March 2014

March 31, 2014

Maruさん、ありがとうございました

Nobuさんとデュオを始めたのが2007年、しばらくしてKunさんがドラムで参加、そして最初のステージが東松山のライブ・ハウス:「イマジン」、2011年10月29日でした。同じく、「スタジオ・ワン」でのライブの前に参加したのがベースのMaruさんでした。

Live at Studio Oneライブハウスに出演する方々の多くは、昔プロの演奏家だったが、これでは食べてはいけず、サラリーマンをやりながら、あくまで趣味として楽器を弾く人が多いようです。さすがに昔プロ、我々が逆立ちしても彼等の真似はできません。楽器の技量はその通りですが、彼等の多くは歌手のバックバンドは出来ても、概して、歌うことがその楽器ほどには上手くはないようです。昔は今ほどにカラオケが普及しておらず、歌い手のバック、伴奏という仕事が多くあったのでしょう。我々の場合はあくまで、子供の頃から洋楽が好き、洋楽にかぶれ、歌詞の意味も判らずに歌っていた始末、この歳になって…「ナーンダ、こんなことを歌っていたのか。」とこの歳になって始めて意味を知ることも稀ではありません。「洋楽かぶれ」なんですから、上手くはありませんが、それなりに歌うことは出来るのです。楽器では太刀打ちできませんが、それなりに歌い、ただの「3度ハモリ」ですが…、バックコーラスを付けることが出来ます。

私個人としては、以前も書きましたように…、「カントリーぽぃロック」が好み、その逆ではありません。言葉を変えるならば、「ウエスト・コーストぽぃ音楽」で例えれば<The Eagles>、少し毛色が違って「ルーツ・ミュージック」で例えれば<The Band>、どちらも70年代にそのピークを迎えました。好みから言えばこうなるのですが、それじゃ…、その好きな曲を自分で歌う(演奏する)事が出来るか…といえば、話は全く別で、出来ません。「好きな曲と演奏できる曲とは別」、「好きな曲でも演奏できない曲が多い」のはもちろんのことです。

二人でバンドを始めたからか…、新曲の選定はNobuさんか私ということになってしまいます。先ず最初に提案するに当たって、歌えなければ話が始まりません。ブルース、ロックンロール系の多くはNobuさんから提案から始まったもので、それで知った曲、覚えた曲も幾つかあります。もう一つの問題、これが大きいのですが…、Nobuさんは、曲のイントロ〜間奏〜エンディングまで1人で完結することが出来ますが、私には〜間奏〜が出来ません。よって、二人のうち、どちらかが歌えたとしても、Nobuさんの〜間奏〜が出来なければその一曲は完結しないのです。加えて、他の3人のメンバーが知らない曲をやる場合、まず最初にそのやりたい曲を聞いてもらい、同時に、何小節で、どの位置に何のコードがあってその曲が成り立っているのかを示さなければなりません。これが、譜面が読めず音楽知識のない私には苦手です。

「スタジオ・ワン」でのお客さんのウケが良かったのか、以来今までに3回のステージに立たせてもらっています。毎回同じ曲ばかりではお客さんも飽きるだろう…と、1〜2曲の新曲に入れ替えます。従来の60〜70年台の曲を中心にやって来た私にとってはまさに「今」、1998年のビルボード誌で全米一位の曲:『The Way』を、もんた&ブラザーズの『ダンシング・オールナイト』に似たラテン歌謡で必ずウケる…と、新曲に取り上げたのです。バンドのメンバーでさえ誰も知らず、完成度の低いままに臨んだステージでしたが…、結果は案の定、どうもお客さんのノリ…というか反応の悪い結果となってしまいました。二人の好みが大きく反映する我々のステージですが、自分の気に入った曲ばかりやっているだけではだめ、少なくとも繰り返し、サビの部分は客がよく知っている曲でなければウケない、楽しんでもらえないということでしょう。

次のステージを目指して練習する我々ですが、ここに来て大問題が発生しました。メンバーの一人:Maruさんが辞めることになったのです。先日の大雪の際に交通事故を起こして、事故そのものは大したものではなかったのですが、本人は自信を失ったらしく…、しばらくの間バンド活動は休止することにしたのです。事故とバンド活動は全く別のもの、と強く留まることを推めましたが彼の意志は固く…、やる気になったら戻ってきてもらうことで話は落ち着きました。Maruさんとご一緒したのは2年半、いわゆる「カントリー&ウエスタン」の好きで、その几帳面さ・生真面目は彼の書く楽譜、演奏するベースにも現れており、雰囲気・気分だけのいい加減な私とは全くの別人です。

<K.A.Y.A. Band>とは、みんなの頭文字を並べ、勝手に私が付けた名前、その最後の演奏をMaruさんに送ります。ありがとうございました。

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March 22, 2014

何かと因縁のウクライナ、クリミヤ半島

私の過去のブログを振り返ると、ウクライナ、クリミヤ半島に縁のある記事が多いのには書いた本人も驚いてしまいます。

Black_Sea_map
 
1185年、ウクライナ、キエフのイーゴリ候は、 ポーロヴェツ遠征を行い、その時の散文記録:『イーゴリ遠征物語』は12世紀 中世ロシア文学の傑作と云われ、これを原作にアレクサンドル・ボロディンによって書かれたのがオペラ:『イーゴリ公』です。日本では『ダッタン人の踊り』というタイトルが親しまれてきましたが、正しくは『Polovitsian Dances』です。

1223年、ポーロヴェツの地のはるか東より、忽然と、全く未知の軍団が来襲、彼等、モンゴル系遊牧民彼等は「タタール」と呼ばれました。ロシアではモンゴル系であろうがトルコ系であろうが、異民族・異教徒を「タタール」と呼ぶそうです。もの知りな日本人が『ダッタン人の踊り』と訳したのでしょう。1243年、モングル軍はこの地にキプチャク・ハン国を建てますが、ロシア人はこの異民族支配を「タタールの軛(くびき)」と呼びます。ニュースで、「クリミヤ・タタール」という先住民族の存在を知りました。スターリンの時代には、ナチスドイツに通じているという嫌疑でに強制移住させられました。現在一部は帰還しているが、まだ15万人が中央アジア諸国に暮らすといいます。ついでに、あの「タルタルソース」の語源でもあります。

そのエカテリーナ2世の時代、オスマン帝国との露土戦争(1768年-1774年及び1787年-1791年)に勝利してウクライナの大部分やクリミア半島を併合します。1782年、伊勢国の船頭頭:大黒屋光太夫以下を乗せた『神昌丸』は暴風に遭い、アムチトカ島へ漂着します。苦難を乗り越えて、シベリヤ大陸を横断、1791年首都:サンクトペテルブルクに至り、エカテリーナ2世に謁見、1792年、遣日使節:アダム・ラクスマン一行の船:『エカテリーナ』で根室の地に生還します。

1853〜1856年、クリミヤ半島を舞台にロシアとオスマン帝国及びその同盟国:フランス、イギリスの戦い(「クリミヤ戦争」)で、ロシアは破れ、西欧列強がこの戦争に目を奪われている間に、アメリカはぺりーの対日砲艦外交に成功(黒船来航1853年)。この戦争の影響で、ロシアのプチャーチンの日本到着がペリーより一歩遅れてしまいます。クリミヤ戦争敗北で、ロシアは南進政策の舞台を、黒海・バルカン半島から満州・朝鮮半島に移します。

1895年、三国干渉の圧力により、日本は日清戦争に勝利して獲得した遼東半島をしぶしぶ中国に返還、ロシアはそれを租借して旅順港・要塞(北緯39°)を建設します。今回の舞台、クリミャ半島セヴァストポリ(44°)、ウラジオストク(43°)、ナホトカ(42°)しか不凍港を持たないロシアにとっては最南端、「日露戦争」(1904-1905)では日本はその奪還に6万人の死傷者という大きな犠牲を払うことになります。

オデッサの階段_乳母車「日本海海戦」によってバルチック艦隊が壊滅して1か月後、1905年6月、オデッサに停泊中のロシア黒海艦隊(クリミア半島のセバストポリが母港)の戦艦:ポチョムキンで反乱が発生します。第1次ロシア革命における最も重要な事件で、エイゼンシュテイン監督がこれを題材に作ったのが映画:『戦艦ポチョムキン(1925)』です。よく知られている話ですが、「オデッサの階段」のシーンは映画:『アンタッチャブル』で、エイゼンシュテインへのオマージュとして、使われています。

ヤルタ会談
時代は更に下って第二次大戦末期、敗色濃い日本は「日ソ中立条約」に一縷の望みをかけ、ワラにもすがる思いでソ連に連合国との和平の斡旋を依頼しますが、1945年2月、クリミヤ半島のヤルタで行われた通称「ヤルタ会談」にて既にスターリンは対日参戦を約束していました。同年8月、「日ソ中立条約」の延長放棄して参戦、広島・長崎に原爆が投下され、日本は敗戦を迎えます。結果、北方四島はソ連に占領され、現在に至っています。

1986年、現在のウクライナ、チェルノブイリ原発事故、死亡:4,000人、強制移住等:数十万人以上、この事故から5年後の1991年、ソ連は崩壊します。この「ソ連崩壊」が北方領土問題解決の絶好の機会だったはずですが、日本は無策(外務省内部の問題?)で指をくわえていただけでした。

2011年3月11日東日本大地震での死者・行方不明者は2万人を越え、東電福島第一原発事故発生で15万人前後が避難(=移住?)、今日に至っても完全な収束には至ってはいません。

そして今年、2014年には、何か因縁の在るかのごとく、クリミヤ半島の東、ソチでの冬季オリンピック」、モスクワオリンピック(1980)を西側諸国にボイコットされた当時のソ連、現在のロシア、プーチン大統領のメンツをかけた開催でした。開会式には欧米諸国首脳は欠席しましたが、安倍首相は出席、2月7日「北方領土の日」の式典に出席した後に出席したのがミソでした。プーチン大統領は3月18日、ロシア南進政策の要衝:セバストポリの在るクリミア半島のロシア併合を宣言しまた。

中国韓国に続いて、靖国神社参拝ではアメリカさえも敵に回して外交失点の続く安倍首相、対露外交を推し進め東京オリンピック組織委員長となった森元首相とともに、皆が欠席したソチオリンピック開会式に出席して、対露外交で得点を大きく稼ぎたいところでした。クリミア半島のロシア併合で事態は急転、ロシア制裁に走る欧米に歩調を合わせなければなりません。かと言って、アメリカには軍事行動をとる決意もなく、欧米各国の歩調はバラバラ、次回G8会議は6月にソチで開かれる予定です。どことなく、第二次大戦末期と似ていますが、安倍首相は欧米諸国と最低の歩調は合わせつつも、ここは断固として踏みとどまらなければなりません。

浅田真央森元首相の発言:「大事なときには必ず転ぶんですよね」、これは浅田真央ちゃんではなく…、安倍首相に関して言っているのだ、とはある識者の深読みです。

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March 12, 2014

「ただちに影響はない」から、まだ…、もう…3年

東北震災・福島東電原発事故から数ヶ月は経っていたでしょうか…、被災され、見知らぬ土地で不自由な避難生活を送っておられる方々がマスコミのインタビューを受け、早く自分の故郷へ帰りたい、との希望が多かったのですが、その多くは高齢者のように見受けられました。
避難指示区域
その土地が放射能汚染で居住が困難な地域と判断されたのであれば、先祖何台にも渡って住み続け、慣れ親しんだ土地を離れるのは辛いでしょうが、「住めないのであれば、くやしいが、先祖伝来の土地を棄てるしかないのではないか…、喪失したものを埋め合わせることが、そして、被災前の状態に戻すことが不可能であることが自明であるならば、実現出来る次善の代償は<<金銭的解決>>以外にはないのでは…」、とはその時の私の考えでした。こんなことを言えば、当時、白い目で見られたことは必定、そのインタビューするマスコミも当然の反応を期待し、日本国中が被災者に強い同情を寄せ、「金銭的解決など不謹慎極まりない」という「空気」の中にいたのでしよう。

当時、中学・高校に入学した彼等は、3年後の今春卒業するのです。年取った私にはあっと言う間の3年でしたが、十代の彼等にはその生涯を決定する重要な成長期、「ただちに影響はない」とか悠長なことを言っている場合ではありません。その親からしてみれば、出来る限り福島第一原発から離れた所で生活しようとするのは致し方ないことです。何歳ぐらいで、あるいは、どのような家庭環境で…、その考えが異なるのかは判りませんが、私の年代:年寄りなら放射能の影響は大したことはないでしょう。…が、しかし、中・高校生以下の子供の居る家庭では話は別です。親は家族のために職を探し、家族全員で避難した土地に早く馴染み、溶けこんで行こうと努力したことでしょう。その彼等が必要とするのは、災害復興よりも、新しい土地で、新しい人生を切り開いていくための資金であるはずです。「金銭的解決」です。

新しい土地に馴染んでしまった若い世代は将来、仕事のない、福祉のない、学校のない土地に戻ってくるでしょうか?関西に避難している、福島県大熊町出身者の67%、浪江町出身者の82%は戻らない・戻れないと言います。若い世代の帰らない、帰れない先祖墳墓の地に、私の年代以上の年寄りが帰って、年寄りだけでどうやって生活するのでしょうか。

先日のNHK、宮城県石巻市は280戸の高台移転計画を作った当初の申し込みは167戸、そのうち、帰還場所は確保したが50戸は建築を断念、残り117戸、計画全体の40%しか建築に至っておらず、ローンを組めた半数以上が60歳代という。住民がいない地域にスーパーなどの小売店舗、美容院などのサービス店舗が入るはずがありません。

以前から言われていますが、「少子高齢化」社会、30年〜50年後の日本社会が、現在の東北地方に出現したのです。仙台を除いて、東北の人口は減少、2040年には現在:2014年の60%になるのです。岩手県大槌町、480億を投じて高さ:14.5mの防潮堤を作る計画だそうですが、これが実現したとして、大槌町の景観はどうなるのでしょうか…防潮堤は不要とは、津波で肉親を失った方を前にして言えないことです。Israeli_West_Bank_Barrier防潮堤の維持・管理にもお金がかかります。イスラエルとヨルダンの分離壁を連想するのですが…、次の世代はそんな防潮堤に囲まれて生活するのでしょうか?

もう一つ、私の誤解かも知れませんが、「除染」にどれだけの効果があるのでしょうか?やらないよりも、やったほうがまし…なのでしょうか?「除染」されたとして、その地に年寄りだけが住むのでしょうか?

東北大震災、よく言われたように「千年に一度の大災害」であるとしたら、その復興計画は少なくとも、50年〜100年後を見据えたものでなければならないでしょう。日本の人口は江戸時代はじめに1千万、明治維新(1686)に3千万、現在は1億3千万、50年後、2060年の日本の人口は、36%減少して8674万に、少子高齢化がさらに進み、65歳以上の老年人口の割合が現在の23.0%から39.9%まで上昇。逆に、生産年齢人口(15〜64歳)は8173万人から4418万人へと、46%も減少すると予想されています。

1986年、旧ソ連チェルノブイリ原発事故、死亡:4,000人、強制移住等:数十万人以上、この事故から5年後の1991年、ソ連は崩壊します。エネルギーに逼迫するウクライナは爆発した4号炉以外の原子炉を2000年まで稼働を続けました。ソ連からの独立した1991年、ウクライナの人口:5千2百万人は2010年には4千5百万人減少、現在クリミヤ半島帰属問題でロシアと紛糾中、事態が悪化すればロシアからの天然ガス供給を停止されることになるでしょう。 

「ただちに影響はない」から、まだ…、もう…3年が過ぎました。あらためてご冥福をお祈りします。

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March 01, 2014

みんな、「人生色々」

「上野天神祭」の山車を引くのを楽しみに、毎年この時期、遠く新潟からやって来る御仁がおられます。昨年10月、三重県伊賀上野の友人宅でその彼に会ったのが2回目でした。その彼からメールが、確か…、ガラケーしか持っていない彼…、「タブレット端末を購入したが、商品を入手するのは後日、入手したら連絡するので会って使い方を手ほどきして欲しい」という内容でした。もうそろそろ…かと、先日当方からメールすると、「小田原に帰るので会おう」というお誘いのご返事でした。

私の頭が悪いのか…、どうも彼の置かれている状況を把握出来ていませんでした。その彼は遠く新潟出身、私の友人は三重県伊賀青山、加えて名古屋出身者、この3人がは京都での学生時代、同じ下宿に暮らしたことが縁で毎年この時期、上野の友人宅で会っているそうです。因みに、当時、私は関西在住、竜安寺近くの大学まで通っていたので、加えて、大学紛争・大阪万博関係のアルバイトで大学どころではなかったので…、友人の下宿での交友関係は知りませんでした。私と友人との接点は同じゼミに所属したことですが、それはいつかまた次の機会に譲りましょう。

彼は、将来、新潟に帰ることを考えて就職、勤務地が関東となりました。私と同じく、それから何十年、誰も人生には紆余曲折あって、大半を過ごした小田原市に住み、新潟まで450キロを車で、月のうち20日間をご両親の介護で過ごしているそうで、小田原に帰って来たのを機会に今回の再会になったわけです。亡くなりましたが、両親の面倒を二人の姉に任せっぱなしだった私とは大違いです。

曽我梅林タブレット端末…?、今までパソコンも、キーボードさえ触ったことがなかった私の姉でさえ、今やメールを送受信、ブログへのコメントくれるまでになったのですから…、何をどのようにお教えしようか…と思案しながら車窓の景色を眺めます。         ※写真は小田原市観光課より拝借
私の住む町田から小田急で1時間弱、相模国(神奈川県)を東から西へ横断、小田原の少し手前の開成駅で待ち合わせです。彼が連れて行ってくれたのは「曽我別所梅祭り」、河津桜の名所も近く、花見にふさわしい暖かな日和です。

時代は平安末期、まだ平家が都で権勢を振るっていた頃、工藤祐経(すけつね)とその叔父:伊東祐親(すけちか)、両者の所領争いに始まります。1176年、工藤祐経の命を受けた郎党二人は伊藤祐親を待ち伏せて襲い、一緒にいた嫡男:河津祐泰(すけやす)を殺害します。死んだ河津祐泰の妻は曽我祐信(すけのぶ)と再婚、その子・兄:一萬丸と弟:箱王丸はこの地:曽我荘で育ちます。

伊東家は平家について没落、逆に、工藤祐経は頼朝に従ってその寵臣となります。征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府を開いた頼朝は、1193年、関東一円の御家人を富士山の裾野に集めて大規模な巻狩、軍事演習を行いました。元服した兄弟もその巻狩に参加、同じく参加している工藤祐経(すけつね)の陣屋を襲撃、祐経を殺害しました。兄:祐成(すけなり)はその場で討ち取られ、弟:時致(ときむね)は捕らえられ、処刑されました。表面的にはこんなあらすじで、その裏には頼朝政権誕生に纏わる骨肉の争いがあるのですが、ここでは触れません。これが「曽我兄弟の仇討ち」事件です。※ふりがなを付けないと読み続ける気をなくしてしまいます。

数馬茶屋前回の伊賀「上野天神祭」は豪雨の影響で中止、当日も雨でやることもなく、友人の奥さんのアドバイスで、その彼と連れ立って行ってみたのが「鍵屋の辻」でした。『伊賀越鍵屋辻の決闘(1634)』の舞台に続いて、今回は『曽我兄弟』縁の地に出かけ…、これはおそらく「日本三大仇討ち」ツアー、次回は『忠臣蔵(1702)』の本所吉良邸になるのではないでしょうか。

結局、タブレット端末に一言も触れることもなく、小田原城近くの居酒屋、二人でビールを楽しみ、小田急に乗り込みました。遠く新潟からやって来た学生時代の京都、故郷に至る途中の関東:小田原に住む彼。関西に育ち、仕事で関東に…、それまでは縁も縁もなかった町田に住む私。「人生色々」、一杯の客を乗せた電車は間もなく町田に到着です。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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