November 2015

November 22, 2015

女流俳人 五十嵐浜藻

  昨日は、柄にもなく、「いま蘇る江戸の俳人、五十嵐浜藻・梅夫の旅と俳諧」と題する研究員発表会に参加しました。もちろん、研究成果を拝聴する側です。たまたま、研究員の一人が私のテニス仲間、その彼と歴史の話をするという間柄だけで、私には俳諧・連歌、いわんや彼の研究する五十嵐浜藻・梅夫父娘はその名前すら聞いたことがありませんでした。

 五十嵐浜藻(いがらしはまも)は、1773年、町田市南大谷の名主:五十嵐梅夫を父に長女として誕生、祖父:祇室に始まる俳諧連歌の家に育った。 時代は「田沼意次の時代(1767- 1786)」、米を中心とする重農主義から重商主義的政策への転換がなされ、商業資本・高利貸などが大いに発達、「粋」・「通」・「洒落」など江戸文化が確立、江戸が都会に変貌した時代です。その反動として、松平定信が幕政を担って「寛政の改革(1787)」を行うも失敗、その失敗を立て直すこともなく幕末を迎えることになります。

 五十嵐浜藻1806年、俳諧連歌に入れあげた浜藻(当時33歳)・梅夫父娘は、家業の札差(米の購入・販売・金融)を入り婿の夫に任せ、6年にも渡る西国行脚の旅に出ます。結婚して何年目だったのでしょうか? ご主人との間の子供は?お金に関する不自由はないにせよ、旅に残してきた家庭はどうなったのでしょうか?そんなことを心配した、気遣った一句でも残しているのでしょうか、下流老人である私は心配になってきます。

 しかし、古今東西、芸術家は裕福な権力者の家に生まれるか、裕福な権力者をパトロン、庇護者が不可欠です。飲まず食わずの人間に時代を突き破る芸術は生まれるはずはないでしょう。浜藻父娘のように、単に裕福な家に生まれただけではなく、見方によっては常軌を逸した行動こそ時代を突破する力になり得たのでしょう。商品経済の高度化は、手紙による通信および出版産業を発展させ、各地のプロの俳人やそのファン、アマチュアに援助を頼んで旅をすることが可能になったことを意味し、地方に住む彼らは都会からの情報としてこれを歓迎しました。

 おそらく「芭蕉没百年」を記念して、芭蕉縁の地を訪ねて関西・四国・九州に旅し、各地で俳諧連歌の「座」、今日で言えば「セッション」に参加します。「俳諧」の本来の意味は、宮廷・貴族的な「雅」に対して、「冗談・ユーモア・たわむれ・ふざけ」でした。五・七・五からなる17音の発句に始まり、七・七の14音の第二句、五・七・五の第三句、次の14音の第四句…、と交互に繋いでいく、「鑑賞」と同時に「創作」の能力が不可欠な芸術です。「わび茶」を完成した利休とならび、俳諧連歌の「座」は近代を、特に女流俳人:五十嵐浜藻による俳諧連歌の「座」はやってくる近代をも越えて、多分に今日的な意味を持っているのかも知れません。

1年目(1806) 江戸⇒尾張⇒大津⇒四国⇒御手洗⇒小倉⇒博多⇒久留米⇒長崎⇒博多(越年)
2年目(1807) 筑前⇒下関⇒広島⇒横路⇒庄原⇒上下の里⇒笠岡⇒讃岐津田(越年)
3年目(1808) 高松⇒小豆島(京都で越年か)
4年目(1809) 京都⇒近江⇒伊勢⇒尾張⇒上有知⇒京都(越年)
5年目(1810) 京都⇒摂津兵庫⇒難波⇒河内⇒伊賀上野⇒伊勢⇒大津⇒京都(越年)
6年目(1811) 京都⇒丹後⇒越後⇒信州⇒江戸帰着(12月11日)
 
 フランス革命勃発(1789)でオーストリア領ネーデルランドをも戦場となり(1792)、国元に戦火が及んだオランダの日本市場独占の手薄を突いて、ロシアが南下、1792年、日本人漂流民:大黒屋光太夫らの返還と交換に日本との通商を求めてラクスマンが来航します。

 革命戦争後、オランダは従来の日本市場独占を再構築する必要に迫られ、1823年、日本再研究のためにドイツ人、シーボルトを日本に派遣します。彼の研究は、動植物・鉱物に始まり宗教・風俗習慣・法律・政治・地理・芸術・学問・言語等広範囲におよび、1826年には、オランダ商館長の江戸参府に随行しています。 

 一行は、1826年2月15日に長崎を出発、下関を経て3月18日に京都に到着、3月25日京都を出発し、4月10日に江戸に到着しているが、その京都滞在中に、彼は浜藻が編集した俳諧連歌集:『八重山吹』を資料として購入しています。その書はライデン大学「シーボルト・コレクション」の一つとして今も保存されているそうです。

※ 参考資料:倉本一宏「旅の誕生 」 池上英子「美と礼節の絆

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 

I appreciate YOUR SUPPORT.  ▼ 皆様のご支持をお願いします。
 にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


November 08, 2015

鈴鹿の関跡、関宿

 徳川家康は東海道を整備、日本橋から京都三条大橋まで、「東海道五十三次」と呼ばれる宿駅を設置しました。今回、「同窓会」のあった伊賀上野からの帰りに、47番目の「関宿・坂下宿」を訪れました。同じく「同窓会」に参加したAkiraさんとご一緒したのですが、昨年夏も箱根西坂・東坂、東海道で云えば9番目「小田原宿」、10番目「箱根宿」、11番目「三島宿」の間を歩いており、その間を飛ばした続きです。二人で、西の追分を過ぎて坂下宿に入り、現在は「鈴鹿峠自然の家」として使われている古い小学校舎まで辿り着きましたが、近江国との国境:峠はまだまだ先です。
関宿_1 西の追分へ
関宿_2 東の追分へ

 「白村江の戦い(663)」で唐・新羅連合軍に敗れ、 唐・新羅の侵攻を恐れたのか、近江へ遷都(667)、断固たる決意で律令国家を目指し、唐との冊封関係を断ち切ったのです。ここに、天皇制国家:日本が誕生しました。「五畿七道」の一つ東海道は機内の東:伊賀国(三重県)から本州太平洋岸に沿って常陸国(茨城県)に至る諸国で、それぞれの国府は行政区と同じ名の幹線官道:東海道で結ばれていました。

 大陸、沿海州に渤海国が出現(698 -926)、唐・新羅の圧迫に対抗するために、従来の大陸外交の玄関口である太宰府より、むしろ、日本海を横断、敦賀・越前・佐渡を玄関口に渤海使が派遣されるようになり、「壬申の乱(672)」で勝利した天武天皇は愛発(あらち 越前国)・不破(美濃国)・鈴鹿(伊勢国)の三関を設置しました。後に、渤海国衰退が原因か…、逢坂関(おうさか 近江国)が愛発関に取って代わります。  

 近江大津京を除いて、天皇・律令制の時代の都は飛鳥・藤原・平城京など、都は大和国にあり、当初、街道としての東海道は、木津から木津川に沿って東へ伊賀国に入り(大和街道あるいは現在の国道25号)、鈴鹿山脈と布引山地の鞍部を加太(かぶと)越えで伊勢国へ入り、近江大津京・平安京以降の東海道は、伊賀国ではなく、近江国から鈴鹿峠を通る経路となり、ほぼ現在の国道1号のルートに重なります。

 1180年、平重衡は父:清盛の命を受け、南都(奈良)に侵攻、興福寺・東大寺を焼き討ち、反平氏勢力の怨嗟の的となります。「一ノ谷の戦い」で捕虜となった重衡は鎌倉での頼朝謁見を終え、その身柄を南都に送られることになります。鎌倉からの帰路、罪人故か京には入らず、東海道〜大津〜逢坂関〜山科(髭茶屋追分)から醍醐路を南下、日野を経て南都への経路です。「もしや…?、会えるかも…?」と思う妻:輔子は夫の着替えを用意して、護送の一行を待ちます。果たして、一行が輔子が住む日野に差し掛かった時、「この近くに妻がおりますので、今一度対面したく〜」と重衡、警護の武士は涙して夫婦つかの間の再会を許したのです。

 「平家物語」最大の見せ場、欠かせない場面ですが、最初から京の市街通過を避けて、南都(奈良)あるいは処刑地:木津に向かうのであれば、一行は何故この経路を通ったのでしょうか? 関宿「西の追分」から東海道をはずれ、大和街道、かつての東海道、を木津川沿いに西進すれば簡単に、処刑場のある木津、首が晒される般若寺に、少なくとも1〜2日早く到達することが出来たはずです。やはり名場面演出がその理由なのでしょうか。

 残念ながら未だ越えた訳ではありませんが、箱根に次いで、東海道の難所:鈴鹿の峠を制覇した気持ちです。 次回は東海道のどこを歩きましょうか。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 

I appreciate YOUR SUPPORT.  ▼ 皆様のご支持をお願いします。
 にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 

Profile

ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

Back Issues At A Glance
Comments
ISAO's Bookshelf
人気ブログ ランキング
NINJA
Search