September 06, 2012

「小中華」 けっして、飲茶の話ではありません

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李氏朝鮮は、1401年、明より朝鮮国王として冊封を受け、本家中国以上に儒教、とりわけ朱子学を重んじ、一種の国教として5百年間存続した王朝国家です。豊臣秀吉による「文禄(1592)・慶長の役(1598)」では、多くの技術者:陶工が拉致され、その彼等が、豊臣方西南各藩で働かされ、伊万里焼、有田焼、萩焼、薩摩焼の開祖となります。1600年、関ヶ原で徳川家康が勝利して覇権を握り、その覇権の永久化、支配の円滑化を目的に朱子学を武士階級の倫理・教養として利用した。一方では、李氏朝鮮との国交を回復、朝鮮使節は拉致された多くの同胞の奪還に成功、新将軍就任に際しては朝鮮通信使がお祝いに来日、幕府もこれに最高の礼を持って迎えていました。
朝鮮通信使

中国を範とした李氏朝鮮はやがて自らを中国と同質の文化を持つ国、「小中華」の国を標榜するようになります。しかし、ここで困ったことが起こります。文禄・慶長の役により疲弊、さらに北辺に興った(1616)後金の圧迫に堪えきれず、1644年、「大中華」の国:明が滅亡します。民族名を女真から満州に、国名を後金から改めたは山海関を抜いて北京に入り、中国を支配します。北狄オランケ」(蛮族)と軽蔑していた女真:満州族が中国を統一・支配したのですから、「小中華」の李氏朝鮮としては穏やかではありません。面従腹背(?)、表面上は清に従い、その実、過去の中国歴代漢族王朝にその範を求めます。中国が蛮族国家となった以上、李氏朝鮮が世界で唯一の中華思想国家でなければならないとの自負の念、ある種の偏執性執着、を強めていきます。今や李氏朝鮮は本家:中国以上に中華思想に凝り固まってしまいました。

19世紀、ヨーロッパ列強は東南アジアを浸食して植民地化、その触手は清朝中国に及びます。1848年、阿片戦争の結果、清朝中国はイギリスに敗北、この情報はいち早く幕末の日本にも伝えられ、続くペリー来航(1853)に幕府は震え上がりました。これら一連の「西洋の衝撃」は日本を倒幕運動へと走らせることになります。中華思想に固まった李氏朝鮮は、清末中国と同じく、自らがどんな国際状況下に置かれているのかを全く理解していませんでした。ロシアは既に、朝鮮の背後:満州・沿海州地方(シベリヤ鉄道の終点、軍港:ウラジヴォストークは「東方を支配せよ!」の意)に迫っていました。

1868年、明治新政府は新政府樹立の通告と国交を望む交渉の為、使節を釜山へ派遣しましたが、その国書に「皇上」、「奉勅」の文字が使われており、「王の国が皇を使うとは無礼。笑止千万!」とばかりに、李氏朝鮮は国書の受け取りを拒否しました。自分を取り巻く情勢の不明に加え、中華思想の李氏朝鮮からして見れば、交渉の相手が250年間友好関係にあった徳川幕府を倒した新政府であったこと、しかもその構成員の多くが、270年前、「文禄・慶長の役」で朝鮮に攻め入った、にっくき、旧豊臣方西南各藩でした。蛮族、東夷である、たかが倭国(日本)の王が、地上に唯一無二の中国「皇帝」を語って、国書を送って来たのは言語道断なことでした。もちろん、国書を突っ返された新政府側も激怒、これが「征韓論」の始まりでした。
征韓論

竹島の領有権問題をめぐり、李明博大統領宛ての親書を韓国側が受け取り拒否、韓国側担当者が持参したのを、こんどは外務省側が受け取り拒否、書留郵便で送り返す始末です。「親書」と「国書」、どのように違うか知りませんが、140年前の「明治維新」、400年前の「文禄・慶長の役 」、「朝鮮通信使」まで遡ってしまいました。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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