December 2012

December 31, 2012

第4回 かってに、HKX紅白歌合戦

例年この時期にやっているが『かってに、HKX紅白歌合戦』、去年はどんな事を書いたのかと『第3回〜』をのぞいてみると、当時の我々の新曲が並んでおり、昨年のトリは『Bye Bye Love』でした。※因みに、『第2回〜』『第1回〜』

そう言えば、今年:2012年皆様に発表する新曲はありませんでした。それもそのはず、この一年は、「依頼があるかも知れない…」とライブを意識、1曲3分、30分のステージを想定、10曲を完全にマスターしようと、練習時間の2/3をこの10曲の練習に充ててきました。

老眼鏡と中古ではあるがエレアコ・ギターを用意した私…、念願の…、悲願の…、出演の依頼があり、もったいぶりながらも、「はいはい」と二つ返事でお受けした11月4日25日のライブに実現、その模様は既にご報告しております。
第4回HKX紅白歌合戦

という訳で、今年の『かってに、HKX紅白歌合戦』、残念ながら成り立ちません。4日と25日のライブ、どちらも5曲をやったのですが、25日のそれでは『Surfin' USA』の次に、『Johny B.Goode』をやったのですが、どういう訳か…?、曲の途中でプッツリ切れて使い物にならりません。最初の演奏、まだ、店の人がステージに上がりアンプやマイクの調整中の『Matchbox』、『第4回 かってに、HKX紅白歌合戦』、今年のトリとさせていただきましょう。

今年の12月はこれで6本目のブログ…、数だけは…よくやりました。おつかれさまでした。皆様、良いお年をお迎え下さい。

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December 27, 2012

2012年近江の旅 結び 〜 雨森芳洲生誕の地 高月

雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう1668〜1755)、私は今回の旅行まで、その名前さえ知りませんでした。勉強を始めたばかりですが…、1668年、高月雨森村の町医者の子として生まれ、京で医学を学び、後に江戸へ出て朱子学者:木下順庵門下に入ります。彼は、新井白石と同門となり、秀才を唱われ、1689年、順庵の推薦で対馬藩に仕官します。雨森芳洲

李氏朝鮮との国交を回復した徳川幕府ですが、はるばる対馬から江戸まで、朝鮮通信使一行を往還半年以上も接待するのは大きな出費でした。第6代将軍:徳川家宣( いえのぶ  在職 :1709〜1712年)は綱吉の残した『生類憐れみの令』を廃止、側用人:柳沢吉保を解任、芳洲と同門の新井白石を登用して財政改革を試みます。経費節減のため、白石はこの朝鮮通信使一行の接待を簡素化を断行、これを期に、徳川将軍と李氏朝鮮国王との間の往復書簡、国書の書式を変更しました。徳川将軍の称号を、「日本国大君」をやめて、「日本国王」にしたのです。

「大君」の称は、中国では天子の異称であるからわが国の場合もその称は天皇に当たる疑いがあり僭越である、というのが白石の考えだったのであろうが、これに異を唱えたのが雨森芳洲でした。王のもとに、文官が支配する朝鮮は「王道」であるが、徳川幕府(中央)と藩(地方)が支配する体制は「覇道」であり、よって徳川将軍は「日本国王」ではない、というものでした。

称号問題は国の基本に関することであり、この年の通信使は、帰国するや、朝鮮国王を日本の将軍と同格にされた責任を問われて処罰されました。「日本国王」の称号が元の「日本国大君」に戻されたのは第7代将軍、吉宗の時代でした。

雨森芳洲の仕官する対馬藩は李氏朝鮮との交易・親善があって成り立つ藩、そこに高給を持って召し抱えられているのですから、対馬藩・李氏朝鮮寄りになるのではないでしょうか?この称号問題、今日に至るまで尾を引いています。そもそも、朱子学は林羅山によって武家政治の基本理念として再構築され、徳川幕府の正統学問となったものです。幕府の正統学問:朱子学の最高峰に在る雨森芳洲が、…上に挙げた芳洲の論理に私の誤解でなければ…、徳川幕藩体制を「覇道」としたのは全く正しいものでした。徳川幕府:武家政権は「王道」に反する「覇道」であり、朱子学による幕府の正統化の論理は最初から成り立っていないことになる。これでは最初から論理の破綻する朱子学を幕府の正統学問としたのは何故なのか…、芳洲・白石の時代になってもその矛盾が解決されていません。矛盾の先送りは、幕末の『尊皇攘夷』、そして、『尊皇倒幕』まで続きます。

607年、倭王から隋の煬帝に宛てた「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」に始まる国書は、中華皇帝の概念を否定して、それまでの冊封関係からの離脱、対等外交の姿勢を表明したものでした。663年「白村江の戦い」で、唐・新羅連合軍に敗れるも、その戦争目的は唐との対等な独立国家を主張するためのものだったと言えるでしょう。以来、日本人は「天皇」を中国「皇帝」と同格に位置づけています。白石の考えもこれと全く同じで、天皇=中国(清国)皇帝は対等/同格、それぞれの臣下が、徳川将軍(日本国王)=朝鮮国王、というものでした。

一方の李氏朝鮮は自らを中華に並ぶ文明国とする一方、中国明王朝に事大する冊封関係にあり、それまでは「北狄、オランケ」(蛮族)と軽蔑していた女真:満州族が、あろうことかその明を倒して清王朝を建国するに至っては、何をもって李氏朝鮮の政治・文化の拠り所とすればよいのか…、かたくなまでの『小中華』しかなく、日本側の「天皇=中国(清国)皇帝は対等/同格」は到底受け入れられないものなのでしょう。それ故か、今日の韓国では天皇を『日王』と呼ぶそうで、これは新鮮な驚きでしたが、その『小中華』を率いる第18代大統領に朴槿恵さん(彼女の父は朴正煕が決まりました。おめでとうございます。

はるか古代から、近江に東山・東海・北国の三街道が始まり、遠く東山道の奧には、道の奧、陸奥(みちのく むつ)が広がり、東海道を行くと、頼朝がその後の日本を決定づける鎌倉幕府を開き、若狭国小浜、越前国敦賀、越国につながる北国街道を遡って斑鳩・大和国にもたらされた先進の技術や思想にあらためて驚かされます。

雨森芳洲庵ケヤキ古代、大陸・朝鮮半島からの渡来人が多かった地に、近世、李氏朝鮮との外交に尽力した雨森芳洲が生まれたのは不思議な縁と言わざるを得ません。遠くその源をインド・ペルシャに求められる『十一面観世音菩薩像』、戦国時代には住民が信長の焼き討ちから守り、秀吉が長浜の街を作り、江戸時代には雨森芳洲を生んだ高月、この地を結びの地としましょう。KENさん、『2012年 近江の旅』をありがとうございました。

東アジア交流ハウス:雨森芳洲庵の横には大きなケヤキ、古くはこの地、ケヤキに因んで高槻と呼ばれていたそうです。

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December 25, 2012

真冬の散歩道

先日の衆議院選挙では自民党が圧勝、民主党は見る影もなく、少し期待の「維新の会」には石原さんや平沼さんの顔…、全くの興ざめで寝込んでしまいそうでした。という訳で、気力をなくしてしまった私、エネルギーの必要な『2012年 近江の旅』の続きを書く気にはなれず、ほんとうに、今年も余すところ〜日、ボケーっとした冬休みモードに入ってしまいました。

今年は夏が長く何時までも暑い日が続いたのですが、秋は短く、物思いに耽る晩秋などはアッという間…、一気に真冬に突入しました。年末までは毎朝、寒さをこらえながら自転車に乗っていたのですが、今年はのっけから池が氷る寒さ、年が変わるのを待つまでもなく、あっさりと自転車を放棄、歩いての散歩に切り替えたのは寒さだけが理由ではなく、寄る年波?、ということでしょう。20120818桜美林図書館裏

昨夏に始めた水彩画スケッチ、「絵」と呼ぶにははずかしいものかも知れませんが…、散歩に新しい楽しみを加えることが出来ました。線画で始めた私ですが、当初は小学生時代の絵の具のイメージしかなく、絵の具がこんなに便利に進化したのを知りませんでした。昔は画材といえば専門店で買う高価なも、というイメージでしたが、「絵手紙」ブームのお陰でしょうか…?、今や近所のホームセンターで揃えることができます。私の場合、鉛筆による下書き→ドロウ用の耐水ペン(黒)で清書→水彩絵の具で彩色、ではスケッチ(サイズ:F0 or A5)と言っても小一時間はかかってしまいます。

『2012年 近江の旅』でご一緒したKENさん、絵に関しては、人生と同じく…、大先輩です。彼は如何にもスケッチといった感じでまたたく間に描いてしまうのは驚異です。私には到底真似の出来ないことですが、最近、<鉛筆による下書き>を止め、いきなり耐水ペン(黒)で描き始めるようになったのは、大きな進歩です。最近描いたのがこれ、…といっても寒くなる前の話、歩いて20分ぐらいの所にある、レトロな看板は昭和初期の趣、大泉寺バス停。
20121107大泉寺バス停_342

昔、サイモン&ガーファンクルの曲で『真冬の散歩道 A Hazy Shade Of Winter』というのがありました。ドラムが入り、ザ・バーズ(The Byrds)と並んで、当時フォーク・ロックという新しいジャンルでした。


もうすぐ、孫達家族がやって来ます。孫娘には絵を描く私がただ者ではないように見えるらしく、「ジージ、すごい。」
ポチ袋の中身は増やせませんが…、ご所望とあらば、彼女と一緒のスケッチ散歩に付き合いましょう。

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December 17, 2012

2012年近江の旅 Episode 7 〜 『ツァラトゥストラはかく語りき』

前回の『2012年近江の旅 〜 湖西 朽木街道』書き終わってみて、何か…、物足りない感じです。

「白村江の戦い(663)」で唐・新羅連合軍に敗れ、朝鮮半島の足場を失い、同盟関係のあった百済からの難民を受け入れ、唐(中国)との冊封関係を断ち切って律令制度を目指した日本が総力を挙げ、「天下泰平」「五穀豊穣」「万民快楽」を祈願して建立されたのが東大寺大仏でした。

冬至もまだ、今年の冬も始まったばかりで、まだまだ先の話ですが、関西では二月堂の「『お水取り』(3月12日深夜)が終わると春がやって来る」とよく言われます。正しくは『東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)』と呼ばれ、完成した752年に始まり、以降一度も途切れることなく続いています。この間、多くの行事が行われるそうですが、一部は全くの非公開:秘密の儀式だそうで、今回ご一緒したKENさんはその最大の秘儀、大きな松明を振り回す火天、酒水器と散杖を持った水天が対峙し、法螺貝や鈴錫杖の音が鳴り響き渡る、ユーモラスな『達陀(だったん)の踊り』を見る機会に恵まれたそうです。その秘儀を見てその感激が覚めやらぬ彼は『達陀(だったん)』という響きに何かエキゾチックな妄想を重ね合わせたのはごく自然ななりゆき、話を聞いただけの私にもそれが遠い異国の風景に繋がるように思えてきます。

この東大寺二月堂の「お水取り」に先がけて、毎年3月2日に行われる若狭小浜市神宮寺の「お水送り」、若狭鵜の瀬から10日間かけて東大寺二月堂「若狭井」に届くといわれています。「お水送り」という言葉も知りませんでしたが、若狭と平城京とが地下水路(?)で結ばれていたとは、若狭と平安京を結ぶ『鯖街道』、中世の『朽木街道』の話どころではありません。奈良の「若狭井」で若狭の水を汲むということは、渡来した先進思想・技術を受け入れて倭国に春がやって来る、日本があまねく照らされる、開化されるということのでしょう。

古代より秦(はた)氏・漢(あや)氏など、「白村江の戦い」の敗北では百済の難民、優秀な技術者集団が若狭小浜あるいは越前敦賀に辿り着くのは容易なことでした。彼等は琵琶湖の水路、あるいは東西両岸を南下してそれぞれの地で定住していきます。彼等と共に先進の仏教思想、仏像制作・鋳造技術ももたらされました。若狭小浜あるいは越前敦賀は正にシルクロードにおける日本のメインゲートでした。

東大寺大仏は正に中国から伝来の『毘盧遮那如来』、密教では『大日如来』、「光をあまねく照らす(遍照)」如来の意味で、元は西のインドから伝来した『光明仏:ヴァイローチャナ』、その根源はさらに西のペルシア(今のイラン)から伝来した『アフラ・マズダー (Ahura Mazdā)』、ゾロアスター教(=拝火教)の光明神です。

『達陀(だったん)』秘儀はこのゾロアスター教に深く関わっているという説もあり、かつては松本清張が小説:『火の路』を書いてゾロアスター教がシルクロードを通って飛鳥・奈良までまでやって来たとしている。時代が遡れば遡るほど、古代になればなるほど、仮説の領域が大きくなり、想像力を膨らますことができ、一歩間違うと…、UFO、超能力、超常現象、ユダヤ陰謀論と同じ、「トンデモ」ない与太話になってしまいます。実は、この類の話、私も好きなのですが…。

数年前、私にとっては初めての中国大陸:広州に行ってきました。驚いたのは、街に多くのイスラム教の寺院:モスクが在り、中国人とは全く異なる顔立ちで、回族と呼ばれる人々がいることに驚いた記憶があります。もちろん彼等の起源は唐からモンゴル:元の時代に、シルクロード=中央アジアやインド洋を経由して渡ってきたアラブ系・ペルシア系の外来ムスリムです。彼等は色目人と呼ばれ、倭の国が遣唐使を送った長安は国際都市、多くの色目人がいたはずで、遣唐使は仏教を学びに行ったが、そこには仏教徒だけではなく、イスラム教徒・ユダヤ教徒・キリスト教徒、それら宗教の根源:ゾロアスター教徒も居たはずです。彼等、あるいは彼等の先祖が日本に辿り着いたとしたら…。もうやめましょう。

信長による「比叡山焼き討ち」で、開山以来7百年、守られてきたさすがの「不滅の法灯」も不滅ではなく、消えてしまいました。再建に際し、同時期(平安時代)に開山不滅の法灯した出羽国(今の山形県)立石寺(りっしゃくじ)に分灯され、守り続けられてきた火を、京まで運んで、再び「不滅の法灯」としたそうです。因みに、この立石寺、芭蕉が「奧の細道」で訪れ、「静かさや 岩に染み入る蝉の声」を残しています。         ※「旅スケ」からお借りしました。

ゾロアスターはドイツ語でツアラトストラ、フリードリヒ・ニーチェの同名の著作にインスピレーションを得て、リヒャルト・シュトラウスが1896年に作曲した交響詩:『ツァラトゥストラはかく語りき(Also sprach Zarathustra)』、映画:『2001年 宇宙の旅』にも使われているのが印象的です。


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December 12, 2012

2012年近江の旅 Episode 6 〜 湖西 朽木街道

「朽木街道を行ってみましょう。」 私の提案に、即座に「湖の西は何もない。面白いのは、やっぱり湖東。」とは、関西に在って事情に詳しいKENさんの言。これが『2012年近江の旅』のきっかけでした。

1573年小谷城が落城。城主:浅井長政は奥方:お市の方と三人の娘を城外に逃し自刃したが、信長は長政の頭蓋骨で杯を作らせて戦勝を祝ったのは信長の狂気によるもの…、というよりは、「裏切られるとは毛頭考えてもいなかった長政に裏切られた」のがこの狂気の動機だったかも知れません。
それに先立つ1570年、信長・家康連合軍は京を出陣、朝倉家を撃つべく湖東を北上します。金ヶ崎に至って、思いもよらぬ長政の裏切りに背後を脅かされ、その前進を朝倉勢に阻まれた信長は「袋の鼠」も同然。史実かどうかはともかく、お市の方が兄:信長に「両端を結んだ小豆」を送って、危急を知らせたという話はこの時のこと。

長政の裏切りを察した信長は全軍退却を命令、秀吉を殿(しんがり)として撤収を開始します。熊川宿往路の湖東は長政軍によって塞がれており、信長軍は西の若狭国に逃れ、小浜 → 熊川宿 → 保坂 → 朽木宿 → 花折峠 → 大原八瀬 → 出町柳、湖西の朽木街道を京へ撤退します。

この撤退戦で信長軍の案内をしたのが高島の豪族:朽木元綱でした。かつて足利将軍家の奉公衆であった縁で、12代将軍:足利義晴及び13代:義輝を保護、将軍を慰めるために造ったとされるのが「旧秀隣寺庭園(足利庭園)」なのですが、足利庭園-2途中の見所といえば、この庭園と熊川宿、その熊川宿も街おこしで出来て日が経っておらず、どう見ても未だしっとりしていません。別名:『鯖街道』、若狭湾で捕れた鯖に塩をまぶして夜通し京都まで運ぶとちょうど良い味になることから、「京は遠ても十八里」(72km)と唄いながら寝ずに歩いて行商したといわれ、はたまた、別名:『十八里街道』の由。

1571年、狂気の反撃戦が始まります。まずは浅井・朝倉に味方する比叡山延暦寺を焼き討ち、続いて、叡山傘下、あるいは浅井・朝倉の保護下にあった湖岸一帯の古寺古刹をことごとく焼き討ちしたという。湖東の今に残る仏像(如来・菩薩・明王・天)の多くは、信長の焼き討ちを逃れるために、地元の農民が仏像を担いで信長軍の目の届かない所に避難、厳しい追求を逃れて地中に埋めて難を逃れたもので、一般民衆による強固な宗教心がそうさせたのでしょう。叡山など大寺院による権威じみた宗教勢力に対抗した信長に喝采を送ったりする私ですが、身を挺して仏像を救い、今日も住民が仏像を守っている姿を目の当たりにして頭が下がります。

湖北高月(たかつき)に在る渡岸寺観音堂(向源寺)『十一面観世音菩薩像』もその災難に遭った仏像の一つで、地元住民の機十一面観音転で土中に埋蔵して難を免れたといいます。像高:1.95mの一本彫成の平安初期の様式を代表する傑作で、奈良法隆寺の十一面観音と並び称されるそうです。少し前のめりな姿の回りを間近に廻り、鼻筋の通った顔、少しひねった豊かな腰つき、素人の私が見ても、遠くインドや西域の風が感じられます。仏教伝来は6世紀半ば、とされますが、それ以前より百済から多くの渡来人がこの地にやって来て定住,彼等と一緒に仏像や経文などが持ち込まれたはずで、若狭国敦賀から近江湖北・湖東にかけては高度な仏教が普及した先進の地域であったということでしょう。

※ Amazon:十一面観音 

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December 03, 2012

2012年近江の旅 Episode 5 〜 篠原 宗盛胴塚

元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)、「壇ノ浦合戦」に勝利した義経は京に凱旋、これを賞して後白河法皇は義経とその配下の御家人達を任官させます。これを知った頼朝は激怒、義経以下の東国への帰還を禁じます。その命令に反して、義経は兄:頼朝への弁明を目的に、5月?日、平宗盛・清宗父子を護送するという名目で鎌倉に向かいます。

鎌倉は、東海道を東へ、足柄峠を越えた坂東の地、相模国の小さな一寒村に過ぎませんでしたが、急に表舞台に登場します。当時は揖斐川・長良川・木曽川の河口の幅が広くて渡河出来なかったのか…、京を出てすぐ東海道を行くのではなく、東山道(近世における中山道)を美濃国に入り、加納で木曽川を渡り、尾張国を迂回するように南下、東海道に入って東進、14〜16日間の旅程だったそうです。

義経 宗盛護送経路?_2
甚目寺町歴史民俗資料館の地図を拝借しました。

それは平家全盛の承安4年3月3日(1174)、鞍馬寺で「遮那王」と名乗っていた牛若は、金売り吉次と陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)を同道して奥州の藤原秀衡の館を目指して京を脱出、東山道を「篠原」から「鏡宿」(現滋賀県竜王町)に至ったところで、追手が稚児姿の牛若を探しているのを知り、急ぎ髪を切り烏帽子を着けて元服しました。

感慨深く…、義経はこの地を通り過ぎたに違いありません。鎌倉の手前:腰越に至るも、義経は頼朝の命令で鎌倉へ入ることを許されず、そこで5月15日から6月9日までの間留め置かれます。6月5日、大江広元を通じて頼朝宛に異心のないことを書状で送ったのが『腰越状』でした。

これが、あの清盛の息子…?、平家の総大将だった…?、とみんなが呆れる宗盛は頼朝との対面を終え、鎌倉入りさえも許されなかった義経に護送されて元来た京への路を戻ることになります。義経の失意は、京への帰路、何時どこで兄:頼朝との決別の決意に変わったのでしょうか?変わったのは義経だけ…、宗盛は相も変わらずとぼけたまま…、「ここで斬られる」、「ここだろうか」、「きっとここだ」と、恐怖に顔が引きつる毎日です。いつの頃からか、「ひょっとしたら助かるかも…」と、宗盛は淡い希望を取り戻しますが、息子の清宗は父への返答を声に出す気にもなれません。「首が腐らないように京の近くで斬られるだけですよ。」

またもや、11年前に義経が元服した「鏡宿」を通り過ぎ、京を目前にした6月21日、宗盛を「篠原」、清宗を「野路口(滋賀県草津市)」にて斬首。

現在の国道8号線と東山道(=中山道)が奇妙に交差しています。近くまで来ているはずですが、どうも場所を特定できません。Kenさんが街道沿いの何軒かのお宅を訪ねてやっと判りました。今や営業されず廃屋になっているガソリンスタンドの横の脇道を入っていくと、その廃屋もさることながら、朝から雨、妙にうらさびしく、哀れな胴塚です。
平宗盛胴塚_2

宗盛・清宗父子は捕虜となって京六条通りを引き回され、本来ならば、後は静かに斬首を待つだけであったはずでしたが、兄:頼朝の命令に背いた義経は父子を利用、頼朝の歓心を買うために、命じられてもいない父子護送で京・鎌倉を往復、40日間を徒労してしまいました。父子の首が、今度は、三条通りを西へ引き回されるに至っては、義経の失敗のとばっちりを喰うようなもので、父子はそこまでの辱めを受ける必要はなかったように思います。6月23日、父子の首は六条河原で獄門に晒されます。

文治5年(1189年),藤原泰衡は義経主従を衣川館に襲い、義経は自害します。首は酒に浸して43日間かけて鎌倉に送られ、6月13日、その首実検が行われたのが、何故か…腰越、やはり鎌倉へは入れませんでした。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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