June 19, 2015

June 19, 2015

朝比奈切通、そこは異次元

 朝比奈切通_2Ikeさんはウォーキングが趣味、その彼を誘って鎌倉を訪ねました。4年前、極楽寺坂、化粧坂、サザンでおなじみのというよりも…、新田義貞が鎌倉府内に突入した稲村ヶ崎をご一緒したのですが、今回は藤沢から江ノ電に乗って鎌倉駅、駅前からバスで市街地を抜けて十二所(じゅうにそ)で下車、そこからバスルートをそれて峠道、六浦道に入ります。よく言われるように、鎌倉は相模湾に面した以外は、東西北面を凝灰質砂岩とできた山で囲まれた天然の要塞で、開削された切通だけではなく、「鎌倉石」と呼ばれる石材を切り出す石切場が散在します。加工が容易で耐火性に優れ、建築資材として江戸城築城にも使われたそうです。
 
朝比奈切通_1 六浦(むつうら、むつら)道は、現在の鎌倉市十二所(じゅうにそ)と横浜市金沢区朝比奈を結ぶ峠道、幕府の置かれた鎌倉(相模国)からその外港としての要衝、六浦(当時は武蔵国)を結ぶ幹線道路にて、1240年、道路開拓が決定、測量が始まり、時の執権:北条泰時も現場に足を運び督励したそうです。 歩き始めると山(岩)を鋭角に切り開いた道路、両側の壁および街道の地面は、もちろん凹凸はあるものの、紛れもない「鎌倉石」、そびえ立つ岩壁には中世・近世に掘られたであろう仏像や横穴の祭壇、路面には流れる水に浸食されてできた小さな川、そこはまさに異次元の世界、急に視界が明るく広がると、バス停:朝比奈切通にたどり着きます。 夢かうつつか…、千年の峠道、十二所を出発してまだ1時間も歩いていません。

称名寺 待つこと20分、バスは我々を乗せて、京浜急行金沢八景にに向かいます。隣接しながらも、峠によって隔たれた六浦は鎌倉の東方を守護する位置にあり、古代より製塩業が盛んで、入り組んだ地形は良港をなし、対宗貿易の要として鎌倉幕府に欠かせない存在でした。さらには、入り組んだ地形は風光明媚な景勝地、後に「金沢八景」として世に知られるようになります。北条実時(さねとき 1224-76)は、8代執権:北条時宗を補佐して対モンゴル戦:「文永の役(1274)」を戦い抜いた後、六浦荘金沢に別邸を置き、これが「称名寺」と「金沢文庫」の起源でした。
150616称名寺釈迦堂
称名寺釈迦堂
 実時の孫、貞顕(さだあき 1278-1333)は執権に就任するも10日で辞職、出家して高時に執権職を譲ることになります。 貞顕は、武士、政治家というより、当時一流の文化人で、祖父:実時の創設した「金沢文庫」を「足利学校」と並ぶ武家の文庫に創りあげるとともに、「称名寺」を整備し完成させました。どこか、宇治平等院に似ているのも道理、浄土思想による伽藍の配置です。京都在住の六波羅探題時代に多くの人と交わり、吉田兼好もその一人として鎌倉には少なくとも2度訪問滞在したことが知られており、この六浦(現在の横浜市金沢区)の上行寺の境内に庵があったと伝えられています。

 後に、新田義貞が上野に挙兵して(1333)鎌倉に侵攻、金沢一族の多くは極楽寺坂、化粧坂、巨福呂坂で討死します。5月22日、鎌倉幕府滅亡の日、貞顕は最後の執権:高時と共に東勝寺を最後の拠点に北条一族の多くと共に奮戦、『太平記』には、283人の北条一族と870人の家臣が自害したとあります。

  鴨長明(1155 〜 1216)が『方丈記』(1212)を著して百年、その間、宗が滅び元(モンゴル)が興り、二度の元寇で鎌倉幕府は弱体化、後醍醐天皇を頂点とする討幕運動が激化、ついに鎌倉幕府は滅亡(1333)、再び混乱の南北朝時代に入ります。吉田兼好(1283?-1352)は『徒然草』(1331)を著します。

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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