September 14, 2016

September 14, 2016

これも、散歩の途中? <18> 高時腹切りやぐら

 「源平の戦い」の覇者、源頼朝は征夷大将軍に就き、坂東相模国鎌倉に幕府を開きます(1192)。京の貴種:頼朝は坂東武士の土地所有を保証するシンボルとして棟梁に担ぎ上げられ、対京都(=朝廷)交渉の機能を果たし、鎌倉幕府の確立後は用済みとなります。征夷大将軍:頼朝は突然死、跡を継いだ嫡男:頼家も変死、その弟の実朝も変死、頼朝の血筋はあっけなく絶えてしまいます。クーデター(?)によって政権を簒奪(?)した北条氏は、次々と仲間内の熾烈な争いに勝利して最高権力を握ることになります。北条氏、特に得宗家が烏合の衆であった坂東武士をまとめ上げ、百五十年間に渡り政権を保持することになります。もし、モンゴルの侵攻(元寇)がなければ、もう少し長かったはずです。

 1333年2月、後醍醐天皇が隠岐を脱出、鎌倉を発って六波羅救援に向かった足利尊氏は京の西、大江山、老ノ坂を越えた足利氏の飛び領地、丹波亀岡篠村八幡社で後醍醐の勅旨を得て挙兵、後に光秀も「敵は本能寺にあり!」と同じ道を行くのですが…、老ノ坂を越えて京に迫ります。2年後、後醍醐に叛旗を翻した尊氏は敗走、三度目の老ノ坂越えで西国へ逃れることになります。元へ…、5月、尊氏の京総攻撃に耐えきれず、六波羅探題:北条仲時・時益は光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って脱出するも、時益は首の骨を射られて討死、光厳は肘に矢を受け、9日(?)仲時は近江国番場宿蓮花寺に辿り着くも、前を佐々木道誉の軍勢に阻まれて万事休す。天皇と上皇を残し、仲時は一族432人と共に自刃しました。

 一方の関東では、5月8日、同じく後醍醐の勅旨を得た新田義貞が挙兵、18日には稲村ヶ崎から鎌倉に突入します。

腹切りやぐら_1 熾烈な仲間内の権力争いの政治的決着なのか…、得宗家の当主は同じ北条氏や外戚である安達氏から室を迎えることが多く、長きに渡る近親結婚の影響なのか病弱短命で、最後の執権:高時は暗愚(?)とはもっぱらの評でした。高時以下得宗家一門は、代々の執権が暮らした「小町亭」と呼ばれる居館を出て、裏を流れる滑川に沿って歩き、葛西ヶ谷を背にした菩提寺:東勝寺が、北条九代百五十年、最期の地となりました。「供養塔卒塔婆」には高時と共に870人が自刃したとあります。

腹切りやぐら裏 近番場宿蓮花寺での432人そして鎌倉東勝寺での870人、合計1,300が自刃したとは、後にも先にも、これほど強い結束力はありません。鎌倉・六波羅探題の滅亡した中に御家人はほとんどおらず、北条氏一門と御内人(みうちびと、みうちにん 北条得宗家に仕えた武士)ばかりでした。北条氏が如何に排他的であったかを物語る数字です。元弘3年、1333年5月に亡んだのは鎌倉幕府ではなく、北条氏一門と御内人だったと云うことが出来るでしょう。

腹切りやぐら 北条一族の慰霊のため、1335年、後醍醐は尊氏に命じて「小町亭」跡に「宝戒寺」を建立します。

 「宝戒寺」から最期の地、高時の「腹切りやぐら」まで5分のはずが、案内標識を見落としたために、30分も余計にかけて辿り着きました。

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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