June 2015

June 25, 2015

Woodstock, Back To The Garden

 怪我の功名と言うのか…、『ノルウェーの森』は単なる誤訳でしたが、本来の意味を越えた文学的なものになっています。傑作は『青春の光と影』、この映画・歌の日本語タイトルの『〜の光と影』はその後の日本語に頻繁に現れるようになったと感じるのは私だけでしょうか。

joni michel 映画:『青春の光と影』は1968年公開のアメリカ映画、私などは原題が『Changes』とは全く知りませんでした。この映画公開の1年前、ジュディ・コリンズ(Judy Collins)の歌う『青春の光と影 Both Sides, Now』がヒットしており、映画のタイトルもこの曲のタイトルからの流用でした。日本語タイトルの話は横に置いて、この『Both Sides, Now』を作詞・作曲したのがジョニー・ミッチェル((Joni Mitchell、1943 - )でした。

 「ものごとの一面だけしか見てこなかったけど、もう一つの面も見えるようになった…」と、たかが20歳前後の娘の人生を判ったような歌詞が一部の反発を買ったようですが、私は好きです。原題も良いが、日本語タイトルは原題を越えて良かったのではないでしょうか。この作曲に関し彼女は次のように語っています。

 〜 私は飛行機の中でソウル・ベローの「Henderson the Rain King 雨の王ヘンダソン」を読んでいた。本の中のヘンダソンもまた空を飛ぶ飛行機の中に在った。アフリカへ向かう機上から見下ろすと雲海…。私は本を置き、窓の外を見ると、やはり雲海、私は曲を書き始めました。当時、この曲がそんなにヒットするとは思いもよりませんでした。 〜

 彼女の次のヒット、1968年バッフィ・セントメリー(Buffy  Sainte-Marie)の歌った『サークル・ゲーム The Circle Game』は、1970の映画:『いちご白書 Strawberry Statements』の挿入歌として採用され、映画自体は『イージー・ライダー Easy Rider』、『俺たちに明日はない Bonnie and Clyde』と並んでアメリカン・ニューシネマの一角を占め、日本では松任谷由実(荒井由実)がザ・バンバンに提供した『「いちご白書」をもう一度』は大ヒットとなります。今になって見れば、『青春の光と影』も『いちご白書』も、当時の時流であった学園紛争もの、同時代を生きた者としては気恥ずかしさのともなう映画でした。

 1969年8月の3日間、『ウッドストック・フェスティバル Woodstock Music and Art Festival』、15日(日)の祭典に参加する予定でしたが、13日(金)、TVでは全米に渡る交通麻痺が報じられるようになり、マネージャーは行かないように勧めた。16日(月)、ディック・カベット・ショーに出演予定で、街に戻る途中でトラブルに巻き込まれることを恐れたのでした。彼女はフェスティバルの決定的な年代記となる『ウッドストック Woodstock』を作曲、翌年、これがクロスビー、スティルス&ナッシュのヒット曲となります。

 イアン・マシューズ&サザン・コンフォート (Ian Matthews & Southern Comfort)を覚えておられますか?彼の歌う『ウッドストック Woodstock』が好きでした。 あれから2年半…、どうぞお聞きください。



ps: 2015年6月29日『朝日新聞』の記事
20150629「朝日新聞」記事

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June 19, 2015

朝比奈切通、そこは異次元

 朝比奈切通_2Ikeさんはウォーキングが趣味、その彼を誘って鎌倉を訪ねました。4年前、極楽寺坂、化粧坂、サザンでおなじみのというよりも…、新田義貞が鎌倉府内に突入した稲村ヶ崎をご一緒したのですが、今回は藤沢から江ノ電に乗って鎌倉駅、駅前からバスで市街地を抜けて十二所(じゅうにそ)で下車、そこからバスルートをそれて峠道、六浦道に入ります。よく言われるように、鎌倉は相模湾に面した以外は、東西北面を凝灰質砂岩とできた山で囲まれた天然の要塞で、開削された切通だけではなく、「鎌倉石」と呼ばれる石材を切り出す石切場が散在します。加工が容易で耐火性に優れ、建築資材として江戸城築城にも使われたそうです。
 
朝比奈切通_1 六浦(むつうら、むつら)道は、現在の鎌倉市十二所(じゅうにそ)と横浜市金沢区朝比奈を結ぶ峠道、幕府の置かれた鎌倉(相模国)からその外港としての要衝、六浦(当時は武蔵国)を結ぶ幹線道路にて、1240年、道路開拓が決定、測量が始まり、時の執権:北条泰時も現場に足を運び督励したそうです。 歩き始めると山(岩)を鋭角に切り開いた道路、両側の壁および街道の地面は、もちろん凹凸はあるものの、紛れもない「鎌倉石」、そびえ立つ岩壁には中世・近世に掘られたであろう仏像や横穴の祭壇、路面には流れる水に浸食されてできた小さな川、そこはまさに異次元の世界、急に視界が明るく広がると、バス停:朝比奈切通にたどり着きます。 夢かうつつか…、千年の峠道、十二所を出発してまだ1時間も歩いていません。

称名寺 待つこと20分、バスは我々を乗せて、京浜急行金沢八景にに向かいます。隣接しながらも、峠によって隔たれた六浦は鎌倉の東方を守護する位置にあり、古代より製塩業が盛んで、入り組んだ地形は良港をなし、対宗貿易の要として鎌倉幕府に欠かせない存在でした。さらには、入り組んだ地形は風光明媚な景勝地、後に「金沢八景」として世に知られるようになります。北条実時(さねとき 1224-76)は、8代執権:北条時宗を補佐して対モンゴル戦:「文永の役(1274)」を戦い抜いた後、六浦荘金沢に別邸を置き、これが「称名寺」と「金沢文庫」の起源でした。
150616称名寺釈迦堂
称名寺釈迦堂
 実時の孫、貞顕(さだあき 1278-1333)は執権に就任するも10日で辞職、出家して高時に執権職を譲ることになります。 貞顕は、武士、政治家というより、当時一流の文化人で、祖父:実時の創設した「金沢文庫」を「足利学校」と並ぶ武家の文庫に創りあげるとともに、「称名寺」を整備し完成させました。どこか、宇治平等院に似ているのも道理、浄土思想による伽藍の配置です。京都在住の六波羅探題時代に多くの人と交わり、吉田兼好もその一人として鎌倉には少なくとも2度訪問滞在したことが知られており、この六浦(現在の横浜市金沢区)の上行寺の境内に庵があったと伝えられています。

 後に、新田義貞が上野に挙兵して(1333)鎌倉に侵攻、金沢一族の多くは極楽寺坂、化粧坂、巨福呂坂で討死します。5月22日、鎌倉幕府滅亡の日、貞顕は最後の執権:高時と共に東勝寺を最後の拠点に北条一族の多くと共に奮戦、『太平記』には、283人の北条一族と870人の家臣が自害したとあります。

  鴨長明(1155 〜 1216)が『方丈記』(1212)を著して百年、その間、宗が滅び元(モンゴル)が興り、二度の元寇で鎌倉幕府は弱体化、後醍醐天皇を頂点とする討幕運動が激化、ついに鎌倉幕府は滅亡(1333)、再び混乱の南北朝時代に入ります。吉田兼好(1283?-1352)は『徒然草』(1331)を著します。

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June 08, 2015

美意識、早い話が「好き・嫌い」

「初雪やいつ大仏の柱立」 芭蕉は、元禄2年(1689)、修復事業が始まる前の東大寺大仏を訪れています。

 造営当時(745 - 752)、その表面が鍍金(金メッキ)されていました。平安末期、平重衡による南都(奈良)焼き討ち(1180)で東大寺大仏も焼失、戦後、重源(ちょうげん)の手で再建されました。この時、重源に頼まれて西行は必要な砂金を寄進した藤原氏を訪ねて遙か奥州に向かいます(1186)。下って戦国、1567年、松永久秀の兵火により再び炎上して以来大仏は野ざらしでした。120年が過ぎた元禄時代、芭蕉が訪れたこの時期でさえも、再興の計画はあったものの、大仏の損傷も修理されないままで放置されている状態でした。

鍍金された大仏 果たして…、芭蕉の見た露座の大仏は、今日我々が見る大仏と同じなのか、それとも、損傷はあるものの…、創建以来の鍍金(金メッキ)された姿だったのか、大いに興味のあるところです。二度の兵火に会うまでは、間違いなく、黄金に覆われた大仏でしたが、金銭的理由からではなく…、いつしかキンキラキンの鍍金(金メッキ)が剥離して、現代に残る渋い、枯れた色合いの大仏になったのでしょう。いつしか、自然時間を過ごして古びたものをいいと思うようになり、誰もこれを修復して創建当時のキンキラキンに戻そうとはしなくなったのです。各地の仏教寺院にある仏像や仏教絵画・装飾、絵の具を塗り替えずにずるずると時間を過ごすうちに、古びたものこそ有り難いと思うようになったのでしょう。 さらに、ずるずると時間を過ごしたら、どんな絵・装飾だったのかその痕跡さえも判らず、取り返しがつかなくなってしまうでしょう。

 同じ仏教国でも、タイ、ミャンマーなど東南アジア諸国では、キンキラキン・極彩色の仏像や仏教絵画・装飾が見られ、現代の我々日本人からすれば大いに文化の違いを感じてしまいますが、同様に、この大仏の創建時・修復時のキンキラキン・極彩色の仏像をイメージすると、同じ日本人なのかと疑ってしまいます。因みに、対馬の仏像泥棒が話題になりましたが、事件の再発を予防するために最近では、3Dプリンターを使い、エイジングと云われる古く見せる高度な技術で装った複製仏像を置くようになったそうです。

 南洋の動植物には極彩色のものが多く、ウグイス、文鳥も元来は南洋のものであったが、長く日本に生息するうちにその色がくすんだという説と関係があるかは知りませんが、東大寺大仏が最初の兵火にあった平安末期、末法の世の「無常」に始まるものか…、いつしか日本人は古びて、枯れたものに美意識を持つようになり、今日に云う日本文化は利休の「茶の湯」「数奇」で体系化されます。

 ナチスの台頭でドイツを追われた建築家:ブルーノ・タウト (1880 - 1988)はシベリア鉄道で日本に逃れ、桂離宮に「永遠なるもの」を見いだす一方、日光東照宮はその対局の「キッチュ KITSCH まやかし、まがいもの、みせかけ、低俗」と酷評したそうです(朝日新聞6月6日(土)be)。これには全くの同感ですが、伊勢神宮の二十年毎の立て替え、義満の金閣寺、秀吉が利休に命じて作らせた「黄金の茶室」…、はどうでしょう。

 参考資料:赤瀬川源平著『千利休 無言の前衛

 ps:次回はそろそろ音楽ネタです。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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