July 2018

July 29, 2018

この曲<22> "Sister Lost Soul"

Alejandro Escovedo 好きな曲が流れて、思わずボリュームを上げてしまいました。『Sister Lost Soul』がそれなんですが、ご存じですか?私の好きな曲と云っても、ほとんどの場合、知らない人の方が多いのが事実です。この場合もそれに当たるのでしょう。オリジナルはAlejandro Escovedo(アレハンドロ・エスコヴィードウ 1951年生まれ メキシコ系)が、Chuck Prophet(チャック・プロフェット)と共同で作り、2008年の彼のアルバム『Real Animal』に修められています。彼はカントリーというよりは、パンク(?)・ロック・ミュージシャンとして活躍していたようで、これは彼の友人、ロック・バンド、The Gun Clubの Lee Pierce(1996年、37歳で脳出血で他界)を追悼して作られた曲です。

今回は、 カントリー・バンド、Micky & the Motorcarsがカバーします。
 



"Sister Lost Soul"

誰も壊れずにはいられない
誰も無傷ではいられない
誰も此処ではしゃべらない
世の中とは正にこんなもの

あなたは行かなければならなかった、私を置いて
一人で彷徨ってしまった
そしてネオンの光が
歩道に映る
我が家が気付かせてくれる
あなたはもう戻っては来ない

[Chorus]

姉妹、失われた魂
兄弟、失われた魂
あなたはなくてはならない人
姉妹、失われた魂
兄弟、失われた魂
あなたはなくてはならない人

全ての最後の心は許され
全ての最後の涙は嘆き
外の通りでは水が凍っている
そして私一人だけが生きていると感じる

[Chorus]

私はあなたの側に横たわりたい
あなたの息を私の耳元で感じたい
あなたが最初でも、最後でもない
側に横たわったのは
私はたった今、身を横たえよう
あなたはまだ此処に居る


[Chorus: x2]


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July 21, 2018

緊急入院体験談

 学校管理と云うアルバイトをやり始めて間もなく5年です。校門開門に始まる1時間の朝の業務、及び窓・ドアの施錠の確認を主とする3時間の夕(夜)の業務、合計4時間の業務を月始め・月中・月末の3人の交替でやっています。 当初は、渡された鍵束を見てその数の多さに驚いたのですが、1年もたつと、真っ暗闇でも、手で触っただけでどの鍵なのかが判り、個々の鍵の施・解錠のコツも覚え、業務の時間配分も出来るようになり、我ながら驚いてしまいます。 次の業務までの間、机のある管理人室でコーヒーを飲んだり、好きな本を読んだりして過ごすことが出来るので、私はこのアルバイトを大いに気に入っています。

 月初めを担当する私の勤務日の最後の日にそれは発生しました。夕方の6時半、この時間には生徒は校門の外に出てなければなりません。 生徒が居なくなったこれからが、管理人の忙しい時間帯、部活で使用していた以外の教室は既に点検済みです。先ずは生徒の昇降口の施錠とばかりに席を立とうとしますが…、席を立てません。胸の辺りに圧迫感、そうこうしている内に汗が出始め、ハンカチで拭いますが、とうとうハンカチはびっしょり、しばらくの間は座ったままで過ごしてしまいました。 教員室の先生方に声をかけようとしたのですが、親しい副校長先生が今日は午後から出張中で、とうとう助けを求めることなく、気分も多少良くなって、何とか残りの施錠業務を終了、午後8時に学校を出て家路を急ぎました。帰宅すると、夕食を食べる気にもなれず、とにかく一風呂、結局そのまま布団に倒れ込んでしまいました。それから1時間ぐらいは、今回の突然の発作は何だったのか…、前日の午前中に参加したテニスによる熱中症の発症なのか、悶々と胸苦しかったのですが、いつしか眠りに落ち、寝覚めたのは朝でした。

 多摩丘陵病院は行きつけの病院なのですが、朝一番で診察してもらったのは私の内科主治医ではなく、新患外来担当の医師でした。ここに至る経過、心電図・レントゲン・血液検査の結果を見て、その医師の判断は 「心臓の周り在る血管が細くなって心臓機能を低下させ(狭心症)、症状としての狭心痛は一時的に回復したり悪化したりをくり返し(不安定狭心症)、血管が完全に詰まってしますとその部分が壊死、心筋梗塞となる」、「緊急にカテーテル検査を行い、必要あらばステントを入れて細くなった血管を本来の太さに戻すカテーテル手術をする」、「ここにはカテーテル手術を行う設備もなく、同意頂けるならば、設備・人員の用意のある北里大学病院へ救急車で搬送する」と云うものでした。かみさんに電話、タクシーで来てもらい、夫婦で医師の判断に同意しました。かみさんは私の乗ってきた車を運転、私はやって来た救急車に乗せられて、夫婦別々に北里大学病院へ向かいます。私を診断してくれた医師は北里の循環器系の専門医にて、私を送り出して、午前中だけの多摩丘陵病院勤務を終え、北里に向かうそうです。

180721_アスクレーピオスの杖と蛇 もちろん救急車に乗るのは初体験。救急車に乗る時点では狭心痛もなく、気分も悪くはなく、車内のストレッチャーの横のベンチに腰掛けると、「靴を脱いでストレッチャーに横になって下さい」と隊長に云われ、病院で訪ねられたことを繰り返して説明しました。「ピィーポー・ピィーポー」 、交差点ではけたたましい音に切り替え、リア・ウインドウのカーテンのかかっていないガラス越しに、見たことのある風景が次々に遠ざかって行きます。途中までは、車が今どこを走っているのかを認識していましたが、JR横浜線を越えた辺り、相模原市に入り国道16号をどこの交差点で横切ったのかは判りません…、出発して30分、北里大学救命救急医療センターに到着です。

 集中治療室に入ると、 待機していた医師・看護師そして救急隊員によってストレッチャーからCT北里大学病院集中治療室_1スキャン(?)に移されます。もちろん、ほとんど天井しか見えませんが、生命維持・カテーテル手術のための装置が林立、血圧・心電図・呼吸・酸素飽和度などの24時間監視するモニターが在り、まるでスタンレー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』を見ているようです。きゅう午後1時15分ぐらいに始まった手術は途中何をされているかが全く判らぬままに、覚えているのは、最初におちんちんの奥に奇妙な痛みを感じただけで、1時間ぐらいで終了しました。 手術終了後、救急医療病棟内の病室に移動、かみさんと一緒に、カテーテル手術が成功裏に終了した旨医師に説明を受けました。緊急搬入・手術の当日はセンター内の病室に移され、血圧・心電図・呼吸・酸素飽和度モニター用のコード類を身体中に、水分・栄養補給のための点滴用パイプ類を左腕に接続され、さらには、想像するだけでも身震いしてしまう…、自動でおしっこを回収するパイプが私のおちんちんの内部から繋がれているので、私は身動きすることが出来ず、全て看護師さん任せにならざるを得ません。看護師さんから食欲の有無を聞かれ、そう言えば今日は朝食以外は何も食べておらず、量的にも普段の半分以下の夕食<ご飯150g+赤魚の煮付け+揚げ茄子(和風だれ)+白菜ののり酢和え>、「1600kcal 常菜心疾患 食塩6g未満」をおいしく頂きました。もう一つ、救急医療病棟は24時間臨戦態勢、夜中でもスタッフが忙しく往来しており、モニターの異常を知らせる警告音に加えて隣の病室のいびきがうるさくて、一日目は一睡も出来す次の朝を迎えました。

 新患があるようで、私は救急医療の戦場から離れた別室に移されました。2日目、個室なのですが、頭上天井近くには私を含めた患者6人の体調を監視するモニターが設置されており、担当の看護師がどの部屋に居ても個々の患者の異常が警告音と共に判るようになっているようです。幸運なことに、私は狭心症と判断され、そのままカテーテル手術を受けることが出来ましたが、心臓の少なくとも一部は壊死しているでしょう。少なくとも心筋梗塞の心臓へのダメージは最小限に抑えられたはずで、術後の経過も良好、リハビリのスタッフが付き添い、尿採取のパイプ及び袋を付けた点滴台を左手に300mを歩いて、日常生活に復帰出来ることが確認されました。救命救急医療病棟から車いすで移動、一般病棟に移され、6人部屋ですが、監視モニター・警告音のない静かな部屋で、ぐっすり眠ることが出来ました。

 3日目、午前中は車いすでリハビリテーション部に移動、身長・体重・酸素量・体志望・筋肉量・握力・脚力…など、私の基礎体力を測定、リハビリの基礎データを測定、日常生活に復帰出来ることが確認されました。その日の午後、3日前、多摩丘陵病院の初診で私を診てくれた担当医師の訪問を受け、次の日の退院を告げられました。

 入院中は全く別世界に居ましたが、 外に出ると、朝なのですが既に真夏の太陽、この辺の道路事情に詳しいご近所の方が描いてくれた地図を私が見ながら、かみさんの運転で帰宅しました。

 狭心症(心筋梗塞)初期症状として、 「胸の圧迫感」だけでなく、「胸を中心に直径30cmの痛み、例えば歯の痛み、肩・首筋の痛み」そして「大量の汗」を覚えたなら、何の躊躇もなく救急車を呼ぶべきものと考えます。高血圧症が持病の私と同年代の人だけでなく、働き盛りの若い方々にも狭心症(心筋梗塞)は他人事ではありません。つい先日、狭心症(心筋梗塞)を発症した私の3泊4日緊急入院体験談でした。どうぞ参考にして下さい。

 多摩丘陵病院、救急車、北里大学病院スタッフの皆様、そしてかみさんに感謝です。お陰で短期間の内に日常生活に復帰することが出来ました。本当に有り難うございました。

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July 09, 2018

摂津国多田庄

 半年ぶりに出る都内、人の多さに酔ってしまいそうな東京駅近く、高校時代の同窓生と久しぶりに会うことが出来ました。当時は兵庫県伊丹市の南部に住んでおり、市の北辺に在る高校まで自転車で一時間弱をかけて通学していました。当時、まだ人口が少なく、高校の設置されていない川西市(及び宝塚市)からの通学生も多く、その友人も川西市から通う一人でした。

 川西市は文字通り猪名川の西、 大阪湾の河口から順に尼崎市→伊丹市→ 川西市(兵庫県)、猪名川の東は大阪市→豊中市→池田市(大阪府)となっており、 江戸時代までの行政区「摂津国」は、この猪名川を境に、東を大阪府、西を兵庫県という二つの行政区に分割したのは、摂津国の強大さを明治政府が恐れたからだという説があります。因みに、高校1年の時「セッタン模試」という学力テストの数学で惨憺たる点数を取り、理科系を断念、文化系志望に変えた苦い経験がありますが、この「セッタン」とは摂津・丹波地方、現在の行政区「兵庫県」を意味する言葉でした。

多田神社  清和天皇(850 -881)の孫が臣籍降下、特に経基(つねもと)王(源経基)の子孫が繁栄しました。源経基の子、源満仲(みつなか 912 - 997)は摂津国多田の地(兵庫県川西市)に本拠を構える武士団を形成、「多田源氏」と呼ばれます。伝説では、満仲が住吉大社の神託に従い、 三つ矢羽根の矢を放ち、矢の落ちた多田に居城を建て、見つけた郎党に、「満仲の矢(満矢)」にちなみ、「三ツ矢」の姓を与え、重臣に取り立てたといいます。平野温泉、平野鉱泉は三ツ矢一族の領地でしたが、明治政府は、来訪外国要人に良質三ツ矢サイダーの飲料水を提供するために全国的な水質検査を行い、炭酸ガスを多く含む「理想的な鉱泉」と認定され、炭酸飲料水の工場が建設されました。 後に民間に払い下げられ、「三ツ矢」の伝説は炭酸飲料のブランド「三ツ矢サイダー」となったそうです。

清和源氏_紋 満仲の子である長男:頼光(よりみつ 948 -1021)は多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれ、次男:頼親(よりちか 966 - 1057)は「大和源氏」の祖、三男:頼信(よりのぶ 968 - 1048)は「河内源氏」の祖となり、父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大します。特に、河内源氏の頼信は「平忠常の乱」を鎮定して坂東に橋頭堡を築き、その子の源頼義(よりよし 988 - 1075)、頼義の子の義家(よしいえ 1039 - 1106)の時代に、 「前九年(1051 - 1062)・後三年の役(1083 - 1087)」で坂東武士を掌握し、義家は「八幡太郎義家」と呼ばれ、後に頼朝の代に「武家の棟梁」として鎌倉幕府を開くことになります。義家の時代に絶頂期を迎えた河内源氏でしたが、力を付けすぎた義家を嫌って、院政勢力側は平忠盛(伊勢平氏)を重用、忠盛の長男:清盛は「保元の乱(1156)」、続く「平治の乱(1159)」に勝利して源氏を一掃、後に武家で始めて太政大臣に就任します。

 「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほどに平氏一門は隆盛を極めました。源平の力の均衡を維持しようとする院政勢力側は、今度は、平氏一門・清盛と対立を深めていきます。そんな中、京都東山鹿ケ谷で起こったのが「鹿ケ谷の陰謀(1177)」事件で、その陰謀に参加していた多田行綱(ただゆきつな ?年 - ?年 多田→摂津源氏)の密告により露見、陰謀に参加した一味を死罪・流罪とし、清盛と後白河院との溝は徹底的となります。「鹿ケ谷の陰謀」とその主犯とされる俊寛は他の二人と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流されました。多少の陰りが見えてきたにせよ平家の全盛、密告した行綱は落ち目な源氏、「平家物語」は良いようには描いていません。

 義経の戦功とされる「一ノ谷の戦い」、「鵯越(ひよどりごえ)」ですが、本当は土地勘のあった行綱の手柄だったとの説があり、以降、義経と幸綱の関係が深まります。頼朝は、義経を許可なく官位を受けたとして追討、さらに、二人の関係に不安を感じて行綱も追放し、清和源氏の嫡流を自認した彼は、先祖、源満仲以来の本拠地である多田荘をも没収します。

 頼朝に追われ、都落ちした(1177)義経が西国に向けて船出しようとしたのが摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)で、京から下ってきた淀川から分かれて神崎川となり大阪湾に注ぎます。 冒頭の猪名川は、この神崎川河口を少し内陸に入った辺りで分かれ、北へ延びており、大物浦辺りの河口地域は京・山城国・大和国・摂津国を結ぶ一大物流拠点だったのでしょう。 時代は下って、源氏の嫡流を自称する家康は、この大物に隣接する佃島(大阪市西淀川区)の漁師が牽引する船に乗って猪名川を遡上、上流にある清和源氏発祥の地、多田院に参拝します。家康は江戸に幕府を開くと、その労に報いて、彼らの江戸進出を許します。後に佃煮で有名になる江戸(東京)佃島の始まりでした。因みに、つまらないの意味で「下(くだ)らない」と云いますが、当時、うまいもの、おいしいものは京・大坂からの「下りモノ」でしたが、江戸発の例外「上りモノ」は浅草海苔とこの佃煮でした。180708_能勢電

 猪名川の渓谷に沿って、時には渓谷を跨いで走る「能勢電」に乗って、摂津国多田庄を再訪したいものです。

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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