November 2013

November 26, 2013

はて?どこかで聞いた…、ラテン歌謡?"The Way"

ストリーム・ラジオにある何処かのカントリー専門局、どこかで聞いたようなメロディです。古すぎて付いて来れないかも知れませんが…、1961年、デル・シャノンの『悲しき街角 Run Away』、はたまた、なんとか付いていけそうな1980年、もんた&ブラザーズの『ダンシング・オールナイト』を彷彿(?)させる、日本人好みのメロディ、まさにラテン歌謡です。

The Way_Fastball日本語のサイトを調べてみると、バンド名:Fastball ファストボール の『 The Way ザ・ウェイ〜哀愁のフリーウェイ [廃盤]』の由。サブタイトル:「〜哀愁の…」にはCDのプロモーション担当者のあんちょこな下心が見え見えですが、彼の予想に反して…、全くヒットせず廃盤になったようです。日本では鳴かず飛ばずの『The Way』でしたが、全米ではビルボードモダン・ロック部門でみごと第一位に輝きます(1998年4月)。

The Way by Fastball
ザ・ウェイ〜哀愁のフリーウェイ
(※続きに原文を載せています。 )

心に決め、荷物を詰め始めた
そして、日が昇る前に旅立った
永遠で怠惰な夏への出口
でも、道も知らずに、二人は何処に向かうのだろうか

ワインを飲み干し、話し始めた
話しておくべき大事な事に至った
そして車が壊れて、歩き出した
でも、道も知らずに、二人は何処に向かうのだろうか

誰も見てはいないが
二人の歩く道は黄金
そこはいつも夏 決して寒くはならない
空腹もなければ 年も取らず白髪もない
どこかで彷徨う二人の影を見るだろう
家に帰ろうとはしないし、それでも構わない
二人はハイウェイを求め 今、二人の幸せはそこに

子供たちが起き 二人がいないのに気づく
二人は日が昇る前に旅立った
車は飛び出し 全てを置いて行ってしまった
でも、道も知らずに何処に向かうのだろうか

この曲の背後には、当時新聞紙面を賑わした事件、レイモンド& レラ・ハワード 夫婦の失踪事件があります。

Quote
レイモンド・ハワード(88歳)と彼の妻:レラ(83歳)がテキサス州サラドの自宅を出たのは1997年6月28日、土曜日でした。パイオニアデイ(モルモン教徒の祭日)フェスティバルに、自宅からわずか27km離れたテンプルに住む親戚を訪ねてのドライブでした。二人がテンプルに入ったのは日が落ちる前、しかし、理由は不明ですが、北へ向かってそのまま走り続けたのでした。家を出てから約12時間後、アーカンソー州北部の町、自宅から780km離れたスビアコで郡保安官に、ヘッドライトを点灯せずに走っているのを、停止させられ、警察無線で問い合わせるも、失踪・行方不明など関係する情報はなく、それ以上に留める理由もなく開放されました。それから45分後、自宅から860km離れたプレインビューでイェール郡保安官に、今度はハイ・ビームでの走行を理由に、停止を命ぜられます。もちろん、この時までにはこのカップルの行方不明は報告されていたのですが、残念なことにコンピュータによる照会はされませんでした。再び彼等は開放されたのです。これが、二人の生きた姿を見た最後でした。※Salado → Temple → Subiaco → Plainview

当日の午後4時までに帰らないことを不信に思った息子が警察に電話して二人の捜索願を出していました。というのは、レラにはアルツハイマーの症状があり、レイモンドは脳卒中の手術を終えたばかりだったからです。親戚は1000ドルの報奨金を提供、警察当局は全国に捜査網を拡大して二人の失踪の情報収集に努力しましたが行方はようとして不明でした。

失踪から2週間後、ハイキングをしていた十代の2人がハワード夫婦の栗色の88年型オルズモビルを発見、レラとレイモンドの死体を7〜8mの崖下に発見しました。二人が事故に遭遇したハイウェイは危険な曲がりくねった道路で有名でした。捜査の詳細で、レラがハンドルを握り、停止標識を無視、時速80kmで道路を外れて崖に突っ込んだのが明らかになり、おそらく真っ暗闇、曲がりくねった道、精神疲労、それらが合わさって起こった事故とは警察の推測です。現場にはタイヤのスリップ跡もなく、レラが停止標識に気付かなかったことを示しています。事故直後、レラはギアをP(パーキング)に入れ、キーを抜いたものと報告されています。彼女は助手席の方に廻ってドアを開けますが、それから6m位を歩いたところで力つきます。レイモンドが助手席を離れることはありませんでした。
Unquote

Fasballのベーシスト:Tony Scalzはこの事件、結果的には事故?、に触発されてこの曲を書いたそうです。感想、解釈は各人にお任せしましょう。


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November 16, 2013

Paul, Get Back to Osaka

paul in japan普段、年賀状のやりとりだけの高校時代の友人から興奮気味のメールをもらいました。ポール・マッカートニーが『OUT THERE TOUR』で来日、彼は11月12日、京セラドーム大阪でのコンサートに行ってきたそうです。アコースティックによる『Yesterday』に感動、20曲以上が一緒に口ずさめる曲に感激、その興奮も冷めやらぬ次の日、思い余って…、メールを送って来たのでした。遠い昔、もう一人の友人にビートルズのLPレコード(アルバム)を借りて聞いたことを懐かしく思い出し、そうだ、イサオはどうしてる…ということになったのでしょう。

The Beatles in Japanビートルズが初来日したのは1966年(昭和41年)、17歳、高校2年生の時、今から47年前、約半世紀前とは、めまいするぐらいに気が遠くなるような昔の話です。
今回ポールのコンサートに行った彼ともう一人友人がいました。私とは中学も同窓で、その当時から電気カミソリを使うぐらいに髭が濃く大人っぽいにも拘わらず、生まれながらに心臓に問題があり、それが原因か…、今から十数年前に亡くなった友人:Hがその人でした。私を含めた3人は音楽でつながっていたように思えます。

髭が濃いだけじゃなく、当時興隆し始めた学生運動にもどこか傾倒していた節もあり、こと音楽に関しても単なる知識だけではなくもっともな理論は大いに大人を感じさせるものでした。ビートルズの楽曲に関する知識も豊富でした。驚いたのは、ビートルズ来日は東京公演一夜のみでしたが、そのチケット購入は往復ハガキで申し込み、抽選によるものでしたが、彼は「購入OK」のハガキを受け取り、興奮していたのを覚えています。残念ながら、東京までコンサートを見には行かなかったのですが、彼のビートルズに対する熱意は私など足元にも及ばないものでした。

正直言いますと、私はそれほどビートルズが好きではありませんでした。同時代に現れたビーチボーイズ、ボブ・ディランに惹かれ、The Byrdsに始まり、受験時代はC.S.N.Y.、大学時代はThe Band、最後はThe Eagles、〜Westcoastぽい、Countryぽいロック、今の言葉で…Roots Music〜のままで現在に至っています。

ビートルズだけではなく、その彼はその東京公演の前座をつとめたスパイダーズのファンでした。クラス担任の先生は国語が専門でしたが、話が短歌に及び、先生が上の句を読み上げ、下の句をその友人:Hが答えて、〜〜○ ○ ○ ○ ○ ○ ○夕日がないてる〜〜。学生は喝采、先生が無口になったのをおぼえていますが、その先生も今はいません。

今回ポールのコンサートに行った友人は音楽教室に通いギターを再勉強していると聞きます。私も、キャリアの長さだけは相当なものですが、技量はほとんど当時のままです。いつかもうすぐ、一緒に歌い、語りたいものです。その当時の女の子も参加してもらえればなおよし…。

※朝のテレビ番組:『ヤング720』で見たこの映像は今も記憶に鮮明です。


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November 11, 2013

鍵屋ノ辻、しばしの妄想

伊賀上野に住む友人を訪ねました。私にとっては二度目の上野天神祭でしたが、京都嵐山渡月橋辺りで桂川が氾濫したことなどを踏まえ、台風接近を理由に、残念ながら中止となりました。私は去年初めて参加したのですが、他のメンバーは友人の住む町内の山車を引くために毎年参加しているそうで、京都、名古屋、遠くは新潟、私が東京…、さながら同窓会の趣です。友人ご夫妻にはお世話になりました。ありがとうございました。
20131111鍵屋ノ辻道標
外は雨、奥さんのアドバイスで…、歩いてすぐの「鍵屋の辻」に行ってみました。「鍵屋の辻」? そうです、あの…、荒木又右衛門で有名な『伊賀越鍵屋辻の決闘』の舞台です。この仇討物語は次回に譲り、今回は、そこに建つ道標につながる話です。

平重衡護送ルートは、鎌倉を発し東海道を上り、大津〜逢坂関〜山科(髭茶屋追分)で奈良街道(=醍醐路 現在のJR奈良線にほぼ並行 現在のR24?)に分岐、を南下した山城国日野(現在の京都市伏見区)で夫婦つかの間の再会を許され、さらに南下して六地蔵から宇治〜大久保、さらに南下し木津川を渡って木津 重衡斬首の地(安福寺)〜首を晒された般若寺のある奈良に入ります。

その木津川を渡らず、その右岸、大和街道(現在のR163)を東へ、島ヶ原で木津川を渡り、南へ曲がる木津川を再度渡ると、そこが伊賀上野「鍵屋の辻」です。

頼朝の接見を終え、南都(奈良)に向け東海道を護送されるのですが、菅津〜関宿で東海道を分岐、大和街道を進み、伊賀上野〜木津〜奈良のルートが最短距離のはず、何故重衡はこのルートで護送されなかったのでしょうか?
平安末期 東海道

7世紀、天武天皇の頃、律令国家の広域行政区画として『五畿七道』は制定されました。当時、都は平城京、東海道は伊賀国から始まって常陸国までの14国、その諸国府をつなぐのが街道:東海道でもありました。平城京の時代、街道=東海道は畿内を離れると最初の国は伊賀国です。繰り返しますが、平城京〜大和街道(現在のR163)〜伊賀上野〜関〜菅津でした。平安京遷都(794)以降、それまでの東海道は鈴鹿峠越えとなり、富士山の延暦噴火(800年 - 802年)で足柄路が不通となり、代わって、箱根峠を通る街道(箱根路)が整備されました。

平安末期、12世紀末、平家が壇ノ浦に滅びる頃、重衡は南都(奈良)への最短ルート:奈良時代の東海道を通らなかっただけではなく、かといって鈴鹿峠を超えたわけでもありません。菅津から北上〜東山道、墨俣〜草津〜東海道に合流、冒頭に述べた通り、髭茶屋追分で分岐して奈良街道(=醍醐路)とはあまりにも遠回り、『平家物語』最大の見せ場を演出するために、日野〜六地蔵〜木津川のルートをとったのではないか?もし、関で分岐する大和街道のルートをとっていたなら見せ場もなかった…、妙な勘ぐりも頭の片隅をかすめます。因みに、沿道の日野で劇的な再会を果たす奈良街道(=醍醐路)は、平城京の時代、若狭、越前、能登から琵琶湖の西側をやって来た北陸道が、大津〜逢坂関〜奈良街道(=醍醐路)と同じルートを辿って平城京に達するものでした。

1185年、平家の総大将:平宗盛は壇ノ浦で捕虜となり、同じく鎌倉で頼朝が接見、義経に護送されて東海道を京へ向かうのですが、この宗盛護送の一行も、鈴鹿峠を越えず、重衡と同じルート、菅津から北上〜東山道、墨俣〜草津を過ぎた、東山道野洲篠原にて義経の家来により斬首されます。少なくとも二人は鈴鹿峠を越えていません。かつて富士山噴火で足柄路が閉鎖されたように、平安末期、12世紀末、東海道の菅津以西の地域では木曽川、長良川、揖斐川などの水量が増加して河口付近では渡れなくなったのか…、富士山噴火に匹敵するような天変地異の発生で、重衡夫婦のつかの間の再会〜重衡の最後〜供養という『平家物語』最大の見せ場が実現したと言えるでしょう。

「ひだりなら道 みぎいせみち」と刻まれた道標、大きなそれは最近に立てられたものでしょうが、小さなそれは判読は難しく何時の時代のものかは判りません。ここが東海道の一通過点だったのは13百年前の話、時代とともにその役割も変わり、奈良からやって来る『お伊勢参り』のいわば巡礼の道、近世においては藤堂家津藩の官道となりました。「鍵屋の辻」に立って、妄想に浸る一時でした。

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November 01, 2013

平重衡終焉の地

日野法界寺地名が先か、それとも家名?…、ここは山城国日野(現在の京都市伏見区)、藤原氏の一族である日野家の氏寺で、「日野薬師」あるいは「乳薬師」の別名で知られる「法界寺(ほうかいじ)」があります。日野は『方丈記』の著者である鴨長明が方丈を営んだ地でもあり、それ以前の時代には「春日野(かすがの)」と呼ばれ、「春」が抜けて「日野」となった、とは寺の説明です。現に、地図をみると、「日野〜」と並んで、「春日野〜」の地名も多く見られます。

1184年2月、「一ノ谷の戦い」で捕虜となった平重衡は鎌倉へ護送されます。1185年3月、「壇ノ浦の戦い」で平家は滅亡し、重衡の妻:輔子(ほし/すけこ =大納言佐局)は他の女たちとともに入水するが助け上げられ捕虜となった。ともに捕虜となり、何処か境遇が似た夫婦です。戦後は当地に住む姉の邦子(大夫三位)の居所に隠棲していました。それから4年前、1180年、重衡は父:清盛の命を受け、園城寺(=三井寺)を手始めに、続いて南都(奈良)に侵攻、興福寺・東大寺の堂塔伽藍を焼き討ち、反平氏勢力の怨嗟の的となり、処刑を目的に、その身柄を南都に送られることになりました。

鎌倉からの帰路、罪人故か京には入らず、東海道〜大津〜逢坂関〜山科(髭茶屋追分)から奈
木津安福寺重衡墓良街道(醍醐路)を南下して日野を経て南都への経路です。「もしや…?、会えるかも…?」の思いの妻:輔子は夫の着替えを用意して、護送の一行を待ちます。話が出来過ぎな気もしますが…、果たして、一行が日野に差し掛かった時、「この近くに妻がおりますので、今一度対面したく〜」と重衡、警護の武士は涙して夫婦つかの間の再会を許したのです。「平家物語」最大の見せ場、最も感動的な場面です。

重衡墓_2重衡は木津川辺りで斬首、その首は4年前南都侵攻の指揮をとった般若寺(はんにゃじ)の山門に晒されました。輔子は木津川沿いに放置されていた胴体を日野に持ち帰り、亡骸を荼毘に付し、後日、首は法然坊源空に頼んで日野に戻してもらい、ここ法界寺で供養を営み、遺骨は高野山に、墓を日野に建てました。墓を建てたのは阿波内侍(あわのないし 信西の娘、実は孫)という説もあるそうです。
※重衡墓所 by Street View
Street View 重衡墓所

1184年6月、宗盛は敗軍の将として鎌倉頼朝の前に引き出され、京に戻る一歩手前、近江国篠原宿で斬首されました。これを聞いて、建礼門院:徳子は寂光院に、重衡の妻=大納言佐局、阿波内侍がともにこの「大原御幸」に付き従いました。

Kenさんに貸してもらった本:『平家れくいえむ紀行 』(中石孝著)に詳しい、平重衡最後の地ですが、重衡が斬首された木津川には安福寺が彼の菩提を弔うために建立され、梟首された般若寺は今やコスモス寺、日野の重衡の墓は、周りを住宅に囲まれ、掃除の行き届いた児童公園の中にありました。これに比べ、1年前、Kenさんと共に訪ねた篠原宿宗盛胴塚、その日は朝から雨だったからか、はたまた、宗盛の人柄故か…、うら寂しく哀れだったことが気になります。

東京への帰り道、急ぐこともなく…、「小夜の中山」の標識を見つけたので寄ってきました。重衡に焼き払われた東大寺再建のため、伊勢に庵を営んでいた西行が奥州平泉に勧進の旅をしてこの東海道の難所を越えます。彼の人生、二度目の「小夜の中山」、69歳の時でした。 〜 年たけて また越ゆべしと 思ひきや いのちなりけり 小夜の中山 〜

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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