March 09, 2018

月代(さかやき)と日本刀

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 江戸時代の浮世絵に見られる男性の丁髷(ちょんまげ)と月代(さかやき)は現代に生きる日本人が見ても極めて異様で、況んや外国人からすれば日本人独特の奇習でした。江戸時代の髷(まげ)を遡ると飛鳥・奈良時代の髻(もとどり)と呼ばれる総髪を束ね、その上に冠をかぶる、「冠下の髻(かんむりしたのもとどり)」に辿り着きます。これは、「身体髪膚之を父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり」と儒教を信仰する漢民族(中国)から輸入されたものです。

義経 源氏の御曹司、牛若丸は金売り吉次の手引きで鞍馬山を脱出してすぐ、近江国鏡の宿辺りで、稚児姿を探す平家方の追っ手を察知、急遽元服を決意します。 前髪を落とし髻を結び、その上に地元で作らせた源氏の左折れの烏帽子を載せて元服した(1174)とされるのですが、「前髪を落とした」とは、後に言う月代(さかやき)を剃ったということなのでしょうが、この孔子の言葉は何処へ行ってしまったのでしょう。 「冠下の髻」はいつ頃・なぜ変質してしまったのでしょうか?「冠下の髻」は成人男性を証明するものであり、冠を脱がせ髻を外すことは男性に対する最大の恥辱であり(『平家物語』「殿下の乗合の事」)、現代で言うならば公衆の面前でパンツを脱がすようなものでした。よって、飛鳥・奈良・平安に至るも、頼朝・義経を描いた肖像画には正装である衣冠束帯や狩衣・直衣姿しか見ることができず、冠・烏帽子の下がどうなっているのかは目に触れることは出来ません。

 月代(さかやき)は、一説では本来「逆い気(さかいき)」で、戦に面して「気が逆上る(頭に血が上る)」、兜をかぶって蒸れるのを防ぐために前・頭頂部を剃ったとものと云われ、武士の出現と無関係ではないように思われます。兜をかぶって蒸れるのは日本人だけでなく、中国始皇帝軍、ローマ軍の兵士や十字軍騎士でも同じだろうと思うのですが…。僧侶ではない者の頭頂部を剃る民族は、日本人を除くと、靺鞨・女真などツングース系民族に見られます。満州人(ツングース系諸民族の総称)は清を建国(1636〜1912)は明を滅ぼし(1644)、服従の証として漢人の男性に辮髪(べんぱつ)を強制、 19世紀には辮髪は完全に中国的な風習となった。東アジアにおいては、遊牧民族を起源に、これに征服された民族を含めて、明の衣冠制度を厳格に守る朝鮮を除いて、辮髪(べんぱつ)か髻(もとどり)+月代(さかやき)の習慣がありました。考えてみれば、辮髪は頭頂部の髪の毛を後ろにまとめて長く垂らし、髻(もとどり)は上に、髷(まげ)は前にまとて形を整えたもの、元結いを外せばほとんど同じになってしまいます。髻(もとどり)と月代(さかやき)の習慣は遊牧民族の辮髪が起源ではないでしょうか。

 馬上から敵を倒すには、突くよりも斬るほうが有効、加えて反りがあった方が振り回しやすく、斬りやすい。 797年、坂上田村麻呂を征夷大将軍に東北へ遠征、当初、直刀で戦うヤマト朝廷軍は蝦夷軍の反りのある刀剣(「蕨手刀(わらびてとう)」)に苦戦します。  これを機に騎馬戦に適した、湾曲のある、現代人にもなじみのある日本刀に発展して行ったとされています。平安時代になると、網野義彦著『東と西の語る日本の歴史』の云う「西の海と船、東の弓と馬」の通り、伊勢平氏は中国宗との貿易を始め、瀬戸内海航路を支配したが、一方の源氏は「前九年(1051-1062)・後三年の役(1083-1087)」で東国武士の支援を獲得して騎馬文化に深く浸透しました。西国、淀川水系の淀津(大山崎)・神崎・江口には遊女が居たと同じく、 東国、美濃(青墓宿)・三河・遠江・相模(足柄)には傀儡子の集団が存在しました。平安後期、大江匡房(まさふさ1041-1111)が著した『傀儡子記(くぐつき)』には、人形を操って生計を立てる芸人であり,天幕(テント)生活をしながら移動し、女は倡歌淫楽して媚を売る「遊女」のようなもの、 男は馬上で弓を引いて狩猟する、と書かれています。西国の「遊女」を見慣れた都人(みやこびと)大江匡房から見て傀儡子はさぞ奇異に映ったことでしょう。

 従来より、傀儡子は、インド北部に起源するジプシーと同根で( ちょっと奇想天外ですが、南方熊楠も触れています)、秦氏一族の一員として朝鮮半島経由で渡来したという説があるが、明らかに傀儡は渡来一族である。 沿海州にあったツングース系の渤海国(698- 926)の使節が日本に到着した時に蝦夷と呼ばれていた人々によって殺害された事件が発生したが、2百年にもわたり交流が続いた。1019年、沿海州の女真族の一派刀伊が北九州に来襲(「刀伊の入寇」)した当時、少なくとも「前九年(1051-1062)・後三年の役(1083-1087)」までは出羽・陸奥地方は蝦夷の住む異国・外国であり、朝廷中央政府の権力の及ばない辺境・異境でした。西は鹿児島「鬼界ヶ島(きかいがしま)」、東は津軽「外が浜」という日本国の概念が完成したのは源平の平安末期です。蝦夷と呼ばれた彼らは日本海の向こう側、沿海州経由でやって来た傀儡の民、遊牧民族を迎えて「馬上からの弓矢」に始まる騎馬戦を伝えたのではないでしょうか。全容が未だ不明の「十三湊の遺跡」(青森県五所川原市)があり、安倍氏から安東氏と繋がる(?)蝦夷(?)が築いた港湾施設は、当時の盛んな日本海貿易を物語っています。

後三年合戦絵巻
 「後三年の役(1083-1087)」で東国武士の支援を獲得した八幡太郎源義家から数えて2代目、源為義(1096-1150)は美濃国青墓宿(大垣市)の傀儡子の長者(大炊)の姉を妻とし4人の息子を設けるも、「保元の乱(1156)」に敗れ、嫡子義朝の命で息子共々処刑され、続く「平治の乱(1159)」では義朝は一転して敗将となり、東国へ逃れようと一時青墓宿に身を寄せ、尾張国野間にて御家人の裏切りで殺されました。東国を基盤とする源氏は青墓宿(大垣市)の傀儡子の長者(大炊)との関係の深さは注目に値します。髻(もとどり)と月代(さかやき)、日本刀の反り、袴(はかま)は遊牧・牧畜民族(nomad ノマド)由来の習慣で、日本海を北回りで渡来した傀儡子が、東北で蝦夷と呼ばれた彼らに騎馬で矢を射、刀剣を振るう技術を伝えた可能性は考えられます。 この騎馬技術・文化・習慣が東国武士に、そして傀儡子と源氏の深い関係に継承されたのかも知れません。

 しかし、惜しいかな…、この説には致命的な欠陥が存在します。遊牧・牧畜民族及び彼らに侵略された民族は「去勢」技術を有します。品種改良、もう一つは、雄の攻撃的な性質などを喪失させ、制御を容易にすることを目的としますが、日本にはこの「去勢」技術が入っていません。中国の「宦官」の制度が入って来なかったと同じような理由があるのかも知れません。制御の難しい馬に乗り、なお且つ馬上で弓を引き、刀を振るうとは武芸とは名人芸でした。日本には馬車がありませんでしたが、道路が発達していなかっただけでなく、馬車馬の制御が出来なかったのです。「日清戦争(1894-1895)」で勝利した日本軍が中国に駐留の際、同じく西欧の駐留軍から日本の軍馬の制御不能ぶりを馬鹿にされ、これを機に「去勢」技術が導入されたと言います。

 p.s. 「3.11」から7年、亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
 
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express01 at 15:41│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote History_Japan | History_World

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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