August 2015

August 30, 2015

行く夏の…、金売り吉次

 8月も末になり、あの異常までのな暑さはどこへ…、気配どころか、一挙に秋本番を迎えてしまいました。あまり乗り気でもない団地内の「夏祭り」も終わって、今年の夏もこのまま終わるかと思えばどこか妙に寂しく、なにかを残さねば、と言う気持ちが沸き上がってきます。予定していた中仙道、馬籠・妻籠宿行きが、Akiraさんの膝の故障で急遽取り止め、それに代わる…かどうかは判りませんが、念願の「金売り吉次」の墓を訪れました。

 Akiraさんと知り合ったのは、二人共通の友人:Toshioさんの住む伊賀上野で催される「伊賀上野天神祭」でした。伊賀上野と云えば芭蕉の出身地、地元では「芭蕉さん」と親しみを持って呼ばれ、小学生の時から俳句を作るという土地柄だそうです。残念ながら、私には文学・詩歌を鑑賞する、ましてや創作する能力はこれっぽっちもありませんが、10月の伊賀上野訪問までには芭蕉のことを勉強しなければなりません。 

 芭蕉西行、義経の足跡を辿って奥州を紀行して『おくのほそ道』を残します。最初の目的地である「日光」、記録上現れるのは鎌倉時代以降であり、それ以前は「二荒神」と表記され、「二荒(ふたあら)」を「にこう」と読み、これに「日光」を当てたものといわれています。芭蕉は舟で「深川」を出発、千手観音が川中から発見された事に因む「千住」、それは浄土教の補陀洛渡海を暗示する船旅で、観音浄土:「日光」を目指します。「死」を暗示、象徴する道程です。

室の八島 けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として知られる大神(おおみわ)神社、五畿七道の時代には下野国国府が在り、その真北に鎮座します。大和国(奈良県)三輪にある、別名:三輪神社を勧請して創建されました。都から赴任してきた役人の多くが歌人だったのでしょう、多くの句碑が建てられています。今回、テニスの仲間の一人、Aさんとご一緒だったのですが、彼は顕彰碑・句碑・古文書の解読を講義する先生であり、今回はまさに「フィールドワーク中の先生と生徒」といった趣です。

吉次の墓 さらに北へ、車で10分、「金売り吉次」の墓が在ります。紀行の随行者:曾良の旅日記に、「吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有」、と記された場所は栃木県鹿沼市壬生町上稲葉1603−5、今も3百年前とほとんど変わらない、収穫を前にした稲田の中にあります。

 1174年、「金売り吉次」の案内で、牛若(遮那王、元服して義経)は奥州に下向したとされます。「治承・寿永の乱(1180〜1185)」後、頼朝に疎まれて、頼朝に出した釈明書:「腰越状」の内容とは矛盾するのはこの話が作られたからなのでしょう。奥州の砂金(などの産物)と京の産物を交易して、奥州・京を往還した商人は存在したと考えられており、「金売り吉次」はその総称と云われています。吉次は三人兄弟の一人、父親は「炭焼き藤太」と呼ばれ、これまた奥深い話があるようです。

吉次の墓_2 壬生町の芭蕉が訪ねた「金売り吉次」の墓他に、もう一つ吉次の墓が踏切横にありました。近所のお年寄り(90歳)の話では、別の場所に在った墓が東武の鉄道工事により移転させられたそうです。この地域には他にも「金売り吉次」の墓や「義経の〜」と称する塚が複数あるそうです。 

 行く夏の…、過ぎ去ってしまえば、あっという間の夏でした。おそらく、人生も…。

参考書:芭蕉 おくのほそ道−付・曾良旅日記 おくのほそ道の旅 身体感覚で「芭蕉」を読みなおす 義経伝説−判官びいき集大成 怨霊になった天皇

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August 13, 2015

何年ぶりかの渋谷で、映画『ラブ&マーシー』

Love & Mercy  関西に住む友人に「ビーチ・ボーイズのファンよね。彼らの映画が来ているわ…」と指摘されて初めて知った映画:『ラブ&マーシー Love & Mercy』を観に渋谷まで行ってきました。もっと近くで観られると思ったのですが、八王子の公開予定が9月で、この夏の思い出の一つに入れるには遅すぎます。渋谷に出るのは何年ぶりか、さすがに若者文化の街、通りを歩いていても彼らの速度について行けません。少し気後れしてしまうのは正直なところです。

  ビーチ・ボーイズとの出会いは私が中学1〜2年の時に遡ります。当時、ラジオのヒットパレードにはビートルズかビーチ・ボーイズがランクインしていない日はなかったのではないでしょうか。私が彼らの曲を最初に買ったのは『Surfin' USA』、ビートルズの『抱きしめたい "I Want To Hold Your Hand"(1963)』、『プリーズ、プリーズミー Please, Please Me』よりも遅かったように思います。1963年の出来事でした。アイドルバンドから始まったこの二つのバンドは、お互いに意識し合って、競うように、単なるアイドルから脱皮するかのように、新しい音楽を目指していきます。

 ビートルズの『Rubber Soul (ラバー・ソウル 1965)』が従来のアルバムの概念を替えてしまいました。ボブ・ディランの『ブロンド・オン・ブロンド Blond On Blond』に触発されたというこのアルバム、まず最初にこのアルバムタイトル、ビートルズ初めイギリスのバンドが、アメリカ黒人ミュージシャンから「Plastic Soul」、「まがいもののソウル、ソウルもどき」との酷評に対する彼等の皮肉でした。アメリカのアルバムといえば、員数合わせのような、単に10〜12曲の詩を何の脈絡もなく並べたものでしたが、『ラバー・ソウル Rubber Soul』はコンセプトアルバムであり、彼等が既にアイドルの域を抜け出し、バンドの各人がアーティストとして確立されています。

 ブライアン・ウイルソンはこれに大きな影響を受け、アルバム:『ペット・サウンズ Pet Sounds』(1966)を制作します。そのころから、彼の精神の崩壊が始まります。
ブライアン・ウイルソン

 かつて、朝鮮戦争の時代にジャズが流行したように、時代はベトナム戦争・北爆が激化、アメリカ国内では徴兵拒否など厭戦気分が高まります。ヒッピー、フラワー・ムーブメントが興り、音楽文化では、ジャズに代わってロック・ミュージックが流行、極めつけはサイケデリック・ミュージックに至りました。※因みに、 psychedelic= psyco(精神病質の・錯乱した) + eccentric(変人・奇人、奇抜な)で、幻覚状態を想起させるの意味。髪の毛を伸ばして髭をはやし、マリファナ、LSD、フリーセックス等の言葉に代表される対抗文化が絶頂期を迎えることになります。

 60年代、彼に嫉妬する癇癪持ちで暴力的な父に…、そして、80年代には彼を救うはずの精神科医の異常なまでの監視に…、彼は脅えた…と映画は描いています。厳格な父から逃れるために…、何よりも、新しい音楽的境地に辿り着くために、彼は自ら求めてマリファナ、LSDを借りてサイケデリックな世界に入り込んでいったのではないでしょうか。挫折した元ミュージシャンの精神科医:ユージンとの付き合いもそんなところから始まったのではないかと想像します。現に、メンバーの一人、弟のデニス・ウィルソンはサイケデリックな音楽を指向して、狂信的カルト指導者チャールズ・マンソンと関わったこともよく知られています。チャールズ・マンソンは映画監督:ロマン・ポランスキーの妊娠中の妻:シャロン・テートをナイフで滅多刺しにした『シャロン・テート事件(1969)』の教唆犯、主犯で、事件は対抗文化の負の遺産として記憶されている。※残念ながら映画では触れられていません。

 『ペット・サウンズ Pet Sound (1996)』はブライアン渾身の作にもかかわらず売れませんでしたが、このアルバムに触発されたビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band (1967) 』 は大ヒット、このアルバムが認められたのは発売後30年以上も経った2004〜2005年のことでした。 正直なところこの、一般大衆と同じく、ミーハーでポップな音楽を求めていた私も、この辺りから、スタジオ録音ばかりでオーケストラが入ったりする、ビーチ・ボーイズもビートルズもあまり好きではなくなりました。しかし、次のアルバム:『スマイリー・スマイル Smiley Smile (1967)』に在る『グッド・ヴァイブレーション Good Vibrations』は傑作と認めざるを得ません。

 大阪中之島、フェスティバルホールに『Surfin' USA』を歌うビーチ・ボーイズを目の前にしたのが高校生の時、あれから〇十年、バンドの吉野さんと一緒にブライアン・ウイルソンを聴きにいったのが10年前でしょうか…、中学・高校生の当時あこがれた彼らの曲をこの年になってバンドで歌うとは想像もしませんでした。
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August 09, 2015

胡椒と金

ノザキのコンビーフ 昔から釈然としないことが多いのですが、その一つがこれです。 中世の西欧では牛豚の肉は、もちろん干し肉、薫製などに加工されましたが、多くは塩漬けにして樽の中につけて置き、これを少量ずつ長い冬の間に食べつないだのです。冬が寒いとしても肉は傷んできます。腐りかけた肉に「胡椒」をかけると臭みが消え、一度「胡椒」の味を知るとそれなしではすまない必需品となったそうです。※蛇足ながら、牛肉の塩漬けは英語で「Corned Beef」、日本には戦後アメリカから入り、「コンビーフ」と呼ばれ、特に関東地方で大衆化しました。

pepper 胡椒をはじめとする香辛料の産地はインド西海岸、ジャワ、スマトラ、モルッカ諸島、マライ半島に限られて西欧からは遙かに遠く、その間、インド商人、アラビア商人、そして地中化に至るとベネチア、ジェノバ商人の手を経なければならず、この入手困難な貴重品:「胡椒」は当時金にも匹敵する価値があり、西欧を「大航海時代」へと突き動かす動機の一つに、自前での「胡椒」の確保があったそうです。しかし、わさび・唐辛子・和がらしを知る日本人の私からすれば、あればよりおいしいがなければないですむ、胡椒もたかが薬味、金にも匹敵する、とはグルメじゃない私だけの思いか…、想像もできないほどにばかげた話に聞こえます。

ペストマスク 11〜12世紀、十字軍のエルサレム派遣は最初のペスト(黒死病)流行をヨーロッパにもたらしましたが、13世紀に入ると、エルサレムのさらに東からモンゴル軍がやってきます。中国雲南省の風土病と思われていたペストはモンゴル軍に感染、ユーラシア大陸の大部分を席巻したモンゴル軍(「キプチャク汗国」)は、1346年のクリミア半島、ベネチアとジェノバ商人(ユダヤ人)の籠城するカッファを包囲、ペストに感染したモンゴル軍兵士の死体を城内に投棄してペストに感染させ、ベネチアやジェノバに逃げ延びた彼らから西欧の腺ペストの大流行となり、その間(1347〜53)、人口の1/3が死亡するという、人々にとっては全く異次元の、得体の知れない恐ろしい病気でした。実は、当時のこの腺ペストの予防・治療に有効と考えられていたのが胡椒だった訳です。この年になって初めて納得できる話に巡り会うことができました。上の絵は奇怪なマスクをかぶった当時の黒死病専門医師

 時代を遡って、東の端に目を向けます。「白村江の戦い(663)」で唐・新羅連合軍に敗れ、唐(中国)との冊封関係を断ち切った日本。唐の侵攻も恐れられる中、国家安泰・五穀豊穣を祈願して建立されたのが東大寺大仏であり、鍍金(メッキ)のための金が不足する事態をすくったのが陸奥国涌谷(わくや)で日本で初めての砂金産出でした(749)。以降、長い戦乱を経て、砂金産地を押さえ、馬や毛皮などの様々な物資を独占した奥州藤原氏の時代を迎えます(1087〜1189)。おそらく、独自の海外交易を行い、戦乱の京を尻目に、中尊寺金色堂に代表される平泉浄土教文化の栄華は当時カセイ(Cathay)と呼ばれた中国南部(杭州)にも聞こえていたはずです。

Marco Polo

 モンゴル支配下の中国(元(1271-1368))に滞在したマルコポーロは「黄金の国ジパング」、日本の情報を中国南部で得たと思われ、帰国後、ベネチアとジェノバ間の戦争捕虜(「メロリアの戦い(1298)」となりその獄中で口述筆記された『東方見聞録』に在る「莫大な金を産出し」や「宮殿や民家は黄金で出来ている」とは、かつて存在した、この奥州藤原氏平泉文化の事を聞いたのであろう。ついには、「キオッジアの海戦(1378〜1380)」でベネチアが勝利、東地中海貿易を独占します。敗北したジェノバはジブラルタル海峡の西、イベリア半島経由で、当時毛織行で繁栄したフランダース(現在のベルギー)との交易に活路を求めてポルトガルに接近します。

 ポルトガルはジェノバの商業・航海技術を引き継いで、いよいよ大西洋に船出することになります。1415年、北アフリカのセウタを占領、続いて象牙海岸・黄金海岸を経てガーナの地に城塞を築いて金や奴隷の交易を行い、1497年にはバスコ・ダ・ガマが喜望峰を周りインド航路を開拓、カルカッタ、マラッカを越え、マカオ、1541年には豊後に辿り着きます。かつては、インド商人、アラビア商人、そして地中海に入るとベネチア、ジェノバ商人の手を経ていた胡椒取引がポルトガル一手に集約されたのですからその利益は莫大なものになったことでしょう。

 1492年、『東方見聞録』の「黄金の国ジパング」に魅了されたコロンブスは大西洋を西へ、苦難の末到達したのが現在のエルサルバドル、これをインドと誤認、さらに奥地を探検したが、「黄金の国ジパング」を発見することは出来ませんでした。これが、西欧にとっての、新大陸・新世界の発見でした。

 胡椒と金、西欧を「大航海時代」に突き動かした大きな動機なのですが、その背景には13世紀のモンゴル帝国の勃興を見逃すことが出来ません。ユーラシア大陸の大部分を統一、東西を結ぶ交通路の整備・治安を維持、商人の保護に努め、信仰には寛容で、人種・民族にかかわらず能力のある者を登用して、モンゴル帝国が完成され、東の中国文明と西の地中海文明が結ばれることになったのです。ほんとうの世界史はここに始まったといえるでしょう。

 奇しくも、同じ12世紀、ユーラシア大陸が東の海に落ち込むところ、「黄金の国ジパング」では武士が台頭、その後約7百年、武士の世の中が続きます。

 ※参考資料:地球日本史〈1〉日本とヨーロッパの同時勃興

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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