです。藤沢周平原作の映画:『蝉しぐれ』、20年後、初恋の…幼なじみのおふくを前に…、牧文四郎の言葉です。映画:『蝉しぐれ』のタイトルバックに使われたのがこの「五反田谷戸の畦桜」だそうです。藤沢周平の大ファン、Toshiさん、如何でしょうか?

ps:後日談ながら…、畦桜の話をすると、その人は4月5日に咲いているのを見たと言い、4月10日、かみさんが友達と行ってみるともう終わっていたと言います。前後の関係から、畦桜の開花は、長く見ても4月2日〜9日の8日間、満開は4月5・6・7日だったようです。

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January 15, 2014

『アラビアのローレンス』、ピーター・オトゥール

何か…?、去年やり残したような気持ちになっていました。
映画:『アラビアのローレンス』のピーター・オトゥールは正に当たり役・はまり役でした。あまりにも『アラビアのローレンス』の印象が強烈過ぎて、その後は役にめぐまれなかったのは残念なことでした。 

『栄光への脱出』(1960)、『北京の55日』(1963)と並んで、『アラビアのロレンス』(1962)が近代世界史を学ぶきっかけになったことは間違いありません。

黒海・バルカン半島では、ここを支配するオスマン帝国に対する反乱・蜂起が起こり、ロシアが、スラブ民族独立の為として、これに介入します。ロシア帝国とオスマン帝国は敵対関係にあり、1568年以来しばしば戦争が発生、「露土戦争」と呼ばれます。

1853〜1856年、クリミヤ半島を舞台にロシアとオスマン帝国及びその同盟国:フランス、イギリスの戦い(「クリミヤ戦争」)で、ロシアは破れ、西欧列強がこの戦争に目を奪われている間に、アメリカはぺりーの対日砲艦外交に成功(黒船来航1853年)、その南進政策の舞台を、バルカン半島から満州・朝鮮半島に移します。

近代世界史において、始めて、日本という国が登場するのは「日清戦争」(1894〜1896)戦争でした。260年続いた徳川幕府武家政権が倒れ(1868)、極東に近代国民国家を目指す明治新政府が誕生してから26年後のことでした。国力から見て当然勝つと思われていた清朝中国は破れ、日本が勝利します。日本に割譲された遼東半島(旅順・大連などの不凍港)は露・仏・独の三国干渉によって中国に返還されることになり、1898年、ロシアは中国から旅順・大連を租借して極東政策の拠点とします。中国の負けにつけ込んで欧米列強が更に侵食、中国は半植民地となり、それに呼応して民族運動としての「義和団の乱」が発生します。伝統的に不凍港を求めて南下政策をとるロシア、そして日本は乱以降も撤兵せず、満州・朝鮮半島を巡る両国の衝突が「日露戦争」(1904-1905)に発展します。

地球の裏側、南アフリカでは「ボーア戦争」(1899〜1902、英国とオランダ系ボーア人との戦争)が勃発、英国は大量の人員・物資を南アフリカに割かざるを得ず、満州に南下するロシア帝国に対抗する為、「日英同盟」を締結します(1902)。「義和団の乱」での柴五郎の活躍が「日英同盟」締結に大いに寄与し、この「日英同盟」が「日露戦争」での日本勝利の大きな要因の一つでした。こうして日本は「義和団の乱」・「日露戦争」以降も唯一軍隊を中国に駐留し続け、その後泥沼化していく「日中戦争」(1937〜1945)に発展していきます。

日露戦争での敗北により、ロシアは、満州での南下を阻止され、元のバルカン半島進出に政策を戻します。「日英同盟」を結んでロシアに対抗したイギリスは、極東における脅威がなくなると、逆にロシアに接近、英国・フランス・ロシア三国協商につながり、これがバルカン半島でのオーストリアと衝突、第一次世界大戦に発展します。

英国はインドを征服、植民地(1765〜1849)とし、国内は折からの産業革命、インドは英国産業の原料供給地兼製品市場とされていきました。英国が独占するインド貿易へ干渉するため、フランスはスエズ運河を開通(1869)させますが、運河建設に批判的であった英国は、手の平を返して、運河会社の筆頭株主となります。1882年、エジプトで発生した暴動を口実に、英国は軍事介入してスエズ運河を管轄下に置くことになります。オスマン帝国はオーストリア、ドイツとともに同盟国軍として、英国はフランス、ロシア、セルビアとともに連合国軍として戦いますが、この衰退するオスマン帝国の支配下にあったのがアラブ民族であり、スエズ運河をオスマン帝国に奪われれば、英国はインドへの道を絶たれてしまう情況でした。

このような世界情勢の中、ロレンスは陸軍作戦本部地図課に配属となり、考古学者として、英国の生命線:スエズ運河周辺アラブ地域の情報を探る任務を与えられ、1916年、カイロに派遣されます。彼の調査で、アラブ各地ではオスマン帝国に対する反乱・蜂起計画が進んでいることが判明、支援さえあれば、英軍の投入なくして、独力でオスマン帝国軍を釘付けにすることが可能として、自らその作戦に志願します。1917年、ロレンスとアラブ人のゲリラ部隊はダマスカスとメディナを結ぶヒジャーズ鉄道に対する破壊活動を行い、アカバ湾の深奥、戦略的要衝アカバを砂漠の背後から奇襲し、陥落させます。映画:『アラビアのローレンス』のハイライトシーンでもあります。

1888年、トマス・エドワード・ロレンス(T.E. Laurence)は誕生します。離婚が認められず駆け落ち、実質的には夫婦なのですが、戸籍上は私生児として誕生でした。彼の母親は、実母をアルコール中毒で亡くし、厳格でヒステリックな女性だったようで、自らの不倫関係の負い目故か、子供達の躾には異常に厳格でした。誕生した5人の子供で結婚したのは五男ただ一人だったそうです。映画で、オスマン帝国軍の捕虜となりムチで打たれ、トルコ人地方官吏に犯されるシーンがありましたが、どこか精神を病んでおり…、マゾヒストであったことは間違いないようです。
ローレンス下宿先
6年前、英国に行く機会があり、ロンドンでは彼の住んでいた下宿先、戦争博物館に展示されている
彼愛用のバイク:Brough Superiorを訪ねたことが思い出されます。
20140113アラビアのロレンス

※あまり似てはいませんが…、哀悼の意を表して…

そのロレンスを演じた俳優:ピーター・オトゥールが昨年12月、81歳で亡くなりました。ご冥福をお祈りします。

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August 01, 2013

『八つ墓村』は尼子残党のたたりでしたが…

 今回の山口県の特異な事件、多くの人が小説:『八つ墓村 』を連想するようです。通勤しないので、電車の中吊り広告にはどう書かれているか判りませんが、新聞の週刊誌広告では『八つ墓村』との類似性を匂わす見出し、形容が見られます。
八つ墓村 惨劇_1

 泥沼の「日中戦争(1937年〜)」に加えて「太平洋戦争(1941年〜)」に戦争拡大の時代、作者:横溝正史は肺結核を患い、1945年4月より3年間、岡山県吉備郡真備町岡田(現:倉敷市)に疎開、療養していました。そこで、戦争中の言論統制下では隠蔽されてきた大量殺人・猟奇事件を知ることになります。

 「津山事件 」とは、1938年、岡合同新聞昭和13年5月24日付山県苫田郡西加茂村(現:津山市)の全戸数22戸(人口111人)の小さな村落で起こった大量殺人事件で、肺結核から神経衰弱に陥った犯人(当時22才)は、学生服の脚には脚絆、鉢巻をした頭の左右には懐中電灯、弾帯をたすき掛け、腰にはナショナルのランプを下げ、手には日本刀、片方には散弾銃…、「日中戦争」当時の戦争高揚マンガ(?)にある軍服を真似た完全武装で、自分の祖母や近隣住民を襲撃、わずか2時間に30人を殺害するという事件でした。松本清張の『ミステリーの系譜』に日本の数々の猟奇事件、「阿部定事件」とならんで、この「津山事件」は衝撃でした。

 他の横溝作品を読んでみましたが、どうも面白くありません。横溝正史と言えば『八つ墓村』、面白いからこそ何度も映画化されるのです。
          
 山を超え、谷を渡り、沢を登り、疲れきった八人の落ち武者が、眼下に煙の立ち昇る穏やかな谷間の村の見える峠に立っています。時代は戦国の世、永禄9年(1566年)、毛利元就に包囲された尼子義久が籠る月山富田城を密かに抜け、尼子氏再興を図って、この村に落ち延びてきたのです。彼らが村の何処かに隠した黄金に…、あるいは毛利側の落ち武者狩りの懸賞金に目が眩んだのか、村人は八人を騙して皆殺しにしてしまいます。最後の言葉:「孫子の代まで祟ってやる」は、八人の霊を鎮める「八つ墓明神」によって受け継がれ、約四百年後の連続猟奇殺人事件に現実化し、それからわずかニ十年後、現在起こっている連続殺人事件は、濃茶の尼の言う「(尼子落人の)たたりじゃ!」。四百年に渡る呪われた血縁の物語、ここでは金田一耕助は単なる狂言回しに過ぎません。赤く燃える多治見家と集落を遠くに見つめる八人の亡霊のシーンで終わります。

 『八つ墓村』は鳥取県と岡山県の県境に在る、岡山で伯備線へ乗換えて数時間、それからもう一時間バスに乗り、更にまた歩くこと半時間、未知の鍾乳洞が点在する、奥深い中国山地の山間の集落が舞台、4百年前の「尼子一族の怨念」が連続殺人事件を引き起こすことになります。
ニュースになった今回の事件の舞台は山口県、…西隣の広島県の更に西、壇ノ浦も近く、8百年前に滅んだ「平家落人のたたり」との話も出てくるのでしょうかね。

 ※尼子氏滅亡後、その家臣:亀井茲矩(これのり)は流浪の身となるが、信長・秀吉の家臣となり、毛利攻め、「本能寺の変」に際して、秀吉の対毛利和睦、対光秀決戦に山崎への急行に活躍します。『八つ墓村』多治見家の正統な跡継ぎとされる主人公:辰弥の本当の父親は、実は…、亀井姓、その尼子氏残党の子孫でした。

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June 21, 2013

Me And Bobby McGee …その2

ジャニス・ジョップリンの死、その直後の1971年、彼女の歌った「Me And Bobby McGee」は大ヒットとなります。そのままロード・ムービーになるほど視覚的です…、とは6年前に私が書いた記事。→ ブログ記事:「ミー・アンド・ボビー・マギー」 dated July 30, 2007

実は…、話が逆でした。
アメリカの高校生向け(?)のサイト:shmoopに興味深い記事を見つけました。クリス・クリストファーソンが1969年に書いたのですが、彼はいわゆるロード・ムービーと呼ばれるジャンルの映画、とりわけ フェデリコ・フェリーニ監督の映画:『道 La Strada (1954)』に触発されてこの曲を書いたそうです。
旅回りの途中で死んだ女の死を知らせる為に、その母親をたずねて海辺の寒村にやって来た旅芸人の男は、その妹を二束三文で買い取ります。粗暴な男と死んだ女の妹、二人は破局に向かって…、旅に出る。こう書いたら、時代劇の旅芸人・股旅物になってしまうのですが…、最後のイタリア・ネオリアリズムと呼ばれた映画です。

1954年ヴェニス国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞、1956年ニューヨーク映画批評家協会最優秀外国映画賞、同年アカデミー最優秀外国映画賞を受賞しました。

日本でも1957年(昭和32年)に公開され、主題歌:『ジェルソミーナ』が大いに流行ったそうで、この曲は私の遠い記憶の片隅にも残っており…、如何に大きな反響を巻き起こしたかが想像できます。

easy rider『Me And Bobby McGee』ではアメリカ大陸を旅する二人のヒッピーのカップルが主人公でした。クリストファーソンがフェリーニ監督の:『道』に触発されたにせよ、その内容は戦後すぐのイタリアではありません。『イージー・ライダー』、『俺達に明日はない』等、一ヶ所に定住できず、広大なアメリカ大陸を放浪するアウトローを描いた、1960年代の象徴的なロード・ムービーに近いようです。

物語そのものは、マーク・トウェイン作『ハックルベリー・フィンの冒険 Adventures of Huckleberry Finn』、ジャック・ケロアック作『路上 On the Road』など、多くの映画、小説、そして歴史的事件の中に見出すことが出来るでしょう。それを考えると、ロード・アドベンチャーは典型的なアメリカの物語であり、我々を、広大な国土に広がる多様な風景に、そこに住む人々とその生活に誘う…、建国以来その実現に努力を重ねてきた「自由への探求」にほかなりません。

「Me And Bobby McGee」の登場人物は男女2人、おそらく恋人同士のヒッピー、十分な旅費もなくニュー・オーリンズへの旅の途中

疲れ果てた2人は駅で列車を待っていたが、考えを変えて、ヒッチハイクで目的地を目指すことになった。雨が降りだそうとした時に、彼等はトラックに拾われ、目的地:ニュー・オーリンズまでその運転手とずっと一緒に過ごす事になった。そこに着くまでの間に、二人はブルースを、そして運転手の知っている全ての歌を歌うことになってしまいました。

語り手は、ケンタッキーに始まりカリフォルニアまで、ボビーと一緒に旅した日々を思い出します。物語の中ほどに、いかに彼女とボビーが互いの魂を確かめ、絆を深めたかを語っています。どんな天気でも…、楽しい時も苦しい時も、ボビーは彼女を優しくそして暖かく守った。

歌は悲しい終わりに…。おそらく、旅の生活に疲れたのでしょう。家庭を築いて落ち着きたい…と、ボビーは語り手に告げる。語り手はボビーに多幸を祈ったが、彼の誘いには乗ることはなかった。彼女は旅を続けます。ボビーのいない旅…、幸福を見つけることはありません。  End

取ってつけたように…、東松山のライブハウス:『Studio One』から出演の依頼あり、もったいぶることもなく…、ハイハイ…「待ってました」とばかりに、7月末にステージに上ることになりました。それに備えて、練習しているのがこの曲、『Me And Bobby McGee』です。それまでには仕上がるでしょうか?


※続きに歌詞を載せました。
※"Me and Bobby Mcgee" by Kris Kristferson   "Greatest Hits" by Janis Joplin

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June 07, 2013

カサブランカ Casablanca

casablanca映画:『カサブランカ Casablanca 』は、アメリカ国立フィルム登録簿(National Film Registry):The Best 100にに入る、アメリカの国宝(?)というべき映画の一つであり、本質的に対枢軸国プロパガンダ映画であったにもかかわらず、かつてその枢軸国の一員であった日本においてさえも…、はたまた、制作から70年も過ぎた今日でも…、多くのファンが存在するのは、この映画をテーマにしたウエブページ、ブログが数多く存在することでも明らかです。

1941年11−12月のドイツの傀儡政権:フランス・ヴィシー政権下のモロッコの都市:カサブランカが舞台
1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃、アメリカの参戦
     12月11日、ドイツとイタリア、アメリカに宣戦布告
1942年5月25日、撮影開始、8月3日終了
     11月8日、 連合国北アフリカ侵攻(モロッコ上陸・占領)
     11月26日、ニューヨークでプレミア公開
1943年1月23日、全米で一般公開
1943年1月14日、ルーズベルトとチャーチルによるカサブランカ会談
1943年、第16回アカデミー作品賞、監督賞及び脚色賞を受賞


上の通り、映画の舞台、映画の製作から公開と史実をつなぎ合わせてみると…、詳細は他のブログに譲るとして、如何に素晴らしいラブ・ロマンス(メロドラマ)にせよ、いや…だからこそ、国策・対枢軸国プロパガンダ映画の最高傑作であると言えるのでしょう。

1957年ハンフリー・ボガートが1957年にこの世を去って数年が過ぎた60年代初め、マサチューセッツ、ケンブリッジにある映画館:ブラトル劇場が毎年『カサブランカ』を上映するようになり、次第に多くの観客を集めるようになりました。ベトナム戦争に正義を見いだせないアメリカ、人種や社会の矛盾点に気づいたアメリカ、それらの糾弾を始めたアメリカ。そういう中で、かつての国策・対枢軸国プロパガンダ映画:『カサブランカ』は国家・体制側の意図をはるかに超え、対抗文化の旗手の一つに踊り出ることになります。その頃の日本、全共闘の時代=高倉健、ヤクザ映画が興隆したことも何処か通ずるところがあるようにも思えます。ウッディ・アレンの映画:『ボギー!俺も男だ (1972)』は商業的に最も成功したオマージュの一つ。原題:"Play It Agplay it again, samain, Sam(あれをもう一度弾いてよ、サム)"は劇中の台詞:"Play it Sam(あれを弾いてよ、サム)"をもじったもので、ハンフリー・ボガートの亡霊を師と仰ぐ神経過敏な男を演じたもので、後にアメリカン・ニューシネマと呼ばれる流れの一つでした。

アフリカ、ヨーロッパ、アラブ、3つの文明が交差する地中海文明に在ってサハラ砂漠が始まる地、モロッコ。ナチスの迫害を逃れ、自由の地:アメリカを目指して、ようやくたどり着いた地。それから20年が過ぎた1960年代〜1970年代、カトマンズ(ネパール)、ゴア(インド)と並び、モロッコはアメリカを逃れ、文明を逃れてやって来るヒッピー、バック・パッカーの聖地となります。

唐突ですが、イギリスのロックバンド:ホリーズ(The Hollies)を覚えておられるでしょうか。私はこれ以外の曲を全く知らないのですが…、『バス・ストップ(1966年 Bus Stop)』のヒットで一攫千金を得た(…かどうかは知りませんが、そのホリーズに在籍していたグラハム・ナッシュ(Graham Nash)は1966年、モロッコを旅します。『マラケシュ急行(Marrakesh Express) 』はその時に書いた曲、その歌詞にはカサブランカに始まる列車の旅で遭遇した極彩色の情景や音、心地良い波長を表現した言葉が散りばめらたサイケデリックな曲といえるでしょう。彼は、この曲のレコーディングを提案しますが、他のメンバーは商業的ではないことを理由にこれを拒否、これが主たる原因で彼はバンドを離れ、ロサンゼルスに活動の地を移します。デビッド・クロスビー、スティーブン・スティルスの活動に参加、この曲を気に入った彼等はデビューアルバム:『クロスビー・スティルス&ナッシュ(Crosby, Stills & Nash)1969』に収めています。サイケデリック・ミュージック、音楽の視覚化…と、音楽にも多大な影響を与えることになったモロッコです。

※続きに歌詞の原文と訳を載せました。

Moroccoモーリタニア、アルジェリアそしてモロッコ、この3 国は「アル・マグリブ(al-Maghrib)」と呼ばれ、アラビア語で「日没する国」の意味だそうです。西は大西洋、南はサハラ砂漠、まさに「ここは地の果て〜」「日出ずる国」に住む我々にとっても、極彩色の異国情緒の魅力に満ちた、ムーア人と呼ばれる人々が住む、十二分に想像力をかき立てられる土地のようです。

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March 25, 2013

Twilight Zone 〜 The Invader

"Twilight Zone"、日本では『ミステリー・ゾーン』の名で1961年から1967年まで放映されたアメリカのSF TVドラマシリーズ。 当時、私は中学生か高校生?…、毎週、この番組を見るのが楽しみで、わずか30分の番組でしたが、今思えば、『猿の惑星』、『夢千代日記』、『エトロフ遥かなり』と並んで…、"The Invaders(「遠来の客」)"は傑作、この歳になってもその時に受けた印象は強烈です。
The invader_Initial Scean

特に冒頭のシーン。荒涼として、打ち捨てられた土地。そこに建つ、電気もガスもない…、一切の発展から取り残された農家、一軒家が闇に浮かび上がっています。

老婆が念入りに指先でキッチンナイフの切れ味を確かめ、野菜を刻んで大釜に投げ込み、夕食のシチューを作っています。

突然、小さな円盤が屋根に落下、その音・衝撃の凄さに老婆は慄き、悲鳴を上げてしまいます。彼女がその物体の正体を確かめようと…、おそるおそるランプをかざすと、円盤の中からおもちゃのような小さな異星人が二人現れ、やがて、彼女に対する攻撃を始めます。ナイフの切れ味を確かめたのが惨劇の序章でした。老婆と異星人との戦いは、床下から天井まで、部屋から部屋へと舞台を移しながら絶望的に続きますThe invader_11。異星人は老婆のナイフを盗んで彼女の脚・腕を切り、光線銃を発射して彼女の皮膚は一瞬のうちにミミズ腫れ、その度に彼女は大きなうめき声・悲鳴を上げることになります。

時間が経過、老婆は異星人の攻撃を巧みにかわして反撃、グレシャムという名の一人の異星人を殺害することに成功します。生き残ったもう一人の異星人は円盤に退避、彼等が旅立った自分の故郷の惑星に最後の通信を試みます。

「コントロール・センター、応答せよ! コントロール・センター、応答せよ!本船は破壊された。グレシャムは死んだ!繰り返す!グレシャムは死んだ!この惑星には信じられない巨人が生息している!反撃は不可能!圧倒的に強力だ!近寄るな!」 …これが、物語全般を通して初めて、そして、唯一発せられた「言葉(=英語)」でした。

ついに、老婆は円盤を破壊して最後の通信を行った彼をも殺害したのです。

…カメラはパンして円盤の機体に書かれた文字を捉えます。
「US AIRFORCE SPACE PROBE No.1(アメリカ合衆国空軍 宇宙探査機第1号)」
 


※因みに、老婆役のアグネス・ムーアヘッド (Agnes Moorehead)、この物語でのセリフはうめき声と悲鳴だけでしたが、『奥さまは魔女』(1964〜1972)ではよくしゃべるお母さんを演じています。

※Youtubeでは2分弱しか見られませんが、New Coffee Dot Comで『The Invader』全編を見ることが出来ます。是非、御覧ください。

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July 08, 2012

2千年に及ぶ遙かな旅 靺鞨〜女真〜満州

1957年、二人の若い男女が伊豆天城山で拳銃自殺するというショッキングな事件が発生します。男性は大久保武道、そして女性は愛親覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)、共に学習院大学2年の同級生でした。慧生(えいせい)は、あの清朝最後の皇帝:愛親覚羅溥儀(ふぎ)の実弟:溥傑(ふけつ)と嵯峨公勝侯爵の孫娘:浩との間の長女でした。武道は秋田県八戸の出身、同郷(青森市出身)の高木彬光には身近な存在でした。
天城トンネル_4

高木彬光(1920 - 1995)はこの「天城山心中」事件をきっかけに推理小説:『成吉思汗の秘密(1958)』を書きます。「義経=成吉思汗」説です。平泉を逃れた義経は八戸の豪族の娘と恋仲になり鶴姫という女子をもうけるが、母娘を八戸に残して大陸に去っていく。鶴姫は成長して八戸の豪族の若者と恋仲になるが、両家は不仲、二人の仲は悲恋に終わります。この悲恋伝説は昭和の日本に輪廻して「天城山心中」になった、と語られています。

どちらも言語的にツングース系ですが、成吉思汗(1162? - 1227?)はモンゴル族、一方の清朝愛親覚羅家は女真族=満州族。現在の中国東北部に混在、あるいは隣接していたのか…、それにしても、モンゴル族と女真族=満州族は別もので、この悲恋輪廻説は成り立たないことになります。

女真族の歴史を遡ると…、

BC1世紀頃、朝鮮半島北部鴨緑江一帯に高句麗(BC37 - 668)をたてます。大和朝廷誕生以前に渡来しており、海を越えてやって来たということで、越と呼ばれました。越前・越中・越後がそれです。唐に滅ぼされると、多くの高句麗人が帰化、その地の多くは「コマ」という地名がつきます(東京都狛江市)。
7世紀末には高句麗の遺民と靺鞨が合して渤海国をたてる。倭国は「白村江の戦い(663)」で敗れ朝鮮半島での足場を失い、676年の羅唐戦争で新羅が唐軍を半島から追い出して羅唐関係が断絶、倭国は半島経由での遣唐使派遣が出来なくなり、現在のウラジオストック近くに上陸、渤海国経由で長安(唐)に渡った。
10世紀、遼(=契丹)に滅ぼされ、渤海遺民は契丹の支配下で女真と総称された。
12世紀、遼に服属していた女真の反乱により金が建国(1125)された。金はその10年後には遼および北宋を滅ぼし(1126)、新たに再興した南宋と対峙することになる。 ※ この頃、日本は平安末、NHK大河ドラマ:『平清盛』の時代。その栄華もつかの間、治承・寿永の乱(源平合戦)で平家が滅亡、源頼朝による鎌倉幕府の成立に至る。ヨーロッパでは前世紀に続き十字軍の遠征が続く。

13世紀、モンゴル帝国に滅ぼされる(1234)。
 ▼ 
17世紀、女真族は満州に後金(こうきん)を興し、1636年に国号を大清に改めた。清は1644年に明滅亡後の中国を支配します。
20世紀、「辛亥革命(1911)」、中華民国(漢族)により滅ぼされる。
 ▼ 
1932年、愛親覚羅溥儀(ふぎ)を担いで日本はその傀儡:満州国をたてます。彼の実弟:溥傑(ふけつ)と嵯峨公勝侯爵の孫娘:浩との結婚は愛親覚羅家と日本皇室との政略結婚でした。 

幾度となく国を建てては滅び、滅んでは建て、北辺あっては蔑まれながら、広大な大文明国:中国を征服、250年間に渡って支配した女真族=満州族でした。

君は映画:『ラスト・エンペラー Last Emperor (1987)』を見ただろうか?

1967年、中華人民共和国の首都:北京、『造反有理!』の紅衛兵運動が猛威をふるっていた時代。すでに人民に広く開放されている紫禁城、かつて自分が座っていた玉座を前にしています。幼い紅衛兵の少年が「お前は何をしているのか?そこは立ち入り禁止だ!」 老いた溥儀(ふぎ)は玉座に上がり、勝手知る玉座の裏からほこりだらけの容器を探り出して少年に渡します。少年が蓋を開けると、なんと、昔、可愛がっていた(?)コオロギが現れます。少年が見たのは幻だったのでしょうか?

1987年?、ガイドが観光客を引率して玉座を案内するラストシーン。その説明が聞こえます。「清朝最後の皇帝:溥儀は3歳でこの玉座で皇帝に即位し、1967年に他界しました。」


2012年、満州族は中国少数民族の一つ。人口は1千万前後。都市部に多く居住、学問を重視する傾向にあり、多く の文人を輩出している。

※ Amazon: 「成吉思汗の秘密」   DVD 「ラスト・エンペラー」 

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October 07, 2011

もう一度見たい!傑作SF映画:『猿の惑星』

もう一度見たい!傑作SF映画」の第一位は『猿の惑星 Planet Of The Apes (1968)』のようで、私も全くの同感、もう一度この映画:『猿の惑星』について考えてみましょう。
the bridge on Kuai
この映画:『猿の惑星 (1968)』をさらに遡ること10年、もう一つの映画:『戦場にかける橋 The Bridge on the River Kwai (1957)』、どちらもフランス人原作者:ピエール・ブール(Pierre Boulle1912〜1994)に辿り着きます。『地位の逆転』 支配者と被支配者、看守と服役者、主人と奴隷…、植民地経営の監督者の地位から捕虜 の地位に転落するという屈辱的な彼の体験そのものでした。『猿の惑星』の猿は『戦場にかける橋』における日本軍捕虜収容所長であり、連合軍捕虜は長い間支配者として植民地を統治してきた白人でした。

planet-of-the-apes-1024x576第二次大戦に勝利したのもつかの間、次なる東西冷戦、核戦争の恐怖の時代に入ります。新たな敵:共産主義に対してマッカーシーによる『赤狩り』が猛威をふるい、それを背景に作られたのが映画:『猿の惑星』でした。猿はもちろん非白人を現し、オランウータン、チンパンジー、ゴリラの違いはその階層を現すのでしょう、…ニホンザルは登場していませんでしたが。

1877年、正に文明開化の頃、アメリカ人動物学者:エドワード・モース(Edward S. Morse)が当時の欧米で最新の学説であったダーウィンの「進化論」を東京大学で講義したのが始まりでした。欧米でキリスト教会の猛烈な反対を受け、あれだけ議論が沸騰した「進化論」でしたが、「人間は動物・植物と同根」、「人間は自然の一部である」という日本人の思想とは馴染みやすく、モースが拍子抜けするほどすんなりと受け入れられます。

欧米のキリスト教社会では、「創造主なる神」によって天地万物の全てが創造されたとする。「人間は地を這うもの全てを支配させるために、神が特別に造った存在である」、人間はどこまで遡っても、あくまで人間であるように、すべての動物・植物もそうである。その姿・形は「神様が造ったそのまま」から一切変化しない。この欧米キリスト教の「創造説」は16〜19世紀、大航海時代、黒人奴隷制度を正当化・補強する重要な役割を果たしました。この時代に反奴隷制度の立場で登場したのがダーウィンの「進化論」でした。

「進化」、「自然選択」、「存在し続けるための努力=生存競争」、その後、自然選択をわかりやすく説明する語彙として「適者生存」が使われるようになります。こうして帝国主義の時代、「進化論」は欧米のアフリカ・アジアの植民地政策を正当化、「優生学」はナチスによるユダヤ人抹殺を科学的に補強、日本では皇国史観と「進化論」は共存することになります。scarecrow at forbidden zone『猿の惑星』、一切の立ち入りが禁止され、その理由は不明、口にするのもタブーとされている『禁断地帯(Forbidden Zone)』

猿の聖典(聖書)が書かれたのは1200年前。この地の2000年前の地層から精巧な冶金技術がないと作れない道具が発掘された。我々(猿)の文明以前に、よりすぐれた(人間の?)文明があったのでは…。

コーネリアスは禁断の学問、『進化論=猿の祖先は人間である』を証明するために…、テイラー(チャールトン・ヘストン)は人間の優位を証明するために…、彼等は足を踏み入れます。
Last scene of the planet of the apes

過去10年間に行われたギャラップ調査において、アメリカ人の44〜47%が次のように答えています。

「神が過去1万年ほどの間に、人間を現在のような形で創造したと信じている」

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November 02, 2010

桜田門外ノ変

Momo with Glasses桜田門外ノ変2
Yamaさんは映画ファン、早々と「桜田門外ノ変」を見たそうで、原作者:吉村昭の創作ノートの一部を紹介されています。「攘夷思想が何故水戸藩に興ったのか」、という素朴な疑問に、水戸藩領は太平洋に面した長い海岸線を持ち、近海での外国(アメリカ)捕鯨船の遊弋に接し、外国勢力の圧力に敏感にならざるを得なかった 、という説は新鮮です。

「尊王攘夷」は中国、春秋戦国時代の標語で、それを輸入、日本の事情に合うよう「尊皇攘夷」としました。中国からもたらされた朱子学は江戸時代、林羅山によって武家政治の基本理念として再構築され、徳川幕府の正当学問となります。朱子学に基づいて編纂された『大日本史(1657開始〜1906完成)』は尊王論、編纂を始めた水戸光圀は御三家のひとつである水戸徳川家当主であり、これを水戸藩の学問:『水戸学』として発展させます。

幕末、その『水戸学』が一大思想:「尊皇攘夷」思想となりますが、徳川斉昭はその思想の具現者として徳川家康の業績を賞賛したように、「尊皇攘夷」思想と徳川幕藩体制は何ら矛盾してはいません。「尊皇攘夷」思想は幕末に顕在化しますが、言葉はともかく、思想そのものは、日本の権力者がごく当たり前に持っていたと言えます。

源頼朝は天皇から「征夷大将軍」という官位を得て、京から離れた鎌倉幕府を開き(1192)武家政治は始まりました。天皇は、政権から遠ざけられて久しいのですが、その時々の政権にその正当性を与える、天照大神から連綿と続く日本の最高権威者でした。徳川家康も、既に全く非力な存在となった天皇より「征夷大将軍」の官位を得てその統治に正当性を獲得、加えて、「東照大権現」という伊勢神宮と同格の神階を獲得します。

権威者が権力者に「正当性」を与え、見返りに「保護」を受ける、どこか、西ローマ帝国崩壊( 476年)直後におけるローマ教皇と侵入してきたゲルマン諸王との関係に似ていなくもありません。中世西ヨーロッパに於いては、権威者(ローマ法王)が権力者(ゲルマン王)を凌駕することにもなるのですが、日本では、南北朝の一時期を除いて(?)、権威者(天皇)が権威以外の力を持つことはありませんでした。

戦国の世を平定して徳川幕府を開き、以降代々「征夷大将軍」の官位を保持して来ましたが、幕末に至り、外国勢力の圧迫に「征夷大将軍」はあまりにも無力、「夷を征する」こと、「攘夷」が出来ない「征夷大将軍」はもはや「征夷大将軍」ではないということだったのでしょう。徳川幕府を「征夷大将軍」の官位に値しないと見て、「尊皇攘夷」は「尊皇倒幕」に変わって行きます。

藩政改革を成功させた徳川斉昭は次に幕政改革に乗り出しますが、大老:井伊直弼との権力闘争に破れます。実権を握った井伊直弼は勅許を待たず日米修好通商条約に調印、徳川家茂を将軍継嗣に決定、これに反対する多くの人間を粛正・弾圧(安政の大獄(1858~1859)、「桜田門外の変 1860」はこんな中に起こった事件でした。

襲撃者は、薩摩出身の例外はあるものの、御三家の一つである水戸の脱藩浪人、被害者はこれまた徳川家譜代中の譜代:彦根藩と、徳川政権内部の抗争と言っても良いでしょう。

井伊直弼を護衛する彦根藩士は狼狽の為か、多くが現場を逃走、井伊直弼の首を取られてしまいます。井伊家は家康の時代からの譜代、甲斐武田軍団の遺臣を配属されて以降、「井伊の赤備え」と呼ばれる精鋭・最強の軍団で、西国・京都を睨む最前線という意味で彦根に居城していたのですが、主君の首を取られる大失態をしでかしてしまいます。変後、彦根藩は、主君を護れなかった罪で、警護の藩士に、無傷者には処刑、軽傷・重傷者には切腹を命じます。よほどの恥辱だったのでしょう。

以降、井伊家は幕閣内でないがしろにされるようになり、さらに水戸出身の一橋慶喜(徳川斉昭の実子)が将軍職に就き、第二次長州征伐(1868)では「井伊の赤備え」が長州軍の格好な標的となり大敗。ここで時勢を見極めた…というか、やる気をなくしたのか、開き直ったのか、鳥羽伏見の戦いでは官軍に寝返り、以降の戊辰戦争ではその先鋒として関東に弓を引くことになります。桜田門外で受けた恥辱が動機でしょうか…。

一方の水戸藩、明治維新遂行の原動力となりながら、藩内の凄惨な抗争に明け暮れ、その後は舞台の主役になることはなく、いざ明治新政府が誕生、新国家建設の段階になると、残念ながら新政府に送り出すべき人材はもはや底をついていました。

1860年、年号は安政から万延に変わります。「攘夷」を求めて決起した「桜田門外の変」、皮肉なことに、これを潮目に「尊皇攘夷」の流れも「尊皇倒幕」に変わったように思えます。

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October 20, 2010

ウォーク・ザ・ライン Walk The Line

walk the line on billboardまもなく始まろうとするフォルサム刑務所でのコンサート、舞台の袖に、復活を遂げたキャッシュが、妻:ジェーン・カーターとともにたたずんでいるシーンからこの映画:『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道 Walk The Line 』は始まります。

貧乏/劣等感arrow 02-blackチャンス/開花arrow 02-black出会い/別れarrow 02-black挫折/薬物依存arrow 02-black再会arrow 02-black克服/再起arrow 02-black復活/成就

専門家の高い評価を受けているようですが、ミュージシャンの伝記物ではおきまりの筋立て、どうも私には理解が出来ません。少々くさい日本語の副題:『君につづく道』の通り、単純な恋愛物と理解すべきでしょう。ストーリーは面白くないが、音楽好きの私にとっては「ヘーッ」と感心することばかりです。高い評価の理由は、二人を演じているホアキン・フェニックスとリース・ウィザースプーンの歌唱・演奏力、特に彼女の歌唱力がアカデミー主演女優賞受賞を可能にしたのでしょう。音楽に素人の彼らが猛練習して役になりきる。プロの俳優とはこういうものなのでしょう。

1954年、彼は、ジェリー・リー・ルイス、エルビス・プレスリー、カール・パーキンスロイ・オービソンと同じく、サン・レコードのサム・フィリップ (Sam Phillips, Sun Records)に見いだされたのですが、彼らの才能を見い出し、従来のカントリー(ヒルビリー)から白人のブルース、ロックンロール(ロカビリー)に時代が変わることを読み取ったサム・フィリップは類い希なる才能の持ち主だったのでしょう。同じ頃、チャック・ベリーが現れるのも不思議な思いがします。

残念ながら、私は彼の歌っている曲をあまり知らないし、知っているだけで、あまり好きではありません。二人が歌う「It Ain't Me Babe」を聴いたのはこの映画で始めて知りました。もちろん、これはボブ・ディランの曲ですが…、そう言えば、昔、『Girl from the North Country』をディランとキャッシュがデュエットしていたのを思い出します。当時は、何故彼らが一緒に歌うのかどうも理解できませんでしたが、二人に深い親交があったのを教えてくれたのはこの映画です。



カール・パーキンスをサン・レコードに引き込んだのもキャッシュだそうです。作った本人よりもエルビスの歌で大ヒットする『ブルー・スエードシューズ Blue Suede Shoes』、繰り返されるフレーズ:「But don't you step on my blue suede shoes」はキャッシュが兵役でドイツに滞在、誰かが「俺のブルースェードシューズを踏むなよ!」としゃべっているのを聞いた、というのがヒントだそうです。詳しくは『ブルースェードシューズ Blue Suede Shoes』をご参照下さい。

1968年、彼はフォルサム・カリフォルニア州刑務所でのコンサートを実現、ドイツ滞在中に作った彼の最初のヒット:『フォルサム・プリズン・ブルース Folsom Prison Blues』をオープニングに、そのコンサートは大成功、ここに彼の復活は完成したのでした。

カントリー歌手としての地位を不動の物にした彼は、ある時、ベーカーズ・フィールド出身の新人歌手:マール・ハガードとステージを共にすることがありました。

マール・ハガード:「サン・クエンティンではあなたのステージを大いに楽しむことが出来ました。」
キャッシュ:「あのステージに君が一緒に居たとは知らなかったよ。」
マール・ハガード:「いやいや、僕はあなたのステージでご一緒したのではなく、聴衆の一人でした。」

ジョニー・キャッシュはサン・クエンティン刑務所でも囚人慰問のコンサートを行いましたが、マール・ハガードはそこに服役中だったのです。3回もキャッシュのコンサートを見たというのですから、彼のムショ暮らしはかなり長かったのでしょうね。

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July 22, 2010

2001年、そして2010年宇宙の旅

35℃を越えているかも…、酷暑2001_space_odyssey_posterの「海の日」の休日、外へ出て行く気持ちにもなれず、ヘタなギターは15分がせいぜい、やることもなく、インターネットで昔の映画:『2001年宇宙の旅    2001:A Space Odyssey(1968)』を見てしまいました。

私がこの映画を見たのは大学生の時でした。大阪梅田発の阪急電車に乗ると右側にドーナツ上の宇宙ステーションを描いた大きな映画の看板が目に入ったのを良く覚えています。もちろん、看板にある封切り館で早々に見た訳ではありませんでしたが…。映画の冒頭のシーン、3〜4bone spinning百万年前、猿人が道具(武器)を手にした時に猿は、もはや猿人ではなく、人類(ヒト)となります。最初の道具(武器)、動物の骨を放り投げるとそれは空高く舞い上がり、月に向かspaceshipって航行する白い宇宙船に変わるシーンに流れるようにつながって行きます。3〜4百万年の人類の進化を十数秒で表現したものでした。

当時はマイクロソフトもアップルもこの世になく、IBMが最高性能のコンピュータでした。そのIBMの一歩先を行くコンピュータがHAL(ハル)が登場、ご存じの通り、IBMの各文字の一つ前のアルファベットがその名前の由来であることは、後知恵でした。このIBMを凌ぐHALが木星へ向かう宇宙船:ディスカバリーの中で反乱を起こすのですが、何故反乱を起こすのか、この映画におけるHALの役割は何なのか、どうもこの映画自体を理解することが出来ませんでした。

今回は、「若い頃は理解できなかったがこの歳になれば…」と、メモをとりながら、極めて真剣にこの映画を観たのですが…。

2001_space_odyssey_1「モノリス Monolith」と呼ばれる四角形の石柱が3回登場します。最初は、3〜4百万年前、神の啓示を受けたかのように「モノリス」の発する力によって、猿は人間に劇的に進化します。月への旅行が日常的になった現代、その月の地下に発見された2つ目の「モノリス」は人間を木星探査に導きます。それから18ヶ月後の2001年、宇宙船:ディスカバリーは木星に向かって深宇宙を航行しています。

宇宙船:ディスカバリーのクルーは5名。ボーマン船長とプール、残りの3名は木星到着後の任務遂行だけの要員で航行中は人口冬眠中です。そしてHALが宇宙船の全機能を完璧に制御しており、感情・情緒さえも備えるようになって来ています。
HAL
宇宙船:ディスカバリーはついに木星に接近、HALはこの木星探査への疑問をボーマン船長に打ち明けるようになります。そして、コンポーネント:AE-35の故障を契機にHALと人間は相互不信となり、ボーマン船長はHALの異常を疑い、彼の能力を航行機能だけに制限しようとするのですが、HALはその意図を察知して、まず人口冬眠中の3人の生命維持装置を停止させ、船外作業中のプールを殺害、残るボーマン船長はただ一人HALの攻撃をかわしてその機能制限に成功します。HALの反乱を乗り切ったボーマン船長はHALの記憶回路から18ヶ月前に発生した月での事件の真相究明が、この木星探査の目的であることを知ります。

巨大な木星を背後の宇宙空間に2001_space_odyssey_4第3の「モノリス」が現れ、ボーマン船長はそれがHAL(ハル)の記憶回路に繋がった彼の内面世界なのか…、それとも、時空間を飛び越えた世界なのか…、まばゆいばかりの光の洪水の中を荒涼たる地表を下に見て飛行します。10分はこのサイケデリックなシーンです。

宇宙服を着たボーマン船長は全く音のない、真っ白で、影の存在しない、何故かロココ風の一室に自分がいることに気付きます。ドアを開けると、後ろ姿だけしか見えないのですが、老人が一人ぼっちで食事をしています。宇宙服のボーマン船長はすでになく2001_space_odyssey_3、その老人こがボーマンであるという訳です。老人のボーマンがふとベッドに目をやると、老衰で死んでいくボーマン、そして、胎児のボーマン。ベッドの前には再び第3の「モノリス」が立っています。

「浦島太郎」の玉手箱では軽すぎますね。選ばれた人間(ヒト)であるボーマンに第3の「モノリス」は何を与えたのでしょうか?
HALは出発前から「モノリス」の存在を知っていますが、何故この木星探査に、どのような疑問を抱き、反乱に及んだのでしょうか?HALと「モノリス」との関係は…ひょっとしたら、敵対関係なのでしょうか?HALを主役に持ってきた意図は何でしょうか?
…ついでに、人口冬眠していた3人は、目覚めることもなく永眠してしまいますが…?

映画公開から30年を過ぎたこの歳になってもやはり理解することが出来ませんでしたが、現実の世界では、ディスカバリーの到達した木星軌道の内側、火星-地球軌道を横断する楕円軌道を回る小惑星:「イトカワ」探査の使命を果たし、満身創痍で地球に帰還した「はやぶさ 2010年 宇宙の旅」には感動しました。現実の「はやぶさ」は、映画の中のHALにはまだまだ及ばないのですが、コンピュータや機械システムを超越した存在に強烈な感情・情緒、そして人格さえも感じたのは私だけではなかったようです。

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May 12, 2008

お前と俺 Little Fauss and Big Halsy

映画:「大いなる陰謀(原題:Lions for Lambs, 2007) 」を観た友人が曰く、「あんだけハンサムだったロバート・レッドフォードが歳をとってシワだらけのおじいちゃんになっている」と、映画の内容にではなく、彼の形相の変化に驚いた様子。全くの同感。テレビで再放送された「スパイ・ゲーム(SPY GAME, 2001)」を観てびっくりでしたから、映画館の大きなスクリーンで観ればなおさらのはず。

ハンサムな男に対する劣等感でしょうか…、彼を一躍スターにのし上げた「明日に向かって撃て! Butch Cassidy and the Sundance Kid (1969)」、当時アメリカンニューシネマの代表作の一つとしては評価するのですが、どうも共演のポール・ニューマンをひいきにしてしまいます。彼の出演作品、監督作品の全てを観たわけではありませんが、この作品以降、彼は若い映画人育成を目的にサンダンスを主催していますが、どうもこれといって印象に残る映画はありません。

1本だけ印象に残った映画があります。「お前と俺 (Little Fauss and Big Halsy,1970)」です。彼の出演した、あるいは監督した映画の数々はネット上で紹介さていますが、何故かこれだけが、意図的にかどうかは判りませんが、リストから抜け落ちている、ははずされている(?)場合があります。

どうも、駄作(?)だったようで、本人も気に入っていないようです。The Internet Movie Database のトリビア曰く、 <<彼が主演した気に入らない、好感を持たれない役柄を演じた数少ない映画の一つ。「大統領の陰謀(All the President's Men)」が公開された1976年、この映画がテレビで放映されて彼は非常に不愉快だったと伝えられています>>。

彼はハンサムで女にもてるオートバイレーサーのハルシィー役、バイクのメカニックの腕はいいがレースではいつもどん尻、風采の上がらないファウス。二人はコンビを組んでレースに出場します。

私は学生時代、場末の映画館でこの映画を観ました。ドジなファウスを演じるマイケル・J・ポラード、その銀(鉄)縁の眼鏡をかけたブスな男、レッドフォードとは対照的で妙に惹かれました。二人が遊びで乗るバイクがYAMAHA DT1 250、もちろんレッドフォードの方がかっこよいのですが、ポラードの方が雰囲気があって魅力的でした。



ファウスの完璧な整備で望んだレースはハルシィーが優勝。…と同時に何かが狂い始めます。元々テングだったハルシィーがなお一層テングなったことで問題が起こります。別れた二人は別々にレースに出るようになります。最初は調子の良かったハルシィーが途中でリタイア、その様子を横目で見ながらファウスがゴールをめがけて駆け抜けていきます。

押しつけがましく、世界に誇ってきた豊かなアメリカが「これはどうもおかしい、間Michael J.Pollard違っているのでは…」と思い始めた1970年の映画でした。

数年後、私はファウス(ポラード)が乗っていたのと同じYAMAHA DT1 250を、中古ながら、買うことになります。

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  新商品4点を追加しました。

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November 05, 2007

「アーバン・カウボーイ」

  当時、ニューヨークの駐在を終えた後輩が私と同じ部署に配属されてきました。ディスコブームの時代。映画:「サタデイナイトフィーバー(1977)」(パチンコではありません)の舞台:ニューヨークから帰国、独身でダンスも上手い、と言えば女の子にもてるのは当たり前。既に結婚して、子供もあった小生ですが軽い嫉妬を覚えてしまいました。それが理由とは思いませんが、いや、言いたくありませんが、Saturday Night Fever映画:「サタデイナイトフィーバー」は好きではありませんでした。

挿入歌:ビージーズの「Night Fever」、「Stayin' Alive」は爆発的なヒットを記録するのですが、これがどうも気に入りません。ビージーズといえば「マサチューセッツ」や「小さな恋のメロディ」。元々興味がありませんでしたが、それに加えて、どうして「マサチューセッツ」が「サタデイナイトフィーバー(Night Fever)」につながっていったのか全く理解できません。

ジョン・トラボルタはこれで一躍、スターの地位を築き、この路線を映画:「グリース(1978)」につないでいくことになります。

Urban Cowboy「サタデイナイトフィーバー(1977)」から3年後、映画:「アーバン・カウボーイ1980)」が公開されました。これには軽い快感を覚えました。テーマは同じというか、前者の焼き直しで、白人下層社会の若者(工場労働者→農業労働者)・ダンス音楽(ディスコ→カントリー)・都会が舞台、極めつけは同じジョン・トラボルタの起用でした。制作者にその意図があったかどうかはともかく、カントリーぽぃ音楽に偏向している私は「我が意を得たり」と、大いに溜飲を下げたものです。しかし、残念ながらカントリーに火がつくことはなく、ディスコブームは1994年オープンの「ジュリアナ東京」に象徴されるバブルの時代まで、あるいは今も息長く続くことになります。


久しぶりのカントリーの野外コンサート。異様な光景が目に入ります。ノリのよい曲が始まると、前席に詰めていた一団がステージの前にわーっと集まり、やおら踊りだすではないですか。カントリーダンスと呼ばれるそうです。格好を見ると、判で押したようにジーンズにカウボーイブーツ、お腹にくい込んだら痛いであろう大きなバックル、もちろん(?)カウボーイハットに赤いバンダナ…。男性もいますが
、多くは、決して若くはない女性です。彼らは音楽そのものより、ダンスがお目当てなのです。danceable music、ダンスに向いた曲。 今から思えば、映画:「アーバン・カウボーイ」から始まったようです。このカントリーダンスが近年のハワイアン、フラダンスブームと似通って見えるのですが、それは踊る彼女達の年齢層から来るのでしょうか…。確かに運動の為にはよいことです。

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June 20, 2007

「猿の惑星 」  The Planet of Ape

先日、2001年公開のリメイク版がテレビで放映されましたが、やはり『猿の惑星 The Planet of Ape』と言えば1968年公開、主演:チャールトン・ヘストンのそれでしょう。 原作にはなかったそうですが、この衝撃的なラストシーンは印象的でした。もう一つ、「何故、主役がチャールトン・ヘストンなの?」…が、公開当時からの疑問でした。何か、原作と映画との間に微妙なねじれがあるようです。
Last scene of the planet of the apes-2
伝記はWikipediaに譲るとして、原作者:ピエール・ブールは第二次大戦勃発前の1938年から数年間におけるインドシナで過ごします。当初ははイ ギリス領マラヤにおけるゴム農園の監督者として、大戦が勃発するとフランス軍に志願、フランス降服してからはレジスタンスの一員として諜報活動に従事しま す。1943年ビシー政権側に捕らえられサイゴンにて終身刑に服しますが、翌年、彼は脱獄に成功します。彼の強烈な体験は、後planet of apeに彼をして二つの大ヒット作 を書かせることになります。
bridge on the river kwa
一つは、『戦場にかける橋』 (Le Pont de la Riviere Kwai 1952)、その10年後に『猿の惑星』 La Planete De Singes 1963)、それぞれ映画化され、『戦場にかける橋』(The Bridge on the River Kwai 1957)、『猿の惑星』(Planet of the Apes 1968)、いずれもアカデミー賞作品賞。


2つの作品の共通テーマは、小説・映画を問わず、「地位の逆転」です。看守と服役者、主人と奴隷(あるいは使用人)…、植民地経営の監督者の地位から捕虜 の地位に転落するという屈辱的な彼の体験そのものなのでしょう。この意味で、多くの人が言うように、『猿の惑星』の猿は『戦場にかける橋』における日本軍 捕虜収容所長であり、猿=日本人、と描かれている説に賛成してしまいます。

ピエール・ブールの体験した第二次大戦は既に終わっており、共産主義の台頭する、冷戦の時代、核戦争の危険を胎むカタストロフィーの時代に入っています。ハリウッドにも吹き荒れたマッカーシズム(反共「赤狩り」)の嵐が過ぎ去った直後に作られたのが『猿の惑星』でした。

マイケル・ウイルソンに依る脚本は人類破滅後の世界を描き、同時に「赤狩り」時代に生きた自分(人間)をこの映画に重ねているとの説もあるようです。

チャールトン・ヘストンと言えば、1959年、『ベン・ハー』でアカデミー賞主演男優賞を獲得、容姿・キャラクター共に白人・アメリカ人を象徴する俳優。 1968年の『猿の惑星』では宇宙飛行士役の彼が、猿に捕まり、手かせ・足かせをはめられ檻の中に入れられる、奴隷・服役者・奴隷を演じます。その対比が 極端で、よく彼がこの配役を承諾したと思うのですが、今や82歳、元全米ライフル協会会長としても有名な保守層の代表者、どこか『新・猿の惑星』を見るようです。

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June 10, 2007

「アラビアのロレンス」

アメリカの非営利団体、NPR (National Public Radio) は2005年10月20日付で興味深い報道をしています。→ 追記覧にその原文を掲載
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lawrence_maT.E.ロレンス、 中東のビジョン

イラクに駐留するアメリカ軍関係者の間で最も読まれている本の一つが『知恵の七柱(原題:Seven Pillars of Wisdom)』、第一次大戦中、アラブ諸部族の独立を率いた大英帝国陸軍大佐:トマス・エドワード・ロレンス(T. E. Lawrence)の著作、中東地域における戦争及びそこに住む民族の特殊性を著したもの。

Thomas_Edward_Lawrence1918年、ロレンスが作成、イギリス政府に提案された中東地域地図は長らくその所在が不明であったが、今、大英帝国戦争博物館にて展示されることになった。当時優勢であったヨーロッパ列強による植民地政策に依るのではなく、アラブ人の感情・情緒に則した国境策定を進言したものです。歴史家にとって、ロレンスの地図は「歴史のIF、もし〜だったら…」の格好のテーマ、現に今日のイラク・クルド人の要求によく似たクルド人国家の分離を提案しています。ロレンスは、今日のシリア、ヨルダン、サウジアラビアの一部及びその他地域をその種族及び交易ルートに依って分類しています。

その地図はパレスチナと呼ばれる分離国家をも予測しています。ロレンスはイギリスがユダヤ人国家建設(「エクソダス」をご参照下さい)を考えていることを知っていたのです。

そして、彼はイラクにおけるスンニ派とシーア派を分離する理由はないと考えていました。これは今日もなお、同国が引きずっている大きな問題です。
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アラビアのロレンスポスター私はこの本:『知恵の七柱』を読んでいません。ただ彼の名前:T.E.ロレンス、それもデビッド・リーン、1962年監督の映画:「アラビアのロレンス」として知っているだけです。※松岡正剛氏のサイト:「千夜千冊 遊蕩編」にロレンスに関する説明、『知恵の七柱』の書評があります。

当時インドは植民地として大英帝国の宝。ジブラルタル→マルタ→キプロス→スエズインドに至るルートは帝国の生命線。一方では、石炭から石油燃料への転換・需要拡大時期に入りその資源の確保。その2つ目的のためには手段を選ばない軍事・外交政策がとられます。衰退を続けるオスマン・トルコ、これをイギリス、フランス、そしてロシアがその領土を侵食していきます。オスマン・トルコはドイツと同盟を組み、それと対抗しようとします。

そのオスマン・トルコの支配を破ろうとアラブ諸民族独立の機運が高まります。ここで登場するのが大英帝国陸軍大佐:T.E.ロレンスです。アラビア語を操る考古学者は、大戦勃発とともに参謀本部情報将校としてカイロの陸軍情報部に配属されます。彼はファイサルに出会い、この「運命的な出会い」は大英帝国陸軍大佐をアラブ独立主義者に変え、その後、二人は協力してトルコ軍に対するゲリラ戦の指揮をとることになります。1917年二人はラクダ部隊を率い、モーゼの「脱エジプト」以来誰もなし得なかったネフド砂漠を越え、トルコ軍の守る、要衝アカバ港を背後から急襲、これを壊滅させます。この快挙は彼を中東、いや世界の英雄:「アラビアのロレンス」に押し上げることになります。しかし、本国の二枚舌・三枚舌外交(エクソダス(Exodus)でも触れました)に幻滅、この地を失意のうちに去ることになります。彼の「砂漠の反乱」は単にトルコに対する蜂起だけではなく、母国、大英帝国への反乱でもありました。

大戦後、イギリスは単独で中東全地域を手中にし、大英帝国は歴史上最大の版図を収めます。…が、しかし、中東のさらなる混乱はこれを機に始まったといえます。同時に大英帝国衰退の始まりでした。アラブ諸民族の特性を無視したイギリスの統治、国境の策定はその能力・実効性を失います。新たに登場した新興大国:アメリカがイギリスに代わって中東の地域紛争に介入するに至ります。

歴史上、オスマン・トルコを除いてエルサレムとバグダッドを統治した帝国が長続きしたことはないそうです。イラクに軍を送るアメリカは「アラビアのロレンス」から何を学ぶのでしょうか。

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以下原文
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April 24, 2007

リンボウ、Limbo

リンボウ、Limbo。日本人にとって、明るいカリプソのメロディーに乗って踊るリンボーダンスのイメージが強い言葉ですが、実は全く逆の意味のようです。「忘却・無視された状態、刑務所・監獄」を意味し、この<<リンボーダンス>>をとってみても、近世におけるアフリカ黒人奴隷が置かれた状態に起源します。

遡って中世、カトリックのドグマでは「天国と地獄の間にある地獄の辺土。キリスト降誕以前の正しい人・キリスト教に接する機会のなかった善人、洗礼を受けなかった小児や異教徒などが死後に住むという霊魂の世界。」を意味するそうです。

舞台はアラスカの小さな港町、都会から流れ着いた売れない女性フォーク歌手と前夫との間に出来た年頃の娘。その娘も母親の過去に絶望、自らの未来にも何ら希望を持ってはいない。過去の遭難事故を引きずり、妻にも逃げられ、今は町の便利屋で細々と生活する元漁師。やがて、場末の店で歌う子連れ女性歌手と便利屋は恋に落ちます。

観られた方もおられるでしょう。ジョン・セイルズが1999年に製作した「最果ての地(原題:Limbo)」です。mary_elizabeth_mastrantonio売れない歌手役のメアリー・エリザベス・マストラントニオの歌のうまいこと、映画の中で自身「エミルー・ハリスと似ていると言われるの」と言わしめ、その店の常連、人相の悪いブッシュパイロット役のクリス・クリストファーソンが彼女の歌を聴きながらプールに興じているシーンはカントリーミュージックが縁でこの配役が決まったのかなぁ、と思わせます。

この話はともかく、絶望の淵に立つ3人がこの町で身を寄せ合って新しい生活を切り開いていく…のか、と思いきや、ひょんなことから麻薬の運び屋に追われ、3人は冬の近づく無人島でサバイバル生活を始める羽目になります。

昔この島に入植した一家が残したと思われる廃屋での生活は、冬も間近にせまり厳しさを増していきます。vanessa_martinezある日、娘はその廃屋で入植者の娘、彼女と同年齢の子供が残した日記を発見します。たき火を囲んで彼女はその日記を毎夜1ページずつ朗読するのです。日記の内容は、日々生活の苦しさが増していくのを綴っています。彼女は自分以外の人間がこの日記を読むことを拒んでいましたが、ある夜、娘が寝ている間に、母親はその日記を盗み見ることになります。娘の朗読で聞いたページは日記にはなく、日記は何日も前に既に途切れてしまっています。

まさに絶望の淵。ある朝海岸で遠くに飛行機の爆音が聞こえてきます。視界に入った機体は徐々に大きくなり、やがてその水上飛行機は着水、浜辺david_strathairn_kris_kristoffersonまで接近するのを狂喜で迎えます。コックピットから降りたのは店の常連、クリス・クリストファーソン。「燃料不足から3人を搭乗させることも、無線故障で救助要請もできない。もう一度来るからそれまで待っていてくれ」と言い残して飛び立ってしまいます。

再び絶望感が漂う数日が過ぎ、あの爆音が近づき、あの機体が視界に入ってきます。

ここでこの映画は終わります。全くプッツリと終わります。
3人は「地獄の辺土」からの脱出に成功したのでしょうか?…とは愚問でしょうか。

※娘役のヴァネッサ・マルチネスが日記を朗読する、自らの日記を作るシーンが印象に残ります。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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