July 2013

July 23, 2013

PAYPAL/Nicos_Visa Card 不正請求・詐欺未遂事件!!

Nicos CardNicos_Visa Cardから7月14日付「クレジットカードご利用代金請求書」が届き、その「ご利用明細」をVisa見てビックリ仰天!!!

2件、どちらも利用日:6月10日、利用先:PAYPAL、商品内容:4029357733の印字、ひとつは16,798円ともう一つは20,158円、合計:36,956円とあるではないですか。アダルトサイトを見たわけでもないし…と考えこみ、日記帳を見ても、全く身に覚えのない買い物。反射的に…、Googleで「PAYPAL 4029357733」を検索すると出てくるわ…、出てくるわ…、不正請求であると直感しました。皆さんもお試し下さい。

早速、コールセンターに問い合わせるに、「PAYPALから回ってきたもので内容に関しては全く判りません。不正請求ならカード停止の手続に入りますが…、その前にPAYPALにその内容を確認されたら如何でしょうか?」とは、当方に何か過失があるかのようなニュアンスで…、フリーダイヤルの電話番号を教えられました。

Paypal Logo教えられた番号にかけると、「ここは何処?」…、不思議な国に迷い込んだお姫様、そこはPAYPALのコールセンター、どうやらシンガポールにあるようです。日本語はかなり上手いのですが、どこかヘン…、私の質問への応答の頭には必ず「モウシワケアリマセンガ…」が付きます。何回も繰り返されると小馬鹿にされているようです。判明したことは…、私は一時期、2009〜2010年にかけて…、「Last FM」というサイトの月間会費の支払いでPAYPALを利用していた、とはその通りで、その後は忘れてしまいました。「不正使用を調査しますので24〜48時間を頂きます」とは彼女の言、もちろんその頭には「モウシワケアリマセンガ…」の枕詞です。

1時間もしないうちに「不正使用」、ついては当該2件の合計金額:36,956円をクレジット会社:NICOS_Visa Cardに返金する旨の電話がありました。不正使用が認められて一安心ですが、これで満足するわけにはいきません。どうしてPAYPALは「不正使用」を見抜けなかったのか、と尋ねると、その彼女曰く、「2010年以降あなたはパスワードを変えなかったのも原因の一つです」とは、さも当方に重大な過失があったかのような口ぶりです。頭に来て…、「パスワードを変更するように」とのメールの一つも貰ったことがない、というと、言葉に窮して「あなたはメールアドレスを変えたではないか」と、もちろん件の枕詞がつくのですが…。あなたは馬鹿か?、とは言っていませんが…、PAYPALのID:メールアドレスを今年に入ってすぐに変えたからこそ、6月10日の取引は「ウソ」と判明したのす。そんなことよりも、全くの素人がGoogleで「PAYPAL 4029357733」を検索して、これは「詐欺・不正使用」と直感したのですから、プロであるPAYPALが、指摘されるまで全く気づかなかったのは全くおかしな話です。

このにっくき…PAYPAL、今回の「不正使用」で取引は凍結されているらしいのですが、私にとってはどうでもよい話、久しぶりにログインしようと思ったのですが、カードの番号を聞かれるやら、新しいメールアドレス、パスワードの再設定をを求められるやら…、やっとのことでログイン、当面PAYPALを使う予定もなく、解約しようにも極めて不親切な作りでしたが、やっとのことで解約することが出来ました。

今度はNicos_Visaのコールセンター、カード番号を無効にして再発行に1週間〜10日間が必要の由。「PAYPALから円貨の請求が回って来るが、取引の内容は判らない」とはオペレーター嬢の言葉。「1円の単位まで表示されているのは、外貨を換算して円貨を出したもの。海外でカードを使えば外貨と換算レートの表示は当然」との私の発言にも、「貴重なご意見として伺っておきます」とは彼女のクールな反応、PAYPAL嬢の枕詞、「モウシワケアリマセンガ…」と同じです。

それにしても、私が気が付かなかったら、Nicos_VisaもPAYPALもそのまま放置していたはずで、空恐ろしい話です。Nicos_VisaとPAYPALで費やした貴重な週末の数時間、両社には補償をお願いしたいものですが…、誰か、補償を要求した経験をお持ちの方はおられないでしょうか?

皆さん、どうぞお気をつけて…。

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July 14, 2013

散歩の途中<3> もも

Momo_2
「もも」が我が家にやって来て7年が経ちました。「仲良くする」とは当初からの約束ですが、決して、「世話をする」とは言っていません。彼女がやってくる前には、野良上がりの猫を飼っていました。野良猫当時、家の中に入れ食べ物を与えたりして可愛がり、夜になると…「じゃ…、またね!」と、真冬の寒空の下に放り出しておりました。今から思えば、酷なことをしておりました。器量も頭も良かった彼女ははある日、「うちの子にしよう!」の娘の一言で真冬の寒空・飢えから開放されることになり、以降、我が家の一員になり、単なる普通名詞、愛称:「猫」から固有名詞、彼女の名前:「ね子」に格上げされることになりました。
散歩の途中 廃小屋2
子供たちも家を出てしまい、我が家は夫婦と「ね子」の3人。ささくれだったポー・パッド(肉球)も、ぬくぬくとした囲われの暮らしが長くなって、ピンク色に変わりました。それまでの野良生活ゆえ、年齢は不明、どんな生活を送っていたかも不明ですが…、ある時、どうも元気がなくなり、遂には横になって過ごすようになってしましました。かわいがっていたカミさんが添い寝するようになり1週間ぐらい…、私が帰宅すると彼女は既に息をしていませんでした。近くのお寺で葬式を済ませましたが、喪失感が大きかったのか…、今度はカミさんが鬱、沈みがちになってしまいました。
散歩の途中 廃小屋3_130617
その喪失感を埋めるために、犬を飼うことになったのです。最近は「ペット可」のマンションや団地が増えているようですが、当団地は「ペット不可」、これを知りながら犬を飼うのはやはり申し訳なく、禁教令を破った、いわば「隠れキリシタン」、出来る限り皆さんにご迷惑をかけないようにしなければなりません。そこで、カミさんは犬に関して猛勉強、ラブラドールのような大型犬は論外にして、一時流行ったチワワのような小型犬は男の私が散歩する相手としては役不足、プードル、コッカスパニエルはそのカット代が我々夫婦のそれよりも高額ということで却下、結論としては、なんとか小型に分類される中型犬:ビーグル犬に決まりました。人懐こくて、吠えない、カット不要の毛の長さ…は良いのですが、匂いをかぎ出したら我を忘れ、飼い主も根負けする運動量に付き合うのは大変です。
散歩の途中_小野路_1
こうしてやって来た「もも」、カミさんは毎日、朝夕1〜1時間半の散歩、今も9.3kgを維持していますが、主人をぐいぐい引っ張って斜め歩き、突然想定外の方向に引っ張られることもあり、カミさんの手の指は変形、ヤスモノ故か?、運動靴は3ヶ月しか持たないそうです…、先日には年寄りに多い、膝に水がたまる関節炎との診断、当面は絶対安静とのこと。大仙寺八石地蔵130406
当初の約束にもかかわらず、「もも」の朝夕の散歩は当面私が担当することになりました。加えて、後出しジャンケンのような梅雨明け宣言以降の猛暑、日が高くなってからの散歩は無理、ということで、朝6時過ぎは気持ちがいいのですが、夕方の5時はまだまだ暑くうんざり、お陰で就寝時間も早まり、9時に寝て5時に起きる、シャクですが…一気に年をとってしまいました。夜明けとともに起き、日が沈むと寝る…、「節電の極意」のような生活ですが、どうもこれでは一日が短い上に、その大半を「もも」の散歩に使っているようです。禁教令廃止に向けての運動も進んでおり、夜明けもそう遠くないようです。
散歩の途中 見晴らし公園

散歩の途中で見つけた「お気に入り」、いくつかをご紹介しました。

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July 11, 2013

精神の病

1570年、越前朝倉を撃とうとした織田信長軍は、浅井長政の裏切りで挟撃される事態となり、当時の木下藤吉郎(34歳)は退却戦の殿軍を務めます。以降20年間、天運に憑かれたように階段を上り詰め、1589年(53才)には、側室の茶々(淀殿)が、嫡男:捨丸を出産、続く1590年(54才)、北条を滅ぼし、奥州の伊達政宗を配下に置くことによって全国統一を果たしたのです。ここに、「日輪の子」として生まれた豊臣秀吉は幸福の絶頂を迎えます。しかし、絶頂の後は落ちるしかありません。

翌1591年(55才)、老いて生まれた嫡男:鶴丸(捨丸)が幼く病死、さらに弟で雑兵から一緒に成り上がった参謀の豊臣秀長が病死…と立て続けに不幸が彼を襲ったのが、精神の変調のきっかけでした。信長以来、秀吉にも一時は重い信任を受けた千利休を切腹させたのが、明らかな変調の始まりでした。何時の頃からか、構想は信長に始まるとの説もありますが…、次の目標は「明の征服」、そのために甥で養子の豊臣秀次に関白職を譲り、自身は太閤となります。
秀吉
1592年〜97年(56〜61才)、朝鮮へ侵攻(文禄の役・慶長の役)するも失敗。
1593年(57才)、ふたり目の子、拾(おひろい=豊臣秀頼)誕生。
1595年(59才)、甥の元関白、豊臣秀次を切腹させる。
1598年(62才)、醍醐寺で花見を開催。病に伏し、五大老に宣紙を何度も繰り返して書かせ…、伏見城にて死没。

彼のそれまでの半生は、百姓に生まれ、信長の草履を胸元に入れて暖めて歓心を買うことに始まり、信長軍の兵卒として軍功を重ねながら第一の武将に成り上がって行きます。まさに明るい・陽気な・人なつっこい・庶民の子:「日輪の子」の出世話で、多くの日本人は彼に対して好意的なイメージを持っているのですが、老いてからの彼はまさに「精神の病」でした。「妄想性人格障害(Paranoid personality disorder)」らしく、元々の性格はそんな兆候のない者でも、成り上がった独裁者は常に他人によって失脚させられる危険性を抱いており、部下の裏切りや暗殺者の恐怖などによって猜疑心が強くなり、必然的にこの病に陥るそうです。

文禄の役明征服のための朝鮮への侵攻、そこには「大義」も何もなく…、朝鮮半島では今日に至っても残虐な侵略行為と非難され、伊藤博文と並んで極悪人とされる豊臣秀吉。誰も止める人間はいなかったのでしょうか?朝鮮出兵の計画案は五大老にはかられたが、徳川家康の一言:「まことに結構なる仰せでございます」で出兵に一決。後に、「家康と利家が一兵も兵を出さないのはおかしい」、と言う石田三成さえも出兵の不正義の一言も秀吉に諫めることはできませんでした。まさに暴走。家康はこの戦争の結果を冷徹に予想して、豊臣家を弱体化させ、豊臣恩顧の武将の力を削いで置きたかったのでしょう。

1588年、その無敵艦隊がイギリス海軍に敗れたスペインは既に斜陽。劣勢に立たされたスペインはローマ教皇と結び、一方で反宗教改革運動としてのイエズス会を興隆、フランシスコ・ザビエルはじめ優秀な宣教師を積極的に海外に派遣しました。日本でのイエズス会事業はその後、ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノといった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。 加藤清正は熱心な日蓮宗徒でしたが、彼のライバル:小西行長はれっきとしたキリスト教徒、一旦開戦となるや、仏教徒にせよキリスト教徒にせよ、信ずる宗教とは全く無関係に、彼等はこの「大義」も「仁愛」もない戦争に積極的に参加しました。

地理的に見て、日本は、朝鮮に比べて、中国文化を取り入れるのは不利であったが、南洋経由の西洋文化の取り入れには有利であった、と言えるでしょう。中国朝鮮は冊封体制で結ばれた主従関係、整然とした中央集権的官僚制度国家であり「極めて内向き」、李氏朝鮮には厳しい身分制度があり、「両班(ヤンバン 貴族)」が「常民(庶民)」、「奴婢(奴隷)」を厳しく抑圧することによってその平和が維持されていた。彼等から見れば、一方の日本は、ヨーロッパと同じく、封建制度国家であり「極めて外向き」で、戦国の騒乱の世にもあれだけ商業が発展して、海外貿易にも積極的なのは到底理解できないものでした。

対馬藩、宗義智(そうよしとし)と小西行長は、朝鮮貿易・外交を独占して戦争反対の立場…、共謀して李氏朝鮮・秀吉双方に虚偽・詭弁を使い戦争回避工作を行い、一旦開戦となるや、日本軍の先鋒となって朝鮮に攻め込み、一方では休戦工作を行い、その虚偽・詭弁が双方に露見するや、再び戦争状態になり、休戦するのは秀吉の死を待たなければなりません。本当の終戦は、関ヶ原が終わり、天下人となった徳川家康の時代、1607年、通信使が幕府に派遣され江戸にて将軍職を継いでいた秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見した。日本に連れ去られた儒家、陶工などの捕虜の奪還をを目的としたものでした。この求めに対し、徳川幕府が国書を送った形跡はなく、またまた…、対馬藩が国書を偽造して国交を修復しようとしたものでした。

「戦争の大義」、「精神の病」の話は横に置いて…、文禄の役で15万、慶長の役で14万の出兵をした秀吉です。あの天下分け目の「関が原の戦い」の参加数、東軍:10万、対する西軍:8万を比べると、如何に大規模な派兵を実施して明国を目指したのかが理解できます。李氏朝鮮が、その北辺に住む蛮族を「北狄、オランケ」と軽蔑していた女真:満州族が、ヌルハチの時代、明から独立して、清の前身である後金国を建国したのが1616年、慶長の役が終わってわずか20年後のことである。今まで軽蔑していた「北狄、オランケ」の支配を受けるのですから、これほどの屈辱はなかったことでしょう。中国の明朝はこうして倒れ、北夷である女真:満州族により清朝が起こります。

秀吉にそこまでの大局観はないと思いますが、もし彼が北狄の女真と同盟を結んでいたら…、とは、私も老人性誇大妄想(?)の始まりでしょうか。

※参考資料:「物語韓国史 (中公新書)」「文禄・慶長の役―空虚なる御陣 (講談社学術文庫) 」

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July 03, 2013

Soy-Beans と Soy-Sauce、どっちが先?

70年台前半だったでしょうか…、あるテレビ番組の中で、大阪府には納豆製造業者がわずか2社しかない、と聞いたのを覚えています。それほど、大阪≒関西ではほとんど納豆を食べる習慣はありませんでした。今日、改めて調べてみると、その数10社(※納豆製造元一覧 )、40年間に5倍と言えば激増?、その間に全国的な規模で東西の移動がなされたのでしょう。

その納豆をはじめ、豆腐・味噌・醤油…多くの大豆加工食品がありますが、モヤシが大豆を暗所で発芽させたもの、枝豆が未熟大豆を枝ごと収穫して茹でたもの、さらに育てて完熟したら大豆、とは大人になって知りました。「納豆」も「豆腐」も中国の発明ですが、どうもその漢字が逆なように思うのは私だけではないようです。そもそも、大豆(だいず)とは中国語で「大いなる豆」の意味で、その発音は、漢音の「ダドゥ(?)」ではなく、何故か呉音の「ダイズ(?)」に由来、中国では「豆の王様」、ドイツでは「畑の肉」、アメリカでは「大地の黄金」とも呼ばれるそうです。日本でも米・麦・粟・稗(ひえ)・豆(大豆)と、五穀の一つです。

ビールが美味しい季節です。ネット上の質問、「北欧で枝豆の栽培は可能でしょうか?」。おそらく、北欧に住む日本人が故国での夏を思い出して、いろいろ試してみようと思ったのでしょう。もし実現できたら感激でしょう…が、実は…、難しいようです。
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醤油は英語で「Soy-Sauce」。「Soy or Soya」は「醤油(しょうゆ、Syo-yu)」、どうやら中国語の醤油(どう発音するのか知りません)ではなく、実は日本語のようです。鎌倉時代の禅僧:覚心は、1254年、紀州・湯浅に西方寺を開きます。宗で学んだ「径山寺(金山寺)味噌」の製法を広め、たまたま水分量の多かった味噌の上澄み液(「溜まり」)で煮物を作ったところ、それが大変美味しかったので、ここから醤油作りが始まったと言われています。これが紀州・湯浅の味噌醤油業に発展、後に黒金富良陶器瓶潮に乗って、多くの人と技術が房総半島へ渡りました(江戸川・利根川水系地域、例えば野田)。17世紀、醤油は陶器製の瓶に詰められ、長崎出島よりオランダ東インド会社を通じてヨーロッパに輸出されていました。その瓶は金富良(コンプラ)と呼ばれる波佐見焼の陶器、そこには「JAPANSCHSOYA」の文字があります。

稲わら+納豆大豆の原産は中国東北部(かつての満州、「Soy」は女真語という説あり)からインドにかけての地域、根瘤菌(空気中の窒素を取り込んで宿主に供給、宿主からは逆に光合成で得た炭水化物をもらう)と共生、窒素分の少ない土壌でも生育します。モンスーン気候の日本には稲作と同時に伝来、各地に伝搬して行きます。稲ワラと大豆の腐敗が遭遇するのもそれほどの時間はかからなかったでしょう。これに加え、前述のとおり、味噌・醤油など大豆加工食品の発展には、殺生を禁ずる仏教、当時の鎌倉仏教の興隆が大いに寄与したものと思われます。

ヨーロッパには、他の豆類はありましたが、その土壌には中国東北部や日本のような根瘤菌が存在せず、大豆という植物は存在しませんでした。今日でも事情は同じのはず…、上の北欧在住の日本人の渇望を叶えるのは難しいようです。江戸中期の18世紀、オランダ東インド会社のスエーデン人医師(植物学者)はツンベルグは日本滞在中に醤油を知り、1784年「日本植物誌」を著して大豆をヨーロッパに紹介、「醤油の原料となる豆」という意味のドイツ語(?)「Soya-Bohne」で、これが英語の「Soy-Beans」になります。はじめに「醤油=Soy-Sauce」があり、そこから大豆を「Soy-Beans」と呼ぶようになった訳で、その逆ではありません。

土壌に根粒菌が存在したアメリカ大陸に伝わったのは19世紀、大豆を栽培した農場の土を、次の年に他の農場まで運ぶというやり方で徐々に作付け面積を広げて行った。栽培が本格化するのは肥料や根粒菌持込の技術が発達して土壌改良が進む20世紀に入ってからのことでした。アメリカは世界最大の大豆生産国ですが、
国内需要のほとんどは家畜の飼料用で、大豆加工食品の歴史はほとんどありません。大豆イソフラボンが骨粗鬆症、更年期障害、動脈硬化の緩和、乳がんや前立腺がん等の予防にも効果が期待しての健康食品・サプリメントのブームがあるようです。

九州生まれで、それまでの四国(新居浜)に住んでいた私を含めた家族には納豆に何の抵抗もありませんでしたが、次の引越し先である大阪では食べたことがありません。そして東へ移動、東京の西端、町田に住んで二十数年、今や、納豆は日常的な食べ物となっています。この歳になって痛風か…、納豆はどうなんでしょうね?

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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