October 28, 2019

2019年関西の旅 神君家康伊賀越え<1>

このエントリーをはてなブックマークに追加
 姉が大阪府枚方(ひらかた)市に住んでいます。桂川(鴨川)・宇治川・木津川の三川が集まって(巨椋池)淀川となり大阪湾にそそいでいます。喫水の浅い千石船(物資運搬船)が大阪湾河口から山崎・石清水、これを経由して木津川まで帆走遡行が出来たのは非常に珍しく、他に例がないのではないでしょうか。大宰府から入った文化・産物は瀬戸内海・淀川という大運河を通って明日香・藤原・平城・平安の都に繋がっていました。枚方は、紀貫之(? - 945)が淀川をさかのぼり、京に向かう途中、「渚の院」のかっての姿をしのんで『土佐日記』にその風景を記しています。

180830_枚方京街道 枚方は淀川の左岸、大阪から京都へ向かう「京街道」の中間地点に位置し、陸上及び河川交通の宿として栄えました。姉は旧街道筋に住む地元のお年寄りから、「本能寺の変(1582)」の時、京から急ぎ帰って来る茶屋四郎次郎と堺から京へ向かう家康一行とが、この辺りで出会い、変事を知った家康の逃避行(「神君家康伊賀越え」)が始まった、という話を聞いたと云います。話としては面白いが、泉州堺から約30キロ、物見遊山の旅にしては家康一行の歩くのが速すぎるし、関連の書物を見ても枚方を家康一行が通ったと記述は何処にも見当たりません。古老の話と史実との矛盾をどう解決すべきか…、解決されないまま、頭の中でくすぶっていました。

 今回も姉弟の話題が「本能寺の変」に至りました。泉州堺に滞在していた家康は、6月2日に京本能寺に参集するようにとの命を受けており、家康と行動を共にする御用商人(戦時には補給・調達を専門とする)茶屋四郎次郎(ちゃや しろうじろう)はその前日、6月1日に家康の堺での日程が終了した旨を信長のもとに報告すべく京へ向かっていました。6月2日、京で変事(2日早暁に発生)を知った茶屋四郎次郎は急遽引き返し、当日、一行に先行して京に向かう本多忠勝(ほんだ ただかつ)と京街道、枚方光善寺辺り(京本能寺から30キロ)で遭遇したのです。古老の伝え聞いていた話とはこれだったのです。
神君伊賀越え
 飯盛(堺から30キロ、枚方光善寺から15キロ)で茶屋四郎次郎の報告を聞いた家康は即刻領地三河への帰国を決意、一行は往来の激しい京街道を迂回して山城国宇治田原に入り、3日には近江国信楽・甲賀、4日には北伊賀から柘植・亀山を抜け、伊勢国白子から舟で、5日には三河大浜に無事帰還したとされていますが、GoogleMapで堺から白子まで153キロ、一日36キロ歩いたと仮定して、4日間で白子に到達することは不可能ではなかったかも知れませんが、白子からさらに三河大浜までの海路50キロがあります。「神君伊賀越え」と称し家康の生涯最大の危機とされていますが、茶屋四郎次郎、服部半蔵手配の伊賀・甲賀忍者の活躍だけでこの難局を乗り切ったとは考えにくいのですが、いかがでしょうか。次回はその核心に迫りたいと思います。

Appreciate Your Support▼ご支援をお願いします
     にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ  にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ       


express01 at 20:09│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔   
 
 
 
Profile

ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

Back Issues At A Glance
Comments
ISAO's Bookshelf
人気ブログ ランキング
NINJA
Search