July 19, 2019

この曲<30-2> "Islands In The Stream" その2

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※「Bee Gees その1」から続きます。Wikipediaを参照してBee Geesの歴史を振り返ってみましょう。

Bee Gees_2 Barry(1946-)、Robin(1949-2012)、 Maurice Gibb(1949-2003)三兄弟は英国マン島で誕生。1958年、一家はオーストラリアに移住。1960年、ブリスベンに在るラジオ局のDJ、Bill Gates(ビル・ゲイツ MSの彼とは別人)を紹介され、彼の名前に因んで、バンド名を「BGs(ビージーズ 後にBee Gees)」としたそうです。1963〜66年、シドニーに居住、最初のメジャーヒット、『Spicks and Specks』が誕生したのはこの頃でした。しかし、それ以上の成功には恵まれず、1967年、三兄弟は英国へ帰ります。

 1967年、NEMSと契約、最初のシングル『New York Mining Disaster 1941』は全英・全米トップ20入りを果たします。1968年、最初の全英No.1シングル『Massachusetts』(全米No.11)を収録するファースト・アルバム『 Horizontal』は全米No.12、全英 No.16を記録、その頃が1960年代におけるビージーズのピークでした。一方では、兄弟間に亀裂が生じ、1969年、Robinがグループを離脱、残ったBarryとMauriceも別々な道を歩くことになります。1970年初めになると、ビージーズは終わったものと認識されていました。<<最初の高揚と凋落>> ※私も同じ認識で、以来、『Islands in the Stream』を耳にするまで彼らを毛嫌いしていました

 1970年、再結成。アルバム『Trafalgar』が1971年末にリリースされ、シングル『How Can You Mend a Broken Heart』はまず全米No.1を達成、初めてグラミー賞Best Pop Performance by a Duo or Group with Vocals部門にノミネートされました。その後、彼等の楽曲が映画『Melody』のサウンドトラックに採用され、1972年、『My World』が全米No.16、『Run to Me』は過去3年で初めて全英トップ10の地位に返り咲いたりしましたが、それもつかの間、彼らはマンネリ化してしまい、1974年になると、彼らは各地の小さなクラブで演奏する、ドサ周り状態に落ち込んでしまいました。<<二度目の高揚と凋落>>

 ビージーズは溺死寸前の状態で、ワラをも掴むかのように…、リズム&ブルースへのめり込んで行きました。これが、またもや、幸運が巡って来るきっかけになるとは…。1975年始め、録音を目的にマイアミに移住、全米No.1『Jive Talkin』やNo.7『Nights on Broadway』等のダンス志向のディスコソングが制作されました。アルバム『Main Course』がチャートイン、収録の2曲が同時に全米トップ10入りを達成、新しいR&B/ディスコ・サウンドは一部の熱心なビージーズ・ファンには全く不人気でしたが、このアルバムは彼等を、かつては全米で達成しえなかったスターダムの地位に押し上げることになります。
Movie Starday Night Fever 『Saturday Night Fever』サウンドトラック作成は彼らのキャリアにとって大きなターニング・ポイントでした。映画とそのサウンドトラックは世界に大きな衝撃を与え、3枚のシングル、『How Deep Is Your Love』『Stayin' Alive』『Night Fever』は英米はじめ世界各国でチャートの高位置に付け、ディスコ時代の絶頂期が始まりました。映画の成功とともに、サウンドトラックは4千万枚以上を販売、史上最も売れたアルバムになりました。『Saturday Night Fever』は歴代トップ5に入るサウンドトラック・アルバムとなり、グラミー賞各部門を総なめにします。しかし、今までのパターンを繰り返すかのように、1979年末までには、絶頂だったディスコは急激にその人気を失い、全米各地のラジオ局ではキャッチ・コピー『Bee Gees Free Weekend(ビージーズなしの週末)』も現れる始末でした。<<三度目、空前絶後の絶頂と凋落>> 

 1980年、Barryは  Barbra Streisandのアルバム『Guilty』制作に参加、結果は全米・全英ともにNo.1を獲得。収録の『Woman in Love』は今日に至るまで、彼女の最も成功した曲であり、デュエット曲『Guilty』及び『What Kind of Fool』は全米トップ10を達成します。1982年、 Dionne Warwickの名を冠したアルバムの収録曲の多くがビージーズの作であり、Barryとの共同プロデュースによる『Heartbreaker』は全米アダルトコンテンポラリーNo.1ヒットを達成。1983年、 ビージーズ作の、Dolly PartonとKenny Rogersの『Islands in the Stream』は全米No.1、全英トップ10入りを達成。Rogersの1983年のアルバム『Eyes That See in the Dar』の全曲がビージーズ作であり、Barryとの共同プロデュースによるもので、アルバム全米トップ10ヒットとなり、ダブル・プラチナに認定されました。
 
 1987年、ビージーズの『You Win Again』は多くの国で1位になり、60年代、70年代、80年代、それぞれの期間において全英No.1ヒットを記録した最初のグループとなりました。1987年、英国アカデミーのIvor Novello賞を受賞、1988年、Brit Award( Best British Group部門)を受賞。<<四度目、奇跡の復活>>

 1990年初めから、Mauriceはアルコール依存症でしたが、Barryも深刻な腰痛と関節炎に悩まされていました。1997年、ビージーズはラスベガスにてライブ・コンサート「One Night Only」を開催、このコンサート名はBarryの深刻な健康問題を反映したものでした。

 2003年、音楽的なリーダーであったMauriceは腸捻転の緊急手術を待つ間に、心臓発作で死亡。「Bee Gees ビージーズ」の名前は、グループ名から離れ、三兄弟を表すものとして残されることになり、ビージーズはグラミーLegend Awardを受賞、21世紀における最初の受賞者となりました。2011年、Robinは肝臓がんと診断され、2012年、肺炎に感染して健康状態が急激に悪化、肝・腎不全で死亡。Barryは兄弟唯一の生存者となり、音楽グル-プとしてのビージーズは解散となりました。

 ビージーズは自らパーフォーマーとして全世界で2億2千万枚以上のレコードを販売したというだけでなく、他の多くのミュージシャンに楽曲(その多くが大ヒットとなる)を提供するという、偉大なソングライティング・ユニットでも在りました。ここまでビージーズの歴史を振り返ると、英国マン島に生まれ、ブリスベン、シドニー、ロンドンそしてマイアミへと移住を重ね、その音楽は3人のハーモニーを基本に、フォーク、フォークロック、ロック、リズム&ブルース、ディスコ(ダンサブル(踊れる)・ミュージック)、カントリーと変遷、そして60〜70〜80〜90年代、現在に至るまで、何時の時代をもリードしてきました。好き嫌いは別に…、ビージーズはLennon/ McCartneyを超えた存在であると言えるでしょう。

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express01 at 20:08│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Music 

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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