December 12, 2012

December 12, 2012

2012年近江の旅 Episode 6 〜 湖西 朽木街道

「朽木街道を行ってみましょう。」 私の提案に、即座に「湖の西は何もない。面白いのは、やっぱり湖東。」とは、関西に在って事情に詳しいKENさんの言。これが『2012年近江の旅』のきっかけでした。

1573年小谷城が落城。城主:浅井長政は奥方:お市の方と三人の娘を城外に逃し自刃したが、信長は長政の頭蓋骨で杯を作らせて戦勝を祝ったのは信長の狂気によるもの…、というよりは、「裏切られるとは毛頭考えてもいなかった長政に裏切られた」のがこの狂気の動機だったかも知れません。
それに先立つ1570年、信長・家康連合軍は京を出陣、朝倉家を撃つべく湖東を北上します。金ヶ崎に至って、思いもよらぬ長政の裏切りに背後を脅かされ、その前進を朝倉勢に阻まれた信長は「袋の鼠」も同然。史実かどうかはともかく、お市の方が兄:信長に「両端を結んだ小豆」を送って、危急を知らせたという話はこの時のこと。

長政の裏切りを察した信長は全軍退却を命令、秀吉を殿(しんがり)として撤収を開始します。熊川宿往路の湖東は長政軍によって塞がれており、信長軍は西の若狭国に逃れ、小浜 → 熊川宿 → 保坂 → 朽木宿 → 花折峠 → 大原八瀬 → 出町柳、湖西の朽木街道を京へ撤退します。

この撤退戦で信長軍の案内をしたのが高島の豪族:朽木元綱でした。かつて足利将軍家の奉公衆であった縁で、12代将軍:足利義晴及び13代:義輝を保護、将軍を慰めるために造ったとされるのが「旧秀隣寺庭園(足利庭園)」なのですが、足利庭園-2途中の見所といえば、この庭園と熊川宿、その熊川宿も街おこしで出来て日が経っておらず、どう見ても未だしっとりしていません。別名:『鯖街道』、若狭湾で捕れた鯖に塩をまぶして夜通し京都まで運ぶとちょうど良い味になることから、「京は遠ても十八里」(72km)と唄いながら寝ずに歩いて行商したといわれ、はたまた、別名:『十八里街道』の由。

1571年、狂気の反撃戦が始まります。まずは浅井・朝倉に味方する比叡山延暦寺を焼き討ち、続いて、叡山傘下、あるいは浅井・朝倉の保護下にあった湖岸一帯の古寺古刹をことごとく焼き討ちしたという。湖東の今に残る仏像(如来・菩薩・明王・天)の多くは、信長の焼き討ちを逃れるために、地元の農民が仏像を担いで信長軍の目の届かない所に避難、厳しい追求を逃れて地中に埋めて難を逃れたもので、一般民衆による強固な宗教心がそうさせたのでしょう。叡山など大寺院による権威じみた宗教勢力に対抗した信長に喝采を送ったりする私ですが、身を挺して仏像を救い、今日も住民が仏像を守っている姿を目の当たりにして頭が下がります。

湖北高月(たかつき)に在る渡岸寺観音堂(向源寺)『十一面観世音菩薩像』もその災難に遭った仏像の一つで、地元住民の機十一面観音転で土中に埋蔵して難を免れたといいます。像高:1.95mの一本彫成の平安初期の様式を代表する傑作で、奈良法隆寺の十一面観音と並び称されるそうです。少し前のめりな姿の回りを間近に廻り、鼻筋の通った顔、少しひねった豊かな腰つき、素人の私が見ても、遠くインドや西域の風が感じられます。仏教伝来は6世紀半ば、とされますが、それ以前より百済から多くの渡来人がこの地にやって来て定住,彼等と一緒に仏像や経文などが持ち込まれたはずで、若狭国敦賀から近江湖北・湖東にかけては高度な仏教が普及した先進の地域であったということでしょう。

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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