June 04, 2018

伊豆韮山へ小旅行 その2 韮山反射炉

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 あくまで個人的な感想ですが、市名が「伊豆の国市」とは、もう少し名前の付け方があったのではないかと首をひねってしまいます。現に、2005年、伊豆長岡町・韮山町・大仁町の3つの町が合併、新市が誕生するのですが。南隣の「伊豆市」にその名前を先に取られてしまい、新市名は一般公募によって募集されることになりました。協議会による投票では「伊豆北条市」がトップでしたが過半数に及ばず、「伊豆の国市」との決選投票となり、 「伊豆の国市」が逆転勝ちとなったそうです。頼朝流刑・旗揚げ、鎌倉幕府執権北条、戦国小田原後北条5代、徳川幕府韮山代官という歴史を考えれば当然「伊豆北条市」のはず、もしこの名前が採用されていたのであれば、もっと早い時期に訪れていたかも知れません。

 伊豆長岡駅に到着、駅前発車の名所巡りのバスは1時間後、観光案内所に入り情報収集です。レンタサイクルが面白そうとも思ったのですが、借りた場所に返却しなければならず、そもそもレンタサイクルの係員が居ません。季節は初夏…と云うのかどうかも知りませんが、「伊豆の国」のイメージ通り日差しもまだ穏やか、道案内に沿って踏み切りを渡り農協の横を歩きます。

 五畿七道の時代、伊豆は都より遠く、辺境、流刑の地でした。平治の乱(1159)に敗れた義朝父子と家来八騎は京を脱出、源氏の本拠地、東国(関東)へ逃げようとするのですが、一行にはぐれた頼朝(13歳)は平氏側に捕まり、死一等を減じられてこの地伊豆韮山に流されます。1180年、頼朝が挙兵、伊豆韮山の豪族、北条時政は、娘北条政子が頼朝の妻となったことから頼朝の挙兵・鎌倉幕府の創立(1192)に尽力、頼朝が征夷大将軍に任じられると、その有力御家人となります。頼朝もその可能性大なのですが、続く頼家、実朝を暗殺して執権政治を確立、時政嫡流は得宗家と呼ばれ、一門で執権、六波羅探題などの要職を独占します。

 二度の元寇を遠因に、後醍醐天皇の令旨(1333)に足利尊氏、新田義貞等が呼応、 結果、  鎌倉幕府は倒れ、北条氏(得宗)は滅亡します(1333)。  長期に渡る南北朝内乱(1336-1392)で、守護はその権限を拡大し、守護大名に成長、足利尊氏が開いた室町幕府(1336-1572)は末期には山城一国のみを支配するだけの守護大名のごとき様相を呈するようになります。

 早雲(伊勢新九郎盛時)は備中(岡山県)荏原荘で生まれ(1461-1519)、後に9代将軍足利義尚に仕え、駿河に下り、興国寺城主となり(1487)、次は11代将軍足利義澄の命で伊豆堀越公方足利政知の子茶々丸を滅ぼし(「伊豆討入り(1493)」)、これが戦国時代の幕開けとなったとされています。   伊豆韮山を拠点に伊豆を平定、後に相模一国を従え、嫡男氏綱(1487-1541)の時、小田原城に本拠を移し、かつて鎌倉幕府を支配した執権北条氏の名跡を継承して「北条」を名乗り、家紋も執権北条の「三つ鱗」(正三角形)に似た「北条鱗」(二等辺三角形)としました。「四公六民」を実施して善政を敷き、商工業・海運を振興して、関東一円を支配しました。小田原城の総構えは9kmにも及ぶ空堀と土塁で城下町全体を囲む長大なもので、上水道も備わっていました。1590年、秀吉に依る小田原攻めは3ヶ月あまりに及びますがついに開城、5代に及んだ後北条氏は滅亡します。
 
 秀吉に警戒された家康は関東に移封され、関ヶ原で勝利し(1600)、江戸に開幕した家康は総構えの江戸城を構築、加えて海岸を埋め立てた江戸に飲料水を確保する目的で上水道網を建設するなど、後北条の小田原を模して江戸の街を建設します。
韮山反射炉_2
 そんな事を考えながら、…ウソです…、案内に沿って歩いて行くと、背にした山が韮山なのでしょうが、世界遺産、韮山反射炉に辿り着きます。江川家36第当主江川太郎左衛門英龍が幕府に建言、建設されたものです。   江川家は多田源氏の流れをくみ、保元の乱(1156)を避けて韮山に移住したと伝えられ、この地に流罪となった頼朝の挙兵(1180)に応じて参戦したと云われる。  その後、頼朝・北条の鎌倉幕府、 室町時代には伊豆の豪族としての地盤を固め、苅野川の支流の名に因んで、姓を江川と改めます。早雲(伊勢新九郎盛時)の「伊豆討入り(1493)」にあたり、自分の土地を提供して、韮山城を築城させ、その後5代にわたって後北条の家臣となります。   家康は関東に入るに際して、後北条小田原の市街地建設の技術だけでなく、後北条・武田の遺臣を引き継いで関東支配・経営にあたります。

 江川家江川英龍もその一つで、 伊豆が幕府の天領(直轄地)となり、以降江戸時代の全期間を通じて代々世襲の代官 (幕臣)を務め 、 江川太郎左衛門を名乗りました。途切れることなく、代々の最高権力者に仕えたのはそれだけ民政・支配能力が高かったのでしょう。伊豆・駿河だけでなく、文字通り箱根の関を越えて遠く関東を、相模・武蔵(多摩川以西)を幕府代官として支配したのは驚くべき事です。

 ざっと関東の歴史を振り返ると、面白いことに気がつきます。関東の豪族が結集して京から追放された頼朝を担ぎ上げて鎌倉幕府という半独立国家を関東に作るのですが、源頼朝は京の貴種、簒奪した北条は伊豆韮山の人、戦国時代の後北条は備中(岡山)・京・駿河を経て伊豆韮山、後に小田原にやって来た人、家康も三河出身で、旧武田・旧後北条の遺臣を引き連れて関東を経営・支配します。旧武田の遺臣と云えば、甲州街道・八王子・千人同心を作った大久保長安、代々世襲の韮山代官、江川太郎左衛門は旧後北条の遺臣でした。   関東の歴史を見ると、関東の豪族は数十や数百の単位を結集する指導者は存在するが、それ以上数千や数万単位になると、全て関東以外の出身者が指導者になります。歴史を見る限り、残念ながら、関東からは社会を動かすような指導者は輩出されていません。

 青空に向かって立つ反射炉、日本の産業革命はここに始まりました。

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express01 at 21:56│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック History_Japan | Travel

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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