October 2016

October 30, 2016

そうだ、バスで、京都に行こう!<2> 蚕の社

                 
 「嵐電(京福電鉄)」は京都の長い歴史を往還するタイムマシンかも知れません。白梅町駅で嵐電(北野線)に乗車、「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」駅で本線に乗り換え、「太秦広隆寺」駅、そして「蚕の社(かいこのやしろ)」と、ひらがなで綴った駅名はまさにタイムマシン、映画:『Back To The Future』デロリアン(De Lorean )です。
白梅町駅
 司馬遼太郎著の何かの本で読んだが、彼はまだ若く産経新聞京都支局で大学か宗教の担当であった時、街の銭湯で一人の老人と出会い、「日本にキリスト教を初めて伝えたのはフランシスコ・ザビエルではない。彼よりさらに千年前、すでに古代キリスト教が日本に入って来た。」と話してくれたのがその小説を書き始めた動機であったとは、少々出来すぎだったのではないでしょうか。銭湯で会った老人とは佐伯 好郎だったのか…?、その小説とは彼の初期の短編:『兜率天の巡礼 』でした。

 本来、キリスト教は全能の唯一神以外に神の存在を認めない一神教であるが、預言者の一人にすぎないイエスは自ら神の一人子となのって神の座を獲得したが、そのイエスを生んだマリアは何者だろうか。西暦431年の東ローマ帝国の首都、コンスタンチノープル、教父:ネストリウスの「マリアは神の容器であったかも知れないが、神の母ではない」という説は神学論争に敗れ、邪説の烙印を押され、一派は異端として追放されることになります。コンスタンチノープルを追放された彼等はペルシャ、インド、天山北路を東へ、中国に至る。大唐の興隆期、636年に首都:長安に現れ、他民族宗教に寛容な治世下に景教寺院「大秦寺」を建てるが、武宗の時代、仏教寺院と同じく廃棄された。これ以降、中国で景教徒と呼ばれた古代キリスト教ネストリウス派は歴史に消息を絶ちます。

 それから一千年後の明の時代、1625年、『大秦景教流行中国碑』が発見され、出土の状況は、ポルトガルのイエズス会士アルヴァロ・セメドが記録している。

 景教徒の日本渡来は唐よりも古く始まるが、推古朝の6世紀、コンスタンチノープル追放後百年、普洞王が率いる一派がいまの兵庫県赤穂郡比奈ノ浦に上陸して入植した。後に河内、たけのうち峠を経て飛鳥に至り、やまと朝廷の女性をもらい受ける。女性は普洞王の子を出産して比奈ノ浦に下った。その子が長じて倭女を娶って男子が誕生する。それが秦河勝でした。河勝は山城地方を開拓、織物の生産を興隆して、その私財を蘇我氏に抗する聖徳厩戸皇子に注ぎました。

 京都のデロリアン、一両編成(?)の嵐電電車は「太秦広隆寺」駅に到着、駅前の広隆寺を訪れる。昔、小学校か中学校の遠足で来たような…、弥勒菩薩半跏像、秦河勝お及び河勝夫人と伝えられる木造座像を始めとする蒼々たる国宝・重要文化財がならぶ秦氏の氏寺であり、平安京遷都(794)以前から存在した、京都最古の寺院である。残念ですが…、秦河勝像をして「〜ペルシャ人かユダヤ人に見える」というくだりがあるが、どう見ても我々と同じモンゴロイドにしか見えません。東隣の「大酒神社」は、明治の廃仏毀釈により分離されたが、それ以前は広隆寺内に鎮座する異教の廟所、「大闢(たいびゃく)ノ杜」でした。

 「大酒神社」から徒歩で10分、今回のハイライト、「蚕の社(かいこのやしろ)」に辿り着きます。正式には「木島坐天照御魂(このしまにまずあまてるみたま)神社、または木島神社」と呼ばれます。我々姉弟の二人だけ、社外の騒音は嘘のようで、大木に囲まれた境内は静寂そのもの、二人の足音しか聞こえません。やがて、本堂に向かう左手に三脚の鳥居が忽然と現れます。
三脚鳥居_蚕の社

  1千5百年も隔てる過去と現在、1万1千キロを隔てる西と東、幻と現を往還した短い旅は間もなく終わります。「蚕の社」駅で乗ったデロリアンは現在に向かって走り出します。
※参考資料:司馬遼太郎著『兜率天の巡礼

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October 22, 2016

最近聞いたこの曲 <2> "Forever Country"

                  
 ストリーム・ラジオ:New Country Music Boxを聞いていると、聞き始めて「初めて」と言って良いぐらいに、よく知っている曲が流れてきます。『Forever Country』という曲で、ジョン・デンバーの『Take Me Home, Country Roads(『カントリー・ロード』)』から始まって、途中に、ウイリー・ネルソンの『On the Road Again』が登場、最後にドリー・パートンの『 I Will Always Love You』で終わる、過去の名曲・ヒット曲のいいとこ取りをしたのがこの曲です。『On the Road Again』を歌う声はウイリー・ネルソン本人のようですが、他は誰が歌っているのか全く判りません。

 新曲ではありませんが、今時のカントリー・ミュージックを紹介するには良い曲だとばかりに、"Forever Country" by Artists of Then, Now & Forever、タイトルとアーティスト名を入れてYoutubeを検索すると、現れたのがこの動画、開いてびっくりです。

CMA 誰が歌っているのか全く判りません…、どころの話ではありません。ストリームで音を聞いていただけでは全く判りませんでしたが、この動画はCMA(Country Music Assosiation)が『CMAアワード』設立50年を記念して、かつての受賞者3人の曲をメドレーにして、多くのカントリー・ミュージシャン、アーティストが参加して作られたビデオクリップだったのです。どうやって制作したのかは判りません。このメドレーに多くのファンから投書が寄せられており(視聴回数 本日現在、私を含めて6,604,074 回)、如何に人気があるのか想像出来るでしょう。

 「カントリーおたく」なのか…、ファンの一人が、このビデオクリップに登場するミュージシャンの名前を時系列に紹介しています。かろうじて名前だけは知っているミュージシャンは1/3ぐらいでしょうか…、ではどんな曲を歌っているのかを質問されると黙ってしまいます。あなたは如何ですか?

 List courtesy of William Ness とありますからWilliam Nessさんが情報提供者(?)、CMAに繋がる人なのでしょう。
Artists Of Then, Now & Forever
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October 15, 2016

ボブ・ディラン、ノーベル文学賞受賞

                 
dylan_postcard 〜 偉大なアメリカの歌謡における新しい詩的表現方法を創造した功績を称えて 〜

 
 ボブ・ディランが「偉大な詩人」として2016年度のノーベル文学賞を受賞したことは自分の事のように嬉しい。

 ノーベル賞授与宣言を終えたスエーデン・アカデミー、サラ・ダニウス教授は記者団の質問に答えています。

なぜボブ・ディランにノーベル文学賞を授与されたのですか?
 彼は
口語英語の(語り言葉)の伝統の中における 「偉大な詩人」であり 、過去54〜55年の間に絶えず自らの改革・革新を続けてきました

・ 如何にしてボブ・ディランの業績を発見したのですか? 
 彼の歌を聞きなおし、読み直して、1966年作のアルバム『ブロンド・オン・ブロンド』を例にとると、 多くの伝統的な手法に加え、彼の極めて非凡な押韻・巧緻な隠喩・絵画的思考(?)は見事です。
 
・ スエーデン・アカデミーはノーベル文学賞の範囲を広げるのですか?
 これは何も新しい事ではなく、遠い過去、例えば2千年あるいは2千5百年前に目を向けると、古代ギリシャの詩人、ホメロスにせよサッフォーにせよ、彼等の詩は文字で書かれていたと云うより、聴かれていた、楽器の伴奏を伴って歌われていました。ディランの詩も、ホメロスやサッフォーと同じく、 読まれるだけではなく、楽器の伴奏を伴って歌われるのを聴いて楽しんでいるのです。

・  あなたは若い時にディランの曲を聴きましたか?
 いや、あんまり…。しかし彼の作品が世の中に広く認識されていたことを知っています。私はデビッド・ボウイの方が好きだったけど、他の世代は知らないけど…、今ではディランを大いに評価しています。

 10月14日付「朝日新聞」の見出しは…〜『風に吹かれて』『時代は変わる』のボブ・ディラン氏文学賞 〜 とは、これを書いた記者はディランの最も初期の頃(63〜64年頃)の曲しか知らないのか、それから間もなく彼はフォークから離れ、ロックの世界に飛び込み、以降ロック・ミュージシャン、ソング・ライターとしてのキャリアの方が断然長く、その2曲以上に優れた多くの曲が存在するのを知らないようです。ストックホルム駐在の「朝日新聞」
知ったかぶりの記者にくらべ、 「…デビッド・ボウイの方が好きだったけど」とは、サラ・ダニウス教授が正直で好感が持てます。

 友人の一人、人生の大先輩が曰く、50年前の曲:『風に吹かれて』でノーベル文学賞とは理解に苦しむ、とのご意見がありました。彼は、詩・和歌・短歌・俳句・狂歌に造詣が深く、私も共感するところが多い人なのですが…、彼にとって、ボブ・ディランと言えば、かろうじて『風に吹かれて』という曲を知っているという程度の知識しか持ち合わせていないのでしょう。

 
へ理屈から言えば、文学賞:Prize in LiteratureのLiterature(文学)とは「 literate(読み書きができる、学問[教養・識字能力]のある」からの派生語、その意味からすると「文字で書かれた物」・「読み物」、伝統的には「教養のある人」だけに与えられた賞であり、「教養のある人」はロックなどは聞かない、という意味だったのかも知れません。クラシックやモダン・ジャズ は、ロック、カントリー、ブルースに比べて、教養があるように、少なくとも上品に感じるのは私だけではないでしょう。

 ディランの詩も、古代ギリシャのホメロスやサッポーと同じく、読まれるだけではなく、楽器の伴奏を伴って歌われるのを聴いて楽しむべきもので、このことは何も新しい事ではありません。このサラ・ダニウス教授の言葉に私は大いに賛成です。古くは、和歌・短歌は読むだけではなく、節(メロディ)・抑揚を付けて、時には伴奏を付けて歌われるのを聴いて鑑賞したもの、大衆レベルの「今様」も、後白河法皇(1127-1192)は声がかれてのどがかれるほど「今様」を練習したとか…、彼の著した『梁塵秘抄(1180年前後)』に在ります。『平家物語』が琵琶法師によって練られて文学の域まで高められるのですが、文字の普及・識字能力・出版の発展と共に、「語り物」が廃れ「読み物」へと変化していったのは歴史の語るところです。

  実は…、彼はソングライターとしては偉大ですが、はっきり言って…歌は下手です。私は彼の歌うレコード・CDを一枚も買ったことがありません。全ては他人、例えばThe Byrds あるいはThe Bandが彼の曲をカバーしたものです。我々、The Y2A Bandの『Mr Tambline Man』(2010年録音)です。

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October 12, 2016

最近聞いたこの曲 <1> "Tonight" by Ryan Kinder

           
 イーグルズが「ホテル・カリフォルニア」で彼等の全てを、ほとんど、燃焼し尽くしたのですが、彼等をもって「カントリーぽぃロック」は終焉を迎えます。イーグルズ全盛の頃、彼等の曲は多くのカントリー・シンガーによってカバーされましたが、どうも…なんか違う、言わば「ロックぽぃカントリー」でした。

 早い話が、ロック歌手が歌えば 「カントリーぽぃロック」、カントリー歌手が歌えば「ロックぽぃカントリー」になるわけですが、視点を変えると、前者は「ウエストコースト」、後者は「ナッシュビル、グランド・オール・オープリー」とも言えるでしょう。

 一方では、「カントリー」は敗戦と共に押し寄せてきたアメリカ文化の一つで、FEN(Far East Network)を通して「カントリー」を知り、1950年代には全盛期を迎え、ジミー時田や小坂一也などのスターを生みました。「カントリー&ウエスタン」、その頃そう呼ばれたのですが、それ以来進化を全く停止した状態で今日に至っているかの様ようです。前回も書きましたが、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの英語圏のみならず、ドイツ、スイスに於いても「カントリー」は一定のファン層を持っており、専門の放送局さえあります。

 この歳になると、最近、この枕詞が多くなりましたが…、頑固になり、相変わらず昔の「カントリー&ウエスタン」に執着している人を多くお見受けするのですが、私は自分の好きな「カントリーぽぃロック」であれ、あるいはその逆であっても、二者はほとんど同じではないか…、執着心が薄れ、寛容さが出てきたのでしょうか?おそらく、Station Ripperでこのジャンルの音楽を好きな人が世の中に少なからず存在するということをを知ったからでしょう。

 これを機会に、一世を風靡した「カントリー&ウエスタン」がその進化を停止して以降、日本以外の世界ではどのように進化して今日の「カントリー」に至ったか、どんな曲がヒットしたか、あくまでも私の「好きな」曲だけを、もう一つはYoutubeにて公開されていることを条件に、ご紹介していきましょう。
Ryan Kinder
 最初に取り上げるのはRyan Kinderの歌う『Tonight』です。サイト:『ALL MUSIC』は経歴を下記のように紹介しています。


 1988年、Ryan Kinderはテネシー州で生まれ、アラバマ州バーミンガムで育ちます。当初は野球・ハンティングに興味を示したが、後に音楽に目覚め、ギターを学び、高校時代は地元のライブハウスで演奏、アラバマ大学進学後もバンド活動を続けました。ナッシュビルに転居、作詞・作曲を学び、バンド:Bigger Picture Groupと契約して、2013年には最初のシングル、この『Tonight』をリリースします。

      

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October 06, 2016

そうだ、バスで、京都に行こう!<1> 大徳寺

 久しぶりの京都駅です。普段の移動に使っているPASMOあるいはSuicaカードが京都市内バス・地下鉄・私鉄でも使えるのは便利です。前も書きましたが、私は1967〜71年、京都に在る大学(京大ではありませんが…)に通ったので一般の人よりも土地勘はあります。かなり前に市電が廃止されたのは残念ですが、今は地下鉄2路線が整備され、烏丸線烏丸御池で東西線に、三条京阪で京阪に乗り換え、昔は三条が終着駅でしたが、今は疎水の地下を叡電出町柳駅まで延伸されています。その出町柳で、一年ぶりに京阪沿線に住む姉と再会することになります。

 市バスに乗って大徳寺にやって来ました。それまでは紫野と呼ばれた原野、播磨国の守護赤松円心が寄進して基礎を築いた(1315)とあり,寺内「沸殿(?)」の欄間に並んで掲げられた花園帝と後醍醐帝の二つの扁額は、持明院統(後の北朝)の大覚寺統(後の南朝)両朝の帰依があったことを示しています。楠木正成を湊川の戦い(1336)で破り、後醍醐帝を叡山に退去させた足利尊氏は室町幕府を開きます(1336)。後に北山文化、東山文化と続く室町時代の到来です。大陸文化(明)と日本文化、あるいは、公家文化・武家文化・民文化など諸文化が融合、茶・花道・建築・造園、絵画、軍記物・御伽草子・連歌、能・狂言に代表される舞台芸術など、現代日本文化の源流・基礎はこの時代に完成されたと言えるでしょう。

 飲んだ茶の銘柄を当てる「闘茶」、高価な中国の茶器「唐物」を求め、これを使って茶会を催す「唐物数寄」が大名の間で流行しました。行き過ぎたこの風潮に代わり、亭主と客との精神交流を重視するわび茶の源流ができあがって行きます。摂津・河内・和泉の三国の「境(さかい)」であったことに由来する堺は当時、海外貿易で富の集まる商業港湾都市でると同時に、その富を背景に町衆による自治が行われ、「茶の湯好み(茶数奇)」の文化が発展していました。世の中は次第に茶会どころではなくなり、ついに、応仁の乱(1467-77)で京、そして大徳寺は灰燼に帰します。堺で禅宗の布教活動をしていた一休和尚(1394-1491)は大徳寺復興事業への援助を乞い、それに答えたのが彼に深く帰依していた堺町衆でした。

高桐院_1 堺町衆の茶の湯好み(茶数奇)が戦国武将と町衆茶人と大徳寺禅宗とを結びつけ、それまではあまり日の目を見なかった大徳寺を、安土・桃山時代最高の「晴れ舞台」の一つにのし上げることになります。利休自費で行われた大徳寺三(山)門重層工事が完成(1589)、それを記念して楼上に置かれた等身大の利休像に秀吉は激怒、利休切腹の大きな理由の一つとされます。これが「晴れ舞台」の上で演じられた最大の演目でした。総門を入ると右側にその朱塗りの三門を見ることが出来ます。利休、千家の菩提寺:聚光院を始めとする二十四にも及ぶ塔頭は、利休の弟子達・キリシタン大名達、その時代に生きた人それぞれの演目が刻まれた記念碑です。

 高桐院灯籠 その中の一つ高桐院は利休門下の細川忠興が細川家の菩提寺として建立されました(1601)。忠興の妻は珠(たま)、父:光秀は信長を討ち(「本能寺の変」)、自らも亡びます。その娘として隠遁生活を送っていたが覇権を制した秀吉の取りなしで世間に復帰します。禅宗に帰依していたが、密かにカソリックに改宗、ガラシャ(Gratia)の洗礼名を得ます。忠興は家康に従い上杉征伐に出陣、西軍の三成は大坂に残るガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャは拒絶して自刃します。利休が愛用した「天下一」と称する石灯籠があり、利休切腹の折、遺品として忠興に贈られました。これが忠興と珠、ガラシャの墓となっています。
京街道光善寺辺り
 その日は姉夫婦の家に泊めてもらい、上の姉も参加して兄姉弟4人の同窓会となり、皆さん自分の知識を披露します。枚方(ひらかた)のこの辺り、淀川東岸を「京街道」と呼ばれる京大坂の往還道が通っています。古くは『土佐日記』で、赴任を終えた貫之が淀川を京に向かって遡上中、この辺りに「渚の院」を眺めながら通り過ぎる場面があるそうです。『太平記』では湊川に向かう正成を対岸の桜井駅で待つために正行(まさつら)が淀川を渡河したのはもう少し北か…、「本能寺の変」の後、光秀と秀吉は対岸の山崎天王山で戦い、筒井順慶はこの合戦の趨勢を傍観したという、日和見主義の代名詞として用いられる「洞ヶ峠」も此処から遠くはありません。

 極めつけは、茶屋四郎が家康の堺遊覧無事終了を信長に報告すべく京へ向かったが、信長の凶報を確認、急ぎ堺へ帰る途中、この辺りで家康一行と遭遇、事態は急変、家康の逃避行・脱出劇が始まります。家康が何故「京街道」を京へ向かっていたのか…、どのルートを辿って、伊賀(「伊賀越え」)・伊勢に至り、舟で三河に辿り着いたのか大いに興味のあるところです。

 時間はあってもお金のないのが今の私、初めて夜行バスに挑戦しました。問題はトイレ、如何にトイレ付きといえども初体験、やっぱり不安です。「あったらいいな、を形にする」〇〇製薬の夜間尿・頻尿の薬を服用したお陰か…、トイレに立つこともなく京都に着きました。帰りのバスは23時発、それまで、夜の京都の繁華街、どうやって時間をつぶすのですか?もちろん、新幹線で帰りました。
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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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