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April 01, 2017

花見に冷たい雨

 東京の桜の開花は全国で一番早かったのですが、それは観測地点の靖国神社だけの話し、それ以降の足取りは遅く、明日から近所の散歩の定番コース、尾根道で開催される予定のさくら祭も「ウソでしょ」といった感じで、雨にも祟られて最高気温は7℃、1ヶ月は後戻りしたような冷たさです。

 毎年、年が変わった1月はそうも感じないのですが、2月、3月に入るとその寒さが耐えがたいものになり、東北・北海道の寒さはこんなどころではないのでしょうが…、「暑さ寒さも…」、そのお彼岸も通り過ぎて、「将軍様、もうわかりましたから、勘弁して!」と思わず悲鳴が出てしまいそうです。春の到来の道程は、最も昼の時間が短い「冬至」を過ぎて徐々に昼が長くなり、「春分・お彼岸」で昼夜の時間が同じに、そして、次第に逆転して行きます。その道の先に「花見・さくら祭」、新たな舞台の緞帳(どんちょう)が開きます。

  昔、大阪支店でまだ新入社員だった頃、1972〜1973年か?、季節は夏、東京から転勤でやって来た先輩曰く、「大阪ではよほどの貧乏人でない限りエアコンを持っているが、東京ではよほどの金持ちでない限りエアコンを持つ必要はない。」 大阪の夏は「くそ熱い」と表現されるだけあって、8月の平均気温が鹿児島・沖縄より高く、ただ暑いだけでなら何とかしのげるのですが、あのまとわりつくような湿度の高さは半端ではありません。東国、町田(東京都)に住んで30年、それまで住んでいた関西を抜いて、人生で最も長く住んだ所になってしまいましたが、本当にエアコンの冷房が必要なのはほんの一ヶ月間ほど、逆に当地の冬場は寒さが厳しく、ましてや私の部屋は日の目を見られない北向き、一日中エアコンの暖房のお世話になっています。

 雨の花見とは散々ですが、かみさんが庭で育てる鉢植えは既に見頃を迎えています。
春の花

 冷たい春雨に、先輩の一言を思い出しました。

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March 19, 2017

チャック・ベリー死去

Chuck Berry いわゆる洋楽を聴き始めた中学・高校生の時、私はあまりテンポの速いロックンロールが苦手でした。当時、もちろん歌詞の意味を理解していた訳ではありませんが、どうも内容が乏しいので、リズム、メロディだけを理由に好きになることはありませんでした。恥ずかしいことに、ビーチ・ボーイズの『Surfin'USA』の本歌が『Sweet Little Sixteen』で、ジョニー・リバースの『Memphis Tennessee』 、ビートルズの『Roll Over Beethoven』が実はチャック・ベリーの曲であるというのは知ったのはかなり後のようだった気がします。

 アメリカ音楽のルーツ、その幹の部分に、アフリカに起源を持つ黒人のブルースがあり、白人が主に持ち込んだ主にアイルランドの音楽と化学反応、急激に発酵して、今までにはなかった新しい音楽、ロックンロールが誕生しました。誰がその最初の実験をしたのか、誰がこの新しい醸造酒を造ったのか、その蔵元は特定できませんが、チャック・ベリーがおそらく、最初に名前を挙げられるべき人なのでしょう。

 こんなブルース、ロックンロールに対する貧弱な理解を変えることになったのは、今もバンドで付き合っている、ギターのNobuさんです。その彼がリードして演奏したのが、チャック・ベリーの『Johnny B. Goode』です。私はほとんど何もしていません。
 チャック・ベリー死去、享年90歳。ご冥福をお祈りします。

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March 14, 2017

 くどいですが、『沈黙』

 ザビエルは1549年に来日、日本での布教が始まりました。信長は仏教勢力への対抗勢力としてキリシタンを保護、後を引き継いで覇権を握った秀吉の時代、「バテレン追放令(1587)」・高山右近のマニラ追放(1588)があったものの、キリシタンが興隆を極めました。関ヶ原敗軍の蜂起「島原の乱(1637-1638)」が勃発、より深い地下潜伏の時代に入ります。映画:『沈黙』は乱の再発に脅えた徳川政権直轄の長崎が舞台でした。

 日本の歴史を振り返ってみると、中国風(唐風)文化の影響が極めて大きかったのですが、平安の中期にると、中国文字(漢字)から平仮名・片仮名が発明され、漢字の訓読みが確立されたことにより、『枕草子』や『源氏物語』に代表される和歌・日記・物語文学が隆盛、寝殿造等の和様建築の登場など、中国風(唐風)文化の影響が薄れ、国風文化と呼ばれるものが誕生しました。武家政権が誕生し、新仏教が興隆した鎌倉時代、室町時代には貴族文化と武家文化の混合、明との勘合貿易により中国文化が流入、武士の保護のもとに禅宗が興隆、日本文化の源流と言うべき新しい文化(北山・東山文化)が誕生します。観阿弥・世阿弥父子は従来の猿楽・田楽を能楽に、能やその合間に演じられる狂言に大成。「もののあわれ」から「わび・さび」へ、寝殿造りから書院造りへ、畳・床の間・違い棚などの「和」の文化が生まれます。しかし、室町幕府の衰退とともに勘合貿易も衰退、日明貿易は堺の商人−細川氏、博多商人−大内氏が独占するようになります。

 1549年ザビエルが来日、その翌年、京・大坂布教を目的に堺にやって来ます。当時の堺は国際都市、商人(=文化人)に依る自由・自治都市はベニスにも匹敵したと言います。南宗寺(臨済宗大徳寺派)を中心に禅宗が盛んで、堺の町衆文化の発展に寄与しました。「ものの始まりなんでも堺」の通り、京と並ぶ文化の発信地でもありました。茶人でもあった日比谷了珪(ひびや りょうけい)が彼の世話をしたことによより次第にキリシタンへのめり込んで行くことになります。1561年、ヴィレラが堺に1年間滞在、1564年、アルメイダとフロイスがやって来て、了珪自らも洗礼を受け、日比屋家の人々も入信しました。了珪は堺における切支丹の先駆者であり、多くの茶人が彼にならって入信しました。 

 この頃、千利休が茶湯の世界に登場します。それほどの教養を必要としない茶道は戦国武将の間に流行し、信長の時代に入りこの「数奇の道」に入らぬ者は居ないほどのに盛況でした。千利休をはじめ、堺の納屋衆など町家出身の茶人が武将に混じって、最も活躍したのもこの時代で、信長とその後を継いだ秀吉が覇権を握った30年ほどの期間でした。奇しくも、と言うか「妙に…」、茶湯興隆の時代はキリシタン興隆の歴史に見事に重なります。これは単なる偶然ではないように思うのは私だけではないようです。

 武野紹鴎(たけのじょうおう 1502-1555)は「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、日常生活で使っている雑器を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努めた。紹鴎(じょうおう)に入門した利休は紹鴎の『詫び』の対象を茶室の構造、手前の作法、茶器全体の様式にまで拡大、禅の「枯淡閑寂」(これ以上何も削れない)の極限まで無駄を排除して、侘び茶を大成させました。村田珠光(むらた じゅこう 1422-1502)から100年が経っていました。

 小説・映画:『沈黙』の中のフェレイラ神父の言葉、「全てを腐らせてしまう底なし沼」はあくまでもキリシタン宣教師側、キリスト教徒側から発した言葉であり、どうも私には引っかかります。同時に、もちろん利休が侘び茶を大成させたことは疑問の余地がありませんが、ここに全くキリスト教の影響がなかったかと言えば嘘になるでしょう。
狩野内膳南蛮屏風_2
※画像をクリックすると、右端に居る老茶人が拡大されます。
 山田無庵(1947-1993)著『キリシタン千利休』は神戸市立南蛮美術館所蔵、狩野内膳の『南蛮人渡来図』右隻に描かれた老茶人から話しが始まり、この老茶人こそが利休であり、利休はキリシタンであった、それを理由に秀吉から切腹を命じられるが、利休の死亡原因は切腹(自害)ではなく<処刑>であったしている。<自害>だったのか…、<処刑>、あるいは関ヶ原前夜の細川ガラシヤ<介錯>の例のような形なのか、私には、どちらでも良いのですが、選ぶとすれば後者:<処刑>か<介錯>です。利休に同じく切腹を命じられた大徳寺古渓和尚は<自害>の意志を表明した途端に許されています。キリシタンは宗教上<自害>は禁じられており、<自害>したのであるから、利休はキリシタンではなかったというのが通説ですが、洗礼を受けているか否は別に、キリシタンであること、信仰・共感の深度、深いのか浅いのか、少なくとも利休はキリシタンに対して深い共感を持っていたものと思われます。蒲生氏郷、高山右近、細川忠興、芝山宗網、瀬田掃部、牧村利貞、古田織部、利休七哲と呼ばれる彼等のほとんどがキリシタン、あるいはそのシンパ・共感者であることを見ればそれは明らかでしょう。『キリシタン千利休―賜死事件の謎を解く』のご一読をお奨めします。

 平安時代、空海は唐で学んだ密教を持って真言宗を開き、最澄は天台宗を開き、鎌倉時代、新仏教と呼ばれる法然による浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、時衆(宗)が誕生しました。その間、キリスト教者には信じられないでしょうが…、日本人は『神仏習合』、『本地垂迹』の方法を考えてそれまでやって来たのです。この時代、仏教僧、特に当時の禅僧が渡来の新しい宗教、それも幾つもの大洋を乗り越えてやって来たキリスト教に興味を持ちその教学を学ぼうとしたことであろうとは想像に難くありません。大徳寺和尚の文書・記録には改竄が多く、禁教令に備えてキリスト教関連の記述が削除されたのがその理由だそうです。

 利休は、村田珠光に始まる侘び茶を大成させました。しかし、キリスト教の伝搬がなければ、あるいは、彼が堺という国際、自由・自治都市に生まれなければ、そして禅宗という好奇心旺盛な仏教宗派がなければ利休の「茶湯」、ひいては今日言う「日本文化」も出来てはいないのではないでしょうか。利休を媒介に、禅宗とキリスト教が化学反応を起こしたのです。キリスト教には不幸な「底なし沼」ですが、蓮が泥水に咲くように、「日本文化」の重要な源泉の一つに思われます。
 ※参考:『キリシタン千利休―賜死事件の謎を解く

 p.s. 「3.11」から6年、神は沈黙を続けています。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

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February 24, 2017

これで三度目、『テキーラ・サンライズ』

  バンド練習以外は、自分の住所を中心とした半径5kmの円内でほとんどの用を足している私です。先日はギターのピックを買おうとお店に入ると一枚百円もするではないですか。迷ったあげく、とうとう買わずじまいで店を出てしまい、後日、Amazonで20枚(郵送料込み)を860円で買いました。ピックさえもネット通販で買ってしまうのですから、お店に行く必要がありません。よく言われるように、街にある店舗の多くは、商品を買うところではなく、実際にサイズ・色・風合いを試す目的のショールームと化してしまうのではないでしょうか。街の本屋さんがなくなれば、これも長い目で見れば住民の損失になるのですが…。

 そんな私と比べて、ギターのNobuさんの行動範囲は、あくまでも音楽に関してですが、全く衰えていません。昨年末、元イーグルスのギタリスト、ドン・フェルダーが来日、彼のライブコンサートを聞きに六本木東京ミッドタウンに行ったそうです。私は旧防衛庁の跡地にその名前の施設が誕生するらしいとは聞いていましたが、ドラムのKunさんの勤務先の事務所が六本木ヒルズに彼を訪ねて行ったのが最後、以来、六本木には行ったことがありません。

 ドン・フェルダーだけでなく、ポール・マッカートニー、クラプトンなど、我々の世代の良く知っているミュージシャンが多数来日しています。我々の世代とは、(音楽)趣味の為にお金を払える人が多く、ミュージシャンもまだ来日してライブをこなす体力・気力があり、〜稼げる間に稼いでおかなければ〜、という気持ちが働くのではないでしょうか。

 1971年、リンダ・ロンシュタットのバックバンドとして集まった4人がイーグルスを結成、続く1972年、衝撃的な『Take It Easy』をヒットさせることになります。当初のカントリーの基調は商業的な成功には至らず、フロリダ出身のドン・フェルダーが参加することによってよりロック的色彩を帯びていくことになります。J.D.サウザー、ジャクソン・ブラウンに代表されるイーグルスの本来的なサウンドは大きく後退して、極めつけは、それまでカントリー的色彩をリードしてきたバーニー・レドンがバンドを離れ、替わりに、ジョー・ウォルシュが参加することでロック的色彩がより一層強まることになります。

hotel california 個人的には残念なことに、イーグルスはカントリーから次第にギンギンのロックに変遷して行きました。その結果として、皮肉なことに、1976年、彼等の代表作にして最高傑作、『Hotel California』が世に出ることになります。詩はドン・ヘンリーですが、作曲はドン・フェルダーというのも興味深いところです。それだけにとどまらず、パフォーマンスにおいて、あの印象的なイントロはドン・フェルダーが、この曲の聞かせ所、ギターソロは彼とジョー・ウォルシュの共演によるものです。傑作すぎて、後が続かなかったのも事実です。これをピークに、アサイラム・レコードが築いた西海岸の音楽活動は急速に衰退して行くことになります。

 ドン・フェルダーのライブ、彼のツインギターのイントロに始まる『Hotel California』は当然のこととして、初期(1973)のヒット、『Tequila Sunrise』にはいたく感激したようで、思い出したように、我々のバンドで久しぶりに(2008 & 2010)にやったのがこれです。
     

…昔の方が出来が良かった?

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November 21, 2016

散歩の途中<18> 晩秋の尾根道

                 
 夏から一足飛びにやって来た今年の秋。去年は、道ばたに落ちている栗を拾って帰り、よそ様の土地に入り込んでいるわけではありませんよ、念のため…、何回か栗ご飯をごちそうになるほどの収穫があったのですが、今年は異常気象故か、栗ご飯などとんでもない、いじけたような栗しか収穫のない秋でした。

影 7月に始まった団地の大規模修繕、外壁塗装の為に足場を組み、それを黒の網状のシートで覆われて、毎日が雨か曇りのようなうっとうしい毎日で病気になってしまいそうな半年でしたが、私の棟も終了となりやれやれです。しかし天気は残念ながら雨、せっかく足場もシートも取り払われたのに…と悔しい一日でしたが、夕方になると雨が止み、こもりっぱなしにも耐えられず、最寄りの散歩コース、尾根道を歩くことになりました。日はすっかり西に傾いて、尾根道を東へ向かって歩きます。緑の帯は極彩色に彩られ、雨に濡れた落ち葉が地面を覆い、いつもとは趣が違います。雨雲がまだ残る、夕暮れの尾根道、明日の朝はきっと晴れ、もう一度来ることにしましょう。

 間もなく冬のモノトーンに変わってしまう晩秋の景色、今年の秋は短く、木々の緑の多くは茶・黄・赤の極彩色に変わります。夕方に見る尾根道も美しいが、良く晴れた朝、ほぼ真横から当たる日を受けて輝く景色を見るのもまた格別です。今朝、窓の外は6ヶ月ぶりに明るい景色です。コーヒーも飲まず、昨日夕暮れに歩いたコースに向かいます。時刻は7時過ぎ、雨上がりの朝、空には雲一つありません。

 私の人生も既に秋、極彩色と言えば狂気ですが…、少しの彩りある晩秋を過ごすことが出来るのでしょうか。次に、冬至が来ると、また新しい春がやって来ます。季節は巡りますが、人生は一つの方向に向かう過程に過ぎません。ふと、そんなことを考える朝の散歩です。
 
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October 15, 2016

ボブ・ディラン、ノーベル文学賞受賞

                 
dylan_postcard 〜 偉大なアメリカの歌謡における新しい詩的表現方法を創造した功績を称えて 〜

 
 ボブ・ディランが「偉大な詩人」として2016年度のノーベル文学賞を受賞したことは自分の事のように嬉しい。

 ノーベル賞授与宣言を終えたスエーデン・アカデミー、サラ・ダニウス教授は記者団の質問に答えています。

なぜボブ・ディランにノーベル文学賞を授与されたのですか?
 彼は
口語英語の(語り言葉)の伝統の中における 「偉大な詩人」であり 、過去54〜55年の間に絶えず自らの改革・革新を続けてきました

・ 如何にしてボブ・ディランの業績を発見したのですか? 
 彼の歌を聞きなおし、読み直して、1966年作のアルバム『ブロンド・オン・ブロンド』を例にとると、 多くの伝統的な手法に加え、彼の極めて非凡な押韻・巧緻な隠喩・絵画的思考(?)は見事です。
 
・ スエーデン・アカデミーはノーベル文学賞の範囲を広げるのですか?
 これは何も新しい事ではなく、遠い過去、例えば2千年あるいは2千5百年前に目を向けると、古代ギリシャの詩人、ホメロスにせよサッフォーにせよ、彼等の詩は文字で書かれていたと云うより、聴かれていた、楽器の伴奏を伴って歌われていました。ディランの詩も、ホメロスやサッフォーと同じく、 読まれるだけではなく、楽器の伴奏を伴って歌われるのを聴いて楽しんでいるのです。

・  あなたは若い時にディランの曲を聴きましたか?
 いや、あんまり…。しかし彼の作品が世の中に広く認識されていたことを知っています。私はデビッド・ボウイの方が好きだったけど、他の世代は知らないけど…、今ではディランを大いに評価しています。

 10月14日付「朝日新聞」の見出しは…〜『風に吹かれて』『時代は変わる』のボブ・ディラン氏文学賞 〜 とは、これを書いた記者はディランの最も初期の頃(63〜64年頃)の曲しか知らないのか、それから間もなく彼はフォークから離れ、ロックの世界に飛び込み、以降ロック・ミュージシャン、ソング・ライターとしてのキャリアの方が断然長く、その2曲以上に優れた多くの曲が存在するのを知らないようです。ストックホルム駐在の「朝日新聞」
知ったかぶりの記者にくらべ、 「…デビッド・ボウイの方が好きだったけど」とは、サラ・ダニウス教授が正直で好感が持てます。

 友人の一人、人生の大先輩が曰く、50年前の曲:『風に吹かれて』でノーベル文学賞とは理解に苦しむ、とのご意見がありました。彼は、詩・和歌・短歌・俳句・狂歌に造詣が深く、私も共感するところが多い人なのですが…、彼にとって、ボブ・ディランと言えば、かろうじて『風に吹かれて』という曲を知っているという程度の知識しか持ち合わせていないのでしょう。

 
へ理屈から言えば、文学賞:Prize in LiteratureのLiterature(文学)とは「 literate(読み書きができる、学問[教養・識字能力]のある」からの派生語、その意味からすると「文字で書かれた物」・「読み物」、伝統的には「教養のある人」だけに与えられた賞であり、「教養のある人」はロックなどは聞かない、という意味だったのかも知れません。クラシックやモダン・ジャズ は、ロック、カントリー、ブルースに比べて、教養があるように、少なくとも上品に感じるのは私だけではないでしょう。

 ディランの詩も、古代ギリシャのホメロスやサッポーと同じく、読まれるだけではなく、楽器の伴奏を伴って歌われるのを聴いて楽しむべきもので、このことは何も新しい事ではありません。このサラ・ダニウス教授の言葉に私は大いに賛成です。古くは、和歌・短歌は読むだけではなく、節(メロディ)・抑揚を付けて、時には伴奏を付けて歌われるのを聴いて鑑賞したもの、大衆レベルの「今様」も、後白河法皇(1127-1192)は声がかれてのどがかれるほど「今様」を練習したとか…、彼の著した『梁塵秘抄(1180年前後)』に在ります。『平家物語』が琵琶法師によって練られて文学の域まで高められるのですが、文字の普及・識字能力・出版の発展と共に、「語り物」が廃れ「読み物」へと変化していったのは歴史の語るところです。

  実は…、彼はソングライターとしては偉大ですが、はっきり言って…歌は下手です。私は彼の歌うレコード・CDを一枚も買ったことがありません。全ては他人、例えばThe Byrds あるいはThe Bandが彼の曲をカバーしたものです。我々、The Y2A Bandの『Mr Tambline Man』(2010年録音)です。

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October 06, 2016

そうだ、バスで、京都に行こう!<1> 大徳寺

 久しぶりの京都駅です。普段の移動に使っているPASMOあるいはSuicaカードが京都市内バス・地下鉄・私鉄でも使えるのは便利です。前も書きましたが、私は1967〜71年、京都に在る大学(京大ではありませんが…)に通ったので一般の人よりも土地勘はあります。かなり前に市電が廃止されたのは残念ですが、今は地下鉄2路線が整備され、烏丸線烏丸御池で東西線に、三条京阪で京阪に乗り換え、昔は三条が終着駅でしたが、今は疎水の地下を叡電出町柳駅まで延伸されています。その出町柳で、一年ぶりに京阪沿線に住む姉と再会することになります。

 市バスに乗って大徳寺にやって来ました。それまでは紫野と呼ばれた原野、播磨国の守護赤松円心が寄進して基礎を築いた(1315)とあり,寺内「沸殿(?)」の欄間に並んで掲げられた花園帝と後醍醐帝の二つの扁額は、持明院統(後の北朝)の大覚寺統(後の南朝)両朝の帰依があったことを示しています。楠木正成を湊川の戦い(1336)で破り、後醍醐帝を叡山に退去させた足利尊氏は室町幕府を開きます(1336)。後に北山文化、東山文化と続く室町時代の到来です。大陸文化(明)と日本文化、あるいは、公家文化・武家文化・民文化など諸文化が融合、茶・花道・建築・造園、絵画、軍記物・御伽草子・連歌、能・狂言に代表される舞台芸術など、現代日本文化の源流・基礎はこの時代に完成されたと言えるでしょう。

 飲んだ茶の銘柄を当てる「闘茶」、高価な中国の茶器「唐物」を求め、これを使って茶会を催す「唐物数寄」が大名の間で流行しました。行き過ぎたこの風潮に代わり、亭主と客との精神交流を重視するわび茶の源流ができあがって行きます。摂津・河内・和泉の三国の「境(さかい)」であったことに由来する堺は当時、海外貿易で富の集まる商業港湾都市でると同時に、その富を背景に町衆による自治が行われ、「茶の湯好み(茶数奇)」の文化が発展していました。世の中は次第に茶会どころではなくなり、ついに、応仁の乱(1467-77)で京、そして大徳寺は灰燼に帰します。堺で禅宗の布教活動をしていた一休和尚(1394-1491)は大徳寺復興事業への援助を乞い、それに答えたのが彼に深く帰依していた堺町衆でした。

高桐院_1 堺町衆の茶の湯好み(茶数奇)が戦国武将と町衆茶人と大徳寺禅宗とを結びつけ、それまではあまり日の目を見なかった大徳寺を、安土・桃山時代最高の「晴れ舞台」の一つにのし上げることになります。利休自費で行われた大徳寺三(山)門重層工事が完成(1589)、それを記念して楼上に置かれた等身大の利休像に秀吉は激怒、利休切腹の大きな理由の一つとされます。これが「晴れ舞台」の上で演じられた最大の演目でした。総門を入ると右側にその朱塗りの三門を見ることが出来ます。利休、千家の菩提寺:聚光院を始めとする二十四にも及ぶ塔頭は、利休の弟子達・キリシタン大名達、その時代に生きた人それぞれの演目が刻まれた記念碑です。

 高桐院灯籠 その中の一つ高桐院は利休門下の細川忠興が細川家の菩提寺として建立されました(1601)。忠興の妻は珠(たま)、父:光秀は信長を討ち(「本能寺の変」)、自らも亡びます。その娘として隠遁生活を送っていたが覇権を制した秀吉の取りなしで世間に復帰します。禅宗に帰依していたが、密かにカソリックに改宗、ガラシャ(Gratia)の洗礼名を得ます。忠興は家康に従い上杉征伐に出陣、西軍の三成は大坂に残るガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャは拒絶して自刃します。利休が愛用した「天下一」と称する石灯籠があり、利休切腹の折、遺品として忠興に贈られました。これが忠興と珠、ガラシャの墓となっています。
京街道光善寺辺り
 その日は姉夫婦の家に泊めてもらい、上の姉も参加して兄姉弟4人の同窓会となり、皆さん自分の知識を披露します。枚方(ひらかた)のこの辺り、淀川東岸を「京街道」と呼ばれる京大坂の往還道が通っています。古くは『土佐日記』で、赴任を終えた貫之が淀川を京に向かって遡上中、この辺りに「渚の院」を眺めながら通り過ぎる場面があるそうです。『太平記』では湊川に向かう正成を対岸の桜井駅で待つために正行(まさつら)が淀川を渡河したのはもう少し北か…、「本能寺の変」の後、光秀と秀吉は対岸の山崎天王山で戦い、筒井順慶はこの合戦の趨勢を傍観したという、日和見主義の代名詞として用いられる「洞ヶ峠」も此処から遠くはありません。

 極めつけは、茶屋四郎が家康の堺遊覧無事終了を信長に報告すべく京へ向かったが、信長の凶報を確認、急ぎ堺へ帰る途中、この辺りで家康一行と遭遇、事態は急変、家康の逃避行・脱出劇が始まります。家康が何故「京街道」を京へ向かっていたのか…、どのルートを辿って、伊賀(「伊賀越え」)・伊勢に至り、舟で三河に辿り着いたのか大いに興味のあるところです。

 時間はあってもお金のないのが今の私、初めて夜行バスに挑戦しました。問題はトイレ、如何にトイレ付きといえども初体験、やっぱり不安です。「あったらいいな、を形にする」〇〇製薬の夜間尿・頻尿の薬を服用したお陰か…、トイレに立つこともなく京都に着きました。帰りのバスは23時発、それまで、夜の京都の繁華街、どうやって時間をつぶすのですか?もちろん、新幹線で帰りました。
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September 14, 2016

これも、散歩の途中? <18> 高時腹切りやぐら

 「源平の戦い」の覇者、源頼朝は征夷大将軍に就き、坂東相模国鎌倉に幕府を開きます(1192)。京の貴種:頼朝は坂東武士の土地所有を保証するシンボルとして棟梁に担ぎ上げられ、対京都(=朝廷)交渉の機能を果たし、鎌倉幕府の確立後は用済みとなります。征夷大将軍:頼朝は突然死、跡を継いだ嫡男:頼家も変死、その弟の実朝も変死、頼朝の血筋はあっけなく絶えてしまいます。クーデター(?)によって政権を簒奪(?)した北条氏は、次々と仲間内の熾烈な争いに勝利して最高権力を握ることになります。北条氏、特に得宗家が烏合の衆であった坂東武士をまとめ上げ、百五十年間に渡り政権を保持することになります。もし、モンゴルの侵攻(元寇)がなければ、もう少し長かったはずです。

 1333年2月、後醍醐天皇が隠岐を脱出、鎌倉を発って六波羅救援に向かった足利尊氏は京の西、大江山、老ノ坂を越えた足利氏の飛び領地、丹波亀岡篠村八幡社で後醍醐の勅旨を得て挙兵、後に光秀も「敵は本能寺にあり!」と同じ道を行くのですが…、老ノ坂を越えて京に迫ります。2年後、後醍醐に叛旗を翻した尊氏は敗走、三度目の老ノ坂越えで西国へ逃れることになります。元へ…、5月、尊氏の京総攻撃に耐えきれず、六波羅探題:北条仲時・時益は光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って脱出するも、時益は首の骨を射られて討死、光厳は肘に矢を受け、9日(?)仲時は近江国番場宿蓮花寺に辿り着くも、前を佐々木道誉の軍勢に阻まれて万事休す。天皇と上皇を残し、仲時は一族432人と共に自刃しました。

 一方の関東では、5月8日、同じく後醍醐の勅旨を得た新田義貞が挙兵、18日には稲村ヶ崎から鎌倉に突入します。

腹切りやぐら_1 熾烈な仲間内の権力争いの政治的決着なのか…、得宗家の当主は同じ北条氏や外戚である安達氏から室を迎えることが多く、長きに渡る近親結婚の影響なのか病弱短命で、最後の執権:高時は暗愚(?)とはもっぱらの評でした。高時以下得宗家一門は、代々の執権が暮らした「小町亭」と呼ばれる居館を出て、裏を流れる滑川に沿って歩き、葛西ヶ谷を背にした菩提寺:東勝寺が、北条九代百五十年、最期の地となりました。「供養塔卒塔婆」には高時と共に870人が自刃したとあります。

腹切りやぐら裏 近番場宿蓮花寺での432人そして鎌倉東勝寺での870人、合計1,300が自刃したとは、後にも先にも、これほど強い結束力はありません。鎌倉・六波羅探題の滅亡した中に御家人はほとんどおらず、北条氏一門と御内人(みうちびと、みうちにん 北条得宗家に仕えた武士)ばかりでした。北条氏が如何に排他的であったかを物語る数字です。元弘3年、1333年5月に亡んだのは鎌倉幕府ではなく、北条氏一門と御内人だったと云うことが出来るでしょう。

腹切りやぐら 北条一族の慰霊のため、1335年、後醍醐は尊氏に命じて「小町亭」跡に「宝戒寺」を建立します。

 「宝戒寺」から最期の地、高時の「腹切りやぐら」まで5分のはずが、案内標識を見落としたために、30分も余計にかけて辿り着きました。

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September 04, 2016

散歩の途中 <17> 「内の御前社」、通称「小山田神社」

160821小山田神社_蓮田 「内の御前社」、通称「小山田神社」は散歩の、とりあえずの…、折り返し地点、目的地です。自宅から1キロ少し、歩いて12〜13分、単に折り返して帰ってくるのであれば30分コースです。この辺に住む住民のいわば「お散歩入門編」、ここを経由してさらに東に広がる小山田緑地に入ることが出来ます。

 夏になると、毎朝の如く、7時には訪れることになります。というのは、昔は田んぼだったのでしょうが、今は稲に代わって蓮が植えられ、7月に入ると蓮の高さが人間の背丈ほどになり、次々と開花します。朝露が転がる蓮の葉、みるみるうちに育ち、つぼみが大きな花に変わるのは神秘的でさえあります。泥の中から生まれ、気高く、清浄な美しい花を咲かせ、大きく広がり水を弾く、凛とした葉の姿が、知恵・慈悲の象徴としてヒンズー教、これを受け継いだ仏教で意匠されます。夏の間、「ハス祭り(7月23日〜24日)」をピークに、神社は蓮華の大海に浮かぶ小さな島に変貌します。

小山田神社_1 小山田有重(1171〜74)は関東八平氏の一派、秩父平氏(=秩父党)から出、小山田荘の開発領主(別当)になってこの地を支配、近くの大泉寺の地がその居館であった。小山田別当有重の妻は宇都宮(八田)宗綱の娘、この小山田神社は戦前までは「内の御前社」と呼ばれ、有り重夫人を祀ったと言い伝えられてきました。拝殿の中にある扁額には「内御前宮」とあるそうです。 

小山田神社_2 この地に住んで15年以上、週に2回(?)は小山田神社を訪れますが、櫓が組んであるのを見るのは初めてのことでした。神社近くの町内掲示板には「小山田神社例祭 9月3日」とあります。

 昨日、夕食後、台風の影響か…、雨がポツポツし始めた中、カメラを持ってお祭りに行ってきました。いつもと違って、夜の小山田神社も良いものです。賑やかな舞台、はしゃいだ子供達の歓声、酒の入った大人達…、せまい境内はごった返しています。雨も心なしか冷たく感じられ、しらふの私は帰ることにしましょう。

 名残おしい今年の夏、さようなら!

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August 30, 2016

散歩の途中 <16> 行田 忍(おし)城跡

 ベストセラー『下町ロケット』で直木賞を受賞した池井戸潤は二匹目、いや三匹目のドジョウを狙って(?)『陸王』を書いたのでしょうが、私はまだどれも読んでいません。「足袋(たび)屋がランニングシューズをつくる。そんな話はあり得ますか?」と池井戸が訪ねたのが、埼玉県行田市に在る足袋メーカー「きねや足袋」だったそうです。完成した物語『陸王』はたちまち25万部を越えるヒットとなります。かつて行田市が「足袋の街」として栄えていたことを知りませんでした。というよりは…、和田竜原作の映画『のぼうの城 (2012)』そして大岡利昭著『幕末下級武士の絵日記 』が私の行田に関する知識のほとんど全てでした。

 秀吉の「小田原攻め(1590)」に際し、前田・上杉等の北国勢は碓氷峠を越えて関東に侵入するのですが、その北国勢に落とされた諸城を訪ねて、7月八王子城跡を皮切りに、8月には川越に続いて、埼玉県行田市の忍城跡を訪ねることになりました。そもそも、行田は埼玉県の何処に所在するのか?、という話をすると、熊谷に住むバンドのNobuさんが、「行田は熊谷の隣、良ければ案内する」と言ってくれたので、渡りに舟とばかりにお願いしました。待ち合わせ場所は熊谷駅南口、「みすとのした」とはNobuさんの言。聞いた私は、一瞬、何のことか判らず、今年の夏は例年になく涼しく、この時期、TVで繰り返し映る熊谷市役所前の大温度計、「熊谷は熱い!」の少々やけ気味な標語は今年は鳴りをひそめ、今年の夏の熊谷は「ミスト」がピンとくるほどの酷暑ではありません。

 「石田堤」と称される堤跡があり、標識がなければ全く気がつかない場所なのですが、Nobuさん、道路標識の存在は知っていたものの、堤跡自体を訪れたのは今回が初めての由。「石田堤」説明の看板は、大河ドラマ『真田丸』放映による観光客の来訪を当て込んで急遽立てられたと思われますが、残念ながら簡易舗装の駐車場は我々だけ、他に訪れる人はいないようです。

 後北条氏の諸城は次々に落城しますが、それらの支城から終結した将兵で意気上がる小田原城に加えて、行田忍(おし)城は北国勢の攻撃を凌いで健在でした。小田原に着陣した秀吉に攻撃を命じられた三成は盟友大谷吉継ら総勢二万三千余の大軍を率いて攻撃しますが、どうしても落とせません。

忍城跡 攻めあぐねる三成は「丸墓山古墳」に登り、周りを一望している時に、備中高松城に倣った、「水攻め」の策を思いつきました(秀吉の策とも云われる)。忍(おし)城は周囲を低湿地で囲まれ、水害の時にも水をかぶらないことから「浮き城」と呼ばれていたそうで、30kmにも及ぶ堤で囲んだが、流し込んだ利根川の水は三成側の堤を決壊させ、むしろ攻城軍側の大損害の結果となった。十倍する攻城軍で事に当たりながら失敗した三成は武将としての能力欠如を、「三成の戦下手」を云われるようになったと聞きます。

丸墓山古墳 「丸墓山古墳」の在る埼玉(さきたま)古墳群は、その名の通り円墳の他に8基にも及ぶ大小の前方後円墳が並び、昔訪れたことのある奈良盆地の東に連なる山裾を縫うように続く「山の辺の道」を思い出します。その一つ、1968年、稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣」、「画文帯環状乳神獣鏡」は5世紀のもの、後に国宝に指定された。公園内にある「さきたま史跡の博物館」で窒素ガスを封入したケースに保管・展示されているのを見学できます。行田はかつては埼玉と呼ばれ、「さき(前)」+「たま(湿地)」=(さきたま)が転じて「さいたま=埼玉」となったという説、これが県名となったそうです。
 

 秀吉の「小田原攻め」から4百年後の今日、我々も「丸墓山古墳」の上から周りを一望すると、当然のことながら一面関東平野、景色の中に再建された忍城の櫓を見つけることが出来ます。備中高松城は知りませんが、「丸墓山古墳」から見ても、あるいは、その後の忍城跡に向かう車中から観察しても、真っ平らな関東平野の中に在る忍城を水没させるような堤の建設は思いも及びません。大谷善継、島左近は三成に意見しなかったのでしょうか。大きな話が好きな秀吉の意向があったように思えます。

 幕末、忍藩は川越藩と同じく譜代、三浦半島・江戸湾の警護、砲台の配備、水戸「天狗党の乱」鎮圧にかり出され藩財政は逼迫、「鳥羽伏見の戦い」の負け戦では殿(しんがり)になってしまい、新政府に恭順か旧政権側に付くかを大いに悩み、藩論は分裂、後出しじゃんけんの様に大勢が決まってから新政府軍に付くという失態を演じてしまいました。どうも行田忍(おし)城はかっこいい話の舞台には映らなかったのですが、「金錯銘鉄剣」、「画文帯環状乳神獣鏡」の出土、「さきたま」が転じて「さいたま=埼玉」となったという説はこの地に対する私の印象を変えたと云って良いでしょう。

 私の夏も終わってしましました。
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August 22, 2016

音楽の趣味、接近遭遇はあるか

 周りを見回すと、中学・高校時代にあれほど聴いた音楽をこの歳まで引きずっている人は少ないといえるでしょう。かみさんと付き合い始めた頃、好きな曲はトロイ・ドナヒュー(デビュー当時は、長い間、トロイド・ナヒューと呼ぶもの思っていたが… Troy Donahue)の『恋のパームスプリングス』と聞いていましたが、その彼女と結婚して数十年、好きな音楽に話が及んだことはただの一度もありません。

 世の亭主達は職場を中心に友人関係、趣味の関係を作ってきたのですが、私の参加するバンドのメンバーも元を辿ると4人の内3人は、職場は違うが、同じ会社の同僚でした。これが会社を離れ、あるいは現役を退いて自分の住む地域のコミュニティに参加して、なお且つ、似たような趣味の音楽仲間を見つけることが出来るか、といえばなかなか難しいことです。

 私の住む団地の人口は3千9百人、ここに住んで15年(?)以上、知り合いといえばテニスの仲間と過去2年間における管理組合理事時代の仲間だけ、数えるほどなのですが、知人よりは親密度が高いはずの彼等と趣味の話になり、話が音楽に至ったのは2人だけ、それも私の趣味:「カントリーぽぃロック」に近いと感じた人は誰もいません。況んや、楽器の出来る人、となると絶望的です。

 読者のToraさんからコメントを頂き、ブログ:『グレン・フライ死去』でイーグルスがリンダ・ロンシュタットのバック・バンドとしてデビューしたのはクラブ:『トルバドゥール(Troubadour)』であるとの正しいご指摘でした。併せて、グレン・フライの最後のアルバムでブライアン・ウイルソン/ビーチ・ボーイズの『キャロライン・ノー Caroline, No』を歌っていることを教えて頂きました。ありがとうございました。

New Country Music Box on Station Ripper もう一つ、Station Ripper+Broadway+iTune+iPhoneにはまっています、とはブログ:『今時のカントリー・ミュージック』の記事、ネットラジオ:「New Country Music Box」から録音した曲数は、あの時(5月17日)の時点で1千4百曲でしたが、あれから3ヶ月、さすがに新曲数の増加は鈍りましたが、本日(8月22日)現在、1、860曲を記録しています。不思議なことに、当初はStation Ripperで録音(=保存)のみならず、聞くことも出来たのですが、いつの頃からか、録音(=保存)だけになっているようです。録音(=保存)して後で聴けば全く問題ありません。「New Country Music Box」と英語表記であることもあり、てっきりアメリカThe very Bestの放送局(=サイト)と思い込みをネットで調べて見ると、なんとドイツの放送局(=サイト)、"This station is not available in your country. " と英語のアナウンスがあるではないですか。日本向けに聴取が制限されているようです。

 カントリー・ミュージックのFMラジオ放送局は、本家のアメリカのみならず、カナダ、オーストラリアなどの英語圏、スイスやドイツなど非英語圏にも存在するというのは知っていましたが、私の好み:「カントリーぽぃロック」に近い、「ロックぽぃカントリー」の専門局(=サイト)がドイツに存在するのは、日本人の私に近い思いの人間がドイツにも存在し、その規模は専門局(=サイト)を支持ずる広範な聴取者層=市場を有するということでしょう。

 「カントリーぽぃロック」はイーグルズで終わったものと思い込み、孤立感が深まる私でした。そんなご大層な話ではありませんが、世の中それほど捨てたものではない、同じ趣味の人は確かに存在します。

 私はけっして孤独ではない。ただ、接近遭遇がないだけである。

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August 05, 2016

Banks Of The Ohio

 夏至から1ヶ月余りも過ぎるとさすがに日が沈むのも早くなりまし
た。アルバイトの帰り、外は既に暗くてはっきり見えませんが、男性とその後ろに女性、ご夫婦と思われる一組が左側から歩いて来るのが視界に入りました。男性は、イヤフォンではなく、スピーカーで聴いているらしく(若い人はしない)、音楽プレーヤーから流れてくる曲が私にも聞こえて来ます。散歩をしていると、年配者がラジオから流れる曲を聞きながら歩いているのを見かけますが、それとはどうも様子が違うようです。

 通りに出ると。私と並んで歩く形となり、私が横断歩道を渡り始めると、その二人も付いて来るように渡ってきます。私は思わず…「"Bank Of The Ohio"ですよね?」と声をかけてしまいました。もちろん、こんな時に見ず知らずの人に声をかけるのは初めてでしたが、一瞬、先方も驚いた様子で、「Doobie Brothersです」の返事でした。

Ohio-River-Sunrise 横断歩道を渡り終わって、全くの初対面の人と談笑、やはり、後ろの女性は奥さんらしく、一緒に立ち止まっておられます。「洋楽、それも知っている曲を、この辺を散歩する人からこんな曲を聞いたのは初めてで、思わず声をかけてしまいました」と詫びると、彼はBlue glassが好きでバンジョーをやっているそうです。自己紹介となり、彼はこの辺りではよく耳にするお名前の在(ざい)の方、「何時かまたお会いしましょう」と別れるまで、わずか数分間の出来事でした。

Banks Of The Ohio

I asked my love to take a walk
To take a walk, just a little walk
Down beside where the waters flow
Down by the banks of the Ohio

And only say that you'll be mine
In no others' arms entwine
Down beside where the waters flow
Down by the banks of the Ohio

I held a knife against his breast
As into my arms he pressed
He cried "my love, don't you murder me
I'm not prepared for eternity"

And only say that you'll be mine
In no others' arms entwine
Down beside where the waters flow
Down by the banks of the Ohio

I wandered home 'tween twelve and one
I cried, "My God, what have I done?"
I've killed the only man I love
He would not take me for his bride

And only say that you'll be mine
In no others' arms entwine
Down beside where the waters flow
Down by the banks of the Ohio

恋人に頼んだの ちょっと歩かないって
散歩を少し ちょっとでいいからって
水が流れ込む河の畔 オハイオの岸辺を下って

言ったの あなたはずっと私だけの人よね
他の人の腕を絡ましたりしないわね
水が流れ込む河の畔 オハイオの岸辺を下って

ナイフを突き立てたの 彼の胸に
私の腕の中に 彼を押し付けるように
彼は叫んだ 「恋人よ 殺さないでくれ
僕にはまだ永遠への用意がないんだ」

言ったの 貴方はずっと私だけの人よね
他の人の腕を絡ましたりしないわね
水が流れ込む河の畔 オハイオの岸辺を下って

彷徨い歩いて家に戻ったのは 12時から1時の間
私は泣いた 「神様 私はなんて事をしてしまったのだろう」
愛するただ一人の男性を殺してしまった
彼には私と結婚のつもりはなかった

言ったの 貴方はずっと私だけの人よね
他の人の腕を絡ましたりしないわね
水が流れ込む河の畔 オハイオの岸辺を下って


 読み人知らずで、様々な歌手が歌っており、様々な異なった歌詞のある、古くからのバラッドです。フォークブームと同時に日本に入ってきたブルーグラスの定番ソングで、当時、福田一郎の珍訳:「Sound Of Silence ⇒ サイレンの音」と同じく、「オハイオ銀行」と訳された例があると聞きます。

 私はブルーグラスが苦手、あのバンジョーの軽さがあまり好きではありませんが、私より先輩で、ジャンルの近い音楽をこの歳まで続けている人が居るとは…、同類が近くに居るものだと嬉しくなってしまいます。

 残念ながら、Doobie Brothersが「Banks Of The Ohio」をやっているとは知りませんでした。
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July 25, 2016

散歩の途中 <15> 小江戸 川越

 少なくとも月に1〜2回は訪れている川越の街、バンド練習の場:シダックスのある街なのですが、町田の自宅から車で1時間、まずは西恋ヶ窪、ドラムのKunさんの駐車場に車を駐め、彼の車の助手席に乗って走ること1時間、合計2時間をかけて川越のシダックスに通っています。因みに、ギターのNobuさんは熊谷から、途中でMaruさんを拾ってやって来ます。4人が集合するのに便利という理由だけで、地図を眺めながら決めたのがこの場所でした。私といえば、西恋ヶ窪からは助手席に座っているだけ、関東平野は広く、目印となる高い山もありません。どの道の何処を走っているのか…、到着したら、そこはシダックス、単なるバンドの練習場というだけで、「蔵造りのある街並み」、「小江戸」と呼ばれる川越とは全く結びつきません。

 前回訪問の八王子城跡、その落城にまつわる悲劇は、秀吉の「小田原攻め」の際、碓氷峠を関東に入った前田・上杉ら北国勢を前に、松井田城(安中)城主:大道寺政繁が豊臣方に降り、案内役として豊臣方に協力、北条方諸城が次々にあっさりと降伏開城したことにその原因がありました。その内の一つが川越城で、これも良い機会とばかりに、バンド練習の川越ではなく、「蔵造り」の美しい街並み、「小江戸」と呼ばれる川越に行ってきました。

 淵野辺からJR横浜線で八王子、JR中央線に乗り換えて西国分寺、JR武蔵野線に乗り換えて北朝霞、朝霞台から東武東上線で川越まで、やたらと乗り換えの多い、自宅を出て3時間の旅でした。

 川越城は、室町時代(1457)、上杉持朝が家臣:太田道灌に命じて築城させたもので、道灌は、河越城の支城として、江戸城の基礎を築いたことでも知られる。戦国時代は北条早雲に始まるのですが、小田原を拠点の後北条氏は、1537年、北武蔵の要衝:川越城を落として同国支配を固めました。1590年、後北条氏は滅亡し、秀吉の命で、家康が江戸城に入り、関ヶ原に勝利した(1600)家康は江戸幕府を開きます(1603)。江戸時代に入ると、川越は当時から「小江戸」とも呼ばれ、川越藩の城下町として栄えました。川越藩は江戸幕府の「北の守り」であり、家光を補佐した酒井忠勝(1587-1662)、家光・家綱の松平信綱(1596-1662)、綱吉の柳沢吉保などの幕府重臣が配され、商工業や学問が大いに発達しました。「知恵伊豆」と称えられた松平信綱は商業経済、新田開発を行い、江戸隅田川との間に新河岸川舟運を開設するなど、川越の発展に寄与しました。黒船来航(1853)に始まる幕末、川越藩は三浦半島と品川の海防に大きな負担を強いられ、水戸天狗党の乱鎮圧に出兵し(1864)、徳川譜代故に財政は逼迫しました。戊辰戦争(1868-69)では、最後の藩主:松平康英は新政府に帰順することで藩論をまとめ、官軍にひたすら恭順することで、川越の街を戦火から守りました。

一番街_1

一番街_2

 現存する喜多院、川越城本丸御殿、重厚な蔵造りの町屋が残る一番街周辺を訪ねると、康英の判断が正しかったことが判りますが、残念なことに、徳川家に忠誠心の高い譜代諸藩が頻繁に配置換えとなり、あまりに入れ替わりが激しく、川越藩独自の産業が育たず、従って独自の文化が醸成されなかったようにも思われます。

 幕末、近隣の忍藩(行田)は同じ境遇にありながら、新政府に恭順か旧政権側に付くかを悩み、藩論は分裂、後出しじゃんけんの様に大勢が決まってから新政府軍に付くという失態を演じてしまいました。次回は、「のぼうの城」、その忍藩(行田)に行ってみたいですね。
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June 28, 2016

ブラック・イズ・ブラック  Black Is Black

 ビートルズ来日50周年記念と銘打っていろんな記念行事が行われているようです。1966年、当時、私は高校2年生(?)、友人がビートルズ武道館公演の応募往復はがきの「当選」を記した返信を見せてくれたのを覚えています。

 同じ年、ロス・ブラボスというバンドが『ブラック・イズ・ブラック Black Is Black』を歌って世界的な大ヒットとなります。

 皆さん知っておられる「カントリー」ではありませんが、あくまでも遊びで、「カントリーぽぃロック」、CCR(Credence Clearwater Revival)とかバーズ(The Byrds)のコピーバンドをやっていますが、皆さんのウケを狙うには、少なくとも皆さんが良く知っているビートルズの曲もやらなければと思ったこともあるのですが、残念ながら、ポール(Paul McCartney)の歌はキーが高く私には全く歌えません。2015年に来日、今年74歳の彼、半音も下げることもなく、昔のままのステージとは全くの驚きです。

 皆さんのウケを狙って、数年前、ロイ・オービソンの『プリティー・ウーマン Pretty Woman』をやったのです。同名の映画が公開され主題歌としてのこの曲もリバイバル・ヒットしました。私は気持ちよくバックコーラスを付けるのですが、リードのNobuさんはギターで例のリフ(?)を繰り返しながら歌わなければならず、これがつらいそうで、皆さんの人気を博しながらも、次第にやらなくなってしましました。

  ということで、今回登場したのが『ブラック・イズ・ブラック Black Is Black』です。曲とバンド名は知っていましたが、それ以上の知識は全くなく、何故バンド名がスペイン語なのかも含めて、今回あらためて調べてみました。ロス・ブラボス(Los Bravos ”狼の群れ”)は1966年スペイン出身、ヒットチャート英国で2位、アメリカで4位、カナダで1位など、国際的ヒットを獲得した最初の非英語国出身バンドとなったそうです。

 どうですか?『プリティー・ウーマン』の出だしと似ているでしょう?曲・メロディは良く知っており、ミーハーの曲はやらないと自負していた私ですが、これはウケそうだということで3人に相談したのです。1音下げれば何とか歌うことが出来るし、『プリティー・ウーマン』の時代は3人でしたが、今やMaruさんを加えて4人、そのMaruさんがベースでリフをやってくれるならば、私とNobuさんは歌に集中できます。管理組合も卒業して、何の憂いもなく、バンド活動に集中して、今回の練習に望みました。何回か繰り返して、ええやないか…、なんとか良い感じで曲は進行して…、もうすぐ終わりと油断…、私がチョンボ、台無しにしてしまいました。完成までにはもうしばらくかかるでしょう。

 関西に住む当時の高校生からすれば東京に出るだけでも大金が必要でした。残念ながら、友人はビートルズの東京公演には行けませんでした。音楽、学生運動など、高校生としては早熟な彼に憧れ、あるいは嫉妬さえも感じたのですが、私は大学に進み、彼は浪人して失敗、就職することになります。社会に出てからは再会することもなく、ある日彼の死を仲間から聞いて、一緒に家族を訪ねました。ビートルズを始め、当時の音楽を聴くと彼を思い出します。
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June 13, 2016

So Sad (To Watch Good Love Go Bad)

 当時は高校生、てっきり、『Bye Bye Love』はSimon & Garfunkleの曲と思っていました。実は、かつて彼らが模倣し,そして目指したのがEverly Brothersであったということを知ったのはそのレコードのライナー・ノートでした。Emmylou Harris & Gram Parsonsが歌う『Love Hurts』など他の歌手がカバーするのは聞いたことがあるのですが、Everly Brothersのそれはどうも古くさくて苦手でした。

 しかし、1983年、当時、オーストラリア・シドニーに在住していたとき、テレビで『Everly Brothers Reunion Concert at Royal Albert Hall』が放映されたのを見て、一変、痛く感激したのを覚えています。イギリス人のカントリー・ギタリスト:Albert Leeが奔走して実現した、10年ぶりの音楽活動復帰・同窓会でした。その中で、『Crying In The Rain』と並んで、気に入ったのがこの曲です。今回は、未完成ながら、The The Kentucky Headhuntersのカバーした『So Sad(To See Good Love Go Bad)』のカバーした『So Sad(To See Good Love Go Bad)』、そのまたカバーということになります。直訳ぽぃかも知れませんが、どうぞお許し下さい。

"So Sad (To Watch Good Love Go Bad)" by The Everly Brothers

楽しい時を過ごしたこともあった
だけど今はそれもどこかへ行ってしまった
愛が死んでしまうのを見ていると泣きたくなる
悪くなっていくのを目の当たりにするのはつらい

覚えているだろうか
あなたは言った 何があっても自分の気持ちは変わらないと
二人が別れるのを見るのは心が張り裂ける
悪くなっていくのを目の当たりにするのはつらい

あなたを失いつつあることを
確かに知った時
僕がこんなに落ち込むのも
不思議ではないでしょう

覚えているだろうか
あなたは言った 何があっても自分の気持ちは変わらないと
二人が別れるのを見るのは心が張り裂ける
悪くなっていくのを目の当たりにするのはつらい
悪くなっていくのを目の当たりにするのはつらい

  もう同窓会が開かれることはありません。Phil Everlyは2014年1月3日に亡くなりました。74歳でした。
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June 04, 2016

鎌倉新仏教(1) 時衆

 奈良時代、「南都六宗」と呼ばれた仏教は「鎮護国家」の論理の下、各地に国分寺を建造、律令制強化の手段でした。仏教が定着してくると、実は日本の神々も元を正せば仏であり、仏が「権化」して神となったとする「本地垂迹説」が現れ、さらに盛んにった聖武天皇の時代、唐から鑑真を招き唐招提寺を建立することになります。次第に勢力拡大、政治ににも口を挟む「南都六宗」の拡大を嫌って桓武天皇は平安京に遷都、空海及び最澄を中国に留学させて密教を学ばせました。最澄は比叡山に天台宗を、空海は高野山に真言宗を興し、旧仏教勢力と対抗させたのです。

 古代律令体制は既に崩壊、摂関政治の下に荘園制が進み、平安後期に入ると、天台浄土教の興隆は摂関政治の確立にもつながったということになります。宇治平等院鳳凰堂に代表されるように、阿弥陀を信仰して極楽浄土へ往生することを目的とし、「穢れ」を忌避する伝統的な土着神祇信仰を巧みに取り込んで、浄土信仰は高まっていきます。

 平安の末期になると、「末法思想」が広く信じられ、貴族政治という一つの時代そのものが崩れ落ちていく終末感に加え、大地震・水害・干ばつなの天変地異、疫病や飢饉、大火災や度重なる戦乱で社会は騒然となり、人々の生死に対する問いかけに、閉塞した旧仏教勢力(「南都六宗」及び叡山・高野山)からは何の答えも得ることが出来ませんでした。

160620一遍上人 仏教学を修めた法然(1133-1212)は比叡山を降り、末法の世に生まれた悪人・俗人・凡夫も、それまでは不浄とされた女性さえも、一心に念仏を唱えさえすれば極楽浄土へ往生出来ると説いた。庶民には難解な密教の呪術性を徹底的に排除、国家権力(鎮護国家・貴族)の為のという旧来の仏教から決別して、個人の救済に専念したのです。従来、天台浄土教を信仰していた貴族・武士だけでなく、一般民衆にも急速に広がりました。文字を読めない、況んや難解な仏典を理解できない多くの庶民に対して、「ナムアミダブツ」と念仏さえ唱えれば…、あるいは「座禅」を組むだけで…、「念仏踊り」に身を委ねるだけで…、往生できると説いた鎌倉新仏教と呼ばれる浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、時衆(宗)が誕生しました。当然、旧仏教勢力はこれを庇護する国家権力を動員して法然を徹底的に迫害・弾圧します。

 法然に始まる浄土宗は、彼の弟子、親鸞(1173-1263)に引き継がれてその革命性をさらに先鋭化、後の室町時代、蓮如(1414-1499)の時、ひたむき(純粋)に念仏を唱えて阿弥陀仏を信仰したとして、「一向宗」と呼ばれ、北陸・近畿・東海地方に興隆します。生活共同体(惣)であると同時に宗教共同体(講)、室町から戦国時代にかけて、各地で新しい村落自治共同体が出現することになります。

 鎌倉時代末期になると、行基(668-749)そして空也(903-972)の系譜を引く、法然の孫弟子になる、一遍(1239-1289 時衆(宗))が現れます。貴賤を問わず、阿弥陀仏への信不信は問わず、如何に穢れていようと、念仏を唱えさえすれば往生できると説いた。すべてを捨て、遊行によって、人々の心に大きな希望をもたらしました。人々の心の底から湧きあがる歓喜は、彼らの体を揺り動かして恍惚没我=トランス状態に導き、神(仏)と交信するシャーマンと化す、「踊り念仏」に至ります。

 室町期、この時衆(宗)に関係すると思われる「阿弥」号を持った芸能家・芸術家が現れます。猿楽能の大成者であり「風姿花伝」の著者:観阿弥・ 世阿弥父子を始め、竜安寺の石庭を造った相阿弥など、後の安土桃山時代、茶の湯を大成した千利休の祖父は千阿弥を号しました。彼らは「阿弥衆」あるいは「同朋衆」と呼ばれ、日本文化の多くの部分は彼らが大成したと言えるでしょう。こうして室町時代、時宗は全盛期を迎えますが、多数の念仏行者を率いて順調な遊行するには幕府・大名の庇護が必要となり、権力への接近が、逆に民衆の離反につながり、次第に勢力を弱め、浄土真宗や曹洞宗に吸収されていきます。

 去年出来たことが今年は出来ない、風邪を引いても、今まで1〜2日で治っていたものが3週間もかかったり、それも、若い頃のように100%元の状態に戻るのではなく、60〜70%しか戻らないのです。こうして、徐々に年をとって、死んでいくのでしょう。今まで漠然としていた死が、阪神大震災・東日本大震災そして最近の熊本大震災を経て、確実に迫ってきているのに気付く機会が多くなってきたように思われます。こういう訳でもないでしょうか…、最近、仏教に接近する自分に気付くのです。

 5年前、自転車で知り合った友人:Hさんに初めて連れて行ってもらったのですが…、先日、久しぶりに自転車で藤沢の時衆総本山:「遊行寺(正式名:藤澤山無量光院清浄光寺)」を再訪したのもこんな思いがあったからでしょう。案の定…、かろうじて藤沢に辿り着きましたが、さらに江ノ島までは到底無理、「去年出来たことが、今年は出来ない」を証明してしまいました。

 日本仏教各宗派の総本山・本山の多くは京都・奈良など近畿地方に多く見られるのですが、時衆の総本山はこの藤沢にあるのが少々不思議です。それだけでなく、あの国定忠治の子分、板割淺太郎の墓所、小栗判官と照手姫の墓所(?)や熊野詣の資料、六波羅蜜寺の空也像のレプリカ(?)、教科書で見る後醍醐天皇の肖像画、もちろん国宝:「一遍聖絵巻」など、遊行僧が全国を歩いて集めたであろう品々が「宝物館」に収納されています。「盆踊り」の起源は「念仏踊り」と聞きます。機会があれば、「時衆」を軸に芸能文化の歴史を探っていきたいと思います。
※参考:野間宏・沖浦和光「日本の聖と賎: 中世篇 」 桜井哲夫「一遍と時衆の謎 」 梓澤要「捨ててこそ 空也
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May 26, 2016

悪魔のささやき、天使のささやき

 日曜日、管理組合の総会が終わりました。2年間、管理組合の副理事長を務めてきましたが、恥ずかしながら…、それまでは管理組合が何をやっているのやら、「秋・春苗付け」「草取り」、「もちつき大会」に加えて「防災訓練」「夏祭り」などの年中行事に参加したこともなく、サラリーマン時代は会社との往復だけ、辞めてからも、挨拶は上下左右のお隣さんだけ、近所周辺の方々とのおつきあいは全くありませんでした。幸いなことに…、それまではこの管理組合の理事を引き受けないで済んで来ましたが、それまで皆さんにお世話になったお返しに…とばかりに副理事長を引き受け、それも、2年間もお引き受けしてしまいました。

140907いちご通信 No-002 団地が出来て30年も経てば、建物だけではなく、そこに住む住人=管理組合員の高齢化が進んでいます。近くの中学校の視聴覚教室が会場でしたが、理事、議長・書記及び一般出席者でほぼ一杯、それもほとんどが高齢者、小さな子供さんの居られそうな人はほとんど見かけません。今総会は住民の過半数あるいは3/4以上の賛成が必要な重要議案が多く、関心の高い住人=組合員がいつもより多く出席しているのでしょう。昨年は、受付でもたついて開催が遅れ、加えて一般出席者の賛否の確認がお粗末だったことに起因する進行の遅れは、私だけでなく、理事会全員にトラウマとして残っており、今回は万端の準備をして総会に臨みました。

 笑われるかも知りませんが、組合員(=住民)の3/4以上をもって総会成立となり、<委任状>+<議決権行使書>+<理事>+<議長・書記>+<一般出席者>+<棄権>=組合員(=住民)合計の数式から、<一般出席者>以外の数値は事前に判明しており、当日、来訪する<一般出席者>の数を数えれば、それも何人以上になれば何時でも総会を開始できるのです。ということで、1時間前には来訪者の受付・登録を開始、定刻通りに「開催宣言」をすることが出来ました。

 採決に於いては、<一般出席者>数を如何に把握するかがポイントですが、採決の前に<議場閉鎖>・後に<閉鎖解除>を議長宣言し、その間の<一般出席者>の出入りを停止としました。<一般出席者>が減の場合、<棄権>が増となります。<委任状>を提出しながらも来訪した場合は、<一般出席者>が増で<委任状>が減、<議決権行使書>を提出しながらも来訪した場合は、少々煩雑で、議案毎に賛・否の再確認が必要です。要は、<委任状>+<議決権行使書>+<理事>+<議長・書記>+<一般出席者>+<棄権>=組合員合計という数式です。

141220いちご通信 No-002 一つ気がついたことがあります。組合員(=住民)の意向は「住民アンケート」によって、あるいは最終的にこの総会において賛否が問われ、決定されるのですが、「住民アンケート」結果と「総会議決」結果とは必ずしも一致しない、いや、全く違うということです。その原因は<(理事長への)委任状>の数です。2年前の私のように、「よしなにやってくれるだろう」、早い話が無関心(悪く言えば無責任)な住民が大半です。理事が新しいことをやろうと思えば、臨時でも通常でも良し、とにかく総会に議案を上程すれば廃案になることはないのでは…。ふと、悪魔のささやきを聞いたようです。
150400いちご通信 No-002
 「閉会宣言」をすると、一人の女性が私の席にやって来ました。1年目、私は組合員(=住民)向け広報紙:「いちごつうしん」の制作を担当、紙面を埋めるだけの記事も集まらず、私の描いた絵と同じく私の書いたコラム:『小山田荘を歩く』で何とか紙面を埋め、今回の総会議案書の表・裏表紙にも私の描いた絵を配しています。

 彼女は「いちごつうしん」の絵とコラム:『小山田荘を歩く』の大ファンだったということで、どんな人が描(書)いたのか会ってみたいと、総会に出席されたそうです(本人を見てがっかりだったかも…)。彼女がかけてくれた一声が、天使のそれにも聞こえたのは言うまでもありません。
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May 01, 2016

遊び 「若冲」

 終業式終わり、子供達は連れだって普段は行くことが許されない街に出て、ちょっぴり大人の気分を味わいます。 こうして始まった夏休みも、いつしか近づいた8月の末、彼ら、特に大人に変わろうとする中学生にとって祭は夏の集大成です。大人への階段を上るのです。祭の前の期待感は徐々に盛り上がり、祭の最高潮、いつしか場面は変わり、祭の終わりとともに人波は去って、寂しい情景が取り残されます。子供の頃は永遠と思われた夏休みも、ふとしたことでに終わりがあることに気づき、夏だけでなく、祭も、桜も、月の満ち欠けも、そして人生も同じであることを知るのです。

   いつの頃からか…、移りゆくもの、はかないものを美しい、愛しいと感じるようになりました。平安末期は地震・台風・大火・飢饉などの天変地異が続き、台頭した武家、平氏が保元(1156)・平治の乱(1159)に勝利し、王朝貴族政治は終わりを迎えます。 価値観が一変して、「無常感」・「厭世観」が支配する末法の世・浄土信仰の時代となります。「無常観」とは本来、非情な仏教の根本宇宙原理(悟り・解脱)なのですが、日本の「無常感」は情緒的な自然観(花鳥風月)・死生観と結びついて涙なくしては語れない独自なものとなります。人生ははかない、花は散り際が美しい…と、その美しさだけでなく、無常であることに日本人は愛惜を感じたのです。『平家物語』の「無常感」、「おごれる者は久しからず」は本来は「おごらずとも久しからず」であり、万人をくまなく支配する哲理、「無常観」なのです。

 頼朝が勝利して、初めての武家政権:鎌倉幕府を開き(1192)、以来、約7百年に渡って武家政治が続くことになります。中華儒教思想に倣って文人政治を行ってきた日本は武家・武断政治を確立、その後、本家の中国あるいはその一番弟子である朝鮮とは全く異なる歴史をたどることになります。

 それまでは一握りの富裕な階層に限られましたが、時代と共に生産力は上昇、最低限の必要とする衣食住から解放され、自由に処分できる一定の「お金」と労働から解放された一定の「時間」を持つようになってきます。自由に処分できる「お金」と「時間」が「遊び」を生み、その「遊び」から「文化」が生まれます。

 鎌倉幕府から約4百年後、家康は最後の武家政権:江戸幕府を開きます(1603)。武家社会が完成した江戸時代には、人口の7〜8%を占める武士は、自律的・潔く、学問する知識階級として下の階級から尊敬されていました。…が皮肉にも、大名はともかく(あるいはこれも含め)、その家来:武士の俸給は安く、大半は中程度の農民や商人よりも貧しい、商人が圧倒的に力を持つ商品経済の時代でした。

 商品経済若冲 虻に双鶏図は発展するが、鎖国のため国外への発展は閉塞、自ずとその富は都市へと蓄積します。今まで一握りの階層に限られた教育:読み・書き・算盤は庶民の必修となり、人間のものの見方は質・量で測るようになり、学問を実証的にします。より大衆的な消費社会になると、奢侈への欲望・誘惑を「勤勉」と「禁欲」によって抗しようともがく、まさに井原西鶴(1642 - 1725)の描く社会でした。「浪費」を忌避した商人は、代わりに「趣味の世界」=「芸事・稽古事」、「遊び」に没頭することになり、これまた身の破滅を招く恐れがあります。

 京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」の長男(1716 - 1800)は絵を描くこと以外には全く興味がありません。商売は彼が居ても居なくてもうまく回るぐらいの規模・組織・人材を備えていたのでしょう。「芸事」として絵を始めたわけでもなく、酒も飲まず、博打もせず、女にも手を出さず、いや失言…、結婚もせず(そういえば女性を描いた絵がない…)、40歳という若さで次男に家督を譲り隠居、絵にのめり込んでしまいます。
Etusko & Joe Price Collection

 何年か前に、NHKスペシャルか何かで、アメリカ人の収集家:Joe D. Priceさんの豪邸に展示されている若冲の絵を見て感激した私は全くのミーハーで、先日、やって来た彼の収集物を見ようと上野の東京都美術館に行ってきました。その2日前、再びNHKスペシャルで若冲の特集、私は見ながらうとうとうたた寝してしまったのですが…、テレビの効果は絶大、よくもこれだけ多くのミーハー、いやファンが来たのか、ほとんどはシルバー割引の高齢者、チケット購入に1時間、美術館内に入るのにさらに2時間、展示室の前でさらに1時間を待った次第です。一時は、出直そうか…、とも思った『若冲展』、Joe D. Priceさん所蔵の本物をみることが出来て満足でした。
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April 14, 2016

散歩の途中<13> 植木鉢の春

 朝からブログに何を書こうか…、と読書ノートを読み返していますが良い考えが浮かびません。天気予報通り、今朝からの雨も上がり、午後になると晴れ間も見えてきました。時間を無駄に過ごしてこのまま夕方か…と感じたとき、部屋のドアをノックする、いや、「ガサーっ」と引きずる音がします。愛犬のももが、散歩に出かけるので一緒に行こうと誘ってくれたのです。断片的なアイデアは幾つかあるのですが、今、それを一つの文章にするのは到底無理、ここは心機一転、彼女の誘いに乗って散歩につきあうことにしました。

 年が変わると、自宅からそう遠くないところに在る「こぶし公園」「五反田谷戸の畦桜」「秘密の花園 シャクナゲの群生」を見に行くのですが、今年は雨の日が多く、同じく近所で催される「尾根道桜祭」さえも見に行かずじまいでした。以前にも触れたとおり、私はこの団地(190世帯)管理組合の副理事長の2年目、5月の組合総会に向けて、3月・4月は議案書作りのことで頭は一杯、周囲の季節の変化どころではないというのが正直なところです。去年、私は議案書作成の責任者ではなかったのですが、パソコンが少し出来るという理由で、受験勉強以来の…、夜中までの作業をやるハメに陥ったのは全く心外なことでした。今年は昨年末よりご担当の各人に責任をを持って議案の作成をやってもらっていますので、昨年のような事態にはならないでしょうが、総会終了までは気が抜けません。

 彼女の散歩に付き合って外に出ると、部屋の中ではまだ暖房、おまけにセーターまで着ていたのが嘘のよう、雨上がりの空気はまだ湿っているのですが、風はなく、八重桜の並木道を歩くと汗ばむ陽気です。今年は花見にも行かず、かみさんが育てた春の花を絵に描いています。教えてくれた名前は、残念ながらほとんど覚えていません。
植木鉢 春の花

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April 03, 2016

「Country」も高齢者限定?

 少し古いですが、「演歌」や「歌謡曲」の衰退・凋落を食い止めようと、超党派の「演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会」が設立されたという新聞記事が目に入りました。

 1960年代前半は日本の音楽文化にとっても大変な時代だったようで、シンガーソングライターという言葉が主にフォーク系のミュージシャンに出現したことに原因するのかも知れませんが、それまでの一括り「流行歌」と呼ばれた大衆音楽が消滅して、多数の音楽ジャンルが成立します。その中に、ヨナ抜き音階こぶし、それにつながるビブラートで特徴付けられた歌謡曲が「演歌」と呼称されるようになります。

 70年に入ると、森進一がフォークの吉田拓郎作の「襟裳岬」を歌って大ヒット、レコード大賞を受賞することになり、そもそも演歌と歌謡曲との違いはほとんどなかったのですが、加えて、演歌とそれ以外の音楽ジャンルとの明確な違いはさらになくなってしまいます。90年代以降、ブームに乗ってカラオケ向けの演歌が登場して一時代を築いたが、この当たりから若者の演歌離れ、ポップス指向が強くなったこともあり、今日では演歌を支持する若者はほとんどおらず、60代後半以上の高齢者限定のジャンルとなってしまったのです。

 私もほとんどこの年代の推移と共に生きてきた訳ですが、幸か不幸か、このジャンルが趣味ではありません。かと言って、J.Popsでもなく況んやジャズ、クラッシックでもありません。過去何回か申し上げているのですが、私は「洋楽かぶれ」で、「カントリーぽぃロック」が好きで、その逆の「ロックぽいカントリー」ではありません。具体的に言うならば、上の年代に合わせるならば、1960年代のバーズ(The Byrds)に始まり70年代のイーグルズ(The Eagles)で終わります。ハンク・ウイリアムズの昔は「カントリー&ウエスタン」と言われ、その後の進化でアメリカでは「カントリー」と呼ばれるようになりますが、日本では一部を除いて…、「カントリー&ウエスタン」がガラパゴス的進化ではなく、停滞を続けているようです。

 前回、書きましたインターネットラジオ:Station Ripper、放送局が24のジャンルに別れていますが、そのうちの一つが「Country」です。その「Country」が「Alternative」、「Americana」、「Bluegrass」、「Classic Country」、「Contemporary Bluegrass」、「Contemporary Country」、「Honky Tonk」、「Hot Country Hits」、「Western」の9つに別れます。私は「Contemporary Country」というジャンルの中から「New Country Music Box」という放送局を選択、これだけを録音しています。

 「New Country Music Box」で放送される現代の「カントリー」と呼ばれる曲、ミュージシャンで例えれば…、Alan Jackson, Brad Paisley, LeAnn Rimesなどはカントリー歌手としては良く知られるところですが、Don Henleyは元ロックグループ:イーグルズのメンバーでその前はテキサス出身のカントリー歌手、David Nail, Jake Dodds, Eric Church, Jason Aldean, Jon Wolfeなどは全く知りませんが、それらの曲は「ロック」あるいは「ポップス」とほとんど変わりません。違いがあるとすれば、それは使われる楽器、多くの「カントリー」曲にはペダル・スチール、フィドル、時にはバンジョーが使われ、アップテンポが多くダンサブル(danceable 踊れる)、昔の「カントリー&ウエスタン」のような独特な節回しは聞かれません。

 「その曲が「カントリー」か、あるいは、そうではないかはその曲を歌っている歌手がカントリー歌手であれば「カントリー」、そうでなければ「カントリー」ではない。」とはバンドのNobuさんから聞いた言葉です。「演歌」も同じで、「襟裳岬」を森進一が歌えば「演歌」、吉田拓郎が歌えば「フォーク」です。一世を風靡した元アリスの堀内 孝雄、昔は「フォーク」あるいは今で云う「Jポップス」だったのですが、180度転向、今や「ど演歌」のようです。

 うまかったら何をやっても良いのでしょうね。かつては、ライチャス・ブラザーズ(Righteous Brothers)とプラターズ(Platters)が競った名曲:『アンチェインド・メロディ Unchained Melody』を「カントリー」の美空ひばり:リアン・ライム(LeAann Rimes)が歌います。当時、14歳とは驚きです。

 「年をとったら「演歌」を聞くようになる」とはよく言われたもので、現に「昔はビートルズ、今は演歌」と云う人の話を聞いたことがありますが、私の場合は今のところ転向することなく今日に至っています。しかし、日本の「カントリー&ウエスタン」が進化せず、ガラパゴス的停滞に陥っているのは「演歌」と全く同じです。

 Station Ripperで8百曲ぐらいを集めましたが、十数曲を聴いた限りでは「これ」といった曲は少なく、前回、ご紹介したDavid NailとLee Ann Womackの『ガルベストン Galveston』以外は強い印象を受ける曲が少ないようです。認めるのは残念ですが、私の「カントリーぽぃロック」好みも時代の流れに取り残されてしまったようです。

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March 05, 2016

ガルベストン Galveston

Galveston_-_Glen_Campbell 『ガルベストン Galveston』という曲を覚えておられますでしょう。ジミー・ウェッブ(Jimmy Webb)が曲を作り、グレン・キャンベル(Glen Campbell)が歌って大ヒットした『恋はフェニックス Phoenix』に続く1969年のヒットで、この後に『ウイチタ・ラインマン Wichita Line Man』と続く、アメリカ版ご当地ソング三部作の一つでした。曲自体はストリングス、オーケストラの入ったいわゆるイージーリスニング(?)、ただ単に歌手:グレン・キャンベルがカントリーのバックミュージシャン、ギタリスト出身であったことから「カントリー」のジャンルに入れられたのでしょう。1969年と言えば、ベトナム戦争の時代でした。2016年現在、『ガルベストン』は「Country Music TV's Top 100 Country Music Songs」で8位(因みに、1位は"Stand By Your Man" by Tammy Wynette)です。

ガルベストン 作:ジミー・ウェッブ

ガルベストン、ああ、ガルベストンよ
今も潮風が吹いているのが聞こえる
彼女の黒い目が輝いているのが目に浮かぶ
僕がガルベストンを出たのは、彼女が21歳の時だった 

ガルベストン、ああ、ガルベストンよ
今も波が砕けるのが聞こえる
大砲が閃光を放つのを見ながら
銃の手入れをし、そしてガルベストンを思う

今も海辺に立つ彼女が目に浮かぶ
海を見て立っているのが
彼女は僕を待っているのだろうか
昔、よく一緒に走った砂浜で

ガルベストン、ああ、ガルベストンよ
死んでしまうのが怖い
彼女の涙を拭いてあげる前に
海鳥が日の光の中に飛ぶのを見る前に
ガルベストン、ああ、ガルベストン

 昔はレコード、10年前まではあれだけ買っていたCDも全く買わなくなり、「新曲」とはバンド仲間で次に自分たちでやる新しい曲の意味で、その多くは自分たちが青春を過ごした60〜70年代の曲にて、その後の曲はほとんど知りません。ましてや、昔あれほど凝ったオーディオにも、今や全く興味がなくなり、Youtubeからダウンロードしたタダの曲をiPhoneで聞いて満足している有様です。先日、ストリームラジオを録音できないものかとウエブを調べて見ると、Station Ripperという無料ソフトが人気とか、これにBroadwayというアルバムジャケットを探してくれる、同じく、無料ソフトを組み合わせると、その気になれば、一日に数百曲を曲ごとのファイル:MP3として収集します。

 そこで発見したのがこれです。『ガルベストン Galveston』、David NailがLee Ann Womackとデュエット、特にほとんど全曲にわたる彼女のハモはかっこよく、曲そのものが約半世紀も前のものとは信じられません。

こんな発見もある Station Ripper+Broadway+iTune+iPhoneです。追加は全部タダ、どうぞ皆さんもお試し下さい。
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February 11, 2016

散歩の途中<12> 逢魔が時

 愛犬、ももとの散歩、彼女の歓心を引こうと、その日は広大な緑地の「あさざ池」から「とんぼ池」に向かっています。冬至はかなり前に終わり、昼間の時間が長くはなってきていいるのですが、注意してみると、朝昇った太陽はほとんど上昇せず、南の空の低い位置を西に移動、後1〜2時間で山陰に没しようとしています。そんな時、ただならぬ何か、一瞬の寒気を感じたのが一週間前でした。
夕暮れ時
 大人になって久しくこの感覚に陥った事はないのですが、子供の頃、時間の経つのを忘れて友達と遊んでいのですが、気がつくとうっすらと夕闇がせまり、今日、一緒に遊んだ友達と明日もまた遊べるはずなのに、ふと、もう逢えないのでは…、夕暮れ時はもの悲しく感じてしまいました。夕暮れの時間帯は「たそがれ時(語源は「誰そ?彼…」から、黄昏時の漢字を当てる)」、「かわたれ時(「彼は誰?)」とも呼ばれ、あるいは「逢魔が時」とも云われ、魔物と遭遇してしまう時間帯とされています。夕闇が次第に暗さを増し、昼間の明るさが次第に絞られてくる、人間の時間である明るい昼間と魔物の時間と陰り暗い闇の夜との間に横たわる、曖昧な時間、子供の敏感な感受性は物陰に魔物が潜み、次第に空中に見え隠れして飛び交うのを見ることになります。「人さらい、サーカスに連れて行かれるよ!」
  
 過去に1〜2日寝込むことがあっても、今回のように1週間近くにも続くものとは思いませんでした。不思議なことに…、朝起きて調子が良くても、太陽が西に傾き、もう後1〜2時間で没しようとする夕暮れ時、「誰そ?彼…」、魔物が見え隠れする「逢魔が時」、咳が…、熱が出始めるのは魔物が活動を始めた証拠、私を真っ暗闇の魔界に誘導するのでしょうか。

 病気になると気が弱くなるもので、急性肺炎で即入院の可能性もあり…とは医学・健康知識豊かなかみさんの意見、3ヶ月に1度の高血圧・痛風の投薬治療を受診している多摩丘陵病院へ行ってきました。 体力・抵抗力が衰弱しているので、お互い様とは云え、病院内はあらゆる病原菌・ウイルスの高密度集積地、何十年ぶりかでマスクで顔を覆って(まるで不審者)行って参りました。

 受付にて受診の目的を告げると、さすがにシーズン最盛期、インフルエンザ専門の待合場所にて待機することになりました。待つこと10分、私が初診らしく看護師が綿棒のようなもので、「ちょっとつらいですが…」とか何とか云う間に、鼻の奥の粘膜のサンプル採取します。さらに待つと、私の主治医が顔を出し、挨拶している暇もなく、「1週間は長いですね。念のために、レントゲンを…」と、思いがけず主治医に往診してもらいました。最悪、肺炎即入院も覚悟するほど弱気になった私は「ごくごく初期の気管支炎」との診断でした。現金なもので、だるさはまだ残っているのですが、インフルエンザの嫌疑も晴れ、肺炎の心配もなくなった今、気分は爽快です。
多摩丘陵病院内科待合室
 英語でTwilight Time、「人生のたそがれ」の意味があり、昔『「ミステリー・ゾーン "Twilght Zone"』と云うアメリカTVシリーズがありましたが、これには「睡眠と覚醒の間の意識=まどろみ」の意味があるそうです。
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January 20, 2016

グレン・フライ死去

 1970年代に入ると、ニューヨークは景気の悪化、犯罪の増加、音楽スタジオの老朽化により、ミュージシャンには居心地の悪い街になってしまいました。1971年、デイヴィッド・ゲフィンがロサンゼルスに新しく設立したアサイラム・レコード(Asylam Records)が、「Asylam」とは、独仏語の「アジール(Asyle、Asile)、避難、亡命、保護、(亡命者などの)保護施設、聖域、不可侵」の意味、正にニューヨークのミュージシャン難民を受け入れたのでした。

 その一人がグレン・フライでした。フライは1948年デトロイト生まれ、バンド活動の後、活動の場所をロサンゼルスに移し、彼の地でソングライターのJ・D・サウザーやジャクソン・ブラウンと出会います。J・D・サウザーの紹介でリンダ・ロンシュタットのバック・バンドとなり、テキサス出身のドン・ヘンリーとともにイーグルス(The Eagles)を結成します。

 1972年、彼らのデビュー曲:『テイク・イット・イージー(Take It Easy  作:ジャクソン・ブラウン/グレン・フライ)』は大ヒット、これを期にジャンルとしてのカントリー・ロックは黄金期を迎えることになります。

Beverly_Hills_Hotel 多くのヒット曲を残してきた1976年、彼らの集大成とも云うべき最高傑作、『ホテル・カリフォルニア(Hotel California 作:ドン・フェルダー/ドン・ヘンリー/グレン・フライ)』が、後にも先にもない、大ヒットとなります。現に、イーグルスはこれを越える曲を世に出すことは出来ず、一世を風靡したカントリー・ロックの黄金期は一気に収束に向かいます。

 ブログを振り返ってみると、ビーチボーイズと並んで、いやそれ以上に…?、イーグルズがたびたび登場します。 『テキーラサンライズ Tequila Sunrise(2008/5/3)』、『アサイラム ASYRUM RECORDS、 黄金の1970年代(2009/9/14)』、『ホテル・カリフォルニアって何処にあるの?(2009/12/23)』、『『テキーラサンライズ』をもう一度(2010/3/24)』、『Standing on The Corner of Winslow, Arizona(2012/1/24)』、『Maruさん、ありがとうございました(2014/3/31)』

 如何に彼らをあこがれたか…ということでしょうが、未だに彼らの最後の、最大のヒット:『ホテル・カリフォルニア』をコピーしようとは思いません。

 10年前(?)、バンドのNobuさんとロサンゼルス近辺を旅行し、イーグルスがリンダ・ロンシュタットのバック・バンドとしてデビューしたクラブ:『トルバドゥール(Troubadour)』を訪ねたのが懐かしく思い出されます。…残念ながらお店は閉まっていましたが…。

 グレン・フライ死去、享年67歳。ご冥福をお祈りします。

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January 02, 2016

もらった年賀状を前に

 
紅白幕_1

新年あけましておめでとうございます

三猿像(2016年年賀状)

  風もなく穏やかな新年です。平日とは違って、さすがはお正月、年賀状の配達は朝一番に行われるらしく、私もほとんど例年通りの年賀状を頂きました。毎年、出す枚数を減らしているのですから、自ずともらう枚数も減るはずですが、それでも、今年はあまり減っていないようです。私は、どちらかと言えば、年賀状を無用と考えています。最近では『筆まめ』などのソフトで作成される人が多く、この時期になると、どこの家電量販店のチラシを見ても、その目立つところにはインクジェット・プリンターの広告、それも本体は安く、機種によっては1万円を切り、逆にインクは馬鹿高く、加えてすぐなくなる超消耗品です。年賀状を除いて、写真以外に、どんな時ににカラー印刷を使うのでしょうかね。日常に使う場合、ほとんどの場合、白黒あるいはグレーで十分、モノクロのレーザープリンターがランニングコストも安く、インクに当たるトナーも、家庭での使用を考えた場合、1年は持つのではないでしょうか。

 年賀状と言えば、今年は「申」年ですが、私はこの干支も、加えて年号も嫌いで、干支はどうでもいいのですが、年号は廃止すべきものと考えています。昭和の時代は「25を足して、あるいは引いて…」、と何とか来たのですが、これが平成の時代になると全く判らないようになり、以来西暦だけでやって来ました。しかし、行政・法律を始めとする公の多くの場面に於いては、それが法律によって決められている訳でもないのに、和暦:「平成」を使わざるを得ないというのが事実でしょう。さすがに、生年月日記入欄に(明)(大)はなくなったかも知れませんが、なぜ西暦で記入させないのでしょうかね。「干支」「元号」の本元、中国では1949年の国慶節(建国記念日)以前はともかく、共産党政権下の中国では「干支」はともかく「元号」ではなく、西暦のはずです。因みに、共産党が政権を取って中華人民共和国を樹立、蒋介石国民党は台湾島に追いやられ、中華民国は台湾省一省だけの国(?)となり、今でも大陸反攻を建前としています。共産党政権が国名「共和国」を使ったのは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)においてもしかり、たぶん…、両国は西暦を使うのではないでしょうか。

 その中国近代における歴史的事件の一つ、「義和団の乱(1900)」は既に紹介しましたが、中国の国干支から「庚子事変(こうしじへん)」とも呼ばれることもあります。映画:『北京の55日 55 Days At Peking(1963)』、同名のテーマ曲はブラザーズ・フォーが歌っていましたが、日本語版はあの「8(エイト)マン」克美茂が歌っていました。「時は1900(いっせんきゅうひゃく)年で始まります(オリジナルは The year was 1900(nineteen hundred))。これはハリウッド映画だから違和感ないのですが、70年前後、鶴田浩二が特攻隊員の出撃前の心境を朗読したことがありました。「昭和19年」で始まったと思いますが、これを「1944年」と西暦で云えば、時代もぴんとこないし、悲壮感も半減したことでしょう。年末の恒例の赤穂浪士討ち入りの日、「時は元禄十五年十二月十四日」で始まるからかっこよく、様になるのですが、これが「西暦1703年1月30日」では興醒めでしょう。ついでに、もし墓石や卒塔婆、俳句や短歌も西暦で書かれていたらいかがなものか…。

 思いついた話もこれまで…、お正月二日目、取り立ててやることもなく…、かみさんともも(愛犬)の3人、ホームセンターの安売りでテニスボール1箱(5ダース)を買い、近くの公園で梅(蝋梅)の香りを楽しんで来ました。
蝋梅
 もう一つ思い出しました。「今年はお会いしたいものです」は常套句、案の定、彼の年賀状の絵は「猿」に変わりましたが、コメントは相変わらずです。私の出した彼宛の年賀状のコメントは「今年も、たぶんお会いしないと思います」でした。
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December 30, 2015

第7回 かってに、HKX紅白歌合戦

 私の人生にはもう少し余裕はありますが…、今年の幕を降ろす秒読みは始まっています。

 忘年会の一つがあり、久しぶりに街に出ました。東京都と神奈川県の境を流れる、文字通り、境川沿いに歩行者優先の自転車道を走って江ノ島からの復路、藤沢当たりの公園のベンチで休憩していると、話しかけてきたのが彼でした。Hさんは私より先輩ですが、昔はトライアスロン日本代表の一人として宮古島・ハワイ遠征の経験があり、恐れ多くも、そんな彼に藤沢の遊行寺、鎌倉の妙本寺を自転車で案内してもらったことがあります。一年を振り返ってみると、寒い冬、「暖かくなったら自転車に乗ろう」と思い、暖かく・暑くなってくると「涼しくなってから…」、と何かと自分に言い訳して…、今年は自転車に乗っても町田市止まり、電動アシストならともかく…、江ノ島・鎌倉なんて「とんでもない」と云うのが本音です。以来、自転車で知り合った彼ですが、大和か町田のどちらかで、忘年会だけが続いています。

 子供の頃、若い時には、今まで出来なかったことが初めて出来た瞬間…、ある種の感動にも似た経験をしたものですが、最近この歳になるとめっきり少なくなりました。はずかしいながら描き始めた「絵」が意外にも皆さんに喜んでもらい、最近は、自己流ながら、「楽しい」という領域にまで入って来たのは大いに感動に値する経験です。余談ながら、「知っているというのは、好むには及ばない。好むというのは、楽しむのには及ばない」と云うそうですが、「「楽しむ」とは主客合一の夢幻境、対象への「知」と「愛」、それを持って止揚した所に本物の揺るぎない「楽しさ」が誕生する(『遊びの構造論 』)」と続くのですが、私の場合は、もちろん、到底その域にまでは達していません。しかし、「絵」は自分の人生で見つけた最後の、そしてこれからの人生、いや、余生で最も重要な位置を占める予感がするのです。

 Nobuさんに誘われて40年ぶりに押し入れの奥から引きずり出したギターでブログにデビュー(『やってしまいした Sister Golden Hair(2008年1月)』、その数年後には初めてライブ・ステージに立ったのが還暦を過ぎてからのことでした。Nobuさんは他のカントリーバンドでスチールを弾くようになり、我々と違ってお金をもらえる立場、そのスケジュールが優先されるのは当然、Kunさんは現役で日曜日だけ、私はと云えば、2年目の管理組合副理事長で、理事会・住民を二分する大論争の最中で外すわけにもいかず、バンドのメンバーには何かと迷惑をかけています。

紅白幕_1

第7回HKX紅白歌合戦

紅白幕_1

 この1年、どんな新曲をやったのかを振り返ってみると、『Norwegian Wood』『Who'll Stop The Rain』も2014年の曲、2015年にはわずか1曲:『Woodstock』しかやっていなかったのを知って愕然としてしまいました。嬉しいことに、先日、以前のメンバーの一人、BaseのMaruさんが復帰して、文字通りBaseは曲の元・根幹であることを再確認させられたところです。ということで、今年の『第7回紅白歌合戦』のトリは、BaseのMaruさん復帰記念の『So Sad ( To Watch Good Love Go Bad)』です。ご存じ、Everly Brothersの古い曲で、もう少し練習すれば聞きやすくなることでしょう。

 私は、このギターの技量で感動を覚えることはほとんど不可能でしょうが、バンド活動は「楽しい」です。

 この一年、応援して頂きありがとうございました。皆さん、良いお年をお迎えください! 

さよなら
※参考:蘭田碩哉『遊びの構造論
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November 22, 2015

女流俳人 五十嵐浜藻

  昨日は、柄にもなく、「いま蘇る江戸の俳人、五十嵐浜藻・梅夫の旅と俳諧」と題する研究員発表会に参加しました。もちろん、研究成果を拝聴する側です。たまたま、研究員の一人が私のテニス仲間、その彼と歴史の話をするという間柄だけで、私には俳諧・連歌、いわんや彼の研究する五十嵐浜藻・梅夫父娘はその名前すら聞いたことがありませんでした。

 五十嵐浜藻(いがらしはまも)は、1773年、町田市南大谷の名主:五十嵐梅夫を父に長女として誕生、祖父:祇室に始まる俳諧連歌の家に育った。 時代は「田沼意次の時代(1767- 1786)」、米を中心とする重農主義から重商主義的政策への転換がなされ、商業資本・高利貸などが大いに発達、「粋」・「通」・「洒落」など江戸文化が確立、江戸が都会に変貌した時代です。その反動として、松平定信が幕政を担って「寛政の改革(1787)」を行うも失敗、その失敗を立て直すこともなく幕末を迎えることになります。

 五十嵐浜藻1806年、俳諧連歌に入れあげた浜藻(当時33歳)・梅夫父娘は、家業の札差(米の購入・販売・金融)を入り婿の夫に任せ、6年にも渡る西国行脚の旅に出ます。結婚して何年目だったのでしょうか? ご主人との間の子供は?お金に関する不自由はないにせよ、旅に残してきた家庭はどうなったのでしょうか?そんなことを心配した、気遣った一句でも残しているのでしょうか、下流老人である私は心配になってきます。

 しかし、古今東西、芸術家は裕福な権力者の家に生まれるか、裕福な権力者をパトロン、庇護者が不可欠です。飲まず食わずの人間に時代を突き破る芸術は生まれるはずはないでしょう。浜藻父娘のように、単に裕福な家に生まれただけではなく、見方によっては常軌を逸した行動こそ時代を突破する力になり得たのでしょう。商品経済の高度化は、手紙による通信および出版産業を発展させ、各地のプロの俳人やそのファン、アマチュアに援助を頼んで旅をすることが可能になったことを意味し、地方に住む彼らは都会からの情報としてこれを歓迎しました。

 おそらく「芭蕉没百年」を記念して、芭蕉縁の地を訪ねて関西・四国・九州に旅し、各地で俳諧連歌の「座」、今日で言えば「セッション」に参加します。「俳諧」の本来の意味は、宮廷・貴族的な「雅」に対して、「冗談・ユーモア・たわむれ・ふざけ」でした。五・七・五からなる17音の発句に始まり、七・七の14音の第二句、五・七・五の第三句、次の14音の第四句…、と交互に繋いでいく、「鑑賞」と同時に「創作」の能力が不可欠な芸術です。「わび茶」を完成した利休とならび、俳諧連歌の「座」は近代を、特に女流俳人:五十嵐浜藻による俳諧連歌の「座」はやってくる近代をも越えて、多分に今日的な意味を持っているのかも知れません。

1年目(1806) 江戸⇒尾張⇒大津⇒四国⇒御手洗⇒小倉⇒博多⇒久留米⇒長崎⇒博多(越年)
2年目(1807) 筑前⇒下関⇒広島⇒横路⇒庄原⇒上下の里⇒笠岡⇒讃岐津田(越年)
3年目(1808) 高松⇒小豆島(京都で越年か)
4年目(1809) 京都⇒近江⇒伊勢⇒尾張⇒上有知⇒京都(越年)
5年目(1810) 京都⇒摂津兵庫⇒難波⇒河内⇒伊賀上野⇒伊勢⇒大津⇒京都(越年)
6年目(1811) 京都⇒丹後⇒越後⇒信州⇒江戸帰着(12月11日)
 
 フランス革命勃発(1789)でオーストリア領ネーデルランドをも戦場となり(1792)、国元に戦火が及んだオランダの日本市場独占の手薄を突いて、ロシアが南下、1792年、日本人漂流民:大黒屋光太夫らの返還と交換に日本との通商を求めてラクスマンが来航します。

 革命戦争後、オランダは従来の日本市場独占を再構築する必要に迫られ、1823年、日本再研究のためにドイツ人、シーボルトを日本に派遣します。彼の研究は、動植物・鉱物に始まり宗教・風俗習慣・法律・政治・地理・芸術・学問・言語等広範囲におよび、1826年には、オランダ商館長の江戸参府に随行しています。 

 一行は、1826年2月15日に長崎を出発、下関を経て3月18日に京都に到着、3月25日京都を出発し、4月10日に江戸に到着しているが、その京都滞在中に、彼は浜藻が編集した俳諧連歌集:『八重山吹』を資料として購入しています。その書はライデン大学「シーボルト・コレクション」の一つとして今も保存されているそうです。

※ 参考資料:倉本一宏「旅の誕生 」 池上英子「美と礼節の絆

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October 04, 2015

大久保長安_その

東京都といっても西の端、町田市に住んでいます。明治初期には、神奈川県に入ったり東京都に編入されたり、どっちつかずの、早い話が、どうでもよい地区だったのでしょう。南に横浜市、西に相模原市という2つの政令指定都市に、北には武蔵野国多摩郡の面影を色濃く残す八王子市に隣接しています。横浜、相模原は幕末・近代以降の町ですが、八王子は、ここを統治していた後北条氏滅亡し、家康の関東移封を契機に大いに発展しました。すぐ北に隣接、関東地方の天気予報では、東京都内と並んで、八王子市の天気が表示されることもあって、近すぎる・身近すぎるのか、古いですが…、かといって、洗練された古さでもなく、あまり興味の持てる街ではありませんでした。

 そんな八王子を、ウォーキングが趣味のIkeさんを誘って歩きました。JR八王子駅の北側を甲州街道に平行して歩きます。 そこで見つけたのがこの、イメージ通りの八王子の風景です。
八王子街中の風景_2

産千代稲荷 元へ。20分ぐらい歩くと産千代(うぶちよ)稲荷神社に至ります。
 1590年、後北条氏が滅亡、関東に入封した家康の命を受け、大久保長安(ながやす)は江戸城を守る重要拠点として八王子に陣屋を設けて、関東十八代官の代官頭として関東全体の統治を行いますが、その際に創建されたのが「産千代(うぶちよ)稲荷」です。実は大久保長安という人間を知りませんでした。八王子、甲州街道そして千人同心を作った人…、それ以上の興味を持つこともなかったのですが、彼の出自、もう一つの側面を知って興味が沸き、今回の八王子行きに繋がりました。

大久保長安_1 長安は、大蔵流猿楽師の子として大和国(奈良)に生まれ(1545)、祖父は春日大社で奉仕する金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国に流れて大蔵流を創始した。「能・猿楽」は観阿弥・世阿弥父子により南北朝時代から室町時代にかけて大成されますが、戦国時代になると将軍家や寺社の勢力が低下、座は分裂、各流派は勃興する各地の武将を頼って地方へ流れて行くことになります。観世流は駿河へ落ちたために、 今川義元の人質だった家康が観世流に親しむことになり、 江戸開幕以降も観世流が筆頭の地位が与えられることになります。同じように、大蔵流の父兄とともに甲斐国に落ち、武田信玄に父は猿楽衆、長安と兄は同見習いとして仕えました。武田家滅亡(1582)の後、長安は家康家臣となり、大久保忠隣(1553-1628)の与力に任じられるが、この際に名字を賜り、姓を大久保に改めます。驚くべき事に、長安の本当の姓は、観阿弥・世阿弥と同じく「秦(はた)」で、その先祖は秦川勝に繋がるというのです。

 信玄の配下、長安は猿楽衆見習いだけでなく、治水・治山・鉱山・設計・工事を行う蔵前衆となり、黒川・湯の奥金山の経営に参加、戦時には後方支援・兵站を担当した。武田家滅亡の後、家康家臣となり、交通・産業など広範囲に渡り徳川幕府創業期に大きく貢献する。見地を全国的に展開して財政力を高め、東海道・中仙道に里塚・宿駅を設け、甲州街道を新設、紀州新宮から佐渡までの航路を整備し、石見・佐渡・院内・伊豆金山を開発・経営、「アマルガム法」と呼ばれる南蛮精錬法を導入して生産力を飛躍的に拡大した。八王子を領地とし、敗れた今川・武田・後北条の浪人対策・治安維持・西の重要地点守備を目的に開発・整備され、それを担ったのが旧武田家家臣からなる「八王子千人同心」でした。 超人的な活躍です。

 浄土信仰が大流行した平安末期・鎌倉の再来か、戦国時代から江戸時代にかけて人々は明日の命も知れず、浄土真宗は一向宗の門徒集団として政治力を持つようになり、伝来のキリスト教が大名から庶民まで、身分に関係なく浸透、日本は史上最大の宗教の世紀を迎えます。農業中心の世界から商業・工業重視する世界への移行、それに付随して芸能の発展、「非農民」=「芸能人」=「道々の者」の興隆が見逃せません。長安の超人的な才能は猿楽師、いや、その先祖としての秦氏に関係するものでしょうか…、次回はこのあたりを探ってみることにしましょう。

※ 参考資料:川上隆志「江戸の金山奉行 大久保長安の謎 」 村上直「千人のさむらいたち 〜八王子千人同心〜」
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July 30, 2015

夢とうつつの境目、釈迦堂切通

 かつてはワンダーフォーゲル部に所属、歩くこと自体が好きな彼ですが、私はそれほど興味がありません。そこで彼の見せる私への気遣いが、歴史の一幕として登場する所を歩こうという提案で、私も中仙道、馬籠宿・妻籠宿に行くのを楽しみにしていました。ところが、彼から連絡あり、この小旅行を前に、山仲間との四泊五日の登山から久しぶりに帰ると急に膝が痛み出したので、大事をとって中止を伝えてきたのでした。

 島崎藤村の小説:『夜明け前』には「桜田門外の変(1860)」から4年後、武田耕雲斎を総大将とする天狗党800人余は、幕府追討軍の追尾を受けながら、頼りとする水戸本家筋の慶喜の居る京都を目指して整然と通過するのが描かれています。残念ですが、次会に譲りましょう。

釈迦堂切通 このままでは7月は、何もしないまま…、終わってしまいそうです。ということで、思いついたら一人で即実行できる鎌倉切通巡りに出かけることにしました。近所に住むIkeさんには巨福呂坂、化粧坂そして朝比奈切通に連れて行ってもらっているので、今回はお手軽な釈迦堂切通です。鎌倉駅の東、鶴岡八幡宮の参道:若宮大路を挟んで東側に位置する妙本寺の裏側にあるとは下調べしていたのですが、歩いてみるとよそ者には全くの迷路、お店の人も「次の信号を左折して、誰かに聞いて」…、住宅地の最深部、最も奥まった所に、無粋な二重の立ち入り禁止のフェンスに阻まれた切通を見ることができました。結果は…、見つからないよりマシといった感じで、感激にはほど遠い景観です。
 脈絡がなくて掴み所のない…、得体の知れない映画:鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン(1980)』の舞台です。夢と現(うつつ)、幽界と顕界、此岸(この世)と彼岸(あの世)の境目が釈迦堂切通なのです。時代は大正、藤田敏八演ずる青地は陸軍士間学校の教授、原田芳雄演ずる中砂は病的な放浪癖、二人は友人関係、彼らの住居の間に釈迦堂切通があります。二人は旅の途中で大谷直子演ずる小稲:芸者と出会う。中砂は園という女性と結婚するが、園と小稲は瓜二つに似ています(大谷直子の二役)。二人の間には豊子という女の子が誕生、まもなく園は死んでしまいますが、そこに乳母として入ってきたのが小稲でした。この辺で、映画を見た当時、今でもそうですが…、私は訳が判らなくなってしまいました。
 
 伏線か…、盲目の門付芸人が現れます(実はこの「門付(かどづけ)」という言葉を今回初めて知りました)。琉球舞踊のカスタネット「四ツ竹」、琵琶を伴奏に卑猥な歌を披露する旅芸人。男二人、女一人、年長の男と女が夫婦なのか、若い男と女がそれなのか…、病的な放浪癖の中砂は彼らの後を追い、桜吹雪の中、麻酔薬を誤吸引して死んでしまいます。

 何年かが過ぎ、残された母子、小稲と豊子が青地を訪ねてきます。釈迦堂切通を通って、それも決まって…、逢魔が時に。中砂が生前、あなたに貸した本を返してくれという。なぜ、本のタイトルを知っているのかと聞くと、娘の豊子が夢の中で、死んだ中砂の声を聞くと言う。ある日、「あなたに貸したサラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』を返して」とやって来ますが、中砂と一緒に聞いたがレコードを借りた記憶がありません。レコードを発見した青地はそれを借りた青地の妻と中砂の関係を知ることになります。レコードを返しに小稲を訪れ、『ツィゴイネルワイゼン』を聞く二人。辞去して釈迦堂切通をくぐると鶴岡八幡宮の太鼓橋、園子が立っています。この辺になると、誰が生きていて誰が死んでいるのか、何が何だか全く判らなくなってしまします。
  誤って録音されたサラサーテの肉声は園子にも聞き取れなかったのでしょうか。 「ツィゴイネルワイゼン」は「ジプシーの旋律」の意味のドイツ語、サラサーテ自身がスペイン人でありジプシーの文化の継承者です。一方の盲目の門付旅芸人は遠く平安時代の傀儡(くぐつ)、さらには渡来人集団:秦氏に繋がり、彼らはさらに西にあった文化、ジプシーに一脈通じているのかも知れません。
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July 09, 2015

ギリシャ危機と「ルネサンス」 

BBC地球伝説 EUが求める緊縮策の是非を問うギリシャ国民投票が行われ、当初は賛否拮抗するかと思われていましたが、61%が反対とはいう予想以上の結果でした。お白州に引き立てられたギリシャが、壇上で見下ろすEU、最大の支援国:ドイツを前に、「厄介者扱いの上に言いなりはまっぴら」と、もろ肌脱いで開き直っている様子です。

 第1回大会がギリシャ・アテネで(1896)、21世紀初めての第28回オリンピックも同じアテネで開催(2004)されたのは記憶に新しいところです。レスリング競技の一つ、グレコ・ローマンスタイル(Graeco-Roman)は文字通り古代ギリシア・ローマの伝統に由来しているかのように聞こえますが、19世紀、イタリア人やフランス人が現代のスポーツと古代のものとの関連を見出すことで付加価値を付けただけのもので、彼らの古代ギリシア・ローマへの憧憬が現れている好例でしょう。

 芸術、哲学、 科学が花開き、民主主義が芽吹いた古代ギリシャ文明(紀元前6〜3世紀)を、古代ローマ文明と並んで、強く憧憬する西欧人は14〜15世紀、古代ギリシア・ローマの学問・知識の復興を目指す「ルネサンス」がイタリアで起こり、各国に影響を及ぼしたと言われています。かつて、ゲルマン人が北方から侵入、西ローマ帝国を崩壊(467年)させます。彼らは、キリスト教を利用して、自分達より高度な文明を持つ先住民族(旧ローマ帝国市民)を支配・統治したのです。一方、東ローマ帝国(395-1453)は、首都をコンスタンティノポリスとし、7世紀に始まるイスラム勢力の進出で後世ビザンツ帝国と呼ばれますが、1453年、オスマン・トルコにより滅亡、首都名もイスタンブールに変わります。

 「ルネサンス」の時期、古代ギリシャ文明からすでに1千年以上も経過しており、地理的に見ても、文明の存在したギリシャを含む東地中海は完全なイスラム圏となっています。当時の西欧知識人は、単に、東方文明、特に優越したイスラム文明(アラビア語)を通して遠い古代ギリシャ文明を知ったのであり、民族・国家として古代ギリシャ文明を継承してきた訳ではありません。古代ローマ文明がイタリア人・フランス人などラテン系のルーツ・拠というのは理解出来たとしても、ドイツ人のそれではありません。かつて、西ローマ帝国に侵入したゲルマン人、その後のドイツ人は古代ローマにも、況んや古代ギリシャ文明には全くと言ってよいほどに繋がりません。それ故か…、ドイツ人は狂ったようにギリシャ崇拝に走ったのです。「ドイツ人の間では、フランス人・イタリア人への対抗故か、ローマ史やラテン語よりもギリシャ研究の方が人気が高かった」そうです。ギリシャの側も近代国民国家を作る過程でこの「ヨーロッパ文明の精神的故郷」のイメージを利用して、国家のアイデンティティーとしました。

 「ルネサンス」は、美術の領域ならいざ知らず、単なる西欧人の思い込み、憧憬に過ぎないのかも知れませんが、西欧はこの幻想の「ルネサンス」に続いて「宗教改革」を共同体験しますが、ギリシャは全くの埒外にありました。加えて、彼らは、ローマ教会ではなく、東方正教会:ギリシャ正教、ロシア正教に近い存在です。

 EUは自らの精神的故郷でアテネ・オリンピックを開催、過剰な投資であぶく銭をもうけ、祭りの後に残ったのは見事なまでの「廃墟」です。「ヨーロッパ文明の精神的故郷」:ギリシャはEU離脱をちらつかせていますが…、果たしてヨーロッパとは何か?、…考え込んでしまいます。新国立競技場

 気取っている場合じゃありません。他人の心配よりも…、借金の上積み、2520億円もかける国立競技場建設の方が深刻です。

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May 19, 2015

ホッとしました

 団地管理組合の総会が終わりました。副理事長を務める私にとって総会は最大の山場、難所でしたが、かろうじて乗り切ることが出来ました。既に副理事長留任を決めていたのですが、3月以降、議案書の作成など、総会に向けての準備に追われ、カレンダーの連休はあってもないに等しい毎日、留任を宣言したことが悔やまれました。

 150514アマリリス総会終了に合わせるように、かみさんは親の面倒を見に四国へ出発、我々夫婦の愛犬:ももの世話に加えて、彼女が育てている花々に水を遣る、というのが留守を守る私の仕事です。一階部分が我が家、その特典で専用庭が付いていますが、ベランダの手すりには彼女が出発前に胡瓜用のネットを張り巡らしており、帰って来たら、市から支給されたゴーヤを植える段取りなのでしょう。昨年の実績はこれ
 150427アブチロン
 そのネットをくぐって、久しぶりに庭に出ると、そこは今が盛りの花でいっぱいです。通勤に、ゴミ捨てに、近所を通る住民が振り返る、話では「花の家」と呼ばれているそうです。近所の公園に積もった腐葉土を運んで作った庭、散歩仲間、近所の人から頂いた、あるいは世話をできなくなった、手に余るような植木をもらって帰り、この季節、花々を咲かせるまでに育てるのは、少なくとも私にはない能力です。

150422_ビオラ 花をもらって喜ばない人はいません。これで、我が家はちょっとしたお返しを頂くことになり、先日などは、甘いメロンをお裾分けに、趣味でやっている畑の収穫物をもらったりしています。次は何をいただけるのか…、楽しみです。

150408_クリスマスローズ (1) そんな訳で、かみさんの留守の間に枯らしてしまう訳にはいかない、という気持ちで、ホースを取り出して散水を始めました。…と、「水をやらなくても、雨が降りそうなお天気ですよ」、とは近所に住む管理組合の理事長の声。今から仕事で会議に出席するとかで、彼も総会の重圧(?)から開放されたらしく、バス停に急ぐ晴れ晴れとした彼の後ろ姿を見送りました。 

 空を見上げると、一面に雲、水をやるまでもなく、夕方あるいは今夜は間違いなく雨、栓を閉めて、もう一つの仕事、愛犬:ももの散歩に、今日は少し遠くまで、出かけることにしましょう。
140625モモ
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March 27, 2015

散歩の途中<10> こぶし公園

 季節の回り舞台は巡ってきました。去年は、『蝉しぐれ』のタイトルバックの「五反田の畦桜」、続いて「秘密の花園」のシャクナゲの群生には感激したのですが、今年はこれに加えてもう一つ、「こぶし公園」をご紹介しましょう。

 「こぶし」は「辛夷」あるいは「拳」という漢字を書くそうですが、中国語で「辛夷(シンイ)」は木蓮(モクレン)を意味し、日本語の「拳(こぶし)」は子供の握りこぶしに似ていることに由来するそうです。「辛夷」、からい・つらい東方の未開人・野蛮人、という漢字が気になりますが、「辛」は同音の「新」につながり、植物が枯れて新しい世代が生まれようとする状態を意味するそうです。ひょっとしたら、東方の野蛮な未開地から渡来してモクレンになったとか…?、日本の「こぶし」が原産かも知れませんよ。

 遠くから見ると桜に似て、桜よりも早く咲くことから北海道では「ヒキザクラ」、「ヤチザクラ」、「シキザクラ」などと呼ばれ、これが咲き始めると田植えや種まきを始める地方もあり、「タウチザクラ」、「タネマキザクラ」と呼ばれるそうです。

 「五反田の畦桜」及び「秘密の花園」は少々遠いのですが、この「こぶし公園」は団地の中、自宅から歩いても10分ぐらいでしょうか。
こぶし公園

 今日あたり、コブシはかなり散っているかも…、次は桜、シャクナゲと、舞台に立つ主役も替わっていきます。
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January 27, 2015

やっと終わりました…、「餅つき大会」

我々おやじバンドのリード・ギター担当、Nobuさんはもう一つのバンドにも参加、ペダル・スティールを弾いています。そこでは各人の技量も上で、金額の大小はともかく、お店から出演料がもらえるほどの技量のバンドとは、かなりなレベルです。素人バンドが出演料を払ってステージに立つのはカラオケや他の習い事と同じ、そこそこ上手くなると出演料は無料なのですが交通費他は自前、我々のバンドはこのその中間ぐらいでしょうか。Nobuさんの参加するもう一つのバンド練習とは、それまでは各人・各パートが家でそれぞれ練習してきたものを集まって「音合せ」をするだけが原則だそうですが、我々のそれは、特に私のレベルが低いために、集まった時に、二人に私の誤りを訂正してもらうことから始まってしまいます。

自分の好きな楽曲を演奏するだけでなく、集まることそのものに楽しみを感じるバンドでやって来ましたが、最近は「手前よがり」な選曲は止めて、出来る・出来ないの前提はあるものの、聞く人が良く知っていて一緒に歌える、例えばThe Beatlesの曲を演奏しようと努めるようにしています。

 彼のもう一つのバンドの「音合せ」、出演料の入るステージのための「本気度」は高く、我々と同じく日曜日が活動日とくれば、その活動を優先しなければなりません。そんなNobuさんから、「最近、(Isaoは)管理組合の活動を楽しんでいるように見える」の一言。確かに、以前のバンドにかけるエネルギーの一部は管理組合活動に費やされているのかも知れません。順番で廻ってきた副理事長の仕事、やるからには、今までお世話になって来た地域への恩返しという意味で、一生懸命に、1年間は頑張ってみることにしたのです。何も他人様だけの為にやっているのではなく私自身のためにもこの副理事長を頑張ってやっているのです。やるからには楽しくやらなければなりません。

【号外】餅つき大会のお知らせ この時期に行われる最大行事、私にとっては初めての「新年餅つき大会」でした。去年・おとどしはノロウイルスの流行で中止、なまじ保健所に相談したら今年も中止になったでしょう。このような行事には必ず名人が登場、餅つきの名人・とん汁作りの名人・甘酒作りの名人…、名人は各持ち場を取り仕切り、また取り仕切ってもらわないと事は始まらないのが事実ですが…、それが次の世代に引き継がれているのならともかく、毎年ほとんど同じメンバーが名人として活躍しています。久しぶりにやって来た孫の世代=小学生以下の子供たちには「餅つき体験」も喜ばれるでしょうが、彼等の父親、引き継ぐべき我々の息子の世代がコミュニティの外に出てしまっている今、名人の選手交代はなく、あるのは名人の高齢化です。「夏祭り」と同じく、「餅つき大会」もおっつけ開催は難しくなるでしょう。

 戦前、修学旅行に行けなかった世代が上司になって始めた社内旅行が嫌われて熱海の温泉街が衰退し、次の「団塊の世代」と呼ばれる我々は、近所付き合いを「おせっかい」と嫌って田舎を出て都会の集合住宅に住むようになりました。その世代に属するバンドのNobuさんが、都内から縁のある熊谷市に移住してかなりの年月が過ぎましたが、一戸建て故か…、古い「しきたり・おきて」が色濃く残っているようです。近所づきあいは苦痛だそうで、すでに始まっている高齢化の問題、それを解決するのは市町村・地方自治体の仕事と云います。最終的にはそうなるでしょうが、私は町田市の団地=集合住宅に住んでおり、同じ世代ながら自分たちが渦中の高齢化問題解決の鍵はコミュニティに在るのではないかと思っています。
150214餅つき_こね
大部分を占めるであろう無関心な住民が大きな鍋を持ってとん汁と餅を求めてやって来ます。コミュニティを作るために催した「餅つき大会」なのですが、そこには住民が餅・とん汁を食べながら談笑する光景はなく、彼等はそそくさと家に帰って、その日の昼食か夕食に食べることになります。「餅つき大会」の名人芸、パフォーマンスの舞台を設けたただけで、コミュニティの醸成そして無形文化遺産(?)の次世代への継承にはあまり意味がなかったように思えます。主催者側内部の、協力して大会を成し遂げたという一体感だけが唯一の収穫でした。

 我々おやじバンドは変わろうとしています。理事会は計画・準備に多くの時間を費やしましたが、これが理事会がすべきことだったのか…、他に本来やるべき喫緊の課題があるのでは…、大いに疑問の残る「餅つき大会」でした。

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December 24, 2014

のどごし

momo 我が家のもも、ビーグル犬9歳、当初はくっきりとしたブラック、タン&ホワイトだったのですが、すでに初老の域で最近はホワイトの面積が増えているようです。1時間以上にも及ぶ散歩から帰ってくると、喉の渇きを癒やすために、水飲み場に駆け寄って行きます。彼女は、喉の渇く夏場など、口角泡を飛ばして…ではないですが、口の廻りに水しぶきを飛ばすほどに舌を動かして水をかきこみます。この光景を見ていると、<喉ごしの旨さ>を知っているのは人間だけではないだろうか…、と思ったりします。記憶を辿れば、この感覚は小学校低学年の真夏、水道の蛇口に口を寄せて飲んだ水、大人になって真夏の日に飲んだ一杯目のビールに行き当たります。大仰に言えば、直立二足走行するようになったヒト(人類)が、腰痛持ちと引き換えに、獲得した能力の一つではないでしょうか。

ラーメン あのスープが美味しいのですが、私は血圧が高く、ラーメンを食べたとしても、そのスープはなるべく残すようにしています。コンビニよりも歯医者さんが、それよりもラーメン屋さんが目につくのですが、たまに出かける町田の中心街、安くて美味しいラーメンは昼食の定番です。私は「えーとこの子」だったもので、「食べるときは音を立てるな」と厳しく云われたものですが、ラーメン・うどん・そばなど麺類を食べる時はどうだったのか…、どのように云われたかを覚えていません。いかにも江戸の粋をきどる客が音を出してそばを喉に流し込んでいます。冷たいそばなら音をたてずになんとか食べることもできるでしょうが、あまり美味しいとは言えません。これがあついラーメン・うどん・そばの場合は、麺を口に入れると同時に空気を取り込んで麺・スープを自分の好みの熱さ加減に調節するのです。その空気を取り込む際に発生するのがズルズルという音です。どうしたらいいのでしょうかね…。

 そのラーメンが今やパリで大人気の由。麺を箸に絡めて食べる姿はスパゲティの様、一筋一筋食べる姿はもどかしく、もはやファストフードではありません。そうこうしている間に麺は伸びきってしまい、スープだけをスプーンで頂く始末です。これでは高血圧患者が増えるだけです。今のところ、フランスでは「食べるときは音を立てない」という厳格な食事のマナーが支配しているようです。彼等がラーメンの本当の味に目覚めるのはいつのことでしょうか。テレビを見ながら、何故か…愛犬:ももが水を飲む様子を思い出してしまいました。 

Merry Christmas!

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November 08, 2014

伊賀上野天神祭 2014年

伊賀上野天神祭_翁 京都で同じ下宿に暮らしたということで、伊賀上野天神祭のこの時期(10月23〜25日)、3人はそこに住む友人:Toshiさん宅に集まっているのですが、私も3年前からその同窓会(?)に参加させてもらっています。去年は、大きな台風が近畿地方を襲い、京都嵐山渡月橋辺りで桂川が氾濫するなどして、その影響でこの祭も中止となりました。去年は秋も深まって肌寒く感じたのですが、今年は一ヶ月、少なくとも数週間は、季節が後戻りしたような暖かさ…というより、暑さでした。

宵山 奥方:Junkoさんの実家が古くは、上野西町、大和街道というメインストリートの一角に小間物屋として栄えたそうです。ご夫婦はその跡地に家を建て、通常は大阪に住み、月に1〜2回はここにやって(帰って)来るという生活をされています。以前にも書きましたが、当地は古来より飛鳥、奈良、京都の都に接し、五畿七道の一つ、東海道の最初の国:伊賀国に在り(因みに、東海道の東端は常陸国)、倭武(ヤマトタケル)がこの道を東に向かったのか、大和街道は当初、幹線街道としての東海道の一部だったのか?…、壬申ノ乱の大海人皇子が、平安時代末期には源義経が、時代は下って、「天正伊賀の乱(1578-1581)」で信長が、「本能寺の変(1582)」で密かに服部半蔵が先導して家康を伊勢へ逃がす「伊賀越」、この辺りが舞台でした。

 浅井長政の足軽に始まって8回も主人を換え、戦国・江戸時代初期を生き抜き、築城技術に長けた藤堂高虎は外様にもかかわらず徳川家康始め三代の信任厚く、同じく築城技術に長けた加藤清正は息子の代に改易となったとは対照的に、藤堂家は別格譜代の厚遇を受け伊勢・伊賀二国にまたがる大大名(32万石)となり明治まで続きます。内政手腕だけでなく、文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった高虎は天満宮の改築、寄進等にも力を注ぎます。上野天神祭は、二代目藩主:藤堂高次の時代(1660)に始まり、その後一時は倹約令で中止となったが、元禄(1688 綱吉の時代)に復活、三代藩主:藤堂高久は祭礼を城内假御殿より見物、田楽、能、狂言等が行われた。同地出身の松尾芭蕉だけでなく、井原西鶴、近松門左衛門とは同時代、商品・貨幣経済、前資本主義社会・前近代社会ともいうべき時代の文学であり、上野天神祭は正に勃興する商人・町人が作り上げた祭でした。
伊賀上野天神祭商店街_2

 AkiraさんはToshiさんの所属する上野西町の山車を引くために、遠く新潟からやって来るのです。町内の人からも当てにされているのは嬉しいが、出来れば山車を引くのは午前中だけにして欲しい、ここ数年は伊賀上野天神祭と言えば山車を引いているだけで、祭全体を見たことがないそうです。…というより、長時間山車を引っ張るのが辛い、体力がなくなってきた、というのが本音でしょう。午後、山車を抜け出し、私にはどうでもいいように映るのですが…、私と二人で観光客向けに用意されたスタンプラリーに参加、13ヶ所のスタンプ・ポイントを約1時間をかけて上がりのゴールへ、結果は残念ながら二人とも参加賞の山車をデザインしたクリアファイル、さすがは伊賀上野天神祭の大ファン、私の参加賞も差し上げると、満足気な彼は山車の牽引に復帰します。因みに、住民は祭に何らかの手伝いをしないとペナルティとして数万円を徴収されるそうで、Akiraさんの上野天神祭好きもToshiさん上野西町宅に十分貢献しています。すみません、何も貢献できず…。

Junkoさん、お世話になり、ありがとうございました。

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October 29, 2014

ありがとう!SUBARU

 一昔前までの車の新聞広告、どれを見ても品川ナンバーでしたが、関西からやって来た人間にとっては「品川ナンバーの何処がいいの?」、品川ナンバーにはよそ者には計り知れないステータスがあるようです。世田谷区の住民が「世田谷ナンバー」創設に反対の訴訟を起こしたとか…、私にとってはどうでもいい話です。以前、金沢に車で行った人からの話で、路上駐車をしてしまい、パトカーの拡声器から「そこの、横浜ナンバーの車」の声、すると、廻りの人達が一斉にその車を見たとか…。私を含めた関西人は、港町:横浜・神戸ナンバーに憧れるようです。

 ナンバー・プレートついでに…、その形状が「ヨーロッパのように横長の方がスタイリッシュ」との声があって検討されたが、「見直すだけの正当性やメリットに乏しい」ということで見送られたそうです。40年ほど前、輸入車が「外車」と呼ばれていた時代、その「外車」と「国産車」、見た目の大きな違いはミラーの位置で、「外車」はドア、「国産車」はフェンダーに付いていました。ミラーはデザインには入っていないそうで、国内で見る日本車フェンダーにニョキッとミラーが付いてデザインが台なし、日本車を海外で見ると、国内で見るそれとは全く違い、格好良く見えたものです。後方視界という安全面から見れば断然フェンダーミラーなのですが、その証拠に多くのタクシーがフェンダーミラーです、デザイン的には断然ドアミラーです。デザイン上、古代の遺物がナンバープレートで、こんなどでかい、いわんや軽自動車には…、ほんとうに日本の役人はダメですね。単に大きすぎるだけではなく、「品川・多摩」はしかたないにしても、ひらがなはいけません、アルファベットにすべきでしょう。あくまでもデザインの一環です。基本的には、数字ごときはどうでも良い話で、さすがにいなくなりましたが「光るプレート」など論外です。つまるところデザインとは、好きか嫌いか…、ということです。

Subaru Leone Estate Van 先日、10年間乗って来たSUBARU Outbackを手放しました。「団塊の世代」の末席に位置する私は、同世代の皆さんと同じく、車への憧れが強く、SUBARU FF1の中古車に始まり、次に買ったのがSUBARU Leone 1600 4WD エステート・バンでした。当時まだまだ日本の車社会は未成熟…、バンとは商用車で4ナンバーでした。本来ならばステーション・ワゴンなのですが、ワンボックスカー(もはや死語、今はミニバン、ミニバスでしょう?)がワゴンと呼ばれており、仕方なく付けた名前だったのでしょう。日本で唯一の…、水平対向エンジン、4WD、独立懸架サスペンション…等々、自慢の車でしたが、このネーミング:「レオーネ エステート・バン」だけは堪忍できず、購入と同時に、「Leone 4WD」のエンブレムを外してしまいました。一言で言えば、センスの悪い車でした。アルミホイールはそれほど普及しておらず、ましてや、PCD・オフセットが異なる、少数派のレオーネのホイールを製造しているメーカーはほとんどありません。よく出張で訪れたオーストラリアで8スポーク・ホイールを購入、船会社に頼んで、日本まで運んでもらい、これを履いて得意になったものです。

SUBARU + Wagon R
 任意保険の保険料をやっとのことで払い、12月にやって来る車検の費用が重くのしかかって来ます。人間と同じく、経年疲労故か、去年には旅行中にドライブシャフトのカバーが破れ、バッテーリーも交換、次の部品交換はどうなる…、重量税は?、一方ではガソリン価格も高止まり、と悩ましい毎日でした。これをきっかけにかみさんと大げんか、勢いで…「車を手放す」と宣言してしまいました。すると、「仕事で使うので私が買う」とばかりに、彼女が購入したのが軽自動車:SUZUKI Wagon R、今までは私の部屋に置いてあった車のキーは、彼女の意向で玄関ドアの近くに移動、当然の事ながら、私の許可もなく…、自分の車を使っております。

 バンドの練習日にはギター、アンプその他を車で運ぶ必要あり、「車をお借りします」、その立場は逆転しました。経済上だけでなく、暗雲が垂れこめたような憂鬱が今や一掃され、精神衛生上の負担も軽減されたのですが、近所・知人からは「代車、長いですね」、「カワイイですね」…の皮肉?、笑って聞こえていないようなふりをして過ごしています。 そう言えば、かみさんのこの言葉にも答えていません。「車の大きさが2/3じゃ、洗車場に行かなくても、ここで洗えるでしょう。」 

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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