May 2015

May 30, 2015

座頭市(いち)と検校塙保己一(ほきいち)

 保元の乱(1156)、平治の乱(1159)が終わり、武士の時代の到来は今までの価値観を一変させ、一方では、安元の火災(1177)→治承の辻風・福原遷都(1180)→養和の飢饉(1181)→元暦の大地震(1185)…、天災と人災が続きます。

 浄土思想・末法思想が『平家物語』のテーマなのですが、本来の釈迦が教える無常観とは、全く感情の入る余地のない、哲理・宇宙原理であるはずなのに、『平家物語』の無常観は、「無常感」と書き換えるべきほどに、「人生ははかない、花は散り際が美しい」と花鳥風月を語るものに変質しています。きわめて情緒的・感情的であり、日本人に独特な自然観・死生観に根ざしているようです。桜を愛でるのも、その美しさだけでなく、芽吹く→蕾→満開→色褪せる→散る、という「無常」に愛惜・哀惜を感じるのです。

 この『平家物語』、1200年頃、天台座主の慈円(『愚管抄』の著者)は、保元・平治の乱以来の戦死者たちを慰霊するために、大懺法院(だいせんぽういん)という寺を創設、学芸・音曲など一芸ある者を保護し、彼ら芸能者は様々な芸を奉納していたが、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)に書かせ、それを芸能者、琵琶法師に与えたと『徒然草』にあります。盲目の琵琶法師の仲間内で、長い時間をかけて、多くの人が関わることで、物語はより深く・広がり、盲目故か、平家一門の死者の霊に触れ、鎮魂の気持ちを込めて語ったと伝承されています。鎌倉幕府編纂の歴史書:『吾妻鏡(1300年頃)』も、すでに庶民に人気の『平家物語』の引用、無視できない存在となり、歳月が経過するうちにさらなる深化を遂げていきます。

 『平家物語』は南北朝〜室町初期(1338〜1392)にかけて流行の沸点を迎え、これと同じ時期、義満(1358-1408)の時代に編纂されたのが室町幕府の正史:『太平記(1377)』でした。『平家物語』が『太平記』の内容だけではなく、反北条(平氏)の号令、倒幕運動への急速な集結、鎌倉幕府の滅亡後の足利・新田両氏による「源氏の棟梁」を巡る抗争、尊氏の征夷大将軍就任(1388)や南北朝合一(1392)など、 現に起こりつつある政治さえも影響・規制することになります。

琵琶法師 これを踏まえ、義満以降、幕府は語り『平家物語』の管理を強化するようになりました。明石覚一(? - 1371)は尊氏の従弟で、播州書写山の僧であったが、失明し琵琶法師となり、琵琶、按摩、鍼灸の名手、『耳なし芳一』のモデルと言われます。「当道座」を設立して、自らその検校となり、語り『平家物語』の最初の正本が「覚一本『平家物語』」と呼ばれます。中世から近世にかけて、男性盲人の自治・相互扶助組織で、師匠から弟子へ技能を継承する教育機関でもありました。当道の官位は「検校(けんぎょう)」、「別当」、「勾当」、「座頭」の4官であり、さらにその中が73の階級に分かれ、江戸時代になると、多大な金銭を要求して昇進の口利きをする検校が現れ、高利貸しの代名詞までになった。
 座頭市
語り『平家物語』が次第に廃れて、芸能を主とする座の性格が失われ、芸能以外の道に進む人も現れます。例えば、フィクションながら、侠客になったのが座頭の市、勝新太郎が演ずる映画:『座頭市』ということです。

塙保己一 三重苦の障害を持ったヘレン・ケラーがはじめて来日したとき(1937)、こんな言葉を残しています。「私は幼いころ母親から塙保己一(はなわ ほきいち)検校の業績と不屈の精神を聞かされ発奮しました。 塙先生は私に光明を与えてくださった恩人です。」 塙保己一(1746 -1821)は、41年の歳月をかけて収集、校訂、編さんした日本最大の叢書:『群書類従』を著した国学者、江戸時代初期までに刊行された1273種の歴史・文学作品を収録する。彼もまた覚一の系譜を引くもので、日本の近世・近代を語る上に欠かせない盲人学者でした。ちなみに四百字詰め原稿用紙は彼の発案によるそうです。

 『平家物語』は日本人が作り、育て上げ、その影響は日本の近世・近代にまで及ぶことになります。

 バンド仲間のNobuさんは熊谷市に育ち、小学2〜3年生の時、交通安全の標語か何かで…埼玉県主催の「塙保己一賞」をもらったそうです。急に、保己一が身近なものになりました。

参考資料:篠田正浩路上の義経幻戯書房

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May 19, 2015

ホッとしました

 団地管理組合の総会が終わりました。副理事長を務める私にとって総会は最大の山場、難所でしたが、かろうじて乗り切ることが出来ました。既に副理事長留任を決めていたのですが、3月以降、議案書の作成など、総会に向けての準備に追われ、カレンダーの連休はあってもないに等しい毎日、留任を宣言したことが悔やまれました。

 150514アマリリス総会終了に合わせるように、かみさんは親の面倒を見に四国へ出発、我々夫婦の愛犬:ももの世話に加えて、彼女が育てている花々に水を遣る、というのが留守を守る私の仕事です。一階部分が我が家、その特典で専用庭が付いていますが、ベランダの手すりには彼女が出発前に胡瓜用のネットを張り巡らしており、帰って来たら、市から支給されたゴーヤを植える段取りなのでしょう。昨年の実績はこれ
 150427アブチロン
 そのネットをくぐって、久しぶりに庭に出ると、そこは今が盛りの花でいっぱいです。通勤に、ゴミ捨てに、近所を通る住民が振り返る、話では「花の家」と呼ばれているそうです。近所の公園に積もった腐葉土を運んで作った庭、散歩仲間、近所の人から頂いた、あるいは世話をできなくなった、手に余るような植木をもらって帰り、この季節、花々を咲かせるまでに育てるのは、少なくとも私にはない能力です。

150422_ビオラ 花をもらって喜ばない人はいません。これで、我が家はちょっとしたお返しを頂くことになり、先日などは、甘いメロンをお裾分けに、趣味でやっている畑の収穫物をもらったりしています。次は何をいただけるのか…、楽しみです。

150408_クリスマスローズ (1) そんな訳で、かみさんの留守の間に枯らしてしまう訳にはいかない、という気持ちで、ホースを取り出して散水を始めました。…と、「水をやらなくても、雨が降りそうなお天気ですよ」、とは近所に住む管理組合の理事長の声。今から仕事で会議に出席するとかで、彼も総会の重圧(?)から開放されたらしく、バス停に急ぐ晴れ晴れとした彼の後ろ姿を見送りました。 

 空を見上げると、一面に雲、水をやるまでもなく、夕方あるいは今夜は間違いなく雨、栓を閉めて、もう一つの仕事、愛犬:ももの散歩に、今日は少し遠くまで、出かけることにしましょう。
140625モモ
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May 06, 2015

江戸深川、芭蕉庵辺り

 管理組合の副理事長を務めてまもなく丸一年、この1ヶ月が最も忙しかったのではないでしょうか。甘い言葉に乗って…というか、軽い気持ちで…あと一年引き受けたのですが、管理組合総会を今月に控え、引き受けたことを悔やむ羽目になってしまいました。これだけが理由ではありませんが、何の計画もなく、ただボケーっとしているだけのゴルデンウィークに終わりそうなので、思い切って江戸(東京)深川、芭蕉庵跡地を訪ねることにしました。
 
 江戸時代の町人や商人などの一般市民が登場する小説にあまり興味がなかったので、その舞台である深川には一度も足を伸ばしたことがありませんでした。 新宿から総武線に乗り、両国駅で下車、相撲を見ない私でも、ここに国技館があることはかろうじて知っています。現在の両国を含む北側が本所、南側が深川であり、どちらも江戸時代初期の人口急増に対応して造成された新興住宅地です。当時は隅田川が下総国と武蔵国の国境で、そこにかかる大橋が両方の国に跨る橋ということで「両国橋」となった由。

 今回は両国駅を出て、右手に隅田川の流れに平行して南下すること約30分、先ずは「芭蕉記念館」を訪問。伊賀上野で見学した記念館と同じく、芭蕉の句が並べられていますが、鑑賞眼、文芸・文学的興味に欠ける私にとって作品自体は興味の外、さも判ったような風を装い、近辺の文芸・観光案内図をもらって退出しようとしますが…、待てよ…、ありました。この記念館の目玉、「芭蕉遺愛の石の蛙」、大正6年(1917)台風の高潮の後、常磐一丁目から出土したというホンモノが展示されていました。ロゼッタストーンの発見を彷彿させる発見談にわざとらしさと、いかがわしさを感じつつ、早めに記念館を出ました。

 「芭蕉記念館」の裏口を出ると、そこは隅田川の堤防、堤防にそって2百メートル南下した小名木(おなぎ)川の分岐点に「芭蕉庵史跡展望公園」があり、その近く(常磐1丁目3)で「石の蛙」が発見されたのをもって芭蕉庵跡と認定され、これまたうさんくさい「芭蕉稲荷神社」が建立されています。ディズニーランド、ユニバーサルスタジオの技術からすれば簡単でしょうに…、申し訳有りませんが…、見るからにわざとらしい「石の蛙」と、うさんくさい「お稲荷さん」です。因みに、名句「古池や〜」はこの地で読まれました。
150504_深川万年橋
小名木川を跨ぐ万年橋
  江戸の海は泥水で、塩の生産には適さず、家康は江戸城の塩を確保するために塩業の盛んな下総行徳(千葉県市川市・浦安市)を所領とし、さらに、小名木四郎兵衛に命じて運河を開削させたのが小名木川の始まりです。家光の時代に日本橋小網町まで延伸されて、江戸と常総・利根川方面との大動脈になります。江戸は海辺を埋め立てて作られた街、井戸を掘っても十分な飲料水を確保することが出来ず、井の頭池を水源とする「神田上水(1629)」が造られました。塩と飲料水の確保、必須の2つを家康は後北条氏に学んで江戸の礎を築きます。

 日本橋といえば江戸随一の繁華街、それに比べれば閑静な場所でしたが、小名木川の沿って多くの大名や豪商が別邸、下屋敷が並び、日本橋からもそれほど遠くはなく、うら寂しい場所ではなかったように思われます。やっとのことで日本橋小田原町での安定した生活を築いた芭蕉は、突然、深川に移住します(1680)。その安定した生活を捨てるほどの理由とは何だったのでしょうか。 万年橋を渡った南には、元禄の豪商:紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる清澄公園が広がります。

 その一角に「奥の細道」出発の地、芭蕉は先人の残した枕詞、名所、旧跡を巡る旅に出たのですが、以降、芭蕉縁の地も新たに名所、旧跡に加えられることになります。
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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