January 2015

January 27, 2015

やっと終わりました…、「餅つき大会」

我々おやじバンドのリード・ギター担当、Nobuさんはもう一つのバンドにも参加、ペダル・スティールを弾いています。そこでは各人の技量も上で、金額の大小はともかく、お店から出演料がもらえるほどの技量のバンドとは、かなりなレベルです。素人バンドが出演料を払ってステージに立つのはカラオケや他の習い事と同じ、そこそこ上手くなると出演料は無料なのですが交通費他は自前、我々のバンドはこのその中間ぐらいでしょうか。Nobuさんの参加するもう一つのバンド練習とは、それまでは各人・各パートが家でそれぞれ練習してきたものを集まって「音合せ」をするだけが原則だそうですが、我々のそれは、特に私のレベルが低いために、集まった時に、二人に私の誤りを訂正してもらうことから始まってしまいます。

自分の好きな楽曲を演奏するだけでなく、集まることそのものに楽しみを感じるバンドでやって来ましたが、最近は「手前よがり」な選曲は止めて、出来る・出来ないの前提はあるものの、聞く人が良く知っていて一緒に歌える、例えばThe Beatlesの曲を演奏しようと努めるようにしています。

 彼のもう一つのバンドの「音合せ」、出演料の入るステージのための「本気度」は高く、我々と同じく日曜日が活動日とくれば、その活動を優先しなければなりません。そんなNobuさんから、「最近、(Isaoは)管理組合の活動を楽しんでいるように見える」の一言。確かに、以前のバンドにかけるエネルギーの一部は管理組合活動に費やされているのかも知れません。順番で廻ってきた副理事長の仕事、やるからには、今までお世話になって来た地域への恩返しという意味で、一生懸命に、1年間は頑張ってみることにしたのです。何も他人様だけの為にやっているのではなく私自身のためにもこの副理事長を頑張ってやっているのです。やるからには楽しくやらなければなりません。

【号外】餅つき大会のお知らせ この時期に行われる最大行事、私にとっては初めての「新年餅つき大会」でした。去年・おとどしはノロウイルスの流行で中止、なまじ保健所に相談したら今年も中止になったでしょう。このような行事には必ず名人が登場、餅つきの名人・とん汁作りの名人・甘酒作りの名人…、名人は各持ち場を取り仕切り、また取り仕切ってもらわないと事は始まらないのが事実ですが…、それが次の世代に引き継がれているのならともかく、毎年ほとんど同じメンバーが名人として活躍しています。久しぶりにやって来た孫の世代=小学生以下の子供たちには「餅つき体験」も喜ばれるでしょうが、彼等の父親、引き継ぐべき我々の息子の世代がコミュニティの外に出てしまっている今、名人の選手交代はなく、あるのは名人の高齢化です。「夏祭り」と同じく、「餅つき大会」もおっつけ開催は難しくなるでしょう。

 戦前、修学旅行に行けなかった世代が上司になって始めた社内旅行が嫌われて熱海の温泉街が衰退し、次の「団塊の世代」と呼ばれる我々は、近所付き合いを「おせっかい」と嫌って田舎を出て都会の集合住宅に住むようになりました。その世代に属するバンドのNobuさんが、都内から縁のある熊谷市に移住してかなりの年月が過ぎましたが、一戸建て故か…、古い「しきたり・おきて」が色濃く残っているようです。近所づきあいは苦痛だそうで、すでに始まっている高齢化の問題、それを解決するのは市町村・地方自治体の仕事と云います。最終的にはそうなるでしょうが、私は町田市の団地=集合住宅に住んでおり、同じ世代ながら自分たちが渦中の高齢化問題解決の鍵はコミュニティに在るのではないかと思っています。
150214餅つき_こね
大部分を占めるであろう無関心な住民が大きな鍋を持ってとん汁と餅を求めてやって来ます。コミュニティを作るために催した「餅つき大会」なのですが、そこには住民が餅・とん汁を食べながら談笑する光景はなく、彼等はそそくさと家に帰って、その日の昼食か夕食に食べることになります。「餅つき大会」の名人芸、パフォーマンスの舞台を設けたただけで、コミュニティの醸成そして無形文化遺産(?)の次世代への継承にはあまり意味がなかったように思えます。主催者側内部の、協力して大会を成し遂げたという一体感だけが唯一の収穫でした。

 我々おやじバンドは変わろうとしています。理事会は計画・準備に多くの時間を費やしましたが、これが理事会がすべきことだったのか…、他に本来やるべき喫緊の課題があるのでは…、大いに疑問の残る「餅つき大会」でした。

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January 21, 2015

エカテリーナ大帝

 北ドイツ(神聖ローマ帝国 現在のポーランド)、プロイセン軍少将の娘に生まれ、ルター派の洗礼を受けた彼女は、14歳の時(1744)、ロシア皇太子妃候補の一人としてペテルスブルグに至り、猛勉強してロシア語を習得、ロシア正教に改宗、エカテリーナに改名して、皇太子:ピョートルとに結婚します(1744)。エカテリーナはロシア人になりきることで貴族・民衆の支持を徐々に獲得していったが、反対に、皇帝に即位した(1762)夫ピョートルはますますドイツ(プロイセン)にかぶれ、知的障害もあって、貴族・民衆の支持を失っていった。皇后となったエカテリーナはロシア正教会・近衛連隊の支持を得てクーデターを敢行、夫ピョートルの皇帝の地位を剥奪して幽閉、1762年、女帝として即位します。

 啓蒙思想の崇拝者でもあり、ロシアの後進性は農奴制にその原因があると見た彼女は農奴制改革を試みるが、その農奴制に立脚するロシアの貴族制、ひいてはロマノフ王朝の存立にも絡む問題でもあり、抜本的な改革には至りませんでした。全土を50の県に分割、3百ヶ所に小学校を設置、病院・診療所の設置などの改革を行ったが、何事も貴族=現状維持勢力との同意・妥協が必要でした。

エカテリーナ 60歳をすぎても愛人12人を持ち、政治には一切口出しはさせず、男すら手球に取った女帝ですが、ただ一人、前夫ピョートル皇帝を廃位・幽閉(暗殺?)のクーデターに加わった近衛連隊の一員、10歳年下の、グレゴリー・ポチョムキンと極秘裏に結婚、私的関係だけではなく政治・軍事面でも絶好なパートナーであり、対外拡張を推進してポーランド分割占領、黒海に南進してオスマン帝国と衝突:「露土戦争(1768〜1774、1787〜1791)」に勝利してクリミヤ半島を占領(1788)、セバストポリ軍港、これを母港とする黒海艦隊を建設したのです。「悪魔」と呼ばれたポチョムキンをパートナーに、エカテリーナは史上最大のロシア領土を築きました。

大黒屋光太夫 1791年、ペテルスブルグ、絶頂の女帝:エカテリーナがエルミタージュ宮で謁見したのが大黒屋光太夫でした。彼は伊勢国から江戸へ向かう駿河沖で暴風に遭い、苦難の末、遣日使節:アダム・ラクスマン一行の船:『エカテリーナ』に乗り、1792年、遭難して10年後、根室の地に生還したのです。鎖国を国是とする幕府との最初の外交接触でした。

同じ年、1791年、ポチョムキン死去。前後して、フランス革命(1789)が勃発、1793年にはルイ16世が処刑され、ヨーロッパ絶対君主制終焉、革命思想の流入、農奴の反乱、反体制家のシベリア流刑の時代を迎えます。そんな時代の1796年、エカテリーナは死去、34年の治世でした。

 時代は下って、1853〜1856年、「クリミヤ戦争」でロシアは破れ、西欧列強(英仏露)がこの戦争に目を奪われている間に、新興のアメリカはぺりーの対日砲艦外交に成功(「黒船来航(1853年) 幕末の始まり」)、クリミヤ戦争敗北で、ロシアは南進政策の舞台を、クリミヤ半島・バルカン半島から満州戦艦ポチョムキン・朝鮮半島に移します。これが、後の「日清戦争(1894-1895)」、「日露戦争(1904-1905」につながって行きます。1905年5月、「日本海海戦」にてバルチック艦隊が壊滅、続く6月14日、エカテリーナの愛人の名を冠したロシア黒海艦隊戦艦:「ポチョムキン」にて水兵に依る武装蜂起が発生、革命の狼煙が上がります。

 エカテリーナはロシアの文化・教育、後世のロシア文学発展の基礎を造った人であり、ボリショイ劇場、エルミタージュ宮殿、後の美術館は彼女の功績であり、ロシア人にとって彼女は、ピョートル1世と並び、大帝(ヴェリーカヤ)の称号が冠される女帝でした。彼女は日本の歴史にも少なからぬ影響を与え、ロマノフ家の血統でないどころか、ロシア人の血さえも引かない、我々の想像を絶する大帝でした。

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January 11, 2015

一年の計?

早朝の神明神社

 一年の計? 今まで実行出来た例がなく、考えることすら時間のムダです。

 昨年は「官兵衛」に始まり「利休」、友人の住む伊賀上野は「芭蕉」生誕の地、話を合わせるためにも、「芭蕉」を勉強しなければなりません。そこで知り合った友人のまた友人に連れられ、箱根峠を東西から挑戦しました。元ワンゲルの「スジがいい」の一言に乗せられてトレッキングシューズを買ってしまいました。

面白いと思ったのは…、箱根から碓氷に至る山塊の東に「一所懸命」と「名こそ惜しけれ」、極めて合理的な論理とその行動を支える倫理観を備えた、牧場開拓者:独立自営農民:「武士」が誕生、後に鎌倉幕府という半独立国家が誕生したのは日本史上の奇跡ですが、その後の歴史の中で、この精神性が出現するのは、関東ではなくて、遠く離れた…よりによってと言うか、利に敏い上方:摂津(今日の大阪・神戸)に近い播磨国だったというのは興味深いことです。母里友信を歌った「黒田節」の真偽はともかく、黒田官兵衛、大阪夏の陣(1614)の後藤又兵衛の去就はその後も日本人男性の理想像とされ、もうひとつ、安土・桃山から引き継がれ元禄文化として開花する上方町人文化、その中で武士階級衰退の歯止めの作用を果たすことになる、「赤穂浪士事件」は明治維新の到来を遅らせた可能性があり、その後の歴史に大きな影響を与えました。例えば、「桜田門外の変(1860)」、雪の朝、その情景がそっくりじゃないですか…。現に、浪士は「赤穂浪士事件」を参考に襲撃を計画、実際の事件は登城途中を襲撃したのですが、事件後、当時の幕府は井伊彦根藩による復讐、水戸藩襲撃を警戒したのです。

 利休はキリスト教信者だったのか? 堺という町はイタリアのフィレンツェ、ベニスのような町で、利休はキリスト教信者だけではなく、ルネサンスの影響があったのでは?歌会でふるまわれた茶が発展したのが茶の世界、利休は芸術家ではあったが、どうも彼が創りだしたものは何もないのでは…?彼は鑑賞眼を芸術までに高めただけではないのしょうか?

 伊賀上野が生誕地であるが故か…、芭蕉という人間が面白そうです。利休・芭蕉のどちらも僧形、禅宗を学んでいますが、この鎌倉時代に入った禅宗というのがどうも曲者のように思えます。俳句など文芸には全く興味がないのですが、人間:芭蕉には興味があります。友人の奥さんは生まれも育ちも伊賀上野、愛着を込めて「芭蕉さん」と呼ぶそうです。これに同じく、好々爺のイメージを持っていたのですが、実は全くちがった芭蕉像があることを知って驚き、このほうがより人間臭いと好感を持った次第です。彼はかなり「やばい」人間のようです。元禄7年(1694)芭蕉が51歳で没して8年後、「赤穂浪士事件」が発生します。
MERRELL Moab GoreTex
 たぶん、今年もダメでしょうが、トレッキングシューズも買ったことですし…、少しでも、彼等の跡を辿りたいものです。

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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