February 2015

February 23, 2015

神田の水で産湯を使い…

井戸端会議 時代劇や時代小説、特に、職人や商人など、江戸庶民の暮らし、人情を描いた市井小説には、文字通り、長屋のかしましい女将さんたちによる「井戸端会議」の様子が描かれています。この「井戸端会議」の「井戸」、ずっと長い間、地下水を汲み上げる井戸、と思っていたのですが、実は大きな間違いでした。

神田上水 1603年、徳川幕府開幕当時、京の人口:30万〜40万、大坂:20万に対し、江戸はわずか15万人の新興都市でしたが、1635年、参勤交代が始まると、一挙に28万に膨れ上がります。江戸は海辺を埋め立てて作られた町、井戸を掘っても十分な飲料水を確保することが出来ず、1629年、井の頭池を水源とする「神田上水」が造られました。16世紀、後北条氏の小田原城下に飲用水を供給した「小田原早川上水」が最古と考えられていますが、秀吉の「小田原征伐」に参陣した諸大名が自領に持ち帰った例が多く、家康もその一人でした。時代劇で目にする「井戸端会議」、あの井戸の地下には上水道が張り巡らされていた…とは驚きです。

 1637年の「島原の乱」を最後に、15世紀後半から続いてきた戦乱が終わり、平和が実現して商品経済が発展します。失業した武士は支配階級として生き残りますが(全人口の5〜7%)、次第に貧困化しながらも儒学などの勉学に励み、武士特有の倫理観を洗練化・研磨して行きます(「武士道」の完成)。一方、最下層の商人(=町人)は権力を手にすることはありませんが、次第に豊かになって行きます。豊かになった町人は遊芸=趣味、遊里と芝居に走り、奢侈の誘惑に抗する(ピューリタンと似た)「勤勉と禁欲」を生活倫理とする町人社会、洗練された「元禄文化」に発展していきます。「富」と「権力」の分離は同時代のヨーロッパには見ることが出来ません。

 趣味としての「遊芸」、歌道・音曲・仕舞…等の稽古事・芸事は芸術・文学・科学技術の領域にも及び、極端には、精進して遊芸で身を立てなければならなくなった町人は「町人失格」と見なされ、何事もそこそこの…、よき人付き合いの為の、分相応の「遊芸」が理想とされました。しかし、「島原の乱」で鎖国は強化され、町人の活躍の場を国内市場に限定されることになり、彼等の鬱積が利益を生まない「遊芸」に入れあげる(?)ことになります。

 「万葉集」以来の「和歌」は、上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を交互に別の人がよみ続ける「連歌」という形式になり室町時代に全盛となりました。この連歌から「俳諧連歌」が生まれました。 年寄りの徘徊ではありません。俳諧は滑稽という意味で、決して修身の道ではなく、機知と笑いをねらった言葉遊びがその始まりでした。出題された七・七の短句(前句)に五・七・五の長句(付句)を付ける「前句付(まえくづけ)」に熱狂、いかがわしい射幸心を煽る博打同然と見なされ、俳諧師の地位は極めて低いものでした。

 平和な世の中、退廃・奢侈の集積が進む江戸、人口の急激な増大で、「神田上水」は何度も改修工事が行われました。1677年には、水道橋辺り、小石川北岸の石組み、木樋の改良工事など大規模な改修工事が行われました。伊賀上野を出て日本橋小田原町に移り住んだ桃青、後の松尾芭蕉もこの工事に携わりました。

 関西育ちの私、フォークの「神田川」までは知っていましたが、江戸っ子自慢の「神田の水で産湯を使い…」、何が自慢なのかやっと判りました。

参考資料:田中善信『芭蕉 二つの顔』  守屋毅『元禄文化』  徳川恒孝『江戸の遺伝子』  嵐山光三郎『芭蕉紀行』

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February 12, 2015

波濤の彼方では

 小田原後北条氏を滅ぼし、家康を関東に移封、天下統一を果たした1590年、秀吉54才、なぜ彼は明に侵攻しようとしたのか(文禄・慶長の役 )…、「精神の病」、「狂気の沙汰」としか言いようがありません。信長の後を継ぎ、階段を上り詰めた秀吉は絶頂にあり、もはや次に上るべき階段もなく、振り返って見ると、信長以来の盟友・同士:利休は自刃、もうこの世には居ません。

 日本の歴史を通して、天皇家を中心とした血筋の権威、その権威の信仰を受けた社寺の権威に権力が集中しました。武門・武家である源氏・平氏は、臣籍降下により、それぞれの祖と仰ぐ天皇の号をもって氏族の称としました。主に清和源氏をして源氏と称し、桓武天皇の孫が平氏を称しました。

秀吉が小田原攻めの時、鶴岡八幡宮の源頼朝の木像に向かって、 「わしは、貴方とは違い、元々は卑賤の出、氏も系図もない男だ。だからこのように天下を平定したことは、貴方よりわしの功が優れている」と木像の肩を叩きながら言ったと云います。清和源氏直系の頼朝が開いた鎌倉幕府に始まる武家政権は、その後の室町幕府、戦国時代を経て、徳川幕府までの約7百年間続きます。その間、例外だったのは戦国時代、秀吉が頼朝像に語りかける通り、血筋とは全く関係なく、卑賤の身から実力のみで這い上がり、乱世を乗り切ったのは秀吉でした。彼は「天才」と云ってもいいでしょう。

 南北朝の動乱の時期に発生した「婆娑羅(ばさら 梵語(サンスクリット語)のvajra = 金剛石(ダイヤモンド)が語源)」は身分秩序を無視した実力主義、公家や天皇など旧い・伝統的な権威・血筋の権威を否定して、新奇・異風異体なる美意識を持ち、後の戦国時代における「下剋上」につながっていきます。公家から権力を奪取した守護大名・武士はパッとでの成り上がり者で、詩歌管弦などの公家の教養はありません。「寄合(=相談)」は後の「一揆」につながるのですが、その彼等の間に広まったのが中国から舶来の茶器=唐物を用いた「喫茶」という、教養のあるなしに拘わらず、誰にでも参加できる「茶寄合」に発展していきます。
南蛮人渡来図
神戸市立博物館 南蛮屏風
 戦国の時代、「数奇」は「好き」の当て字、本来なら和歌を指した「風流」「風雅」の意味を加えて、「茶の湯」を指すようになりました。「茶の湯に習いはない」とは利休の言、 「茶の湯」の世界に起こった革新が、流行が流行を呼んで、極めて短期間に中世の文化・生活を覆して、遠くにあった「近代」を一気に手繰り寄せました。過去の習慣やしきたり、伝統的権威、社会的制約・束縛にとらわれることなく、「欲するがままに」行動するするのが「数奇」でした。戦国騒乱、社会の大変動の時代、自分の自由意志で行動する新しい人間が誕生しました。

 1587年、秀吉は北野天満宮の境内において、「北野大茶の湯」を催し、これが秀吉と利休、蜜月の頂点となります。信長亡き後、秀吉は革命の同士:利休と共に階段を登ってきたのですが、頂上が見え始めてもなお、利休は次の高みを目指して登っていこうとします。国内の敵対する勢力は全て秀吉にひれ伏した今、彼の「天才」が通じない…学問や教養、文化的価値、美術的価値に重きを置いた平和な世界がやって来るのでは、そんな世界がやって来れば彼の居場所・存在価値はなくなってしまいます。利休の世界に、秀吉は大きな「不安」を感じ、革命同士:利休を排除する頃には既に精神の変調をきたし、明に侵攻しようとした「文禄・慶長の役」は正に狂気でした。 1598年、秀吉62歳、醍醐寺三宝院でにて盛大な花見を開催…、そして死没します。

 今日に云う日本文化・日本的生活様式とは「茶の湯」「数奇」で体系化されたものです。「安土桃山文化」は「元禄文化」に続き、さらに近代を力強く手繰り寄せます。「茶の湯」「数奇」の時代、波濤の彼方ではルネサンスの時代でした。…気になるところです。

参考書:増渕宗一『茶道と十字架 』 村井章介『南北朝の動乱』 児島孝『数寄の革命』 横山 紘一『旅の博物誌』 徳川恒孝『江戸の遺伝子』

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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