March 2017

March 19, 2017

チャック・ベリー死去

Chuck Berry いわゆる洋楽を聴き始めた中学・高校生の時、私はあまりテンポの速いロックンロールが苦手でした。当時、もちろん歌詞の意味を理解していた訳ではありませんが、どうも内容が乏しいので、リズム、メロディだけを理由に好きになることはありませんでした。恥ずかしいことに、ビーチ・ボーイズの『Surfin'USA』の本歌が『Sweet Little Sixteen』で、ジョニー・リバースの『Memphis Tennessee』 、ビートルズの『Roll Over Beethoven』が実はチャック・ベリーの曲であるというのは知ったのはかなり後のようだった気がします。

 アメリカ音楽のルーツ、その幹の部分に、アフリカに起源を持つ黒人のブルースがあり、白人が主に持ち込んだ主にアイルランドの音楽と化学反応、急激に発酵して、今までにはなかった新しい音楽、ロックンロールが誕生しました。誰がその最初の実験をしたのか、誰がこの新しい醸造酒を造ったのか、その蔵元は特定できませんが、チャック・ベリーがおそらく、最初に名前を挙げられるべき人なのでしょう。

 こんなブルース、ロックンロールに対する貧弱な理解を変えることになったのは、今もバンドで付き合っている、ギターのNobuさんです。その彼がリードして演奏したのが、チャック・ベリーの『Johnny B. Goode』です。私はほとんど何もしていません。
 チャック・ベリー死去、享年90歳。ご冥福をお祈りします。

YOUR SUPPORT, please.皆様のご支援をお願いします。
    にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ  にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ    


March 14, 2017

 くどいですが、『沈黙』

 ザビエルは1549年に来日、日本での布教が始まりました。信長は仏教勢力への対抗勢力としてキリシタンを保護、後を引き継いで覇権を握った秀吉の時代、「バテレン追放令(1587)」・高山右近のマニラ追放(1588)があったものの、キリシタンが興隆を極めました。関ヶ原敗軍の蜂起「島原の乱(1637-1638)」が勃発、より深い地下潜伏の時代に入ります。映画:『沈黙』は乱の再発に脅えた徳川政権直轄の長崎が舞台でした。

 日本の歴史を振り返ってみると、中国風(唐風)文化の影響が極めて大きかったのですが、平安の中期にると、中国文字(漢字)から平仮名・片仮名が発明され、漢字の訓読みが確立されたことにより、『枕草子』や『源氏物語』に代表される和歌・日記・物語文学が隆盛、寝殿造等の和様建築の登場など、中国風(唐風)文化の影響が薄れ、国風文化と呼ばれるものが誕生しました。武家政権が誕生し、新仏教が興隆した鎌倉時代、室町時代には貴族文化と武家文化の混合、明との勘合貿易により中国文化が流入、武士の保護のもとに禅宗が興隆、日本文化の源流と言うべき新しい文化(北山・東山文化)が誕生します。観阿弥・世阿弥父子は従来の猿楽・田楽を能楽に、能やその合間に演じられる狂言に大成。「もののあわれ」から「わび・さび」へ、寝殿造りから書院造りへ、畳・床の間・違い棚などの「和」の文化が生まれます。しかし、室町幕府の衰退とともに勘合貿易も衰退、日明貿易は堺の商人−細川氏、博多商人−大内氏が独占するようになります。

 1549年ザビエルが来日、その翌年、京・大坂布教を目的に堺にやって来ます。当時の堺は国際都市、商人(=文化人)に依る自由・自治都市はベニスにも匹敵したと言います。南宗寺(臨済宗大徳寺派)を中心に禅宗が盛んで、堺の町衆文化の発展に寄与しました。「ものの始まりなんでも堺」の通り、京と並ぶ文化の発信地でもありました。茶人でもあった日比谷了珪(ひびや りょうけい)が彼の世話をしたことによより次第にキリシタンへのめり込んで行くことになります。1561年、ヴィレラが堺に1年間滞在、1564年、アルメイダとフロイスがやって来て、了珪自らも洗礼を受け、日比屋家の人々も入信しました。了珪は堺における切支丹の先駆者であり、多くの茶人が彼にならって入信しました。 

 この頃、千利休が茶湯の世界に登場します。それほどの教養を必要としない茶道は戦国武将の間に流行し、信長の時代に入りこの「数奇の道」に入らぬ者は居ないほどのに盛況でした。千利休をはじめ、堺の納屋衆など町家出身の茶人が武将に混じって、最も活躍したのもこの時代で、信長とその後を継いだ秀吉が覇権を握った30年ほどの期間でした。奇しくも、と言うか「妙に…」、茶湯興隆の時代はキリシタン興隆の歴史に見事に重なります。これは単なる偶然ではないように思うのは私だけではないようです。

 武野紹鴎(たけのじょうおう 1502-1555)は「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、日常生活で使っている雑器を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努めた。紹鴎(じょうおう)に入門した利休は紹鴎の『詫び』の対象を茶室の構造、手前の作法、茶器全体の様式にまで拡大、禅の「枯淡閑寂」(これ以上何も削れない)の極限まで無駄を排除して、侘び茶を大成させました。村田珠光(むらた じゅこう 1422-1502)から100年が経っていました。

 小説・映画:『沈黙』の中のフェレイラ神父の言葉、「全てを腐らせてしまう底なし沼」はあくまでもキリシタン宣教師側、キリスト教徒側から発した言葉であり、どうも私には引っかかります。同時に、もちろん利休が侘び茶を大成させたことは疑問の余地がありませんが、ここに全くキリスト教の影響がなかったかと言えば嘘になるでしょう。
狩野内膳南蛮屏風_2
※画像をクリックすると、右端に居る老茶人が拡大されます。
 山田無庵(1947-1993)著『キリシタン千利休』は神戸市立南蛮美術館所蔵、狩野内膳の『南蛮人渡来図』右隻に描かれた老茶人から話しが始まり、この老茶人こそが利休であり、利休はキリシタンであった、それを理由に秀吉から切腹を命じられるが、利休の死亡原因は切腹(自害)ではなく<処刑>であったしている。<自害>だったのか…、<処刑>、あるいは関ヶ原前夜の細川ガラシヤ<介錯>の例のような形なのか、私には、どちらでも良いのですが、選ぶとすれば後者:<処刑>か<介錯>です。利休に同じく切腹を命じられた大徳寺古渓和尚は<自害>の意志を表明した途端に許されています。キリシタンは宗教上<自害>は禁じられており、<自害>したのであるから、利休はキリシタンではなかったというのが通説ですが、洗礼を受けているか否は別に、キリシタンであること、信仰・共感の深度、深いのか浅いのか、少なくとも利休はキリシタンに対して深い共感を持っていたものと思われます。蒲生氏郷、高山右近、細川忠興、芝山宗網、瀬田掃部、牧村利貞、古田織部、利休七哲と呼ばれる彼等のほとんどがキリシタン、あるいはそのシンパ・共感者であることを見ればそれは明らかでしょう。『キリシタン千利休―賜死事件の謎を解く』のご一読をお奨めします。

 平安時代、空海は唐で学んだ密教を持って真言宗を開き、最澄は天台宗を開き、鎌倉時代、新仏教と呼ばれる法然による浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、時衆(宗)が誕生しました。その間、キリスト教者には信じられないでしょうが…、日本人は『神仏習合』、『本地垂迹』の方法を考えてそれまでやって来たのです。この時代、仏教僧、特に当時の禅僧が渡来の新しい宗教、それも幾つもの大洋を乗り越えてやって来たキリスト教に興味を持ちその教学を学ぼうとしたことであろうとは想像に難くありません。大徳寺和尚の文書・記録には改竄が多く、禁教令に備えてキリスト教関連の記述が削除されたのがその理由だそうです。

 利休は、村田珠光に始まる侘び茶を大成させました。しかし、キリスト教の伝搬がなければ、あるいは、彼が堺という国際、自由・自治都市に生まれなければ、そして禅宗という好奇心旺盛な仏教宗派がなければ利休の「茶湯」、ひいては今日言う「日本文化」も出来てはいないのではないでしょうか。利休を媒介に、禅宗とキリスト教が化学反応を起こしたのです。キリスト教には不幸な「底なし沼」ですが、蓮が泥水に咲くように、「日本文化」の重要な源泉の一つに思われます。
 ※参考:『キリシタン千利休―賜死事件の謎を解く

 p.s. 「3.11」から6年、神は沈黙を続けています。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

YOUR SUPPORT, please.皆様のご支持をお願いします。
    にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ  にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ    


Profile

ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

Back Issues At A Glance
Comments
ISAO's Bookshelf
人気ブログ ランキング
NINJA
Search