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February 09, 2014

散歩の途中 絵で辿る散歩道

 聞いてはいましたが、昨夜の吹雪にびっくり、今朝は朝日に映えて一面真っ白。玄関ドア、前が雪の吹き溜まりになって開きません。都内は27センチの積雪の由ですが、私の車の屋根には40センチの雪、生まれて始めての大雪でした。ここは、ささやかな社会貢献の見せ所とばかりに、雪かき用のスコップを取り出して奮闘すること2時間、お陰で食事も美味しく、夜もぐっすり眠ることが出来ました。こんな時に使っていいものか…、今が冬の真っ盛り、…やはりヘンです…、散歩には出かけるものの、寒空にトイレの近くなった私、外で時間をかけて景色・建物をスケッチすることはなくなり、もっぱら家にこもり、不得手な人物・動物を描く練習をしています。

20140208Me & Momo後ろ姿 前回、私の新境地ということで、「小山田荘鳥瞰図」を描いたところ、多くの方々に「面白い」と、好意的な評価を頂きました。ということで、本来の「カントリー音楽」・「諸文化の歴史」に沿った話題も、まだお聞かせするような段階ではなく、ここは前回に続いて、地元「小山田荘」が話題、過去2年間続けてきた「散歩の途中」のスケッチを振り返りながら、私の散歩道を辿ってみましょう。
本当はどうだか知りませんが、私の言う「小山田荘」とは、南から都道47号(町田街道)、八王子市・多摩市と接する北辺の158号(尾根幹線)、小野路を経て多摩市乞田に向かう156号(鎌倉街道上の道はこの辺り?)、そして57号(芝溝街道)の4街道(都道)に囲まれた地域です。
※鳥瞰図をクリックして拡大します
20140208絵を描いた場所 on 小山田荘鳥瞰図_s

散歩の途中 廃小屋3_130617
散歩の途中 見晴らし公園 小山田桜台団地に住む私は、家を出ると外周道路に沿って西へ公園、団地の縁の狭い農道を登って「見晴らし広場」茵∨未慍爾辰藤隠毅宜罅∈犬帽圓と鶴見川源流の通り、この155号は沢で、そこを右折して作業小屋絖蕁⊆,某卦譴瞭擦重なった
散歩の途中 廃屋1為か不器用な交差点、右折で廃屋薛罎任垢、そこを左折して北へ進んだ左に作業小屋茵右折して集落を散歩の途中 廃小屋2過ぎると「とんぼ池」薛隋△修海呂發小山田緑地です。東京国際GCの縁を南に下り、公とんぼ池20130905園管理事務所の横から、大泉寺(小山田城址)に、バス停膈茵∈邏半讚膈罅元精米屋膈罅⊆辺の集落の中を通って再び155号へ、
20121207大泉寺バス停散歩の途中 大泉寺近く20130912散歩の途中 大泉寺近く20130916-2蓮田・小山田神社20130717_3

東へ向かう両側は豊かな田園、その右手の蓮田の中に小山田神社絖蕕ひっそりと在ります。余談散歩の途中 Episodeですが、155号をさらに東に行って57号(芝溝街道)とぶつかる所に「Episode」蕕あり、朝6時から開く、なかなか美味しいパン屋さんです。南に上がって山王林公園を通って帰る、しめて2時間のコースです。

 もう一つ、自宅を出て団地内の谷戸池公園から、市民の定番散歩コース:「尾根緑道」に出て東へ、尾根緑道を出ると町田市リサイクル・センター、要はゴミ処分・焼却センター、花の家裏20130831その排熱を利用した温水プールと温室、その裏に秘密の花園…?、ではありませんが、誰も知らない広場蕕あります。南へ下った、47号(町田街道)の一角は全て桜美林学園、図書館膈茵⇔蘿卞押Х婀堂膈罅∨楷曄Э鯆膣朖MAC桜美林_s罅体育館膈蕕修慮鮑硬世忘澆Mac蕕妊魁璽辧爾魄んで帰ります。コーヒータイムを除いて1時間の散歩です。
桜美林大学 「三倒図書館」桜美林大学 「荊冠堂」桜美林大学 正面 「崇貞館」20130903桜美林 体育館_s

 藤沢周平原作の映画に使われた…?、という説もある山桜一本シャクナゲの群生が見られる場所を教えてもらいました。今年は、皆さんにご紹介することができるものと思っています。どうぞ、お楽しみに…。

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January 30, 2014

住めば都、小山田荘 鳥瞰図

やって来た当時、市を縦断する幹線:町田街道は片道一車線、もちろん右折専用レーンもなく、右折車があればたちまち渋滞、そんな道にはバキュームカーが走って…、「えーっ、ここが東京都?」…。あれから20年、私には「住めば都」、そんな歳になったのか…、単に現住所が在るだけではなく、毎日の散歩で新しい発見をすることが出来るようになりました。

平安時代後期、平氏:秩父重弘の子有重がこの地に、小山田別当を称し,馬牧場を開拓・経営したのが小山田荘です。古代〜平安〜鎌倉〜南北朝の痕跡が残る小山田荘、その荘園主になったわけではありませんが…、今や私にとっては「都」となっています。

申告すべき収入もないのですが、何かと忙しい確定申告の時期、それを放ったらかして…、完成させたのが「小山田荘(おやまだのしょう)鳥瞰図」です。それほど格好をつけるものではありませんが、以前から思っていながら一度も実現せず、私にとっては初めての試みなのですが、鳥の目で…あるいは、「ハリー・ポッター」か「魔女の宅急便」になったつもりで私の「都」を俯瞰したものです。山の高低は全く無視されていますが雰囲気は出ていると思います。如何でしょうか。
※鳥瞰図をクリックして拡大します 
20140129小山田荘鳥瞰図for Blog
私の「都」:小山田荘は、北辺に多摩市との境があり、北は人工的なニュータウン、南は古代・中世が残る、言葉を換えれば「開発の遅れた…」どころの話ではありませんが、「手付かず…」に近い、小山田荘。尾根伝いに通る、桜の名所、尾根道(尾根緑道)。尾根道ほど近くではありませんが、自転車で行くにはちょうど良く、帰りは上り坂がきつくて回り道の「鶴見川源流」があり、山に囲まれた、舌状の「谷戸」と呼ばれる地に稲作が豊かで、大泉寺(小山田城址)周辺の山は小山田緑地がハイキングコースとして整備されており、源義家も通った古代・奥州古道、「いざ、鎌倉」、新田義貞の鎌倉街道が走っています。南の境川を超えると相模原市、淵辺義博の館跡、近くに『太平記』には出てきませんが「縁切り榎とわかれ橋」の伝説、時代は下って近世、名主・豪農:原 清兵衛が新田を開発、地名:清新(せいしん)、市名:相模原は「相模の原」、彼の名に由来、これに似たような話が「忠生」です。平安後期、この地で新田・馬牧場の開墾・開発が隆盛、武士というよりは牧場主のような彼等は「一所懸命」という単純明快な論理と「名こそ惜しけれ」という、卑怯な振舞いを蔑む精神と表裏一体して鎌倉武士の真髄、その後の日本人の考え方・生き方に大きな影響を与え、日本人の原理・原則、「理念」になって行きます。こんな勉強をさせてもらっている桜美林図書館、これまた近くです

次回の新発見をどうぞお楽しみに。

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December 24, 2013

年賀状、気の利いたコメントは?

今年も余す所〜日、久しぶりに使うプリンターのインクがない…、上手くいかない…、年賀状作りに奮闘されておられることでしょう。その年賀状、来年の目標など、何か気の利いた手書きのコメントを入れます。「週に一度でも、家族みんなの食事を作ります」、こんなコメントを入れてみたいものです。

残念ながら商売も少なく、私の収入も減少、それ故?潰すべき時間の多くなったこと…。お金を使うことが出来れば、時間を潰すのは簡単なのですが、自由になる時間がいくら増えても、使うべきお金がないのですから、手足をもぎ取られたようなもの…、身動きが取れません。朝の散歩の帰りにコーヒー一杯百円を目当てに立ち寄るマック、スマホをいじったり、文庫本を読んだり、新聞を隅から隅まで読んだりしている、その種のお仲間の方々が多いのにはびっくりしてしまいます。お仲間と言っても、各人が何か一つの趣味で結びついている訳でもなく、思い思いに、昔は貴重だった朝のひと時を優雅に過ごされています。かく言う私も、ここで顔をよく見る人と病院で鉢合わせとなり「あっ!どうも…」、何が「どうも…」なのか判りませんが、それがきっかけで、今のテニスの仲間に入れてもらいました。

「亭主元気で留守がいい」とはよく言ったもので、奥さんの立場からすれば、主人は外で稼いでくるから主人としての意味があるのであり、その彼の稼ぎが悪くなり、ましてや一日中家でごろごろ、昼食まで用意しなければならないのであれば頭に来るでしょうね。現役で働いて収入を奥さんに渡していようが、引退して奥さんに渡す金額が少なくなろうが、腹は同じ、現役時代と同じように昼食は食べなければいけません。「昼食不要な日を、週に1〜2日、前もって奥さんに伝える」、奥さんは主人の留守の日に友達を家に呼ぶことが出来る、これが引退後の夫婦円満の秘訣、とは私の年の離れた姉の言。全くその通りとは思いながらも、未だ実行しておりません。

食事の用意を当番制でやっておられるご夫婦があるらしいのですが、こんなできるご主人を羨ましく思います。かと言って、一時ブームになった料理教室に通う気など私にはさらさらありません。ブームと言えば、料理の得意なKenさんは、今は大阪に暮らすのですが…、当時「そば打ち道場」で修行、延し棒・麺きり包丁まで用意するいわゆる「そば打ち名人」です。大晦日の午後、自分で打った蕎麦に、プロの味の海老天を添えて、近所の親しい人に配っておられました。その美味かったこと…。

友人との忘年会、冒頭に紹介した通り、彼の来年の目標は「週に一回でも家族皆の食事を作ること」。家族皆に喜んでもらえるのですから、それが出来れば、こんなに素晴らしいことはありません。誰もが自分の出来ないことをする人を「すごいなぁ」と思うのですが、私には料理の出来ることがそれに当たります。当面、私にはそんな大それた計画も、目標もなく、いま考えているのは、近くにある桜美林大学の学食で昼食、カレーライスかラーメン、午前・午後を図書館で勉強して1日を過ごす。どうでしょうか?桜美林老実館学食カレー

考えただけでなく、早速、実行してみました。桜美林の「桜カフェ」は冬休みで閉店、「老実館食堂」は教職員の為か、今日:クリスマス・イブも営業しており、私は350円のカレーを頂きました。ウ〜ン…、こんなもんでしょうか。上の写真がそれ。図書館での時間はあっという間に過ぎ、あまりにも簡単に実行出来てしまいました。これでは目標にはなりません。冬至の夕方はもう真っ暗、礼拝堂:荊冠堂はクリスマスのミサが行われるらしいのですが、異教徒の私は家路を急ぐことにします。
桜美林Xmas Eve
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October 18, 2013

散歩の途中<6> 桜美林

関西に育った私が、「桜美林」の名前を知ったのは、夏の甲子園、優勝決定戦でPL学園を下して優勝したのがきっかけでした。それは1976年の由、と云うことで…、長女はすでに生まれていました。当時は、その桜美林大学のすぐ近くに住むことになるとは…、思いもよらないことでした。今や、「住めば都」となった小山田桜台、これに隣接する「尾根道」町田市の桜の名所でもあります。
桜美林大学 正面玄関
この「桜美林」とは、なんと良い響きなのでしょうか…、好きです。この桜の名所に由来する名前か…、と思いきや、実は、創立者:清水安三氏が若かりし頃留学したオーバリン大学(Oberlin College)に由来するそうです。いい漢字を当てたものです。大学本部は町田市常磐町にありながら、最寄り駅は横浜線淵野辺駅(相模原市)、その間をひっきりなしに往復するスクールバス、あちらのボディには「J.F.OBERLIN」、こちらには「OBIRIN GAKUEN」の表記とまちまち、前者は英語、後者はローマ字、英語教育の大学でさえ『標識の英語表記』の問題は解決されていないようです。
2013090桜美林 図書館8
実は、桜美林大学の図書館を利用させてもらっています。僅かな年会費をお支払いするだけで、蔵書の閲覧だけでなく、制限はあるものの、2週間本の貸出をしてもらえます。お陰様で、よほど読みたい本ならともかく、書店で本を購入することは滅多になくなりました。このブログのネタの多くは桜美林図書館での読書に依存しています。
20130804桜美林 荊冠堂
あれから〜年、長女は家庭を持ち、その一人娘は、…私の孫娘ですが…、小学5年生になっています。この夏、いつもの通り、一家が遊びにやって来ました。孫娘と一緒に訪れた桜美林のキャンパスは夏休み、彼女と並んで描いた絵です。

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September 15, 2013

散歩の途中<5> 箭幹八幡宮 奥宮開扉大祭

「乱」は政府・現政権に対する反乱、これに近い言葉に「変」がありますが、不意打ち的な武力行使を伴う政治的な陰謀・政変です、…必ずしも武力衝突を伴うとは限りませんが。「乱」、「変」ともに国内での戦争・紛争であるのに対して、「役」は他国・外国との戦争、例えば「文永・弘安の役(1274・1281)」あるいは「文禄・慶長の役(1592〜96・1597〜98)」など、対外戦争を意味すると学んだ記憶があります。

陸奥国の有力豪族:安倍氏は、朝廷への貢租を拒み、半独立的な勢力を形成していました。国司追討軍との間に始まった戦いが「前九年の役(1051〜62)」で、当初は陸奥守として赴任した源頼義とその嫡男:義家を圧倒したが、1062年、俘囚清原氏が参戦するに至り形勢が逆転、安倍氏は滅亡しました。ここで対外戦争を意味する「役」を使ったのは、畿内の朝廷が、安倍氏が支配した陸奥国及び安倍氏自体を「東夷」、「異国の蛮族」と見なしていたからにほかなりません。これから遡ること約3百年、朝廷軍を率いて日本海側を北上、蝦夷を討伐した阿倍比羅夫(あべのひらふ)が安倍氏の先祖であるにもかかわらず…。

続く「後三年の役(1083)」から、陸奥国平泉、藤原三代の時代につながって行きます。源頼義・義家父子が、関東の武士と「前九年の役」・「後三年の役」を共に戦い、信望を集めて地盤を固め、後の源氏による鎌倉幕府創建の礎となります。

その源義家(1039〜1106)、「八幡太郎義家」と尊称される、源氏の祖の一人です。「太郎」は源氏を継ぐ嫡男=棟梁の意味、石清水八幡宮(京都府)で元服し、「八幡神」を守護神とする源氏の棟梁の意味で、「天下第一武勇之士」と称されました。戦国時代の旗指し物でよく見られる『(南無)八幡大菩薩』の通り、その後清和源氏を名乗る足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏などが守護神として、武神・弓矢の神・必勝の神とされるようになった。※ 因みに、「八幡製鉄」は、日清戦争勝利後の1901年に、富国強兵を国策として日本初の近代製鉄所として誕生しましたが。鍛冶・鉄の神から始まり、武神・弓矢の神・必勝の神となった「八幡」が、帝国主義の時代、列強に「追いつけ・追い越せ」という強い意志を込めて名づけたものと聞いたことがありますが…、いかがでしょうか。
矢幹八幡参道
160608_矢幹八幡

義家は陸奥国の安倍氏を平らげ帰国する途中、武蔵国木曽の村で病に倒れたが、夢に老翁が現れ悪鬼を射倒すを見て病は快癒、そのお礼に建立したのがこの八幡様。屋根に矢を刺すと矢竹が繁茂、その竹で矢を作る村、矢部という地名(JR横浜線矢部駅)、そこから出た一族の名前=矢部氏となったそうです。
箭幹八幡 奥州古道 
義家が武蔵国木曽の村に立ち寄ったのは、「後三年の役(1083)」の後、鎌倉幕府創建(1192)の30年も前の話です。未だ鎌倉街道も整備されてはおらず、今で言う「奥州古道」がこの「箭幹八幡宮(矢部八幡)」を通っていました。「奥州古道」、しばらく境川沿いに南下して渡河、当麻(現在の相模原市)から相模川を渡って厚木、相模国を大山・丹沢山の南側を西進して足柄峠に至る、陸奥国と東海道を結ぶ最短の街道でした。
※ 横浜国道事務所 「東海道への誘い」より拝借しました。
箭幹八幡宮 奥州古道_2

台風接近の影響か…あいにくの雨でしたが、2013年9月14〜15日は、「箭幹(やがら)八幡宮(矢部八幡)」で、なんと33年ぶりに『奥宮開扉大祭』が開催されています。昨日、訪問したのですが、大勢の人出、御祭神:応神天皇の御霊は見ることができませんでした。

散歩で訪れた「箭幹八幡宮(矢部八幡)」、何の脈絡もなく…、思いつくままに書いてしまいました。

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September 07, 2013

散歩の途中<4>  三多摩、昔は神奈川県

多摩地区とは、東京23区より西側の地域で、「東京都下」あるいは、「三多摩」とも呼ばれるそうです。どこか愛嬌のある「さんたま」の響きです。1871年の廃藩置県で三多摩地域の大半は神奈川県に所属することになりましたが、それから22年後、1893年、その三多摩が東京府に編入されることになりました。
とんぼ池20130905

小山田荘を散歩中に知り合ったお年寄りから昔話を聞いたことがあります。話はこうです。東京の上水道を担ってきたのが玉川上水。明治の初めにコレラが大流行、その水源である「多摩川上流でコレラ菌による汚染」とのうわさが広まり、当時、多摩川の上流は神奈川県に属していたが、東京府が水源を直接管理するために編入した、というものです。水源とは全く無関係な南多摩郡(現在の町田市、八王子市、多摩市、稲城市、日野市)も、北・西多摩とともに、東京府に編入されたのでした。

江戸時代、この地域には鶴見川の源流があり、幕府の天領だったこともあり、裕福な稲作農家が多く、明治初年この地で最初に敷設された鉄道:現在のJR横浜線が計画された当初は町田市側を通る計画でしたが、彼等の反対により変更され、実際の線路は相模原側に敷設されることになった、という。彼が言うように、この地域の農家は裕福で、前回も触れた通り、新撰組(近藤勇・土方歳三など)を育んだ風土、明治になると、方向を変え…?、自由党を設立した板垣退助が「多摩は自由党の砦」と表現するほどに、自由民権運動が盛んとなりました。南多摩郡の東京府への編入は、どうやら神奈川県内の自由党の勢力を削ぐためのものだったようです。

どうも、明治以前、小山田荘にも近い、小野路と呼ばれる地域が町田の中心であったようで、古くは平安時代以前から、そして鎌倉街道の宿場街として栄え、徳川の治世では天領の裕福な農家、幕末には新撰組を育み、明治になると、どうしたことか…自由民権運動の地に変わります。一方では、かつての中心地:小野路を遠く離れた相模原側に国鉄(現在のJR)横浜線が敷設され、稲作に適さず、桑畑に蚕、絹の産地と開港された横浜を結ぶ「絹の道」として結ばれ、その沿線は発展していきます。次に小田急本線が開通すると、町田の中心は両駅のある現在の中心地域に移動してしまいました。皮肉な見方をすれば、明治以降の近代、小野路の勢力の及ぶ地域に鉄道が敷設されるのを嫌い、あるいは避けて来たようにも思えます。白洲次郎 正子夫妻が戦況の悪化を予測して、1942年、当時の東京府南多摩郡鶴川村(現在の東京都町田市能ヶ谷)に農家を購入して疎開生活を始めたことでもその田舎ぶりが想像できるでしょう。後の「武相荘」、その小野路からそう遠くはありません。
武相荘
戦後の高度成長期、北側に隣接する多摩市は、大阪の千里丘陵と同じく、当時、国家プロジェクトとして造られた人工の街、整然と区画整理された近代的な街並みがきれいです。その多摩市開発に際して作られたハイキング道が「横山の道」、古くは唐の侵攻に備えた防人制度か、はたまた東国の力を削ぐ目的か、多くの男達がこの道を越えて西国に向かった奥州古道、「いざ鎌倉」の鎌倉街道が交差し、新田義貞の軍がこれを越えて南下、鎌倉を目指しました。

「横山の道」を南に超えるとまるでタイムスリップ、江戸時代の風景、場合によっては鎌倉時代の風景さえも目に入って来たような錯覚に陥ります。道を境にした北側と南側、対比は面白く、映画:『ビレッジ The Village (2004 )』を思わせます。南側は私の住む小山田(小山田荘及び小野路の在る地域)、今やいくつかの里山を残す昔ながらの山村、言い換えれば、どこかピントがずれた…失礼、開発からは取り残された地域…、だからこそ、今となっては良かったということになるのでしょう。

南多摩、小山田のほんの一部が私の散歩道です。
花の家裏20130831
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August 25, 2013

ゴーヤの佃煮がおすすめです!

暑かったというか、熱かった8月ももうすぐ終わりです。先月の梅雨明けから都内の熱中症による死者は少なくとも120人を越え、こまめに水分や塩分を補給するとともに、「適切にエアコンなどを使うように」とはニュースで繰り返される言葉です。亡くなった方の多くはお年寄りとは想像に難くないのですが、ニュースを見ている自分はニュースの局外に置いてしまい、よく考えてみるとほとんど同じ世代です。

そういえば、福島原発事故が起きて2年半、3回目の夏ですが、タンクの放射性物質汚染水漏洩は「レベル3」の危険度、東電の怠慢が原因とはあきれるばかりでコメントすらありません。…が、もう一つ、政府・マスコミと国家を挙げて取り組んでいたあの「節電」は何処にいったのでしょう。この夏によく耳にするあの言葉:「適切に〜」が気にかかります。

言われるまでもなく、我が家では適切に電気を使用、ムダな電気は使いません。「エコ = ecological」は信条として志しているのではなく、「エコ = economical」にならざるを得ません。エアコンは来客時以外につけることはほとんどなく、たまに外出から帰ってきた時につけるぐらいでしょうか。ましてや私の部屋、北側に面しているためか、我慢できないほどの暑さではありません。一夏に1〜2回、寝苦しい夜はあるのですが、エアコンをつけるほどではないのです、…とは負けおしみ?。
ゴーヤの収穫
ご多分に漏れず、我が家でもゴーヤの栽培にカミさんは励んで来ました。ベランダに農業用のネットを貼って準備、次第に成長してくると、自分の這わせたい方向にツルを誘導、毎日の世話の甲斐があってか、ゴーヤの葉のシェードはベランダを覆い、その陰には次々と見事なというか、一見憎々しげな実を付けています。

ゴーヤと豚肉の組み合わせは疲労回復に良いと言われています。暑い季節にピッタリ!…とばかりに、夕食のメニューには「ゴーヤのチャンプル」が出てくる頻度が高くなります。実は、私はこのゴーヤの苦味が苦手、私には少なめに出してくれるのですが…、今年も夏の8月、収穫の時期が来てしまいました。…が、今年の夏は違います。近所の奥さんに教えてもらったらしく、チャンプルではなく、「ゴーヤの佃煮」です。あの独特の苦味も消え、ゴーヤとは思えない、ご飯をもう一杯おかわりをしたくなる、なかなかのヒットです。

ゴーヤの佃煮
◎材料:ゴーヤ1kg(5〜6本)、人参1本
◎調味料:(水戻しした)干し椎茸、塩昆布、白胡麻少々、花かつお、醤油(濃い口)100cc、醤油(薄口)100cc、酢100cc、みりん100cc、砂糖250〜300g

ゴーヤのワタと種をスプーンで取り出し、薄切りにして、1分湯がきます。 ざるに取り、水にさらします。 ゴーヤをよく絞って、火にかけてある調味料を合わせた中に入れ、人参が柔らかくなるまで煮込みます。げ个鮖澆瓠 塩昆布・胡麻・鰹節をいれて混ぜ合わせると出来上がりです。さも、自分で作ったかのように書きましたが…、カミさんから教えてもらいました。上は教えてもらった量ですが、お好みで加減して下さい。容器に入れて冷凍保存できるのがミソ。
ゴーヤの佃煮

ゴーヤの苦味が苦手なあなた、是非お試し下さい。

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August 22, 2013

坂東鎌倉武士 「名こそ惜しけれ」

25年も前の話で恐縮ですが、同期の友人が千葉県柏に住んでいたので、ただそれだけの理由で…、千葉県流山市に住んだことがあります。住んでみて奇妙に感じたのは…、黄色い(?)ヘルメット姿の小中学生の通学場面、ご主人が2時間〜2時間半もかけて東京都内に通勤しているのがただ一つ理由か…?、「地方から来られたのですか?」とはご近所の奥さん達の言、自分が東京に住んでいるものと勘違いされているようです。阪神間に長く住んでいた私、2時間も車で走れば日本海まで行ってしまうのですが…。

流山に住んだのは1年間だけで…、東京都内ではなく都下、町田市に引っ越して来ました。九州生まれ・関西育ちの私、流山に居る時は、当然の事ながら、常磐道・東北道と、すべての道は見知らぬ土地、東北地方に通じています。町田に住むと、東名・中央、その先には名神、自分の育った関西へと通じています。上野駅13番線ホームの発車ベルのメロディーが『あゝ上野駅』になったのはつい最近のニュースですが、東北出身の人は東京以北・以東に住み、関西出身の人は東京以西に住み、故郷へとつながる鉄道あるいは道路の沿線に人は定住する傾向があるように思えます。江戸っ子が通を自慢していう言葉:「野暮と化け物は箱根から先(西)」、関西の友人の感覚:「なんで、東京を通り越して、近藤勇の捕まった流山まで行くんや?」、どちらも意味は同じようなもの、意識するかどうかは別に、誰にも自らの文化圏があります。
本_平家物語 横笛 維盛出家・入水130723S
この歳になって『平家物語』の背景をおさらいしてみると面白いことに気付きます。『平家物語』は京都六波羅の伊勢平氏の興隆・滅亡を描いています。…が、「源平の戦い」とは言いながら、それは六波羅伊勢平氏vs敵対勢力、後白河法皇及び摂関家の旧来勢力、及び伊勢平氏と競合する新興武家勢力との三つ巴の戦いでした。

余談ですが、私の住む小山田の別当:小山田有重、秩父氏の一族でれっきとした坂東平氏の一門、当初は平家の一翼を担って各地を転戦しますが、主筋の秩父氏は頼朝:源氏につき、平家一門都落ちに際して帰郷、許されて頼朝:源氏に帰順します。
散歩の途中にある小山田神社、戦前までは「内の御前社」と呼ばれ、有重の婦人を祀ったそうです。
蓮田・小山田神社20130717_3
1192年、勝利した源頼朝は坂東相模国鎌倉に幕府を開き、自らは征夷大将軍に就きます。ところが、鎌倉幕府の確立した源頼朝は突然死、跡を継いだ嫡男:頼家も変死、その弟の実朝も変死、3人ともに北条氏が殺害、幕府内の実権を握ります。頼朝の血筋はこれで絶え、あれほど熾烈を極めた「源平の戦い」は「源平共倒れ・共食い」の結果となります。執権北条氏の出自は不明ですが、桓武平氏の流れであると称したのは皮肉なものです。
Minamoto_no_Yoritomo
京の貴種:頼朝は、ただただ、坂東農場主の土地所有を保証するシンボルとして棟梁に担ぎ上げられ、対京都(旧勢力)交渉の機能を果たしただけで、鎌倉幕府の確立後は用済みとばかりに粛清され、結果、坂東武士は日本国内に、もう一つの独立国を建てることに成功したのです。

平安後期、鋤・鍬・鎌など鉄製農機具が個人でも使えるぐらいに安価になり、足柄峠(後の箱根)の坂の東向こう:坂東の地では、新田・牧場の開墾・開発が隆盛、アメリカ開拓期の西部で大牧場を切り開いた牧場主のようなものでした。武士というよりは牧場主のような彼等は「俺が開墾、耕した土地、だから俺にその所有権がある」、すなわち「一所懸命」という単純明快な論理と「名こそ惜しけれ」という、恥ずかしいことはしない、卑怯な振舞いを蔑む精神は表裏一体して鎌倉武士の真髄であり、その後の日本人の考え方・生き方に大きな影響を与え、日本人の原理・原則、「理念」にもなって行きます。もちろん、お隣の中国・韓国には存在しません。日本史にこの時代の関東とその精神がなければ、(日本史は極めて)寂しいものになる、とは司馬遼太郎の言葉です。

それから5百年後の江戸・元禄時代、今だに国民的英雄の「赤穂浪士討ち入り」事件。何故、この討ち入り事件が「名こそ惜しけれ」の坂東ではなく、その対局の上方圏(?)、播磨国赤穂の浪士によってなされたのでしょうかね。

近藤勇さらに下って160年後の幕末の新撰組、戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)以前の5年間での内部の死者:45名の内、倒幕志士との戦闘による死者はわずか6名、ほとんどが、近藤勇の「士道不覚悟」の一言で粛清されたもので、敵よりも同志を殺した数のほうがよほど多かった狂気の集団でした。司馬に言わせれば、ロシア革命における労働者出身の革命家のごとく、当時の武士ならばとうてい思いもつかない陰険な手段を用い、美意識は武士だがやることは武士ではない、先祖伝来、地頭に支配されてきた階級の出身者に特有なもの、とは手厳しいですが全くの同感です。

彼等の行動には武士階級、選ばれた階級ゆえの負うべき義務や責任は感じられません。

近藤勇は「名こそ惜しけれ」の坂東武蔵国多摩郡の出身。またまた、私の家から遠くない、小野路という場所に出入りしていたそうで、あまり好きな人間ではありませんが、縁がありそうです。

 参考資料:「東と西の語る日本の歴史 」 「この国のはじまりについて―司馬遼太郎対話選集〈1〉 」

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April 30, 2013

散歩の途中<2>

例年になく寒かった冬も終わり、やっとのことでやって来た春。昨年12月以来ご無沙汰していた自転車に乗ろうと、タイヤに空気を…と、バルブをつないでハンドルを押すとスカスカ。自転車と同じく購入して十年以上も過ぎたポンプ、パッキング(?)がダメになるのもしかたのないことです。ネットで調べると、このSILCAという名のポンプ、モデルチェンジで本体シリンダー部分はアルミに変更され、パッキングの径も大きくなっているようです。径が小さくなるのは問題でしょうが…、大は小を兼ねる…、エイヤっとばかりに、パッキングを購入しました。革製のパッキング自体は数百円のもの、これが届くまで、買って以来初めて分空気入れポンプ解、フォーミング・クリーナーで綺麗に洗浄、パッキングの到着を待ちます。いざパッキングが到着、早速、パッキングにグリースをたっぷり付けてシリンダーに入れようとしますが、なかなか上手くいきません。大は小を兼ねる…、がしかし、大きすぎたのか…と不安がもたげてきたのですが、すったもんだの末、なんとか無理やりはめ込んで完成したのがこれです。

まだ肌寒い朝、いつもの散歩の途中にある数百メートルにも及ぶ北側に降りる急峻な坂道、一団の自転車がそこを登って来るではないですか。以前、私も2回挑戦しました…が、残念なことに、何れも頂上を目前にリタイアしています。走るに快適なこの季節の今、もう一度挑戦を…、との思いが脳裏をかすめますが、去年より確実に年をとっているのが現実です。
散歩の途中 廃屋1
私の住む小山田桜台、名前の通り、尾根道の一角を占める台地にあり、入り込む主要道路は一本のみがなだらかに南下、桜美林大学、境川を超えて相模原市につながっています。残りの道は何れも「行きは良い良い、帰りは〜」の急峻な坂、自転車でその坂を降りようなら、帰りは大きく迂回して、唯一のなだらかな道を帰って来なければなりません。私にとって自転車で北側に降りるのは最大の鬼門、北側はあくまで徒歩で行くもの、例えばウォーキング、犬と一緒の散歩には最適です。
散歩の途中 廃小屋1
北側は昔から小規模ながらも豊かな稲作農家が散在、今からの季節、「谷戸(やと)」と呼ばれる谷間に棚田の水田風景が見られます。そんな里山の風景の中 、かつては人の住んでいた家、打ち捨てられた小屋、昭和で時間が止まったようなレトロなバス停(以前紹介しました)に何故か興味をそそられるます。
20121207大泉寺バス停

崩れかかった小屋の絵は増えそうですが…、おそらく今年も…、自転車で頂上を制する(?)ことはないでしょう。

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February 19, 2013

外は真冬

パソコンのWindows 7への移行も一段落、先日購入した中古のスキャナーの設定も、未解決な点はあるものの、ほぼ完了、本当はやらなければならないことがあるのですが、いつもながら、好きではないことには手を付けずに先送り、しばし忘れて…、前回の『西の大海と東の四畳半』の続きを書こうか…。そんなエネルギーもなく…、窓の外は今朝、雨から雪に、次第にその雪のつぶが大きくなっています。この冬4回目の雪か…、めったに凍らない近所の池に氷が張るのは珍しいことではありません。「年寄りが、この寒空に転んで怪我でもしたら…」と自分に言い聞かせて、長年続けてきた自転車も昨年12月早々に終了、今日のように、朝から一歩も外に出ず一日を終える日が多い冬です。

散歩の途中のスケッチ、さすがに真冬には出来ません。この冬空にスケッチは可哀想です。10分ぐらいならともかく、私のように小一時間もかかってしまうのでは、スケッチはトイレの近くに限定されてしまします。外出はやめて、今日は部屋にこもってスケッチです。

窓の外を描きましたが、季節は早、春、というか初夏の趣です。目障りな通りの向こうに見える建物、うっとうしい空中の電線を取り去ってしまいました。

窓の外

夏はすわり心地よい椅子なのですが、冬はちょっと…。

chair_2

ぬくぬくと過ごす愛犬:もも、南側の窓際が彼女の昼寝の定位置です。

画像4

その主人も似たような毎日、今日はスキャナーのテストだけで終わりました。


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October 11, 2012

散歩の途中<1>

ステージに上がった30分の持ち時間に備えて、少なくとも<イントロ >→< 間奏 >→< エンディング>の部分がピシッと決まった持ち歌を10曲確保することを目標に練習しています。…と、準備だけは進めているのですが、残念ながら今のところ、そのステージの話はありません。その進捗状況は、左コラムのミュージック・プレーヤーでお聴きください。新曲がないので、当面は音楽に関する記事も期待できないかも知れません。

10月5日、ビートルズが最初の大ヒット:『ラブ・ミ・ドゥ Love Me Do』の50周年記念行事がニュースで流れていました。これに便乗して音楽関係のブログを書こうか…とも思ったのですが、当時からこの曲があまり好きではなく、曲は知っているが何の思い出もなく、書かず終いになってしまいました。

音楽関係の記事は横へ置いて、その他の話題に…、また歴史の話か、と言われそうですが、今回は、この夏から始めたスケッチ、最近、「散歩の途中」で描いた絵をご覧にいれましょう。

2012.09.18 東京都町田市と神奈川県相模原市の境を流れる境川、この橋を渡ると相模原市です。この境川を下ると、大和・藤沢と通って江ノ島に至ります。この辺りは古くから集落があったようで、この大きな木立も古い集落でしょう。→『俺は相模の『原』だ!』『縁切り榎とわかれ橋』『バイクは好きですが、タイツ姿がどうも…』
散歩の途中_120918

2012.09.26 小山田の谷戸田、稲の刈りが終わりました。東京都がその景観を保存している里山。見方を替えれば…、近代の発展から取り残されたような、懐かしい風景です。近くには、小山田有重の居城跡:大泉寺、鶴見川の源流、東京都が管理する小山田緑地、幕末、近藤勇も訪れた小野路がつながっています。→ 『小山田の谷戸田(やとだ)』『忠生( ただお)、極めてローカルな話ですが…』『あ〜あ〜、川の流れのように…』
小山田稲刈り_120926


2012.10.02 小山田有重の妻を祀った(?)、小山田神社の石塔。回りは蓮田、8月には一面に開花が見られます。
小山田神社_20121002

2012.10.08 小山田桜台、尾根道近くの公園。
散歩の途中_121008

私が始めてビートルズのレコードを買ったのは、次のヒット:『プリーズ・プリーズ・ミー Please Please Me』、東芝= Odeon、340円(?)でした。あれから50年、ビートルズを生んだイギリスはますます普通の国になりました。翻って日本、坂の上の雲に届いたのはほんの一瞬、その後は下り続けて30年、日本は世界に何を遺産として残したのでしょうか。「かわいい」漫画文化だけ…? 少し憂鬱になっていたところに、飛び込んできたのが山中教授のノーベル医学生理学賞受賞のニュース。ちょっと、元気になりました。

eyecatch_amazon_2文房具:スケッチブック 本:スケッチの描き方 

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August 23, 2012

小山田の谷戸田(やとだ)

関西で育った私が、この地に引っ越してきた当初は、その地名:「小山田、小さな山の田んぼ…」、何と想像力の乏しい、単に、田んぼの風景を描写しただけ、またそう呼ばれる地域の広いこと…、その名前の付け方に「おおざっぱさ、いいかげんさ…」を感じたものでした。しかし、歳とともに、今まで全く見過ごしてきたものに、ハッと、気付くことが多くなってきました。

隣の横浜市に住む彼は山口県出身です。同じ西日本に住んでいた、ということで、「この辺には『〜谷戸(やと)』という地名が多いが、関西では聞いたことがない。」と、暗に同意を求める私の発言に、「そんなことはない、ありますよ。」とあっさりと否定されました。ご夫婦で山登りを趣味としている彼は「谷戸」の意味は把握しているはず、その彼が言うことなので間違いないものと…、話もそれで終わりました。

小山田の風景
…が、やっぱり真相はこうでした。東京都多摩地域及び神奈川県東部では、丘陵地が雨や川によって浸食されてできあがった谷が谷戸(やと)と呼ばれます。雨は丘陵や尾根を伝って谷戸に流れ込み、湿地を作ります。人々は谷戸の湿地を利用して水田を作ってきました。同時に、谷戸は多種多様な生き物を育み、豊かな農作物と美しい里山の景観を創り出しています。ちょっと昔なら、単なる田舎、で終わりましたが…。
※奇特な方が居られ、地名・バス停名として今に残る「谷戸コレクション」を紹介されています。

小山田神社低迷が続くNHK大河ドラマ:『平清盛』の時代、関東八平氏の一派、埼玉県嵐山町畠山荘、秩父桓武平氏:平有重がこの地にやって来て小山田別当有重と名乗った。頼朝挙兵時(1159)には京に在り、平家の忠実な御家人として各地に転戦、木曽義仲追討にも加わりました。平家西国落ちの際に許されて東下し、遅れて鎌倉御家人となった。平氏に続いて、源氏政権に於いても重要な地位についた小山田有重は農民を動員して土地を開発、現在の町田及び川崎・横浜の一部を支配する大土地所有者・開発領主となります。当初は単に土地の名前でしたが、その名前を冠した彼の勢力圏とともに拡大したのでしょう。

小山田一族は「谷戸田」を開発して「小山田」という水田を拡げ、その稲作の優れた生産力が一族の勢力拡大に大きく寄与しました。「谷戸田」の多い多摩丘陵地帯は「田方(たかた)」と呼ばれ、水田があり、コメが穫れるところ、の意味です。一方、南の相模台地地帯は「岡方(おかがた)」と呼ばれ、水田のない、コメの穫れないところです。相模台地は火山灰土、乾燥が激しく酸性が強いため大豆・粟さえも育たなかったそうで、安定的な農業が可能になったのは土壌・品種改良等の農業技術が発達する近世を待たなければなりません。
小山田の案山子_2
中世までは、町田の中心は小山田・小野路であり、原町田・中町などの繁栄は幕末以降、とりわけ横浜線・小田急線が開通してからの、たかが百年ちょっとのことではないでしょうか。

秋になると、小山田の谷戸田では豊かな稲穂に案山子が映える収穫の時期がやって来ます。

※参考資料:「道」白州正子 新潮社  「町田の歴史をたどる」 町田市
  DVD:「平清盛」


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January 11, 2012

忠生( ただお)、極めてローカルな話ですが…

幕末の『尊皇攘夷』は「水戸学」と呼ばれ、明治に入ると、近代国家の体裁を装って、『忠君愛国』に変わり、「皇国史観」と呼ばれるようになります。その思想は水戸光圀に依る『大日本史(1657開始〜1906完成)』に始まりますが、南朝を正統王朝とし、新田義貞や楠正成は美化されて忠臣となり、足利尊氏は逆賊とされます。

「皇国史観」に支配されていた戦前、この事が大きな論議を呼ぶことになります。正統南朝が北朝に吸収され、以降、北朝が正統王朝として連綿と受け継がれます。当然の事ながら、当時の昭和天皇は北朝の系統。昭和天皇に忠義を尽くすということは、南朝から皇位を簒奪した北朝を正統化することになり、足利尊氏を美化、義貞・正成を逆臣とすることになってしまいます。この大きな矛盾を幕末の志士はともかく、戦前の識者はどのように解決したのでしょうかね…。
大泉寺
既に書いた通り、小山田と称する地域は、平安時代には朝廷の馬を飼育する牧場で、小山田氏は代々その別当(=長官)でしたが、小山田有重の時、鎌倉幕府(1192)の有力御家人の一人になります。1199年、頼朝死亡、執権:北条氏の策略に依り小山田一族は離散、唯一6男だけは幼少を理由に甲州(山梨県大月)に逃れたようです。

小山田庄元弘 3年(1333) 、後醍醐天皇に呼応して新田義貞は上野国で鎌倉幕府打倒の挙兵。鎌倉街道を南下、「小手指ヶ原の合戦」、「久米川の合戦」、「分倍河原の合戦」で幕府軍を撃破、絶対防衛線である多摩川(関戸)を突破して小山田ノ庄に殺到します。新田義貞軍の侍大将:小山田高家は北条泰家を破って小山田ノ庄奪還を果たします。新田義貞は、かつては倒幕の共同戦線を張っていた、足利尊氏と戦うことになり、次第に劣勢に立たされるようになります。そして、「湊川の戦い(1336 神戸)」、新田義貞・楠木正成は足利尊氏に大敗、退却の際、小山田高家は自分の馬を主君:義貞に譲り、自らは討ち死にしてしまいます。

唐突ですが…現在。私の住んでいる近くに、『忠生(ただお)』という地名があります。明治22年(1889)、多摩の6つの村が合併して新村が作られることになり、「小山田高家という臣がまれた(?)地であるし、これからも義の者がまれ出ることを祈って」、『忠生(ただお)』と名づけられたようですが、あまり深い意味があったとは思えません。何となく、当時の村の長(おさ)、住民のレベルが判ります。

境川を挟んでこの地の反対側に、後醍醐天皇の皇子:護良(もりよし)親王を足利直義の命で殺害(1335)した淵辺義博の領地がありました。縁切り橋2

どうも…あんちょこな『忠生』命名より、「逆賊」の汚名を晴らすべく腐心したであろう、義博の『縁切り榎とわかれ橋』の物語に好感を覚えてしまいます。

より大きな地図で 忠生〜淵野辺義博居館跡〜縁切り榎〜縁切り橋 を表示

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September 25, 2011

俺は相模の『原』だ!

よく利用する洗車場、そこのご主人は代々農家を営んで来た、この辺で言う「在の人」。このご主人との話がなかなか面白いのです。相模原市、その市名に話が及びました。織田信長に滅ぼされた甲斐武田家の遺臣がこの地に移住、「俺は相模の!」と名乗ったことに始まると言います。

武田信玄の子:勝頼が織田信長によって滅亡(「天目山の戦い(1582)」)。甲斐の国を統治する家康は、密かに武田家の遺臣を保護、後に原 胤従(たねより)ら10名の武将を家臣:「甲州衆」として召抱えます。「三方ヶ原の戦い(1572)」で惨敗を喫し、自らの滅亡さえも覚悟した家康は、後々まで「生涯の中で最も不覚な戦い」と語るほどに、武田家臣団の強さを知っていたからでした。

織田信長に代わって豊臣秀吉が天下統一を果たすと家康は秀吉の命により関東地方へ領地替えとなり、胤従(たねより)ら甲州衆もそれに伴って武蔵国の八王子に移り、「八王子衆」と呼ばれるようになったのでした。「関ヶ原の戦い1600)」に勝利、覇権を確立した家康は江戸に幕府を開き(1603)、甲州口警備強化と治安維持を目的に、正式な幕府組織:「八王子千人同心」を作ります。八王子だけではなく、その痕跡は下の橋本や淵野辺にも見られます。

八王子千人同心武州多摩は、西国の敵が江戸へ侵入の道筋にありその防御地として機能、「八王子千人同心」は、平時は農民として暮らし、徳川家危急の折には馳せ参ず、という。「日本の屯田の始まり」とも言われ、相模台地にあり水に不自由する当地では江戸時代後期になると、橋本小山村の名主・豪農:原 清兵衛(せいべい)が私財を投じて新田を開発します(1843)。彼が開発した新田は『清兵衛新田』と呼ばれ、現在も『清新』の地名を探すことが出来ます。新撰組隊旗-3

ほとんどが天領と呼ばれる幕府直轄領、税も少なく豊かで、豪農が多く、治安維持の為か、彼等の間では武道が盛んでした。流行していたのが天然理心流で江戸時代を通じて多摩一帯に広がります。幕末には数十の道場が開かれ、豪農出身の近藤勇や土方歳三、沖田総司等がこれを学び、その新撰組のパトロン:小島鹿之助も豪農でした。「鳥羽伏見の戦い(1868)」に敗れ、既に逃亡した徳川慶喜を追って江戸に帰った新撰組は、「八王子千人同心」の本懐を遂げるべく、甲陽鎮撫隊を編成し甲府に向けて江戸を発ちます…が、あろうことか、戦いが始まる前に凱旋気分、多摩各地で催された酒宴で酔いつぶれてしまい戦機を逸してしまいます。不様(ぶざま)でした。

20年以上前、町田にやって来て驚いたことが一つ、町田を含めた多摩地区で自由民権運動が盛んであったという。訪問したこともなく、詳しいことは判りませんが、「自由民権資料館」というものまであるそうです。今まで幕府の天領に在った豪農は自民党のようなもの、言わば当時の与党、これが明治新政府の時代になって一転、野党に転落しただけの話、新撰組のパトロン:小島鹿之助が今度は民権運動の擁護者に変わります。その後、町田を含めた多摩地区の自由民権運動は如何に日本の民主主義発展に寄与したのでしょうか…、残念ながら私は知りません。新撰組があまり好きではない私は、「坊主憎けりゃ〜」の勢いで、自分の住んでいる町田までけなしてしまいました。

元へ…。「相模台地の原っぱ」では面白くありません。やはり、こうあって欲しいものです。 「俺は相模の!」

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August 17, 2011

縁切り榎とわかれ橋

 町田市に住んで二十数年になりますが、便利かどうかは別に、最寄り駅は隣の相模原市にある淵野辺駅で、この駅名(地名)に関し、初めて知ったことがあります。鹿沼公園、古淵駅に続いて淵野辺駅…、昔は沼地で、地名もこれに由来したのでしょう。同地は、全く意外にも、…とはあくまで無知な私にとってですが…、後醍醐天皇の皇子:護良(もりよし)親王を殺害した淵辺義博(ふちべ よしひろ)の領地でした。

淵辺義博 石碑jpg












 金剛山地、吉野・熊野、高野山と古来より山岳信仰・密教の修行地で倒幕活動を目指してきた彼は、宗教的・超自然的魅力をも兼ね備えた武将だったのでしょう。父、後醍醐天皇に疎まれ、足利尊氏の弟:直義の預かりとなり、鎌倉に幽閉されていました。1335年、最後の鎌倉幕府執権:北条高時の遺児:時行が蜂起(「中先代の乱」)して鎌倉に攻め寄せました。鎌倉を守る足利尊氏の弟:直義はこれを支えきれず撤退する事になりますが、その混乱の中、家臣の淵辺義博に護良の殺害を命じ、親王は、28歳の若さで死にます。これを機に、後醍醐天皇は足利尊氏と決裂、本格的な南北朝の時代を迎えます。

 水戸光圀(1628 〜 1701)に依る『大日本史』は朱子学に基づく水戸学=尊皇論が根幹であり、南朝正統論を唱え、幕末の思想に大きな影響を与えました。倒幕、明治新政府樹立から戦前に至る「忠君愛国」:尊皇思想からすれば北朝・足利室町幕府は「逆賊中の逆賊」、もちろん護良親王を殺害した淵辺義博も同罪と言うことになるでしょう。縁切り橋2

 近くに、町田市と相模原市との境に、文字通り、「境川」が流れています。これに沿って40〜45km下って江ノ島に至るサイクリングコースは以前紹介したことがあります。実は…、実は…、淵辺義博は主人の命令に背き、内密に、護良親王を自分の領地に移し、難を恐れて家族との縁を切り、境川に掛かる中里橋(わかれ橋)、榎木の下で家族と別れ(『縁切り榎とわかれ橋』とは調子のいい語呂です)、護良親王に従って宮城県石巻まで逃れた。これとセットに、一方の石巻には護良親王が落ち延び、父帝である後醍醐の供養のためにこの碑を建てた、とする伝承があるそうです。『太平記』、『大日本史』を学んだ、であろう蒲生君平高山彦九郎等の幕末の志士達もその御利益にあやかろうとお参りに行ったようですが、『縁切り榎〜』の話も石巻の話も全くの作り話でした。

 鎌倉撤退の混乱の中、足利直義の命で淵辺義博は護良親王を殺害、駿河国で追いつき、手越河原で直義の身代わりとなって討死します。そんな訳で、護良親王を自分の領地に移し、それから家族との縁を切って、宮城県石巻まで一緒に落ち延びる時間などあるはずもありません。彼が護良親王を一時的に匿ったとされる龍像寺は1556年に再建されたしたもので、『縁切り榎〜』の話も石巻の話も江戸時代に語られたという。いずれも南朝正統論による尊皇論の『大日本史』が世の中で支配的になった享保年間以降、比較的新しい時代に作られた話ではないでしょうか。明治に入り、護良親王を称えて鎌倉宮が造営され、この境内の山腹には護良親王幽閉の土牢が再現されていますが、もちろん鎌倉時代の遺構ではなく、明治新政府による作り話でした。

 淵野辺村の人々はこの如何にも作り話、取って付けたような『縁切り榎〜』にすがって生きて来たのでしょうが、1945年8月15日の敗戦、「忠君愛国」、尊皇思想の役回りの終了とともに、決定的には、吉川英治の『私本太平記(1958)』、これのNHK大河ドラマ『太平記(1991)』で、やっと、過去の呪縛から解放されたのではないでしょうか。 

より大きな地図で 忠生〜淵野辺義博居館跡〜縁切り榎〜縁切り橋 を表示

 京都三大祭りの一つ:「時代祭」平安神宮創建(1895)を記念して、東京奠都以前の京都の風俗を遡ります。最初は明治維新、ついで江戸、安土桃山…と時代を遡って行きますが、2007年開催までは征夷大将軍:足利尊氏の室町時代が外されていたそうです。

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July 17, 2011

魔物、それはあちこちに

1971年、高度経済成長期に東京に大量に流入する「団塊の世代」と呼ばれる世代の住宅を確保するために、多摩丘陵の森を切り開いて造成されたのが、東西14km・南北1〜3kmに及ぶ全く人口の都市:「多摩ニュータウン」でした。理想を目指した計画と施設(インフラ)が実施された「ニュータウン」は多摩市の人口の60%を占め、豊かな税収を背景に発展しました。

私の住む町田市も、東京一局集中を背景に成長した街、東京都心から30〜35km、都内では家の買えない地方出身の「団塊の世代」が移住して来た街、という意味では多摩市と同じです。20年前に町田市にやって来た私ですが、当時、市内をバキュームカーが走るのを見て、市の大動脈であるはずの町田街道の狭さに、JR横浜線と私鉄各線の連絡の悪さに、驚いてしまいました。違いは、町田市が自然発生的に(ほとんど無秩序と同義)成長した街であるのに対して、多摩ニュータウンは100%人工的に造られた、地方から出てきた「団塊の世代」だけを住民とした、考えてみれば、奇妙な街です。

「奇妙」と言えば、先日、不思議な感覚に陥りました。多摩市は私の住む町田市の北に隣接、車のナンバーが同じ「多摩」にも関わらず、西隣の相模原市、北隣の八王子市に比べるとどこか疎遠な感じがします。私の住む「小山田地域」の位置に関係するのかも知れません。多摩市と町田市との境に、多摩ニュータウン造成当時に、自然破壊のちょっとした言い訳に、これも人工的に造られた「横山の道」と称する東西10kmに及ぶ遊歩道が整備されており、その中間地点に「一本杉公園」があります。
一本杉公園 鎌倉街道2
この「横山の道」を境に、多摩市側はニュータウンとして整然と区画整理された人口都市、反対の町田市側は、ゴルフ場はあるものの、大半は東京都の運営する緑地を中心にした「小山田地域」です。平安から中世、鎌倉時代にかけては、地名の由来である小山田氏が馬を飼育する広大な牧場、城館を備えた領地でした。話を裏返せば、開発の進んだ多摩市と遅れた町田市…。

整然と区画整理された多摩ニュータウンを中世・鎌倉時代以来の森が覆い隠しているようも見えます。
一本杉公園_小野路















the-village 1the-village 2





映画:『ビレッジ The Village (2004』(M・ナイト・シャラマン監督)森の奥深くのアーミッシュ(?)の小さな村、全員が家族のように団結し、幸せに暮らしていました。「語ってはならぬ物」、魔物の住む森には決して立ち入らないという掟を頑なに守っていました。しかし、恋人の怪我から命を救うために、その掟を破り、医薬品を求めて、森を抜け町へ向かいます。苦難の末、主人公はやっとのことでフェンスを乗り越え外界に…。かつて、主人公の祖父の時代、卑劣な事件に遭遇し、大切な人を亡くした幾組かの家族とともに、犯罪のない楽園を求めて、巨額の遺産を基に自然保護区の奥深くに造った村だった、というのがオチでした。

当時若かった「団塊の世代」は、同時に高齢となることが問題なのです。多摩市の高齢化率は、1995年には全国の高齢化率(14.5%)を下回っていましたが、2015年には全国の高齢化率(25.2%)を上回るそうです。かつては豊かな財政を背景に高度なインフラが整備され、市職員の待遇も近隣の市町村を上回っていましたが、いつしかこれが足枷に、高齢化に伴う国民健康保険、老人医療費などの増加、反対に、所得の低下する高齢者層が拡大して、個人市民税は大きく減少、赤字財政に陥ると見られています。
サンリオピューロランド看板
あれほど華やかに見えた多摩センターも、どこか、さびれて見えます。三越百貨店が居なくなり、続いてIDC大塚家具も撤退してしまいました。「サンリオピューロランド」は…?。

理想を求めて「ビレッジ」、「ニュータウン」を造りましたが、魔物は森だけでなく、町や村、あちこちに現れるようになりました。
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May 22, 2011

元弘3年(1333)5月22日 鎌倉幕府滅亡

小山田緑地町田市小山田と称する地域は、平安時代には朝廷の馬を飼育する牧場で、小山田氏は代々その別当(=長官)でしたが、小山田有重の時、鎌倉幕府の有力御家人の一人になります。山歩きの好きな I さんが、有重の居城(跡)とされる「大泉寺」から、「小山田緑地」を経て、その副城:「小野路城跡」・「小野路」に至る1/2 Day Walkに連れて行ってくれました。

源頼朝を頭領に幕府を鎌倉に開くに至る「源平の合戦」に始まり、「いざ鎌倉」と坂東武者が鎌倉にはせ参じた軍事道路で、鎌倉を起点に武蔵の国府である府中を抜けて上州(群馬県)高崎までが「上の道」と呼ばれ、ここで西へ分岐して碓氷峠を越えて信濃路へ、或いは東の新田荘や足利(栃木県)へ、更に北に向かう奥州路(岩手県)へ通じています。
小野神社2
「小野路」は鎌倉を出て武蔵国府:府中までの間にある宿場町ですが、戦後急激に発展した町田市にありながら「アレーっ」」と思うほど、鎌倉時代の面影を色濃く残しています。ここに、「小野神社」があります。「小野神社由緒」曰く、「小野篁(おののたかむら)の七代の孫:小野孝泰が武蔵の国司として天禄年間(972年頃)府中へと赴任した時、当地が小野郷と称したことから、篁が当地に滞在したしたものと考え、篁の御霊をこの地に祀った。」 続けて曰く、「〜小町井戸があり、当地と小野市との縁の深さを物語っています。」 …と伝説は極めて控えめです。小野篁、小野小町にまつわる神社や遺跡は全国各地にあるようです。

元弘 3年(1333年) 5月8日、後醍醐天皇に呼応して新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の挙兵。総勢わずか150騎。鎌倉街道を南下、行く先々で武士団が次々に参加、数十万の規模に…、
5月11日、「小手指ヶ原の合戦(こてさしがわら 所沢市)」で幕府軍を撃破。
5月12日、「久米川の合戦(東村山市)」で幕府軍を撃破。小野路城跡
5月15日、「分倍河原の合戦(ぶばいがわら 府中市)」で敗れ、久米川まで退却。
5月16日、「分倍河原の合戦」で勝利。

絶対防衛線である多摩川(関戸)を破られ、この「小野路」→今井谷戸→本町田→成瀬と潰走する幕府軍、これを追撃する新田義貞軍、両軍合わせて何万という軍団が駆け抜けたとは、残念ながら、今の「小野路」を見る限り全く想像できません。
新田義貞軍は三手に分かれて鎌倉に攻め込みます。大館宗氏の右翼軍、片瀬・腰越から極楽寺坂へ、堀口貞満の左翼軍は巨福呂坂(こぶくろざか)に向かい、新田義貞の中央軍は化粧坂(けわいざか)を攻めます。極楽坂

5月18日、「極楽寺口」 を突破、鎌倉府内に突入。大館宗氏戦死。
5月21日、新田義貞、「稲村ヶ崎」を突破し鎌倉府内に突入。
巨福呂坂2
実は、I さんが鎌倉にも連れて行ってくれました。現代の私たちは当然の事ながら、何の抵抗も受けず、片瀬・腰越から極楽寺坂から鎌倉府内に侵入出来ましたが、「鎌倉アルプス」と呼ばれる鎌倉最長のハイキングコースを歩いた後に挑戦した「化粧坂(けわいざか)」は、「鎌倉七口」の一つですが、「鎌倉の出入り口」というより「登山口」の感、我々の間違いだっだのでしょうか…。

元弘3年(1333)5月22日、最後の執権、北條高時以下の北條氏一族及び郎党の八百余人は自刃。
現代の暦(グレゴリオ暦)では6月らしいのですが、元弘3年(1333年)の今日、鎌倉幕府は滅亡します。
Momo holding sign board-HKX Radio
※Nobu, Kun & Isa Band の今までの曲は左サイド、I Pod 風のプレーヤーでお聴きになれます。
       
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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