February 15, 2013

西の大海と東の四畳半

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平安後期、三十六歌仙の一人、『古今和歌集』の編者として教科書に出てくる紀貫之が、その彼が国司として赴任していた土佐国を後に都に帰るそのほとんどが海路(高知〜難波、600km(?)、49日の航海を記録に残したのが『土佐日記(936年)』でした。航海距離は一日たったの12km。貫之の乗ったの船は「竜骨のない、船央に帆柱を持つ帆掛け舟」で、和船の基本構造は遣隋使・遣唐使から江戸時代の千石船・北前船に至るまでほとんど変わっていません。


sindbad 3一方、アラブ人は紀元前後に風をはらんで翼の形となり、逆風でもジグザグ前進できるにラテンセイル(Lateen Sail 仏語 =Latin)と呼ばれる三角帆を経験的に習得、7〜8世紀頃から、ダウ船を駆ってアラビア海(東西2、000km)をわずか3〜4週間で横断していました。航海距離は一日95km、『土佐日記』のそれとは桁違い…呆れてしまいます。

『シンドバッド 7つの航海』の通り、アラブ人は9世紀にはインド洋を舞台に、西はオーマンのマスカットから東は中国広州に至るまでの広大な交易ルートを開いていた。イスラム教/ヒンズー教/仏教がインド洋を横断して東南アジアに伝搬。逆にメッカへの巡礼者がインド洋を西に文化を伝える。インド・中国の技術が西方、アラブ地域にもたらされるなど、中世後期において「インド洋は世界文明(ギリシャ、ローマ、インド、中国文明)の交換器」の役割を果たし、アラブ人航海者・商人がこれを支配する海域となっていました。
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日本人は冒険・探険をあまり評価しないようです。冒険・探険と言えば、私の中では「間宮林蔵の樺太・黒龍江探険(1808 - 1809)、間宮海峡(韃靼海峡、タタール海峡)発見」と司馬遼太郎の小説菜の花の沖高田屋嘉兵衛ぐらいなもので、江戸後期、日本近海で起こった海難事故、漂流者の異国における生活、そして危難を乗り越えて尊皇攘夷、幕末の日本に帰って来る、英雄的な物語・冒険談が多く見られます。ジョン万次郎吉村昭の小説:『アメリカ彦蔵』の浜田彦蔵、『大黒屋光太夫』や井上靖:『おろしや国酔夢譚』の大黒屋光太夫、彼等は、その時代の急激な変化の中で極めて貴重な体験をし、その後の日本に大きな影響を与える結果となったのですが、彼等は決して自発的に冒険・探検に船出したわけではありません。


これは中国人にも当てはまるようで、明永楽帝(1360〜1424)の時代、鄭和の艦隊による4回ものインド洋、アフリカ大陸東岸遠征も、それまでの中国・アラブ商人の交易ルートを辿っただけで、決して交易通路発見・開拓(=探検)が目的ではなく、中華明帝国の威信を訪問国に示し、彼等に朝貢を促すだけのものでした。
 

西欧においては、自然に恵まれない辺境の地において、例えば、寒冷なスカンジナビア半島に海賊・略奪者としてバイキングが、中世地中海においては、耕作には適さない湖沼・沼沢地のベネチアに、狭隘な土地のジェノバに海運・商人が発生、アラブ人との交易で航海その他の先進技術を獲得して「地中海の時代」を築きます。12〜13世紀、地中海貿易の覇権、十字軍支援の艦隊の主導権を巡ってその二つの都市は競っていましたが、ついには、「キオッジアの海戦(1378〜1380)」でベネチアが勝利、敗北したジェノバはジブラルタル海峡の西、大西洋に活路を見いだすべくイベリア半島のポルトガルに接近します。1453年ビザンツ帝国がオスマン朝トルコにより滅亡しますが、西地中海では、ポルトガルが徐々にイスラム勢力を駆逐、1492年グラナダが陥落してレ・コンキスタを完成、ジェノバの商業・航海技術を引き継いで、いよいよ大西洋に船出することになります。


「何故、人間は怖い思いをしてまで冒険・探険をするのか?」 「誉れ」、「好奇心」そして「物欲(=略奪)」がヨーロッパ人の答え。ルネッサンス、ローマ・カトリック教圏の拡大と宗教改革、科学技術の進歩、啓蒙主義、市民革命と産業革命へと続き、近代資本主義はヨーロッパに誕生します。


ユーラシア大陸の辺境、西端のポルトガルでは未知の大西洋へ乗り出し、東端の日本では「大航海時代の怒涛を四畳半に閉じ込めた」「茶の湯」、…結構なお点前でした。※「大航海時代の怒涛を四畳半に閉じ込めた」とはどこかで読んだ司馬遼太郎の表現、好きです。


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この記事へのコメント

2. Posted by Isao   February 17, 2013 16:14
5 鏡さん ありがとうございます。
遣隋使・遣唐使は唐の歌人がインド、イランの西域をどのように歌ったか(想像したか)を全く想像できなかったのではないでしょうか。全く想像できなかった西域を、その頃、やっと朝廷に降った陸奥(むつ)国に重ねたのが、当時の陸奥(みちのく)ブームであったように思うのですが…如何でしょうか。

アラブ人(イスラム)の存在が彼等の航海・商業技術、そして中国・インドの技術をヨーロッパにもたらすことになります。

1. Posted by 鏡   February 17, 2013 15:21
5 イサオさま
こんにちは!!
日本人は大昔から、貧相な帆をかけた船で陸沿いに海を行き来するだけで満足していたのでしょうか?聖徳太子が遣隋使として大陸へ送り出した小野妹子や、遣唐使として海を渡った吉備真備の旅は、どんなに過酷なものだったか想像できますが、地球の裏側に思いを馳せる事ができません。ヨーロッパの、海に乗り出した人たちがどんなに進んだ活躍をしたかが、15日の文章でよくわかりました。では…。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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