April 2015
April 22, 2015
思い出の渚
高校時代は兵庫県伊丹市に住み、2年生になると、理科系・文科系と、進路ごとにクラスが別れ、私は家族の期待を裏切って、文科系進路のクラスに入ることになりました。以降、卒業までの2年間、同じクラスで過ごすことになりますが、男子3人(あるいは4人)+女子2人の仲良しグループが出来上がり、何かと一緒に行動するようになりました。グループが出来上がった理由の一つが「音楽」で、その内の男子1人は、私と同じ中学校出身で、ビートルズの日本公演には、往復はがきでチケット購入に応募して当選しました。残念ながら、チケット代に加えて東京までの旅費・宿泊代を工面出来ず断念はしましたが…、ビートルズの熱狂的なファンでした。
私は、彼ほどにはビートルズのファンではなく、ヨーロッパよりもアメリカの音楽、早い話が「アメリカかぶれ」、このブログで幾度となく紹介しているように、ビーチ・ボーイズのファンでした。ビートルズにせよ、ビーチ・ボーイズにせよ、世界の大衆音楽の頂点に立つバンドで、彼等を追いかけるように、日本でもスパイダーズ始め、多くのバンドが結成される、いかにも日本人が名づけた…、「グループ・サウンド」全成の時代でした。
受験勉強に専念するように…との配慮か、学校行事の多くが前に、前に実施されるようになり、2年生の終わりか、3年生の始めに九州への修学旅行があったようです。大阪港天保山から九州へ向かう関西汽船、往路の夜景か、それとも復路の景色だったのか、皆んなで眺めている時に船内に流れていたのか、皆んなで歌ったのがワイルド・ワンズの『思い出の渚』でした。
ワイルド・ワンズとは、加山雄三が名付け親で、マーロン・ブランド主演映画:『乱暴者』の原題:『THE WILD ONE』からの借用と思われますが、映画の内容は後の『Hells Angels』につながる暴走族の話で、加山雄三のひと世代前、石原慎太郎の『太陽族』(その弟:裕次郎主演で映画化)と同時代の映画でした。石原慎太郎の『太陽族』〜加山雄三〜ワイルドワンズに始まった「湘南」サウンド、「輝く太陽と青い海」の湘南大衆文化は、兵庫県伊丹市に住む高校生には大いに魅力でした。
ビートルズの熱狂的ファンだった彼は既にこの世にはなく、見ることが叶わなかったビートルズのメンバーの一人、ポール・マッカートニーの大坂公演の日、ワイルド・ワンズの加瀬邦彦さん死去のニュースでした。
ご冥福をお祈りします。
私は、彼ほどにはビートルズのファンではなく、ヨーロッパよりもアメリカの音楽、早い話が「アメリカかぶれ」、このブログで幾度となく紹介しているように、ビーチ・ボーイズのファンでした。ビートルズにせよ、ビーチ・ボーイズにせよ、世界の大衆音楽の頂点に立つバンドで、彼等を追いかけるように、日本でもスパイダーズ始め、多くのバンドが結成される、いかにも日本人が名づけた…、「グループ・サウンド」全成の時代でした。

ワイルド・ワンズとは、加山雄三が名付け親で、マーロン・ブランド主演映画:『乱暴者』の原題:『THE WILD ONE』からの借用と思われますが、映画の内容は後の『Hells Angels』につながる暴走族の話で、加山雄三のひと世代前、石原慎太郎の『太陽族』(その弟:裕次郎主演で映画化)と同時代の映画でした。石原慎太郎の『太陽族』〜加山雄三〜ワイルドワンズに始まった「湘南」サウンド、「輝く太陽と青い海」の湘南大衆文化は、兵庫県伊丹市に住む高校生には大いに魅力でした。
ビートルズの熱狂的ファンだった彼は既にこの世にはなく、見ることが叶わなかったビートルズのメンバーの一人、ポール・マッカートニーの大坂公演の日、ワイルド・ワンズの加瀬邦彦さん死去のニュースでした。
ご冥福をお祈りします。
April 15, 2015
「芭蕉」を振り出しに

気になったのが、芭蕉の出自は伊賀国の「無足人」だった、ということです。古代、荘園制度の崩壊に連れて、伊賀国では、村々の自治が「惣」という共同体で行われるようになり、戦国期には「伊賀惣国一揆」を持って守護大名の支配に抗したが、織田信長の二度に渡る伊賀討伐で壊滅します。「本能寺の変(1582)」、堺に逗留していた家康はわずかな供回りとともに決死の逃避行を敢行、その際、彼等「伊賀衆」は家康を護衛して無事岡崎まで送り届けます(「伊賀越」)。
諜報活動、破壊活動、浸透戦術、暗殺等、「忍者」の能力を鍛錬、この「惣」を担ってきた彼等「伊賀衆」を、藤堂藩は、禄はないが苗字帯刀を許すという、「無足人」という特権農民制度を設け、治安維持、有事の補助的防衛力として活用しました。因みに、「服部半蔵」としてよく知られる服部半蔵正成は家康に仕えた伊賀同心の支配役の武士にて、蛇足ながら半蔵門は彼の名前に由来、彼もまた伊賀服部氏の出自でした。徳川幕府が江戸に開かれ、下級の「伊賀衆」は御庭番・公議隠密として重宝されることになります。芭蕉=忍者説はこの辺りから出たのでしょう。

「忍者」と「猿楽」をさらに遡ると、6世紀頃に渡来した渡来人集団:秦氏に辿り着きます。大陸の機織りを伝えてヤマト朝廷に仕えた「ハタオリベ」が、後に「ハットリ」に転化しますが、服部氏と秦氏は同根でした。秦河勝(かわかつ 生没年不詳)は秦氏の族長であったとされ、聖徳太子の側近として活躍しました。彼等は機織り・鉱山・土木・稲作・醸造・養蚕・陶磁器・冶金の技術に優れた技術者集団であったし、音楽・舞踊・操り人形・軽業・催眠術・医術・占い・手品・幻術・奇術・魔術を行う集団でもありました。彼等は一度に大挙して渡来したのではなく、初期の渡来人は技術者集団として迎えられて高い地位に付いたが、渡来を重ねるごとにその職種は多義に渡るようになった。遅れてやってきた渡来者は東国に開拓民として移住させられた例もあり、もはや収容しきれなった者は各地を放浪するか、権力の及ばない所に逼塞せざるを得なかったのでしょう。彼等が、「人々を欺瞞し、時には魅了する」能力とは、言葉を換えれば「忍術」や「芸能・芸術」ということになります。ついでながら、芭蕉の姓「松尾」も秦氏に繋がります。
431年、東ローマ帝国のコンスタンチノープル、「マリアは神の容器であったかも知れないが、神の母ではない」と主張するネストリウスは神学論争に破れ、異端とされた。ネストリウス派(=東方教会)はペルシャ帝国へ逃れ、ゾロアスター教とも交じり合い、後にはペルシャ文化の中核となる、7世紀ごろには中国へと伝わり、唐代(618-907)の中国においては景教と呼ばれた。秦氏は古代キリスト教であるネストリウス派(景教徒)でした。漢民族はローマを中心とする勢力圏を「大秦」と呼び、後に秦氏が秦・始皇帝の子孫と称したのは、こうした経緯があったのでしょう。洛西、太秦広隆寺にある秦河勝像は明らかにモンゴル系の造作ではない、とは司馬遼太郎の言。キリスト教・ユダヤ教・ゾロアスター教・仏教・道教、この地に至るまで各地の土着信仰に加えて日本の神道と、ここに至る長い旅路のフィルターを経ており、その原型を探るのは極めて困難です。
インド北部に生まれたとするジプシー、西へ向かうとヨーロッパ、スペインのフラメンコもそう、彼等が移住したアルゼンチンではタンゴという文化が生まれました。ネストリウス派と出会って、あるいはその後を追いかけるように、東へ向かったジプシーは唐の時代の中国に入り、秦氏一族とともに、東の果て、倭国に到達、傀儡(くぐつ)、今様、大道芸人、忍者、西宮神社のえびっさん、近松、芭蕉につながりました。
以前も紹介しましたが、最後に、スペイン人、サラサーテが作った「チゴイネル・ワイゼン(Zigeunerweisen ドイツ語で「ジプシーの旋律」の意味)」をお聞きください。どこか…、近松、芭蕉につながって聞こえませんか。
参考資料:広瀬久也『人形浄瑠璃の歴史

I appreciate YOUR SUPPORT. ▼ 皆様のご支持をお願いします。