November 2019

November 20, 2019

ボスポラス地峡決壊そして「ノアの箱舟」<2>

 イギリスの裁判官、東洋学者、言語学者であるウィリアム・ジョーンズ(Sir William Jones 1746 - 1794)はインド、カルカッタに判事として赴任中、サンスクリット語を研究、ギリシャ語・ラテン語を含むヨーロッパ諸語との間に、語彙。文法の類似点を発見、後にドイツで「比較言語学」に発展して行きます。

アララト山と修道院 ヨハン・フリードリッヒ・ブルーメンバッハ(Johann Friedrich Blumenbach 1752-1804)は「人類学の父」と呼ばれ、極めてキリスト教的世界観の濃いものでした。キリスト教・ユダヤ教における人類の「創世記」、アナトリア半島(現在のトルコ東部)アララト山に漂着したという「ノアの箱舟」伝説は黒海とカスピ海の北及び二海に挟まれた地域、ロシア南部、コーカサス地方を始祖とする人間をコーカソイド(Caucasoid(Caucasus(コーカサス) + oid(姿))と呼び、ヨーロッパ人、インド人、アラブ人、北アフリカ人の起源とした説を唱えました。Milanda Loves Traveling 「アララト山と修道院」

 「人類学」は英語でAnthropology。語源はanthropo(人間)+logy(学問)に由来します。因みに、Anthropoidは「類人猿」、語源はanthropo(人間)+oid(姿)に由来、apeと同義語です。人類学は生物学的特性を研究する「自然人類学」=生物学の一分野であり、「人種(DNA、血統、肉体)」を研究。一方、社会的慣習を研究する「文化人類学(社会人類学)」は「民俗(言語、文化、慣習)」を研究し、「言語学」、「考古学」、「民俗学」、「宗教」そして「芸能」さえも包括する学問領域です。

 1859年、英自然科学者チャールズ・ダーウィンは「種の起源」を発表。生物の進化を実証的に説明。端的に述べるならば、人間は神が創造したものではなく、生物の進化の歴史の中で誕生したという。これは神は自分の姿に似せた人を作り出し、アダムの肋骨から女を造り、アダム(男)とイヴ(女)は人類の祖であるとする「創世記<2章>・創造論」とは真っ向から対立します。アダムとイブの「創造論」と「進化論」、両者の対立は妥協点が見つけられずに現在に至っています。 
 
 しかし、1996年、ニューヨーク・タイムズに発表されたコロンビア大学の地質学者ウィリアム・ライアン(William Ryan)とウォルター・ピットマン(Walter Pitman)の説と符合するのです。温暖化で徐々に海水面が上昇、BC7500年(一説にはBC5600年)ボスポラスが決壊して、かつては淡水湖であった黒海に、地中海の海水が流れ込んで現在の黒海が出来上がったとする「黒海洪水説(Black Sea deluge」が「ノアの箱舟」伝説が現実に起こった大災害であった可能性が大であることを示しました。ナイアガラの滝を一日に流れ落ちる量の2百倍もの水がボスポラス地峡を黒海に流れ込み、それが少なくとも300日以上続いた、と推定しています。

古代西アジア地図
長谷川修一著「旧約聖書の謎」より拝借

 「旧約聖書」は有史以来、世界最古の歴史書であると云うことができます。その「旧約聖書」、「創世記」が語る「ノアの箱舟」伝説は、単なる神と人間の物語(作り話)ではなく、大災害の歴史的事実を物語ったものであろうと云う考えは、「ノアの箱舟」伝説(「創造論」)への今日的な「地質学」及び「気象学」(自然科学)的アプローチなのでしょう。黒海とカスピ海の北及び二海に挟まれた地域には、四大文明の一つ、メソポタミア文明がはユーフラテス川・チグリス川流域に興り、四大宗教、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三宗教が興り、ヨーロッパ・インド祖語が興り、それが東進してインドに入りサンスクリット語になったことから考えると、インドで仏教が興ったとされるも、仏典は梵語=サンスクリット語であり、仏教さえも根源はこの地に辿り着くようにも思えてきます。こう考えると、黒海とカスピ海の北及び二海に挟まれた地域は「旧約聖書」、「創世記」の舞台にふさわしい特別な場所に見えて来るのが不思議です。

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November 09, 2019

2019年関西の旅 神君家康伊賀越え(その2)

多田神社 もう一つ、くすぶっていることがあります。家康と摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)の関係です。1586年、源氏を名乗った家康は始祖、源満仲(みつなか 912 - 997)を祀る多田神社(兵庫県川西市)へ向かう一行の船渡しを佃村の漁民がやったとか、あるいは、家康一行を乗せた船をけん引して多田まで届けた。これに報いて、後年、秀吉に関東移封(1590)を命じられた家康とともに江戸に入り佃島に入植を許されたものと思っていました。しかし、たかだか神崎川の渡河、あるいは猪名川の遡行ぐらいで、新天地江戸の一角、特権として日本橋に魚河岸開設を許されるのでしょうか?

 過去に何度か触れましたが、私の出身地(生まれは九州ですが)は兵庫県伊丹市。市の南に尼崎市、西に西宮市、北に宝塚市・川西市が位置し、東には猪名川が流れ、対岸は大阪府です。かつて、この大阪府と兵庫県を合わせて摂津国と呼ばれ、明治新政府は摂津国経済の力を削ぐために二つの県に分割したと聞きます。猪名川はいくつかの川が合流して神崎川として大坂湾に注いでおり、その河口部分に「佃」が位置します。平安末期、源平合戦も終わり、京を逃れ淀川を下った義経一行が西国で再起を図るべく船出した「大物の泊まり」もすぐ近くで、佃・大物・江口の周辺はは古代より瀬戸内及び淀川水系の重要拠点であったと考えられます。江戸時代、伊丹酒(いたみざけ)と呼ばれた日本酒の名産地であり、今も「白雪」や「御免酒 老松」のブランドが引き継がれているが、造られた酒は船で猪名川を下り、大坂湾に出て、菱垣廻船や樽廻船で江戸へ出荷されたことを見れば、猪名川のさらに上流、西岸に在る多田神社近くまで家康一行を乗せた舟を曳航したのもまんざらあり得ないことでもないでしょう。

 1590年、家康は江戸に入城。戦国の火がまだくすぶる中…、武田の旧臣大久保長安に命じて従来の五街道に加えて、家康緊急時の江戸脱出路として、江戸城半蔵門(に服部半蔵の名を遺す)を起点とする甲州街道を建設、中途に八王子の街を建設、多くは武田の旧家臣を「八王子千人同心」に組織化しました。一方、江戸という都市を建設、その消費需要を賄うためには、荒川・利根川・渡良瀬川の水運をはじめとする物流路の整備が不可欠でした。家康は江戸入府と同時に江戸湾の風波を避ける目的で小名木川を開削、同時に伊奈忠次に関東河川改修を命じ、以後、伊奈氏3代により利根川の銚子河口への通水が行われました。東北からの物資がここで川船に積み替えられ、利根川を遡り関宿で江戸川に入り、行徳にて船堀川・小名木川を経て江戸へと運ばれました。

 戦国時代の百年、関東は善政を敷いた小田原北条氏の支配下にあり、まだ後北条恩顧の強い地域でもあった。家康の江戸入府に摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)34人も従い、寛永年間に隅田川河口鉄炮洲の土地をもらい「佃島」と名付けました。この鉄炮洲、なんと小名木川の目と鼻の先。大久保長安に命じて甲州街道という緊急脱出路を確保しながら、関東に広がる荒川・利根川水系の150504_深川万年橋物流を摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)が担うだけではなく、これらの水系を利用して、関東を支配するのが家康の森孫右衛門に与えた使命だったのではないでしょうか。江戸入府と同時に開削された小名木川は物流の幹線運河であり、同時に、番所(関所)が設けられるなど関東支配の軍事的な目的を果たす、徳川幕府の生命線でした。後北条恩顧である地元民に任せられるはずのものではなく、関東に縁のない摂津佃の森孫右衛門にそれを命じたのではないでしょうか。

 年は遡って1582年、家康は泉州堺を出て京へ向かう途中、枚方辺り、御用商人茶屋四郎次郎がもたらした「本能寺の変」の報に接し、急遽帰国を決意、こうして始まった逃避劇が後に家康生涯最大の危機と云われる「神君伊賀越え」です。秀吉の死後、家康の権勢が絶大になるに及び、「淀川過書船支配」など京・大坂の物流の支配を任されたことを勘案すると、茶屋四郎次郎と淀川・神崎川河口(摂津佃)を拠点に活動していた森孫右衛門とは従来より密接な関係があったはずです。茶屋四郎次郎は先々で土民を脅したりすかしたり、時には金をばらまき、服部半蔵は伊賀・甲賀衆を説得して家康一行の警護・案内に奮闘します。一方、茶屋四郎次郎から一方のあった森孫右衛門は家康一行の到着を待ち受け、宇治川(堺〜飯森〜宇治)・木津川(近江〜伊賀)の水路、伊勢白子から大浜までは海路を確保、渡河・河川及び湾内航行に活躍したものと考えます。

 家康と森孫右衛門の出会いはこの「神君伊賀越え」だったように思われ、もし「本能寺の変」がなければこの「神君伊賀越え」もあるはずがなく、二人の出会いはなかったかも知れません。この茶屋四郎次郎、服部半蔵に匹敵する働きを見せた森孫右衛門への信認は厚く、1586年、家康一行を乗せた舟を牽引して猪名川を遡の「多田神社詣で」の先導役を果たし、1590年、摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)は江戸に移住、江戸武家屋敷への出入り、魚河岸の開設が認められました。1614〜1615年、大坂冬の陣・夏の陣では佃漁民は徳川方に味方し、食料・武器の調達・運搬を行っています。

 佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていたが、これが「神君伊賀越え」の時に非常食としてふるまわれ、後の江戸名物「佃煮」となったとは、話が出来すぎでしょう。

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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