June 2014

June 24, 2014

思わず、「これだ!」…の新曲

 古い話ですが、オーストラリアに駐在したことがあります。ハーバー・ブリッジの北側、ノース・シドニーのビジネス街にあるビルの一角、日本人:3人、オーストラリア人女性:1人の小さな所帯でした。彼女は当時は50歳前後のイングランドからやってきたおばさんで、よく英語を教えてもらいました。赴任した当初、各地で行われる会議に出席するのですが、日本人は私だけ…、私に話しかける言葉は理解できるのですが、私以外は全てオーストラリア人の会議となるとなると話は別、議論に全く追て行けません。会議を録音させてもらい、それを持ち帰って聞くのですが、彼女には大いに助けてもらいました。

 小さな所帯ですので、少し大きな声を出せば全員に聞こえます。当初、彼女にお願いしたことがあります。人に尋ねる場合、言葉を発し、その末尾に人の名前、例えばDave、Mike、Ianを付けて、その人からの反応を待ちますが、その質問に上の空の場合、急に自分の名前が出て右往左往してしまうこともあり、それ以来、話しかけたり、質問する時は、まず最初に、先頭に私の名前を言ってもらうようにしました。

 似たような話で、私は当時も大の「洋楽ファン」、週末・休日に、あるいは出張中のレンタカーの中でラジオを聞くのですが、「これだ!」という新曲を発見(聞いたと)しても、もし、そのタイトルとバンド名が曲が始まる前に既に紹介されているのか…、その曲が終わった後に紹介されるのか…、はたまたそれがタイトルなのかバンド名なのか判りません。『Last Kiss』はそんな曲の一つでした(曲自体は50年代の曲)。

 この前の日曜日、バンドの練習場所のある狭山に向かうKunさんの車の中で、30年ぶりに、「これだ!」という新曲がラジオから流れてくるではないですか。幸いなこバンド名とタイトルとに、ここでは日本のFM放送、次々にかかる曲はアメリカのヒット曲ですが、それを紹介するのは日本語です。30年ぶりに耳にした「これだ!」という新曲、そのタイトルとバンド名は曲が終わってから説明と共に明らかにされました。やはり、日本語はありがたい。

"Don't Know What It Means" by Puss 'n' Boots 
 覚えておられますか? 私の好みは「カントリーぽぃロック」、いわゆるポピュラー・ミュージック業界でカントリーと云えば、今や完全に「古典芸能」、そんな風潮の中で、流れてきた「カントリーぽぃロック」に思わずボリュームを上げてしまいました。説明を聞くと、ノラ・ジョーンズの組んだ新しい3人組女性バンド、さもありなん…、とばかりに納得してしまいました。ご存知かもしれませんが、彼女の父親がビートルズのジョージ・ハリソンにシタールを教えたラビ・シャンカールです。40年前(?)のビートルズの「ノルウェイの森 Norwegian Wood」ではシタールが効果的でした。
 
 機会があれば、この新旧の二曲、我々もやりたいですね。英語に始まり音楽の話になってしましました。

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express01 at 23:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote Music 

June 11, 2014

忍藩士、尾崎石城の絵日記

和田竜の小説:『のぼうの城 (2007)』(同名の映画の公開は2012)は、豊臣秀吉による小田原北条攻めの際、石田三成の水攻めに耐え抜いて城代:成田長親が三成に一杯食わせるという物語でした。その舞台は忍城(おしじょう)、時代は戦国時代末期(1590)でしたが、舞台は同じ武蔵国埼玉郡忍城(今の埼玉県行田市)、時代はそれから270年後の幕末です。蛇足ながら、何時をもって「幕末」というのかご存じですか?実は、私も最近知ったのですが…、1853年(嘉永6)、ペリー浦賀来航以降を「幕末」と呼ぶそうです。1868年の「明治維新」までのわずか15年間が「幕末」という事で、鎌倉以来の武家社会の幕を引く、逼迫した、革命の時代でした。

松平氏所領の忍(おし)藩十万石は譜代の親藩で、歴代藩主が幕府の要職に就いたため、加えて1783年(天明3年)の浅間山噴火と天明の大飢饉などの大被害で藩の財政は困窮していきます。『のぼうの城』の時代から270年後の幕末に入り、ペリー来航に震撼する幕府からは房総、江戸湾お台場の警備を命ぜられ、水戸の天狗党蜂起鎮圧に駆り出され、士気の上がらぬ後詰の兵を出しただけの「鳥羽伏見の戦」では撤退に取り残されて殿(しんがり)を務める羽目に、藩内では百姓一揆、続く戊辰戦争では新政府軍のお先棒を担ぐことになります。忍藩はなまじ譜代だった故か…、やることなすこと裏目、「貧すれば…」、維新の功績もなく、かと云って幕府に殉ずる名誉もなく、まさに良いところなし…、『のぼうの城』とは全く対照的な幕末でした。

忍藩士、尾崎石城は御馬廻役で百石の中級武士でしたが、安政4年(1857年)の29歳の時に建白書を提出して藩政を論じたために蟄居を申し渡され、わずか十人扶持の下級身分に下げられてしまいました。

この時期を年表で見てみると…、1853年:ペリー来航、1855年:安政の大地震、1858年:井伊直弼大老就任、安政の大獄始まる、1860年:桜田門外の変、「万延」と改元、和宮関東降嫁を固辞、1861年:和宮将軍家茂へ降嫁の為江戸へ、1862年:和宮将軍家茂へ降嫁、松平容保京都守護職に就任、生麦事件、1863年:壬生組(後の新撰組)組織される…、まさに激動の時代でした。藩政への建白書の内容は不明ですが、これが原因で下級身分に降格されたのですが、藩政改革に成功した隣国、常陸国水戸を震源地とする尊皇攘夷思想に傾倒したようです。水戸藩は、御三家の一つでありながら、藩政の次は幕政をも改革しようと企み、同じ佐幕の側の忍藩には「水戸学」による「尊皇攘夷」は危険思想でした。

義弟の出立藩・国家の行末を憂う青年らしさだけでなく、読書家でもあり、文才そして画才にも恵まれた彼は絵日記を残してています。文久元年から翌2年、1861から1862年、居候させてもらっている妹の旦那が、皇女和宮が将軍家茂へ降嫁の為、中仙道を江戸へ向書斎かう一行の警護の下命を受け、慌ただしく出立の準備をしているのが唯一その時代を感じさせる絵です紂しかし、居候の身でありながら、読書家の彼は自ら「石城書斎酔雪楼」と名づけた書斎蕕破椶飽呂泙譟∧現餾鄒や添削、絵に彩色を施し、和漢の古典から実用書まで、所蔵する書物は多義に渡り、極めて高い教養であったという。
私の書斎
※茲蓮私の書斎(四畳半?、広さだけでなく、文才・画才・教養と…足元にも及びません)酒宴_1


下級身分は毎日登城することもなく、その日の生活も困る場面もあり、文才そして画才にも恵まれた彼は屏風・提灯・行灯に絵を描き、あるいは彼の書いた文でお金をもらって家計の足しにし…、中級・下級武士の友人、二つ三つの寺の住職の友人、その集まりで得た町人・町衆の友人と…、皆で酒を飲み薛紂仲間内に病人がでたからと看病に行っている。城下なので百姓は登場しませんが、寺を中心とした中流・下級武士、町人・町衆の身分を越えた付き合いは楽しそうで、絵を見ているだけで愉快になります。松平容保が京都守護職に就任、生麦事件、新撰組が組織され…、まさに激動の時代の中で、忍藩もてんやわんや…、尾崎石城を取り巻く世界だけが別世界のようにゆったりとして、和やかです。

年齢は別に、会社にいくこともなく、生活に困る場面もなくはなく、人さまからお金がもらえるほどには文才、画才、音楽の才能にも恵まれず、半径数キロの行動範囲の私は彼の足元にも及びません。

その後、尾崎石城は明治の時代をどう生きていったのか…、興味のあるところです。先輩友人からお借りした、大岡利昭著『幕末下級武士の絵日記 』でした。

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June 01, 2014

ケイタイ・ストラップ  最近、見かけませんね

室町幕府第3代将軍:足利義満(1358 - 1408)は禅宗を保護、優れた禅世界の漢文・詩文・水墨画を生みます。観阿弥・世阿弥父子を保護、猿楽能を大成し、連歌を和歌と同等の地位に引き上げます。鎌倉時代末期から連歌会が一般庶民の間でも盛んになり、同時に連歌につきものの茶道が隆盛、喫茶を楽しむ場を「茶の湯」と呼ばれました。総称して「北山文化」と呼ばれ、8代将軍義政(1436 - 1490)の銀閣寺に代表される「東山文化」へと受け継がれます。

この日本のルネッサンスの如き室町文化の興隆を支えた足利室町幕府の富の源泉はを中国の明との「勘合貿易」の独占でした。新興の武家、そして公家、禅僧らの文化に明貿易による大陸文化の影響の融合が極めて特徴的です。「東山文化」は正に「応仁の乱(1467 - 1477)」の時代、芸術・文化は高揚するが、秩序は徐々に崩壊していきます。婆佐羅(ばさら)と呼ばれる社会風潮・流行が現れ、奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識で時の権威や秩序に反逆、これが戦国時代の「下克上」へとつながって行きます。

室町文化のスポンサー、パトロン:足利室町幕府の富の源泉である明との「勘合貿易」、船荷の一つが大量の錦糸でした。「勘合貿易」で輸入される錦糸には、「絲印(いといん)」と呼ばれる受領印が付けられており、荷受人には錦糸と共に渡され、荷受人発行の受領書に受領印として押印されたもので、毎回異なった手掘りの絵柄で、その使用は一度限り、取引終了後は荷受人に寄贈されました。※今で言う、セキュリティ・トークン(毎回・逐次パスワードが変更されるパスワード発生装置)みたいなものか…。

140601根付男性用の着物で袋等を持ち歩く場合、そこに付けられた紐の他方の端に取付け、帯の上方に出す事によって引っ掛って袋や印籠などが落ちないようにするもの「根付(ねつけ)」と云うらしいのですが(絵を参照)、佐々木道誉のような異国趣味で奇をてらう婆佐羅(ばさら)、洒落者がこの「絲印」を使って「根付」の代わりにしました。戦国期に入ると、婆佐羅(ばさら)の申し子のような織田信長は「傾き(かぶき)者」と呼ばれるなど、どうも似合いそうですが、彼の後を継いだ豊臣秀吉はこの「絲印」の蒐集家だったそうです。

Book_Netsuke秀吉の後を継いだ徳川家康は大の薬愛用家、諸大名にも推めて廻った(「根付け!」)のがその名称の起こりとか…ほんまかいな?、薬の携帯に「印籠」考案され、「根付」と「印籠」は一体となった由。武士、公家、禅僧から始まった室町文化は、安土桃山を経て、今や支配階級だけでなく、茶人・商人・町人までに及びました。近代に入り、洋服の普及とともに「根付」は減少、その多くが国外に骨董的蒐集品として流出してしまったそうです。

覚えておられますか?何年も前、カラケーが華やかなりし頃、皆さん、自慢気にジャラジャラと、携帯にストラップを付けていましたね?あのストラップ…、室町時代、「東山文化」、「応仁の乱」の時代、「勘合貿易」まで遡ることができるのですね。すごい話とは思われませんか?私はそれを知って、黒田官兵衛も千利休も忘れて、久しぶりに感激してしまいました。

あのストラップ、最近見かけませんが、どうしてしまったのでしょう。今のスマート・フォンにはストラップを通す穴さえもありません。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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