July 2016

July 25, 2016

散歩の途中 <15> 小江戸 川越

 少なくとも月に1〜2回は訪れている川越の街、バンド練習の場:シダックスのある街なのですが、町田の自宅から車で1時間、まずは西恋ヶ窪、ドラムのKunさんの駐車場に車を駐め、彼の車の助手席に乗って走ること1時間、合計2時間をかけて川越のシダックスに通っています。因みに、ギターのNobuさんは熊谷から、途中でMaruさんを拾ってやって来ます。4人が集合するのに便利という理由だけで、地図を眺めながら決めたのがこの場所でした。私といえば、西恋ヶ窪からは助手席に座っているだけ、関東平野は広く、目印となる高い山もありません。どの道の何処を走っているのか…、到着したら、そこはシダックス、単なるバンドの練習場というだけで、「蔵造りのある街並み」、「小江戸」と呼ばれる川越とは全く結びつきません。

 前回訪問の八王子城跡、その落城にまつわる悲劇は、秀吉の「小田原攻め」の際、碓氷峠を関東に入った前田・上杉ら北国勢を前に、松井田城(安中)城主:大道寺政繁が豊臣方に降り、案内役として豊臣方に協力、北条方諸城が次々にあっさりと降伏開城したことにその原因がありました。その内の一つが川越城で、これも良い機会とばかりに、バンド練習の川越ではなく、「蔵造り」の美しい街並み、「小江戸」と呼ばれる川越に行ってきました。

 淵野辺からJR横浜線で八王子、JR中央線に乗り換えて西国分寺、JR武蔵野線に乗り換えて北朝霞、朝霞台から東武東上線で川越まで、やたらと乗り換えの多い、自宅を出て3時間の旅でした。

 川越城は、室町時代(1457)、上杉持朝が家臣:太田道灌に命じて築城させたもので、道灌は、河越城の支城として、江戸城の基礎を築いたことでも知られる。戦国時代は北条早雲に始まるのですが、小田原を拠点の後北条氏は、1537年、北武蔵の要衝:川越城を落として同国支配を固めました。1590年、後北条氏は滅亡し、秀吉の命で、家康が江戸城に入り、関ヶ原に勝利した(1600)家康は江戸幕府を開きます(1603)。江戸時代に入ると、川越は当時から「小江戸」とも呼ばれ、川越藩の城下町として栄えました。川越藩は江戸幕府の「北の守り」であり、家光を補佐した酒井忠勝(1587-1662)、家光・家綱の松平信綱(1596-1662)、綱吉の柳沢吉保などの幕府重臣が配され、商工業や学問が大いに発達しました。「知恵伊豆」と称えられた松平信綱は商業経済、新田開発を行い、江戸隅田川との間に新河岸川舟運を開設するなど、川越の発展に寄与しました。黒船来航(1853)に始まる幕末、川越藩は三浦半島と品川の海防に大きな負担を強いられ、水戸天狗党の乱鎮圧に出兵し(1864)、徳川譜代故に財政は逼迫しました。戊辰戦争(1868-69)では、最後の藩主:松平康英は新政府に帰順することで藩論をまとめ、官軍にひたすら恭順することで、川越の街を戦火から守りました。

一番街_1

一番街_2

 現存する喜多院、川越城本丸御殿、重厚な蔵造りの町屋が残る一番街周辺を訪ねると、康英の判断が正しかったことが判りますが、残念なことに、徳川家に忠誠心の高い譜代諸藩が頻繁に配置換えとなり、あまりに入れ替わりが激しく、川越藩独自の産業が育たず、従って独自の文化が醸成されなかったようにも思われます。

 幕末、近隣の忍藩(行田)は同じ境遇にありながら、新政府に恭順か旧政権側に付くかを悩み、藩論は分裂、後出しじゃんけんの様に大勢が決まってから新政府軍に付くという失態を演じてしまいました。次回は、「のぼうの城」、その忍藩(行田)に行ってみたいですね。
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July 13, 2016

散歩の途中<14> 八王子城跡

 去年10月、Ikeさんと一緒に訪れた八王子、産千代稲荷神社の境内に建設中だった大久保長安の資料館(?)がそろそろ完成の頃では…、とサイトを探したが見つからず、長安資料館(?)というのも私の勘違いだったかも知れません。ということで、急遽行き先を八王子城跡に変更しました。

 後北条氏の三代目:北条氏康の三男:氏照は、小田原-上野(現在の群馬県)間交通の押さえ:滝山城(八王子)を本拠とした。1569年、小田原を目指す武田信玄軍に三の丸まで攻め込まれ、落城寸前までとなった。これを機に(?)八王子城(標高445m、比高240m)を築城、1587年頃までに本拠地を移しました。

虎口 最近整備されたと聞く、城主:氏照の居館:「御主殿跡」を目指します。大手門跡から曳橋を渡って御主殿の出入り口:虎口を見上げる石段にどこか、確かに過去に見たことのある記憶が蘇ってきます。階段の一段一段が高く、勾配もきつく、圧倒されるように大きく見えるのは安土城のそれです。既視感(デ・ジャブ)ではなく、八王子城築城の際、氏照は家臣が信長の安土城を訪問してこれを参考にしたと、見学後のガイドさんの説明がありました。私の感覚も捨てたものではありません。

 1590年、北条氏攻撃に総勢22万の兵力を動員、その為に鴨川に三条大橋を架設したと言います。先陣を命じられた家康に続いて諸大名が東海道を東進、秀吉自身は3月1日に京都聚楽第を出発、27日、本陣の三枚橋城(現在の沼津市)に到着、既に最前線では交戦が始まっています。箱根の西坂に位置する山中城は早々に陥落、4月1日には秀吉が箱根峠に達しています。4月3日には豊臣軍の先鋒は小田原城へと迫り、小田原城包囲が始まりました。一方、前田利家・上杉景勝等の北国勢は碓氷峠を越えて上野に入り、4月20日には松井田城(安中)を開城、城主:大道寺政繁は豊臣方に降り、北条方諸城の案内役として豊臣方に協力しました。これを皮切りに、上野・下野・相模・武蔵の諸城は次々に降伏開城します。

 秀吉に「実力で落とした城がない」となじられた北国勢は、最後に残る八王子城を徹底的に攻撃することを決意したといわれます。

 上野の最前線に位置するの松井田城(安中)の大道寺政繁が豊臣方に降り、それ故か、次に控える平井城(藤岡)の守将:平井無辺も凋落され、次々と将棋倒しとなった観があります。その平井無辺は普請奉行で八王子城の構造を熟知しており、6月23日、前田・上杉・真田の北国勢(1万5千)は攻撃を開始、彼の案内で上杉軍が本丸頂上を占拠、城は一日で陥落しました。犠牲者は千余名、あるいは3千とする説もあり、60余名の婦女子捕虜は見せしめのために相模川から舟で小田原に護送されたそうで、この八王子城落城が決め手となって、小田原城は開城します。八王子城主:氏照は小田原に籠城中の兄:氏政と共に自死、北条氏は滅亡しました。

 後北条氏の祖:北条早雲の出自は備中伊勢氏、幼くして禅僧の教育を受け、京の大徳寺で修行を積み、公家衆とも交流した教養人でした。信長・秀吉に先立って領内の「検地」を実施、『壁書(へきしょ)二十一条』を定め、御家人・領民の生活規範を現し、質素・倹約に務めた経済家でもあり、戦国時代を切り開いた人でした。小田原から関八州にかけては、全国で一番地租の安いところであったが、これは早雲のお陰…、とは勝海舟の言(『氷川清話』)です。関東に入る家康は、本拠地を早雲が造った小田原にすべきか、あるいは江戸か、大いに迷ったはずです。家康は、領民に慕われた早雲の築いた小田原ではなく、江戸を本拠地に選び、旧北条氏領の多くを幕府直轄・天領としました。加えて、井戸水に海水が含まれる…江戸の開発に不可欠な飲料水の確保の為に、早雲の建設した小田原城下の水道施設をこの江戸にも採用しました。

 これほどまでに慕われる早雲、後北条氏なのに、何故、いざ決戦と言うときに、次々と将棋倒しの如く、裏切りにも似た降伏開城になったのか全く判りません。例外的に、多くの犠牲を出した八王子城攻めとは対照的に、石田三成軍の「水攻め」を受けた忍城(行田)はよく守り、ついに降伏するのは、小田原城陥落後の7月16日でした。
八王子神社
 急な山道を登ること40分、八王子城本丸跡に至ります。すぐ下に「八王子権現」を祀った八王子神社(廃屋)が風雨にさらされています。仏教の守護神である牛頭天王には8人の子(八王子)がいるとされ、市名の由来です。
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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