March 2015

March 27, 2015

散歩の途中<10> こぶし公園

 季節の回り舞台は巡ってきました。去年は、『蝉しぐれ』のタイトルバックの「五反田の畦桜」、続いて「秘密の花園」のシャクナゲの群生には感激したのですが、今年はこれに加えてもう一つ、「こぶし公園」をご紹介しましょう。

 「こぶし」は「辛夷」あるいは「拳」という漢字を書くそうですが、中国語で「辛夷(シンイ)」は木蓮(モクレン)を意味し、日本語の「拳(こぶし)」は子供の握りこぶしに似ていることに由来するそうです。「辛夷」、からい・つらい東方の未開人・野蛮人、という漢字が気になりますが、「辛」は同音の「新」につながり、植物が枯れて新しい世代が生まれようとする状態を意味するそうです。ひょっとしたら、東方の野蛮な未開地から渡来してモクレンになったとか…?、日本の「こぶし」が原産かも知れませんよ。

 遠くから見ると桜に似て、桜よりも早く咲くことから北海道では「ヒキザクラ」、「ヤチザクラ」、「シキザクラ」などと呼ばれ、これが咲き始めると田植えや種まきを始める地方もあり、「タウチザクラ」、「タネマキザクラ」と呼ばれるそうです。

 「五反田の畦桜」及び「秘密の花園」は少々遠いのですが、この「こぶし公園」は団地の中、自宅から歩いても10分ぐらいでしょうか。
こぶし公園

 今日あたり、コブシはかなり散っているかも…、次は桜、シャクナゲと、舞台に立つ主役も替わっていきます。
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March 11, 2015

平安末期末法の世 山城国日野

深い森 2012年6月、わずかながらも復興に寄与すればと思い、白河関を通って会津若松に旅しました。 平安中期、能因が、平安末〜鎌倉初期、彼の跡を追って西行が、そして江戸期には、二人を追って芭蕉が通過した白河関、私にとってはこれが二度目の訪問でした。その年の大河ドラマが『平清盛』だった故か…、空堀が巡らされた古代の砦・柵の跡に一人立つと、そこは『平家物語』の世界です。

 「一ノ谷の戦い(1184)」で捕虜となった平重衡は、 鎌倉からの帰路、同じく「壇ノ浦の戦い(1185)」で捕虜となった妻:輔子(ほし/すけこ)が姉の居所に隠棲していると耳にします。「もしや…、会えるかも…?」と、待っている妻。 果たして、一行が日野に差し掛かった時、「この近くに妻がおりますので、今一度対面したく〜」と重衡、警護の武士は涙して夫婦つかの間の再会を許します。『平家物語』、感動的な場面の一つです。

 重衡夫婦が再会を果たした山城国日野、奈良の春日野の地に似ているという理由で当初、「春日野」と名付けられました。日野氏の始祖:藤原真夏を祀った萱尾神社の前に「春日野」と記した標識を建てたが、ある日、一匹の鹿が現れ「春」の一字を喰いちぎって行ってしまいました。以来「日野」のニ文字だけが残り、そのまま地名となったと云います。

 保元・平治の乱(1156/1159)、安元の火災(1177)、治承の辻風(1180)、福原遷都(1180)、治承・寿永の乱(1180〜1185)、養和の飢饉(1181)、元暦の大地震(1185)…、立て続けに起こった天変地異と戦乱、人々は世界の終末:「末法」の到来に怯え、極楽浄土への往生を求める浄土信仰が大流行します。朝廷・貴族が衰退して武家が台頭、一方では、既存の仏教に対抗する新しい仏教勢力が増大、価値感が一変する大変動の時代でした。

 朝廷と姻戚関係を結び、 摂関政治を続けてきた藤原氏にすれば、重衡はその藤原氏の氏寺:奈良「興福寺」焼き討ちを指揮した重罪人、その重衡が藤原氏日野家の拠点:日野を通るのも因縁があったのでしょう。「法界寺」は真夏の孫:家宗が建立した日野家の氏寺ですが(薬師信仰)、この時代、末法思想の大流行を受けて阿弥陀堂が建てられ(阿弥陀信仰)、浄土真宗の開祖:親鸞は日野有範の子としてこの「法界寺」に生まれました(1173 〜1262)。

 仏教で云う「無常」とは、宇宙・万物の哲理・原理であり、「奢れる・奢らざるに拘わらず、全てに等しく永遠ではない」のですが、『平家物語』では「奢れる者は久しからず」になってしまいます。前者は感情の入る余地のない根本原理・宇宙の法則、日本の「無常」は極めて情緒的、桜は散り際が美しいなど、桜の花を愛でるにもその美しさだけでなく、変わりゆく=うつろいゆく=「無常」に愛惜を感じるのです。

 下鴨神社の神事を司る神官の次男として生まれた鴨長明(1155 〜 1216)は、 和歌・音楽(琵琶)を学び、歌人として活躍していましたが、神職としての出世の道を閉ざされ大原にて出家(1204)、後にこの日野「法界寺」の奥に「方丈庵(一丈四方の庵)」を結びます。既に武家の時代、鎌倉幕府三代将軍:源実朝に面談して帰国後、『方丈記』を完成します(1212)。

 この時代、日野が何かと重要な舞台の一つでした。『方丈記』に関して書こうと思いましたが前段の時代背景だけに終わってしましました。私の書斎

 私の部屋はほとんど長明の方丈庵と同じ、音楽もほとんど同じで、上手くはありませんが、ギターを彈きます。残念ながら和歌、文学の素養はありません。
 

 東日本大震災で亡くなられた方々の御冥福を心からお祈りします。

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March 01, 2015

明治人 柴五郎

 友人と呼ぶにはおこがましいのですが…、人生の大先輩との話は柴五郎に及びました。私の柴五郎に関する知識と言えば、中学生の時に観た映画: 『北京の55日 55 Days at Peking (1963)』がほとんど全てでした。

 舞台は清末の中国、北京の外国人居留地、義和団に依る外国勢力排斥運動が暴力化、孤立無援の混成外国人部隊が、 チャールトン・ヘストン演ずるアメリカ海兵 隊少佐:ルイスの指揮の下、女性や子供を守って55日間の籠城戦を戦い抜いたというスペクタクル映画でした。伊丹 一三(当時28歳? 後に「伊丹 十三」と改名)が演じた日本陸軍中佐が柴五郎、実はその彼が11カ国混成部隊を指揮して戦い抜いたのでした。世代の違い故か…、 残念ながら、大先輩はこの映画:『北京の 55日』、況や、ブラザーズ・フォアが歌った主題歌をご存知ではありませんでした。
Itami in the movie 55 days at peking
 
 会津藩士の家に生まれた柴五郎は10歳の時、会津若松城は 落城、祖母・母・兄嫁・姉妹が自決、戦後も下北半島斗南移住など辛酸をなめる生活を余儀なくされます。あるとき、肥後熊本旧細川藩の出身の野田豁通の知遇を得て陸軍幼年学校に入学(1873)、陸軍士官学校に進み、1879年、陸軍砲兵少尉に任官、同期には秋山好古(騎兵)が居ます。

 陸軍少佐、イギリス公使館付武官の時、1898年、「米西戦争」が勃発、彼は観戦武官としてアメリカに派遣されます。その時に海軍から派遣されたのが秋山真之で、前述の通り、真之の兄は陸軍士官学校の同期生でもあり、柴五郎と秋山真之も同じく親しい間柄であったろうと思われます。柴五郎が、この時代のアメリカ軍を「弱い」と報告したことで、後々まで「アメリカ軍は弱い」という固定観念に繋がったと云う説もあるようで、このあたりが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で柴五郎が無視されたように映る理由の一つにも感じてしまいます。

 陸軍中佐、北京大使館付武官の時、1900年、「義和団の乱」が勃発、柴五郎は実質的な総指揮官にして55日を闘い抜き、乱後、ヨーロッパ各国から勲章を授与され、一躍時代の英雄となります。籠城戦の総指揮をとったイギリス公使:クロード・マクドナルド(Claude MacDonald)は後に在東京イギリス公使(後に大使)となって強力に「日英同盟(1902)」締結を推進します。その影に柴五郎の人格・魅力そして卓越した能力があったはずです。日英同盟締結も『坂の上の雲』の要の一つ、その陰の主役:柴五郎の影はやはり薄いようです。

 賊軍・逆賊と呼ばれた会津藩出身の柴五郎は、1919年、遂に陸軍大将まで上り詰め、その後退役して1941年、あれだけ世界・日本の耳目を集めてきた英雄が、真珠湾攻撃成功に「万歳を叫び、狂喜感涙」して対米戦を推進、1945年の玉音放送を聞いて「さきに戦局の順調なる時に生の終わりざりしを恨む」と切腹を計りますが、老体であった故か、不首尾に終わります。その傷がもとで病死、享年87歳。その死に方によって、柴五郎の一生が台無しになったり、あるいは、それまでの評価が下がるとは思いませんが、正直に言えば、後に生きる人間としては知りたくない、見たくないところです。


 お借りしていた柴五郎の本を返しに伺った大先輩、先ほど話していた秀吉・利休に戻り、秀吉はいい時に利休に死を与えた、とは二人の結論でした。

堤(ひっさ)ぐる 我が得具足の一つ太刀 
 今この時ぞ 天に擲(なげう)つ

参考資料:石光 真人『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』 、村上兵衛 『守城の人―明治人柴五郎大将の生涯 』
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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