January 2013

January 26, 2013

Redwing 877

「これ、何とかしなさいよ!」 と、かみさんが玄関の戸袋から埃だらけの箱を出してきます。これが我が家に在ったとは…、てっきり忘れていました。びっくり箱か玉手箱…、白い手袋はめた学芸員がやるように、恐る恐る開けてみると、懐かしいRedwing ワークブーツ(8インチ)がカビだらけで、左右を仕切る薄い紙も当時のまま…。

Redwing 877_2ヤフオクで調べてみると…、「877羽タグ アイリッシュセッター」 、「アイリッシュセッターブーツ白犬タグ877」、 「希少 877 セッター犬刻印」 「877スクエアステッチ73年製四角犬 」 …、何やら「犬印妊婦帯」を思わすようなタイトル、見る人が見れば何なのかはピンと来るのでしょう。キャッチコピーも「旧犬タグ製USA表記。箱、タグ付きで、コレクターの方にもお勧め〜」、「奇跡のデッドストック、人気品番で、この年代の物は専門店でもかなり希少です。」…等々、これは大変な事になって来ました。

Redwing tag
まずはブーツをきれいにしなければなりません。表面のカビを柔らかい布で落とします。右足のベロ(甲の部分)の内側にタグが縫いつけてあるのですが、このタグが製造年により異なります。私のお宝は四角=スクエア、犬=アイリッシュセッター、"Made in America(Not USA)"で1973年製造のようです。…徐々に記憶が蘇って来ます。

made in USA catalog1975年あるいは76年、私は出張でアメリカに行きました。多くの若者がそうだったように、私もアメリカ文化にあこがれ…、いや…、かぶれていました。 ※少し前の世代がフランス、シャンソンに寄せていた気持ちと同じです。「演歌にかぶれる」とは聞いたことがありませんが…。

イーグルスが「Take It Easy」Asyrum Recordからデビューしたのが1971年で、1961年、ビーチボーイズ「Surfin' USA」で始まる私のウエストコースト音楽遍歴はそろそろ佳境に入ってきた感がありました。1975年には「Made In USA Catalog」が平凡出版から出され、私は衝撃を受けたものです。1976年、イーグルスは「ホテル・カリフォルニア」を大ヒットさせますが、最大のヒット故にこれ以上の曲を出せなくなり、最後のヒットになってしまいました。こういう時代でした。
Steve McQueen redwing 877
Steve McQueen

Jack Nicholson_One flew over the cukoo's nest 1975
Jack Nicholson in "One Flew Over The Cukoo's Nest 『カッコーの巣の上で』"

実は…、Redwing Boot 高さ:8インチよりも、6インチの方が好きで、アメリカに出張したらこれを買うものと決めていました。しかし、残念ながら買い物が目的でもなく、移動先の街で時間を見つけてお店を探さなければなりません。残念ながら、小さなサイズはなかなか見つけるのが大変で、やっと見つけたお店で私のサイズは8インチブーツが一足だけで、仕方なく「エイヤッ」とばかりに買ってしまいました。ところが、出張も終わりに近づいたある日にのぞいたお店で6インチブーツを見つけたのです。躊躇なくそれ、6インチブーツも購入、以来何十年、YAMAHA DT1やKawasaki KLXに乗った時もずっとこれをはき続け、左甲の部分がギアチェンジペダルに当たり黒く変色して良い味になっていたのですが、知らないうちにその所有権は長男に移っていました。

最初に買った8インチブーツ、どう考えても…、履いたり脱いだりする日本の生活では不便、結局、全く手を付けずにお蔵入りとなってしまいました。ヤフオクを調べていくと、私の所有するそれは「1973年製 Redwing 877 箱付き 未使用(業界ではどうもデッドストックと呼ぶらしい」、これで落札されたかどうかは判りませんが…、高値:148,990円や247,990円が見受けられます。これは、「お宝発見」とばかりに早速、「取らぬ狸の〜」、ヤフオクに出品、さすがに247,990円の価格は提示できませんでしたが、これで差し迫った車検代も捻出出来る、よしよし…ほくそ笑みながら、あつかましくも…178,000円を提示したのでした。久々のいい話、回りの友人に自慢げに話すと、驚くべき事に、Toshiさんは、このRedwing 877を紹介している雑誌:「Made In USA Catalog」をいまだに保有している由。昨年11月のことでした。

明るいお正月が迎えられるはず…でしたが、アクセス数・ウオッチリストの追加数は多いのですが、具体的な入札が全くありません。128,000円→98,000円→78,000円→58,000円と、当方のOfferを次第に下げ、回りの友人の「ブーツはどうなった?」の質問にも不愉快になって、迎えた2013年1月、これが最後…、38,000円で望みました。全くあきらめて、結果を見たくない心境の1〜2日後、落札者からの第一報で商売の成立を知った私でした。文面から想像するに、彼はまだ二十代、…なかなかの目利き…、彼も子供に譲るまで大事に履いてくれることでしょう。

Toshiさん!今度は貴兄の「Made In USA Catalog」を出品しようよ!。

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express01 at 11:58|PermalinkComments(4)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote Recent Event | Music

January 19, 2013

日本国王 足利義満

金閣寺  金閣寺、関西で育った人間は小中学校の遠足で一度は訪れたことがあるはず。私も、遠足だけではなく、大学が近くにあったので何回か訪れたことがありますが、昭和の放火事件で焼失、再建された為か、壁の金箔がきらいなのか、どうも…好きになれません。室町幕府第3代将軍:足利義満(1358 - 1408)が造ったとは教科書にある通りで、それ以上の知識はありませんでした。

 時代は動乱の南北朝、九州は南朝の勢力下に在り、後醍醐天皇の第十六皇子:懐良親王(かねよししんのう 1329〜1383 )を頂点に京都奪還を企てていました。※因みに第一皇子は護良親王(もりよししんのう)、1335年、足利直義の命を受けた淵辺義博により殺害されます。

 隣の中国では、洪武帝が元=モンゴルを北へ駆逐して、1368年、明国を建国します。沿岸に頻繁に出没する倭寇に悩まされて「海禁」政策をとっていましたが、倭寇の取り締まり強化、さらには朝貢再開を日本側に求めて使節を派遣してきました。明側が「日本国王」である南朝:懐良親王をして日本における唯一の正統な通交相手としたのはもちろんの事です。京都奪還を目指す懐良親王南朝は、明の援軍、貿易による資金獲得を期待して、明の冊封を受けようとするのですが、その冊封成立を伝える明側の使者が幕府側に捕らえられ、義満の知るところとなります。

 明は「海禁」政策をもって外交と貿易を一元化、貿易を国家の独占としました。「日本国王」の称号を手に入れさえすれば、日明貿易を独占出来るのです。義満は「日本国王」の称号を手に入れるために、何度も明に使者を送って、自身を日本の最高権力者だと訴えるのですが、天皇=「日本国王」の陪臣との通交を認めない、との理由で国交を拒絶されます。終いには、太政大臣を辞して出家、義満は天皇の臣下ではない、と言う訳です。1401年、懐良親王の勢力はすでに凋落、建文帝は義満を「日本国王」に冊封します。なりふり構わず「日本国王」の称号を手に入れたかと言えば…そうでもなく、義満は臣下の礼を持って明使節の接見儀礼に望みますが、自分を上座の位置に置き、お辞儀の数を減らすなどして、国内の反発を押さえたそうです。

 中国(明国)皇帝>「日本国王」、臣下の礼をとるが、中国(明国)皇帝=天皇、対等/同格の関係は維持される、という詭弁でした。

 室町幕府は半世紀にも及ぶ動乱で、味方を得るために獲得した領地を分配したため、幕府直轄領をほとんど持つことが出来ず、当初から中央集権国家成立に失敗したのでした。貨幣経済の発展を受けて、関所の通行税、港の利用税、高利貸し・金融業者からの献金を財源とせざるを得ず、極めて財政基盤の弱い、言わば、京都近く(山城国)の一地方豪族如きものでした。売買・貸借・贈与・寄進など複雑化する貨幣経済活動の中に課税対象:財源を見つけ出そうとする、一見姑息な徴税システムが編み出される中、1回の派遣で20万貫文(今の金額にして約200億円)を売り上げたと言われる「勘合貿易」は、濡れ手に粟、名を棄ててでも取り組むべきものでした。

 義満は金閣寺舎利殿に代表される北山山荘を造営、そこで明使節の接見を行い、政務を行うと同時に、新しい文化の旗手として活躍します。そこで開花した文化は、義政の「東山文化」に対して、「北山文化」と呼ばれます。禅僧を外交官に重用、五山を確立して禅宗を保護、優れた禅世界の漢文・詩文・水墨画を生みます。観阿弥・世阿弥父子を保護、猿楽能を大成し、連歌を和歌と同等の地位に引き上げます。鎌倉時代末期から、五・七・五の長句と七・七の短句を交互に詠み合う連歌会が一般庶民の間でも盛んになり、同時に連歌につきものの茶道が隆盛、喫茶を楽しむ場を「茶の湯」と呼ばれました。茶入れ 付藻茄子

 その「茶の湯」で珍重されたのが中国から輸入された茶器で、「唐物」と呼ばれていました。義満が愛したのが『付藻茄子(つくもなす)』と呼ばれる唐物の茶入で、一説では、佐々木道誉が所有していたのを義満に献上、その後、代々足利将軍家に伝わります。義政の「東山文化」の時代、同朋衆の能阿弥が「茶の湯」を芸術の域まで高め、これを「東山御物」の一つとした。その後、持ち主は転々と変わって戦国時代、信長〜秀吉〜家康、三人の天下人の手に渡ったといいます。

 今や、金閣寺、堂本印象美術館、龍安寺、妙心寺、仁和寺と続く道は「きぬかけの路」と呼ばれるそうで、その道に沿って大学はあり、今思えば素晴らしい環境です。ましてや、南側にある等持院、足利家の菩提寺で、ここに初代将軍:足利尊氏から第15代:義昭までの足利歴代将軍木像があります。全く馬鹿ですね…、在学中に訪れたことはありませんでした。

 数奇な運命を辿った『付藻茄子(つくもなす)』、明治に入って三菱:岩崎家の手に渡り、現在は東急田園都市線:二子玉川に在る「静嘉堂文庫美術館」に収められているそうです。京都に比べれば近いもの、暖かくなったら…、今度は必ず訪れてみましょう。

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January 05, 2013

伊賀上野天神祭

明けましてけましておめでとうございます。本年もご支援のほどよろしくお願い申し上げます。西田氏上野宅提灯

以前から、「見においで」、と声をかけてもらいながら、見たことがなかった『伊賀上野天神祭』を見るために伊賀上野の友人:Toshiさん宅におじゃましたのは去年10月24日、宵山巡航が正に始まろうとする午後でした。

伊賀上野と言えば、地下鉄:半蔵門にその名を残す服部半蔵、織田信長の招きで上方を旅行中の徳川家康一行は「本能寺の変(1582)」の報に接し、彼の手配でこの険しい伊賀国の山道を抜けて、伊勢国から三河国岡崎に帰還します。これを『神君伊賀越え』と呼ぶそうですが、伊賀街道は東海道・中山道のような主要幹線道路ではなく、京都・大和・山城と伊勢神宮を結ぶ参宮道:『お伊勢参り』の道にすぎませんでした。余談ながら、それと同名の味噌漬け物:『伊賀越』は『神君』以前からお伊勢参りの旅人に喜ばれていたのでしょう。ついでに、私も好きです。

1608年、藤堂高虎が伊勢・伊賀二国の大名となり、津を本城に、伊賀上野を支城としたため、津藩の重要な官道として整備されました。『上野天神祭』は、その藤堂高虎の上野天満宮の新・改築、寄進に始まり、元禄年間(1688〜1704)に田楽、能、狂言、疫病退散を祈願して町衆が創作した劇:『鬼行列』が現れ、おおよそ現在の形を成したものと考えられています。
西田宅近くの交差点
伊賀上野、その旧街道沿いにToshiさん宅があり、目の前を『大御幣(おおごへい)』を先頭に、総勢数百の大小の鬼、役行者、鎮西為朝そして9台の楼車(だんじり)が練り歩くのは圧巻です。もちろん家の主人:Toshiさん、それを楽しみに小田原からやって来た客人の二人は、足手まとい…いや、微力ながら…、所属する町内の楼車を牽きます。

面白いのは、元禄時代、疫病退散を祈願して町衆が創作したとされる『鬼行列』。外様でありながら家康の信頼を得た藤堂高虎はよほどの善政を敷いたのか…、彼の生国:先進の近江国につながる伊賀・伊勢が地政学的要地であったからか…、近江商人と並び称される伊勢商人の、松尾芭蕉を生み育てる、町衆・町人文化の肥沃な土壌が生成されていたようです。
鎮西 為朝
為朝は源為義の八男。弓の名手で、鎮西を勝手に名乗り九州で暴れ、「保元の乱(1156)」で父:為義とともに破れ伊豆大島にながされます。ここからは、義経と同じく全くの伝承、伊豆を逃れ遠く琉球に渡る途中、喜界島=鬼界島で鬼を退治します。この鬼を疱瘡(ほうそう)になぞらえ、子供の疱瘡除けのまじないに、為朝の武勇をもって子供を守ってもらおう、という意味でした。

因みに、ここで登場する喜界島=鬼界島、後に平家転覆を画策したとされる『鹿ケ谷の陰謀(1177)』の首謀者:俊寛の流刑地、後に『壇ノ浦戦い(1185)』で敗北した平家の落人の地…として何度も登場します。

祭も終わりに近づいてきました。楼車を牽いた後ろ姿に快い疲れが残る…かどうかは知りません。
巡航も終わり
Toshiさん、ありがとうございました。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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