November 2012

November 28, 2012

コタツでミカン…"Surfin' USA"

先日のライブハウスでのステージ、来て頂いたお客には好評だったようで、再度の出演依頼がありました。裏を返せば、それだけ、年配の客が多かったということでしょう。逆の立場で、もし私が客としてお店にやって来て、私の知らない、あるいは判らないヒップホップなどをやられたのであれば、「金返せ!」ということになり、それ以前に、そんな店には行っていないでしょうが…。出来れば知っている曲、少なくとも聴いたことがある曲をやってくれるのは嬉しいものです。

どうも、楽器をやったことがない人には理解が難しいようですが…、自分の好きな曲と自分が出来る曲とは必ずしも一致しません。やるからには好きな曲しかしませんが、好きだからといって、それが出来るとは限りません。むしろ、好きだけど、出来ない曲の方が俄然多く存在していることは間違いありません。

前回ライブからまだそんなに日が経っておらず、出来れば同じ曲は避け、尚前回演奏の曲に準じて完成度の高い曲、お客さんも知っている…か、聴いたことのある曲、を基準に、「Match Box」「Johny B. Goode」「Surfin' USA」の3曲を選びました。

Genuine Mexican Partsこの「Surfin' USA」、はるか昔、中学生の頃、東芝キャピトルレコード、330円(あるいは340円?)でした。「日本の夏、キンチョウの夏」と同じく、毎年夏が来たら聞こえてくるあの曲、あれから50年もの長い間、自分では到底演奏出来ないであろうと思っていた曲、それこそレコードかCDで「聴く音楽」と思っていた曲が、この歳になり「自分で演奏する」曲になったのは当時想像もつかなかった事です。

東北・北海道では吹雪らしく、コタツに入ってミカンでも…という季節ですが、皆さんも知っている…?、聞いたことがある…『Surfin' USA』をお聴きください。※残念ながら、カメラが左に寄りすぎで、右が切れています。


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November 21, 2012

2012年近江の旅 Episode 4 〜 野洲妓王寺

その時もKENさんと一緒でした。「ほんまに、坂本の穴太衆(あのうしゅう)が作ったんかいな…?」、と思われぐらいに雑な造りの石段をぜいぜいと息を切らして登った安土城天守閣跡。織田信長の当時(1534-1582)は琵琶湖が眼下に迫り、湖上輸送が活発だったのでしょう。それから4百年、今はその面影もなく、水辺は遙か西に移動してしまっています。琵琶湖

「どうして琵琶湖はそう呼ばれるの?」と疑問に思ったことはないでしょうか?地図を見ればその形が楽器の琵琶に似ており、琵琶湖と呼ばれることは極めて当然なように思えますが、一般化したのは江戸中期以降の由で、古代(平安時代以前)においては「淡海(おうみ)」と呼ばれ、古代律令制下の国名:近江(おうみ)につながっています。伊能忠敬の「琵琶湖図(1807)」を待つまでもなく、若狭湾と都を結ぶ航路を行き来する船乗りは南北を移動するに従って水辺・地形の湾曲は想像できたのでは…、あるいは比叡山延暦寺からの眺めで十分だったのかも知れません。正解はこれのようです。→『「琵琶湖」の名前

この地は、多くの渡来人が入植し、北陸・東山・東海の三道が合流し、湖上輸送で若狭湾と都を結ぶ交通の要衝、特に東岸は、稲作の発展に伴い耕地面積を増やすために地道な干拓工事が行われたのではないでしょうか。古代の「淡海(おうみ)」は徐々に形を変え、ある時期から明らかに琵琶の形になった…。これは仮説…、というよりも、単なる思いつきに過ぎません。

平清盛は(機内)摂津国福原に大輪田泊を修築(1162)、音戸ノ瀬戸を開削(1167)などの大規模な土木工事を成功させていますが、ここ近江国では灌漑用水を開いています。「妓王井川」は野洲川を水源とする三里、12kmの灌漑用水路で、十か村もの田畑を潤し、現在も大事に守られ、感謝されています。妓王(ぎおう)は母の刀自(とじ)、妹の妓女(ぎにょ)とともに、京都で有名な白拍子となり、清盛に寵愛されました。妓王は故郷の村人が水不足に苦しんでいるのを思い、清盛に願い出て、開かれた用水路がこの「妓王井川」でした(1173)。

それから3年後、年若い白拍子:仏御前が現れますが、清盛は彼女を門前払いにしますが、妓王はそれをとりなしで、清盛の前で舞を舞うことになります。その舞を見た清盛はすっかり仏御前に夢中になり、清盛の心は妓王から離れ、母妹ともども屋敷を追い出されてしまいます。嵯峨野の奧に庵を結んで仏門に入りますが、清盛は妓王を仏御前の慰み相手に選び、あろうことか、妓王に用意されたのが下座であったのは屈辱でした。妓王の憂き目に自分の行く末を重ね合わせた仏御前は、妓王の後を追って仏門に入ります。時に、祇王21才、祇女19才、刀自45才、仏御前17才でした。

古くは、巫女として神に仕え歌踊を行っていたのが、後に諸国を放浪、宿・港など人の集まる場所で歌踊を行いながら、売春も行う遊女が原型でした。交通の要地で活動しているため、自ずと芸能の伝承・伝搬に重要な役割を果たします。彼女らは後に都市部に定住、院政時代以降に白拍子が流行して、貴族の屋敷に出入りするようになります。妓王親子は近江国野洲、仏御前は加賀国、義経の愛妾:静御前は讃岐国出身の「白拍子」であり、後白河法皇の今様の師匠:乙前、平治の乱に敗れた源義朝が頼った妾:延寿、いずれも美濃国青墓宿出身の「傀儡女(くぐつめ)」と呼ばれる遊女でした。ともに「今様」を得意としますが、「傀儡女」とは違って、「白拍子」は踊ることも出来ました。

訪れたのは妓王寺_1妓王・妓女・刀自が生まれ育った近江国野洲「妓王寺」、すでに稲の刈り取りが終わった田園地帯が遠くまで小雨にかすんでいました。機会があれば妓王親娘の墓所の在る嵯峨野「祇王寺」を訪れてみましょう。仏御前も一緒でしょうか…。

琵琶湖の形に始まり、何の脈絡もなく、白拍子・傀儡女で終わりました。


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November 14, 2012

2012年近江の旅 Episode 3 〜 大津義仲寺

義仲は『倶利伽羅峠の戦い(1183)』では捕虜にした平氏の瀬尾太郎兼康を「失うには惜しい武士」と助命、しかし瀬尾は再び敵に回って抵抗、怒り心頭の義仲は彼を攻めて自害に追い込みます。最後まで善戦したと聞くと、「やはり、殺すには惜しい男だった」と悔やんだという。

5万の軍勢で都入りした当初は、義仲は日の出の勢いで上洛し、「旭将軍」と都人に喝采を持って迎えられたのもつかの間、義仲軍の駐屯は飢饉を悪化させるだけで、都・殿上人の習慣・礼儀・作法を知らない厄介者、田舎者と蔑すまれます。

一時はクーデターを成功させ、征夷大将軍の地位につくも、やがて頼朝の命で鎌倉から上ってきた源義経・範頼の軍に『宇治川の戦い(1184) 』で破れ、散り散りにになりながらも、「死なば一緒」と誓い合っていた今井兼平と共に、粟津ヶ原での最後の戦いに挑み、幾度かの突撃でその数はわずか5人、その中に兼平の妹、義仲の愛妾:巴(ともえ)御前も入っていました。最後の最後、巴御前を逃した後、死地を目指すべく馬を走らせるが敵の矢を受け即死、享年31歳、それを見て、兼平も馬上で太刀を口にくわえ頭から飛び降り自刃します。

数年が過ぎ、いつしか、美しい尼がこの墓所の畔に草庵を結び、日々の供養に努めていました。この尼こそが義仲の愛妾:巴御前の後身でであったという。

芭蕉は、一説には、好きだった義経の足跡を訪ねて、『奥の細道』を旅したのですが(1689)、旅から帰って間もなく、それもまた旅先の大坂で亡くなります(1694)。「骸は木曽塚に送るべし」とは彼の遺言、不思議なことに、彼の故郷:伊賀上野ではありませんでした。

義仲・巴・芭蕉墓・義仲寺門前
義仲は、人懐っこい人情家、人を信じて受け入れるが、これが過ぎて裏切られる、無骨で粗野な田舎者、男女を問わず、人を惹き付ける人間的魅力のある人間…、裏を返せば、どこか滑稽さが漂う、無教養な、ぱっと出の(成り上がりの)人間。怜悧な頼朝、酷薄な作戦の義経という源氏、関東武者の中にはない存在で、英雄として非業の最期を遂げた義経ではなく、どこか、おっちょこちょいで人間味が感じられる義仲に強く惹かれるものがあったのでしょう。

又玄(ゆうげん)の有名な句:「木曽殿と背中合わせの寒さかな」には芭蕉の思いが伝わって来ます。

我々の『2012年近江の旅』は、『奥の細道』の「結びの地」:美濃大垣から始まり、二人の「結びの地」:『義仲寺』を訪問することになりました。粟津ヶ原も今は昔、『義仲寺』は大津の街中に在り、寺というより、集会所あるいは庭園の趣です。晩年、芭蕉はここの「無名庵」と京都嵯峨の「落柿舎」を往来することになります。
義仲寺バナナ

10月23日、今日は雨、まだ肌寒いというほどでもなく、庭のあちこちにバナナの大きな葉、何と居心地の良い処なのでしょう。

eyecatch_amazon_2おくの細道

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November 11, 2012

Live at "STUDIO ONE" in 東松山

『2012年近江の旅』の途中に入ったライブ出演の依頼。プロのバンドはもちろん出演料をとるのですが、我々素人のバンドはお金を払ってステージに上がります。幸いなことに、今回の依頼はライブハウスからのご依頼、我々の立場からすれば、無料でステージに上がらせてもらえるのでラッキーな話です。私の場合は、高速(圏央道〜関越道)を走って、町田から1時間半〜約2時間、これにガソリン代を加えるとざっと5千円。まあ…、たまには良いでしょう。

Live at Studio One友人:Tateさんに借りた大型(過ぎるほどの)三脚をステージの真ん前に設置、その立派な三脚にはアンバランスに小さなカメラを載せて、見下ろすアングルで、録画させてもらいました。ビデオ自体は上手く撮れていて、遠くからやって来た価値はあったというものです。

しかし…、後でその動画を見て愕然としてしまい、その公開を躊躇したほどです。頭上からスポットライトを浴びているのですが、頭髪がほとんどありません。自宅で散髪するのですが、その間わずか5分…、後ろはかみさんにやってもらうのですが…、最近彼女が言った言葉が思い出されます。「もう、散髪しない方がいいんじゃない?」

まだ髪の毛の豊かなMaruさんはともかく、Nobuさんも、Kunさんも帽子をかぶっています。私も次回は忘れないようにしましょう。


「帽子命(ぼうし いのち)」 …『2012年近江の旅』でご一緒した友人:KENさんの、昔の言葉を思い出しました。この言葉、心に刻みましょう。

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November 08, 2012

2012年近江の旅 Episode 2 〜 番場宿蓮華寺

「KENさんに似た人も居るんだなあ…」と米原駅のベンチにぽつんと一人座る男性を見ていました。すみません。メールをもらいながら、一本早い電車に乗る、という部分を見落とし、彼を待たせていました。大阪で会って以来の半年ぶりの再会、彼を乗せて『2012年近江の旅』出発!

田舎道で車の数も少なく快適、たびたび対向車線に「西武バス(路線バス)」が現れ、ここは東京の池袋か…?、堤一族はこの近江出身なのですからごく当たり前な風景ですが…。西明寺に向かう左前方に広がる大きなコスモス畑で休憩、そこで彼が描いたのが下の絵。この旅が終わって帰宅すると、この絵はがきが届いているではありませんか。非日常の体験が未だ覚めやらぬ、旅の余韻が色濃く残る間にこんな絵手紙をもらって喜ばない人はいないでしょう。ありがとうございました。
DSC01435

『古事記』には「淡海の多賀に坐すなり」と記される多賀神社、その門前、お店の屋根瓦のハロウィン(?)です。彼のようにさらっとは描けません。
多賀神社 門前の店
鎌倉末期、同じ時期ではあるが全く別個に、一向と一遍は、浄土宗の影響を受けて自己の教義を確立、ともに「南無阿弥陀仏」を唱え、遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖として教団を開きます。一遍上人を祖とする藤沢の無量光院清浄光寺(遊行派 遊行寺の名で有名)は自転車で訪れたことがありますが、今回は一向上人を祖とする近江番場蓮花寺(一向派)を訪れます。

元弘3年(1333年)2月24日、隠岐島から脱出した後醍醐天皇は2月28日、伯耆国船上山(現在の鳥取県)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏、当時は高氏)は、寝返って後醍醐方に味方、4月27日、丹波篠村八幡にて挙兵、5月7日、一挙に京に侵攻する。六波羅探題の北条時益と北条仲時は光厳天皇と花園上皇を奉じて関東に逃れようと、都を落ちて近江国へと敗走するが、途中、野伏の襲撃に遭い北条時益は殺され、光厳天皇は逢坂にて矢傷を負う。5月8日、都を遠く離れた上野国新田庄(現在の群馬県)では、新田義貞が挙兵します。

蓮花寺 北条仲時の墓六波羅敗走軍はここ番場宿に辿り着くも、蓮華寺にて進退窮まり、命運尽きたことを悟った北条仲時は六波羅軍の解散を命じて自刃、享年28歳、彼に従った北条一門432人が彼の後を追って自刃します。蓮華寺前庭は流れる鮮血で赤く染まり「血の川」と呼ばれ、死体の山で埋め尽くされ、その一部始終を目撃した光厳天皇は、気を失わんばかりに、ただ茫然とするだけであったという。

彼等が逃れようとした鎌倉は、5月21日、新田義貞の「稲村ヶ崎」突破、府内への突入を許します。5月22日、最後の執権、北條高時以下の一族郎党の8百余人は自刃、ここに鎌倉幕府は滅亡します。

鎌倉幕府の滅亡が壮絶な死で終わることは、まだ…判らないでもないですが、鎌倉を遠く離れた近江番場宿、蓮花寺での北条仲時以下432人の死は一層哀れで悲しくなります。平維盛の息子、「六代」は1199年、都から遠く、相模国逗子で切られたのが思い出されます。

時の住職:同阿常人が深く哀れんで彼等を過去帳に留め、彼等の墓を建て丁重に弔ったそうです。

蓮華寺と遊行寺の共通点、もう一つありました。何故か…ともに、「やくざもの」、「股旅もの」大衆演劇につながります。『赤城の子守唄』板割浅太郎の墓が藤沢遊行寺にあって、『瞼の母』の主人公:番場忠太郎が蓮華寺にゆかりがあります。どちらも、一世を風靡した大衆歌謡・演劇でした。

※ 訪問の順番が違うじゃないか…って?はい、順番は無視しています。

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November 03, 2012

2012年近江の旅 1(序章) 〜 美濃国不破郡青墓

中仙道青墓宿いつもブログにコメントをもらうKENさん。その彼にご一緒する『近江国』を巡る二泊三日の旅が始まるのは翌朝、競技開始前の様に自然とアドレナリン分泌が高まっているようです。歴史を遡る旅行は既に始まっています。

下野国から白河関を越えて東山道(近世の中仙道)の奥、陸奥国(道の奥→みちのく、むつ、奥州)に入ったのは5月のことでした。今回はその東山道を遡って近江国に至りますが、あっさりとお国入りすることは許されません。その中間の道程ははしょっるものの…、通過儀礼・儀式としてに「不破関」のあった美濃国不破郡(現在の岐阜県大垣市)を訪れなければなりません。

20年も前だったでしょうか、数人でこの地に来たことがあります。自炊しなければならず、料理の上手い友人の指図で、料理の出来ない私は朝の買い物に出かけることになりました。その小さな商店に入って、「納豆下さい」、というと、「甘納豆でしょうか、それとも濡れ納豆?」とはお店の人の反応。そうです、ここで食文化が東西に別れるのです。ついでに、エスカレーターの立つ位置がここから西は右側となるそうです。

「関東」の概念は、大和朝廷の勢力範囲が東方に及んで行くにつれ、時代と共に東方に移って行きます。まずは、「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも〜」の「逢坂の関」、これが東進して「不破関」、東海道なら「鈴鹿関」、さらに東進して、「碓氷峠」あるいは「足柄山、富士山噴火以降は箱根関」を越えた地域を「坂東」、「関東」、「東(あづま)←吾妻」と呼ぶようになり現代に至っているようです。それじゃ…「関西」は? 「関東」ほどには東へ移動していません。「関西」と並んで「近畿」と言う言葉がありますが、都のある地域:「畿内」に由来するもので、その東の端が山城国、「逢坂の関」の西が「関西」だったのでしょうか…、それが東進、いつ頃からか?…、明治政府は「畿内」に滋賀県・三重県を加えて「近畿地方」としました。現代の「関ヶ原」以西、「不破関」と「鈴鹿関」を結ぶ線より西が関西になり、この関ヶ原を境に日本の文化、特に食文化は東西に大きく別れるそうです。新聞・テレビ初めとするマスコミ、交通網の発達で全国の平均化は進行して、昔ほどではないにしろ、まだまだ、そこには東西を別ける境界があるようです。

散々なNHK大河ドラマ:『平清盛』の筋書きにかろうじて付いて来ている私ですが…、白乙前 後白河 青墓河法皇の愛妾:祇園女御は宮中を去って、今度は、後白河法皇の『今様』の師匠、「乙前」と名を変えて彼の側に使える、という作者独自の設定らしいのですが、その間30年は過ぎて80歳ぐらいの役か?…松田聖子のメイクは全く変わらず、化け物か?…というぐらいにきれいで(?)、彼女だけが歳をとっていません。外務省を「伏魔殿」と呼んで大臣を辞した田中真紀子が、あれっ…、こんどは文化省大臣に返り咲いて一悶着、老若美醜はともかく、宮廷世界も外務省も伏魔殿・魑魅魍魎の世界、そこに登場する化け物、どこか似ています。

「傀儡女(くぐつめ)」は、売春を生業としながら、人形を廻しながら集団で諸国を往来、各地の宿駅を活動の場としたが、「乙前」は美濃国不破郡の宿駅:青墓が居所の「傀儡女」でした。
平治物語
『平治の乱(1159)』で敗れた源義朝、嫡男:義平、次男:朝長、三男:頼朝以下の一行は東国に逃れようと、都を大原から北に若狭街道(鯖街道)に出ます。竜華越(りゅうげごえ)で叡山僧兵の襲撃を受け朝長が腿に重症を負い、近江国では頼朝(当時13歳)は疲労のため一行に脱落、既に平家方に抑えられている不破の関を避けて北側に迂回、義朝の妾:「延寿」という名の大炊長者(おおいのちょうじゃ)を頼って美濃国不破郡青墓に辿り着きます。重症を負った次男:朝長は足手まといになることを恐れ、父の義朝に頼んで自分を殺してもらいます(当時16歳)。嫡男:義平は平家に一矢報いようと都に引き返すも、途中捕縛され六条河原で処刑(当時20歳)、義朝はその後も逃避行を続け尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町至るも、謀られて入浴中に殺害されます。
源朝長の墓_for Blog 
※ 明るい色調になってしまいましたが、実は朝長の墓所は山中の木々に覆われた暗い処です。人魂でも出てきそうな雰囲気、『耳なし芳一』になった気分です。耳はちゃんとついていますが…。

義朝の側室:「延寿」も大炊長者呼ばれる「傀儡女」で「今様」の名手でした。その二人の間に生まれたのが「夜叉姫」で、平治の乱の敗北により、父:義朝以下多くの兄弟を失い、源氏の行く末を悲観、杭瀬川に身を投げて自殺してしまいます。「今様」の母娘相伝を受けたはずの「夜叉姫」は惜しい結果となり、後白河の「今様」の師匠「乙前」の死(1168)をもって歌謡の芸術としての評価は終わることになります。

納豆を載せた炊きたてのご飯、友人の作ったみそ汁、…その朝食の美味かったことが思い出されます。

※ Buy at Amazon: 新・平家物語 吉川英治 

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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