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January 09, 2020

私の絵

190829_ノカンゾウ_2 新年あけましておめでとうございます。 

 喫茶「嵐が丘」を会場にした、過去2回の絵画展は好評で、風景画だけでなく、散歩の道すがらに目にする草花をピクチャー・カード(絵はがき)にすればどう…とのアドバイスがありました。草花の絵をせっせと描いて、これをA6サイズ(はがきサイズ)に印刷し、これをお店のカウンターに置いてもらうと、これが意外にも…、売れたのです。

 以前、バンド仲間のNobuさんから聞いたことが在ります。オープン・ステージと云うのがあり、第一段階、最初は出演料を(出演者「が」)払ってステージに上がらしてもらい、第二段階、上手くなってくると出演料を払わなくてもステージに上がることがOKとなり、第三段階、さらにそのバンドの人気が上がって来ると出演料を(出演者「に」)払ってステージに上がってもらうようになるそうです。多くは第一、第二の段階で落語、仮に第三の段階に至っても演奏だけでは食べて行けず、プロになったとしても…、他に仕事を持たなければなりません。その意味ではアマチュア、気楽に趣味として楽しみ、食事代/ドリンク代の名目で出演料は支払わなければならないが、出演の依頼が来るのは良しとしなければなりません。

 手離れの良いワンコイン、1枚100円 X 約100枚 =1万円以上の売り上げとなったのです。上の考えからすれば、お店の方から展示の要請があり、2か月間の展示料は無料、絵画展の結果も良好となれば、少なくとも第一、第二の段階はクリアしたことになり、ピクチャー・カードが売れたということは、第三の段階に達した訳で、私はれっきとしたプロの画家と云うことになります。もちろん、売上金はお店でのコーヒー代に還流しますが…。
190730_ヤマユリ
 こうして、それまでのMACで飲んでいたコーヒー(100円)が、「嵐が丘」のそれ(350円)に代わりました。想像出来ると思いますが、「嵐が丘」は団地の奥さん等の溜まり場、単なる井戸端会議だけでなく、手芸やら編み物やらの同好の中高年女性が入口ドア辺りを占拠していたら、他のお客さんはなかなか入りずらい雰囲気があります。女性は、若い時はおとなしかった人も、中年以降になると男性ホルモンが増加(?)、物事に積極的になり、新しいことに挑戦するようになるが、逆に、男性は消極的になり、殻に閉じこもるようになる、とはどこかで読みましたが…、このお店のお客はその好例でしょう。何と云っても、彼らは常連客、上得意、大事にしなければなりません。そして、勘違いして(?)入って来た男性は、特に一人の場合は、2人・4人掛けに座ってはいけません。カウンターのスツールに座りましょう。そうすれば、お店のママが相手になってくれるはずです。 話が逸れました。

 私の場合は、その雰囲気と云うか、低くはない敷居を乗り越えて出入りするようになり、お店のお馴染みさんとも親しく話ができるようになりました。ある日、お店を訪れると、ママがお客の一人から私宛に預かっているものがあると渡されたのが「鳥獣戯語(ちょうじゅうぎご)」(網野善彦、大西廣、佐竹昭広共著 )、8千5百円もする豪華本です。私の描く路傍の草花の絵には「愛情が足りないのでは」、「こんな絵描きもいるよ、参考に」と渡されたのがこの本でした。草花を描き始めた当初は、かみさんが庭で育てた草花を描いて、描き終えると名まえを聞いて絵のタイトルとしました。それが、散歩の途中、路傍で目にした草花をその場でスケッチするようになり、後で写真をかみさんに見せて、草花の名前を聞くのですが、彼女の知らないことも多く、タイトル「???」が多くなりました。一方では、目の前の草花を描く場合、風景ほどに遠近感を考えることはなく、私としてはあまり面白い対象物ではないのかも知れません。この辺りが「愛情が足りない」に繋がって来るのでしょう。草花の名前すら知らない私が描くのですから、当然と云えば当然の話です。アドバイスを頂いた彼女には感謝しつつも、残念ながらその後、豪華本のページが一向に進みません。
191025_伊賀上野丸之内
 私の絵画展(『第2回小山田有家絵画展』)で、私の絵を気に入ってくれた人がら、2月末に町田市立国際版画美術館で催される「第45回町田市民美術展」への出展を誘われ、私自身もその気になっています。私の本命はやはり風景画です。その風景画、当初はサイズF0(185 x 141mm)から始めたのですが、続いてF1、F2と徐々に大きくなり、最近はF3(272 x 216mm)と、約2倍の大きさ。使うペン先の太さも、当初は0.1mmだったのが、今や0.03mmと1/3以下、完成するまでの時間は2倍以上になり、自ずと制作点数も減少しました。売り上げに目がくらんで、一時期、植物画に凝ったことも一因にて、出展すべき作品を選ぶ候補点数自体が少ないのです。残された時間は約1か月、何とか候補点数を増やすべく新作に取り組んで行かなければなりません。
191031_おやつAOI

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December 31, 2019

第11回 かってにHKX紅白歌合戦

 最近の ミラーレスデジタルカメラの進歩には著しいものがあり、プロの映画撮影にも使われています。スティルカメラとビデオ(ムービー)カメラとの境界がなくなったということです。しかし国際間の貿易関係ではそうではないようで、日本とEUとの間では両者は厳然と区別されています。EU側のビデオ(ムービー)カメラを保護を目的に、「スティルカメラは30分以上の動画撮影ができない。30分以上はビデオ(ムービー)カメラに分類される」ということのようです。前回の『Rock 'n' Roll Christmas Live at 嵐が丘』(2018/12/22)では、写真ではセミプロの腕前を持つ友人に動画の撮影をお願いしたところ、結果は…、鴨居に設置したスティルカメラはリハーサルでほとんど30分を費やしてしまい、その後はズーッと停止状態で、それに気づいたのは演奏が終了してからの事でした。後の祭り…、とはこのこと。今回はその雪辱を果たすべく、オープン2時間前からから始めたアンプ/マイクの設営、リハーサルからスタンバイ、バンドの前に陣取っています。その動画のファイルサイズが60ギガ・バイト、ポータブルHDDで頂きました。

 大晦日、2019年も残り時間がわずか、この辺で「第11回 かってにHKX紅白歌合戦」を始めましょう。
第11回HKX紅白歌合戦
 
 既にご存知の通り、私は町田市小山田桜台という団地(1千5百世帯)に住んでいます。御多分にもれず、高齢化が進んでおり、当団地も例外でなく、団地商店街にはかろうじて「スーパー三和」があり、商店街の何軒かはシャッターが閉まっています。

 その一角にありながら、時には画廊となり、時には歴史雑談会・サロン、今回はコンサート会場となる、ローカル文化の発信局、コーヒーハウス「嵐が丘」があります。その「嵐が丘」を会場に『Rock 'n' Roll Christmas Live』が催されました。
 
 「Rockin ' All Over The World」はJohn Fogertyの曲ですが、私は本来ならばロックンロールは余り好きではなかったのですが、Nobuさんの歌で好きになってしまいました。因みに、英国のStatus Quoというバンドが歌ってヒットしました。もう一つ因みに、Status Quoとはラテン語で「現状維持」の意味。

 「Be My Baby」、The Ronettes、1963年のヒットです。

 「Let's Twist Again」、Chubby Checker、1961年のヒットです。実を云うと、私は当時この曲を知りませんでした。1990年頃(?)、転勤で東京に来た頃、友人に連れて行ってもらったOldiesばかり聞かせる中年向けのクラブ「Kentos」で初めてこの曲を聞きました。因みに、Chubby CheckerのChubbyとは「太っちょの」と云う意味。

 そろそろお時間ですね。

 どうぞ、良い年をお迎えください。

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December 28, 2019

冬至の頃

冬至の頃
 この1週間を振り返ってみると…、
 19日(木) テニス。団地内のコートでやるようになってもう7〜8年になるのでしょうか。参加費が4百円(2時間)と今の若い人が云う「コスパが高い」故か、当初は4〜6人だったのが、引退した人が増え、今や8〜10人が参加、1面では足りず毎回2面を借りています。決して運動神経の良い方ではないのですが、30前後に始めたテニス、キャリアだけはまだまだ続きそうです。このテニス仲間から、新しい友人が出現しています。人生の先輩が一人、私が自己流ながら本格的に絵を勉強、熱心に描きだしたのも、その人の専門的な評価があったからで、加えて彼の歴史・民俗学の見識は、身近には彼がただ一人でした。テニスの合間に交わす会話の中に、相手の趣味・嗜好を嗅ぎ分け、男性ならば少しは興味があるであろう…と、その彼と一緒に作ったのが(仮称)「歴史雑談会」で、メンバー9人の内、テニス仲間(現役)が5人を占めています。

 20日(金)川越にてバンド練習。川越にスタジオが在るとか、何か特別な理由がある訳ではなく、ただ単に4人から時間的に等距離の場所にスタジオ代わりのカラオケ店があるという理由だけです。私は自分の住む町田から1時間をかけて国分寺のAさん宅に行き、そこで彼の車に乗り換えて、さらに1時間という行程です。本来ならば、隔週毎日曜日を練習日としているのですが、この日(金曜日)は特別。その週末(日曜日)、遠く埼玉県東松山の「STUDIO-1」にて、クリスマス当日(水曜日)には私の地元、団地の喫茶店「嵐が丘」にてライブコンサートの予定が差し迫っており、急遽の練習となったわけです。練習3時間+夕食2時間と、アルコールは入りませんが、隔週で同窓会をやっているようなものです。これに往復4時間のドライブはつらいのですが、かかる経費は一日2千5百円ぐらいと、私の趣味の中では最も高額です。この日は、年末・クリスマス故か、経営が以前のSHIDAXから現行のカラオケ店に変わったからか判りませんが、ウィークデイの金曜日にもかかわらず5割増しの料金でした。

 21日(土) 学習支援教室のアルバイト。本来の仕事は教室の設営、小・中学生向の見送りなのですが、先生役の大学生が足りない場合は、こと中学生向けの英語に限り、代行教員として教えます。中学生と云えば13〜15歳、半世紀前の私と単純に比較はできないが、彼らは外国の言語・文化には興味がないようです。半世紀以前に中学生だった頃の私はいわゆる「洋楽」が好きで、例えばThe Beatlesの曲を英語で歌いたかったから、もちろん意味も解らず…、加えて、英語は中学から横一線に始まったので、小学生時代の不勉強は大したハンディになりませんでした。彼らなりに英語を好きになるきっかけを掴んでもらえれば…と、例えば、単語を丸暗記するだけでなく、先ずは、カタカナ日本語になっている外来語を英語に直してみることを薦めている。単語の語源を「接頭辞+語根+接尾辞」に分解する(「英単語の語源図鑑」)、そして、私自身がこの歳になって初めて知ったのは英語を遡るとラテン語・ギリシャ語をさらに遡ると、黒海・カスピ海北部周辺の狩猟牧畜民族が使用した印欧語に辿り着き、これは文明の発生(チグリス・ユーフラテス文明)、旧約聖書の創世記など文化人類学にも関係してくることになります(「語源でわかった!英単語記憶術」)。生徒に興味を持ってもらおうと思って勉強したことが自分の世界観まで変えることになりました。

79525611_3304954792908168_6538359964606398464_o 22日(日) Live at STUDIO-1。東松山まで2時間半、約束の午後3時半、やっとお店に到着します。住宅を遠巻きにした空地の中の一軒家風のSTUDIO-1、周りは既に夕方の様相です。前回のライブでは、台風19号の来襲で往路では土砂崩れで道路が閉鎖されていたり、河川の決壊で水浸した車が前日より放置されていたり、コンサート出演予定の6バンドの内2つが参加出来ない事態になりました。未だ台風被害の収まらない中、遠い町田からよくやって来てくれたという感謝の意味か(?)、今回は4バンドのうちの一つに数えられています。メンバー4人の内私だけが素人で、かつてはステージに上がるだけで舞い79254790_3304955446241436_5966384223311888384_o上がってしまい、ギター演奏あるいはボーカルと、どちらかが(どちらも)おろそかになりましたが、ギターの技量はともかく、余裕を持って歌うことができるようになりました。最初にステージに上がらせてもらい、各アンプ/マイクの調整に時間がかかってしまいましたが、結果的にはそこそこの出来栄えだったように思います。このステージはクリスマスの「嵐が丘」ライブのリハーサルでもありました。

 23日(月) 「雑談会」の忘年会。朝起きてみると、外は薄っすら雪化粧。初雪でした。既に予約していたピザを受け取りにカミさんの電動アシスト自転車を駆ってPizza Hatに、サイズL3枚を後ろに乗せて「嵐が丘」に向かいます。定休日の「嵐が丘」ではメンバーがテーブル・椅子の設置、隣のスーパー三和でワイン/ソフトドリンクの買い出しを終わり、後はピザを食べながらいつもの雑談会を進行します。バァさん2人+ジィさん4人=6人、1時半から6時、来年の大河ドラマの影響でしょうか、今日の話題は「光秀・本能寺の変」から「EUとはローマ帝国の再現」、「英国のEU離脱」 に至るまで、面白い延々4時間半でした。二日後に控えた「嵐が丘」クリスマスライブには今回参加の全員が来てもらえるということで、この6人で「Silent Night きよしこの夜」を合唱すべく、残り1日で本メロ及びハーモニーを練習しておくことにしました。

 24日(火) 今年3月、「嵐が丘」で私の絵画展(『第2回小山田有家絵画展』)で私の絵を大層気にいってくれた人がいます。日本刺繍の工房を運営する、「町田市美術協会」副会長の由。彼女のアドバイスで10月の「町田市文化祭」の一環で市民ホールギャラリーにて「小山田荘の市美展案内風景(F1サイズ8枚組の絵)」を出展した経緯があります。今回、お会いしたのは、2020年2月末、町田市立国際版画美術館で催される「第45回町田市民美術展」への出展のお誘いとその要領をお聞きするのが目的でした。F2サイズの絵4枚を50cm x 50cmのフレームに入れようかとアイデアを練っていますが、絵の提出期限までに気に入った絵を4枚用意できるのか疑問です。副会長のお誘いなのですが、出展料はきっちり取られるようです。

The K.A.Y.A. Band Live DM 25日(水) Christmas Live at 「嵐が丘」。オープンまでのリハーサル、写真家の友人がカメラ機材を持って我々の前に陣取り、遠く南足柄市から来てくれた友人、「雑談会」のメンバーも三々五々やって来ます。前日、自宅で用意しておいた「Silent Nightきよしこの夜」の歌詞/Chordsをバンドのメンバー、既に来場した皆さんに配り、練習しましたが、上手くハモができたかどうかはよく判りません。多くは昨年もやった曲が多くあることは仕方がないのですが、前半9曲:1) Bye Bye Love, 2) Black Is Black, 3) Tequila Sunrise, 4) Proud Mary, 5) Peaceful Easy Feeling, 6) Be My Baby, 7) Surfin' USA, 8) Lets Twist Again 9) Take It Easy、後半9曲(リンクは22日、Studio-1での録画):1) Pretty Woman, 2) Memphis, 3) Lodi, 4) Norwegian Wood, 5) Yellow River, 6) On The Road Again, 7) Who'll Stop The rain, 8) Every River, 9) Rockin All Over The World、合計18曲、1曲3分としても54分です。

 前半と後半の間に休憩時間が設けられ、その間聴衆の皆さんは軽食を食べワインを飲む趣向です。休憩時間も終わり、空腹も満たされ、アルコールも廻って来たところで、参加者全員で「きよしこの夜」を合唱、出来の良し悪しは別に、バンドと観客の一体感が醸成されたはずです。今回のライブ、「嵐が丘」の定員は15人、内8人が私の関連、1人は仕事の途中に覗いてくれたり、ドアの外にはアルバイト先である中学校の生活指導の先生も顔を出してもらったり、多くの人たちの支援で実施することが出来ました。感謝です。

 今年の冬至は22日(日)、 STUDIO-1でのライブの日、現地に到着すると太陽は既に西の空に低く傾き、ここまで走って来ただけで一日を終えたような感覚です。一日一日は徐々に日が短くなり、心細く、世界は暗黒の闇に沈み、運気の弱さも極まり、やり残したこともたくさんあります。例えばこのブログ、月に3度の更新がわずか2回になり、最近は絵も描いていません。冬至を堺に徐々に日は長くなり、「太陽の復活」はキリスト教と結びついて、クリスマスとなります。ライブまでの1週間、短い毎日を如何に次に繋げるかを考えながら来ましたが、「冬至」とは人生で云えば「玄冬」、人生のクリスマス、「太陽の復活」する日があってほしいものです。

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August 03, 2019

散歩の途中<<30>> 蓮田はやっぱり朝一番

 「宣言」と呼ぶには間の抜けた「梅雨明け宣言」が週末にあったらしい…と云うか、梅雨がだらだらと長く、梅雨空が晴れたら即真夏と、「宣言」する必要のない夏の始まりでした。日照不足で野菜が高騰、今後は稲の生育に影響が出て来るでしょう。夏と云えば、私の散歩コースの一つ「蓮田と小山田神社」の蓮の開花なのですが、今年の公式「小山田蓮祭」は7月20日、開花は数えるほどでした。

170623_下小山田の谷 この時期、蓮の開花を楽しみに、毎朝のごとく「蓮田と小山田神社」まで出かけます。私があまりに蓮の開花に執着するので、神奈川県南足柄市(小田原市に隣接)、そうです、あの「足柄山の金太郎」の故郷、に住む友人が是非これを見たいと、はるばる小田急に乗ってやって来ました。私の住む小山田桜台までバスで30分もかけて来てもらうわけにもいかず、車で駅まで迎えに行ったのが午後3時、最も暑い時間帯で、気温は35℃前後はあったのではないでしょうか。

 暑いので、蓮田まで車で行こうか…、とも考えたのですが、私が毎朝歩いている散歩道を歩きたいという彼の希望に従い、自宅に車を置いて、クソ暑い午後、二人で「蓮田と小山田神社」へ向かって歩き出しました。バス通りに出て、バス停(桜台1丁目)を過ぎ、桜台通り左折、この辺りを頂上に下って行き、右折して、区画整理以前から存在するであろう小道を登っていくと、新興住宅地を抜け、小さな山の峠に到達します。 
 この峠から、見下ろした前に広がる風景、私はこの風景が大好きです。左右の小さな山に挟まれた窪地に大きな農家が二軒、家の前には大きな畑。くねった道を下って行くと、早朝には右前方の山が道を影で覆うのですが、午後の強い日差しは容赦がありません。数日前、暗い影の中で咲いていた大輪の山百合も、今日はしおれて、息も絶え絶えです。
190730_ヤマユリ
 坂道を下り降りると視界が開け、蓮田が広がります。早朝しか来ないので知らなかったのですが、蓮の花が開くのは早朝だけで(夜はどうなのかは知りませんが…)、少なくとも午後4時頃には全ての花は閉じています。今年は、長梅雨で日照不足、蓮も例外ではなさそうで、全体的に開花数も少なく、加えて、花を閉じてしまっているとは…、全く愛想のないことです。

 
 しかし、蓮田は豊かな緑で満たされ、その向こうには、そう遠くない所に源泉のある鶴見川が流れています。蓮田の海に浮かぶのが小山田神社(別名「嶽の内御前神社」)、平安末、これまた近くに館(現在の大泉寺)を構えた小山田有重(平安末期 生死不詳)の奥さんが祀られると聞きます。大きな蓮田の海に浮かぶ小さな神社は第二の見どころです。9月初めにこの神社の小さな境内で催ようされる秋祭り(「小山田神社例祭」)は住民による奉納舞台・かわいい夜店は幻想的です。

 参拝を終え、往路に通った桜台通りと、一山(ふた山)越えた東側、住宅地の中を、平行する長い上り坂を歩くことにしました。万葉の時代、西国からやって来た旅人は足柄峠を越えて相模国に入り、「(江戸時代の)大山詣で」の道を東進、境川を渡り、武蔵国に入ります。箭幹八幡宮(矢部八幡)そして桜美林大学横を北上して尾根道とぶつかった辺りが「八幡平」、そこから北へ「鳥居坂」が小山田神社まで下り、さらに大泉寺の横を、多摩と町田の間に横たわる「横山」を抜け、遠く上野・下野へ向かう「奥州古道」の一つでした。友人と歩いたのは、まさにこの逆のコースを辿り、古代、関所があったとされる「八幡平」の地から、バス停(桜美林大学前)に至るものでした。

 待つこと5分、町田バスセンター(町田駅)行きのバスに乗り込みます。私にとっては久しぶりの繁華街、先ずは、小田急とJR間の人の多さに、次に彼らの歩く速さに驚いてしまいます。街には、夏休みが理由なのか、若い人たちの姿が目にちきます。おそらく、お年寄りの多い団地内の風景に見慣れた私には新鮮に見えるのでしょう。

 二人は迷うことなく駅近くの居酒屋「磯丸水産」に入ります。時刻は5時半頃か、お店は60%ぐらいは埋まっているのですが、客層は学生とおぼしき若い人、あるいはとうの昔に現役を退いたお年寄り、中には女性だけの中高年も珍しくはありません。

IMG-1097 朝一番、コロコロと転がる朝露の乗った蓮の葉と所々に桃色の大きな花を咲かせる蓮田の絶景をお見せすることはできませんでしたが、あえてこの時間帯を選んだのは、ここでビールを飲むことが優先する、という二人の間に暗黙の了解があったからです。

 そろそろ、会社の帰りに一杯という働き盛りの人たちに交代です。彼は小田急で遠く南足柄市まで帰らなければなりません。
私は、さらに会社帰りの人で混雑する小田急/JR連絡道をバスターミナルに向かいます。

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April 14, 2019

「住めば都」の町田ですが…

民間交番 「住めば都」の町田ですが、安倍政権と同じく石坂市政が16年もの長期政権故か…、最近、いやなことが目につきます。 先日の朝日新聞多摩版に、『町田に映画館作って』の見出し、書き出しは 〜「西の渋谷」とも呼ばれ、人口40万人を超える町田市〜 で始まる記事が載っています。バスに乗ること約30分、往復580円をかけて、町田の中心地に出たのですが、春分前、既に日は沈んだ冬の夜、繁華街はにぎわっています。勤め帰りのサラリーマンや学生であふれていますが、人の多さよりも、通りを塞ぐように街角に立つ客引きの数に驚いてしまいます。朝日新聞の現状誤認もはなはだしく、町田は「西の渋谷」というよりも、「西の新宿、歌舞伎町」の感じで、どうも品性に欠けます。現に、規制の強化された新宿、歌舞伎町を追われて町田に逃れてきた風俗店も多いと聞きます。

 記事は続いて… 〜 JRや小田急町田駅周辺には商業施設が活気を見せるものの、街には映画館がない。映画館開設を期待する市民の声は強く、市は誘致の起爆剤になればと、進出企業に奨励金を交付する制度を始めた〜と続きます。市民アンケートでも映画館を求める声が多数あり、町田市は一定規模の収容能力を条件に、上限5億円の範囲で奨励金を出す〜そうです。市が奨励金を出すのはどうかと思うのはともかく…、私だけでなく、多くの市民が映画館を求めていることを知り、私は安堵しました。

 たまたま観たNHK特集番組、最新のデータでは「健康寿命」は、男性で72.14歳、女性で74.9歳。しかし「平均寿命」との差は男性が9歳、女性は12歳あり、その間は寝たきりか要介護の暮らしということになります。AI(人工知能)が65歳以上の41万人の生活習慣・行動を徹底的に学習。結果、「健康寿命」と「平均寿命」の差を短くするキーワードは「読書」をするということでした。これを証明するように、山梨県は健康寿命が長く、男性は全国1位、女性は3位。驚くことに、運動やスポーツの実施率では最下位、逆に人口に対する図書館の数は全国1位。加えて、学校司書の配置率が高く、そんな環境で育った市民に読書の習慣が根付いたと思われます。「健康寿命」を伸ばすには運動やスポーツの実施、スポーツ施設の拡充、病院・医療の充実…と誰もが思いつきます。実は、遠回りのようですが…、学校司書はじめ初等教育・図書館の充実が重要でした。加えて病院建設・医者の養成には莫大な費用がかかるが、図書館建設・司書養成には比較にならないほどの少額である、ということです。因果関係は不明ですが、山梨県がAIのもたらした回答が正解であることを実証しています。

 町田市には9つの私立大・短大が在り、3万2千人の学生が学び、総人口170512_町田市版画美術館スケッチ43万人の7.4%を占め、全国的にも京都市に次ぐ大きさです。因みに、「学生の街」、京都市の総人口は147万人、大・短大数39校 学生数14万7千人(10%)。京都市に迫る人口当たりの学生数が学び、いくつかの大学には芸術学部もありながら、文化・芸術面ではおそまつの一言です。町田市には映画館もなく、8つの図書館も魅力に欠け、文化芸術に貢献していると云えば、かろうじて町田版画美術館と旧白洲邸、『武相荘』ぐらいのものでしょう。かつて、遠藤周作は町田市で晩年を迎えたのですが、彼の死に際し、遺品の寄付の提案があったのですが、町田市はこれを断ったそうです。今、寄付を受けて作られた『遠藤周作文学館』は長崎にあります。

Zelvia
 昨年、サッカーチーム「町田ゼルビア」はJ2で2位につけJ1昇格圏内に入り、地元ではちょっとした話題になりました。サッカー音痴の私にはどうでもよいことなのですが、J1昇格の必要条件として、成績だけではなく…、1万5千人収容のスタジアムなどの条件を満たせないことが判明。ここからが、どうでもよくはない話なのですがで、町田市は総額48億円をかけて座席数を1.5倍にする改修工事計画を進めているそうです。町田市には大企業がなく、「町田ゼルビア」のスポンサーを町田市の税金を使って引き受けるのには馬鹿げています。鶴川(野津田)は石坂又一町田市長の出身地であり、「町田ゼルビア」創設、スタジアム建設は地元への利益誘導という噂があり、最近では小山田桜台住民悲願のモノレール(多摩センター〜町田駅延伸)のルートを変更して野津田経由とする案が出されていると云います。

野津田サッカースタジアム
 昔から、長く続いた革新都政の影響か…、町田市は『福祉の街』という看板を背負っているそうです。「健康寿命」は高齢者問題の根幹、社会福祉の大問題であると考えます。野津田のサッカースタジアム拡充計画はこの辺にして、映画館設置・図書館の充実、将来的には文化・芸術分野の拡充を図るべきです。その為には、相模原市緑区「芸術村 藤野」は参考になるかも知れません。

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April 06, 2019

散歩の途中<<28>> 桜も、庭の花も

kamogawa sakura
 今朝一番に、京都市内に住む友人よりLINEメッセージあり、鴨川岸に満開の桜の写真を送ってもらいました。彼は『ゴジラー(5時に起きる、早起き過ぎて迷惑の意味)』の異名の持ち主で、昨年10月の「伊賀上野同窓会」では、5時どころか、4時に起きて上野市街周辺の散歩に連れて行ってもらいました。「京都鴨川の桜」と聞いただけで、なにか、その辺にはない、有難いものをいただいたような気持ちになるのは不思議なことです。

 脇道にそれますが、千年の歴史を持つ京からやって来た文化・物品は大いに評価され、逆に京以外からの文物を「京から下って来たものではない」、へりくだって、つまらないという意味で、「くだらない」という言葉が生まれたそうです。どこかで読んだことがあるのですが、徳川政権下、世界有数の大都市に繁栄した江戸においてさえ、京から「下った」の文物は評価されたのですが、唯一、江戸浅草特産の「浅草のり」だけは天下一と評されたそうです。

 机に向かい、パソコンを開いてLINEを確認すると、冒頭の「京都鴨川の桜」。そうだ…、寒の戻りもあって、今日は朝から天気も良く、私の好きな桜も朝日に当たって絶好の景色のはず…と、飲みかけのコーヒーを横に置いて飛び出しました。絶好のチャンスとばかりに撮ったのがこれです。小山田荘で一番の桜です。


 去年12月はミニ・コンサート、今年2月・3月は絵画展の対応で忙しく、時間的余裕がありませんでしたが、かみさんが育てている花の一部をご紹介しましょう。
▼クレマチス・アーバンディ
190326_クレマチス・アーマンディ

ベゴニア
190329_ベゴニア

▼ジャーマン・アイリス
190409_ジャーマン・アイリス
 花の開花とともに始まった『第2回小山田有家絵画展』は、桜満開の今日を持ちまして終了いたします。多くの方々にご覧いただき、また、喫茶店『嵐が丘』始め皆様方のご支援をいただき誠にありがとうございました。

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March 12, 2019

『藤野二人展』

  東日本大震災から8年、震災によって亡くなった方々とそのご遺族に対し、深く哀悼の意を表します。

藤野二人展 相模原市は人口が60万の政令都市なのですが、私の住む町田市とどちこちない、文化不毛の地と聞いていました。私の友人はその相模原在住、写真が趣味で、所属する写真クラブ主催の写真展示会には、藤沢・横浜とお邪魔したことはあります。個人の写真展を開くのは今回が初めての由にて、彼に連れられて、相模原市緑区藤野を訪れました。謙遜の意味か…、彼の説明では、深い山の中に在るオーナーの趣味で建てたようなレストランの一角にあるギャラリーでその『藤野二人展』が開かれていると云います。

 中央高速相模湖ICで降り、どんどん山の中に入って行きます。通り過ぎる、山里の景色や看板は、何時か本か雑誌で見たことのある、あるいは読んだことのある風景です。恥ずかしながら、私はそれまで気が付かなかったのですが、深い山の中に広がったその風景が「芸術の街、藤野」でした。文化不毛の町田市とは大いに異なり、相模原市には「芸術の街、藤野町」が在ります。相模原市が長年育てた…、というよりは、タナボタ式に「芸術の街、藤野」を手に入れたのです。いかに山が深いとはいえ、藤野で個展が開催されることは大いに魅力です。

藤野案内図
▲藤野芸術の道マップ
 お会いしたことはありませんが、オーナーの本業は歯科技工(?)会社の経営者の由で、この地で有機栽培のお茶や野菜を生産・販売する農業生産法人「藤野倶楽部」を設立、レストラン「百笑の台所」を運営しています。相模原市観光協会が発行する「藤野芸術の道マップ」では地図の右下にレストラン「百笑の台所」の案内が見えます。実際にお店のある現地を訪れてみると、その敷地はかなり広大で、セミナーハウス、宿泊棟、納屋(バーン)、レストランが配置されています。それ以外に、耕作地がどれほどの広さかは判りません。面白いことに、敷地内には電気自動車向けに充電器スタンドが設置されていますが、どれほどの需要があるのか…、かなり前衛的なお考えをお持ちな方とお見受けします。

藤野_1 「百笑の台所」はコンサートができるステージを備えた大きなレストランで、多くの席は外の景色を眺めながら食事できるように、一面の窓に向かって長いテーブルと椅子が配置されています。店の女性の話では、当初はこの店の山側に隣接するテニスコートとキャンピングカーから全ては始まったそうです。想像では、藤野に魅せられたオーナーが、当初、仲間と一緒にテニスコート(1面)を造成、エア・ストリームIMG-0900(キャンピングカー)を横に、皆でワイワイガヤガヤ、バーベキューなどをして週末を過ごしたのが始まりなのでしょう。レストランの後ろには談話室、壁にはオーナー個人(?)の蔵書が一面に並べられています。宗教・哲学・歴史・芸術・地理・農業・土木・料理から「ゴルゴ13」まで、「藤野倶楽部」は彼の「道楽」に始まり、9484715923087「道楽」の進行形であると云えるでしょう。レストラン「百笑の台所」、テニスコート、エア・ストリーム(キャンピングカー)、談話室に囲まれた一角に、やはり、皆で造作した感の、よく言えば手作りの…、ギャラリーがあり、『藤野二人展』が開かれています。

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 自宅から車で1時間をかけて訪問する価値は大いにあり、季節が良くなったら、次回はゆっくりと、藤野を訪れることにしましょう。

 最後に、相模原市さん、「芸術の街、藤野」の宣伝活動の努力が足りないのではないでしょうか。町田市さん、完全に遅れをとっていますよ.

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December 05, 2018

Rock 'n' Roll Christmas Live at 嵐が丘

181016_Rock 'n' Roll Xmas At 嵐が丘_Post Card

 お店のママに頼み込んで、むりやり恒例にしてしまった感のある、題して『Rock 'n' Roll Christmas Live at 嵐が丘』、開催日、12月22日(土)まで、考えてみれば3週間を切ってしまいました。ご披露する曲目が決まったのが1ヶ月前、前回(今年3月17日)演奏した14曲から7曲を引き継ぎ、新しく8曲(7曲+1曲)を加えました。

<1> Lodi
 我々K.A.Y.A. Band のルーツはと云えばC.C.R.にあります。ストレートなロックなのですが、<カントリーぽさ+南部ぽく>て好きです。今回も、この曲を含めて3曲を歌います。

<2> Black Is Black by Los Bravos
 非英語国(ポルトガル)出身で一時は英米のヒットチャートを席巻しました。我々の選曲からすれば異端ですが、皆さん知っている曲でもあり、レパートリーに加えました。<10>Del Shannonが亡くなる前、彼のオーストラリア公演で歌っていました。

<3> On The Road Again by Wllie Nelson
大御所、ウィリー・ネルソンの曲です。

<4> Peaceful Easy Feeling by The Eagles
 この曲が今回のライブの最大の難所の一つで、先ずは、ドラムKunさんの歌、私のバックアップコーラスに不安があり、次ぎにNobuさんのギターによる間奏がまだ安心して聞けるまでには至っていません。それに、好きな曲なのですが、やたらと長いのです。

<5> Proud Mary by C.C.R.


<6> Tequila Sunrise by The Eagles
 ギターのNobuさんが歌って、私がバックアップコーラスをいれます。私のセミアコギターのルンバ(?)ぽぃリズムにコードG6が効いています。何よりも救われるのは、曲が短いと云うことです。これも<4> Peaceful Easy Feelingと同じくThe Eaglesが当初、カントリーぽぃ路線を走っていた時期の曲です。 後に、彼等はジョー・ウォルシュを迎え、カントリーから離れていきます。


<7> Rock'n Roll Christmas by George Thorogood and The Destroyers
 唯一、クリスマスの曲。私はNobuさんの歌でこの曲を知ったのですが、どうも、ロックンロールが全盛の50年代の曲のようです。

ここで30分の休憩。

<8> Pretty Woman by Roy Orbison
1964年、全米・全英で第一位、1990年映画『プリティ・ウーマン』の主題歌として大ヒットしました。皆さんに楽しんで頂ける、今回の目玉の一つです。

<9> Who'll Stop The Rain by C.C.R.
 彼等の初期のヒット「Have You Ever Seen The Rain」のアンサーソングと云われていますが…。

<10> Runaway by Del Shannon
 目玉中の目玉。日本では飯田久彦(?)が歌って大ヒットしたことを知る人は今や70歳代です。本当は私が歌いたいのですが、サビの裏声が高くて出ません。名曲です。Nobuさんが歌って、私がバックコーラスをやります。

<11> Sister Golden Hair by America
 もう一つの難所です。Nobuさんの歌に、Kunさんと私がバックコーラスを付けるのですが、何回もやっているにも拘わらず、どこか不安の残る曲です。私がバックからはずれた方が良いかも…。

<12> Surfin' USA by The Beach Boys
 チャック・ベンリーの『Sweet Little Sixteen』の盗作、失礼、改作と云われています。



<14> Take It Easy by The Eagles
 やはり、これは名曲です。

<15> Johny B. Goode by Chack Berry
 誰がアメリカでロックンロールを始めたかは判りませんが、この人・この曲がすぐその近くにいた事だけは事実です。1985年の映画『Back To The Future』の高校のパーティ、マイケル・Jフォックスがギターの演奏を披露しています。

 バンドメンバー個々人の練習に加え、1週間前の16日、全員での練習日があり、なんとか難所を乗り越えたいと思っています。

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September 26, 2018

散歩の途中<<27>> 秋の草花を描く

シリーズ『散歩の途中』を長らくご無沙汰しているのに気がつきました。180918_ニラアルバイトがない限り、朝夕の散歩は実行しているのですが、いくつかの定番コースの内、南回りコース<桜美林→境川→帰りにMAC>は少なくなり、より里山風景の残る北回りコース<鶴見川(大泉寺)→小山田神社(蓮田)→鳥居坂>のコースに向かうことが多くなっています。                                                   ▲にら
  181011_??? 今年の3月、地元団地内にある喫茶店、『嵐が丘』での展示会、ご大層には個展…、『小山田有◯絵画展』開催のために、団地からそう遠くない、誰もが知っている風景をわざわざ選んで絵を描いたので、それらの風景には少々飽きてしまった、というのが正直なところです。 10〜15分、風景を見ながら鉛筆でスケッチ、写真を撮り、帰宅してから、181008_???パソコンでその写真を見ながら下絵の線を、ピグメント・ライナー(0.03 - 0.05 - 0.1mm)で仕上げていきます。完成までに数時間はかかるでしょうか…。                    
180929_???
180912_名称?
     ▼ユーホルビア
 180916_ユーホルビア 秋になり、散歩の途中で目にする草花を、鉛筆での下絵なし、いきなりライナーで描き上げてしまおう。それも10〜15分以内に…。  左手にスケッチブックを持ち、 不安定な紙面に実線を入れて行きます。全くの「言うは安く…」で、秋口には蚊が多く、友人に云わせれば、この時期の蚊は子孫を残さんが為に必死で、半パンツ半袖姿で指先だけを動かす人間は絶好の標的、5分もその場で立っていれば、目には見えにくい脚の脛股の反対側には彼等の黒い影がいくつも付いていることでしょう。180921_彼岸花虫除けスプレーは必需品です。先日は、膝を落として低い位置で描き始めたのですが、この姿勢を維持するのもつらいもので、そんなときには小型の折りたたみ椅子が必要です。他の散歩の人が近くを通るとどうも気になって、その線が途切れてしまうこともしばしば…、描きたい草花を見つけたら如何に素早く、人が来ても心臓強く描く練習です。
  ▼クレオメ                 ▲彼岸花
180917_クレメオ それでも、やはり写真を1枚撮ることが必要です。どうしてか…って? 帰宅して、その写真をかみさんに見せ、自分の描いた草花の名前を知るのです。私は草花が好きですが、そこまでは万人と同じですが…、その名前を知りません。正確には、草花の名前と実際の草花の姿が一致しないことが多いのです。

 昨日、こんな事がありました。草花の絵を描いたまでは良いのですが、電池切れのスマホでは写真が撮れません。絵を彼女に見せて、「これは何の花?」と聞けるほど正確に微細な絵を描いていません。その絵を掲載するのは止めておきましょう。



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September 13, 2018

Yokohama、近藤勇…そして町田 その2

『Yokohama、近藤勇…そして町田 その1』から続く…
 
 町田、さらに大きく多摩という地域の歴史を見ると、面白い事に気がつきます。最初の武士政権、鎌倉幕府(1192)を建てた関東武士の棟梁は都からやって来た貴種、源頼朝。源氏三代を殺して、鎌倉幕府を引き継いだ伊豆国(静岡県)出身の執権北条。その鎌倉幕府を倒して(1333)、後醍醐天皇親政失敗( 1336)に続く南北朝時代(〜1392)、そして上州(群馬県)出身の足利尊氏が室町幕府(1336〜1575)を建てるもその実力は京周辺の山城一国にしか及ばなかった。各地の守護はその権限を拡大し、守護大名に成長、関東でも混乱が続きました。戦国時代の先鞭をつけたのが備中(岡山県)出身の早雲(伊勢新九郎盛時)が伊豆韮山(静岡県)に拠点を置いて、伊豆・相模国を、執権北条の名を継いで小田原(神奈川県)を本拠地に関東一円を支配しました。後北条は秀吉に敗れ(1590)、いよいよ三河(愛知県)出身の家康が入って来ます。家康は、善政を敷いた後北条の民政(四公六民)を踏襲、100万石余といわれる幕府直轄領(天領)には有能な代官を置いて統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げます。家康の江戸脱出路とされる甲州街道、その途中に在る八王子の街、そこに武田・後北条の遺臣を集めて「千人同心」を作ったのが大和(奈良県)出身の猿楽師、大久保長安(武田信玄、後に家康に仕える 金山奉行)江川邸玄関外であり、町田を含む多摩地域には千人同心の子孫が多く住んでいます。 もう一つ、保元の乱を嫌って伊豆韮山に流れてきた江川家は、頼朝・執権北条・足利・後北条そして家康に「江川太郎左衛門」の名で世襲代官として仕え、町田を含む多摩地方の幕府直轄領は伊豆の代官「江川太郎左衛門」の支配下に在りました。

 日本人の精神と倫理観に徹底的な影響を与える関東武士の誕生、彼等はその主役でありながら、自らのうちに棟梁を見いだすことをせず、当初は平氏を、次いでは源氏、都の貴種(他国者、よそ者)を担ぎ上げて史上最初の武家政権、鎌倉幕府を開きます。 以来、関東に於いて、時代の節目にいろんな事象が発生しますが、近世末、おそらく今日に至るまで、全くこの傾向は変わりません。

 幕末、養蚕だけでなく、 木綿・油菜・荏胡麻・藍などの商品作物への転換が進み、近藤勇農民は「穀物買い入れ層」となり、奢侈・贅沢へ傾斜して行きます。その結果、穀物価格の急騰、飢饉・打ち壊しの発生、治安の悪化、社会の混乱を招くことになります。後に新選組を率いる近藤勇(1834-1868)、土方歳三(1835 - 1869)は武蔵国多摩郡調布・日野に中農以上の豊かな家庭環境に生まれますが、彼等こそ多摩地域が生んだ独自のリーダー、棟梁でした。小島鹿之助(1830 - 1900)は当時の小野路村の名主で近藤勇(新選組)のスポンサーでしたが、ひ孫に当たる小島政孝氏(小島資料館館長)は講演で「近藤勇・土方歳三は多摩の英雄」と明言しています。身びいきすぎる…とは思いますが、確かに関東武士が生まれて以来始めて、近藤勇は歴史の節目で「棟梁」となった唯一の多摩人であり、その意味では「多摩の英雄」です。

 市民大学講座の講師もここの学芸員の方が多いのですが、町田市立自由民権資料館というものがあります。私の了解する「自由民権運動」とは、戊辰戦争で勝利した新政府軍、例えば武士は板垣退助を頂点に一国の家老待遇の名誉と地位を得ながら、数年後の廃藩置県でその地位は反故にされ、「不平士族の反乱」に繋がり、西南戦争が終息すると、明治政府への不満の矛先が憲法制定・議会開設を要求する「自由民権運動」へと変遷していきます。板垣退助は東山道先鋒の参謀として戊辰戦争(1868-1869)に従軍、「勝沼の戦い」では近藤勇(新選組)を撃破して甲州街道を東へ、八王子千人同心を懐柔、徳川恩顧の多摩郡を全く無抵抗のまま江戸に達します。町田には、代官「江川太郎左衛門」の組織した木曽農兵、小野路には小島鹿之助が組織した小野路農兵が幕府側として参戦したはずなのですが、どうも消息が分かりません。戦争の帰趨が判っていたからでしょうか…、 上野戦争・東北戦争は未だ始まってもいないのに、徳川恩顧の町田を含む多摩地域から、例えば宇都宮・日光方面の戦いに向かうこともありませんでした。

 自由民権資料館は野津田村の地主、村野常右衛門(1859-1927)が自由民権運動に加わり(1881)、その私財を割いて建てた「凌霜館)」の跡地を町田市に寄贈されたものが始まりで、 多摩・神奈川の民権運動関係史料を収集・保管し、整理・研究している由。読む方の誤解か…、それとも誤解を招くことを意図したのか…、自由民権運動の起源がこの地にあったかのような名称です。横浜開港で町田に西欧の宗教・思想(例えばアメリカ独立戦争・フランス革命の自由・平等・議会設置)が入り込んでいたのか、と大いに期待したのですが…、全くそんなことはなく、かと云って不平士族でもなく、不平というならば、それまで天領・旗本領の特権を剥奪されたという新政府への不満…でもないようです。 彼は戊申もはるかに過ぎて、西南戦争(1877)後、当時、にわか風俗の如く流行した「自由民権運動」に参加したのでしょう。福沢諭吉が訳したとされる「自由」、それを底に記したぐい飲みが展示されています。廃藩置県に伴い(1872年までに)町田を含む多摩地方は神奈川県に編入されましたが、コレラ流行(?)等を理由に、1892年、再び現在の東京都(府)に戻ったと云います。当時、神奈川県・町田を含む多摩地区で盛んだった自由民権運動を削ぐ狙いがあったと云いますが、云われる通り運動は急速に衰退してしまいます。ブームが終わったように…。原町田から八王子にかけての人間にとっては、新しい産物・思想・生活習慣の発信地、居留地のあるエキゾチックな港町横浜(神奈川県)が少し遠くに行ってしまいました。

 東京・大阪を初めとする大都市に人口が集中する傾向は今も変わらず、町田市の人口は43万、八王子(58万)に次ぎ、多摩地域第二の大都市です。幕末の横浜開港以降、町田の中心は小野路村から原町田村に移り、JR横浜線は市の南端を、小田急も東の端をかすめるだけ、 国道は一本も通らず、町田の背骨でもある町田街道に右折レーンが出来たのはつい最近の話です。遠藤周作縁の地で在り、死後遺族から彼の遺品寄付の申し出がありながらそれを断り、長崎に持って行かれ、かろうじて白州正子の遺品は「武相荘」に遺されています。映画館はやっと最近、南町田にシネコンが出来たというお粗末さ。文学・芸術がダメならスポーツで、ということで町田市はサッカーにお金をつぎ込んで、やはり政治の中心は昔ながらの野津田(あるいは隣接する小野路)なのか、人里離れた所に立派なスタジアムを建設しましたが、その結果は未だ明らかではありません。多摩地域第二の大都市でありながら、武蔵野には入っておらず、現在に於いても「多摩の横山」が厳然たる壁、市内を走る神奈中バス、相模原市と同じ市外局番に、かつては神奈川県に編入された名残がある、とらえどころのない無個性な街に映ります。これがこの街の文化…?。

 地域おこし、街おこしをやろうにも、ただミニ歌舞伎町が駅前にあるだけの街では手の打ちようがありません。町田市が積極的に景観を保存した訳ではありませんが、私の住む小山田地区には、結果的には、幸か不幸か、江戸時代、さらに遡った古い原型のままの山里を見ることが出来ます。 やはり、多摩の横山を越えて小野路に出稽古にやって来る近藤勇をキャラクターに据えるべきでしょう。


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September 06, 2018

Yokohama、近藤勇…そして町田 その1

町田109 レミィ町田 今年は「明治維新150年」、それを記念して町田市民大学講座:「町田にこだわって「明治維新」を考える」に、4月から7月までの4ヶ月間(12回)、時間の許す限り参加しました。会場は生涯学習センター、駅にも近い「レミィ町田」です。今年3月までは「109町田」と呼ばれたビルで、若者の街渋谷の「109」を持ってきたのが売りでしたが、渋谷と同じように若者を呼び込むことが出来ず、6階部分を町田市生涯学習センターに貸し、今年4月からは「レミィ町田」に改称、地下1階から地上5階まで商業店舗となっているが入れ替わりが激しく、ファッションの発信地にはほど遠く、今に至っては単なる雑居ビルです。おもしろい事に、近くには、東急・ルミネ・マルイ等が在り、「レミィ町田」近辺も若者で溢れているのですが、 一階エレベーター付近では、 6階生涯学習センターに向かう老人集団がたむろしており、ある種異様な光景です。

 その人の人格形成に最も影響を与えた土地を出身地と呼ぶそうで、それに従えば、私の出身地は兵庫県伊丹市(人口20万、その頃は「白雪」の小西酒造、三菱電機、陸自中部方面総監部の街)です(出生地は九州)。昔の呼称では摂津国、京都の南西(概ね現在の大阪府淀川以北)および大阪(市域と堺)から神戸市(兵庫県南東部)にかけての地域です。JR西日本の広告で「三都物語」というものがありましたが、阪急に乗れば、京都まで1時間、大阪(梅田)まで20分、神戸(三宮)まで30分、伊丹市と3都市の位置関係をご理解して頂いたでしょう。京・大阪に比べると神戸はやや格下に見えますが、今も基本的には変わらないと思いますが、関西の若い女性の理想は、「神戸に住み、大阪に働き、京都に遊ぶ」、神戸はあこがれの街なのです。関東で云えば横浜、どちらも幕末に開港、欧米諸国の新しい産物・思想・生活習慣が流入、外国人の居留地のあるエキゾチックな港町と云えますが、神戸は幕末・明治にパッと出たのではなく、遠く平安時代末期、平清盛が大輪田泊を築き、福原遷都(1180)を行った歴史の重みがあります。

 横浜線淵野辺に住む友人の奥さん(いわゆる「在」の人)は大の京都ファン、彼の地を観光旅行で訪れた際、「関西じゃないですね。何処から来られたのですか?」と聞かれ、とっさに「横浜から…」と応えてしまったそうです。横浜に住んでいる訳ではなく、単に横浜線沿線に住んでいるに過ぎないのに…、「Yokohama」には大きな魅力・求心力があります。幕末(1853-18横浜開港68)、横浜が開港され、これによって生糸が輸出品の花形になり、養蚕規模が拡大、桑の植え付け面積が拡大、開港以前の主要穀物であるは麦・栗・稗の収穫量が激減します。現在のJR町田駅近辺、原町田村が活況を呈し始めたのもこの時期で、明治になって、八王子から横浜に向けて鉄道が敷設されたのも、沿線で採取された生糸の横浜への輸送がその目的であり、これが現在のJR横浜線の始まりでした。

 平安後期、関東では、新田・牧場の開墾・開発が隆盛、アメリカ開拓期の牧場主のような彼等は「一所懸命」という単純明快な論理は「名こそ惜しけれ」という、卑怯な振舞いを蔑む精神を表裏一体して鎌倉武士の真髄であり、その後の日本人の原理・原則、「理念」にもなって行きます。清和天皇の皇子に「源」の姓を与えて臣籍降下させたのが源氏の始まり、桓武天皇の孫の一部が「平」の姓を与えられて臣籍降下させた平氏が早い時期に関東へ進出、後に武蔵国では後に秩父七平氏が周辺の豪族を従え、その一人が小山田荘を支配する小山田有重となります。平氏は次第に西に逃れ、平正盛の伊勢平氏は河内源氏を抑え、忠盛・清盛の平家の全盛時代となります。遅れて関東に進出した源氏(河内源氏)は「前九年・後三年の役(1051-1062)」に勝利、 源義家(八幡太郎義家)は関東の豪族を掌握します。 「平治の乱(1160)」に破れた義朝の次男、頼朝は捕虜となり、伊豆韮山に流罪、関東の武士団は頼朝を担ぎ上げて、都より遠く、相模国鎌倉に幕府を開きました(1192)。

小山田荘鳥瞰図_2 小山田有重が開いた小山田荘、彼は馬牧の別当だったのですが、この地は万葉の時代から「多摩の横山」 と呼ばれ、 名高い丘陵地帯でした。早くから、牛の舌状の「谷戸」がいくつも入り組み、清水が湧水する土地が水田として最も貴重な存在でした(田方、たかた)。小山田荘の南側(現在の町田街道)及び境川を隔てて相模国淵野辺村は水田が少なく、上述の通り、幕末以前は長きに渡り麦・栗・稗を主要穀物としていた(岡方、おかがた)。おしなべて、平安以来、米を産する豊かな小山田地域(田方、たかた)と米を産しない相対的に貧しい境川両岸地域(岡方、おかがた)という図式が長く続き、幕末、横浜開港で生糸が最大輸出品となり、横浜→原町田→八王子(今の町田街道沿いか?)は一挙に桑畑と化しました。原町田村は現在のJR横浜線・小田急線両町田駅近辺にて、幕末横浜開港以降、生糸を横浜へ搬送する中継地として急激に発展しました。それまでは、相模国矢倉から上野国へ至る往還があり、境川を木曽辺りで武蔵国に入り、小野路村で馬次し、横山そして多摩川を越えて、武蔵国府である府中に向かったもので、江戸期においては高札所が在り、明治初頭には郵便局が設置されるなど、小野路村が小山田荘を含むこの辺一帯の中心地でした。それまで見向きもされなかった岡方(おかがた)地帯が、横浜開港を機に、一大生糸生産地に変貌、原町田村はその集積・中継地として急激に繁栄ました。



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July 21, 2018

緊急入院体験談

 学校管理と云うアルバイトをやり始めて間もなく5年です。校門開門に始まる1時間の朝の業務、及び窓・ドアの施錠の確認を主とする3時間の夕(夜)の業務、合計4時間の業務を月始め・月中・月末の3人の交替でやっています。 当初は、渡された鍵束を見てその数の多さに驚いたのですが、1年もたつと、真っ暗闇でも、手で触っただけでどの鍵なのかが判り、個々の鍵の施・解錠のコツも覚え、業務の時間配分も出来るようになり、我ながら驚いてしまいます。 次の業務までの間、机のある管理人室でコーヒーを飲んだり、好きな本を読んだりして過ごすことが出来るので、私はこのアルバイトを大いに気に入っています。

 月初めを担当する私の勤務日の最後の日にそれは発生しました。夕方の6時半、この時間には生徒は校門の外に出てなければなりません。 生徒が居なくなったこれからが、管理人の忙しい時間帯、部活で使用していた以外の教室は既に点検済みです。先ずは生徒の昇降口の施錠とばかりに席を立とうとしますが…、席を立てません。胸の辺りに圧迫感、そうこうしている内に汗が出始め、ハンカチで拭いますが、とうとうハンカチはびっしょり、しばらくの間は座ったままで過ごしてしまいました。 教員室の先生方に声をかけようとしたのですが、親しい副校長先生が今日は午後から出張中で、とうとう助けを求めることなく、気分も多少良くなって、何とか残りの施錠業務を終了、午後8時に学校を出て家路を急ぎました。帰宅すると、夕食を食べる気にもなれず、とにかく一風呂、結局そのまま布団に倒れ込んでしまいました。それから1時間ぐらいは、今回の突然の発作は何だったのか…、前日の午前中に参加したテニスによる熱中症の発症なのか、悶々と胸苦しかったのですが、いつしか眠りに落ち、寝覚めたのは朝でした。

 多摩丘陵病院は行きつけの病院なのですが、朝一番で診察してもらったのは私の内科主治医ではなく、新患外来担当の医師でした。ここに至る経過、心電図・レントゲン・血液検査の結果を見て、その医師の判断は 「心臓の周り在る血管が細くなって心臓機能を低下させ(狭心症)、症状としての狭心痛は一時的に回復したり悪化したりをくり返し(不安定狭心症)、血管が完全に詰まってしますとその部分が壊死、心筋梗塞となる」、「緊急にカテーテル検査を行い、必要あらばステントを入れて細くなった血管を本来の太さに戻すカテーテル手術をする」、「ここにはカテーテル手術を行う設備もなく、同意頂けるならば、設備・人員の用意のある北里大学病院へ救急車で搬送する」と云うものでした。かみさんに電話、タクシーで来てもらい、夫婦で医師の判断に同意しました。かみさんは私の乗ってきた車を運転、私はやって来た救急車に乗せられて、夫婦別々に北里大学病院へ向かいます。私を診断してくれた医師は北里の循環器系の専門医にて、私を送り出して、午前中だけの多摩丘陵病院勤務を終え、北里に向かうそうです。

180721_アスクレーピオスの杖と蛇 もちろん救急車に乗るのは初体験。救急車に乗る時点では狭心痛もなく、気分も悪くはなく、車内のストレッチャーの横のベンチに腰掛けると、「靴を脱いでストレッチャーに横になって下さい」と隊長に云われ、病院で訪ねられたことを繰り返して説明しました。「ピィーポー・ピィーポー」 、交差点ではけたたましい音に切り替え、リア・ウインドウのカーテンのかかっていないガラス越しに、見たことのある風景が次々に遠ざかって行きます。途中までは、車が今どこを走っているのかを認識していましたが、JR横浜線を越えた辺り、相模原市に入り国道16号をどこの交差点で横切ったのかは判りません…、出発して30分、北里大学救命救急医療センターに到着です。

 集中治療室に入ると、 待機していた医師・看護師そして救急隊員によってストレッチャーからCT北里大学病院集中治療室_1スキャン(?)に移されます。もちろん、ほとんど天井しか見えませんが、生命維持・カテーテル手術のための装置が林立、血圧・心電図・呼吸・酸素飽和度などの24時間監視するモニターが在り、まるでスタンレー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』を見ているようです。きゅう午後1時15分ぐらいに始まった手術は途中何をされているかが全く判らぬままに、覚えているのは、最初におちんちんの奥に奇妙な痛みを感じただけで、1時間ぐらいで終了しました。 手術終了後、救急医療病棟内の病室に移動、かみさんと一緒に、カテーテル手術が成功裏に終了した旨医師に説明を受けました。緊急搬入・手術の当日はセンター内の病室に移され、血圧・心電図・呼吸・酸素飽和度モニター用のコード類を身体中に、水分・栄養補給のための点滴用パイプ類を左腕に接続され、さらには、想像するだけでも身震いしてしまう…、自動でおしっこを回収するパイプが私のおちんちんの内部から繋がれているので、私は身動きすることが出来ず、全て看護師さん任せにならざるを得ません。看護師さんから食欲の有無を聞かれ、そう言えば今日は朝食以外は何も食べておらず、量的にも普段の半分以下の夕食<ご飯150g+赤魚の煮付け+揚げ茄子(和風だれ)+白菜ののり酢和え>、「1600kcal 常菜心疾患 食塩6g未満」をおいしく頂きました。もう一つ、救急医療病棟は24時間臨戦態勢、夜中でもスタッフが忙しく往来しており、モニターの異常を知らせる警告音に加えて隣の病室のいびきがうるさくて、一日目は一睡も出来す次の朝を迎えました。

 新患があるようで、私は救急医療の戦場から離れた別室に移されました。2日目、個室なのですが、頭上天井近くには私を含めた患者6人の体調を監視するモニターが設置されており、担当の看護師がどの部屋に居ても個々の患者の異常が警告音と共に判るようになっているようです。幸運なことに、私は狭心症と判断され、そのままカテーテル手術を受けることが出来ましたが、心臓の少なくとも一部は壊死しているでしょう。少なくとも心筋梗塞の心臓へのダメージは最小限に抑えられたはずで、術後の経過も良好、リハビリのスタッフが付き添い、尿採取のパイプ及び袋を付けた点滴台を左手に300mを歩いて、日常生活に復帰出来ることが確認されました。救命救急医療病棟から車いすで移動、一般病棟に移され、6人部屋ですが、監視モニター・警告音のない静かな部屋で、ぐっすり眠ることが出来ました。

 3日目、午前中は車いすでリハビリテーション部に移動、身長・体重・酸素量・体志望・筋肉量・握力・脚力…など、私の基礎体力を測定、リハビリの基礎データを測定、日常生活に復帰出来ることが確認されました。その日の午後、3日前、多摩丘陵病院の初診で私を診てくれた担当医師の訪問を受け、次の日の退院を告げられました。

 入院中は全く別世界に居ましたが、 外に出ると、朝なのですが既に真夏の太陽、この辺の道路事情に詳しいご近所の方が描いてくれた地図を私が見ながら、かみさんの運転で帰宅しました。

 狭心症(心筋梗塞)初期症状として、 「胸の圧迫感」だけでなく、「胸を中心に直径30cmの痛み、例えば歯の痛み、肩・首筋の痛み」そして「大量の汗」を覚えたなら、何の躊躇もなく救急車を呼ぶべきものと考えます。高血圧症が持病の私と同年代の人だけでなく、働き盛りの若い方々にも狭心症(心筋梗塞)は他人事ではありません。つい先日、狭心症(心筋梗塞)を発症した私の3泊4日緊急入院体験談でした。どうぞ参考にして下さい。

 多摩丘陵病院、救急車、北里大学病院スタッフの皆様、そしてかみさんに感謝です。お陰で短期間の内に日常生活に復帰することが出来ました。本当に有り難うございました。

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July 09, 2018

摂津国多田庄

 半年ぶりに出る都内、人の多さに酔ってしまいそうな東京駅近く、高校時代の同窓生と久しぶりに会うことが出来ました。当時は兵庫県伊丹市の南部に住んでおり、市の北辺に在る高校まで自転車で一時間弱をかけて通学していました。当時、まだ人口が少なく、高校の設置されていない川西市(及び宝塚市)からの通学生も多く、その友人も川西市から通う一人でした。

 川西市は文字通り猪名川の西、 大阪湾の河口から順に尼崎市→伊丹市→ 川西市(兵庫県)、猪名川の東は大阪市→豊中市→池田市(大阪府)となっており、 江戸時代までの行政区「摂津国」は、この猪名川を境に、東を大阪府、西を兵庫県という二つの行政区に分割したのは、摂津国の強大さを明治政府が恐れたからだという説があります。因みに、高校1年の時「セッタン模試」という学力テストの数学で惨憺たる点数を取り、理科系を断念、文化系志望に変えた苦い経験がありますが、この「セッタン」とは摂津・丹波地方、現在の行政区「兵庫県」を意味する言葉でした。

多田神社  清和天皇(850 -881)の孫が臣籍降下、特に経基(つねもと)王(源経基)の子孫が繁栄しました。源経基の子、源満仲(みつなか 912 - 997)は摂津国多田の地(兵庫県川西市)に本拠を構える武士団を形成、「多田源氏」と呼ばれます。伝説では、満仲が住吉大社の神託に従い、 三つ矢羽根の矢を放ち、矢の落ちた多田に居城を建て、見つけた郎党に、「満仲の矢(満矢)」にちなみ、「三ツ矢」の姓を与え、重臣に取り立てたといいます。平野温泉、平野鉱泉は三ツ矢一族の領地でしたが、明治政府は、来訪外国要人に良質三ツ矢サイダーの飲料水を提供するために全国的な水質検査を行い、炭酸ガスを多く含む「理想的な鉱泉」と認定され、炭酸飲料水の工場が建設されました。 後に民間に払い下げられ、「三ツ矢」の伝説は炭酸飲料のブランド「三ツ矢サイダー」となったそうです。

清和源氏_紋 満仲の子である長男:頼光(よりみつ 948 -1021)は多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれ、次男:頼親(よりちか 966 - 1057)は「大和源氏」の祖、三男:頼信(よりのぶ 968 - 1048)は「河内源氏」の祖となり、父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大します。特に、河内源氏の頼信は「平忠常の乱」を鎮定して坂東に橋頭堡を築き、その子の源頼義(よりよし 988 - 1075)、頼義の子の義家(よしいえ 1039 - 1106)の時代に、 「前九年(1051 - 1062)・後三年の役(1083 - 1087)」で坂東武士を掌握し、義家は「八幡太郎義家」と呼ばれ、後に頼朝の代に「武家の棟梁」として鎌倉幕府を開くことになります。義家の時代に絶頂期を迎えた河内源氏でしたが、力を付けすぎた義家を嫌って、院政勢力側は平忠盛(伊勢平氏)を重用、忠盛の長男:清盛は「保元の乱(1156)」、続く「平治の乱(1159)」に勝利して源氏を一掃、後に武家で始めて太政大臣に就任します。

 「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほどに平氏一門は隆盛を極めました。源平の力の均衡を維持しようとする院政勢力側は、今度は、平氏一門・清盛と対立を深めていきます。そんな中、京都東山鹿ケ谷で起こったのが「鹿ケ谷の陰謀(1177)」事件で、その陰謀に参加していた多田行綱(ただゆきつな ?年 - ?年 多田→摂津源氏)の密告により露見、陰謀に参加した一味を死罪・流罪とし、清盛と後白河院との溝は徹底的となります。「鹿ケ谷の陰謀」とその主犯とされる俊寛は他の二人と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流されました。多少の陰りが見えてきたにせよ平家の全盛、密告した行綱は落ち目な源氏、「平家物語」は良いようには描いていません。

 義経の戦功とされる「一ノ谷の戦い」、「鵯越(ひよどりごえ)」ですが、本当は土地勘のあった行綱の手柄だったとの説があり、以降、義経と幸綱の関係が深まります。頼朝は、義経を許可なく官位を受けたとして追討、さらに、二人の関係に不安を感じて行綱も追放し、清和源氏の嫡流を自認した彼は、先祖、源満仲以来の本拠地である多田荘をも没収します。

 頼朝に追われ、都落ちした(1177)義経が西国に向けて船出しようとしたのが摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)で、京から下ってきた淀川から分かれて神崎川となり大阪湾に注ぎます。 冒頭の猪名川は、この神崎川河口を少し内陸に入った辺りで分かれ、北へ延びており、大物浦辺りの河口地域は京・山城国・大和国・摂津国を結ぶ一大物流拠点だったのでしょう。 時代は下って、源氏の嫡流を自称する家康は、この大物に隣接する佃島(大阪市西淀川区)の漁師が牽引する船に乗って猪名川を遡上、上流にある清和源氏発祥の地、多田院に参拝します。家康は江戸に幕府を開くと、その労に報いて、彼らの江戸進出を許します。後に佃煮で有名になる江戸(東京)佃島の始まりでした。因みに、つまらないの意味で「下(くだ)らない」と云いますが、当時、うまいもの、おいしいものは京・大坂からの「下りモノ」でしたが、江戸発の例外「上りモノ」は浅草海苔とこの佃煮でした。180708_能勢電

 猪名川の渓谷に沿って、時には渓谷を跨いで走る「能勢電」に乗って、摂津国多田庄を再訪したいものです。

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February 19, 2018

最近聞いたこの曲<16> "Pretty Woman"

 前回ご紹介した14曲はご披露してもさほど差し支えない曲ばかりなのですが、バンドメンバー4人の選には漏れたものの、個人的に是非やりたい曲が、ロイ・オービソン(Roy Orbison)の『Pretty Woman』です。『プリティーウーマン、長い前段ですが…』がそれ、日付を見てみると2010年とあり、8年も前の事です。まだMaruさんのBa.(ベース)が未だ参加しておらず、コードを刻むことしか出来ない私は2nd Gt.+Vo.、NobuさんがLd Gt.+Vo.、そしてDr.のKunさんの3人でした。

 ロイ・オービソン、1964年の大ヒット曲『Pretty Woman』は私も良く知っているのですが、私には、リズムを正確にとっているはずなのに、どうも上手く入れないというトラウマのようなものがあって、ずっと避けてきた曲です。しかし、この時はNobuさんがこれを取り上げ、リード、本メロを歌うことをなり、私はバックコーラスを担当することになりました。バックコーラスの場合、仮に上手く入れなかったとしても、途中からでもそれなりの体裁を維持することが出来るからです。歌うだけならまだ大丈夫なのですが、私がNobuさんのLd Gt.(リードギター)を代われる技量を持っているはずもなく、この曲の印象的なイントロ、ドラムソロから始まるギターのリフ、エンディングまで、歌いながら一人でやらなければなりません。これは大変なことで、今回この曲が候補から外れたのもこの辺に理由がありました。
 
 結論から言えば、私がリード・ヴォーカルを歌うことが出来れば、前回と違い、今回はMaruさんBa.(ベース)という強い味方もあり、Nobuさんはイントロからエンディングに至り連続するリフに専念することができます。「嵐が丘」でのミニライブが3月17日、それまでに残された4人全員での練習日は2日のみ、次回に復活折衝をして、もし採用されるならば、何とか皆さんにご披露できるまでに持って行きたいと思っています。

 ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen )とジョン・フォガティ(John Fogerty)のデュエットによる『Pretty Woman』、私はこれでジョンのバックハモをマネしました。とにかく、かっこいい2人です。

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February 09, 2018

発表会

IMG_0564 喫茶店「嵐が丘」における絵の「展示会」、ご大層に云えば「個展」、個人的には数十年ぶりの「発表会」も3月初めから始まることが決まり、最終的にどの絵を展示すれば皆さんに喜んでもらえるかを決めるまでにはもうしばらくは時間があるのですが、それ以外の準備はほぼ完了しました。私にとっては、作品の内容はともかく、小学生時代の以来初めての「発表会」です。 スチレンボードを加工した台紙マットもほぼ満足、 ネットで探したお気に入りの額縁も手元に届き、馬子にも衣装です。

 もう一つの「発表会」、 バンドのミニライブの日程が3月17日(土曜日)午後2時開始と決まりました。
171127_Rock'n'Roll Tea Party
  ほぼ(?)…皆様にご披露して差し支えない14曲を選びました。

<1>&<2>  Proud Mary / Have you Ever Seen The Rain 5:31
  長い間、Creedence Clear Water Revival(CCR 1968-76)はルイジアナか何処かアメリカ南部出身のバンドと思っていましたが、実はカリフォルニア出身、『Proud Mary』はミシシッピ河を行く船の写真を見ながら情景を想像して書いた由で、後にTina turnerなど多くのR&Bミュージシャンが歌う。2曲をメドレーにしたところがミソですが、その引継が上手くいきますでしょうか…。

<3> Let Your Love Flow  3:04
 Bellamy Brothers、1976年のヒット曲。数年前、九州熊本のCountry Goldに出演のBellamy Brothersが歌っているのを見て思い出しました。

<4> Norwegian Wood 2:17
 The Beatles、1965年の曲。「ノルウェー産松材の(家具)」よりも誤訳の「ノルウェーの森」の方が趣があります。

<5> Copper Kettle 〜 レナウンわんさか娘 3:12
 「Copper Kettle」、ジョーン・バエズの1962年の曲だそうですが、私はバンドのNobuさんのギターで覚えました。銅製のやかんではなくて、密造酒を造る蒸留釜の意味。「わんさか娘」は今や中国企業に買収されてしまったレナウンのコマーシャルソング。小林亜星の作詞・作曲(1961)によるもので、弘田三枝子シルビー・バルタンが歌うTVCMは人気がありました。短すぎ、すぐ終わってしまうので、「Copper Kettle」を挿入しています。

<6> Yellow River 2:46
 Christie、1970年のヒット。Nobuさんのバックハモを長年やって来ましたが、今回のバックが一番良いかも…。ついでに…、<4> <5><6> の曲順は、いずれも同じカポ2の曲でそれらをまとめただけの話です。

<7> Surfin' USA 2:35
 ご存じThe Beachboys、1963年のヒット。Chuck Berryの「Sweet Little Sixteen」の改作。大阪のフェスティバル・ホールで来日した彼らの公演を見て感激、七十を目前にして、まだ歌っています。

<8> Memphis 2:32
 昔はJohnny Riversの曲と思っていましたが、Chuck Berryの曲であると教えてくれたのはやはりNobuさんでした。Chuck Berryついでに、彼は「Johnny B. Goode」をやりたかったのでしょうが、私がどうも…ロックンロールが苦手で、ボロがでないようにとこの曲は採用されなかったのでしょう。

<9> Bye Bye Love 2:12
 The Everly Brothers、1958年のヒット。彼らと同時代ではありませんが、1970年、Simon & Garfankelがこの曲をカバーするのを聴いて、彼らを知りました。

<10> Who'll Stop The Rain 2:35
 <1>&<2>と同じくCCRの1970年のヒット。

<11> Sister Golden Hair 3:12
 Americaの1975年のヒット。

<12> Lucille 4:01
  Little Richardの1957年のヒットで、ロックンロールそのもので、The Everly Brothersもカバーしています。

<13> Take It Easy 3:39
 本当は、「Peaceful Easy Feeling」、「Tequila Sunrise」もやろうかとも思ったのですが、「 Take It Easy」のみに変更です。案内状にThe Eaglesと書いてしまったばかりに…、皆さんはイーグルズと聞けば十中八九「Hotel California」を想像してしているのでしょうが、正直言って、残念ながら我々には出来ません。

<14> Black Is Black 2:57
  Los Bravosは1966年、カナダで1位、UKで2位、USで4位とそれぞれのヒットチャートを独占した非英語国、スペインのバンドでした。それ故、気のせいか…歌詞が分かりやすいのですが、難点はキーが高過ぎます。

 バンドのライブは3月17日(土曜日)、それまでに、全員でのバンドの練習日は残り2日しかありません。万が一…、来られる場合は喫茶店「嵐が丘」への予約が必要です。

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January 26, 2018

私の絵

 あっという間に正月どころか、間もなく1月も終わろうとしています。団地内の喫茶店『嵐が丘』から絵の展示会の話があった時、もちろん有り難くお受けすると同時に、3月と云えば遠い話と、図々しくもそれまでにお店でバンドのミニ・ライブをすることを提案しました。結局は、絵の展示会とミニ・ライブは共に3月に決まりました。「1月は行く、2月は逃げる」とは良く云ったったもので、遠い話どころか、3月は目の前に迫って来ました。ミニ・ライブの件は、私以外の3人はステージ経験も豊かで、PAも含めて彼らにお任せなのですが、絵だけは私が準備しなければなりません。

 管理組合理事を務めた時に、月刊の会報を住民宛に発行するのが私の仕事の一つで、書くべき記事が少なく、その空白を埋めるために『小山田荘を歩く』を連載しました。ほとんど当ブログでご紹介している『散歩の途中』の焼き直しに私の描いた挿絵を添えたコラムなのですが、これが意外と皆さんに人気で、同じく理事の一人から彼の奥さんが『嵐が丘』を運営されているので、そこで展示会をやればという話をもらいましたが、そのお店に入ったこともなく、話は途絶えてしまっていました。

 テニスがきっかけの友人、Aさんは、俳句・川柳、町屋の格子を研究されているが、歴史の話で相手をしてもらいますが、実は彼はグラフィック・デザインが専門です。私の絵に関して彼のアドバイスに負うところが多く、そのお店に行く彼からも出品を奨められていました。その彼からのアドバイスは、お店に出入りする団地の住民がよく知っている風景を描けということでした。彼のアドバイスに沿った訳ではありませんが、昨年、2017年は、女性に喜んでもらえるであろう庭の花々、皆さんも見るであろう、私が散歩の途中で見る風景を描いて来ました。最近、その彼と『嵐が丘』でコーヒーを飲む機会があり、お店の方も交えて出展が実現する事になりました。

 振り返ってみると、絵の展示会とは小学校の時代以来の出来事であり、何の用意もありません。今回は二つ目の慣用句、「馬子にも衣装」、絵を本来の実力以上に引き立たせるのが額装です。当初は額縁の自作を考えましたが、結果としては素人が木材を45°正確に切断、これを正確に接着するのは至難の業と断念して、ネット上の最も安いところから買いました。一つ大いに勉強したことは、額装の際、ガラスと絵の間に、断面が45°の窓の開いたマット(台紙)がバカバカしいほど高価で、額装する絵に合わせて開ける窓の大きさを変えなければなりません。スチレンボード(発泡ポリスチレン)3mm厚をホームセンターで購入、NT Cutter製のマットカッターを使えば、自分の好きな大きさの窓を45°の斜め切りで明けることも簡単に出来ます。是非、お試し下さい。

 下に、私が自選した絵があります。もし私の絵にご興味をお持ちの方は、この中かからあなたのお好きな絵を3点選んで頂けないでしょうか?場それぞれの絵の左上に番号が付いております。コメントを利用して頂くか、末尾の<拍手>をクリック、<名無しさん>「ひとことメッセージ」に、例えば…「16、 3、10」の様に投票をお願いします。投票の結果を参考にさせて頂き、出品する10点を絞り込みたいと考えています。

 皆さんの投票をお待ちしております。

 PS もちろん、発表会、いや…展示会の確実な日程が決定しましたらこの場でお知らせします。

<<2016年>>
2016絵

<<2017年>>
2017絵1
2017絵2


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December 23, 2017

散歩の途中<<26>> 忠生(ただお)

 歩いて行くにはちょっと遠いので、自転車で忠生図書館に行ってきました。今まで、桜美林大学の図書館を利用していましたが、当然のことですが学術書が多く、最近はあまり利用していません。代わりに小説、娯楽書の多い忠生図書館に行くようになりました。貸し出し期限・冊数も桜美林ほどうるさくもなく、大いに利用しています。なかなか面白そうな場所で、近くには「かぶと塚公園」忠生小学校門松3があり、この「かぶと塚」の由来は、鎌倉攻撃に多摩川・横山を越えて南下する新田義貞軍に関係があるようです。今の時期、もう一つの見所は忠生小学校(1912年開校の忠生尋常高等小学校)です。かつての組合理事仲間の一人が父兄の人達と一緒に作った大きな門松が飾られています。

 平安後期、足柄峠(後の箱根)の坂の東側、坂東の地では新田・牧場の開墾・開発が隆盛、所領安堵を保障する棟梁に従い命を引き替えに戦場で働く、という「一所懸命」を信条とするの多摩(坂東)武士団に発展して行きます。彼らは頼朝を担ぎ上げて平家を倒し(1185)、その彼を征夷大将軍に鎌倉幕府を樹立(1185 or 1182)します。平家打倒の目標喪失で、頼朝への求心力を失った御家人を北条時政(伊豆)は、だまし討ち・暗殺で大量に粛正、執権職を北条得宗家で独占します。これは、棟梁の下では御家人は皆平等であるという考え方とは対立するものでした。鎌倉幕府の崩壊(1333)とともに1千3百人が自刃、それも北条氏一門のみで他の御家人はいなかったと云うのは極めて異様です。

 尊氏は京室町に幕府を開き(1336)、独立政権樹立を警戒して関東管領を置くも、関東一円には一足早く戦国の世が訪れます。上杉の支配が強まると小田原北条を迎え入れてその家臣団に入り、家康の関東入り(1590)するとまたこれに協力します。棟梁はあくまで仲間の代表でしかなく、棟梁の下では皆平等の意識が強く、棟梁は外部に依存し、仲間内から棟梁を出すことはしない。結局、多摩武士団は自ら大規模な組織作りができませんでした。

 家康は、信長・秀吉に滅ぼされた甲斐武田の遺臣、小田原北条の残党を厚く迎え入れ、大久保長安を始めとする旧武田の家臣に関東の支配を任し、一方、鎌倉・室町幕府・後北条氏とその時代の支配者に仕えた世襲代官、江川太郎左衛門(通称)に旧後北条の支配地、伊豆・相模・多摩を天領としてその経営を任せた。大久保長安は甲州街道及び八王子の街を建設、旧武田家家臣をして無禄ながら幕府公認の半農半士「千人同心」を組織して八王子周辺を開拓、江戸防衛の最前線とした。戦国の世が終わると、「千人同心」は日光東照宮の火の番が役目となり、江戸の旗本・御家人からは「芋侍」と軽蔑されるが、幕末には唯一の幕府直属の実戦部隊となります。

 江戸時代後期、商品経済・貨幣経済が発展、芝居や相撲の興行などの娯楽が盛んになり、もちろん賭博が盛んになります。これを生業とする博徒・無宿人が増加し、平和な時はさほど問題ないのですが、「天保の大飢饉(1833 - 39)」が発生、幕末に入ると開港の影響で物価が高騰、天然痘・コレラという未知の感染症が流行、社会は大混乱に陥ります。「攘夷」思想がうまれます。領地が複雑に入り組んだ関八州、特に上野国(群馬県)、天領である多摩地区は無宿者・博徒が逃げ込む絶好の場所でした。自衛のためか…、剣術が農民の間にも盛んになったのは全国で上野国と多摩地区だけという。国定忠治と新選組、上州と多摩、どちらも人々の気が荒く、喧嘩、武芸が盛んな風土です。一方では、豪農・名主などの上層農民と貧農などの下層農民の階層分化が進み、階層間の対立が激化、慶応年間には「世直し騒動」(武装蜂起)が激増します。

 江戸時代、百姓とは「百の姓を持つ庶民」、支配階級である武士以外の農民を含む被支配階級と云う意味でした。地方には藩があり藩主、その居城があり、藩士と呼ばれる武士が存在し、彼らは百姓が武士の格好をすることを許さなかった。髪型・服装・持ち物を見ればどんな身分かが判る身分社会でした。ところが、藩がなく、藩士もおらず、代官所の役人以外は武士のいない天領、多摩では武士の身分「千人同心株」さえも売買される有様、武士の真似事をしてもさしてとがめられることはなかった。勇は多摩郡上石原村(調布市)の裕福な農家、宮川久二郎の三男に生まれます(1834)。宮川」は「土方」と同じく隠し姓、武士の真似が昂じると、本当の武士になりたいと思うのは当然。ましてや、剣術が強ければなおさらのこと…。父久二郎の言「お前は武士になれ」で、近藤周助の養子となり、近藤勇、「天然理心流」の四代目宗家となります。近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎は「千人同心」の流れをくむ「天然理心流」近藤周助の門人でした。

 浪士の狼藉に頭を痛めていた幕府は、清河八郎の献策を入れて、江戸に居る浪士を集め、将軍家茂の攘夷決行の為上洛の際、その警護に当たらせること、及び尊皇攘夷の発露を目的に「浪士組」隊員を募集(1863)、「天然理心流」近藤勇達はこれに参加しました。彼は「天然理心流」の宗家、一門をを引き連れて、既に結婚して子供も在りながら、それらを多摩に置き去りにして…何故? とは、現代に生きる人間の偏見でしょうか…。

 池田屋で密会する尊攘派志士20数名に対し当初わずか近藤以下4名が急襲、後に土方隊が到着して逆転勝利、9名を殺害・4名を捕縛して新選組の名を一躍世に知らしめました(「池田屋事件(1864)」)。この襲撃は新選組の常套戦法(一人の敵には三人以上で当たる)を用意する余裕はなく、強烈な天領「徳川恩顧」の思いに突き動かされた行動であったと思われます。遅ればせながら応援にやって来た桑名・会津兵の前に土方歳三はまだ血の滴り落ちる白刃を持って立ちはだかり、一歩たりとも彼等を中に入れなかったと伝えられています。この勝利は新選組が独占する。他の者には指一本触れさせないという強い決意の表れだったのでしょう。その土方歳三が作ったとされる「局中法度」。「士道ニ背キ間敷事」とあり、違反者は「士道不覚悟」として「切腹」でした。彼の言う「士道」とは「武士道」とは異なるのか…、出自も育ちも本当の武士ではないという彼のコンプレックスがそうさせるのか…、武士としての品位に欠ける、後味の悪い思いをするのは私だけではないでしょう。極めつけは…、伊東甲子太郎が思想の違いから新選組を離脱しますが、彼は近藤の妾宅で酒に酔わされ、その帰途に隊士の数名により闇討ちされ、その遺体は路上に放置され、仲間を誘い出す囮として使われました(「油小路事件(1867)」)。在京の5年間での新選組の死者は約50名、その内倒幕志士との戦闘による死者数はわずか6名、ほとんどが「士道不覚悟」という理由にならない理由による新選組内部の粛清・暗殺でした。どこか…、約七百年前の北条得宗家と共通点があります。

 新選組のやりかたは「桜田門外の変(1860)」、「天狗党の乱(1864)」、はるか昔に遡って「赤穂事件(1701-1703)」に登場する武士の仕業とは極めて異質なものです。天領、多摩郡には支配する武士階級が存在せず、幕府=将軍の代官として豪農・名主などの上層農民は「公儀=将軍の御百姓(将軍家の農民)」という強い優越感を持っており、そこで生まれ育った彼らに組織された新選組は自ずと幕府=将軍に忠誠を尽くすべく奔走したのですが、そのやり方は武士には到底思いつかない陰険なもので、これも彼らの出身地、多摩郡の「世直し騒動」(武装蜂起)鎮圧、博徒・渡世人相手の治安維持、あるいは祭の若い衆同士の喧嘩のやり方、多摩の特殊性だったのかも知れません。

 「尊皇=勤王」の本質は、天皇が絶対君主でありその座は不可侵(臣下は絶対に天皇にはなれない)、逆に言えば、天皇の下では将軍も武士も百姓も同じ臣下、平等であると云うことです。ヨーロッパ近代民主主義は、ルター、カルビンに依る宗教改革、神=絶対神の下にはローマ教皇も神父も、大衆も、大衆の手助けをする牧師も皆、平等である、に始まるのと全く同じです。その意味で「尊皇=勤王」には普遍性があります。

 「湊川の戦(1336)」で新田義貞は自分の馬を射られ、彼の危急を見た小山田高家は自分の乗馬を義貞に与えて逃がし、身代わりになって討死します。御一新がなり、今は明治の世、1889年、かつての「公儀=将軍の御百姓」は神戸では高家が大事に祀られていることを知って大いに感激、かつての天領南多摩の地に新村を作る際に、その名を「忠臣の生まれた村」、「これからも忠義の者が生まれ出る」ことを祈って、「忠生(ただお)村」と名付けました。染みついた「徳川恩顧」、「公儀=将軍の御百姓」意識、御一新から20年やそこらでは変わらないでしょう。
※参考:英傑の日本史―新撰組・幕末編 (角川文庫)

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October 22, 2017

散歩の途中<<25>> 夏秋の風景

 ないと言えば嘘になりますが、歳のせいか…欲しいものが少なくなりました(負け惜しみ?)。加えて、わざわざ都内や町田の繁華街に出かけなくても、ほとんどのものがAMAZON・楽天などのインターネット通販で安く買えるのですから重宝するのは当然です。そんなことで、自宅近くで仲間とテニスをし、朝夕の散歩を行い、その道すがら、たまには絵(スケッチ)を描くという、自宅中心とした半径わずか数キロの生活になっています。
 
 「朝日を浴びるのは心身の健康の源」とはかみさんの口癖。彼女は夜明けとともに起きて愛犬のモモと一緒に散歩に出かけるのが一日の始まりです。他のことはともかく、彼女のその言葉には全く同感、朝日には何か意欲を沸き立たせる力を感じるのは二人だけではないでしょう。

140715_蓮田の小山田神社_2 二人(かみさんとモモ)が帰ってくると、入れ違いに私が散歩に出かけます。いくつかのコースがあるのですが、それが定まらない時は、東(正確には北東)の方角、既に太陽は昇ってしまっているのですが、朝日に向かって、先ずは小山田神社に向かいます。歩いて15〜20分の下り坂、お気に入りの下小山田ノ谷を抜けると、蓮田が広がり、その蓮田の海に小山田神社の島が浮かんでいます。柏手を打ち、鳥居を後に、今日はどの道を行こうか…、蓮田の小径を行きます。

 今年、夏・秋にはこんな風景を絵にしました。
この夏の風景
 去年は道に(他人の敷地内ではありません)多くの栗の実が落ちており、特に朝一番で出かけるかみさんの収穫は大きく、連日の栗ご飯でした。朝日を浴びるためだけが目的ではありませんでした。

 残念ながら、この秋は不作、栗ご飯をごちそうになったのは一度だけでした。来年に期待しましょう。

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September 06, 2017

散歩の途中<<24>> 大泉寺バス停

 交通費が高いだけでなく、用もないので、東京都心おろか、町田の繁華街さえも滅多に出なくなってしまいました。私はPASMOカードを持っているのですが、久しぶりに乗ると今まで不要だった乗車時にカードをタッチさせることに変更になっていたり、バス乗車時にチャージできるはずなのですが…まだやったことがなく、小田急駅の券売機でやっています。先日、JRを利用したのですが、何故か…、JRでPASMOは使えないものと勘違い、新たにSUICAカードを買ってしまい、かみさんからバカにされてしまいました。

 PASMOやSUICAカードだけではありません。お金はないが時間はたっぷりある私、以前はお店で探すのが楽しみだったレコードやCD、今やそれを再生するプレーヤーさえもありません。 本を読むといえば、近くの桜美林大学図書館を利用していましたが、学術書・専門書意外の小説・実用書は市営図書館を利用します。俗に云う洋楽CDはネット通販でほとんどタダ、ほとんど郵送料だけで買うことが出来、今やダウンロードが全盛の様です。私は好きな音楽をストリームラジオで聞いて、これは手元に置きたいという本はAMAZONにて、それも中古本を購入します。オタクあるいはマニアはともかく、これではCD屋さんも街の本屋さんもお手上げです。

 町田に出たからには…と、HANDS、世界堂(画材店)などのお店、文学館を巡って、気がつくのはラーメン屋さんの多いこと…はともかく、ふと、本屋さんに入りました。そこで見つけたのが、NPO法人:みどりのゆびが発行、町田市が監修する「まちだ フットパスガイドマップ」です。「Foot Pass」とは、田園地帯、古い街並みなど、地域にある昔ながらの風景を楽しみながら歩こう、というイギリス発祥の運動で、町田市にはそれにふさわしい昔ながらの里山・雑木林・田畑・古道・街道、歴史の面影が多く残されており、町田市がコースを整備、それをガイドマップにしたのがこれです。以前からこの「フットパス」の標識を私の散歩コースでも見かけていましたが、こんなに立派なガイドマップがあるとは知りませんでした。町田市市が積極的にその環境・景観を保全した訳ではなく、結果として生き残った(取り残された)景観を、遅ればせながら…、ここに至っては…、積極的に活かして行こう、という運動です。イヤミはともかく、「町田フットパス」は大いに評価できる事業であり、歴史・文化的内容を掘り下げ、さらにこの事業を推進すべきです。

 「まちだ フットパスガイドマップ」P9:「図師から小山田桜台」:〜里山の雰囲気が漂う小山田周辺のなつかしい風を感じて歩く〜は、ほぼ私の「散歩の途中」の舞台に重なります。
地図_図師〜小山田桜台

 ガイドマップを拝借して、その上に示した「大泉寺バス停」、 5年前か…、私が絵を描き始めた頃に描いたのがこれです。
20121207大泉寺バス停
 少しは上手くなったでしょうか…、角度は違いますが、先日描いたのがこれです。絵の技量はともかく、風景そのものはこの5年間どころか、何十年もほとんど変わっていない、 時間が停止しているようです。一見の価値はありますよ。
170822_大泉寺バス停 資源ゴミ回収日の朝
 用がなくても、たまには、片道290円もの大金を払ってバスに乗り、JR・小田急町田駅周辺の都会に出て行かなければいけません。新しい発見があるものです。

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August 28, 2017

住めば都…ですが、どうもしっくり…

 「住めば都」とはどんな所でも住み慣れればそこが最も住みよく思う、という意味ですが、朝早くその土地を出て職場に向い、夜遅く帰ってくる、ただ漫然と過ごしているだけでは「住めば都」にはならないでしょう。その土地を知りたい、隣近所と交流して、その土地を良くしたい、それらの意図と実際の行動を通してその土地に対する愛着が生まれ、離れがたい気持が醸成されます。言葉を換えれば郷土愛か、その要素の一つに、その土地が輩出した歴史的人物があります。

 小山田有重は鎌倉幕府の有力御家人の一人でしたが、頼朝の死後(1199)、北条氏に謀られて没落(1205 「畠山重忠の乱」)、小山田氏の一部は甲斐国に落ちます。新田義貞挙兵時(1333)、有重から6代目:小山田高家が新田軍の侍大将として鎌倉攻めに参加して小山田城を奪還します。鎌倉幕府は滅亡(1333)しても次の「南北朝」の戦いが待っています。九州から京を目指す足利尊氏軍は、神戸湊川で新田義貞・楠木正成の連合軍と激突(1336 「湊川の戦」)、義貞は自分の馬を射られ、彼の危急を見た高家は自分の乗馬を義貞に与えて逃がし、身代わりになって討死します。時代は下って明治22年(1889)、神戸では高家が大事に祀られていることを当地の名主が知って大いに感激、木曽・根岸・上小山田・下小山田・図師・山崎が合併して新村を作る際に、その村を「忠臣の生まれた村」、「これからも忠義の者が生まれ出る」ことを祈って、「忠生(ただお)村」と名付けました。

 境川を挟んで、その忠生の反対側、南に淵野辺があります。護良親王は父、後醍醐天皇に疎まれ、足利尊氏の弟:直義の預かりとなり、鎌倉に幽閉されていました。1335年、最後の鎌倉幕府執権:北条高時の遺児:時行が蜂起(「中先代の乱」)して鎌倉に攻め寄せました。鎌倉を守る直義はこれを支えきれず撤退しますが、その混乱の中、家臣の淵辺義博に護良の殺害を命じます。これを機に、後醍醐天皇は足利尊氏と決裂、本格的な「南北朝」の時代を迎えます。実は…、義博は主人の命令に背き、内密に、護良親王を自分の領地に移し、難を恐れて家族との縁を切り、境川に掛かる中里橋、榎木の下で家族と別れ(「縁切り榎木と別れ橋」)、護良親王に従って宮城県石巻まで逃れた、とする伝承があるそうです。

 1590年、小田原後北条氏が滅亡、関東に入封した家康は多摩地区を幕府直轄領、天領としました。家康の命を受け、大久保長安(ながやす)は甲州街道を整備、八王子に「千人同心」を設けて武田・後北条の旧家臣団を近郷開拓の屯田兵として、無禄ながら土地を開拓する郷士組織を作ります。「千人同心」に限らず、多摩は江戸時代初期に開発された土地が多く、彼等の多くは主君をなくした元武士であり、やがて村の名主階層に育って行くことになります。「千人同心」は八王子防御が当初の目的でしたが、後に、日光東照宮の火の番が主な任務となり、武士に憧れる豪農層は同新株を取得して「千人同心」職を兼ねることになります。こうして彼等は「将軍家の家来」と言う意識を強く持つようになります。彼等は客人をもてなす必要から教養として、書道・華道・和歌・俳句、そして地誌・国学などの芸事を学び、彼等文化人の間にはネットワークが誕生します。18世紀(江戸後期)に入ると、交通・経済が発展、幕末の開港による物価の急騰で無宿者・盗賊などの治安が悪化、芸事の一つとして、武芸が名主・豪農層の間で流行します。当時、百姓・武士以外で武芸・剣術が盛んだったのは武士のいない、藩の存在しない天領である多摩地域と、もう一つ、上州(上野国(こうずけ)群馬県)だけと云います。
多摩境札次神社
札次神社
 当時、長州・土佐・薩摩も会津・桑名・彦根も…、ほとんどの藩及び武士の思想は水戸学の「尊皇攘夷」です。幕府直轄領で武士のいない天領:多摩では、武士の代わりに国学を学んだ名主・豪農層はもちろん「尊皇攘夷」ですが、あくまでも佐幕、幕府あっての「尊皇攘夷」でした。「桜田門外の変」が発生(1860)、幕府は清河八郎の献策を入れ、攘夷のの実行・公武合体・尊皇を目的に浪士組を結成、「天然理心流」4代目の宗家:近藤勇とその門弟はこれに参加することになります。近藤を物心両面で支援したのが、名主・豪農の一人、小島鹿之助(こじましかのすけ 町田 小野路村)です。近藤を始めとする多摩出身者とその支援者は、天領=幕府直轄領に生まれ育った、多摩だけに通じる独特の文化を背景に「尊皇」を叫びます。当時の「尊皇」とは一地方の文化ではなく、徳川幕藩体制を越えた、「天皇の前には大名も一個人も平等」という明治の天皇制に引き継がれる普遍的なイデオロギーでした。

 「一所懸命」という論理と「名こそ惜しけれ」という、卑怯な振舞いを蔑む精神は表裏一体した鎌倉武士の風土はどう変遷したのか、家康の関東に入封して270年、藩や武士による直接的支配を経験することなく、武士以上の武士を目指した「新撰組」が生まれた土地ですが、明治の時代になると、一変して、彼等の云う「自由民権運動」の地になるそうです。一変…ではなく、実は…、多摩の歴史を貫く確固たる一本の筋というものが有るのかも知れません。

 話は飛んで…、京都の三大祭りの一つ、「時代祭」は明治28年(1895)、平安京遷都1100年を記念して始まりました。戊辰戦争の際、朝廷のために官軍としていち早く京都に入った山国隊(丹波国で結成された農兵隊)を先頭に、時代を遡り、平安京造営の延暦時代までの行列ですが、室町幕府執政列・室町洛中風俗列(足利幕府時代)が加えられたのは112年後の、2007年のこと、松平容保と新選組は今に至ってもまだ列に加えられていません。そろそろ列に加えても良いのでは…。 
※参考:英傑の日本史―新撰組・幕末編 (角川文庫)
    
新選組 敗者の歴史はどう歪められたのか (じっぴコンパクト新書)
   日野市立新撰組のふるさと歴史観特別編「新選組誕生」

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August 12, 2017

散歩の途中<<23>> お盆の頃

 天気予報でよく見かける関東地方の地図、町田市の位置は判りやすい。単に自分の住む街だからという理由だけでなく、盲腸のように神奈川県側に垂れ下がっており、川崎市・横浜市・相模原市に囲まれ、かろうじて北側を「多摩の横山」で多摩丘陵、東京都八王子市・多摩市と接続する、丘陵と谷戸が複雑に入り組んだ土地です。地形的に相模国・武蔵国の境は「境川」なのですが、実は、市の北側に横たわる「多摩の横山」なのかも知れません。現に、町田は武蔵国にありながら「武蔵野」には含まれていません。

 新宿を出た小田急線は西進、多摩川を渡ると神奈川県(川崎市)、柿生駅を過ぎると東京都(町田市)に入り、町田駅を過ぎると、また神奈川県(相模原市)に入ります。町田駅で八王子と横浜を結ぶJR横浜線と交差しているのですが、市の中央部の地形が複雑で高低差が大きいためか…?、小田急線は市の南部を東西に走り、JR横浜線は西隣の相模原市をほとんど市境に沿って、北西から南東に走っており、交差する町田駅も極端に市の南端に偏って位置しています。おまけに、昔はもっとひどかったらしいのですが…、両町田駅間の乗り継ぎの連絡が悪く、今でも5分はかかってしまいます。明治の一時期、町田が神奈川県に属していた名残なのか、市内を走るのは神奈川中央交通バス、 ついでに…、電話番号も市外局番が神奈川県相模原市と同じ「042」です。その神奈川中央交通バスに乗って約30分、ようやく私の住む小山田桜台に到着です。

精霊馬 お盆の時期、提灯は死祖者を迎える目印の意味は判りますが、関西で育った故か、胡瓜と茄子で作る「精霊馬(しょうりょうま)」(死者を早く迎える馬・ゆっくり送る牛)の風習は知りませんでした。これに関連して、主に関東・東北地方では「端山信仰」といわれるものがあり、端山(葉山・羽山)とは村の周囲にある小高い山(里山)、そこに棲む祖霊は農業神であり、春には里に下りて農耕を手伝い、秋の収穫の後、祭に送られて山に帰って春を待ちます。正月や盆には家に帰り、子孫と共食して歓をつくすとされます。※ 岩崎敏夫『東北民間信仰の研究』 宗教以前に土俗的な、日本人の魂の根底に在る祖先崇拝の観念であり、これを仏教は上手く取り込んだのでしょう。
朝の下小山田桜台
 鉄道駅からは遠く、バスで30分もかかりながら、地理的には、あくまでも地理的には…、町田市の中心に位置する小山田地区は武蔵国(東京都)に於いても異端の地。都心に近い、里山だらけの「端山信仰」の舞台です。昨今の「里山ブーム」・「自然保護運動」の高まりで、多くのそれらしい格好をしたハイカーが都心からやって来るのを見かけます。要は、幸いなことに…と云った方が良いのか、ここは開発の遅れた、取り残された地域で、何も計画・意図して里山を保存した訳ではありません。遅ればせながら、これ幸いに…、「多摩の横山」には丘陵に沿って「横山の道」があり、町田市によって「尾根道」が、東京都によって広大な「小山田緑地」が整備されています。

 この地にやって来たのは20年前か、JR淵野辺駅のバス停のみすぼらしかったこと、市を縦貫する幹線道路:町田街道は片側一車線で右折レーンが設置されたのはつい昨日、当時関西では既に見られなくなったバキュームカーがやたら目についた記憶があります。今や「住めば都」なのですが、最近開発された多摩境では広い道幅にもかかわらず、相変わらず右折レーンはなく、市の道路行政のお粗末さは相変わらずです。

 去年、初めて見た小山田神社の祭は雨の中、幻想的でした。今年の祭はもうすぐ、先祖にも喜んでもらって、あの世へ帰る土産話にしてもらいましょう。

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July 09, 2017

散歩の途中<<22>> 半夏生の頃

 夕方、外出からの帰り、近所の奥さんが空を見上げており、 声をかけると、「お月さんも大きく、今年の七夕は晴れて空がきれいに見える」。 そうか、今日は七夕か…。 知ったかぶりして、「先日は半夏生、散歩の途中でその花が咲いてましたよ」と言うと、少しびっくりした様子。

 もうすぐ梅雨も明け、本格的な夏がやって来ます。 いくつになっても、夏がやってくると「何かしないと…、どこかに行かないと…」、既に体力もお金もないのに、気分だけが高揚してしまいます。週二回のテニスコートは団地内、最近参加の「みんなで絵を描く会」も徒歩で、桜美林大学や最近新築された市図書館支所には自転車で、とかなり前から、自分の行動半径が年ごとに小さくなっています。月に1〜2回のバンド練習だけが楽器を運ぶ必要もあり車で往復3時間半、練習が3時間、バンド仲間と晩飯1時間半と、おおよそ一日仕事になってしまうのが唯一の例外です。そのバンド練習も、仲間のお身内のご不幸等で、この1ヶ月は集まっておらず、私はギターを触っていません。

 今日の日中の気温はこの夏最高の34℃の由。ここまで来ると、よほどの事がない限り日中に外出するのは躊躇してしまい、朝、以前のように自転車に乗るだけの体力もなくなり、もっぱらウォーキングというよりは、ただの散歩だけになっています。すがすがしい朝日を浴びながら、今は<桜台通り>と呼ばれる大通りを南東の方向に下りて行くと、通りの右側(東側)が下小山田地区、小高い山(丘)の向こう側に、蓮田の海に浮かぶ小山田神社を目指します。すぐに<桜台通り>を右に細道に沿って小高い山を登って行きます。おそらく、昔は畑仕事だけの用途の道で、山のてっぺんには村の墓地だけが在り村落を見守っていたのでしょうが、今は小道ながらも舗装され、両側には新興住宅が百メートルほど続きます。突然、そこは峠、小山は左右に分かれ、眼下の谷にはたった二軒の大きな民家だけ、急な坂道が曲がりくねって下りています。

170623_下小山田桜台の谷

 谷を過ぎると、蓮田の海に浮かぶ小山田神社です。5月には一面泥の田んぼだったものが、今や青々とした葉を付けた蓮に覆われ、間もなく赤の水玉模様に変わって行きます。鳥居を潜って柏手を打つと自然に気分は高揚します。(※下の画像をクリックすると拡大できます。)
                              7月11日             小山田神社
蓮田

7月13日
0713蓮田

7月14日
0714蓮田

7月16日
0716蓮田

7月20日
0720_蓮田

7月22・23日 蓮田祭 
20170722_蓮田

7月24日
20170724_蓮田

7月27日
20170727_蓮田

7月29日
20170729_蓮田

7月31日
20170731蓮田

8月2日
20170802蓮田

8月6日
170806_蓮田

8月7日
20170807_蓮田

8月10日
170810_蓮田

8月13日
170813_蓮田

8月17日
170817_蓮田

9月2日 小山田神社 御礼祭の夜
170902_蓮田 小山田神社祭の灯り

170902_蓮田 小山田神社御礼祭

IMG_1293 小山の東、新興住宅地の中を通って帰るのですが、数日前、住宅地の交差点に一つの石碑を発見しました。石碑自体は古くないのですが(十年〜十数年)、表に「鳥居坂」、裏には「武蔵 相模を望む要衝八幡平に関守がいて小山田の関との間を往還也し古道なり」と刻んであります。従来、山の西側、往路に通った<桜台通り>を「鳥居坂」とばかりに思っていたのですが、どうも山の東側だったようです。奈良・平安の古代から、足柄・箱根を経て相模国に入り、相模川を越えて淵野辺、境川を越えて武蔵国に入り、矢部(箭幹)八幡宮の横を抜けて、現在の桜美林大学の東横を北上、リサイクルセンター辺り(尾根道とぶつかる)が「八幡平」、そこから北へ「鳥居坂」が小山田神社まで下り、さらに大泉寺の横を抜け、多摩と町田の間に横たわる「横山」を抜け、唐木田をさらに北上するのが「奥州古道」の一つということになります。

 雑節の一つで、夏至から数えて11日目、その頃に咲く「半化粧」とも書く花の名前とは、それこそ、半夏生の頃に知った話です。 その頃、スーパーのチラシで、「半夏生 マダコ 特価O円」の広告をかみさんが発見、夫婦の間で「これって何?」と話題になりました。調べてみると、関西人としては少々恥ずかしいのですが、たこ焼きの具・寿司ネタとして人気の明石マダコの旬は6〜7月、半夏生の頃だそうです。そう言えば、同じような話で(?)、「いかなごの釘煮」を思い出します。

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June 09, 2017

10年後は到底無理?

 団地に住んでいますが、若い時は階段の上り下りを何とも思わなかったのですが、いつしか高齢者の仲間入り、1階部分に住んでいることに感謝するようになりました。ましてや、その中で4世帯のみが身体障害者向け住宅で(実際に身障者がおられるのは1世帯のみ)、南側専用庭に駐車スペース、車いすが入れるように南側はスロープ、玄関ドアも一回り大きく、室内も段差がなく、風呂・トイレも車いすが回転出来るように大きくとってあります。2年前までは、南側専用庭に駐車スペースには、今は昔、お気に入りのSUBARU OUTBACKが大きく占めていたのですが、それも軽四に替わって駐車スペースは半分に、逆にかみさんの管轄下に在る庭の草花、気取って言えば、ガーデニングの面積が拡大してきました。南側ベランダ・専用庭は全面的にかみさんの占領下に置かれたことになります。

ベランダ_4 私の部屋は、夏場にかすかに朝日が入る、北側の一室。窓外の北側ベランダは、辛うじて…私の管轄下に在り、木板を張ってウッドデッキにして室内とベランダの床の高さを同じにしたり、プライバシー保護の為に、単に葦簀(よしず)を立てかけるのではなく、軒先に葦簀をつるしたり、ベランダのフェンスをルーバーの目隠しで覆ったりして、私はその出来映えに自己満足しているのです。ご近所を見回すと、今や子供さんは独立してしまい、多くの世帯が夫婦2人だけ、お一人の場合もあり、南側の部屋だけを使用し、ベランダ_2北側は部屋おろかベランダまで物置・納戸(?)にしている方が多いようす。況んや陽の当たらないベランダ下の敷地に目を向けるような人はおられません。我が家も二人暮らしなのですが、ガーデニング好きのかみさんは北側にも侵入、ベランダ下の敷地には、風で運ばれてきた種から勝手に育ったものも含めて、オキザリス、クリスマスローズ、ホトトギス、バラン、ぎぼうし、ナンテンから薬味のミョウガ、シソまで、日陰の身でありながら、元気に育っています。

 昔、八王子の山の中、雪の中に青々と茂る植物を見つけ自宅で繁殖させた植物で名前はわからず、我々夫婦の間では「北側のはちおうじ」で通じるのですが…、木製のプラーターカバーを自作、目隠しとして北側ベランダ・フェンスに設置していたのですが、昨年、10年に一度の大規模修繕工事が実施されたのを機に撤去を余儀なくされました。船舶デッキ用の堅い木材を使ったのですが、長年の風雨で朽ちてしまい、再利用の価値なしとして廃棄処分にしてしまいました。夏秋3ヶ月に及ぶ工事期間中は、外壁塗装のために建物の回りに足場を組む必要があり、夫婦2人で、南側専用庭・北側共有部分の草花はどうしようもありませんが、かみさんが育てた南側ベランダの鉢植えの数々、そして私が育てた「北側のはちおうじ」を北側の避難場所に、ベランダのデッキは分解して室内に移動させました。

プランター設置案_1プランター設置案_2

 その間、廃棄した「北側のはちおうじ」のプランターカバーをどうしようか、あれやこれやと考えた挙げ句に、従来の重量の伴うカバー自体を断念、プランターのみ、プランターむき出しの設置方法を考え出すに至りました。軽量化されフェンスへの負荷も大幅に軽減されたはずですが、一つだけ難点があります。厳密に言えば、ベランダ及びベランダ・フェンス等の共有部分にプランター等を設置するのはルール違反で、特に消火活動の妨げになる…ということで、検査がある時は移動させなければなりません。一階ですよ…、少しは大目に見てくれますように…。
ベランダ-3
 10年後の次の大規模修繕工事、同じ一階に住んでいたとしても、これだけの鉢植えを移動させるのは到底無理な話です。

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May 13, 2017

「同じ釜の飯」共同体

 昔々、新入社員の頃(1972〜73?)、往々にしてその頃に幹事を任されるのですが、社員旅行が嫌でした。休みであるはずの土・日曜日を使って、月々の給料から積み立てて、宿泊先の旅館かなにかに到着して一風呂浴びて宴会となると、偉い人が「今日は無礼講で…」とか云いながら、チャッカリ、会社の序列そのままの席順に座ります。修学旅行もある意味そうなのでしょうが、それまでの日本人は全体的に貧しくて旅行もままならず、年に一度ぐらいは、会社の補助も受けて旅行に出かけよう、というのが起源でした。しかし、戦後の復興が一段落して、個人所得も増えてリクレーション、レジャーの時代に入ると、その社員旅行の意味も消滅しまます。経営者・管理者側からすれば、一泊二日の短期間にせよ、寝食を共にして、「同じ釜の飯を喰って」、一体感・仲間意識の昂金色夜叉揚を意図したものでしたが、会社という利益や機能を追求することを目的とする利益社会・機能体組織(ゲゼルシャフト Gesellschaft)と地縁や血縁、友情で深く結びついた共同体組織(ゲマインシャフト Gemeinschaft)とは本来矛盾・対立するものでした。皆さんもご存じの社会学の常識です。東京で云えば、社員旅行専門の感あった熱海温泉に閑古鳥が鳴き始めたのもこの頃だったと聞きます。

 団地やマンションなどの集合住宅に住む理由は、単に条件を満たす一戸建てを買うだけのお金がないというだけでなく、職場とその行き帰り(私の場合、往復4時間でした)だけで精一杯で、近所づきあい、祭や町内会など、煩わしい地域社会とのつながりを嫌ったことも大きな原因の一つでした。現に私などは、父親として子供達の通った小・中学校にも行ったことがなく、地元の人だけで盛り上がっているお祭りにも行ったこともなく、同じ階段の住民に挨拶するだけで、もちろん友人おろか知人さえも数えるほどでした。私の場合は、40歳頃に関西からやって来たのもその理由か、東京本社という疑似共同体組織(実は機能体組織)の深みにはまり込むこともなく、かと云って、自分の住む地域共同体に溶け込むことも出来ませんでした。転機は団地管理組合の理事を経験したことで、それまでは管理組合の広報紙さえも読んだこともなく、況んや総会・集会にも出たことがなかったのですが、その贖罪感もあって副理事長を2年間勤めたお陰で、「住めば都」の通り、この団地・地域への理解・愛着が一層深まり、同時に理事会を通じて団地内の多くの住民とも知り合うことが出来ました。

 多くの住民が地方出身者、家を継ぐべき長男ではなく、既に現役を退き、今は嘱託かアルバイト、子供達は既に独立、故郷には既に両親も亡く、ふと気がつくと居場所は此所しかないのです。一方では、高齢化により、従来行われてきた理事の輪番制によるよる入れ替えは難しくなって来ました。我々も理事会の定員を削減して、多くの民間集合住宅で見られるように、管理そのものを外部委託することになって行くと思われます。中層(3・4・5階建)故エレベーターはなく、極近い将来、上階部分の住人が一端足腰が弱まって買い物にも出られない、生活自体ができない、最悪の場合は孤独死の可能性も他人事ではなくなって来ました。

 冒頭の社会学の用語:「共同体組織(ゲマインシャフト Gemeinschaft)」とほとんど最期の晩餐同意義の用語として「(地域)共同体(コミュニィティ Community)」があります。赤の他人の集団ではなく、何らかの「共属感情を持つ人々の共同体」の意味で、ラテン語の「munus (municipal(=地方自治体の、市町村の)と近似 )」から派生した単語で、「贈り物、賦課、任務、義務、成果、好意、祝祭時の演出」の意味で、これが接頭語の「co(相互の、共同の、共通の)」が付いた「comunitas」が語源です。commune(コミューン)、communism(コミュニズム 共産主義)等はすべて「共有する」の意味を含み、communication(コミュニケーション 伝達・通信)は単に脳の中のイメージを伝達(explanation)するのではなく、自分の脳に在るイメージと相手の能にあるイメージを「共有する」という意味です。

 ある人と親しくなりたい、その人のことをもっと知りたい…、そんな時、時間をかけて議論するよりも、一度でもいいからその人と食事を共に為た方がはるかに有意義でしょう。「飲食を共にする、共食」は家族に始まり、大きな「共同体=コミュニィティ」に広がります。限りある食物を仲間と分け合うための儀礼、タブー(禁忌)、テーブルマナー(食事作法)に繋がっていきます。ユダヤ教の共食儀礼、それから派生したカトリックのミサ=「主の晩餐」、日本では冒頭の社員旅行でも述べた「同じ釜の飯」、「一宿一飯」に繋がります。食欲という人間の根源的な欲望を満たすことを共有することで、お互いの(例えば客との)距離が近付き、間に横たわる壁は低くなり、飲食を共にする回数が増える毎にコミュニケーションは良くなるのです。「munus」の意味がこれです。

 南北朝(1336-92)の動乱以降、自立した農民の団結して「惣」という村落共同体を作り、有力名主を中心とした「寄合」と呼ばれる自治的決議機関を設けた。泉州堺、博多では「会合衆(えごうしゅう 納屋衆)」と呼ばれる有力商人による自治が行われ、今日云う民主主義の概念に近い、近代的自我が近世(江戸時代)の到来を待たずして見いだすことが出来るのは驚きと云ってよいでしょう。天下人秀吉は堺の力を削ぐために自治の象徴である外堀を埋め、「会合衆」を解体、彼等を大坂に移住させ、その場所が「堺筋」となったそうです。堺の「会合衆」出身の利休は「茶の湯」を完成させたが、「茶の湯」そのものが「飲食共同体」であり点前の所作は「食物儀礼」でした。この辺りが利休の死に深く関係しているようにも思えます。

BBQチラシ 6月始め、管理組合理事会の同窓生有志でバーベキューの予定です。地域の防犯・防災、住民の高齢化に伴う諸問題を解決していく一歩はコミュニケーションを豊かにするコミュニティ作りです。人々が集まって車座に座り、一つの食物を分かち合う儀礼=「食物儀礼」をもたない共同体はこの地球には存在しない、といいます。若い時にはあれだけ嫌っていた「飲食共同体」、年を取ると勝手なもので、バーベキューが楽しみです。

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April 23, 2017

散歩の途中<<21>> 武州小山田荘

先日のNHKの番組:『日本人のおなまえっ!』で「山田」さんが日本人の代表的な苗字として取り上げられて小山田荘鳥瞰図_2いました。覚えやすい名前として、デビュー当時、そこに目を付けたであろう往年の新人(?)歌手、山田太郎まで現れました。この地にやって来た当初は、「小さな」+「山の」+「田んぼ」とは、何と薄っぺらい、あんちょこな地名なのか、と思ったこともありましたが、後に、平安時代の荘園、「小山田荘」に由来し、平安時代末期には、平氏である秩父有重が支配地の小山田にちなんで小山田有重(12世紀末)を名乗ったことを知ります。

 町田市(人口:43万 東京23区、八王子に次いで大きな街)は明治の一時期までは神奈川県に属し、電話市外局番が同じで、神奈川中央交通バスが走っていたりと、その面影が残っているだけではありません。多摩丘陵の一角にありながら、町田市の北部に位置し、大きな面積を占める小山田地区は、隣接する八王子市・多摩市との間を、大きな壁・段差で断絶されており、むしろ西の神奈川県との交通・交流が盛んであったようです。 〜 赤駒を山野にはがし捕りかにて 多摩の横山徒歩ゆか遣らむ 〜 『万葉集(7〜8世紀)』に歌われる「多摩の横山」がそれです。

かかし170 多摩丘陵は「横山」で急激に落ち込み小山田地域(野津田、小野路、図師)に至ります。鶴見川はここを源泉とし、東京湾に至る流域は豊かな水田耕作がされていたことであろうことは、食器用,煮炊き用,貯蔵用など,様々な弥生土器が出土したことで容易に想像出来ます。多摩丘陵・鶴見川流域の野津田、小野路、図師は「田方」と呼ばれるのに対し、市の南側(相模原市に隣接)は相模台地に在り「岡方」と呼ばれ、水田はない。近世までの米流通社会においては、「田方」に有力な農家が現れたのは偶然ではないでしょう。

小山田の風景 稲の水田耕作は弥生時代の前期には本州全土に伝播したと考えられています 。今の私達には田んぼ・水田と言えば一面の水田をイメージしますが、平野部を水田にするのは、一つ一つの田んぼをわずかな高低差で繋ぎ、全ての田んぼを豊かな水で満たしておくには、高度な測量・灌漑技術の蓄積が必要でした。

 ここで話はそれますが、非情に面白い本を読みました。樋口清之著『梅干と日本刀』で、〜日本人は最高!、驚くべき日本人!〜など、自虐史観の裏返しかと思ったりしたのですが…、違いました。中国人は「耕して天に至る」と言うが、これは畑だからで、水田の日本は逆、「耕して平地に至る」。日本の段々畑は、山から水を引いて、まず高いところに田を作り、上から下へ田が広がって行きます。これが、山田・本田・元田と、日本では多い苗字となり、下の下田・平田は後に分家したものと言う。インドネシア以外に世界に類がない合理的な耕作方法、焼き畑開墾して炭・灰のアルカリで土壌の酸性を中和。そこへカブ・ヒエ・豆をまいて収穫する(=「畑」)。耕しているうちに水平になり、木の根も腐り、妨害物のない耕作地となる(白い田=「畠」)。完全に水平になって水が引ける(=「田」)。私だけが知らなかったのか、余談ですが、「田」は漢字ですが、「峠」・「榊」・「働」と同じく、「畑」・「畠」は国字=和製漢字だそうで、「畑」→「畠」→「田」という文字は水田開拓の順序を証明していると言う。
 
 小山田は多摩丘陵という小高い丘陵地帯に多くの谷戸があり、鶴見川の豊かな流れを利用して、谷戸田から谷戸田へ水を繋ぎ、今日の豊かな水田地帯を作り上げました。この地では、苗字ではなく荘園の名、地名として存在し、後にこの地を支配した人間=秩父有重が地名を冠して小山田有重を名乗ることになります。自分の住む小山田桜台、「武州小山田荘」に変えたらいかがでしょう。すこし誇らしく思ってきました。
※ 参考資料:樋口清之著『梅干と日本刀
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April 12, 2017

犬一匹 One Dog Night

 団地管理組合規約により犬・猫を始めとするペットの飼育は禁止されていましたが、我が家ではその「掟」を破って犬を飼ってきました。去年の組合総会で、ペットクラブによる規制を条件に、ペット飼育が認められることになり、別に他人様の目を避けている訳ではありませんが、晴れて「隠れキリシタン」の身から解放されることになりました。余談ながら、今までペット「反対」の声が大きく、これをひっくり返すのは難しいとの予想でしたが、総会の結果は「賛成」と飼育が認められることになりました。予想を覆す結果の種明かしは、住民の考えを聞くアンケートでは「反対」の声が大きいのですが、その年の理事会で「賛成」意見が過半数を占め、これが総会議案として提出されると、どんな議案でも(?)ほとんど間違いなく可決されます。理由は、アンケートに答えた住民の多くは、総会に出席せず、議決権さえも行使もせず、理事長宛の委任状を提出するからです。もちろん、私は結果にほくそ笑んだのです。

 かみさんは昔,冬場には必ず足温器がなければ眠られないぐらいの冷え性でしたが、更年期を境にした体質の変化に加えて、早朝1時間半、午後1時間半にも及ぶ愛犬の散歩という十分すぎる運動量のお陰で、体質が大きく変化したのか、今や冷え性に悩むことはなく、久しく足温器も見ておりません。愛犬:モモ、ビーグルの11歳、メス、体重9kg、人間で言えばそろそろ私達夫婦の年齢を追い越してよいはずですが、白髪は増えたものの、毛づやもよく、体力はまだまだ衰えを見せておりません。その愛犬と私を置いて、かみさんはまだ健在の母親の面倒を見に、明日から1週間、実家に行ってしまいます。

momo 愛犬:モモにすれば、散歩はかみさんと行くことに決めているのですが、彼女が居ない時は選択の余地がありません。私とモモは小山田緑地の山中(?)を4〜5kmは歩くでしょうか…、彼の地には、時々、本格的なハイキングの格好をした都内からの来訪者が地図を手にやって来ているのを目にしますが、彼等からすれば二人、私と愛犬はどのように映るのでしょうか。小山田有重の居城(現大泉寺)、万葉の横山の道、八幡太郎義家の「矢幹八幡宮」、護良(もりよし)親王・淵野辺義博の「縁切り榎木とわかれ橋」小山田高家に因んだ「忠生」地区、藤沢周平『蝉しぐれ』のタイトルバック「五反田谷戸の畦桜」、シャクナゲの群生「秘密の花園」、奥州古道「代官坂」、全ては愛犬:モモと二人で、あるいは三人で行ったところです。もし愛犬:モモが我が家に来なければ、こんな所まで行くことはなかったことでしょう。モモに感謝です。

 実は、「隠れキリシタン」にはもう一つ意味があります。今まで長い間、犬を飼っていない人、犬が嫌いな人の前では話題にしてはいけない、禁句のようなものと思っていました。そんな私に、かみさんが「新聞読んだ?」と、聞いてきます。

 『愛犬の暖かな添い寝』というタイトルの投稿でした。 投稿者は男性、毎朝出勤前に犬を連れて散歩に行くことが日課で、そのお陰で風邪もひかなくなったが、還暦を過ぎてからはやはり歳か…、久しぶりに寝込んでしまったそうです。問題はこれから…。「すると、いつもは妻と寝る犬たちが、私の枕元に来て付き添って寝てくれた。その暖かいことと言ったら…。心まで温かくなるものであった。 風邪の熱でつらい中、幸せなひとときであった。」
  今時、「犬は家族の一員」とばかりに、多くの人は室内で飼っているでしょうが、最近読んだ本曰く「愛犬との付き合いは、恋人ではなく、友人として」とあり、寝るところまで一緒というのは行き過ぎでは…、人に相談しようにも、こんな話しを出したら白い目で見られるのではないか…と、悶々とした日々を送ってきた、というのは大げさですが…、これを読んで安堵しました。

 続けて、男性は昔、エスキモーは冬の寒さを「今日は犬5匹の日だ」「いや8匹だ」などと、犬の数で表現するという話しを読んだと言う。そう言えば昔、「Old Fashioned Love Song」のヒットを飛ばした「スリー・ドッグ・ナイト Three Dog Night」というバンドがありました。

 明日からはかみさんがいません。しかたなく、愛犬のモモは私に添い寝してくれるはず。本格的な春はまだ、今日は「犬一匹」でしょう。

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January 26, 2017

散歩の途中<19> 代官坂

 過去何回か(?)ご紹介している小山田桜台団地ですが、小田急町田駅に出るのにバスで30分、本来は15分弱のJR横浜線淵野辺駅に出るべきなのでしょうが、如何せん朝夕の通勤・通学時間を除けば1時間に1本しかありません。しかし、2027年、東京・名古屋間開業予定の中央リニア新幹線が着工(?)、品川を発車した最初の駅は隣町:相模原市橋本らしく、それにともなって、現在、唐木田まで来ている小田急多摩線を延伸、横浜線相模原駅に接続、その間に2〜3駅が新設されるそうです。小田急延伸・モノレールの構想は、この団地開設の30年も前から言われている話、10年後、近くに新駅が出来たとしても、その頃には外出する意欲もなくなっていることでしょう。

 「陸の孤島」状態はしばらく続きそうですが、そのお陰で、東京都に在りながら単なる昭和の里山風景どころか、遡って、平安後期から鎌倉にかけての武士勃興・政権確立の舞台、できる限り直線に配した「鎌倉街道」、さらに遠くの古代、阿倍比羅夫・坂上田村麻呂が東北に向かい(?)、防人が横山をはるか九州を目指して下って行った痕跡が「奥州古道」として残っているのは奇跡ではないでしょうか。
鳥瞰図
 団地の掲示板の言葉、「水彩画を楽しんでいます。ご一緒にいかがですか。」に誘われて水彩画同好会に入会しました。つい最近まで高校で美術の先生だった方、かつてそれなりの先生について絵を学んだ方など、本格的に水彩画をやっておられるようで、持っておられる道具類(絵の具・筆)も違います。彼等の水彩画に比べれば、私の絵は極端に言えば線画、色付けも単純、持ち物も友人にもらった絵の具は別に、筆は絵手紙用の水筆一本だけ。そもそも彼等のサイズがA4であるのに比べ、私のそれはA5あるいはF0と彼等の半分です。私の絵を見た一人が、「こんな風景がお好きでは?」と写真を見せてくれます。

 数年前、町田市と多摩市を隔てる大きな段差(多摩丘陵、『万葉集』で言う「多摩の横山」)を越えて小田急多摩線終点駅:唐木田駅に至る道路が完成、路線バスはないものの、車で行けばわずか10分、唐木田駅発の急行に乗り、代々木上原で本線急行に乗り換えて新宿に出る新ルートが発見され、時間的にも金銭的にも、都内が近くなりました。唐木田に至る道路の途中で目に入るのがその写真の風景です。私だけでなく、その彼も、おそらくこの道を走る多くの人にとっては大いに気になる景色なのでしょう。早速描いた絵がこれです。
170117小山田代官坂辺り
 ただものではない立派な門構えの農家、その敷地の裏から「多摩の横山」へ通じる「代官坂」が始まります。下小山田と上小山田のほぼ境、標高が上がるにつれて突然小さな谷戸に畑の畝が現れるたかだか1キロほどの坂にすぎません。鶴見川、結道川、馬駈堀など水の便良い麓では田んぼが広がる「田方」と呼ばれる代官坂地蔵のに対し、この辺は「岡方」と呼ばれるそうです。耕耘機など、小型の農業トラクターなどが辛うじて通行出来る道幅で、終末のハイキング客か地元農家の人しか通る人もおらず、「奥州古道」の痕跡を深く残す道と言えるでしょう。

 さて、その名前、「代官坂」とは、どこからやって来たのでしょうか?甲斐、武田氏が滅び、かつてその家臣だった大久保長安が徳川家康に仕官、一族郎党を連れて八王子に移住、「千人同心」を組織、江戸〜八王子〜甲府を結ぶ将軍の脱出路として甲州街道を整備、佐渡・院内・石見を統括する金山奉行として権勢を振るいました。当地境川流域(淵野辺・橋本)あるいはこの下小山田・上小山田にも少なからず、甲斐以来の彼の郎党の子孫が住んでおり、長安の冬至の官職名:八王子代官頭に因んで「代官坂」と呼ばれるようになったのではないかと云う説があります。近くには「大久保台」の地名、八王子には「野猿峠」と言う地名があり、長安の出自が金春流猿楽師であったことも合わせて考えると想像力も膨らみます。「陸の孤島」も悪くはありません。 
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November 21, 2016

散歩の途中<18> 晩秋の尾根道

                 
 夏から一足飛びにやって来た今年の秋。去年は、道ばたに落ちている栗を拾って帰り、よそ様の土地に入り込んでいるわけではありませんよ、念のため…、何回か栗ご飯をごちそうになるほどの収穫があったのですが、今年は異常気象故か、栗ご飯などとんでもない、いじけたような栗しか収穫のない秋でした。

影 7月に始まった団地の大規模修繕、外壁塗装の為に足場を組み、それを黒の網状のシートで覆われて、毎日が雨か曇りのようなうっとうしい毎日で病気になってしまいそうな半年でしたが、私の棟も終了となりやれやれです。しかし天気は残念ながら雨、せっかく足場もシートも取り払われたのに…と悔しい一日でしたが、夕方になると雨が止み、こもりっぱなしにも耐えられず、最寄りの散歩コース、尾根道を歩くことになりました。日はすっかり西に傾いて、尾根道を東へ向かって歩きます。緑の帯は極彩色に彩られ、雨に濡れた落ち葉が地面を覆い、いつもとは趣が違います。雨雲がまだ残る、夕暮れの尾根道、明日の朝はきっと晴れ、もう一度来ることにしましょう。

 間もなく冬のモノトーンに変わってしまう晩秋の景色、今年の秋は短く、木々の緑の多くは茶・黄・赤の極彩色に変わります。夕方に見る尾根道も美しいが、良く晴れた朝、ほぼ真横から当たる日を受けて輝く景色を見るのもまた格別です。今朝、窓の外は6ヶ月ぶりに明るい景色です。コーヒーも飲まず、昨日夕暮れに歩いたコースに向かいます。時刻は7時過ぎ、雨上がりの朝、空には雲一つありません。

 私の人生も既に秋、極彩色と言えば狂気ですが…、少しの彩りある晩秋を過ごすことが出来るのでしょうか。次に、冬至が来ると、また新しい春がやって来ます。季節は巡りますが、人生は一つの方向に向かう過程に過ぎません。ふと、そんなことを考える朝の散歩です。
 
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September 04, 2016

散歩の途中 <17> 「内の御前社」、通称「小山田神社」

160821小山田神社_蓮田 「内の御前社」、通称「小山田神社」は散歩の、とりあえずの…、折り返し地点、目的地です。自宅から1キロ少し、歩いて12〜13分、単に折り返して帰ってくるのであれば30分コースです。この辺に住む住民のいわば「お散歩入門編」、ここを経由してさらに東に広がる小山田緑地に入ることが出来ます。

 夏になると、毎朝の如く、7時には訪れることになります。というのは、昔は田んぼだったのでしょうが、今は稲に代わって蓮が植えられ、7月に入ると蓮の高さが人間の背丈ほどになり、次々と開花します。朝露が転がる蓮の葉、みるみるうちに育ち、つぼみが大きな花に変わるのは神秘的でさえあります。泥の中から生まれ、気高く、清浄な美しい花を咲かせ、大きく広がり水を弾く、凛とした葉の姿が、知恵・慈悲の象徴としてヒンズー教、これを受け継いだ仏教で意匠されます。夏の間、「ハス祭り(7月23日〜24日)」をピークに、神社は蓮華の大海に浮かぶ小さな島に変貌します。

小山田神社_1 小山田有重(1171〜74)は関東八平氏の一派、秩父平氏(=秩父党)から出、小山田荘の開発領主(別当)になってこの地を支配、近くの大泉寺の地がその居館であった。小山田別当有重の妻は宇都宮(八田)宗綱の娘、この小山田神社は戦前までは「内の御前社」と呼ばれ、有り重夫人を祀ったと言い伝えられてきました。拝殿の中にある扁額には「内御前宮」とあるそうです。 

小山田神社_2 この地に住んで15年以上、週に2回(?)は小山田神社を訪れますが、櫓が組んであるのを見るのは初めてのことでした。神社近くの町内掲示板には「小山田神社例祭 9月3日」とあります。

 昨日、夕食後、台風の影響か…、雨がポツポツし始めた中、カメラを持ってお祭りに行ってきました。いつもと違って、夜の小山田神社も良いものです。賑やかな舞台、はしゃいだ子供達の歓声、酒の入った大人達…、せまい境内はごった返しています。雨も心なしか冷たく感じられ、しらふの私は帰ることにしましょう。

 名残おしい今年の夏、さようなら!

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July 13, 2016

散歩の途中<14> 八王子城跡

 去年10月、Ikeさんと一緒に訪れた八王子、産千代稲荷神社の境内に建設中だった大久保長安の資料館(?)がそろそろ完成の頃では…、とサイトを探したが見つからず、長安資料館(?)というのも私の勘違いだったかも知れません。ということで、急遽行き先を八王子城跡に変更しました。

 後北条氏の三代目:北条氏康の三男:氏照は、小田原-上野(現在の群馬県)間交通の押さえ:滝山城(八王子)を本拠とした。1569年、小田原を目指す武田信玄軍に三の丸まで攻め込まれ、落城寸前までとなった。これを機に(?)八王子城(標高445m、比高240m)を築城、1587年頃までに本拠地を移しました。

虎口 最近整備されたと聞く、城主:氏照の居館:「御主殿跡」を目指します。大手門跡から曳橋を渡って御主殿の出入り口:虎口を見上げる石段にどこか、確かに過去に見たことのある記憶が蘇ってきます。階段の一段一段が高く、勾配もきつく、圧倒されるように大きく見えるのは安土城のそれです。既視感(デ・ジャブ)ではなく、八王子城築城の際、氏照は家臣が信長の安土城を訪問してこれを参考にしたと、見学後のガイドさんの説明がありました。私の感覚も捨てたものではありません。

 1590年、北条氏攻撃に総勢22万の兵力を動員、その為に鴨川に三条大橋を架設したと言います。先陣を命じられた家康に続いて諸大名が東海道を東進、秀吉自身は3月1日に京都聚楽第を出発、27日、本陣の三枚橋城(現在の沼津市)に到着、既に最前線では交戦が始まっています。箱根の西坂に位置する山中城は早々に陥落、4月1日には秀吉が箱根峠に達しています。4月3日には豊臣軍の先鋒は小田原城へと迫り、小田原城包囲が始まりました。一方、前田利家・上杉景勝等の北国勢は碓氷峠を越えて上野に入り、4月20日には松井田城(安中)を開城、城主:大道寺政繁は豊臣方に降り、北条方諸城の案内役として豊臣方に協力しました。これを皮切りに、上野・下野・相模・武蔵の諸城は次々に降伏開城します。

 秀吉に「実力で落とした城がない」となじられた北国勢は、最後に残る八王子城を徹底的に攻撃することを決意したといわれます。

 上野の最前線に位置するの松井田城(安中)の大道寺政繁が豊臣方に降り、それ故か、次に控える平井城(藤岡)の守将:平井無辺も凋落され、次々と将棋倒しとなった観があります。その平井無辺は普請奉行で八王子城の構造を熟知しており、6月23日、前田・上杉・真田の北国勢(1万5千)は攻撃を開始、彼の案内で上杉軍が本丸頂上を占拠、城は一日で陥落しました。犠牲者は千余名、あるいは3千とする説もあり、60余名の婦女子捕虜は見せしめのために相模川から舟で小田原に護送されたそうで、この八王子城落城が決め手となって、小田原城は開城します。八王子城主:氏照は小田原に籠城中の兄:氏政と共に自死、北条氏は滅亡しました。

 後北条氏の祖:北条早雲の出自は備中伊勢氏、幼くして禅僧の教育を受け、京の大徳寺で修行を積み、公家衆とも交流した教養人でした。信長・秀吉に先立って領内の「検地」を実施、『壁書(へきしょ)二十一条』を定め、御家人・領民の生活規範を現し、質素・倹約に務めた経済家でもあり、戦国時代を切り開いた人でした。小田原から関八州にかけては、全国で一番地租の安いところであったが、これは早雲のお陰…、とは勝海舟の言(『氷川清話』)です。関東に入る家康は、本拠地を早雲が造った小田原にすべきか、あるいは江戸か、大いに迷ったはずです。家康は、領民に慕われた早雲の築いた小田原ではなく、江戸を本拠地に選び、旧北条氏領の多くを幕府直轄・天領としました。加えて、井戸水に海水が含まれる…江戸の開発に不可欠な飲料水の確保の為に、早雲の建設した小田原城下の水道施設をこの江戸にも採用しました。

 これほどまでに慕われる早雲、後北条氏なのに、何故、いざ決戦と言うときに、次々と将棋倒しの如く、裏切りにも似た降伏開城になったのか全く判りません。例外的に、多くの犠牲を出した八王子城攻めとは対照的に、石田三成軍の「水攻め」を受けた忍城(行田)はよく守り、ついに降伏するのは、小田原城陥落後の7月16日でした。
八王子神社
 急な山道を登ること40分、八王子城本丸跡に至ります。すぐ下に「八王子権現」を祀った八王子神社(廃屋)が風雨にさらされています。仏教の守護神である牛頭天王には8人の子(八王子)がいるとされ、市名の由来です。
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January 02, 2016

もらった年賀状を前に

 
紅白幕_1

新年あけましておめでとうございます

三猿像(2016年年賀状)

  風もなく穏やかな新年です。平日とは違って、さすがはお正月、年賀状の配達は朝一番に行われるらしく、私もほとんど例年通りの年賀状を頂きました。毎年、出す枚数を減らしているのですから、自ずともらう枚数も減るはずですが、それでも、今年はあまり減っていないようです。私は、どちらかと言えば、年賀状を無用と考えています。最近では『筆まめ』などのソフトで作成される人が多く、この時期になると、どこの家電量販店のチラシを見ても、その目立つところにはインクジェット・プリンターの広告、それも本体は安く、機種によっては1万円を切り、逆にインクは馬鹿高く、加えてすぐなくなる超消耗品です。年賀状を除いて、写真以外に、どんな時ににカラー印刷を使うのでしょうかね。日常に使う場合、ほとんどの場合、白黒あるいはグレーで十分、モノクロのレーザープリンターがランニングコストも安く、インクに当たるトナーも、家庭での使用を考えた場合、1年は持つのではないでしょうか。

 年賀状と言えば、今年は「申」年ですが、私はこの干支も、加えて年号も嫌いで、干支はどうでもいいのですが、年号は廃止すべきものと考えています。昭和の時代は「25を足して、あるいは引いて…」、と何とか来たのですが、これが平成の時代になると全く判らないようになり、以来西暦だけでやって来ました。しかし、行政・法律を始めとする公の多くの場面に於いては、それが法律によって決められている訳でもないのに、和暦:「平成」を使わざるを得ないというのが事実でしょう。さすがに、生年月日記入欄に(明)(大)はなくなったかも知れませんが、なぜ西暦で記入させないのでしょうかね。「干支」「元号」の本元、中国では1949年の国慶節(建国記念日)以前はともかく、共産党政権下の中国では「干支」はともかく「元号」ではなく、西暦のはずです。因みに、共産党が政権を取って中華人民共和国を樹立、蒋介石国民党は台湾島に追いやられ、中華民国は台湾省一省だけの国(?)となり、今でも大陸反攻を建前としています。共産党政権が国名「共和国」を使ったのは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)においてもしかり、たぶん…、両国は西暦を使うのではないでしょうか。

 その中国近代における歴史的事件の一つ、「義和団の乱(1900)」は既に紹介しましたが、中国の国干支から「庚子事変(こうしじへん)」とも呼ばれることもあります。映画:『北京の55日 55 Days At Peking(1963)』、同名のテーマ曲はブラザーズ・フォーが歌っていましたが、日本語版はあの「8(エイト)マン」克美茂が歌っていました。「時は1900(いっせんきゅうひゃく)年で始まります(オリジナルは The year was 1900(nineteen hundred))。これはハリウッド映画だから違和感ないのですが、70年前後、鶴田浩二が特攻隊員の出撃前の心境を朗読したことがありました。「昭和19年」で始まったと思いますが、これを「1944年」と西暦で云えば、時代もぴんとこないし、悲壮感も半減したことでしょう。年末の恒例の赤穂浪士討ち入りの日、「時は元禄十五年十二月十四日」で始まるからかっこよく、様になるのですが、これが「西暦1703年1月30日」では興醒めでしょう。ついでに、もし墓石や卒塔婆、俳句や短歌も西暦で書かれていたらいかがなものか…。

 思いついた話もこれまで…、お正月二日目、取り立ててやることもなく…、かみさんともも(愛犬)の3人、ホームセンターの安売りでテニスボール1箱(5ダース)を買い、近くの公園で梅(蝋梅)の香りを楽しんで来ました。
蝋梅
 もう一つ思い出しました。「今年はお会いしたいものです」は常套句、案の定、彼の年賀状の絵は「猿」に変わりましたが、コメントは相変わらずです。私の出した彼宛の年賀状のコメントは「今年も、たぶんお会いしないと思います」でした。
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July 18, 2015

散歩の途中<11> 蓮田の中の小山田神社 

 絵を描き始めて3年になりますが、ほとんどの絵は、ハガキよりも大きく、A5よりも小さい、F0サイズです。これに小一時間もかかるのでは、集中力が持続するはずもなく、現地で完成するのは無理な話です。写真を撮り、仕上げは自宅に帰って、その写真を見ながら完成する有様です。恥ずかしい話ですが…、年とともにトイレの頻度も高くなり、そんなに長い間一カ所にたたずんで居る訳にも行かない…、というのが正直な話です。先日、こんな本を見つけました。山田雅夫著『15分で描く海山のはがき絵36景 』、ただいま勉強中です。

 そんな訳で、早速、実際に試してみるべく訪れたのが「小山田神社」です。手頃な散歩コースなのですが、この時期、神社の周りの蓮田の花が咲くのは何時か、何時か…と、普段はうらさびしい田園地帯に訪問者が急増します。その前に、台風11号が日本海に抜けた昨日の夕方行ってみると、やっぱり開花はまだちらほら、私以外の訪問者はありません。鳥居の横に立って目前の蓮を描いたのがこれ…、勉強の成果は未だ出ていませんが…。
150718_小山田神社蓮田
 「嶽の内御前神社」とも云われ、平安末期、此の地「小山田の庄」を有した小山田有重の奥さんが祀られているそうで、大きな蓮田の中にぽつんと鎮座しています。その時代、馬の放牧が盛んで、「馬場」、「馬駆」、「牧畑」などの地名にその痕跡があります。一方では、この辺りから横浜にかけて、丘陵地が雨や川によって浸食されてできあがった谷が「谷戸(やと)」と呼ばれます。雨は丘陵や尾根を伝って谷戸に流れ込み、湿地を作ります。人々はこの湿地を利用して水田を作ってきました。稲作が大規模化されるのは後世の話、それまでは、むしろ谷戸の高低差を利用した水利用が稲作に適してていたそうです。そんな稲作も、寄せる都市化に抗することが出来ず、神社の周りの田んぼは町田市の借り上げとなり、広大な蓮田として運営されています。

 下は、昨年の今頃に描いた絵です。来週末には満開の蓮を見ることができるはず…、お近くの方には一見の価値があります。
140715_蓮田の小山田神社_2
140715_蓮田の小山田神社
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March 27, 2015

散歩の途中<10> こぶし公園

 季節の回り舞台は巡ってきました。去年は、『蝉しぐれ』のタイトルバックの「五反田の畦桜」、続いて「秘密の花園」のシャクナゲの群生には感激したのですが、今年はこれに加えてもう一つ、「こぶし公園」をご紹介しましょう。

 「こぶし」は「辛夷」あるいは「拳」という漢字を書くそうですが、中国語で「辛夷(シンイ)」は木蓮(モクレン)を意味し、日本語の「拳(こぶし)」は子供の握りこぶしに似ていることに由来するそうです。「辛夷」、からい・つらい東方の未開人・野蛮人、という漢字が気になりますが、「辛」は同音の「新」につながり、植物が枯れて新しい世代が生まれようとする状態を意味するそうです。ひょっとしたら、東方の野蛮な未開地から渡来してモクレンになったとか…?、日本の「こぶし」が原産かも知れませんよ。

 遠くから見ると桜に似て、桜よりも早く咲くことから北海道では「ヒキザクラ」、「ヤチザクラ」、「シキザクラ」などと呼ばれ、これが咲き始めると田植えや種まきを始める地方もあり、「タウチザクラ」、「タネマキザクラ」と呼ばれるそうです。

 「五反田の畦桜」及び「秘密の花園」は少々遠いのですが、この「こぶし公園」は団地の中、自宅から歩いても10分ぐらいでしょうか。
こぶし公園

 今日あたり、コブシはかなり散っているかも…、次は桜、シャクナゲと、舞台に立つ主役も替わっていきます。
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September 29, 2014

9月も残りわずか1日

 肝心の仕事は全くの暇…、それ以外は稀に見る忙しい年で、地域管理組合の副理事長の職を引き受けて、隔週末の理事会出席、その議事録作成、凡そ月刊の会報発行しなければなりません。加えて、地域内で発生する諸々の事案に対応しなければなりません。

 野良ネコに餌をやる人がいるらしいのですが、通報者の言うとおり、これは全く無責任な動物愛護…と、ここまではどこにでもありそうな話ですが、これからがこの管理組合ならではの出来事で、タヌキを餌付けしている人がいる、との報告には驚いてしまいます。実は、数ヶ月前、かみさんが大声で私を呼びます。駆け寄って、指さす方を見ると、前の棟をタヌキが横切って走り去って行くではありませんか。話には聞いていましたが、目の前十数メートルを過ぎ去ったのは、明らかに犬・ネコとは体型の異なる、タヌキでした。
小山田荘鳥瞰図_2
 過去に幾度か触れましたが、この管理組合(190世帯)の属する小山田桜台団地(1500世帯)は、いいように云えば里山が残る、当地方独特の呼び名である「谷戸」が多く見られる自然豊かな、悪く云えば単に開発の遅れた、取り残されたような、広大な丘陵地帯=私の云う「小山田庄」の中にあるのです。the-village 1ある意味、映画:『ビレッジ The Village (2004)』のような「小山田庄」、「2020東京オリンピック」誘致成功で俄然現実味を帯びてきた「小田急及び多摩モノレール」延伸の話、個人的にはモノレール延伸、新駅誕生が頭一つ先行しているように感じるのですが…、どっちでもいいから早くやれよ!…。

プランター_サルビア 通学途中の悪ガキどもの仕業か…、歩道に設置されたプランターに我々が植えたサルビアの花が何本も引きぬかれたり、悪気もなく、お年寄りが引き抜いて持って帰ったり、外部の不良どもが駐車してある車のモールを外したり、車のルーフに登ったり、他人ごとでもないが、高齢者が車を前進しようとして駐車場の後のフェンスにぶつけたり…と、いろんな事件・事故(?)の情報が寄せられます。ここで気がつくのは、「荒れる教室」など小中学校の授業崩壊が終息したのか、悪ガキ・不良による事件は減少、逆に高齢者による高齢故の事故・事案が増加している傾向があるということです。このような事件・事案の発生を抑止する目的で、防犯カメラ・システムが導入されました。プライバシー・肖像権の問題もあり、カメラの設置数・位置および撮影範囲には種々の制約・規制があり、そのシステム管理・運営規則を整備しなければなりません。

花壇_苗植えこみ準備 6月末、朝から雨の中、皆で団地内の花壇・プランターに苗を植えました。町田市の苗床に車で行き、苗を持ち帰り、予め計画された設計図に従っての植え付け…、もちろん、私にとっては初めての経験でした。そうそう、8月末、団地の夏祭りも忘れてはなりません。各管理組合の理事は1ヶ月も前から準備に駆り出され、何らかの形で実行委員のメンバーに組みこまれることになり、祭が終わった次の週末には、盆踊りの櫓、神輿を分解して倉庫にしまわなければなりません。祭が終わると、今年の夏も終わりです。あれから3ヶ月、水遣りなどのお世話の結果、花壇(秋)皆で植えた苗は見事な花を咲かせて目を楽しませてくれます。苗を植えた一人として参加した町田花壇コンクール、結果は残念でしたが、皆で協力してここまでやれたことには大いに満足です。

 月に最低3回のブログ更新を心がけているのですが…、9月も残りわずか1日、書く時間がないという言い訳がましいこの記事で何とか最低限の発行頻度を確保、ここは10月にご期待下さい。

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September 11, 2014

さようなら、今年の夏

団地祭ポスター どうです、この賑やかなポスター。夏休みも残り少ない8月の週末、「第30回団地祭」と称する当団地全体のお祭でした。1984年に初代が入居して30年という記念すべきお祭で、その企画・実行、運営委員の皆さんの意気込みはすさまじいものがありました。祭にいたる一ヶ月間、毎週末は準備に費やされ、正直に言いますと、子供の時から、盆と正月に帰るべき田舎もなかった私は、祭には全く興味がありませんでしたが、参加するからには徹底して頑張らなければなりません。当初からの神輿も先輩諸氏の手作りとくれば、盆踊りの櫓も自前、その組立は一人の指示に従って巨大なプラモデルを組み上げていく、云わばガリバー旅行記。部品の一つ一つ、例えば柱、昔は一人で軽々と運んだものですが、今や3人がかり…、来年の開催は難しいのではないでしょうか。

 櫓の廻りを回る盆踊り、その太鼓とお囃子、繰り返されるリズムは、アフリカの土着宗教のように、あるいはブルースのリフのように、参加する人をある種、恍惚感と高揚感に導くのでしょう。電灯のない昔、満月の下ではなおさらの事だったことでしょう。現代では、盆踊りやお囃子が地元の保存会によって守られているかといえば…、ただそれだけでなく、政治団体と結びついている例が多いというのもうなずけます。調子のいい曲がかかり、太鼓やお囃子が入るのですが、主に輪になって踊っているのはこの辺のお祭を廻っている婦人会(今では死語?)の皆さん方のようです。

 団地の中には小学校があり、それこそこの祭の誕生した30年前には、東京都で最も大きな小学校だったそうですが、今は昔。「全戸駐車場付き」がウリでしたが、ここに来て、車を手放す住民が多く、駐車場が余りはじめ、団地内の路上駐車・駐車違反が激減、駐車場収入に大きく依存している修繕費の改定も考えなければならない事態がやって来ています。

 30年が過ぎた今、若かった親も今や老い、その子供たちはもう此処にはいません。子供たちの世代はこの街に戻って来るでしょうか…、それとも、私たちの高齢化が進み、その向こうにあるのは…限界集落…、と想像するのも恐ろしい話です。これは日本の多くの街が抱える問題であり、この小山田桜台も例外ではありません。解決のヒントは、如何に魅力のある街にするのか…、難題ですが、解決していかなければなりません。

多摩モノレール 初代に入居された住民の中には、「もし延伸されてこのモノレールの駅が小山田桜台の近くに出来れば…」、といううまい話に乗せられて…、早30年が過ぎました。その間、浮かんでは消え、消えては浮かんだこの話、生きているうちは実現しないだろうとは、つい最近までのもっぱらの話でした。過去に何かとうわさのあった、小田急と多摩モノレール、二つの延伸の計画でしたが、ここに来て多摩モノレール延伸が一歩先行、町田市が俄然積極的にモノレール延伸を推進し始めたようです。JR町田駅までの延伸は望みません。車輛基地を併設した小山田桜台駅始発で多摩・立川方面につながるだけでも画期的な話です。30年の悲願、体が動ける内に実現してほしいものです。これが小山田桜台再生の大きな起爆剤になるはずです。
さようなら、今年の夏。
 祭も終わり、夏は終わりました。

 さようなら、今年の夏

 …名残りのサングラス、西に傾いたが、まだまだギラギラの太陽、パラソルをたたんで帰ります。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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