September 2018

September 26, 2018

散歩の途中<<27>> 秋の草花を描く

シリーズ『散歩の途中』を長らくご無沙汰しているのに気がつきました。180918_ニラアルバイトがない限り、朝夕の散歩は実行しているのですが、いくつかの定番コースの内、南回りコース<桜美林→境川→帰りにMAC>は少なくなり、より里山風景の残る北回りコース<鶴見川(大泉寺)→小山田神社(蓮田)→鳥居坂>のコースに向かうことが多くなっています。                                                   ▲にら
  181011_??? 今年の3月、地元団地内にある喫茶店、『嵐が丘』での展示会、ご大層には個展…、『小山田有◯絵画展』開催のために、団地からそう遠くない、誰もが知っている風景をわざわざ選んで絵を描いたので、それらの風景には少々飽きてしまった、というのが正直なところです。 10〜15分、風景を見ながら鉛筆でスケッチ、写真を撮り、帰宅してから、181008_???パソコンでその写真を見ながら下絵の線を、ピグメント・ライナー(0.03 - 0.05 - 0.1mm)で仕上げていきます。完成までに数時間はかかるでしょうか…。                    
180929_???
180912_名称?
     ▼ユーホルビア
 180916_ユーホルビア 秋になり、散歩の途中で目にする草花を、鉛筆での下絵なし、いきなりライナーで描き上げてしまおう。それも10〜15分以内に…。  左手にスケッチブックを持ち、 不安定な紙面に実線を入れて行きます。全くの「言うは安く…」で、秋口には蚊が多く、友人に云わせれば、この時期の蚊は子孫を残さんが為に必死で、半パンツ半袖姿で指先だけを動かす人間は絶好の標的、5分もその場で立っていれば、目には見えにくい脚の脛股の反対側には彼等の黒い影がいくつも付いていることでしょう。180921_彼岸花虫除けスプレーは必需品です。先日は、膝を落として低い位置で描き始めたのですが、この姿勢を維持するのもつらいもので、そんなときには小型の折りたたみ椅子が必要です。他の散歩の人が近くを通るとどうも気になって、その線が途切れてしまうこともしばしば…、描きたい草花を見つけたら如何に素早く、人が来ても心臓強く描く練習です。
  ▼クレオメ                 ▲彼岸花
180917_クレメオ それでも、やはり写真を1枚撮ることが必要です。どうしてか…って? 帰宅して、その写真をかみさんに見せ、自分の描いた草花の名前を知るのです。私は草花が好きですが、そこまでは万人と同じですが…、その名前を知りません。正確には、草花の名前と実際の草花の姿が一致しないことが多いのです。

 昨日、こんな事がありました。草花の絵を描いたまでは良いのですが、電池切れのスマホでは写真が撮れません。絵を彼女に見せて、「これは何の花?」と聞けるほど正確に微細な絵を描いていません。その絵を掲載するのは止めておきましょう。



express01 at 22:27|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Drawing | Local

September 13, 2018

Yokohama、近藤勇…そして町田 その2

『Yokohama、近藤勇…そして町田 その1』から続く…
 
 町田、さらに大きく多摩という地域の歴史を見ると、面白い事に気がつきます。最初の武士政権、鎌倉幕府(1192)を建てた関東武士の棟梁は都からやって来た貴種、源頼朝。源氏三代を殺して、鎌倉幕府を引き継いだ伊豆国(静岡県)出身の執権北条。その鎌倉幕府を倒して(1333)、後醍醐天皇親政失敗( 1336)に続く南北朝時代(〜1392)、そして上州(群馬県)出身の足利尊氏が室町幕府(1336〜1575)を建てるもその実力は京周辺の山城一国にしか及ばなかった。各地の守護はその権限を拡大し、守護大名に成長、関東でも混乱が続きました。戦国時代の先鞭をつけたのが備中(岡山県)出身の早雲(伊勢新九郎盛時)が伊豆韮山(静岡県)に拠点を置いて、伊豆・相模国を、執権北条の名を継いで小田原(神奈川県)を本拠地に関東一円を支配しました。後北条は秀吉に敗れ(1590)、いよいよ三河(愛知県)出身の家康が入って来ます。家康は、善政を敷いた後北条の民政(四公六民)を踏襲、100万石余といわれる幕府直轄領(天領)には有能な代官を置いて統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げます。家康の江戸脱出路とされる甲州街道、その途中に在る八王子の街、そこに武田・後北条の遺臣を集めて「千人同心」を作ったのが大和(奈良県)出身の猿楽師、大久保長安(武田信玄、後に家康に仕える 金山奉行)江川邸玄関外であり、町田を含む多摩地域には千人同心の子孫が多く住んでいます。 もう一つ、保元の乱を嫌って伊豆韮山に流れてきた江川家は、頼朝・執権北条・足利・後北条そして家康に「江川太郎左衛門」の名で世襲代官として仕え、町田を含む多摩地方の幕府直轄領は伊豆の代官「江川太郎左衛門」の支配下に在りました。

 日本人の精神と倫理観に徹底的な影響を与える関東武士の誕生、彼等はその主役でありながら、自らのうちに棟梁を見いだすことをせず、当初は平氏を、次いでは源氏、都の貴種(他国者、よそ者)を担ぎ上げて史上最初の武家政権、鎌倉幕府を開きます。 以来、関東に於いて、時代の節目にいろんな事象が発生しますが、近世末、おそらく今日に至るまで、全くこの傾向は変わりません。

 幕末、養蚕だけでなく、 木綿・油菜・荏胡麻・藍などの商品作物への転換が進み、近藤勇農民は「穀物買い入れ層」となり、奢侈・贅沢へ傾斜して行きます。その結果、穀物価格の急騰、飢饉・打ち壊しの発生、治安の悪化、社会の混乱を招くことになります。後に新選組を率いる近藤勇(1834-1868)、土方歳三(1835 - 1869)は武蔵国多摩郡調布・日野に中農以上の豊かな家庭環境に生まれますが、彼等こそ多摩地域が生んだ独自のリーダー、棟梁でした。小島鹿之助(1830 - 1900)は当時の小野路村の名主で近藤勇(新選組)のスポンサーでしたが、ひ孫に当たる小島政孝氏(小島資料館館長)は講演で「近藤勇・土方歳三は多摩の英雄」と明言しています。身びいきすぎる…とは思いますが、確かに関東武士が生まれて以来始めて、近藤勇は歴史の節目で「棟梁」となった唯一の多摩人であり、その意味では「多摩の英雄」です。

 市民大学講座の講師もここの学芸員の方が多いのですが、町田市立自由民権資料館というものがあります。私の了解する「自由民権運動」とは、戊辰戦争で勝利した新政府軍、例えば武士は板垣退助を頂点に一国の家老待遇の名誉と地位を得ながら、数年後の廃藩置県でその地位は反故にされ、「不平士族の反乱」に繋がり、西南戦争が終息すると、明治政府への不満の矛先が憲法制定・議会開設を要求する「自由民権運動」へと変遷していきます。板垣退助は東山道先鋒の参謀として戊辰戦争(1868-1869)に従軍、「勝沼の戦い」では近藤勇(新選組)を撃破して甲州街道を東へ、八王子千人同心を懐柔、徳川恩顧の多摩郡を全く無抵抗のまま江戸に達します。町田には、代官「江川太郎左衛門」の組織した木曽農兵、小野路には小島鹿之助が組織した小野路農兵が幕府側として参戦したはずなのですが、どうも消息が分かりません。戦争の帰趨が判っていたからでしょうか…、 上野戦争・東北戦争は未だ始まってもいないのに、徳川恩顧の町田を含む多摩地域から、例えば宇都宮・日光方面の戦いに向かうこともありませんでした。

 自由民権資料館は野津田村の地主、村野常右衛門(1859-1927)が自由民権運動に加わり(1881)、その私財を割いて建てた「凌霜館)」の跡地を町田市に寄贈されたものが始まりで、 多摩・神奈川の民権運動関係史料を収集・保管し、整理・研究している由。読む方の誤解か…、それとも誤解を招くことを意図したのか…、自由民権運動の起源がこの地にあったかのような名称です。横浜開港で町田に西欧の宗教・思想(例えばアメリカ独立戦争・フランス革命の自由・平等・議会設置)が入り込んでいたのか、と大いに期待したのですが…、全くそんなことはなく、かと云って不平士族でもなく、不平というならば、それまで天領・旗本領の特権を剥奪されたという新政府への不満…でもないようです。 彼は戊申もはるかに過ぎて、西南戦争(1877)後、当時、にわか風俗の如く流行した「自由民権運動」に参加したのでしょう。福沢諭吉が訳したとされる「自由」、それを底に記したぐい飲みが展示されています。廃藩置県に伴い(1872年までに)町田を含む多摩地方は神奈川県に編入されましたが、コレラ流行(?)等を理由に、1892年、再び現在の東京都(府)に戻ったと云います。当時、神奈川県・町田を含む多摩地区で盛んだった自由民権運動を削ぐ狙いがあったと云いますが、云われる通り運動は急速に衰退してしまいます。ブームが終わったように…。原町田から八王子にかけての人間にとっては、新しい産物・思想・生活習慣の発信地、居留地のあるエキゾチックな港町横浜(神奈川県)が少し遠くに行ってしまいました。

 東京・大阪を初めとする大都市に人口が集中する傾向は今も変わらず、町田市の人口は43万、八王子(58万)に次ぎ、多摩地域第二の大都市です。幕末の横浜開港以降、町田の中心は小野路村から原町田村に移り、JR横浜線は市の南端を、小田急も東の端をかすめるだけ、 国道は一本も通らず、町田の背骨でもある町田街道に右折レーンが出来たのはつい最近の話です。遠藤周作縁の地で在り、死後遺族から彼の遺品寄付の申し出がありながらそれを断り、長崎に持って行かれ、かろうじて白州正子の遺品は「武相荘」に遺されています。映画館はやっと最近、南町田にシネコンが出来たというお粗末さ。文学・芸術がダメならスポーツで、ということで町田市はサッカーにお金をつぎ込んで、やはり政治の中心は昔ながらの野津田(あるいは隣接する小野路)なのか、人里離れた所に立派なスタジアムを建設しましたが、その結果は未だ明らかではありません。多摩地域第二の大都市でありながら、武蔵野には入っておらず、現在に於いても「多摩の横山」が厳然たる壁、市内を走る神奈中バス、相模原市と同じ市外局番に、かつては神奈川県に編入された名残がある、とらえどころのない無個性な街に映ります。これがこの街の文化…?。

 地域おこし、街おこしをやろうにも、ただミニ歌舞伎町が駅前にあるだけの街では手の打ちようがありません。町田市が積極的に景観を保存した訳ではありませんが、私の住む小山田地区には、結果的には、幸か不幸か、江戸時代、さらに遡った古い原型のままの山里を見ることが出来ます。 やはり、多摩の横山を越えて小野路に出稽古にやって来る近藤勇をキャラクターに据えるべきでしょう。


September 06, 2018

Yokohama、近藤勇…そして町田 その1

町田109 レミィ町田 今年は「明治維新150年」、それを記念して町田市民大学講座:「町田にこだわって「明治維新」を考える」に、4月から7月までの4ヶ月間(12回)、時間の許す限り参加しました。会場は生涯学習センター、駅にも近い「レミィ町田」です。今年3月までは「109町田」と呼ばれたビルで、若者の街渋谷の「109」を持ってきたのが売りでしたが、渋谷と同じように若者を呼び込むことが出来ず、6階部分を町田市生涯学習センターに貸し、今年4月からは「レミィ町田」に改称、地下1階から地上5階まで商業店舗となっているが入れ替わりが激しく、ファッションの発信地にはほど遠く、今に至っては単なる雑居ビルです。おもしろい事に、近くには、東急・ルミネ・マルイ等が在り、「レミィ町田」近辺も若者で溢れているのですが、 一階エレベーター付近では、 6階生涯学習センターに向かう老人集団がたむろしており、ある種異様な光景です。

 その人の人格形成に最も影響を与えた土地を出身地と呼ぶそうで、それに従えば、私の出身地は兵庫県伊丹市(人口20万、その頃は「白雪」の小西酒造、三菱電機、陸自中部方面総監部の街)です(出生地は九州)。昔の呼称では摂津国、京都の南西(概ね現在の大阪府淀川以北)および大阪(市域と堺)から神戸市(兵庫県南東部)にかけての地域です。JR西日本の広告で「三都物語」というものがありましたが、阪急に乗れば、京都まで1時間、大阪(梅田)まで20分、神戸(三宮)まで30分、伊丹市と3都市の位置関係をご理解して頂いたでしょう。京・大阪に比べると神戸はやや格下に見えますが、今も基本的には変わらないと思いますが、関西の若い女性の理想は、「神戸に住み、大阪に働き、京都に遊ぶ」、神戸はあこがれの街なのです。関東で云えば横浜、どちらも幕末に開港、欧米諸国の新しい産物・思想・生活習慣が流入、外国人の居留地のあるエキゾチックな港町と云えますが、神戸は幕末・明治にパッと出たのではなく、遠く平安時代末期、平清盛が大輪田泊を築き、福原遷都(1180)を行った歴史の重みがあります。

 横浜線淵野辺に住む友人の奥さん(いわゆる「在」の人)は大の京都ファン、彼の地を観光旅行で訪れた際、「関西じゃないですね。何処から来られたのですか?」と聞かれ、とっさに「横浜から…」と応えてしまったそうです。横浜に住んでいる訳ではなく、単に横浜線沿線に住んでいるに過ぎないのに…、「Yokohama」には大きな魅力・求心力があります。幕末(1853-18横浜開港68)、横浜が開港され、これによって生糸が輸出品の花形になり、養蚕規模が拡大、桑の植え付け面積が拡大、開港以前の主要穀物であるは麦・栗・稗の収穫量が激減します。現在のJR町田駅近辺、原町田村が活況を呈し始めたのもこの時期で、明治になって、八王子から横浜に向けて鉄道が敷設されたのも、沿線で採取された生糸の横浜への輸送がその目的であり、これが現在のJR横浜線の始まりでした。

 平安後期、関東では、新田・牧場の開墾・開発が隆盛、アメリカ開拓期の牧場主のような彼等は「一所懸命」という単純明快な論理は「名こそ惜しけれ」という、卑怯な振舞いを蔑む精神を表裏一体して鎌倉武士の真髄であり、その後の日本人の原理・原則、「理念」にもなって行きます。清和天皇の皇子に「源」の姓を与えて臣籍降下させたのが源氏の始まり、桓武天皇の孫の一部が「平」の姓を与えられて臣籍降下させた平氏が早い時期に関東へ進出、後に武蔵国では後に秩父七平氏が周辺の豪族を従え、その一人が小山田荘を支配する小山田有重となります。平氏は次第に西に逃れ、平正盛の伊勢平氏は河内源氏を抑え、忠盛・清盛の平家の全盛時代となります。遅れて関東に進出した源氏(河内源氏)は「前九年・後三年の役(1051-1062)」に勝利、 源義家(八幡太郎義家)は関東の豪族を掌握します。 「平治の乱(1160)」に破れた義朝の次男、頼朝は捕虜となり、伊豆韮山に流罪、関東の武士団は頼朝を担ぎ上げて、都より遠く、相模国鎌倉に幕府を開きました(1192)。

小山田荘鳥瞰図_2 小山田有重が開いた小山田荘、彼は馬牧の別当だったのですが、この地は万葉の時代から「多摩の横山」 と呼ばれ、 名高い丘陵地帯でした。早くから、牛の舌状の「谷戸」がいくつも入り組み、清水が湧水する土地が水田として最も貴重な存在でした(田方、たかた)。小山田荘の南側(現在の町田街道)及び境川を隔てて相模国淵野辺村は水田が少なく、上述の通り、幕末以前は長きに渡り麦・栗・稗を主要穀物としていた(岡方、おかがた)。おしなべて、平安以来、米を産する豊かな小山田地域(田方、たかた)と米を産しない相対的に貧しい境川両岸地域(岡方、おかがた)という図式が長く続き、幕末、横浜開港で生糸が最大輸出品となり、横浜→原町田→八王子(今の町田街道沿いか?)は一挙に桑畑と化しました。原町田村は現在のJR横浜線・小田急線両町田駅近辺にて、幕末横浜開港以降、生糸を横浜へ搬送する中継地として急激に発展しました。それまでは、相模国矢倉から上野国へ至る往還があり、境川を木曽辺りで武蔵国に入り、小野路村で馬次し、横山そして多摩川を越えて、武蔵国府である府中に向かったもので、江戸期においては高札所が在り、明治初頭には郵便局が設置されるなど、小野路村が小山田荘を含むこの辺一帯の中心地でした。それまで見向きもされなかった岡方(おかがた)地帯が、横浜開港を機に、一大生糸生産地に変貌、原町田村はその集積・中継地として急激に繁栄ました。



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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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